時代は幾度となく

「デジタル作画」の話題を書いていると、1996年に私が「デジタルアニメーション」の現場に参加した時のことが、頻繁にフラッシュバックします。

 

当時の状況は、「コンピュータでアニメの工程の一部をリプレース」し、Photoshop的な「逆光」とか「変形」などコテコテの「CG要素」が2Dの「新しい技」、加えて、3DCGとの「合わせ技」が、まさに「デジタルアニメーションの真骨頂」とでも言わんばかりで、「絵全体のかっこよさ、美しさ」はまるで眼中にないような絵作りでした。ゆえに「コンピュータを導入しても、最終的にこんな画面を作ってちゃ意味ないだろ」と思っていました。私が1996年のそうした「デジタルアニメーション」の現場に呼ばれたのは、まさに「そこ」を改善する役割として‥‥でした。

 

日本の料理しか食べたことのない人々のところへ、外国帰りの人が「これが新しい食材だ」とばかりに、日本には存在しなかった異国の食材をただ単に皿に盛って出すのだけれど、箸でつついて食べて見ても「一向に美味しく感じない」‥‥というようなことが、当時の「デジタル」黎明期に発生していたのです。どんなに新しい食材で美味しさのポテンシャルを秘めていても、料理もしないでドンと皿に盛るだけじゃどうにもならないのを、「素材は調達できても、料理はできない」人にはわからなかったのです。

 

新しい素材を手に入れたのなら、新しい調理法で料理を作って、対価を支払うお客さんに新しい味覚を味ってもらって、「でしょでしょ? 美味しいでしょ?」と作った側も受け取る側も共に喜びたいと思うのです。

 

 

以下、マーケティングの古典からの引用です。

 

産業活動とは、製品を生産するプロセスではなく、顧客を満足させるプロセスであることを、すべてのビジネスマンは理解しなければならない。

 

 

「自分たちの作っているのは、製品ではない。作品だ。」と言いたい人も中にはいるでしょう。

 

しかし、その「作品」とて、「人が見て、対価を支払うこと」が大前提です。特に、市場に流通する「アニメ作品」の場合は、「作品は製品として」人々の手に届きます。

 

「アニメ作品」は、作った本人がどんな考え方であろうと、「アニメ商品」の宿命を帯びています。

 

作品は「アーティスト」の作る「純粋な」創作行為の成果物であって、お金の儲けは全く関係ない。どんな人が何人見ようが全然関係ない。極論、誰も見てくれなくてもいい‥‥とでもいうのでしょうか。‥‥少なくとも、私はそんなことを言い出す監督さんを「キャリアの乏しい新人以外」では見たことがないです。

 

ある程度の長い年月、映像制作の現場で、作品作りに参加した人ならば、商品として流通する創作物には、作品と商品の「扱いにくい二面性」があることは承知していますよネ。ですから、映像作品・映像商品を作ることになる我々は、創作とマーケティングの2要素を、頭の中で、そして作りあげる過程において、葛藤させるわけです。

 

その時の都合に合わせて、「アーティストだ」「商人だ」「作業者だ」「表現者だ」と自分の立ち位置をコロコロ変えるのではなく、それらを全て併せ持ったキメラだと覚悟すれば良いだけです。

 

なので、上記引用文を言い換えるならば‥‥

 

作品制作活動とは、作品を創作するプロセスではなく、作品によって観客を魅了するプロセスであることを、すべての制作者は理解しなければならない。

 

‥‥とも言えます。「魅了」とは必ずしも「明るくハッピー」なだけでなく、「ズーンと心に重く響いた」「とても切なく悲しい気持ちになった」「深く考えさせられた」でも、魅了と言えます。そしてその「魅了」が「次なる創作」と「産業の流れ」に結びついていくのです。

 

 

‥‥で、アニメ作品を「商品」と「作品」の両面で捉えた時、「デジタル作画」は「商品製造的に」どのようなメリットがあるのか、「作品創作的に」どのようなメリットがあるのか。

 

「商品的」「作品的」の2つに対して、「デジタル作画」が果たす役割は、かなり曖昧です。

 

 

しかし、「デジタル作画」を「過程」と見るならば、存在意義はあります。絵描きの人間が、道具としてのコンピュータに慣れる‥‥という効能において。

 

そして、「デジタル作画」をきっかけとして育成した若い作画スタッフが、その後の新時代のアニメーション作画の「エバンジェリスト」として未来に機能するのなら、過渡的な「デジタル作画」とて、決して「徒花」ではないでしょう。

 

とにかく現場の少数でもコンピュータの「様々な扱い」に慣れなくては、「デジタルデータ」時代の映像制作における、次世代フォーマットの新しい技術によるアニメーション制作なんて、作品づくりにしても商品づくりにしても、実質的に進展しないですもんネ。

 

だから、業界をあげて、デジタル作画に移行しようなんて、妙なナショナリズムをぶち上げるのは、わたし的には不信だし懐疑的です。やりたくない人まで巻き込む必要はなしです。やりたい人だけがやればいいのです。

 

時代は幾度となく、再現します。‥‥だとするなら、技術の発展や浸透は、あくまで競争の原理で高めていけば良いと思います。

 

 


デジタル作画に対する判断

「デジタル作画」に利点を感じないのであれば、無理に導入する必要など無いと思ってます。実際、私の主力は「コンピュータで絵を描いて動かす」技術であって、決して「デジタル作画」では無いです。何度も書いてきていることですが、原画や動画を単純にコンピュータへと移行した「デジタル作画」で何か劇的な導入効果が得られるか?‥‥と言えば、私の見解では「No」のまま変わりません。

 

しかし、「コンピュータによるアニメーション制作統合環境(APIE)」の一環の中で、旧来の原画スタイルの作業も可能なので、ぼちぼち引き受けています。互換機能を使って、です。

 

実際に私が引き受ける「高額な」仕事は、「デジタル作画」では一切なく、コンピュータ作画統合技術によるものです。

 

 

実際、「デジタル作画」を標榜する人々が、どのような現場の収益モデルを思い描いているのか、よくわからんのです。

 

そして、その「デジタル作画」が顧客(アニメ作品のフォロワー)に対して、どのようなユーザエクスペリエンスを提供すると考えているのか、その辺もよく伝わりません。そもそも、現場の内輪だけの話で、アニメ作品を手にする人々のことなど、考えてもいないフシを感じます。手描きで何千枚も描く以上、やっぱり細かい絵はキツいし、枚数の制限は依然として存在しますから、成果物は紙の時代と何も変わらないのです。

 

何か、「現場をデジタルにすることだけが意義」のようにすら、受け取れるのです。公の文書(ネットのテキストも含む)を読む以上は、「作画までデジタルに移行することで、現場、制作者、そして顧客に、何のメリットがあるのか」が不明瞭なんですよネ。

 

 

何度も何度も書いていますが、コンピュータは相当悪質な金食い虫なので、相応の効率的な映像制作システムを有し得なければ、何をどう考えても「原画動画を高価なコンピュータ機器で作業するだけ」では大した収益など得られないと思います。

 

その昔に放映した「プロジェクトX」の「Suicaカード」のエピソードを今一度、見返して欲しいですが(流石にネットでは見れないので、こちらのPDFを)、「デジタル作画」を導入することで何の利点が存在するのか、真剣に見直す時期がきているでしょうネ。

 

 

実際、「デジタル作画の利点って、何?」

 

 

私が見た「その筋」の資料によると、「欧米に比べて、日本は紙のままで、遅れをとっている」みたいな言い草ばかりが目につき、なるほどと思えるような要素が希薄でした。「なぜ、紙のままだと遅れをとっていると言えるのか?」の納得できる説明が見当たらなかったのです。

 

何か、コンピュータを使わないと退歩的で「悪し」で、コンピュータを使えば進歩的で「良し」みたいな、当事者の勝手な思い込みすら感じます。

 

それに、「デジタル作画」が従来の作画作業の「代替」であるのなら、その時点で負けていると思います。いかにも、近視眼的過ぎますもん。

 

 

 

なぜ、「デジタル作画」を、いくつかの協会団体は推進しようとするのでしょうかね? 協会で進めるべきことなのかな。

 

 

ある人は言っておりました。「自分は老眼が進行して、もう紙じゃ描けないから、デジタルで描きたい」と。

 

私は、紙を取り回す労力よりも、iPadで拡大縮小回転上下左右でグリグリとキャンバスを動かしながら、多彩な機能で絵を描く利点を知っているので、事あるごとに「iPad作画」の良さをこのブログで書きますし、紙運用の煩わしさも書きます。しかしそれは、「デジタル作画が良い」と肯定しているのではないのです。あくまで、「コンピュータで絵を描く際の利点」なのです。

 

むしろ、私が「デジタル作画」に期待するのは、(数日前に書きましたが)「破壊神」としての側面です。

 

 

私は間髪を入れずに、コンピュータ作画統合技術の利点を即答できますし、過去のいくつかの作品・作業事例、もしくは現在展開中の作品の「数字」で解説もできます。現在、ここ数年の努力の甲斐もあって、「作画の新技術」〜コンピュータ作画統合技術の仕事は徐々に増えてきており、同時に少人数制作の経験値も着々と積み重ねています。

 

片手に余るメインスタッフだけで、映像がどんどん出来上がっていく新しい制作システムは、旧来の大人足の作業システムと比べて、特徴的です。しかしそれは、「どういう映像を作りたいか(=売りたいか)」という発想が原点であり、現場の都合の打算で生まれたものではありません。

 

4K60pや8K120p、HDRという新しい映像フォーマットの中で、日本が培ってきた美意識の潮流を具現化したいと思うがゆえに、どうしても新しい作画技術が必要なのです。A4やB4の紙と鉛筆では到達できない、原画動画のスキームでは達し得ない、新たなフィールドを実感するからこそ、そのフィールドでアニメーション映像を創作し、新たなマーケティングを展開していきたいのです。

 

一方、去年に旧来技術主体の作品にメインとして参加した際は、ほとんど「コンピュータ」と「ネットワーク」の利点が活きませんでした。一部を「デジタル」で作業したところで、効果は薄いものでした。都合、「いつもの感じ」の制作状況に引きずり込まれていきました。

 

 

やはり、「デジタル作画」を推進する人に、「なぜ、デジタル作画を推進するのか」聞いてみるのが一番でしょうネ。そこで、納得できる返答が帰ってこないのなら、「あれ? なんか危なっかしいぞ?」と感じて、早急な判断をしないで、それで良いと思います。

 

数年前は、「デジタル作画」という言葉のインパクトで煙に巻くようなところがあったかも知れません。しかし、2017年現在は、そんなに皆、何も知らないわけじゃないし、「デジタル作画」の厄介な側面も実感しはじめていますよネ。

 

 

私は、あくまで「会社単位」「グループ単位」で構わないと思っています。業界全体を誘導しようなんて、必要なのかな?

 

とある制作会社が「見たことのない、新種の映像」を打ち出してきて、それに負けじと触発されて、他の会社も技術開発に取り組む‥‥みたいな「競争」こそが必要だと思います。

 

今の「デジタル」の撮影だってペイントの普及だって、業界の協会団体が音頭をとったわけじゃないしさ。

 

会社同士の、作品同士の、水をあけてあけられて‥‥の競争でいいじゃん。それで十分、発達していくと思います。あくまで、私論ですけど。

 


なんやかんや言ってもな。

前回、前々回、技術的特徴を活かすだの、絵描きとしてのマーケティングを考えるだの、(私の思考の整理がてら)書きましたが、結局は、当人の意思決定次第ですわな。

 

生きるも死ぬも、当人の意思‥‥としかいいようがない。他人が「あんたはやるべきなんだよおおおおお」と肩を掴んでブンブン揺さぶっても、当人がその気にならなければ、どうにもならん。

 

人間の運命なんて、自分の思念に揺さぶられて、その時々の状況に揺さぶられて、木の葉のように風に翻弄されるものです。

 

ただ、自分では何も変えられないと思い込むのは、勘違いだし、早とちりなのは、事実。自分を「木の葉」だと自嘲的にやさぐれてるから、翻弄され続けるループから抜け出せないのも、事実。

 

一方、「自分には何でも可能性があるんだ。何でもできるんだ。」というのも、あからさまな躁状態であって、勘違いだし、早とちりです。「自分の能力の実情に応じて、可能性が開ける」だけのことです。

 

結局は、自分の能力を低くも高くも見積もらない、できる限りフラットでクールな評価を、自分自身に対して実施し続けるしかないです。

 

それができれば、対応策も色々見えてきますし、自分の能力の何を拡張すれば良いかもアイデアが浮かびます。‥‥まあ、自分をフラットにクールに客観視するのは、そこそこ難しいとは思うのですが、だからといって、自己評価を放棄してちゃ、その次の段階へとは進めないスもんね。

 

自分の表現能力を直に売り物にする職業は、メンタル的にキビしいものです。自分の能力に対するオブセッションがかなり強くなります。従量で労働力を切り売りするのとは、具合が異なります。

 

ですから、「なんでこんなにやってるのに自分は」なんて、従量制的な考えに自分の状況をすり替えないで、能力を活かすために色々知恵を絞って、頑張っていきましょう。お互いに‥‥ネ。

 

 


絵描きのマーケティング

前回引用した「マーケティング近視眼」の話題は、企業に限ったことではありません。部署でも、個人でも、同じ構造をもちます。

 

アニメーターが自分を「原画マン」と自認するか、「絵描き」として自認するかによって、当人の境遇や処遇、発展性も大きく様変わりするでしょう。

 

あくまで私の持論ですが、アニメーターは、30代以降は「絵描き」として自らを捉え直し、「アニメ作画の近視眼」から抜け出ないと、単価オンリー・定型の工程オンリーの仕事からいつまで経っても脱出することはできないと思います。高度な専門技術を有するにも関わらず、30〜40歳になっても、月10万円台前半の収入しか得られない状況に甘んじることになりましょう。そして、今後はさらに過酷になっていくことも容易に予測できます。

 

確かに単価の安さはあるでしょう。しかし、一方で、自分自身はどれだけ自分の能力を多岐に渡って、活用する取り組みを実践してきたでしょうか?

 

自分の能力を別の方面に活かすために、どれだけ行動してきたでしょうか。

 

「だって、依頼がないんだもん」‥‥というのは、まさに「マーケティング近視眼」で衰退していった事例の典型です。

 

「マーケティング近視眼」的に言えば、アニメーターは「自分はアニメの作画専門だ」と自ら限定することで、映像制作全般やネットワークコンテンツ産業で展開される様々な「絵を必要とする仕事」に乗り出せないのです。あくまで、線画だけで収入を得ようとし、自己限定、自己抑制、自己制限の枠から踏み出しません。

 

そんなの、あからさまに「行き詰まる」の、みえみえ‥‥ですよネ。

 

他業種に関しては、「古いやり方ばかり続けてても、時代は流れていくんだから、応じて、商売の方法も変えていかないとダメだよね」なんていうわりに、自分らの作業スタイルに関しては「不問」「無批判」なのは、滑稽過ぎます。

 

 

誰かが「カタ=型」を作ってくれるまで動けない‥‥という習慣は、それこそ1960年代生まれの私の世代でも、ありがちな傾向です。いわゆる無意識なシステム依存です。

 

重要なことですが、「型」は自分たちでも作れるんですよ。

 

 

「でも、アニメ業界の型はそう簡単には変えられないじゃん」という人もいましょうが、いきなりなぜ、型がいかにも変えられなさそうな相手を選ぶんでしょうかネ。

 

広大な太平洋の向こう側の土地ばかり夢見て、自分の足元にある土地は草ボーボーなのが気づかんかの。

 

自分ひとりや自分の仲間の小規模の取り組みで、新しい型を実践して、それは結果、アニメ業界のお盆の上でなくてもかまわないじゃないですか。アニメ作画に従事したら、外出禁止令や交際禁止令を厳守せねばならんのかネ?

 

 

日本人の美徳は規則正しく秩序を守って‥‥だとは思います。しかしその美徳が、ビジネス開拓の気概を著しく「去勢」しているのだとしたら、なんという悲劇、そして喜劇。

 

 

日本のアニメーターってさ‥‥ぶっちゃけ、上手い人だらけじゃん? 世界的にも見ても、相当レベルが高いのは、言われるまでもなく‥‥ですよネ。

 

その上手い人たちがアニメの作画机やペンタブの前から飛び出して、自分のリラックスできる場所で、iPad Proの12.9インチとApple Pencilを手にして、まずは色付きのイラストでも描き始めたら、どういうことになるのよ? ‥‥という話です。

 

1発目、なんともヒサンな色付きイラストになっても、大丈夫。失敗は本人以外、誰も見てないし、失敗作は誰にも見せなければ良いんだから。

 

うまく描けたのだけ、世に出せばいいのです。さも、「こんなのタイシタコトナイ」的な顔してネ。

 

‥‥で、「あ、自分って、イラストも結構イケるかも」と自分の能力の「拡張性」に気づいたら、あとは、その拡張した能力を、どう売り込んで、どうビジネスに変えて行くか‥‥だと思いますヨ。

 

 

日本人の職人気質は、紛れもなく日本人の高い技術を象徴する美徳でしょう。

 

その職人の型の中にビジネスを閉じ込めてしまうのか、職人気質から得た技術をビジネスで発展させるのかによって、あまりにも大きな差が生じます。

 

高い技術を有するには、職人に徹して、ひたすら技術向上を目指す期間も必要です。でもだからといって、死ぬまで限定された作業枠で生き続けるべきかは、当人の判断で良いと思います。「アニメーターは線画ひと筋」なんていう気風に縛られる必要はないでしょ。

 

 

制作費、単価の問題は、その議題そのもので取り組んでいけば良いのであって、それに自分の運命を託すべきものではないです。制作費、単価の問題とは別に、たとえアニメの現場が揺らいでも、他の技術ネットワークで生きていけるタフさを、「絵描き」「映像を作る人間」として勝ち得ていけば良いのです。


中庸

ネガティブな話題ばかりが駆け巡りがちなアニメ業界ですが、全ての現場やグループが防御戦や後退戦に四苦八苦しているわけではなく、様々な「野心的な」プロジェクトも動き出していて、未来は決して暗いものでもないと思えます。さすがに、発表前のプロジェクトのあれこれをインサイダーがリークするわけにもいきませんが、ネットで取り上げられる作画崩壊だの放送延期だのがアニメ制作現場の全ての姿ではない‥‥とだけは言えます。

 

ただ、そうした中、「中くらいの生産力と、中くらいの技術力」を併せ持つような中庸な性質のグループは、新しい流れに対して関与することが難しくなっていくとは思います。

 

「今までのアニメ現場の技術を組み合わせた、皆のよく知っている絵柄と動きのアニメなら、普通に作れます」‥‥というのは、先鋭的なプロジェクトにも積極的に参加できないし、技術の粋を集めたプロジェクトにも積極的に参加できないし‥‥で、「どっちつかずの弱点」が露呈しやすいのです。要するに、小規模な野心的な作品も、大規模で様々な技術リソースを集結させる作品も、どちらも主体的には引き受けられない「中庸である弱み」です。

 

その「中庸さ」が、この10年弱の「短期のアニメテレビシリーズ」の原動力になったのは、中規模アニメ関連会社が乱立したことからも伺い知れます。特に技術的ブランドを有していなくても、「アニメが作れる」ということが何よりも「売り」にできた時代‥‥といいますか。今後も「中庸に、原作をアニメ化する」流れは、ある種の定番として存続するとは思いますが、そうした旧来からの流れを尻目に、技術的特性を得た人間やグループは新しい流れにのって、どんどん稼げる方向へとシフトしていくでしょう。

 

技術的に言えば、中庸な作品を手堅く作るのは、実はとても広範で高い技術力が必要なのですが、中庸な制作力のフィールドは競争も激しく、皆似たような技術で背比べするので、必要な技術力の高さのわりに対価は低い現実があります。

 

中庸な制作力を旨とするグループは、近視眼的な技術の繰り返しと小変更に明け暮れやすい傾向があり、それがさらに新しい流れにのれない性質を作り出します。目立って欠落しているところもないけど、目立って突出しているところもないがゆえに、外部から見れば技術的特徴が希薄で、良くも悪くも「原作をアニメ化してくれるところ」としか認識されないのです。当然、技術の価格も激しい競争に晒されやすくなります。

 

中庸な性質に限界を感じ、「何か、売りになる特徴を自分たちも有するべきだ」と感じても、2年や3年の取り組みでは技術的特徴なんて周りにアピールできるほどに確立できるものではありません。4〜5年出費を重ね続けて、ようやく表に認知され始めるくらいの、地道な積み上げが必要です。‥‥ゆえに、現実的に難しいと考え、中庸な状態から抜け出せない‥‥という図式ができあがるのです。

 

「じゃあ、どうやって中庸状態から抜け出すんだ?」と思うわけですが、実は考え方1つです。「現実的に難しい」とさっさと諦める、その性根を叩き直せば良いだけです。

 

「現実的に難しい」なんてセリフを常用して物事を片付けてるから、結局、何も変わらないわけです。自分たちのアニメを作る技術を狭義に押し込め、アニメはこうあるものなどとレッテルを貼り付け、「原画マンたるもの」「アニメの撮影とは」なんて何の根拠かも定かではないプライドを持ち続け、財布の紐はいつだかに思い込んだ思想の延長線上でしか緩まない‥‥という、近視眼的マーケティングの典型を実践し続けるから、1万円の使い方一つ、新しいベクトルに作用していかないのです。

 

中庸に慣れきってしまうと、お金の使い方すら中庸で凡庸になります。

 

「今は現実的に難しいけど、どこからか、徐々にでも切り崩していって、制覇できないものかな」‥‥と考えたいですよネ。また、そういう思考をもつリーダーや仲間と一緒に未来を切り開いていきたいですよネ。

 

中庸さは大なり小なり不可欠な要素ですが、「中庸さしか取り柄がない」というのは、長期的なスパンでみれば、中々に厳しい現実と向き合うことになりましょう。特に、技術の入れ替わりが起こり得る時期においては‥‥です。30年間中庸で過ごせた事実が、未来20年を保証する担保では決してないことを、自覚すべしです。

 

どんなにネットを検索しても、毎日ツイートを気にしても、講習やイベントに参加しても、「いい勉強になったなあ」だけで終了して、実際に自分・自分たちで実践しなければ、何も始まらんよネ。ただ単に「耳年増」になっていくだけ。腕を組んで「現状はどうしたものか、困ったものですね」と世間話をするだけに終わります。

 

やりゃあ、いいんです。やりゃあ。

 

やらなければ、なーんも始まらん。

 

情報だけ見聞きしても、自分らの現状は変えられない。

 

自分たちが実際に動くから、物事も動く。

 

 

現在・現状が中庸だとしても、当人たち次第で、突破口は切り開けるものです。

 

何かしら行動を起こして、それを少しずつでも日々の「中庸さ」の「許容範囲」の中で実践していって、それが多少なりとも効果を発揮すれば、その次にすぐには反映されなくても、巡り巡って「次のオーダー」へと繋がります。当時は「徒花」と思えた特質的な技術でも、その後に徐々に芽吹かせて自分たちの武器となっていきます。「どうせ、やっても無駄だ」という人もいますが、無気力な人間に同調する必要はありません。他人からは「狂ってんのか?」「何かに取り憑かれているのか?」と揶揄されようが、「これはモノになる」という技術を1度や2度の失敗で心なんか折れてないで、継続し続ければ良いのです。

 

実際、自分のこなした作業が、次の仕事へと繋がっていく実感は、多少なりとも誰もが感じているはず。

 

その「仕事の繋がり」を、仕事の依頼がきて中庸にこなすというスタンスで用いるのか、未来の新しい「機会」への「橋頭堡」として次々に築くスタンスにするのか。

 

行動の選択は、当人らの自由です。どうすべきかは、自分たちのビジョン、ロードマップ次第でしょう。

 

「誰でもどこでもいいから」という仕事と、「あなたがたに是非」という仕事は、次第に、そして確実に、状況の明暗を分けていきます。いやらしくは「金額」として‥‥です。

 

水面下で様々な野心的な取り組みが進行するのを目の当たりにする中、「舵取り」がまさに未来の行き先を大きく変えていくのを、ひしひしと実感し続けています。

 


デジタルの効能

実際に原画作業をiPadでやってみて、「デジタル作画」の普及はまだまだ小規模で、紙が主流であることを思い知ります。でもまあ、その理由は単純に「コスト」の問題でもあるように思います。それなりの経済力をもつベテランのアニメーターの中には既に自腹で購入してイジりはじめているひとも多いですし、紙の作画の傍で「デジタル作画」のセクションを併設できる会社も存在するからです。

 

「デジタル化」の実際として、「撮影」工程でも似たようなコストの問題があります。知り合いから聞いた話では、撮影で今でもAfter Effects CS6を使い続けているのは大多数のようで、要は、After Effectsだけでなく、プラグインのバージョンアップ、マシンの更新など、様々なコストの問題で、CC2017には結果的に更新できないのだと思います。ちょっと試算しただけでも、CS6から作業環境全体を最新にするには相当な額になりますもんネ。規模が大きいグループほど深刻です。

 

アニメ業界を離れれば、After Effectsは最新版がスタンダードです。なぜって、最新版でやりとりすればバージョンの細々とした問題を回避できるからです。CS6に合わせて、バージョンダウンを何度も繰り返す手間は、最新版で統一している現場にとっては、無駄なコストとなります。私はトラブルの元となるAfter EffectsのAEPのやりとり自体を極力避けますが、AEPのやりとりが避けられない場合は最新版でお願いしています。もしそれで「NO。CS6で。」と言われた場合は、作業自体をご辞退させてもらっています。実際、私の作業マシンは、CC2017未満のアドビ製品はアンイストールしているので、CS6までのバージョンダウンはできないのです。

 

ちなみに、After Effects CC 2017でも、アニメの撮影は何の問題もなく可能です。機能的な障害はありません。ではなぜアニメ業界の撮影はCS6のままなのか‥‥というと、CC自体の導入の問題とか(定額費用)、CS6時代のプラグインが動作しないとか(プラグインの更新費用)、マシンやOSの要件がCS6時代から引き上げられているとか(本体&周辺機器の買い替え費用)、結局は環境を更新できない経済状態が障害だと思われます。CS6より以前のCS5のところもあると聞き及びます。

*撮影工程の名誉のために付け加えておきますが、中には「CCも導入済みで使えるけど、CS6のままの会社に合わせて、あえて標準はCS6にしている」ところもあります。しかし、結果的に撮影はCS6以前のままであることには、変わりありません。

 

「デジタル」に移行して10年以上経過した「撮影」セクションですら、5年前のバージョンから更新できない状況です。「デジタル作画」のコスト問題がどのようになるのかは、先達のありさまを見れば、想像に難くないでしょう。

 

コスト問題に加え、運用やメンテナンス面も加わって、「デジタル作画」は、もっと混沌とした状況になると思うのです。

 

「今だけ動けば良い」とばかりに導入した数十台の最低スペックのマシンに、いつインストールしたかも覚えてない旧バージョンのソフトウェア。ぐずぐずなアカウントとライセンスの管理。秩序なきサーバのディレクトリやファイルの運用。‥‥そのわりに、各社間で作業力の融通をし合うものだから、各社の内部の混乱が、各社間で錯綜して「感染」し、まさに絵に描いたような「エントロピーの増大」が予測されます。

 

正直、作画を含め「オールデジタル」にした際の、イニシャルコスト、ランニングコスト、メンテナンスのコスト、リプレースのコストを、どれだけ、試算できてるでしょうか。

 

そんなのやってみなければわからない」なんて答えるのだとしたら、相当ヤバいように思います。最初から負けがみえている‥‥と言っても過言ではないです。だって、イニシャル・ランニング・リプレースなんて、最低限の試算であって、もっと大きな枠組み・スキームまで計画できていないと、ダラダラと金を消費する「猛烈な金食い虫」に化けるのがコンピュータ関連なのです。

 

 

でも‥‥です。

 

迂闊な判断も、アニメ制作の未来を考えれば、ある意味、「一興」です。

 

猛烈な金食い虫だと知らず、「動画の人がペイントまでやってくれるらしいよ」なんていかにも他人事でマヌケな判断で手を出して、波状攻撃で襲ってくるコンピュータの「コスト消費攻勢」に持ち堪えられなくなって、会社を畳む‥‥なんてことがあったとしても、それは「自然淘汰」と見るべきです。アニメ制作共同体を1つの体とするならば、機能障害を防ぎ、自己で治癒する、「自浄作用」なのです。

 

アニメ制作共同体は、相当に疲弊しています。1970年代に本格化したテレビアニメのシステムは疲労蓄積が甚だしい。

 

そこで2つの選択肢が生まれます。1つは、疲労回復。もう1つは新たな共同体の誕生。

 

「デジタル作画」は、言うまでもなく、前者の「疲労回復」のカテゴリ。「デジタル作画」によって、今までの業界の疲労蓄積をショック療法で「手放したくないものまで」削ぎ落とし、裸一貫から再スタートを切るきっかけになれる‥‥かも知れません。

 

CS6から更新できない経済状態。最低限スペックのマシンしか初期導入できない資金。その状態からオールデジタルに突進して、まさに「生き残るところは生き残り、死ぬところは死ぬ」状況が、制作共同体全体の自浄作用となるのなら、疲労蓄積を払拭する「またとない機運」とも言えます。

 

いくつもの深刻な持病を持ち続けて、「あと何年生きられるか」なんて恐怖に怯えながら貯金の残高を計算するのと、イチかバチかでも大手術に賭けてみるか‥‥の、どちらを選ぶかは、個人、グループ、会社でそれぞれ考えていけばよいです。

 

私の場合、「まったなしの決断」を今から8年前に実行して、なんやかんやありながらも、うまく生き残って、現在があります。「あの時、決断せずに、閉鎖空間の中に閉じこもり続けていたら、今はかなりヤバかっただろうな」と強く、強く、実感します。失うものも多かったですが、それに増して、得たもののほうが多かったと、しみじみ思います。

 

 

私が「デジタル作画」「オールデジタルのアニメ制作現場」の機運に期待するのは、「デジタルをどう使いこなすか」などの目先のことではなく、「デジタルによって淘汰される現場」です。

 

「デジタル」で現場が大きく揺さぶられることによって生じる、「崩壊と新興」こそが、実は一番重要な要素だと思っています。

 

 


iPadで描いた後に。

昨日は、紙の絵コンテを指でスワイプして、次のページへめくろうとしてしまいました。

 

何だか、心よりも体が先に、どんどんiPadに慣らされていきます。

 

もはや、わたし的には、iPad作画環境に全く不都合を感じなていないがゆえに、カラダが無意識にiPadの流儀をどんどん受け入れているんでしょうネ。

 

一方、周りの人たちもiPad Proで色々仕事をしていて、iPad普及率に結構驚きます。監督さん、演出さん、脚本家さん、制作さん、etc...。

 

PC本体が必要ない、ソリューションがデジタル作画に限定されない、絵だけでなく色んな使い方ができる、軽い、薄い、持ち運べる‥‥というのが、様々な役職のスタッフにちょうど良いのだと思います。そして、手頃な価格(MobileStudio ProやSurface Proに比べて)なのも、個人的な導入のハードルを下げているのでしょうかね。

 

 

ただ、原画など、定型作業の出力の際は、バッチやスクリプトが使えるMacが必須ですネ。

 

要は、「iPadで描いた後の雑事」をどうするか‥‥です。

 

レイヤー名に基づいて、定型の原画出力を自動でおこなうスクリプトは、はやいところ作らねばなりません。会社によってレイアウト用紙の規格が違うので、手作業でその違いに対応しているとアホみたいに時間がかかります。

 

レイアウト用紙ファイルの規格を決めて、レイヤー名で処理を分岐するスクリプトを作れば、どんな会社のレイアウト用紙にも対応できます。‥‥このあたりのノウハウは、昔にアニメ撮影のツールを作った時に体得しました。会社ごとのプロパティ(どういうファイル命名規則でファイルを出力するか‥‥とか)を読み出す仕組みも取り入れても良いでしょうネ。

 

Photoshopは、スクリプト制御とアクションが併用できるので、ぶっちゃけ、Photoshopのルーチンワークはほとんどアプリケーション化できます。スクリプトの命令では届かない部分はアクションを作っておき、スクリプトはそのアクションを呼び出して実行すれば良いのです。スクリプトとアクションの連携で様々な自動化が可能です。

 

Macの場合、PhotoshopやAfter Effectsのスクリプトは、AppleScriptのアプリケーション形式(スクリプトファイルではなく、アプリケーションとして動作する)で書き出せば良いので、一度作っておけば、ドラッグ&ドロップかダブルクリックで自動処理が実行可能です。

 

 

何よりも、自分のために、自動出力アプリを作らねば。

 

やっぱり、原画作業は、絵を描いて動かすためだけにほとんどの労力を使いたいですもんネ。

 

 


快適は楽じゃない

現代社会をして、よく、「快適さと豊かさを求めて社会は発達したのに、ちっとも生活は楽にならない」という言い草があります。

 

しかし、よ〜く考えてみれば、快適で豊かな日常を作り出すためには、それ相応の多大な労力が必要になるわけです。「快適==楽」ではなく、「快適<>楽」「豊かさ!=楽」なのです。

 

例えば、映像品質に一層の豊かさを盛り込むためには、一層の技術開発と現場の丁寧な作品作りが要求されるでしょう。つまり、豊かさを手にいれるためには、様々なコスト(お金、労力、時間、設備)が必要になりますし、結果的に市場の様々な形態の価格にも反映されるのは、当然至極。

 

安易に「快適で豊かになったから、日々の生活も楽になるだろう」と思うのは、実は甚だしい見当違い‥‥なのかも知れません。

 

私がフリーアニメーターでキャリアをスタートした1986(か1987。覚えてない)年に、1ヶ月に要したインフラのコストは、

 

家賃32000円

電気代数千円

電話代3千円前後

水道代は家賃込み

ガス代2000円前後

 

‥‥とまあ、今から考えると、「なにそれ?」な低いコストですよネ。基本、5万スよ。そこに食費だのを足していけば、生活できたのです。

*その当時の物件には、「トイレ・流し台共同・18,000円」とか、2万円台の物件もありました。状態的に、かなり「げ(下)」の物件でしたけど。‥‥「トイレ・流し台共同」って、「四畳半シリーズ」のノリですネ。

 

しかし、スマホはない、パソコンもない、無論インターネットもない、デジカメはない‥‥というか、デジタルデータの画像すら身近にない、ネットがないからネット通販はもちろんなし、世間は涼しかったからクーラーなし、蛇口からはお湯は出ない、トイレはまさかの和式(水洗でしたけど)、当然ウォッシュレットはない、テレビは14型、ビデオデッキはあったけどSDサイズ、録画できても画質はショボい。

 

今は上記の全てが満たされて「豊か」になっていますよネ。当然、生活維持にかかるコストが増大します。しないほうがおかしい。

 

現代は30年前と比べて「豊か」になりましたが、その「豊かさ」を得るために、より多くの「お金」が必要になったわけです。そして、その増えた分のお金を稼ぐ必要が生じた。‥‥何のヒネリもない、理屈ですよネ。「タダで豊かさが手に入るわけがない」のです。

 

 

とは言え、80年代の私が「不便だな」「貧しいな」と思っていたかというと、全くそうではなかったです。

 

当時の私は、自分のアパートにテレビとビデオデッキと電話があって、ガス水道電気のインフラが整っているだけで、「豊か」だなと感じていました。「電気使いたい放題!」「電話でいつでも友達と話せる!」とウハウハでした。‥‥もちろん対価(電気電話料金)は支払いますけど。

 

ちなみに、私はプッシュ回線だったので、基本料金が1980円だった記憶がありますが、自分専用のプッシュ回線なんて、すごくリッチな気分でした。仕事をするために必要だったがゆえですが、最初に電話加入権だかで8万円前後の金額を支払った記憶もあります。

*でも実は、プッシュ回線の利点で思い起こせるのはほとんどなくて、割り込み通話の「キャッチホン」くらいだったかな‥‥。

 

私の子供の頃は、電話のない家もいくつかあって、「xxさん方」みたいに、ご近所の電話を借りていたご家庭もありました。まさに「三丁目の夕日」の世界。昭和40年代生まれの私ではありますが、昭和30年代の雰囲気はまだ残っていました。

 

そんな少年時代を経て、アニメーターでアパートを借りて、インフラ完備(当時のネ)、自分専用のテレビもビデオデッキも電話もある。まさに、夢のような快適さ‥‥ですが、もちろん、そのインフラのコストと家電のコストは前の世代の人より多く支払っていたわけで、快適さにお金を支払うために稼がなければならない構造そのものは、今と何も変わっていなかった‥‥と思い起こされます。

 

ただ、80〜90〜00〜10年代と時代が進行するに従って、個人の持つお金を引き剥がしていく傾向は強くなっているでしょうネ。どんどんお金が消えていくから、どんどん稼がなければ‥‥というループから抜け出せず、結果、「楽じゃない」という実感が生まれるのでしょう‥‥ね。

 

これは私もしみじみ実感します。私はフリーアニメーターで稼ぎ始めた当時18歳、平均で14万くらいの原画料金の報酬(70カット分、源泉徴収差し引き済み)でしたが、その金額で現代の家賃とインフラ全てを賄うのは、かなりギリギリです。自分の技量を高める美術専門書なんて、とても買えないでしょう。現代において、月5万円で家賃含めたインフラが成立するなんて、ありえんですもん。

 

 

つまり、ぼやくにしても正しくは(ぼやきに正誤があるかはナゾですが)「社会が快適になり、自分の身の回りも快適になった。しかし、その快適さを支えるために、「楽」さはどんどん消えていったなあ‥‥」ということなんでしょうネ。「社会が快適になっても、決して楽にはならない」ということでしょう。「便利」にはなるでしょうけどネ。‥‥「便利」は「楽」の同義語ではないですもんネ。

 

 

社会は否が応でも「一蓮托生」。「快適上昇気流」から抜け出すには、世捨て人になるくらいの決心が必要です。

 

現代社会において、携帯電話をもたず、ネットも契約せず、エアコンもテレビ(モニタ)も買わず‥‥なんて、かなり難しいです。少なくとも、エアコンを使わなければ、熱中症で死にます。窓を開けて風通しをよくしても、その風が熱風なんですもん。住宅が密集している地域は、みんなでがんがんエアコンを使うもんだから、30年前に比べて格段に暑くなっていますよネ。

 

社会の技術進化によって様々な快適さが生まれ、その旨味を享受し、現代技術に支えられた社会システムありきで仕事をしようと思うのなら、「楽にならない」なんて言うのは往生際が悪すぎるのでしょう。

 

スマホを捨て、ネットを捨て、都心や都心近郊から離れれば、今よりグンとコスト消費は抑えられるでしょう。お金がかかる生活が楽じゃないと本気で思うのなら、お金がかからない生活を本気で目指すしかないです。

*ただし、お金のかからない生活を支えるために、どのような仕事を見つけるか‥‥は、なかなか難しいと思われます。

 

 

私は映像制作という現代社会の申し子のような職業を選択しているので、現代社会から脱皮したお金のかからない生活を目指すのは無理です。節約はできますけど、現代のインフラを拒絶することは不可能です。

 

スマホを肌身離さず持っていて、何かというとスマホばかり覗き込んでいるような人間が、「なんで自分の生活は金がどんどん消えていくんだろう」というのは、少々滑稽です。スマホを常用し、スマホのソリューションを成立させるインフラを利用している時点で、潔く、「金のかからない生活」なんていう妄想はあきらめましょ。

 

私はぶっちゃけ、携帯電話やスマホは嫌いなのですが(何か、首に縄をつけられているようで)、そんな私でもスマホはいつも持ち歩くようになりました。「現代の社会システム」と一蓮托生です。私が携帯電話を持っていないと、色んな方面に面倒がでますから、これはもう、「しょうがない」です。

 

その代わり、「金がかかるとわかりきっているからこそ」、コストを抑える取り組みに目が向いていくのです。「金がかかる」と嘆いているだけじゃ何も解決しませんが、「金がかかるのは不可避である。だったら、その金のかけ方を工夫してみよう。」と肝を据えれば、色々なアイデアはでてくるものです。

 

アニメ制作現場の「オールデジタル時代」の未来も、「コストに対する覚悟」が意識を左右し、同じお金のかけ方でも、プアな現場とリッチな現場とを大きく分けていくと思います。

 

 

快適さを捨て、山にこもるか。

 

快適さを求めて、街に住むか。

 

現代人に対する恫喝」とすら思える極論ですが、なんだかんだ言おうが、結局はソコ‥‥だと思います。

 


アロマのもの

現場は様々な緊張感でいっぱいです。品質的、物量的、時間的、包括的責任、特定的責任、etc...。

 

私が作業場の温度湿度、香りに気を使うようになったのは、そうした緊張感からは逃れられない現場だからこそ、緩和する要素を現場の中に取り入れたいからです。

 

香りは、目に見えない緩和要素の1つです。

 

最近、ユーカリのアロマオイルがなくなったので、今度はどどんと100mlの「大人買い」で「ブルーガム」を補充しました。ユーカリは、作業場の定番と言って良い香りなので(あくまで、私の見解ですが)、どうせ消耗するのなら‥‥と、容量まとめ買いしました。空になった瓶に詰め変えて使います。

 

 

ユーカリには、ブルーガムやらラディアータやら種類があるようで、よくわからないのでラディアータのほうは10mlの小瓶で買ってみました。今まで「ユーカリ」としか認識しておりませんでした。

 

香りの世界も奥が深いですネ。

 

 

作業場の「アロマ」の代表格といえば、コーヒーでしょう。‥‥とはいえ、大量にドリップして作り置きしておくコーヒーは、アロマというより苦味。

 

私は20代の頃は、コーヒーの良さがわからなくて、いわゆる「オモチャコーヒー」=砂糖とミルクで「ほぼ乳飲料」みたいなコーヒーしか飲めませんでした。ブラックのどこが良いのか、全く解りませんでした。

 

しかし、コーヒー好きの人に、香り豊かで甘みをうっすらと感じるブラックコーヒーを飲ませてもらってから、一気に開眼し、「コーヒーとは、本来、とても繊細な「香り」のものなんだな」と思い知ったのです。

 

まあ、モンドセレクション受賞の缶コーヒーも、それはそれで1ジャンルだとは思いますが、風味豊かな豆をゆっくりドリップするブラックコーヒーは、全く別のジャンルの飲み物だったとわかりました。

 

それ以来、コーヒーは作業場の定番「環境」アイテム。

 

モカベースのイタリアンロースト、ブラジル、マンデリン、マンデリンのフレンチロースト、ケニア、マイルドブレンドなど、少人数の部屋なのを利点として、その時の気分に合わせて、酸味・苦味、深煎り・浅煎り、ライト・フルなど、様々な豆をドリップしております。(私はあまり豆自体のことは覚えてませんが、室内のメンバーが皆コーヒー好きなので、経験則的に豆を購入しています。皆、深煎りでフルボディが好きみたいです。)

 

同時に、「すぐ飲みたい」用にネスカフェのバリスタも用意。葉っぱから出したお茶と抹茶をお湯でとかしたお茶が全く異なるように、挽いた豆をドリップしたコーヒーとインスタント粉末のコーヒーは全く別物ですが、電源ONから1分以内に飲めるバリスタの存在価値は、忙しい時に高まります。今年になって導入したバリスタアイはBluetoothで濃さを調整できたりと、まさにコンピュータを主力装備としたスタジオにはうってつけ。

 

こだわりのオヤジさんが半ば趣味でやっている個人経営の喫茶店には全く及ばないけれど(今でも忘れられないお店があります)、やっぱり、苦いだけのコーヒーはキビしい。特に、キワキワの責任の所在を問われる作業の最中だと、心にあまり余裕がないので、ひと息つけるコーヒーや紅茶にはこだわりたいです。そうした意味では、時間に余裕がない現場でも、香り高いコーヒーや紅茶は必須だと思います。

 

適度な照明の加減、適度な湿度と温度の空調、日々のアロマ、そして香りの良いコーヒーやお茶は、それだけで気分をポジティブに傾かせてくれるので、重宝しています。ギスギスしている時は大抵、コーヒーの香りに感情を傾ける余裕もないものです。そうした時にあえて、コーヒーの良い香りを差し挟むことで、感情に余裕が生まれます。

 

目には見えない、温度や湿度、香りという要素に気を配る。

 

タコ部屋なんて言われていた過去にピリオドをうって、未来の現場を作るにはかかせない要素だと確信しています。

 

 

 


寝る

忙しいス。

 

Apple Pencilのペン先も、みるみる減っていきます。ハイペースで使うと、1ヶ月もたない可能性もアリです。

 

*滑らかな曲線を帯びていたペン先も、使ううちに、鋭利な円錐状に変化します。

 

ペン先は4個セットで大体2400円(税込)くらい。アマゾンはApple製品に弱いみたいなので、割高な値段の出品が多いですが、ヨドバシやAppleストアとかで買えば、2370円くらいなので、/4で、1つ592円。中クラスの鉛筆1ダース分ですネ。

 

私は猛烈に鉛筆で描きまくっていた時、1〜2日で鉛筆1本を消費していましたから、大体1ヶ月で12本=1ダース、つまり似たようなランニングコスト‥‥ですネ。

 

ただ、私はなぜか、原画を描くときは「安い鉛筆が好き」だったので、実は1ダース400円未満だったりします。

 

*自分の鉛筆線をそのまま使用する場合(=動画工程を挟まない〜版権など)は、上図の8900では品質的にNGなので、1000円前後のグレードのものを使っていました。

 

 

とは言え、Apple Pencilは、鉛筆としての役割だけでなく、筆やペンとしての役割も兼任するので、原画だけで鉛筆を使う状況よりも過酷です。

 

大面積をガシガシと塗りつぶしたり、筆致の勢いで色彩を描いたり、「描く用途全て」を引き受けるので、考えてみれば、減りが速いのは当然ですネ。

 

* * *

 

仕事が忙しくなって、目まぐるしい日々が続くと、睡眠も「場当たり」的になってきます。しかし、「寝る時間も惜しんで」睡眠をおろそかにすると、結局、日々をおろそかにすることになり、本末転倒です。

 

私自身、公私共に「こなすべきミッション」がたくさん有りすぎて(というか、盛り込みすぎて)、「寝る時間がもったいない」強迫観念にかられております。‥‥だからといって、実際に「中途半端に、隙間で睡眠」すると、心身共に低調となり、結局はペースが維持できず生産性が落ちます。

 

最近、久々にちゃんとした寝具で1日10時間近く、土日で合計20時間くらい寝たんですけど、起きたらスゴい。いろんな事柄がポジティブに思えたのです。

 

現代社会、深刻な体調不良がでないまでも、「仮性鬱」「鬱予備軍」の人はかなりいると思われます。どんなに「自分の好きなことを仕事にできて、それで食べていけて、ラッキー」と表層では思っていても、椅子をリクライニングして仮眠2〜3時間で作業を続行してたら、体だけでなく、ココロの深層でもネガティブなベクトルへと誘導されてしまいます。

 

私の場合、自宅でもそんな感じで色々なプロジェクトを進めていたので、睡眠をとって起き抜け一番でも「ネガティブ」などんよりとした重さを感じていました。実際、残された寿命をカウントすると、「寝てられない」実感が強すぎて、寝起きで既にこなすべきミッションを想像してドヨンとしていたのです。

 

でもね、やっぱり、寝とかんと。たーんと。

 

休日にたっぷり寝るだけで、かなりのダメージ回復が可能‥‥なことを、最近、しみじみ実感しました。1日10時間なんて「寝貯め」みたいで非現実的ですけど、連続で5〜6時間は寝るべきだな‥‥と思います。

 

 

自分の作業・創造性を「売り物」にするということは、すなわち「自分自身を結果物という溶媒を通して売る」ようなものです。そして、色々な評価を下され、作業費の金額で価値を決められるのですから、「不安」や「戸惑い」、「歓喜」や「有頂天」を感じないはずがありません。つまりは、物を作って売るということは、「躁鬱」とあらかじめセットなのです。

 

何かを作って、他者に見せる(売る)‥‥ということは、「躁鬱」で当人を疲弊させる性質を、宿命的に有しているわけです。もし、そうした「躁鬱」から逃れたいのなら、あくまで趣味で自分だけで作って自分ひとりで楽しんで、誰にも見せなければ良いのです。

 

自分の能力をガチで売り物にして対価を得る以上、自分の能力が査定されるのは、致し方ないことです。原画は一律単価が設定されていますが、原画や動画の作業から一歩外に出れば、いやらしいほどの「値踏み」に翻弄されることになります。

 

作業そのもので疲弊し、その作業の評価で精神的に「躁鬱」となって疲弊し、睡眠もろくに取らずに体力が回復しない‥‥なんて、「地獄への片道切符」ですよネ。

 

 

しかし‥‥‥なあ。

 

日頃から良い睡眠をとるには、どのようにすれば良いのか。

 

まあ、「良い睡眠」という命題克服が中々難しいから、あの手この手の、寝具や健康のグッズが商売として成立するんでしょうネ。

 

 

ちなみに、私は「躁鬱」でお医者さんにかかったこともないし、処方薬をのんだこともないですが、自分自身をかたち作れずにユラユラフラフラしていた20代のころは、いつ潰れてもおかしくない状態でした。Kindleコミックの「うつヌケ」の冒頭とかを読むと、似たような状況だった…と思い起こされます。

 

ただ私は基本的に持久の体力があったのと、根源的に「生きるのが好き」だったので、「死」のベクトルには向かなかったのが幸いしたのでしょう。その当時に実際、私とは正反対の、ふっと消えてしまいそうな生命感のか細い人が、ポジティブを振舞ってもどうしてもネガティブから抜けられないのを知っておりますから、ココロとカラダはまさに一心同体なのでしょう。

 

どんなにココロが持ち堪えようとしても、カラダから突き崩されることは、よくあることです。才気を感じる若い人でも、ガタイが華奢だと、それだけで心配してしまうのは、私の経験ゆえ‥‥です。だってさ、アニメ業界って、特に過酷じゃん? 全行程のスケジュールのおとしまえをつけさせられるコンポジットも、どんな内容でもゼロからカタチにしなければならない作画も、どんな素材でも塗り切らなければならないペイントも、全ての工程を追いかける制作も、その他いろんな工程がさ‥‥。

 

だから、まずは睡眠。どんなに過酷でも睡眠。

 

寝なければ、どんなに喰っても、馬力など発揮できないです。ただ、デブるだけ。

 

でも、ココロが弱っていると、カラダが眠れなくなるのも、また、人間の難しいところ‥‥ですネ。睡眠障害って、自分の体ながら、ホントにむかつくよね。私の場合は、単に「やろうとして、焦って、それで眠れない」ことが多いだけですけども。

 

 

でもまあ、人間には最大最強の「憂鬱なこと」が存在しますよネ。「必ず、死ぬ」という事実・現実。

 

私はそれだけで、いっぱいいっぱい‥‥です。だから、生きているうちに、精一杯いろんなことを成そうとして、無理をして‥‥という、なんとまあ、マヌケなサイクルから抜け出せないんですけどネ。

 

 



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