言語のおぼえかた

プログラム言語に関して、他人にアレコレ事細かく指南できるほどのスキルは持ち合わせていませんが、経験からくる「覚え方のコツ」は自分なりに理解しています。

 

単語は辞書を引けば良いので、何よりも構造を覚えてしまうのが、プログラム言語習得のコツです。

 

例えば、各国の言語でも、

 

私の名前は江面です。

My name is Ezura. 〜マイ ネーム イズ エズラ

Mein Name ist Ezura. 〜マイン ナーメ イスト エズラ

Меня зовут Эзура. 〜ミニャ ザブゥ エズラ(カタカナにするのが難しい‥‥)

 

‥‥と、構造はかなり似ています。特に上の例文においては英語とドイツ語はクリソツ。

 

これと同じように、プログラム言語も基本的な構造は同じです。以下の内容は「このCompの名前は『ezura Comp』である」という文です。「比較演算子」を用いた文で、「である=true:真」「ではない=false:偽」=真偽値が返ります。

 

thisComp.name == "ezura Comp";

name of thisComp = "ezura Comp"

name of thisComp is "ezura Comp"

name of thisComp is equal to "ezura Comp"

 

辺境のAppleScriptの例が多いですが、AppleScriptは言い回しが多様なので、例として挙げてみました。AppleScriptは「=」だの「is」だの「is equal to」だの色々と言い回しがあってにぎやかです。一方、「==」を使うプログラム言語は多く、ほとんどの言語で通用します。

 

私は一番最初にAppleScriptから入り、やがてシェルスクリプトやPerl、REALbasic、PHP、JavaScriptなどを色々な言語を必要に応じて順次覚えていきました。現在は目下、SwiftやPythonですが、参考書に目を通していても、円滑に理解が進みます。

 

思うに、私がAppleScriptからプログラム言語の習得を始めたのは、「ラッキー」だったと思います。なぜかというと、AppleScriptは今までの経緯で「すったもんだ」があって、「なりゆきとして」言語のスタイルを覚え直すハメになったからです。

 

いわば、「不幸中の幸い」です。

 

私がAppleScriptを最初に覚えたのは、ズバリ、日本語で記述できるのがAppleScriptのウリだったからです。1997年の事です。

 

例えば、

 

アプリケーション “Finder”について

起動項目のフォルダ “テスト”のファイル “picture.psd”の 名前を “picture1.psd”にする

以上

 

‥‥といった具合(記憶で書いてるので半角スペースの入れ方とかは曖昧です)で、日本語でスクリプトの自動処理が書けたのです。これは日本人かつ今までアニメーター100%だった私にとって、とても馴染みやすい仕様でした。

 

しかし、運命とは、残酷なもの。

 

突然のApple(開発元ですネ)による「日本語環境打ち切り」。

 

AppleScriptは英文のみとなり、私にとっては目の前が真っ暗になる仕様変更でした。「アップルのばかーーーーー!」と叫びたい心境‥‥いや、実際に叫んだかもネ。

 

でも、随分と使えるようになった言語を諦めるのもシャクだったので、英文で仕方なく覚え直し始めました。

 

英文で書くと、こんな感じ。

 

tell application "Finder"

    set name of file "picture.psd" of folder "テスト" of startup disk to "picture1.psd"

end tell

 

まあ、見事、無残に、ファイルパスの表記スタイルが真逆です。細かい点ではありますが、 ” が " になったりと、ほとんどゼロから覚え直しでした。

 

しかし、日本語が英語に変わっただけで、構造は同一なことに気づきました。日本語表現形式か、英語表現形式の違いだけで、中身は一緒です。

 

かえって、漫然と日本語スクリプトを覚えていた時よりも、構造に目を向けるようになって、ある程度英語表現に慣れたあとは、今まで以上に理解が進むようになりました。

 

わからない単語は辞書を引けばすみますが、構造がわからなければ、全体のプログラム動作が掴めません。構造を把握することで、プログラム言語で何を覚えれば良いかが開眼できたのです。

 

同じ例文をAdobeのESTKで書いてみると、

 

File("/テスト/picture.psd").rename("picture1.psd");

 

‥‥となります。

 

名前変更の際に、ファイルオブジェクトのファンクション「File(ほにゃらら).rename(新しい名前);」を用いるところとか、macOSゆえのUNIXパスだったりと、色々と違う点もありますが、「対象の項目を指定して処理を加える」という基本動作には何ら変わりはありません。

 

つまり、何らかのプログラム言語を覚えて、その後にもう1つ別のスタイルの言語も覚えれば、言語の差から色々な「覚えるべき有益な要素」があぶりだされて、自然と習得できるようになります。

 

よく聞かれる質問で、「どんな言語を覚えれば有利か」とかがありますが、ぶっちゃけ、自分の今すぐ役に立つ言語を覚えとけば良いです。何が基準かも釈然としない有利不利や損得基準で言語を選ぶよりも、今すぐに活用できる言語を選べば良いです。

 

例えば、アニメ制作でコンポジット周りなら、迷わずAdobeのESTK、すなわちJavaScriptベースの拡張言語でしょう。すぐに役立つもんネ。

 

After EffectsやPhotoshopなどの主要アプリケーションを自動で操作して、様々な業務に活用できます。例えば私は、After Effectsのレンダリングエンジンが「レンダリングするだけしか使えない」のがイヤで、自家製のレンダリングエンジンを作っていました。独自の「キューファイル」(SJISやUTF-8などのテキストファイル)を規定してサーバにキューファイルを書き出し、他のマシンで待ち受け中のAfter Effectsがそのキューファイルを読み取り、キューの記述を読み取って動的に内容変更してレンダリングする仕組みでした。常駐型のスクリプトもESTKでは書けるんですヨ。

 

ESTKでは他の言語同様にテキストファイルの読み書きが可能なので、キューファイルのような「伝票」を作ることなど朝飯前。初心者の腕試しにちょうど良いです。AEPのプロジェクトを次々と開いて、After Effectsの最終コンポジションの内容をリスト化(テーブル化)したHTMLだって、繰り返し文を用いて何のヒネリもなく作れます。

 

長いコード文を掲載するのもブログでは大変なので、お約束のアレをHTMLで書き出してみます。

 

var myFile = new File("/テスト/hello.html");//macOSの場合のパスです
myFile.encoding="UTF-8";
myFile.open("w");
myFile.write('<!doctype html>¥n');
myFile.write('<html>¥n');
myFile.write('<head><meta charset="UTF-8">¥n<title>Hello, World.</title>¥n</head>¥n');
myFile.write('<body>¥n');
myFile.write('<h1>こんにちは、みなさん。</h1>¥n');
myFile.write('<p>いざ、プログラムの世界へ。</p>¥n');
myFile.write('</body>¥n');
myFile.write('</html>');
myFile.close();

 

バックスラッシュが「¥」になっちゃってますが、読み替えてください。¥nはコードの改行です。Pタグの行をどんどん増やせば、どんどん書きたい文章を増やせますネ。

 

このスクリプト文をESTKで実行すると、以下のようなHTMLファイルが自動生成されます。

 

ハロー、ワールド。

 

 

とりあえず、今、使えそうな言語を習得しておけば、その言語が有利か不利かなんて「後でどうにでもなり」ます。

 

一番不利なのは、グズグズ何しようかとぶーたれている間に、全く言語を習得できないこと‥‥ですネ。

 

 

 

*久々にひっぱりだしてきたロシア語(キリル文字)のキーボード。ローマ字入力の英語キーボードではロシア語は無理なので‥‥。

*ちなみに、私は最初、筆記体から入っちゃったので、活字(ずいぶん外見が違うんですよ)が読めないアホな状態で苦しんでおりました。キリル文字のキーボードは手に入らなかったので、ロジテックのK120キリル文字ステッカーを貼っています。

*今日届いたスイフトのリファレンス。新刊です。

*写真の机が随分とカスれてエグれているのは、絵を描く際に袖のボタンが当たってエグれたのです。私は左利きなので、机の左部分だけ木材が露出しています。よほど硬いボタンだったんでしょうかねえ‥‥。記憶にないです。‥‥‥‥でもまあ、ほんとに、駆け出しの頃(18〜22歳)は、死に物狂いで必死だったんでしょうねえ‥‥我ながら。

 


ネットワーク・スキーム・フレームワーク

ネットワークとは、TCP/IPやMACアドレスの話だけでなく、人間・人材の繋がりもネットワークであり、人材に適合・不適合や良し悪しがあるのなら、当然ネットワークの質も上下するでしょう。

 

一人で完結できないプロジェクト・プロダクトは、まさに制作技術の総合ネットワークの質が問われます。何か1つが秀でていれば解決できるわけではないです。

 

でもまあ、そこが「実に面白い」わけで、作品制作の醍醐味でもあります。

 

制作技術の総合ネットワークは、スキームを別の視座構造で捉えたカタチとも言えます。スタッフの座組み、技術体系、ワークフロー、運用システム、料金体系など、スキームを構成する要素を、まるで複雑に交差する首都圏の鉄道網・交通網のように結線するのがネットワークの役割です。

 

ネットワーク視点、スキーム視点から、アニメ制作現場を考えた時、今後、どのように物理的なネットワーク回線を有効に活用して、制作ネットワークと制作スキームを形成するかが、重要なカギだと思っています。

 

でも、現在の制作規模で考えると、あまりにも要素が多すぎて、再編・再構築は果てしない取り組みとなり、着手するのもためらわれます。簡単にできないからこそ、現在誰もが成しえないわけですしネ。一部の改良に留まるのは、現場の規模を大きさを考えれば、致し方無しです。

 

ゆえに私は、一旦、盛りに盛った要素を全て外して、少人数によるシンプルな構成要素で再構築‥‥というか新構築を始めようと思います。新しい時代の映像技術に合わせて、まずはシンプルな新しいフレームワークを形成するのです。幸い、新しい技術はシンプルなフレームワークでも生産を可能にするだけのポテンシャルを秘めています。

 

とは言え、最初からイッパツで素晴らしく理想的なネットワーク・スキーム・フレームワークなど組めるわけもないです。どんなにスタート地点で欲張っても、エラー&リトライの時間を経た経験だけが可能にすることも多いです。どんなに耳年増になっても、絵を上手に描くには、相当な時間を要すのと同じです。

 

新時代における新しい制作技術のネットワーク・スキーム・フレームワークは、まさにこれから「知恵熱」が必要とされます。

 

 

最近、「イチゴの品種の流出」の話がNHKニュース他で話題になりましたが、新しいネットワーク・スキーム・フレームワークは、まさに「制作総合技術の新品種」とも言えますから、野放図にホイホイ外部に流出すべきではないでしょう。

 

「イチゴの品種の流出」の話は、まるで過去の日本のアニメ業界内部の話のように思えてなりません。

 

*詳細はNHK NEWS WEB

 

 

アニメ制作技術に関して、共通の標準技術は規定するとしても、何から何まで共有する必要は無し。

 

その場の都合で安易に共有したことが、後々にとんでもないディスカウントを引き起こす引き金になっているのを、誰もが意識すべきでしょう。ディスカウント構造を野放しにしておきながら、社会にいくら「窮状を訴え」ても、まずは体質改善を指摘されるところからスタート‥‥でしょう。しかし、そもそも、体質改善して未来社会に適応できるカラダかどうかも、よくよく考えねばなりません。

 

何を無償で共有し、何をライセンスし、何を門外不出にするか、旧来の現場はもう手遅れでダメだとしても、新しいスキームによる新しい制作現場はしっかりとコントロールすべきです。‥‥というか、します。

 

技術の共有・ライセンス管理・コンフィデンシャルの是非も新しいネットワーク・スキーム・フレームワークに内包されて然り‥‥ですネ。

 

 

 

 


プロデューサー

どんなに新しい技術を自己開発しようと、用いる機会がなければ、一向に状況は進展しません。加えて、新しい技術は実績がないので、さらに機会は少なくなりがちです。

 

多くの人は、他者の成功を見てから、尻馬に乗るようにして行動します。まさに今のアニメの作り方が主流になったのも、尻馬行動の結果です。

 

1996年当時、今のような仕上げ以降をコンピュータで処理する方法、一部3DCGを取り入れる方法は、片手で数えられるほどのアニメ会社だけが取り組んでいました。

 

もし、皆が技術に対する正当な評価ができて先進性を見抜ける人間なら、2000年に入る前に各社がこぞって参入していたはずですが、実際はそうではありませんでした。

 

多くの会社が当初「そんなの上手くいくのかね」と傍観し、上手くいくとわかった途端になだれ込むようにして参入して、‥‥まあ、今のありさまになりました。一部始終を最初から見ていたので、よく解ります。

 

 

では、なぜ尻馬行動の連中ばかりの世界で、徐々にではあれ、新しい技術が台頭できるのか。

 

誰かの後追い‥‥ということは、誰かが最初に走り出さなければ、後追いもヘッタクレもないです。

 

 

もちろん何よりも、技術開発に熱意をもって取り組む人間の情熱ありきで走り始めるわけですが、一方で、「これは面白いかも」と何かしらの可能性を見出すプロデューサーの存在なくして、具現化はありえません

 

きっかけは、ほんの数カットや短尺でも良いのです。どんなに小さいきっかけでも、GOサインが出る=実際の制作費で実行できることが必要です。

 

プロデューサーの勘やひらめきや思いつきが、技術者・表現者の情熱に加わることで、新しい技術が表に姿を表し、新たな作品表現が生まれます。その時は当座のひらめきで、プロデューサー本人は時が経つとともにすっかり忘れていても、きっかけが次のきっかけを呼んで、繋がっていくことは多いものです。

 

渡りに船‥‥は、実はお互い様だったりします。

 

 

実際、私もそうしたプロデューサーの方々のひらめきや思いつきによって後押しされなければ、とっくのとうにのたれ死んでいたでしょう。プロデュース側の発想がなければ、新しい技術は成長することなく死に絶えていたと思います。

 

卵か鶏かの話みたいですが、「こんなことができるようになりましたヨ」とプロデューサーに見せることで、実戦での機会が生まれ、機会を与えてくれたおかげで、さらに開発が進んで「こんなこともできるように増えましたヨ」とプロデューサーに持ち掛けることが可能になります。

 

上げ上げの善きループです。

 

ただ、前例のない技術ほど、興味を示すプロデューサーもかなり少なくなります。しかし、ほんの2〜3人でも、見抜くプロデューサーがいれば、それで良いのです。

 

 

これは監督に対しても言えることで、監督が卵と鶏のループの発端を与えてくれることもあります。

 

今度の作品でぜひ使ってみたい‥‥と監督が要望してくれることで、技術開発にエネルギーが作用して「新技術台頭の機械仕掛け」が動き出すのです。

 

 

強力な軍事力があってこそ、強気の政治外交も可能となりましょう。強気の政治外交があってこそ、強力な軍備も可能となりましょう。要は、もちつもたれつ、です。


プロデューサーといがみ合っているような現場は、それだけで「負けは見えて」います。作品制作はある意味戦争ですから、国の政治と軍隊が内部衝突して内紛状態では、とても戦争に勝てる状態とはならないでしょう。第1次世界大戦のロシアのように、休戦・撤退・戦線離脱を余儀なくされます。例え、その場は勢いで勝利できても、次に繋がる体制を維持できなくなります。‥‥まあ、よくある話ですネ。

 

「なあなあに馴れ合う必要はない」ですが、ある種の運命共同体として機能する関係は必須だと思います。お互いの後ろ盾となることで、強くなれるのです。

 

 


動仕の枚数

最近作業したカットは新しい技術体系に含まれる技法で作業しましたが、それを今までの実際の動仕でカウントすると、実に800枚の動仕枚数になり、動仕それぞれ200円前後で合計して400円で見積もっても30万円にはなる金額です。

 

煙が何本も別々に動いて、それぞれの間にガス素材の遠近感が挿入されるので、1枚のセルへ書き込みにはできません。また、動画200円ちょいではあまりにも作業が大変過ぎるので特別単価が必要になりそうでもあります。実はT光マスクの枚数は換算して算出していませんが、それまで含めると1000枚越えになるので控えています。

 

ガチで生身の人間の動仕でやると、1ヶ月くらいはかかるでしょう。しかも割りミスや色パカをシラミ潰しに潰すリテークを乗り越えつつ‥‥です。

 

ただこの金額や作業規模には構造上のトリックがあって、そもそも800枚も動仕枚数が必要なら、他の表現に変更になるでしょう。おそらく、一番ありそうなのが、BGオンリーで止め絵処理+透過光で炎をチラチラ。まあ、あっても、BOOK分けして密着引き(カメラワークに合わせて)とか‥‥ですネ。

 

 

でもまあ、「そもそも、今までの作業意識では、そんな大変な作業は回避する」と言っても、規模は違えど、過去にいくらでも大変なエフェクトカットはありました。私はセル&フィルム時代からエフェクトを描き続けてきましたが、動仕が作業上の限界に達した場面を何度も見てきました。

 

ゆえに、私は旧来技術の限界に気付くのが早かったのだと思います。2018年の今では、エフェクト作画を描き送りの手描きでやろうなんて、全く思わなくなりました。

 

出発点となる絵は手で描きますが、1秒間8〜24枚の絵で動かす作業を、動仕という作業スタイルで実現するのは、もはや誰も得をしないと考えるに至っています。恐ろしく細かい煙のディテールを綺麗に清書して描いて動かして1枚200〜400円とか、イヤでしょ? 塗るのだって大変ですが、それも1枚200円前後で引き受けたくないですよネ。影は明るい部分に3段、暗い部分に3段で6段です。‥‥どう考えても、通常単価じゃイヤですよネ。

*ちなみに私もまさか原画料金で引き受けてはいないです。それ相応の額で、です。

 

割りミスや色パカが作業上どうしても発生しちゃうのもイヤですしネ。どう考えても、新技術への移行しかありえません。3Dスタッフに任すのではなく、自分の手でエフェクトを描きたいのなら、です。

 

 

そうした新しい技術意識は、キャラにも応用されていて、今まで不可能だった表現をどんどん盛り込んでいます。一番端的なのは髪の毛の描写で、旧来の技法だとゴージャスに盛るにしても6〜7色の塗り分け&セレクトブラーという感じでしたが、髪の毛の光沢を虹色に表現しつつ1本1本のニュアンスを動かすことも可能になっています。ブロックで描いても、1本ずつ描いても、どちらでも可能なのです。

 

また旧来の技術では、枚数を何千何万と描く前提ゆえに、キャラのデザインが決定されています。‥‥まあ、今はかなりそういう意識は崩れていますが、動仕の効率に対する配慮はまだ生きています。しかし、新しい技術では違う観点でキャラがデザインされ、動仕枚数への配慮は不要となり、絶対に無理だったデザインも盛り込むことが可能です。

 

しかもそのキャラは24fpsフルでも、60fpsフルでも、ご要望とあらば120fpsフルでも動かせます。2コマ、3コマ=8〜12fpsのエコノミーな動きにする必要はなく、旧来の動仕換算で1カット300枚平均でも平気で動かせます。

 

 

 

長く連れ添ってきた可愛い馬っこを、新しい自動車とやらオートバイとやらと、比べられちゃたまんね。どうか、手加減してくれろ。

 

 

旧来技術への愛着はよく解りますが、時代は変わっていくものです。これから先の未来世界、人間は何に跨って走るのか、ふと、考えてみることも必要でしょう。

 

その昔にオートバイが珍しかったころ、人間が奇怪な機械に跨って高速で走り抜ける姿を、奇異な視線で眺める人は大多数だったでしょう。しかし、今はどうでしょうか。時代の足並みに合わせて、馬は道から消え去り、乗馬クラブでしか見かけない存在になりました。

 

原動仕に従事する人々が、ずっと馬に跨って走るのは絶対に必要なことでしょうか。‥‥時代に合わせて、自動車やバイクに乗り換えることも必要になりましょう。あくまで、主役は乗り物ではなく人間でしょ?

 

 

「アニメが60fpsで動く必要はない」「アニメに4Kは必要ない」と言う人もいます。まあ、たしかに、今までのアニメのままだったら‥‥です。

 

一方で、新しい技術で、新しいアニメの映像が、新しい映像品質で動くのを見たいと言ってくれる人がいます。であるならば、最大限の技術をもって、その期待に応えようと思うのです。

 

4Kでしか出せない細密感、60pでしか出せない動きの生々しさ、HDRでしか出せない色彩の鮮やかさと深さ。‥‥すべて、盛り込んでアニメにしてみせましょう。

 

 

アニメの表現を昔の意識で束縛するのは、アニメの逃れられない宿命なのか。‥‥‥否。頭の古い人たちが、アニメを昔の場所から抜け出せないように束縛しているだけ‥‥だと私は思います。

 

アニメはノスタルジーの世界のみ生きるにあらず。

 

新しい世界で生きる道は、それこそ、たくさん伸びています。新しい乗り物に乗り換えて、遥かな地平を目指すのです。

 

 

 

 


記憶容量と言語学習

人間の記憶容量に限界があるのか、人間は自分自身をゼロから設計して作ったわけではないでしょうから、確実なことは言えないとは思いますが、医学研究上は「限界はあるらしい」です。つまり、記憶容量は無限ではない‥‥ということみたいです。

 

記憶を無理に詰め込むと、記憶に混乱が生じるらしいです。新しい記憶を収納するために、昔の記憶を廃棄しにかかる‥‥ のが、医学上の経験で知られているとか。

 

それは凄く納得。

 

おもいあたるフシ‥‥というか、経験があります。

 

面白がって、色々な語学をかじってみた時期があるのですが、その頃から格段に物忘れが酷くなりました。自分でも手に取るように、記憶の「本棚」がどさどさっと崩れて散らかった感覚を実感し、正直、恐怖でした。

 

ただ、記憶が無作為に混乱するのではないみたいで、ティーンの頃の記憶はあまり混乱しておらず、20〜40代の記憶が散らかった印象です。小さい頃に覚えた戦闘機のシルエットと最高速度は今でもすぐに思い出せますが、ここ十数年の記憶はかなり乱れました。

 

最近、「チック・コリア」の名前が思い出せなくて、どわあああああ、劣化してる、確実にジジイになってる‥‥と焦りました。「フレンズ」という曲が聴きたくてApple Musicで検索しようとして、チック・コリアの名前が思い出せなかったのです。ジャズピアニストの大御所を‥‥です。

 

 

なので、言語学習は、現実の語学だけでなくプログラミング言語も、若いうちにやっておくのが肝要です。

 

どうせオジサンオバサンになれば、個人の差こそあれボケてくるんですから、若いうちのできるだけ早期に、語学は根付かせておくと良いと思われます。

 

プログラミング言語はいっぱい種類はありますが、基本的には大して変わりません。

 

"ABC" + "DEF" + ".psd";

'ABC' . 'DEFF' . '.psd';

"ABC" & "DEF" & ".psd"

 

みんな「ABCDEF.psd」の結果となります。連結演算子の違いくらい、すぐに読み解けますよネ。表面の違いよりも、根底の構造を若いうちに理解しておけば、色んな言語もそんなに怖くないです。プログラム言語は暗記する語句が少ないのも特徴ですし。

 

でも、リアルな読み書き喋りの言語は、暗記物が多いし、発音もあるので、20代からできる限り着手したほうが良いですネ。

 

私は40代になって面白半分に、ロシア語とドイツ語とエスペラント語(焼肉&寿司バイキングみたいなチョイスだ)に加え、英語の覚え直しをやろうとして、自分でも呆然となるくらい物覚えが酷くなって、今でもその後遺症に悩んでいます。20代だったら、面白半分でも可‥‥だったんでしょうけどネ。今ではすっかり忘れてしまって、自分の名前の「Hisashi」をキリル文字では「Xucacu」のように書くとか、断片しか覚えていません。イクラ(魚卵)はイクラ(икра, ikra)‥‥とか、苗字まで男女で変わる(スキーとスカヤ)とかネ。

 

 

人間の寿命が、200〜300年あれば、いろんな国の言語を覚えて、いろんなプログラム言語を覚えて、いろんな画風のキャラを描いて、いろんなメカを描いて、色んな作品を作って‥‥と夢も広がりますが、現実的には、人生でやりたいことがやれる一番イイ時期はたった50年です。

 

そういった意味では「人生50年」は今でも変わっていないのかも知れませんネ。

 

 

 


警報

3/9未明、4:44に三鷹で防災警報。大雨によるもの‥‥のようです。

 

 

夜に街中に大音量でアナウンスされると不気味です。

 

大雨とはいえ、さっき(午前2時ごろ)、ラーメン喰いにいったけどな‥‥。確かに帰りがけに降りがかなり強くなっていました。

 

どんなに防災警報が鳴ろうと、仕事抱え過ぎで月月火水木金金。‥‥そっちの方が警報レベルな私。ここ1ヶ月が正念場で、自分警報からは脱出できそうですが。

 

Apple Pencilの消耗も激し。‥‥最近変えたばかりなのに、もう消耗した感触(書き味)になってます。

 

 


どうせなら

日々、アニメの制作業務を粛々とこなし続け、どこかの誰かが作業環境や待遇を向上してくれるのを待つのは、それはそれで人生の選択肢の1つでしょう。

 

「いつか、お金が上がる」のを期待しつつ、年月を積み重ねる。

 

「いつ」「どのくらい」作業環境や報酬が向上するのかは全くの未知なので、ただひたすら、待つ、待つ、待つ‥‥。

 

でも、ごく普通に考えて、待っている時間をもっと他のことにも使ってみても良いと思います。「待ち時間」の使いかたの工夫です。

 

「雨乞い」している時間を他の何かに使って、別の選択肢を増やそうと考えるのは、自然な流れです。

 

しかしながら、雨乞いの日々で不満を抱え続けていても、「次の仕事の話が来る」と多くの人は「自分はまだ必要とされているし、生きていける」とばかりに「不満が一時的にマスク」され、「別の選択肢」「新しい可能性」を見つける「大変なこと」からは遠のいてしまいます。

 

多くの人が、現状に強い不満を感じながらも、現実的にはその不満の多い作業を受注し延々と作業する日々に甘んじます。

 

そして、日々の作業の中で、「何か別の方法を見出さなければ」と危機感が再燃し‥‥という、同じ繰り返しです。まるでビューティフル・ドリーマーのごとく。

 

当座の安心感と、当座の危機感の、無限ループ。

 

 

いっそのこと、干されるくらいのことがあったほうが、新しい可能性や選択肢を得るきっかけが生まれます。

 

「現在の自分の世界をブッ壊す」のはキツいことですが、自分の経験からも、そう思います。

 

干された屈辱感と挫折と忍耐、干された際の不安、干された状況を打開するための知恵、干された時に生まれる別路線の人脈、干された状態から起死回生への実質的な段取り‥‥など、日々の業務に塩漬けされながら生きるだけでは得られない経験と知的人的財産を獲得できます。

 

 

でもまあ、それも人それぞれです。「干されるのはイヤだ」という感情の中で、どのように行動するかは、その人間の根本が作用するでしょう。

 

干された時、ある人は「これからは、どんなに理不尽なことでも言うことを聞くようにしよう」と過度に従順になるかも知れませんし、ある人は「こんな仕事、辞めてやる!」と感情的にもなるかも知れません。

 

「仕事があるだけ有難い」と物乞いのような気分に自分を貶めて卑屈になることもあれば、「下衆な仕事などこちらからお断りだ」とどんなにイキがっても実際に全く仕事がなければ日々の諸経費を払えずに電気水道ガスも止まることもあるでしょう。

 

じゃあ、どうするんだ。‥‥ということです。

 

あまりにもあっけらかんとした答えで恐縮ですが、「極端な行動に出ずに、表向きは中庸でいく」ことでしょう。全ての可能性を留保し、時と場合によって、使い分けることです。

 

新しい可能性を探って準備することは、今までのことを一切拒絶することとは同義ではありません。同時進行が可能です。

 

「自分を干した状況と人間が憎い」‥‥だなんて、アホ丸出しです。感情に支配されているようでは、新しい可能性をモノにすることなど到底不可能。

 

キモチだけじゃダメなのです。キモチは原動力ですが、エンジン単体だけで車は走るまい?

 

それに、干されたら干されたなりに、新しい人間関係も新しい信頼関係も生まれるものです。捨てる神あれば、拾う神あり。

 

でもまあ、最後は自分が頼りなのは正直なところ‥‥ですけどネ。拾う神も、なんでもかんでも拾ってくれるわけじゃないですから。

 

 

 

冒頭に戻って。

 

待つだけの人生か。色々と動きまわる人生か。

 

人それぞれとしか言いようがないですが、どちらも、その当人の行動に相応の人生が展開されます。

 

消極的な人には、消極的な人生。積極的には人には、積極的な人生。

 

まあ、私はどうせ生まれ出てやがて死ぬのなら、自分の美しいと思うビジョンを、できるだけ美しく表現して映像に結実したいと思いますから、待つだけの人生ではなく、「ソレを可能にすべく」動き回る人生を選択しますネ。

 

 


雑感

作業の標準化を図ろうとして、使用ソフトウェアを統一しよう‥‥というのは、初心者の頃に誰もが考えることです。かつて私も、1990年代後半から2000年代始めまで、そんなことを考えてみたこともありました。

 

でもね。それだと、ガラパゴス化するんですよ。

 

自由にソフトウェアの選択ができなくなります。しかも、ソフトウェアの独自形式のファイルまで共用しようとすると、バージョンやプラグインまで縛りが生まれます。

 

ハイ。閉鎖空間の孤島のできあがり‥‥です。

 

 

 

技術の発展を主体として考えた場合に、ソフトウェアに縛りが生まれ、ソフトウェアが動作するためのハードウェアの縛りが生まれ‥‥と、あまりにも「その考え方がマヌケ」なことに気付いたのは、2000年代中頃の10年以上前のことです。

 

アニメ業界の中だと閉鎖空間ゆえ気づけないことが、色々な映像ジャンルの方々と仕事をした時に、外からアニメ業界を見て、その「ガラパゴスの孤島ぶり」を認識しました。

 

様々な映像ジャンルの仕事で、作業の受け渡しをする時に、お互いの作業者・技術者同士で決めるのは、「どんなファイル形式でやり取りするか」です。

 

もちろん、そのファイル形式は広く世界中で用いられている汎用性の高い形式が選ばれます。

 

画像をフラット化した可逆圧縮のTIFFやPSD、DPX、OpenEXR、QuickTime、MXF‥‥など、用途に合わせて選択されます。あくまで、汎用性が高く、マシン個々の環境依存度が低いファイル形式を選びます。

 

「それじゃあ、細かいレイヤー分けが受け渡しできないじゃんか」

 

‥‥と思う人もいましょうが、その考え方自体がNGです。作業のやり取りをする際に、自分のとっちらかったままのプロジェクトを引き継いで貰える‥‥と思うその考え方がネ。

 

会社間、セクション間の受け渡しには、自分の作業をできるだけシンプルにまとめあげて、できるだけ簡素な状態での受け渡しを考えるのです。それこそが「標準化」の第一歩です。

 

受け渡しに用いられる汎用性・流通性の高いファイル形式に準拠すれば、ソフトウェアもハードウェアも、当該の集団や個人のコスト管理や成長戦略に合わせて、いくらでも自由にチョイスできるわけです。

 

 

 

アニメ業界はさ‥‥、基本的に低くみられてんのよ。ソフトウェアの使い方、ファイルの受け渡しの方法の、素人っぽいそのやり方ゆえに‥‥。

 

一方で、たとえ豊富なプロ技術を内包していようと、その作り方自体に対して「2018年の現代に、1970年代を引きずった非効率的な運用のままなんですか?」と驚かれても、言い返す言葉も見つからないでしょう。どこぞの西陣織フロッピーの話を他人事にしていられない現実はアニメ業界に満載です。

 

ゆえに、コンピュータ運用の素人集団、時代から取り残されたコンピュータ音痴、映像技術音痴たる自身の姿にも気付かず、「馬子にも衣装」「裸の王様」とばかりに、先進技術にラップされた後進技術に甘んじるのです。

 

 

 

イイ大人が無知を指摘されるのって、恥ずかしいことですが、もっと恥ずかしいのは、その無知を年長者ゆえのマウンティングで誤魔化すことです。そして無知を放置することこそ、最大に恥ずかしいことです。

 

無知って、伸びしろでもあるのです。

 

今のアニメ制作従事者に、コンピュータや映像技術の専門知識が備わったら、どんな伸びしろが得られますか? ‥‥それはもう、いろいろな発展や成長が見込めるでしょう。

 

 

 

無知は無知のままで良い。与えられたソフトウェアだけをイジっていれば良い。適当な管理方法を考えるから。‥‥ということに対して、まずは気付いて、腹をたててみても‥‥良いんじゃないすかね。

 

腹をたてた後は、実践です。

 

無知から脱し、ソフトウェアやネットワークを自在に活用し、独自の成功例をどんどん増やしていけば、やがて全体に変化は表れると思います。お歴々の思惑とは裏腹にネ。

 

 

 


線画描きと絵描きと

アニメとはこういうものだ! アニメは本来こうあるべき! ‥‥と言う人とは、新しいアニメーションの技術や運用やビジネスの話をしても、全くの平行線のままで、接点は生まれません。ゆえに、お互いの心情やポリシーに触れずにそっとしておくのが肝要。

 

ただ、全ての人が、「何か一つの価値観に縛られている」わけではないのも事実。

 

アニメーターの中には、線画だけを専門にする人もいれば、キャラの着彩イラストが上手な人もいますし、シーン全体の情景を描ける人もいます。

 

何がそうした「多様性」を決めているのか? ‥‥思うに、当人の根底の意識が色濃く影響しているのでしょう。

 

例えば、作画作業で言えば、作画している当人は、自分自身をどう思っているのか。

 

自分は原画マンだ。

 

こう言う人もいるでしょう。言葉の揚げ足取りをしたいわけではないですが、「あなたは原画だけを作業する原画専門の人ですか」と思ってしまいます。日本の量産アニメ独特の「原画の線画」だけを描く人のように思えていまします。

 

日本のアニメ業界では、「アニメーター」という言葉が、かなり狭い範囲を示す言葉になってしまっていて、「アニメーター=線画オンリー」という暗黙の総意すら感じます。

 

でも、アニメーターって、「何か」を動かす人でしょ? アニメ業界の「アニメーターの定義」は「線画専門」に限定され過ぎて、あまりにも狭義で、発展性に乏しいです。

 

自分は絵描きであり、絵を動かすアニメーターでもある。

 

‥‥との言い方のほうが、自分の「絵を描き、絵を動かす」という技術を要約しているように思います。

 

* *

 

私もかつて、「原画の線画」だけに囚われ、アニメーション技術の根本を喪失していた時期がありました。「線画のことしか見えてない」状態です。

 

でもそれでは、アニメーション映像を全体でイメージすることなどできません。過去の私に限らず、今でも、原画を描いている人は、自分の線画がどういう色で塗られて、どのような情景の色彩かをイメージできる人はあまりいません。大半は線画だけのことしか考えていないのです。

 

線画のレイアウトはできても、明暗のレイウアトには全く無頓着なのは、作画現場の特徴です。

 

線画でカッコいいバランスであっても、色がつくと全く違うバランスになって、意図しない結果になることも多いです。で‥‥さ、そう言う時に線画しか見えてない人は、例えば、「なんでかっこよくならないんだ!一生懸命レイアウトも原画も描いたのに!」とヒステリックに怒りますが、「じゃあ、逆に聞くけど、レイアウトを描いた時にどんな明暗や色彩のレイアウトをイメージしてたの?」と聞くと、「そんなところまでイメージしていない。そんなのは自分の管轄じゃない。線画を描くのがオレの仕事だ」みたいに自己防衛モードに突入します。

 

「そんなところまでイメージしてない」なんて言う人が、「自分がかっこいいと思うイメージ」を「他者が実現してくれる」と思うならば、「あなたは、イメージしているのか、いないのか、はっきりしてください」と言うほかないです。

 

「遠景の山並みは、空に比べて、どんな濃さなの?」と聞いても、「え?自分がそんなこと聞かれるなんて思いもしなかった‥‥」と驚いて、「いや‥‥自分は考えてなかった。美術さん任せで良いと思ってた。」と言う人が大半だと思います。

 

 

自分を「絵描き」としてみた場合、こうした「線画だけ」の意識は、極めて異質です。

 

普通、絵を描く時、線だけで終わらす?

 

‥‥その昔、知り合いの子に絵を描いてあげた時に「色は塗らないの?」と言われて、ハッとしたことがあります。

 

つまり、線画は描いているけど、絵は描いてないのです。自分が「原画工程」の人間であっても、絵の途中段階のところで意識まで止める必要はないでしょう。

 

 

たとえ、背景は美術さんに任せようと、レイアウトを描いている時点で、線画だけしか意識できず、明暗のレイアウトすら全く考えもしない‥‥のは、「そりゃあ、アニメ業界の今のシステムから離れられなくなるよね」と思います。「今度の仕事は、線画以上のことをしてほしい」と言われた時に「ツブシ」が効かないですもんネ。

 

なので、例えば「カラースクリプト」を作業する時には、一般的な原画マンには仕事を振り難いのです。多くの場合、ただの基本色の塗り絵になってしまうから。

 

シーンのコンセプトカラーをイメージして、メインの光の陰影を駆使してテンションをコントロールしたり、アンビエント的に忍ばせる光の演出‥‥などを、線画しか意識していない作業者には依頼できないわけです。

 

でも、それって、「絵描き」としてみれば、とても屈辱的なことじゃん?

 

「線画描き」としては認知されているけど、「絵描き」としては認知されていない。

 

少なくとも、私はそんなのはイヤなんですよネ。必ず誰かに色を塗ってもらわないと絵を完結できない自分‥‥なんてさ。

 

 

でも、線画だけしか意識できないのは、単に「そう意識することしかできない現場だったから」です。人間の可能性を現状で否定するつもりは毛頭ありません

 

おそらく、線画単体を描くだけでなく、全体の色彩を意識することを習慣づけて、コンセプトアートやカラースクリプトの作業をiPad Proや液タブで恒常的に作業するようになれば、多くの人間が「線画専門」の境遇から脱出できるでしょう。もちろん、収入の多様性も生まれましょう。

 

 

「デジタル」〜コンピュータの使い方と可能性を「デジタル原動画」に託すのは、まあ‥‥やりたい人がやれば良いと思います。それこそが「アニメの正常進化」と言うポリシーならば、そう思う人が実践すれば良いです。

 

私は、全く違うポリシーで未来の映像制作を進めようと思います。アニメーターは線画専門である必要などないし、むしろ、アニメーターは絵描きとしても活躍するべきだし、多様な収入の選択肢を得るべきだと思います。‥‥まあ、あくまで、私のビジョン‥‥なので、絶対に同意してくれとは無理強いしませんけど。

 

でもね‥‥、もったいないと思いますよ。どんな人間でも「一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」‥‥なのですから、現状に不平を言いながら自身の能力をダラダラと安ガネで消費するに任せるだけ‥‥なのはネ。

 

 

 


新しい時代の新しい映像技術によるアニメーション制作に至る前には、何本もの大きな河が流れていて、乗り越えられる人間と乗り越えられない人間を分けるだろうと思っています。それは技術的な面も大きいですが、意識、感情として、乗り越えたくない‥‥と思う人も多いでしょう。

 

前回書いたスキームも、河を渡る際に大きく影響してきます。スキームのもたらす利潤が、今まで通りのアニメ業界基準では、河を渡るための船さえ調達が困難です。船をうまく操縦して向こう岸に渡れるかが問われる以前に、渡河できる船そのものを得られるかも、個人や集団で明暗をわけるでしょう。

 

Windowsマシンは安く調達できる‥‥なんて今でも思っている人はいるかも知れません。しかし、安いWindowsマシンは要は安くて性能の低いマシンです。4Kの描き仕事とコンポジット仕事をこなせるCPUとグラフィックそしてM.2のSSDを、BTOで見積もりしようものなら、コンパクト筐体のマシン本体だけ(4Kモニタを含まず)で30〜50万円に軽く到達します。性能の高い構成にすれば、WindowsもMacもお金は同じ。

 

つまり、そうした「高性能な船」を買って、大きく激しく流れる大河を渡った末に得られる「利益」が問われます。高性能な船で激しく流れる河を渡って得られる報酬が、今までの原動仕の単価では、あまりにも採算に合いませんし、作業者たちのモチベーションがあがろうはずもないです。

 

河を渡る前段階でそんな状態では、向こう岸にたどり着いた先こそ本番なのですから、まさに、「是非に及ばず」です。どんな理由であれ、新天地に到達することができなければ、その新天地で店を開いて商売するなんて、できようはずもなし‥‥です。

 

今までの相場はこうだった。現在の単価はこうだ。アニメとはそもそもこういうものだ。アニメのあるべき姿とは‥‥のような話を繰り返すのなら、今までの場所に居続ければ良いです。受注側も発注側もネ。

 

 

ゆえに、「河を渡る必要なんてないじゃん」と言う人がいても当然です。しかし、今いる場所の境遇・待遇が、この先の未来も延々と続くことは、覚悟すべきでしょう。もちろん、「河を渡る」と決意した人にも覚悟は必要です。

 

ただ、「覚悟」の「致し方」は、40〜50代の人間と、20〜30代の人間とでは、大きく変わってきます。

 

「私はもう歳だし、こっち側でいいや」という50代の人間に、20代の人間が意志に関係なく巻き込まれるとしたら、それはもう災難以外のなにものでもないです。しかし、アニメ業界は旧来の技術基盤に深く足をのめり込ませたまま動けないので、若い世代ももろとも、選択の自由なしに、「河のこっち側」に引き止められ続けるような気配は満杯です。

 

一方、50代の人間でも、向こう岸に渡ろうと粛々とミッションをこなしている私のような人間もいますから、50代のなんとない総意=「別に今までのやりかたでいいじゃん」的総意に巻き込まれて同一視されるのは甚だ心外です。50代の人間がおしなべて古い思考しか獲得できないなんて、思われたくもないです。私のひと回り近く年上のベテラン中のベテランでも、20代の固定概念に囚われた人間よりも格段に思考が柔らかい人も多いです。

 

 

まあ、若い人間でも古い考え方をする人間は多いですし、年を喰った人間でも新しい考え方を実践する人間もいます。老若に関係なく、前例のない新しいことにチャレンジする人もおりましょうし、昔どこかで定まった意識にずっと縛られ続ける人もおりましょう。

 

色々な人間がいようと、新旧それぞれの考え方によって、土台となるスキームも変わるし、映像表現の結果物も変わるし、当然、お金も変わります。

 

「河」を渡るか否かは、当人各々の自由です。自分の運命の選択‥‥ですもんネ。

 

 

制作の枠組みも、人の技術も、人の感情も、集団の心理や行動原理も、河を渡るか否かで大きく変わるのが、まさに2020年代の未来といえましょう。

 

 

 



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