バッハはピアノで

私の高校時代にちょうど「バッハ生誕三百年」の年で、NHK FMから山ほどバッハの音楽を聴けたこともあり、なおかつ、私の当時熱中していたロック系のギタリストたちは結構な確率でバッハに傾倒してたりして、10代の頃からバッハの音楽に馴染んでおります。

 

ロックギタリストは半音下げチューニングをよくしていたのですが(有名なのはエドワード・ヴァン・ヘイレンですね)、バロック楽器のチェンバロもおそらく楽器の強度など機構上の制約もあってか半音から1音下げの調律(現在の440Hz基準からすれば)で、余計グッと馴染んだこともあります。なんか、バックトゥザフューチャーみたいな言い方ですが、音の響きが「ヘヴィ」なんですよネ。

 

なので、最近までバッハの鍵盤楽曲はチェンバロによる演奏ばかり主として聴いていましたし、自分で演奏する際もハープシコードの音源で鳴らしていました。(正式なピアノ教育を受けてはいないのですが、高校時代から難易度の低いバッハの曲は弾いていたので、それなりに弾けます。)

 

しかし最近、Apple Musicで豊富な楽曲数に触れられるようになって、ピアノ演奏のバッハ鍵盤楽曲も多く耳にするようになって、「むしろ、バッハの鍵盤楽曲って、ピアノで演奏することによって、楽曲そのものが際立つんじゃないか」と思えるようになりました。この歳にして、遅すぎる認識かも知れませんが‥‥。

 

私はラモーの音楽も好きなのですが、ラモーの鍵盤楽曲ってチェンバロの音色効果を期待している‥‥というか、チェンバロのために書かれたような楽曲が多いように感じます。「ひとつ目の巨人」とか「王太子妃」とかは特に、チェンバロの演奏性と音色特性を活かした楽曲です。「ジャラ〜〜ン」「シャンシャン」と鳴り響く音色で最高にかっこいい楽曲です。

 

しかし、バッハの鍵盤楽曲の場合、チェンバロでなくても、中世の家庭にあったショボいクラブサンとか、現代の平均律の鋼鉄製フレームのピアノとかで演奏しても、何か琴線を大きく揺さぶる要素が内包されていて、ぶっちゃけ、エレキギターで弾いてもかっこいい楽曲が多いのが特徴です。要は、「楽器を選ばない」といいますか。

 

最近、「ピアノのバッハ」を聴いて驚いたのが、大きな浄化作用・鎮静効果です。何の気なしに、Apple Musicの「最近追加した項目」を選択し、カーオーディオ経由でピアノ演奏によるバッハのパルティータを流していたのですが、ふと気づくと、今までにないリラックスした状態で運転できていました。都心の幹線道路とかは何かとギスギスしていて、運転していて無自覚にイライラしていることも多いのですが、たとえウィンカーなしに割り込まれようが、前の車がノロノロして信号に引っかかったりしても、一連の「流れ」として受け入れて、気が荒立つこともありませんでした。

 

やっぱり、音楽によって、人の感情なんて大きく変わるもんだね‥‥と、再認識しました。まあ、だからこそ、映像作品にはサウンドトラック、劇中に流れる音楽が活用されるんですけどネ。

 

1日に一回は、30分でもいいから、自分の好きな音楽の中から、ゆったりとくつろげる音楽を聴いて休息し、漠としたイメージが脳内にふんわり広がる時間を作るべきだと思います。

 

1カットあたり何分何時間で作業できるから、1日でどのくらいカット数が上がって‥‥みたいな計算をして、作業時間に追い立てられる「躁状態」が一日中途切れなく延々と続く‥‥なんて、いつか体調を大きく崩してしまいますよ。

 

ショパンやラフマニノフでもなく、古楽器のチェンバロでもなく、現代ピアノによるバッハ。ポリフォニーが重なり合って生まれる、その瞬間ごとの音の重なりが、透明な空間に水紋のように広がっていくピアノ音楽は、こわばった感情にまるで水が染みていくかのように和らげてくれます。

 

流行とか、どうでもいいわ。なぜ、自分のプライベートな時間まで、流行を意識して「これが今の流行りだ」なんて躁状態を演じなければならないのか。馬鹿げてます。自分の好きなように、好きなスタイルで、好きな音楽を聴けば良いだけですよネ。

 

バッハは300年前の音楽か。全然、OKですヨ。

 

 


作画から離れてたわけ

私は、2000年くらいから、それまで作画がメインだったのをシフトし、コンピュータを扱った映像制作をメインに切り替えていきました。大きな理由は2つで、1つはコンピュータの画像・映像データをベースにした映像表現に大きな広がりを感じ、かつ、コンピュータを用いた制作運用スタイルに飛躍的な効率化と合理化を見出したからです。そしてもう1つは、このところ何度も書いている話題ですが、一律単価ベースの原画作業では将来的に稼げないこと(=生活が破綻すること)が判りきってしまったからです。

 

つまり、原画単価の仕事を続けている以上は、稼げないし、貧乏から抜け出せないし、ゆえに生活がままならない‥‥ということです。やっぱりね‥‥、自分の年齢x10,000は月々稼ぎたいわけですよ。作画をはじめとした映像技術の仕事は、そこらへんにいる若者に声をかけてアルバイトで成立するような仕事内容ではなく、老いも若きも男も女も立派な技術職ですもん。

 

止め口パクやワンアクション程度のカットが多いシーンを担当するような人ならば、もしかしたらテレビの原画のみで月40万とか稼げるかも知れませんが(キャラの線が猛烈に多い現状だとかなり難しいと思いますけど)、メカとかアクションのシーンを割り振られがちな人は、原画単価が最低でも1〜2万くらいでなければ、40万の稼ぎなんてほど遠いです。

 

でも、そんな万単位の単価って、劇場アニメとかオープニングとか、クオリティを要求される作品だけで、恒常的に1万円越えの単価の作品がよりどりみどり‥‥なんてことはないですよネ。

 

なので、作品拘束(当該の作品を作業する期間は、月々の定額で作業量を支払う形態)で原画作業する「劇場作品渡り鳥」になるのが、定額でそれなりの額を得る手段となりましょう。でも、そんなに都合よく、大型作品が切れ目なく存在することもないのです。

 

現実的な路線としては、

 

  • 単価の原画を受注して
  • 作品拘束で作業する期間もあり
  • 作品初期段階にデザインやイメージボードなどの「作画の副職」も手がけて
  • 作監も引き受けたりもし

 

‥‥のような「作画のフィールド内でマルチに作業する」ことで、なんとか自分の年収を保つしかないわけです。

 

「マルチに作業する」???

 

だったら、作画のフィールド内に限定する必要ないじゃん。作画外のフィールドでも映像に関する技術を活かして仕事にすればいいじゃん。

 

作画だけでなく、映像の様々な技術を覚えて仕事にしていけば、色々な収入源を確保できるじゃん。

 

‥‥私が「作画から離れていった」大きな理由です。

 

まあ、他にも大きな理由=映像に必要な技術をひと通り習得できて、作画だけでは不可能だった作品制作の広がりを得られる‥‥というのもありますが、生きる上で大切な「お金」の話で言えば、そういうことです。

 

仕事は、自分の現在だけでなく、未来の運命も左右します。‥‥だとすれば、限界の見えすぎている一律単価の原画作業を、自分の仕事のベースにし続けるのは、如何なものでしょうか?

 

 

つまり、原画だけでは一生喰っていけないのは判りきってて、どう対策をするか‥‥ということです。

 

まさか、50代になろうとするアニメーターが経験の浅い若年の同業者に向かって、「俺は50代になっても、月20万くらいで、年収は300万にとどけば良いほうだ。それでもなんとか生活はできる。だから、みんなも同じ境遇で良いだろう。」なんて言うのだとしたら、「地獄に道連れ」な酷い話です。私は「極めて専門的な技術職の人間が、年齢x12万の年収が得られないなんて、異常だ」と思いますから、どうやって苦境から抜け出すべきか、抜け出せるのかを一緒に考えて話していきたいです。

 

キャラデザインと総作監、版権イラストなどが次から次へと依頼がある人なんて、作画スタッフ人口の中で極めて僅かな人々だけです。それに(私のように)キャラの絵柄よりも作品全体の映像作りの方面に興味があって、当人の特性も絵作りに向いている人間もいるわけですが、そんな人間は原画作業だけではとてもじゃないが、高い報酬など期待できません。

 

アニメのような映像作品はさ、キャラだけ整ってりゃ成立するもんじゃないだろ? キャラデザと総作監でもしない限り、満足に稼げない‥‥なんていう現状、何度も書くけど、「作画の未来は真っ暗だ」と思ってしまうのです。

 

 

まあ、そういう逃れられない現状があって、自分の特性も鑑みた上で、「作画一本槍」の自分の仕事を変えて行ったのです。

 

アニメ制作の作画の現場から、一歩外に踏み出てみれば、1カット・1枚・1秒で作業する仕事なんて珍しいくらいです。

 

「あなたはどのような能力をお持ちですか? ふむふむ、なるほど。 ‥‥では、このひとかたまりの仕事を、こんな内容で、このくらいの額で引き受けていただけませんか。」

 

‥‥という1ミッション単位・一式の仕事のほうが主流です。コンセプトボード一式、ビジュアルエフェクトの担当シーン一式、表示系(ディスプレイ表示などのモーショングラフィック)一式‥‥という感じです。

 

一式で作業を請け負うと、全体の内容と予測作業量を鑑みて金額の交渉ができます。

 

少なくとも、大変なカットだけを寄せ集めて、各カットの難易度がどれだけ未知数か‥‥なんていう仕事を、「単価で引き受ける大リスク」は事前に防げます。1カット1日かかるような劇重のコンポジットを、秒あたり数百円で伝票切られたら、たまったもんじゃありません。

 

以前アニメ作品で、いかにも大変なシーンを寄せ集めて、撮影作業(コンポジット)を秒単位単価で依頼されたことがありましたが、きっぱりお断りしました。手に負えないようなカットを集めて、ちょっと何割か色付けした程度の秒単価だと???? 「ふ・ざ・け・る・な」‥‥ということです。アニメ業界は単価が好きだよねぇ‥‥。

 

 

しかし、作画の現場では、その「ふ・ざ・け・る・な」が、言い出しにくい雰囲気が、一律単価制度によって形作られていますよネ。私が作画の現場が嫌になって、他に活路を開いた由縁です。作画に従事する人々は頼もしくて義理人情も厚くて大好きですが、作画の料金システムは大嫌いなのです。

 

作画の現場から一歩も外に出たこともなく、作画以外の仕事を引き受けたこともなく、アニメの仕事しか知らないと判りにくいことかも知れませんが、アニメの作画の料金システムは、相当「理不尽」ですよ。技術が向上すればするほど、大変なシーンを依頼されて、金が稼げなくなる「不思議なシステム」なのです。普通さ、技術が上がって、スタッフとしての希少度が上がれば、ギャラって高くなって当然じゃないですか。それがアニメ業界ではなかなか難しいのです。

 

 

もちろん、そうではない現場もあります。私が今の会社にいるのも、条件や環境が良く、色々なタイプの映像の仕事が豊富だからです。

 

しかし、そうした作業現場は、決して多くはないです。かなり少ないと言っても過言ではありません。環境の良い現場で仕事ばかりしていると、耳を疑うような状況の作品制作を知人たちから聞くことがありますが、でもそちらのほうが業界の現状のメイン‥‥のようです。

 

理想は、原画・動画の高い作画技術を有したら、作画作業だけで引退するまでの収入が成立することでしょう。でも、それは今の一律単価制度では作業内容に偏りが生じて無理です。

 

現実的な路線でいけば、自分の能力を足場にして、色々な仕事を受注して、アニメ作画以外の収入源を確保することです。

 

原画だけじゃ喰っていけない、老後破産は確定だ‥‥なんていう状況にあぐらをかいて成立している、今のアニメ作品の安普請で乱造状態をして、「アニメブーム」とか言うのだとしたら、失笑以外ありえないですよネ。

 

 

 

私は最近また作画作業をしていますが、新しいアニメーション技術を構築する取り組みの一貫です。決して、一律単価受注の原画作業に戻ってきたわけではなくて、新たな技術基盤を確立するためにアニメ作画の機材を用いて実践し、たまに作画の仕事も引き受けてリサーチしているのです。

 

100年前には、アニメーション映像作品は実験の域を出ませんでした。蒸気船ウィリーが1928年‥‥でしたっけ。つまり、今、当たり前のように存在する「手描きのセル重ねで作る」アニメの産業は、100年の歴史もないのです。歴史上の娯楽産業がそうであるように、アニメ産業も100年後に存在する保証はどこにもありません。

 

アニメの産業の、短い歴史における「伝統」とか「様式」とかに固執してどれだけ有効か。私とて生まれた頃からテレビアニメがあったので、何かアニメは普遍的な存在のように感じることもありましたが、100年にも満たない歴史に普遍もクソもないです。次の100年には忘れ去られている歴史の1コマかも知れません。

 

そう思えば、スッと気が楽になります。100年に満たない「伝統」「様式」なんて、変わっていって当然だと。

 

今の作り方や現場が限界だ‥‥と思うのなら、なぜ、同じことを繰り返すのか。

 

2020年代から先の未来を志向した、新しいアニメーション技術の体系作りに、各所の人々がチャレンジしてみても良いんじゃないですかネ。

 

 


70年代思考=紙=単一単価

定期的に、動画の単価は今の何倍の何百円は必要だ‥‥の文言をツイッターとかで目にするのですが、私が思うに、単価はいくらが適正か‥‥なんて固定単価の額面を議論する時点で、未来はとても暗い‥‥と感じます。

 

私が「未来の暗さ」を「一律単価の話題」から感じ取るのは、「単一単価=線が少なかった昔のアニメ制作=作業費のどんぶり勘定=70年代=解像度の小さな用紙と鉛筆で済んでいた時代」を連想し、現状とのあまりにも大きな齟齬と、過去のシステムから一向に発展できない状況に対する、強い閉塞感と挫折感に苛まれるからです。

 

横線3本の開き口(クチパク)の動画と、模様と装飾だらけのヒロインキャラの動画が、一律単価で取引されているのは、いかにも「線が少なくて品質基準も低かった」70年代のテレビアニメ量産時代の習慣の延長線上です。

 

最近、ふと気づいたのですが、70年代に基盤ができて80〜90年代に発展した日本の作画技術の中で、まさに「当事者」を自覚してやまないタイプの人は、紙を用いた作画=「紙と鉛筆」に固執する傾向が強く、現場の問題提起にしても「単価を上げろ」という論調に傾きがち‥‥だということです。

 

特に深刻だ‥‥と思うのは、当の作画する側が「単価はいくら」と「単一の単価の習慣」から離れられない強い傾向です。「単一の単価でバランスできる」と思い続ける意識の人間が現場の中枢を構成している以上、現場の未来(人材の育成や長期雇用なども含め)はどっちにしろ好転はするはずもない‥‥と、最近では強く思うようになりました。

 

 

「どうやって作業内容が大変か楽かを判断したら良いのか、基準がない」‥‥と言うのは、確かにその通りです。紙に描かれた線画をただ目で見て独自の感想を述べるだけじゃ、測定する基準がないもんネ。

 

私はカットアウトアニメーション・キーフレームアニメーションで用いる絵の、最終段階の清書を自分で作業することも多いので、線を描くのにかかる作業時間の目安・基準を把握しております。‥‥というか、誰でも、清書作業をしたことがあれば、知っているはずです。「線が多ければ多いほど、丁寧に清書すれば、時間はかかる」というあまりにも簡単で単純な作業構造を‥‥です。

 

コンピュータのデータとして線画が存在すれば、線画の画像から、線の量(=画素の量)はコンピュータでカウントできます。

 

紙のまま運用される紙の作画システムでは無理ですが、ペンタブやiPadで描いた「デジタル」の線画は、描かれた描線の量をデータから計測することができます。

 

中間値をどのように査定するかなど、アルゴリズムによって結果に多少の差は出ますが、口パクの絵とドレスを着たヒロインの絵の2枚の絵を比較して「同じ内容だ」と判断するほどズボラでマヌケではありません。どのようなルーチンでも、大体似たような結果=「絵によって内容が違い、作業時間も異なる」ことを示す計測値が出るでしょうし、透明性・公平性を保つため、スキャンアルゴリズムはオープンソースにしても良いでしょう。

 

もちろん、線の多い爆発のケムリと、ヒロインの感情を込めた顔のアップを比較すれば、同じ線の量でも、内容の重要度に大きな差はあるでしょう。動きの難易度も作業時間に影響します。でも、まずは線の量から、動画の「作業時間量」を検出して、作業費に反映させる「くらいのこと」は始めても良いと思います。「デジタル」を作画に導入するのなら‥‥ネ。

 

まあ、これは動画や清書の工程だけに通用するルーチンなので、原画やペイントや美術には独自の仕組みが必要だとは思います。例えば、原画に関して言えば、「演技」「構図」と言った、「清書」「中割り」とは違う技術が必要とされ、簡単には変動制を導入できないでしょう。とはいえ、止め口パクのカットと、キャラが銃弾と爆発を避けながら手前に走ってきて銃撃するカットが、同じ単価なのはどう考えても異常です。原画マンのモチベーションに頼るような作業システムなんて、技術レベル維持の観点から見たら危うい限りですが、アニメ制作現場は今も昔も同じことを延々と続けているんですよネ。

 

 

いったいどこの世界に、大きなマグロも小さなマグロも、同じ価格でセリ落される市場があるのか。デカいマグロは高価にきまってるじゃん。醤油ラーメンと全部のせチャーシューメンを同じ600円で提供するラーメン屋なんてどこにあるのか。新宿に往復1000円で行けるからと言って、東京から函館に往復するのに1000円の交通費しか渡さないなんてありえんでしょ。

 

内容に応じて、価格や費用なんて変わってあたりまえ。

 

そのあたりまえが、アニメ業界では、長い期間、通用しないままです。

 

 

アトムやスーパージェッターのような線の量で済んでれば、そりゃあ、一律単価のどんぶり勘定でも、どうにか受け流せたかも知れません。しかし2017年の現在、60年代当時のアトムやエイトマンスーパージェッターのクオリティでOKなアニメ作品制作って皆無でしょう?

 

もし、生産業のカウンセラーがアニメ制作現場を精査し始めたら、あまりの状態=深刻な問題だらけで卒倒するかも知れませんよネ。品質要求も作業に必要なコストも60〜80年代とはあまりにも大きく違うのに、なぜ、今まで作業基本構造に対して何も改善・改革せずに放置し続けたのか‥‥と。

 

 

 

アニメ業界はさも窮状を訴える被害者のような顔をしますが、コンピュータを始めとした現代の技術をどのようにアニメ制作の効率化に活用すべきかも考えず、効率の極めて悪い70年代の制作方法を延々と踏襲し続け、アニメーターはコンピュータ関連機器を鉛筆の代用品くらいにしか考えず、猛烈に効率が悪く損失率も高い方式を続けておきながら、「現場には金がないんです」って言っても、「まず、外界に窮状を訴える前に、ご自身の浪費と消耗の体質改善をなされてみてはいかがですか」と言い返されて「終了」です。

 

効率化って、当人たちの意識と行動次第なんですよ。アニメって、必ずしも絵コンテ・原動仕・美術・撮影の分業体制という型を踏襲しなくても作れるんですよ。作業を野放図に多人数にバラ撒かずに、少人数で効率的な作業フローを実践して完了させれば、一人に充当できる作業費も大きく向上できる‥‥と、本人たちが「自分ごと」の意識で取り組めば、効果はすぐに形になるのです。

 

効率化や近代化を「誰かが与えてくれるもの」と考えて、どっかりとイスに座ったまま作画だけしてたって、何ひとつ進展しません。作画の人間、特にキャラデザインと作画監督が近代化と効率化に向けて積極的に中心人物として動き出さない限り、作画の現場なんて結局変わらず、うわべだけ「動画の単価が数十円アップしました」という「現場の怒りを受け流す」対策に終始するだけです。

 

 

70〜90年代のままがいい。昔のアニメの作り方が好き。‥‥そうした個人の幸福感や思い出まで他人が干渉して指図するのは、「余計な御世話」だと思います。

 

しかし、そうした個人的な感情が制作システム戦略の意思決定に持ち出されて、技術や運用システムの近代化の足枷となり、現場の発展や改善を阻害するのなら、個人の感情など決して持ち込んではいけないものだと思います。むしろ、個人の感情と実質的な現場の取り組みは明確に分離すべきであって、昔の良き思い出は個人の胸の中に秘めるだけにしておけば良いです。

 

70年代システムの影響下にある、昭和30年代生まれ、40年代生まれ、50〜60年代生まれ、平成0年代(元年)生まれの人々が、2020年以降の日本において、どのような選択をして、どんな進路を進んでいくか。特に、昭和30〜40年代生まれの人間は、もうそろそろ「最後の分岐路」の前に立っているように思います。

 


アニメブーム

今はアニメブームだそうで、私は第3次と聞いていたので、そのようにこのブログでも書いてましたが、第4次と表記しているところもあり、‥‥まあ、第何次だろうがどうでもいいわ。好きにしてちょ。第何次かどうかよりも、今がアニメブームだなんて言われていることのほうが、滑稽というか奇妙というか。

 

書きたいことはいっぱいあるけど、チキンレースの顛末なんて、書いてもしょうがないことだしネ。

 

アニメブームか。考え方によっては、淘汰の威力や速度を推進させる、思いも寄らない効能があるかも知れませんネ。

 

 

こういう混乱した時期に、動揺せずに浮き足立たずに、どう、進む方向をしっかりと見据えて実践していくか。それに尽きるよね。泥水にまみれても、たとえ迂回しようとも、到達地点をしっかりと見失わないようにしないとネ。


ネスレ通販が「お休み」できなくなった

ネスレのバリスタを定期お届け便の「仕様」が変更されて、「お休み」ができなくなったようです。今日、コールセンターに問い合わせて驚きました。

 

以前は「定期お届け便は、注文履歴からいつでもスキップ(お休み)できる」という内容でしたが、何が理由かはわかりませんが、スキップができない仕様に変更され、わたし的には、とても使いにくいサービスに変化してしまいました。

 

送料無料にするため、4000円以上の注文をしていますが、夏場の暑い時期になると、ホットコーヒーの消費が鈍るのです。なので、ストックに必要以上の余剰が生じ、配送する間隔をズラす必要が出てきます。‥‥が、それができない仕様になってしまいました。

 

‥‥しかたないので、解約することにしました。定期便を使わずに、なくなりそうになったら発注するカタチでいいかなと思います。

 

 

 

しかし、なんでまあ、「お休みできない」ことにしちゃったんだろうね。事情はともかく、「お休みできない」ことにしちゃったのなら、以下のページは早々に訂正しておかないとマズいす。

 

https://shop.nestle.jp/front/contents/info/Subscription/pause

 

ネスレのWebでは、いつでも「お休み」できるような解説がなされており、上図のように「お休み」ボタンが存在する注文履歴ページでの操作方法を解説しています。

 

以前は私の注文履歴ページも「お休み」ボタンが上図のように表示されておりました‥‥が、現在は下図の通り。「お休み処理ができない」状態です。

 

 

 

 

ちなみに、解約せずに「お休み」だけしたい場合は、「お休みしたい月の、発送10日前までに、『その月ごとに電話でご連絡ください』」とのことです。

 

うわ‥‥めんどくさ!!

 

おいおいおい‥‥‥‥。このやりくちってさ、ユーザに負担を強いて萎えさせる方法でさ、まるで‥‥‥。

 

ネスレみたいな大手のやりくちとは言えないよな‥‥正直な話。

 

コールセンターで話を聞いてオドロキ。

 

 

実は作業場には、ネスレの営業の人が持ってきた提供品があり、そこから「手軽でいいな」と私個人も使うようになったのですが、どんなに営業の人が頑張っても、こんなシステムに変わってしまったら、継続して使う気が失せてしまいます。

 

 

前は、任意のタイミングでお休みできるシステムだったのに、なんで、こんなことにしたのかな。売上でも落ちたのかな?‥‥と思うけど、だとしたら、私みたいに解約する人間も増えてしまって、逆効果だと思うんですけどね‥‥。

 

 

 

 


70年代マインドの終わり

最近、テレビの作監の仕事をお手伝いして、よくよく、身にしみて再認識したことは、レイアウト原動画システムがもはや過去の産業モデルの遺物であって、今後の映像産業にはどうにも適応しないということです。これは、ほとほと、鉛筆を持つ指先で痛感しました。

 

1960〜70年代に自分の基礎を確立した大御所さんや、1980年代に飛躍的な発展を遂げた時代に自分の基礎を確立した団塊ジュニア前半期(現在アラウンド50〜60)の人間は、レイアウト原動画システムの普遍性を疑って止まないフシがあります。何を発想するにも、絵コンテ&キャラ表、レイアウト、原画、作監‥‥で発想する時点で、完全に「70年代システム」の呪縛の中にあるわけですが、重要・重大なのは、旧時代の旧感覚である自覚に乏しいことです。

 

それでも、その70年代システムでうまく「事」が進んでいれば良いですが、今はもう各所が綻びだらけです。これは作業現場内部だけの要因ではなく、社会そのものが70年代とは大きくかけ離れてしまったことも要因です。社会が70年代とは別世界のごとく変容したのに、アニメの作り方はあいも変わらずの70年代システムをデジタルで補強しただけの状況です。内部も外部もうまくいくはずがないのです。

 

最近、私が子供時代にかつて住んでいた郵政の団地を、ストリートビューで見てみました。1970年代〜昭和40年代に存在した「粗雑だけれど生命感に満ち溢れていた」生気ある団地の姿は全く消え失せ、まるでゴーストタウンのような無残な亡骸を晒していました。

 

今思うと、昭和40年代50年代の頃は、そりゃあもう、子供たちがウヨウヨいて、やかましい時代だったでしょうネ。文房具屋でプラモは売ってるし、駄菓子屋は何件もあったし、夜7時台のゴールデンタイムは民法各局でアニメを放送してたし、ガチャガチャワイワイと大人も子供も生命感と躍動感を「無自覚に天然に」発揮していたのを懐かしく思い出します。

 

その時代に作られたテレビアニメーションの量産システムが、2020年代になろうともする今現在において綻びだらけなのは、よくよく考えてみれば当然のことだ‥‥と思うのです。アニメ制作に従事する人間を取り巻く環境も、アニメ作品を受け入れる人間も社会も、何もかもが変わっているのに、作り方の基本は全く変わっていないのは、「ガラパゴス産業」と呼んでも酷い言い方ではないでしょう。

 

まあ、百歩譲って、70年代前後に自分の基礎を確立した古い世代は、概念や思考のシフトができなくても仕方がない‥‥としても、これから先の2020年代以降に絵や映像で商売して未来を勝ち取っていこうとする20〜30代の人間が、「それがアニメの作り方だから」と70年代システムのままで思考停止して乗っかり続けて、本当にうまくいくと思っているのか‥‥は、気になるところです。

 

旧来のシステムに乗っかり続けてアニメーターになっても、そのシステムの「時代性のズレ」ゆえに、多くの人はお金なんて満足に稼げないまま、老けていくだけです。もし、30〜50代のアニメーターで貯蓄のない自転車操業の暮らしをしているのなら、その生活は改善されることもなく、むしろ悪化の一途を辿っていくでしょう。50代で貯金ができていないのなら、肉体的に衰える60代以降に貯金できるほどの稼ぎを叩き出せるはずがなく、まさに日本が抱える闇〜老後破産のど真ん中を体現することになります。

 

安い単価で作業するシステムは昔の時代そのままに、絵や動きなどの品質要求は決して時代が逆戻りするわけではないんですから、20代の若い層とて、今のアニメ制作システムでアニメーターになること自体が既に老後破産の予備軍のようなものです。‥‥そうした部分を「暗黙に触れてはいけない話題」として扱い続ける行為を、老いも若きも、今が破綻していないからという理由で今後延々と続けるつもりなのです。今のシステムに乗る以上は‥‥です。

 

自分の憧れていたアニメの仕事に就くのが夢。‥‥そんな夢のリソースは20代で自ら全て食い尽くして、後に残るのは絶望感と閉塞感だけです。「XXというアニメのOOというキャラを作画するのが夢です」なんて、その夢の実現した後に残るのは何?

 

ホントにマジメな話、業界を救おうだなんて大風呂敷など広げず、各所で独自に「方舟」的新システムを作って、大災害とその後の貧困に耐えうる術を今から準備しておく必要を感じます。今のシステムで未来がバラ色だと思っているのならそのままで構いませんが、現状に強い危機感をもっていながら今のシステムに依存し続けるのはどうなのよ? ‥‥ということです。

 

ある日、どこかの誰かが、思いも寄らない素晴らしい新システムで、業界の窮状を払拭し、状況を改善して業界の人々全てを救済してくれる‥‥なんて思っているのなら、それはマンガやアニメやハリウッド映画の見過ぎ‥‥です。団塊ジュニアのベビーブーム世代の末路、ゆとり・さとり世代の往く末は、70年代システムを基盤に据える限り、決して明るいものではないと思います。

 

ニッポン無責任野郎なんて言ってた頃の昭和30〜40年の頃と、今の日本じゃあ、あまりにも大きな落差があるでしょう。別世界といっても過言ではありません。

 

70年代システムは確かにタフな面がいっぱいあります。しかし、現代の技術から見たら、アホみたいに非効率な部分も多く抱えています。些細なことかも知れませんが、大判を作るのに紙を貼り合わせる時ほど、70年代システムのやるせなさ・骨董品的古さを感じる瞬間はありません。「バカやってるよなあ‥‥」と、スタンダードサイズの紙を裏側からセロテープで貼り合わせる時、無性に情けなくなるのです。日頃、iPadなどで作画したりコンピュータで映像制作していると、紙の作画のあまりの旧態依然としたスタイルに、逆・浦島太郎になった気分、過去にタイムスリップした気分になります。

 

 

マインドを変えられる人々、変えられない人々。

 

ぶっちゃけ、70年代システムで今後も行きたい派閥はそのまま取り残して、現代のリソースをふんだんに有効活用する流派は旧勢力と決別しちゃっても良いように思います。融和とか互換性とか段階的移行なんて言ってると、永久に70年代システムの呪縛から逃れられない気がします。

 

70年代システムは70年代のリソースを有効に活用して形成されたことでしょう。でも70年代は、もはや50年前です。50年前にリアルタイムで有益だったリソースが、現代に等しくリアルタイムで有益であるはずがないです。

 

やっぱり、行き着く答えはひとつ。

 

今の時代にアニメを作るのなら、今の時代のテクノロジーとマインドを活用すべし‥‥ですネ。

 

 

もう70年代マインドは終わりにしましょうよ。

 

新しい時代に進み出しましょうよ。

 

アニメを自分の墓場にもっていくつもりなら対話の余地もありませんが、アニメを今後も何十年も生かし続けたいのなら、50年前のシステムから解放してやることこそ、団塊ジュニア世代に課せられた「残り半分の人生の大仕事」だと思います。

 

 


ネットワーク周り

実家のリビングルームのルータが故障していました。ルータは2つあるので、1つ死んでも特に困ることはなく、「最近、WiFiが繋がらない」という程度の呑気な感じでしたが、まあ、故障したまま放置するのも何だし、せっかくのBフレッツ接続(=月々の料金)でもあるので、アマゾンでサクッと新しいルータを注文し、故障したルータを外して交換しました。

 

最近のルータは、マニュアルに工場出荷時のIPアドレスすら書いてないのネ。スマホのアプリでどうのこうのと、簡単セットアップを意識しているのが裏目に出て、逆に使いにくいですネ。

 

私の実家の場合は、PPPoE、要はBフレッツなので、ごちゃごちゃとプロバイダからの色んな書類はありますが、2行の情報=アカウント名とパスワードさえわかればOKで、あとはルータをリプレースするためのローカルエリアネットワークの仕様と、新品ルータの工場出荷時の状態さえわかれば、サクッとセッティングは終了します。

 

 

ただ、192.168がどうのとか、サブネットマスクはどうとか、そもそもネットワークを敷設するにはどうしたら‥‥とか、考えてみれば、敷居は決して低くはないのが、ネットワークの知識ですよネ。メーカー側としたら、ルータなどのネットワーク機器をどのように説明すればユーザが適切に設定できるかは、中々に悩ましい課題なんでしょうネ。

 

ある程度の原理や仕組みさえ解っていれば‥‥とは思うものの、ソコが実は難しい部分なんでしょう。「全世帯において、原理や仕組みを理解している人間が必ず1人はいる」というのは、ちょっと想像しただけでも、あり得ない前提ではあります。しかし一方で、若い家族構成(20〜40代の父母と子供)の一般家庭においては、WAN・LANのネットワークはもはや「家にあってあたりまえ」=インフラの常識とも言えますので、もしかしたら、いまどきの一家の家長たるお父さんは、最低限のネットワークの知識がないと、「父親」としての面目もたたない‥‥のかも知れませんネ。

 

 

ネットワークで、もう1件。

 

かなり初期のAirMac Expressを、今は無線ネットワーク機器としては使わずに、各端末(MacやiPadなど)の音声を有線LANで受け取る用途(=ネットワーク音声レシーバ)で使っているのですが、久々に使おうと思ったらパスワードを忘れていて接続できなくなってしまいました。‥‥まあ、パスワード忘れは、よくある話ではあるのですが、問題はソコではなく、AirMacが古すぎて、最近のAirMacユーティリティだとExpress本体にアクセスできなくなっていました。

 

AirMacは、ブラウザからIPアドレスでアクセスして設定ページが表示される一般的なルータとは違って、専用のユーティリティで設定する方式です。その「頼みの綱」の専用のユーティリティが「このAirMacは古くてサポート外」とハネてしまったら、手も足も出ない、まさに陸の孤島になってしまいます。

 

最近のMacとMacOSX上から、色々と手を尽くした(AirMacユーティリティの色々なバージョンを試した)のですが、結局どれもダメでした。iPhoneのAriMacアプリも「このAriMacExpressは古いので対象外」とハネやがりました。‥‥なので、一番コテコテな方法、つまり、昔のMacの昔のOSの昔のAirMacユーティリティで接続する方法で解決しました。

 

何代も前のMac miniが現役のまま生きていたので助かりました。OSはSnow Leopardで、AirMacユーティリティは5.6でした。

 

 

あ。‥‥あともう1件。

 

実家のルータを入れ変えたので、実家のトイレに設置したアマゾンのダッシュボタンも設定を変更しました。昔のルータに紐づけてあったので、「このDash Buttonを無効にする」で最初の段取りからやり直しました。「WiFiを変更する」的なメニューが見当たらなかったので、最初から設定をやり直しましたが、もしかしたらWiFiのSSIDだけを変更できるのかな? ‥‥よくわかりませんが、最初からやり直しても大した手間では無いので、チャチャッと設定しました。

 

 

おそらく、この世界にネットワークがなければ、ネットワークに煩わされる時間も浪費せずに済むのでしょう。しかし少なくとも私は、ネットワークから得られる恩恵のほうが遥かに優っているので、手間がかかるだの何だの言っても、ネットワークやコンピュータとは今後もたっぷり付き合っていく所存です。

 


徒然、雑感。

旧来のワークフローを修復して4K8K映像フォーマットに対応できるバージョンアップ・グレードアップを施すのが良いのか、はたまた、送り描きの技術に加えてカットアウト・キーフレームアニメーションを旺盛に取り込んだ新しいワークフローで、最初から4K8Kに対応できる伸びしろをもつ体制を構築するのが良いのか、最近2種類の道筋を同時期に作業したがゆえに、何とも判断し難い感慨です。

 

「旧来のワークフローを修復」。‥‥かなり困難な取り組みですよネ。ワークフローを本来あるべき姿(=各工程の作業内容として意図された状態)に戻し、かつ、今の絵柄で標準完成度を目指すと、1話あたり3〜4000万くらいの現場予算が必要になるように思いますから、ブランディングを展開できる制作母体でなければ、まあ、中々無理な話ですよネ。

 

「テレビ作品は色々と手間を端折るからこそ、制作費に収まり、放映に間に合うんであって‥‥」という意見は、まさに現場を知る人々の言葉でしょう。しかし一方で、劇場作品同等の、複雑で手のかかるキャラやメカや美術デザインをテレビに導入している作品も多く、ワークフローはどんどん端折られた低コスト傾向に呑み込まれるわりに、作品の仕様はどんどん高コスト傾向へと突き進むという、矛盾した状況も抱えています。

 

つまり、「全部のせ特製チャーシューメン」を1200円ではなく、回転寿司のサイドメニューのような350円でだそうとして、バックヤードたる厨房は大混乱し、料理するための具材の仕入れも追っつかず破綻を喫している‥‥ということなんでしょう。じゃあなぜ、「全部のせ特製チャーシューメン」を350円でお客さんに提供するような献立にしてしまったのか‥‥というと、まさにお客さんの関心を惹きたいのと、そもそも「出店」するための出資を募る際に「お店が繁盛するであろう「売り要素」のプレゼン」が必要だったから‥‥とも言えましょう。プレゼンで「ミニサイズだから350円でもイケます」なんていう言葉が被されば、居合わせた人々は「大丈夫なんだろう」なんて思っちゃったりもして、でも厨房では「350円だから大丈夫なんて話、ひとつも聞いてないよ」なんて齟齬が発生したりもして、それはもう企画時点から修羅場が見えていたりもして‥‥。

 

実現の見込みのないゴージャスな献立を打ち出して、出店して営業開始しようと企画した時点で、未来に自分らが破綻するビジョンは見えている‥‥のかも知れません。

 

 

現場に「デジタル」による「効率化」が進んで、小規模の制作母体でもアニメ制作を取り仕切れるようになった。つまり、「見かけ上」は低コストでもアニメを作れるようになり、原作をアニメ化するハードルが下がった。アニメの表現技術がこの20年で向上したことも後押しして、やがて「どんな絵柄でもアニメ化できる」と思われるようになって‥‥。

 

人間=スタッフのキャパなんて、今も昔も大して変わらないのに、技術進化で「キャパが広がった」と勘違いして、ハコだけがどんどん肥大化して‥‥。

 

あれ? これって‥‥。

 

http://yamashitamasahiro.com/archives/5683

〜より引用

景気が拡大しているにもかかわらず、
金利は依然として非常に低いまま維持されていました。

そして、安い金利で銀行からお金を借りれるので、
企業は喜んでお金を借り、そのお金を株や土地に投資するようになりました。

特に当時、土地神話というものが存在しており、
「日本は国土が限られており、土地は貴重だから価格が下がることはない、
だから、土地を買えば必ず儲かる」とまことしやかな話が信じられていました。

 

http://diamond.jp/articles/-/60475

〜より引用

なぜ、あのときバブルは崩壊したのか? 誰もがおかしいと思いながら、なぜ気づかなかったのか? 失われた20年を生み出したバブル崩壊後の世界を...

 

 

バブル崩壊の頃の日本経済や社会の様相って、「役者」を変えれば、今の「第3次アニメブーム」だなんて呼ばれるアニメ制作現場の状況・顛末に似てますよネ。

 

「なぜ、あのとき、バブルは崩壊したのか? 誰もがおかしいと思いながら、なぜ気づかなかったのか」‥‥と引用文にありますが、実は「気づきたくない」「気づくのが怖かったので気づかないフリをしていた」だけなのかも知れませんよネ。バブル当時の当事者にしても、現在の「放映落ちするかも知れない」アニメの制作現場にしても‥‥です。

 

バブル崩壊に限らず、リーマンショックもなんだか似てますネ。「サブプライムローン」を読み替えて、現在のアニメ制作現場を考えてみれば、背筋が寒くなる未来がイメージできます。アニメ業界のここ10年の状況は、「デジタルの導入によって制作効率に革新がおきた」「中小制作会社でもテレビシリーズの丸ごと受注が可能になった」「メディア展開を推し進めたい原作権利元にとって、アニメ作品制作の依頼先の選択肢が増えた」‥‥という利点とも思える点が、後々になってすべて仇となって跳ね返ってくる点で、とても「サブプライムローン」に似ています。

 

デジタルの導入されても複雑なキャラを生身のスタッフが手描きで描けば時間がかかるし、コンピュータによってアニメの工程も効率化を一部果たしたとは言え、中小企業のマンパワーや技術蓄積までコンピュータは大手並みには増幅してはくれないし、アニメ化の依頼先が増えても品質が低かったり放映落ちしたら本末転倒だし‥‥と、要は「実質を伴わない」偽装構造とも言える、まさにサブプライムローンのような様相を呈しているのが、ここ数年よく見られる、破綻しそうなアニメ制作事例の典型かと思います(放映落ちした作品はつまり、「破綻しそうな」ではなく「破綻した」事例ですネ)

 

 

原作をアニメ化したい。とは言え、作るための相応のお金は用意できていない。でも、「サブプライム的からくり」で作れるじゃないか。そして、作品が本数だけ増えて、皮肉にも「第3次アニメブーム」とか言われて‥‥。

 

うーむ。バブル崩壊もリーマンショックも、未来のアニメ業界の行く末を言い当てているようにも思います。インサイダーもアウトサイダーも崩壊するまでは一緒になって「大丈夫だろう」と楽観視していた、状況のディテールも似てますよネ。

 

 

でも‥‥です。「その時が来る」と予測できていれば、自分の動き方も変えることができましょう。「まさか」とか「ウチの業界に限って、そんなことは」なんて言う人が、阿鼻叫喚に呑み込まれるのです。「どう考えても、今の状況は異常だ」と思うのなら、周囲がどんなに平和ボケしていようと、実践が困難であろうと、別ルート、脱出ルート、突破ルートを開拓しておくべきでしょう。

 

いち個人のスタッフであるあなたが、一生懸命、作品に命を捧げたからといって、作品は単価以上にはあなたを救ってはくれず、作品に対してあなたは0.000001%の権利すら保有していないのを、自覚すべきです。作品の権利を保有する人間などごくごく少数なわけですし、どんなに作品に貢献しようが年金がでるわけでもないのです。現場の破綻や崩壊を食い止めたからと言って、未来の自分の崩壊や破綻を、作品制作組織が面倒を見てくれるわけではなく、あくまで自助努力で死ぬその瞬間まで生きていくしかないのです。

 

私は、アニメ業界の場当たり主義的な動向に巻き込まれれば巻き込まれるほど、自分自身に恐ろしい結末が待ち構えているように思えてなりません。作品制作に関わりつつも、自分の未来が破綻しない計画を、意識的に、明確に、実践していくことが極めて重要だと思います。

 

「現場は崩壊する」と言っている人々は、まさに異常な現場の状況を感じとって、ごく自然にニュートラルに分析して、「この状態が長続きするはずがない」と率直に述べているだけ‥‥なのでしょう。実際、状況が超ハードな作品に関わっているプロデューサーさんや監督さんほど、苛烈な状況を持続したままの未来の10年、20年なんて、想像できないと思うのです。

 

 

ただ、私の知るところ、テレビ放映作品であっても、準備にお金をかけて、体制も品質を重視し、相応の制作費を投入する作品も存在します。テレビ放映作品であっても、お金を集められるところは集められる‥‥ようです。ですから、「すべてのテレビ作品は乱造でやむなし」と言い切るのは、少々雑な物言いとは思います。今のテレビ作品の作り方をよく思っていない人々も一定数いて、違うドクトリンで進めようとしている人々も存在するのです。

 

 

 

今の状況、そして未来の状況は、どう判断して、どう関わっていくべきなのか。

 

判断して見極めるのは難しいけれど、お手上げしてしまったら、時代の濁流に流されて溺れ死ぬようにも予感します。アニメのスタッフはさ‥‥親方日の丸じゃないからさ。たとえ、藁をも掴む状況だとしても、その藁を掴むのは、自分の手しかないのです。

 

 

私は、一旦は作画から長く離れていた時期もあり、「昨日まで自分の人生を占有していたものが、ぱったりと途絶える」感覚を知っております。今、殺人的なハードスケジュールで猫の手も借りたい忙しさでも、未来にも等しく仕事が溢れている何の保証にも成り得ません。作業依頼が10年20年先に途絶えない保証など、どこにもないのです。

 

であるならば、業界の景気不景気なんて「一過性」の移ろいゆくものと心得て、映像制作をする人間、絵を描ける人間として、自分はどうやって生きていけば良いか、常に頭とココロとカラダで考えて行動していくほかありません。「原画マン」になったから、「作監」になったから、それで一生、生きていけると思いますか。‥‥私は、そんな少ない要素と範囲で生きていけるとは、思えません。

 

旧来技術を維持し有効に活用することも必要でしょうし、4Kや8Kの時代におけるアニメーション映像作品をイメージし続けることも必要でしょう。予知能力でも無い限り、色々な可能性を累積戦略と順次戦略で実践していくしかありません。

 

人類の営みからすれば、映像産業なんて大した歴史も無いのです。映像の技術はまだ古典として定着するには幼すぎます。「蒸気船ウィリー」からまだ100年も経ってないしネ。

 

達観することがままならないのなら、未来へ進む道に迷いながらも、思考を停止させないこと、足掻き続けること‥‥でしょうかね。

 

 


最近、作画スタッフ募集の要項で「作品提出〜ただし、デジタルは禁止」という条件を、耳にしました。意外に思うかも知れませんが、私はその条件には賛成です。当人の生の画力や状態をジャッジする際に、デジタルだといくらでも「隠れ蓑」が可能だからです。デジタルは、描線をごまかせちゃうのです。

 

生の紙と鉛筆の描線は、形を捉える際の筆致・筆跡だけで、その人間の状態がわかりますし、清書かラフ描きかによって変化する線質の違いも、その人間の特性を示すからです。コンピュータに適当にアシストされるような状況では、本人が今後何十年も背負って生きる「絵」の本質が見えてきません。その点、鉛筆や水彩などで紙に描いた絵は、モロにその人間の技術力が反映されます。

 

人材の能力をジャッジする際に、何のフィルタもアシストも通用しない、生の紙と筆致による提出作品が適しているのは、とてもよく解ります。

 

過去に何度も書いていることですが、デジタルは当人の無能を補うツールではなく、能力を拡張するツールです。

 

デジタルで一時的に、自分の能力を補って取り繕っても、やがてそのバケの皮は剥がれて、より一層、辛辣な現実と向き合うことになりましょう。絵を上手く描けるよう努力しなかった人間が、デジタルの助けを借りて「コラージュ」しても、やがてバレる時がきます。

 

絵が上手くなりたいのなら、周囲の人間の「普通の価値観」なんて顧みずに、狂ったかのように無我夢中に絵を描きまくってこそ‥‥でしょう。「あの子、どうしちゃったのかしら」とお母さんが心配になるくらい、少年少女時代に絵を描いてこそ‥‥です。

 

私はコンピュータのリソースを最大限に活用するように努めますが、それは決して、「画力をデジタルでごまかす」目的ではありません。むしろ、画力を持つ人間の絵が、今まで以上に映像に反映されるようにする「拡張」「伸長」の技術です。

 

「デジタル」は、絵を描くのに挫折した人間の「集合場所」であってはなりません。私は絵が上手い! 自分は強い! ‥‥と紙やタブレットなど手段を問わず描き続けてきた人間が、これから未来の映像フォーマットにおいて十二分に力を発揮するために「デジタルを用いた作画」はあるのです。

 

なので、作画の人材選考において、「デジタル不可」はとても良い方針だと思います。当人の絵に対する生き様が、筆致から読み出せますもんネ。

 

 

ただ、今後のアニメーション映像作品制作においては、紙と鉛筆は「映像フォーマットに対して不適合」と言わざる得ません。画力を育成する際の「紙」と、現場を運用する技術基盤の「紙」は、別のフィールド、カテゴリで語られるべきでしょう。

 

私はここ最近、久々に紙ばかりと向き合ってましたが、もはやHDの現在でも、映像フォーマットに不適合であると思い知りました。線の少ない昔ながらのキャラ、例えばパズーくんやシータさんのようなキャラでもない限り、UHDに対応できる見込みはありません。

 

スキャンで潰れることがわかっていながら、細かいキャラ表に合わせて鉛筆で描くことの虚しさといったら‥‥。

 

A4〜B4サイズで150dpi・二値化の現実から目をそらして生きるのに、この先、どれだけ猶予がありましょうか。

 

我々は今後、高品質映像フォーマットと向き合って作品制作を続けなければなりません。昔話や思い出話で見ないふりしても、現実は確実に立ちはだかってきましょう。

 

私の中ではすでに「もう、紙はダメだわ」という感慨でいっぱいです。現場で用いられるA4〜B4用紙に鉛筆で線を引いても、150dpiで二値化している時点で、現行のHDのポテンシャルすら引き出せませんよネ。UHDになったら、どう運用していくつもりか、業界はまさに「ノーアイデア」でしょう。

 

春先に作業したエンディング映像の、4K60pで再出力した(iPadで4〜6Kで線画を描きました)映像を見ましたが、たとえ20Mbpsの1/100の圧縮率(オリジナルのProRes4444/4K/60pですと2.5Gbpsです)の配信用途のムービーでも、細かいディテールの1つ1つが緻密に動く別次元のニュアンスを実現しており、UHD時代に耐え得るアニメの質感を実感しました。紙では到底不可能な描画領域です。

 

描画の概念が移行し、描き方も変わり、団塊ジュニア上半期の人間たちが60代のおじいちゃん・おばあちゃんになって引退する頃に、紙の時代も終わるのかもなあ‥‥と感じます。

 

 

紙は、人材の能力を見極める際、「ごまかしのきかなさ」ゆえに、とても有効な素材となりえます。しかし一方で、紙の物理的サイズゆえに今後の映像フォーマットの進化には追随できない素材でもあります。

 

今後、制作現場はどのように紙とつきあっていくのか、成り行きは果たして如何に。

 


しみじみと

最近、色々なスタンスの仕事を引き受けて、しみじみ、アニメのような映像作品作りは、バックヤードの状況が映像に表れるものだと感じました。丁寧に長期間かけて準備するテレビもありますし、劇場スペック並みのクオリティを目指すテレビもありますし、時間の極端に少ないテレビもあり‥‥と、金ー時間ー品質の関係性は、なんだかボルトとワットとアンペアみたいなもんだなと改めて認識しました。

 

かつてのバブル経済やリーマンショックがそうであったように、第三次アニメブームなんていわれる現在の状況も偽装構造によって成り立っていると言わざる得ません。中小規模の制作母体でもアニメが作れるようになったここ10年の傾向は、その反動として、急速に業界の基盤を劣化させ、制作システムを老朽化させるに十分だったのでしょう。内部のことが解らない門外漢の人々は浮かれてもしょうがないとしても、インサイダーである制作現場側の人間は、以前のアニメブームの時と比べて、現在の「第三次アニメブーム」がどのように異なるのかを、しっかりと認識しておく必要がありましょう。

 

特に深刻に感じるのは、作画技術の層が急激に痩せている現実です。‥‥なので、ちまたでは「人材の育成を早急に」との言葉が各所で聞かれるのでしょうが、現場に金がない時点で「技術継承」「人材育成」なんて無理なんだと悟ります。技術を継承し人材を育成するにも「金ー時間ー品質」の関係性はついてまわります。

 

時間がなければ、自分の作業をストップして新人に人体やらパースやら平面構成やらの技術をレクチャーすることはできません。私がこの1〜2ヶ月、テレビシリーズの作監を請け負って全く身動きがとれなくなった様子を同僚が見て、「技術の育成、現場の技術力といったところで、仮にこのフロアに作画の新人がやってきたとして、江面さんはその新人に教えてる時間なんて、今ある?」と言われて、しみじみ納得。‥‥たしかに、テレビに関わっている以上は、毛頭無い‥‥ですネ。

 

線がめちゃくちゃ多い昨今のキャラ、ビデオグラムありきの高い品質要求度、期間の短いスケジュール。つまりは、中堅、ベテランが忙殺されるということは、新人が育たないことと同義なのです。

 

そして、パースも美術解剖も平面構成も習得しないまま中堅になってしまったスタッフが第1原画で「形だけのレイアウト上がり」を乱発する‥‥なんていう絵に描いたようなマイナスなスパイラルが発生もします。第1原画だけ作業するので、自分の原画がどのように修正されたかも解らず、技術の自己同期・フィードバックがなされないまま、どんどん歳だけとっていく‥‥というさらなる悪循環まで生じます。

 

新人の時代に右左がわからないのは、決して悪いことではないです。むしろ、当然です。問題は、そうした右左もわからない人間にたいして、技術の継承・伝達がなされず、人材育成が実質上機能しなくなった現状です。

 

で、ぎゃふん、と言われるかも知れませんが、そうした現状はどうにもできないでしょう。なるようにしかなりません。過去から現在へと続くアニメ業界は、誰かモーゼのような高潔な指導者が導いたわけではなく、なんだかんだ言いながらも、なるがままになってきたのです。

 

強固な新人育成プログラムが各現場に明確に確立されていたわけではありません。そもそもフリーランスのアニメーターが会社に席をおいて作業する際に、いきなり新人を指導する立場になるわけもないです。フリーの集まるフロアになんとなく新人や若年を育てる「隣組」みたいな雰囲気があっただけです。会社に所属しているアニメーターが新人を指導することもありましたが、腕が立ってくると独立して、さらなる広範囲な技量を習得するためにも、色々な現場を渡り歩くようになっていきました。

 

そうしたなんとない「人が育つ気風」が、いつしか「人が育たない気風」に変化しただけで、誰かが意図的に操作したものではないのです。世代人口の経緯、アニメブームの浮き沈み、人との関わり方における社会的な気風の変化も、影響していることでしょう。

 

人材を育成‥‥といっても、いきなり他社や他人の自宅に踏み込んで、技術指導するわけにもいかんじゃないですか。「じゃあ、このままで良いと言うのか?」と焦る気持ちもわからないではないですが、育成のメカニズムや実践のコストを計画しもせずに、ヒステリックに焦燥感、危機感だけを募らせても、状況は何も変わっていきません。「キモチの問題」だけで済むような甘い話ではないのは、一定の経験を有していればわかります‥‥よネ。

 

「じゃあ、滅びるしかないじゃん」と思う人もいるでしょうが、滅びるのをアホみたいに指をくわえて待っている人間だけで業界が構成されているわけでもないです。要は、滅びるところは滅び、生き残るところは生き残り、新たに台頭するところは台頭してくる‥‥という野生的とも言える自然淘汰がまた今回も作用するだけです。

 

滅びたくないのなら、滅ばないようにアクションすれば良い‥‥です。当事者たるそれぞれの、人、グループ、会社が‥‥です。

 

最近、テレビの作監を手伝ってしみじみ思ったのは、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」‥‥です。安全地帯で制作現場の未来を語っていても、結局は机上の空論ですもんネ。アニメーション作品制作の未来像を得るためには、キリングフィールドに立ち入って、未来のビジョンを見極める必要があったと痛感します。50代に入る前に、非安全地帯=危険地域の現状を身を以て体感したのは、未来を切り開く上での大きな指針となりました。

 

 

第2次世界大戦でドイツが失った人口は800万人で、現在のドイツにおいてもその影響は続いているらしい‥‥と同僚が話していました。同じく、アニメ業界がこの10年で失った事の影響を、この先の10年20年で嫌という程、思い知ることになるのかも知れません。

 

しかし一方で、日本では第2次世界大戦=太平洋戦争の反動として、団塊、そして団塊ジュニアの世代を形成したのも事実です。滅び、終焉というのは、新たな誕生のサインでもあるのでしょう。

 

ある一定の人々は、現在の状況に対して即物的に反応しがちですが、そうした日和見的感覚に巻き込まれることなく、大局を見据えてこそ、未来に「自分の望む生き方」を実践できるというものです。

 

ずっとアニメを作って生きていきたい? 映像作品に関わって一生を全うしたい? ‥‥だったら、その願いが成就するように、未来をしかと見つめ、順次的・累積的にアクションするしか‥‥‥ないですよネ。

 

私は、未来を諦めるどころか、逆に現状が見えたことで見通しが立って、どのようにすべきかが、数ヶ月前の自分より、明確に意識できるようにもなりました。新しい技術分野をどのように活かすか、そして「戦いの原則」をどのようにこれから未来の制作現場に当てはめて実践していくか、むしろ以前より積極的なキモチです。

 

ドラッカーの言う「基本と原則に反するものは、例外なく破綻する」という言葉は、個人の中にも、組織の中にも、技術体系にも制作運用にも言えることなのでしょう。

 

落胆や悲観などに限りある時間を費やす暇などありません。やることはいっぱいあります。「戦いの原則」を過去の歴史から学びつつ、どのように新旧の技術と織りなしていくか‥‥ということでしょうネ。

 

 



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