ツルツルのminiと。

諸々の経緯により、ツルツルのガラスフィルムを貼ったiPad mini 5。そうこうして描いているうちに、ツルツルな感触にちょっと慣れてきた感もあります。慣れれば、慣れるもんですネ。

 

ただ、画面は狭いので(=miniが売りなのであたりまえですが)、全体を見渡してバランスを取るのは、そこそこやり辛いです。老眼なもので、小さいサイズで小さく描くのは、もう厳しいこともあり。

 

とはいうものの、画面が小さめに感じるのは、13(12.9)インチのiPad Proも同じなので、全体のアタリを「引きサイズ」でとって、細部は寄って描いて、たまにピンチアウト&インで全体を確認しながら‥‥という書き方でなんとかなります。

 

iPad Proだと、何か気負って仕事然として描くような雰囲気を自ら作ってしまいがちですが、iPad miniならハナからガチ仕事の絵は描かないので、逆にいいかも知れません。ひとりブレインストーミングには。

 

意外に、これから活躍しそうな予感のiPad mini 5。

 

ローンが終わるのは2年後どす。

 

 


ネット

ジオシティーズの終了を待つまでもなく、2000年代前半までのいわゆる「お友達リンク」の「バナー」に貼り付けてあるリンクは、ほぼ全滅状態で、「ホームページの過疎化」はかなり進行していた模様です。久々に、リンクをクリックしてみて実感しました。

 

ocn.ne.jp

goo.ne.jp

infoseek.co.jp

nifty.com

 

そして、

 

geocities.co.jp

 

 

多くはまだ健在なドメインですが、なぜか懐かしく感じるのは、

 

twitter.com

 

‥‥のアドレスばかり目に入ってくる日常、そしてやっぱり、何らかの契約変更の際にWebサイトを閉じて、これらのドメインのWebサイトが減っているからでしょうネ。

 

そもそも、プロバイダのオプションサービスでWebサイトのオプションを追加する人自体が、結構珍しくなっているのかも知れません。「バズった」なんて言葉は頻繁に目にしますけど、「プロバイダのホームページがね」なんてセリフは最近とんと聞きません。

 

「プロバイダ」という言葉も久々に書きましたし。

 

あまりにもインターネットが生活に浸透し過ぎて、プロバイダという言葉すらほとんど口にしないようになりました。

 

 

 

とはいえ、ブログもSNSも、Webサイトを全てリプレースするほど機能が充実しているわけではありません。体系化したコンテンツには、体系化できるWebサイトが一番適しています。おやつは決して主食にはなりませんもんネ。

 

ゆえに、今後はあえて、Webサイトを活用する方法も選択肢の1つとして明確に意識しようと思っています。

 

ただねえ‥‥

 

プラットフォームごとのCSSの調整は厄介ですよね。昔みたいに、「パソコン始めました!ホームページ作りました!」みたいになりにくいのは、CSSを自作するハードルが高いからでしょう。

 

まるでプログラム開発のように、定義をしっかり固めた後でないと、本文に取りかかれない‥‥というのは、昔に比べて事前の段取りが格段に増えました。‥‥まあ、それでもいいのかな。昔が雑過ぎた‥‥と思えなくもないですからね。Webコンテンツだって、広義の「プログラム」と言えますもんネ。

 

今やWebを見る手段はいくつもあって、パソコンのモニタ基準だけでレイアウトするだけでなく、スマホやタブレットPC向けにも作る必要があります。このブログはJUGEMが面倒を見てくれるので、私は文章を書くのと画像を貼り付けるだけですが、自作のWebコンテンツはCSSも自作になるので(何らかのテンプレートやプリセットを使わない限り)、以前よりドカンと難易度が上がっています。

 

思うに、WebサイトのコンテンツもWebサーバも、‥‥いや、サーバ全般も、以前のような「素人さん、いらっしゃい」とは180度方向転換して、「わからない奴はイジるな」という昔のパーソナルコンピュータの意識に戻ったような気がします。

 

MacOSX Serverの事実上の撤退が、時代の流れを物語っています。Appleは是が非でも「負けた」とは言いませんが、MacOSX Serverは「みんなのサーバ」的な戦いを仕掛けて、時代の流れに負けたんですよネ。私は初期からのMacOSX Serverの愛用者だったので、現行のmacOS Serverの情けない姿(ファイルサーバもWebサーバも放棄した)は悲しいばかりです。

 

まあでも、JavaScriptやPHPやCSSに「免許制度」が導入されたわけじゃなし。自宅ではサーバをLinuxに切り替えるなどして、動作検証をおこない、レンタルサーバにデータをアップすればよろしいです。

 

時代の変化に辟易したら、時代の中で商売することはできなくなりますもんネ。時代特有の使えない部分を嘆くのではなく、時代がもつ使える部分を取り入れて、ものつくりを進めていけば良いですネ。

 

「ネット」とひとくちに言っても、使い方は様々。

 

どうせ使うなら、「金脈」扱いされて課金で徴収される側ばかりではなく、自分の事業のプラス要素として活用したいですネ。

 

 

 

ちなみに、Yahooジオシティーズはネット上からは消滅しましたが、Yahooブログは今年の12月19日まで公開が続くようです。

 

ジオシティーズは「黒歴史」なんて言われますが、それは特にWebページのデザインの配色が「暴力的なまでに素人芸」だった原因もあるでしょう。改めて旧知のページを見ると、息を呑むほど、色がな。

 

なぜ、背景色を黒にして、リンクカラー(リンクされた文字)を黄色にするのか。バナーの背景と文字で補色をガンガンぶつけてくるセンスもすごい。

 

*配色もすごいですが、全部リンクが死んでいるという現状もすごいです。ゴーストタウン、忘れられた集落‥‥ですネ。

 

ジオシティーズはテンプレートがあったわけではなく、思い思いのソフトウェアでWebコンテンツを作ってアップしていたので、配色は「無法地帯」でした。アラインやインデントって何?‥‥っていうくらい、文字の配列も滅茶苦茶でしたし。

 

Yahooブログは、デザイナーさんがテンプレートを作ってくれていますから、全然黒歴史ではないです。色彩のプロなら絶対やらないような配色もないですしネ。

 

でも、Yahooブログも今年の末には閉じちゃうんだなあ‥‥。

 

まあ、2020年代の新しい風を帆に受けて、新たな出発!‥‥ですネ。

 

 


確かに終わった。

2019年4月1日0時から、5分くらい過ぎたあたりで、確かにジオシティーズのページは表示されなくなりましたネ。

 

 

時代の終わりを見届けました。

 

 


ジオシティーズ。

あと数時間でジオシティーズが見れなくなる‥‥はずです。予告通りならば。

 

思えば、運営者サイドが用意したスタイルシートで装飾して、ユーザが書くのは文章のみ‥‥とか、数行書けば壮絶な伝播力で拡散していく‥‥とか、ブログやツイッターのような手軽な手段ではなく、ジオシオティーズで皆が「ホームページ」を開いた頃は、一生懸命HTMLの解説本を読んで、ローカルでWebのコンテンツを組み立てて、サーバにデータを転送して‥‥と、変な言い方ですが「手作り感」が凄かったですよネ。

 

コンピュータが苦手とかツベコベ言う間もなく、「ホームページ」を開きたいのなら、ホームページビルダーなり、クラリスホームページなり、アドビ Page Mill(スペル合ってる?)なりで、マニュアル本を読みながら、男性女性年齢の区別なく、皆で「ホームページ」を自作していたんですよネ。

 

本当に、何もかも、皆懐かしい。(沖田さんの感じで)

 

 

中には、空になったトップページだけの、名残だけのジオシティーズアカウントもあり、20年前を思い出せるのは、<title>タグに囲まれた文字列だけ‥‥というのもあります。

 

たとえ、数行の文字だけになったトップページでも、20年経った今もアクセスできる‥‥というのは、運営者側の尽力の賜物でしょう。

 

ずっと20年間、アカウントが在り続ける‥‥という。

 

無料でWebサーバ公開ディレクトリを提供してくれたジオシティーズには感謝でいっぱいです。

 

20年‥‥、20年も経ったのか‥‥。

 

ジオシティーズとともに、20年前の若い頃の思い出も消えていくようで、やっぱり寂しいですネ。

 

 


平成最後の年度末

平成最後の年度末ですネ。明日はどんな年号が発表されるのか、興味深いです。

 

同時に、YahooジオシティーズのWebもブログも今日で終了とのことです。前世紀から続いたジオシティーズのWebページ(ホームページ)の表示が本日をもって終了となり、2000年代初頭を盛り上げた「ホームページ」文化の終焉の象徴が、今日この日です。

 

 

 

私は数年前に、ジオシティーズのジオログから、このジュゲムのブログに移行しました。

 

日時を確認してみると、2013年の1月。

 

 

 

改めて見ると、凄い記事の件数です。‥‥2000件を突破。

 

そして下書きの数も、結構な件数です。

 

下書きの数は、忖度の数。書けないこともいっぱいあるからのぉ。

 

「あんた、それでも忖度してたんか」と言われそうですが、忖度してますヨ。言いにくいニュアンスをややハッキリめに言うことはありますけどネ。

 

バグがある‥‥とか、言葉の使いかたが変だ‥‥とか、練習しもしないで上達するはずもない‥‥とかは実際の事象なので、まさにブ「ログ」的に書き記してます。

 

 

 

ジオシティーズ最後の日。

 

ジオシティーズの消滅で、何が一番ショックかというと、モデラーの方々の作品の数々が見れなくなることです。

 

ジオシティーズに結構多いんですよね。プラモデルの制作日記的なコンテンツが。

 

そのほか、ジオシティーズでは忘れられない出会いもありましたし、消滅して地上から消えると思うと、切ない気持ちにもなります。しかし、現実世界においても、私の祖父の家は今はもうないですし、私が小中高時代を過ごした国営の宿舎もやがて取り壊されるでしょうから、何もかもが永遠に残るなんてないのだと、「新しい風に心を洗って」明日から頑張ります。

 

あとちょっとで、iPad miniもくるしの。

 

それに、私はWebの可能性は大いにあると思っています。「ホームページ」の次は「ブログ」で今は「ツイッター」とか言う人もいますが、手作りの料理とレンジでチンの料理とカップラーメンを比べるようなもので、なんでもカップ麺で食事を済ますわけにもいくまい。

 

「やってTRY」よろしく、自分でゼロからオムレツ1つ、チャーハン1つ作れないのでは、未来が不安。まあ、スマホだけがネットの全てのような「ネットは受け身」の仕事の人々ならともかく、これからネットの映像配信も含め、ネットの情報社会の中で、絵と映像で商売して生きていこうと思う人間が、ツイッターしか手段を持てないのは不利です。選択肢は複数あった方が良いです。

 

ネットを色々活用してこそ、未来の映像と絵の商売。ですネ。

 

 

 


高画質

1992年東京のハイビジョン映像がYouTubeで観れます。

 

 

映像が鮮明なのは、純粋に良きことです。不鮮明よりは鮮明なほうが、色眼鏡を挟むことなく、当時の雰囲気を思い出せます。

 

働くお兄さんやおじさんは、2019年現在と見分けがつかないことも多いですが、女性のファッション(メイクも含め)で1990年前後だと言うのが判りますネ。ほとんどの女性の髪の色が黒髪なのも、この時代までの大きな特徴だ‥‥というコメントをどこかで読んで、なるほどと思いました。

 

私が、絵であっても、東洋人のキャラは黒髪が好き‥‥というのは、この時代を0〜20代と生きた強い影響かも知れないな‥‥と改めて認識したり。

 

 

映像には、時代ごとの技術に起因する「何か、勿体振った」雰囲気があって、「あたかも当時の情景が、その当時の映像記録技術の品質上のディテールであったかように、皆が錯覚」しがちです。映像技術自体は故意に色付けしているわけではないんですけどネ。

 

第二次世界大戦における太平洋戦域の戦争映像も、もしハイビジョンで残されていたら、「昔の出来事」ではなく、まるで昨日の出来事にように鮮明でリアルに再生されるでしょう。

 

もし安土桃山時代にハイビジョンカメラや4K60p撮影のiPhoneがあったら、信長も秀吉も家康も、同じように淡々と高画質で映像記録されていたんだと思います。リアルに生きていたひとりの人間として、アレキサンダー大王も卑弥呼も仏陀も、間近で見るかのごとく、ハイビジョンや4K映像で体験できたでしょうネ。

 

まあ、映像機器が発明される時代以前はともかく、現代においては、かつてその世界に生きていた人物や出来事が現実だった‥‥ということをできるだけ「現実味」をもって未来にも体感するには、やはり映像のクオリティは高ければ高いほど有効でしょう。

 

 

ではアニメはどうか?‥‥と考えると、あまりにもシンプルですが、「作風によりけり」ですね。

 

アニメは現実の映像ではないので、作風次第で如何様にでもコントロールできましょう。

 

ただ、前にもブログに書いたように、あまりにも低解像度(例えばプレステ1のムービーは320x240 15fps)なのは、後々に鑑賞が辛くなるので、2020年代は最低でも2Kドットバドットで作るのが標準になるとは思います。

 

私は絵を描くがゆえに、線画に深く関わるので、4Kの生々しい描線は私の考える表現に適しています。今後、4KHDRテレビがもっと普及して、作画の作業環境も4Kプレビューが当たり前になれば、線画と解像度の密接な相互関係をリアルに意識できるようになります。

 

まあ、絵の作風・画風の幅は、極めて幅広いので、よほどエッジがぼやけて古さが目立つようでなければ、2K以上で適宜品質を決定すれば良いと思います。

 

 

 

30pとはいえ、1992年のハイビジョン映像が残っているのは、何か嬉しい気がします。D1(DVD)サイズの映像は、やっぱり不鮮明で薄皮をかぶせたような映像ですもんネ。

 

現在、iPhoneの4K60pで我が子を撮っている親御さんが、子供が成人して仕事について家庭を築いた後に、鮮明な4K60pで幼い当時の映像を見た時、どんなキモチになるんでしょうネ。

 

私が幼少の頃にも、願わくばハイビジョンがあれば‥‥と思うこともありますが、まあ、それはいいっこなしです。昔は昔で、良い部分も沢山ありましたし。

 

 


言葉のデジタル

経験をもとでに‥‥というのは、業界外部だけでなく、内部にも言えることです。

 

「デジタル」

 

コンピュータを作画や彩色の業務に使うだけでなく、プログラムやネットワーク関連まで実践して経験を積むと、「デジタル」を「デジタル=コンピュータやネットワーク関連の総称」というニュアンスでは使わなくなってきます。なぜかと言うと、不適切で曖昧で要領を得ずカッコ悪いからです。

 

デジタルソフト

デジタル教育

デジタル産業

 

最近目にした、不思議な「デジタルほにゃらら」です。

 

デジタルソフトって、何なんだろう‥‥。デジタル教育とはどんな教育の中身なのかな‥‥。デジタル産業って、なんとなく言わんとしているニュアンスはわかるけど、曖昧過ぎて意味にブレ幅が多過ぎます。

 

門外漢の人々の見当違いの発言を、業界内部の人々が指摘するなら、自分たちの「デジタル」の言葉の使い方にも、もうちょっと慎重かつデリケートになるべきだと思うんですよネ。

 

 

「デジタル教育」。‥‥バイナリーディジットの話から始めて、画像のデータ構造や、TCP/IPの仕組みなど、デジタルのデータがどのように扱われるかを学ぶ場ではなさそう‥‥ですよネ。おそらく、昨今のアニメ制作現場のコンピュータの使いかた・使われ方を、TIPSレベルで解説する内容ではないかと推測します。

 

TIPSだとしても、新人にShellの使い方を指南し‥‥なんてことだったら頼もしいですけど、そうではあるまい。

 

「デジタルソフト」も謎の多い言葉です。「デジタル」に「ソフト」をくっつけて、え〜と‥‥この場合の「デジタル」と「ソフト(ウェア)」は何を指して意味しているのかな‥‥。正直、意図がよくわかりません。

 

「ソフトウェア」という言葉で十分事足りると思いますが、なぜ「デジタルソフト」という言葉を捻り出したのか、業界の「デジタル」の言葉の使い方を象徴しています。

 

 

いや‥‥もちろん、「デジタル」と言う言葉をそんなに厳密に取り扱って喋っているのではないのは、わかっているのですよ。なかば、「スラング」ですよネ。

 

であるなら、スラングはスラングとして認識して、正式な場面で連呼したり記述するのは避けないとあかんですよネ。日々の軽い会話とは分けて扱うのが良いと思います。

 

うちの坊主がさぁ‥‥最近生意気になってきてさぁ‥‥

 

とか会話している時、聞いている人は

 

え? ご自宅ってお寺さんでしたっけ?

 

とか、

 

早くも息子さんは7歳の若さでご出家されたのですか?

 

‥‥とか思わないですよネ。坊主といえば、おそらく幼い男の子のお子さんを指すのは、誰でもわかること。

 

でも、そのスラングのまま、例えばニュースで

 

昨日16時ごろ、7歳の坊主が行方不明になりましたが、無事保護されました

 

なんて言わないじゃん。ギャグですよネ。マルコメ味噌や一休さんのような、本当に小さな坊主姿の男の子だったら、笑いますけど。

 

 

 

業界団体や会社組織が、デジタルデジタルと安易に連呼してたら、そりゃあ皆も、デジタルという言葉を安易に使い始めますよネ。

 

私も以前は「デジタル」という言葉を安易に使っていた時期がありますが、最近は真の意味で「デジタル」という言葉が適している場合のみ使うように心がけています。コンピュータ=デジタルなんていう使い方はしません。

 

「デジタル」と言う言葉には罪はありません。使う人間がルーズなだけです。

 

日常の中でつい口をついて出てくる「デジタル」まで刈り取ろうということではなく、人目に晒されて議論の対象になるような場面では、慎重に「デジタル」は扱ったほうが良いと思います。

 

 

このくらい、愛称としてくだけた「デジ」の使い方なら、可愛いんですけどネ。ちなみにこのロートの「デジアイ」は前から愛用しています。限りなく「ハツネ嬢」を想起させるデザインが何とも。‥‥とはいえ、「DX7のグリーン」だけでは商標登録は難しいでしょうしネ。

 


体験をもとでに

今は、ネットを検索すれば色々な情報を得られるので、ともすれば、疑似体験とばかりに、ネットで見聞きしただけで体験したと錯覚する場合もありましょう。ツイッターの文言を見ていると、匿名がほとんどということもあり、「本当に経験した上で言ってるのかな?」と怪しい論調も散見されます。

 

経験していない部分を仮定や推測で埋めて、さらにその上に論調を重ねて、同じく隙間には推測で埋めて‥‥なんて繰り返していると、巨大な耐震偽装建築が出来上がります。そして、ほんの一蹴り二蹴りで倒壊します。

 

知らない部分は、知る機会に出会えるまで、放っておけば良いのにネ。構造物のない空っぽの上に、さらに積み上げようとするから無理が出るのでしょう。

 

ちなみに私は、

 

初めて貰った動画作業料金が、月に50円玉1つ。(月末に研修で一枚だけ本番動画だったので)

拘束で詰めていた会社が倒産

同じ部屋で作業していた演出さんの急死

内容に拘るあまり数が上げられなくなって稼げなくなって、ライフライン全部停止

ゆえに心が闇落ちした時代

フリーランスのアニメーター

会社に所属して会社員

完全出来高(フリーランス)

月極めの拘束料金(フリーランス)

月給(会社所属)

作画とビジュアルエフェクトや撮影の作業を兼任

作画監督の経験

撮影監督の経験

実写映画にコンポジットで参加

実写映画のスチルカメラマンとして参加

Windowsがメインマシンだった時期

MacOS9の終焉を経験

プログラムを覚えて、自作のソフトを作業に用いる

Mac/Winを50台近く所有(中古がほとんど)していた時期(=やり過ぎ)

バイクを5台所有(中古車がほとんど)していた時期(=やり過ぎ)

雨上がりの夜中にバイクで100km/hで転倒、アスファルトから火花が出るのを確認

オフ車で土手をヒルダウンしていた時にいきなり大きなゴツ石を敷き詰めたエリアに突入し転倒&全身打撲

バイクの転倒が原因で今でも左肩の古傷がシクシク痛む

初めて買った自動車を大破

最愛の猫との死別

etc, etc....

 

‥‥まだ色々あったように思うけど、いっぱいあり過ぎて直ぐには思い出せません。

 

‥‥というような体験をもとに、このブログは書かれております。アニメーターとコンポジターの経験、フリーランスと会社員の経験、アニメと実写の経験、スタッフや会社の死‥‥など、全て実体験に基づくもので、定位置しか知らずに想像で書いているわけではないです。

 

なので、美術さんや色彩さんや制作さんのことは関わった部分でしか書けませんし、国家公務員の人々のことも(父母がそうでした)実感が全くありませんので書けません。

 

わからない部分を想像で埋めて、わかったことにするのは、まあ、軽率ですよネ。すぐにボロが出るし。

 

完全出来高でフリーランスの経験のない人間が、さも何もかもわかったようにフリーランスのことを語るのはイラっとくる一方で、会社組織に属したことのない人間が、さも「楽してんだろう」みたいに知ったように語るのもイラっときます。知らないんだったら、知らないなりに、一歩引いて語れば良いのにネ。

 

経験しなければ一切喋っちゃいけないなんてことはないと思います。ただ、「これは推測や仮定ですが」というキャプションは必要でしょうね。

 

 

 

アニメの現場を改善したい‥‥というような志を、現場外部の方が抱いてくれるのは嬉しくもありますが、一方で現場の内情を肌身で判るには相当時間がかかるだろうとは思います。

 

アニメ制作現場はさ。‥‥工場とは全く違う性質を持つので、「労働者」という言葉のイメージとは一致しにくい側面を持ちます。

 

Cut 1を100カット、Cut 2を50カット、Cut 3を200カット、それぞれ受注して生産!!

 

‥‥なんて、ありえないじゃないですか。そんなアホな、ですよネ。

 

丸兼用でもない限り、1カットごと全部違う内容をゼロから作って最後まで仕上げるのが、アニメ制作各工程のスタッフの仕事です。全然、工場型じゃないです。

 

「カット156、2つ追加入りました〜!」

 

「あいよ、お後、156、2カット!」

 

‥‥みたいな飲食店のメニューとも違いますわな。

 

 

 

アニメ雑誌の古くからの影響だか、発祥はわかりませんが、「アニメーター」をアニメ制作のスターのように扱う傾向も今でもありますよネ。「アニメーター信仰」ともいうべきか。

 

こうした傾向、原画や作監をクリエイター扱いする一方で、動画や彩色を軽んじる風潮は、現場を知らないファン層には相応にあるのかもしれません。まあ、素人さんゆえに、現場を知っているわけがないので、しょうがないといえばしょうがない。

 

私は現在、自分の描いた線画がそのまま彩色されて動いてコンポジットされる仕組みの、新しい技術でアニメを作る毎日ですが、ゆえに、自分の線の隅々まで色彩設計さんに委ねています。つまり、線画の至らない部分〜変な言い方ですが、「線画の恥ずかしい部分」まで見透かしてもらった上で、色彩を委ねているわけです。

 

作業中の作品では、ものすごく複雑なデザインのメカというかキャラというかモンスターが出てきますが、それはもう色彩設計さん(彩色も兼任)のクリエイティブ能力だけが頼みです。私はあまりの線の多さ・複雑さに描いてて目が虚ろになるばかりで(自分でデザインしたので文句は言えない)、色彩設計さんの色彩感覚にすがって甘えてばかりです。

 

AIがらみの記事で「ペイントはクリエイティブではない」的な論調も以前見かけましたが、何を言うのか‥‥。実際にやったことのない人間が、クリエイティブか否かを判断するという、ここでもまた「想像に想像を重ねる」愚行が再演されます。

 

頼りになる色彩設計さん・彩色スタッフがどれだけ貴重か、現場を知らない人にはイメージできないのです。頼りになり過ぎて、甘え過ぎる傾向すらあると言うのにネ‥‥。実際の線画と状況を前にして、頭の回転の速さや臨機応変の対応能力は、まさにクリエイティブそのものでしょ。修羅場の場数ゆえに、度胸も座っていますしネ。

 

AIは確かに期待大です。しかしその期待とは、作業者の心強いアシストとなる期待です。例えば、AIにまずやらせて、うまくいってない部分やデリケートな部分を人間が修正するような、人と忠犬みたいな関係は大いにアリでしょう。

 

作業の実際を知らないで、想像だけでAIだ自動中割りだと宣っても、空回りするだけです。

 

 

 

経験を大いに活用すべきで、未経験の部分は謙虚さが必要です。

 

冒頭にも書いたように、ネットでの検索文書や画像映像が、いつしか疑似体験となってすり替わり、未経験の部分をあたかも経験して知っているかのように錯覚するのは危険ですよネ。

 

私は4Kに関して、2014年くらいから取り組み始めたので、線の詳細感や作業のポイントをそれなりに知っています。しかし、HDRに関しては、去年から「体験ラッシュ」で、知らなかったことをどんどん知り得て更新する毎日です。

 

PQ1000なんて、今までのsRGB/Rec.709のアニメの経験しかなければ、頭で理屈を理解できたとしても、実践するのとは大違いです。暗部と明部のコントロールは超難しいですヨ。例えば、光のフレアの扱いは、今までの定番技法は一旦忘れて、ゼロから考えすのを余儀なくされます。色も暴れるしね‥‥。

 

ですから、4K時代のアニメも、まずは自分らで4KHDRで作ってみないと何も感触は得られないし、ゆえに中身のある議論も難しいです。未経験者が集って想像だけで話すことの無意味さは、お判りでしょう。

 

思うに、実際に現場での作業に関わってきた人は、4Kにも慎重な物言いになります。過去の現場体験が、未知の体験にも活かされ、さも知っているようには振る舞わない「免疫」が出来ているからです。

 

一方で、実際に現場での経験がない人が、なぜかフィルム時代を引き合いに出したり、何一つ描いてもいないのに想像だけで「4Kなんて無理だ」とか言っちゃうんですよネ。評論家ぶっても、知識に限界はありましょう。

 

 

 

厳しい体験は、買ってでもしろ!‥‥なんて言いますが、買うまでしなくても良いですけど、まあ、後に活きるのは確かです。

 

知らないことは恥ずべきではなく、むしろ伸びしろとして捉えるべきです。

 

知らないことを知っているように振舞っては、学びの機会を逸し続けることにもなりましょう。

 

「え、うそ! そんなの知らなかったよ! こうやればできるのか」でいいじゃんか。実体験をもとでにして、先に進みましょう。

 

 

 

 


プログラム教育の小学校義務化

‥‥というのを、今日初めて知りました。へー。

 

私は常日頃から、このブログでも、「これだけコンピュータに囲まれて、コンピュータまみれなら、プログラムは絶対に覚えた方が良い」と書いてきましたが、小学校での学習が義務化されるとは正直驚きです。

 

何を教えるんだろか? ‥‥多くの大人たちが「覚えようとしない」物事を、どうやって子供らに教えて「必要なものだ」と理解させるのか、その辺は興味があります。

 

 

 

プログラムは「プログラム言語」とも呼ばれるように、「言語」の1つとも言えます。

 

言語を理解し、読み書きできる。つまり、プログラム言語の読み書きは、コンピュータが深く浸透した「現代社会」の「識字率」を左右すると言っても過言ではないです。

 

世界の識字率の分布図

 

将来の日本の大人=現代の子供たちの「現代&未来社会の識字率」をアップさせるために、子供の頃からプログラムをごく身近なものとするのは、理にかなっています。

 

明治大正、そして昭和の頃まで、親が子に言い聞かせたセリフで、「学をもたない人間は貧しくなる」というのがありました。「自分の時代はしょうがなくても、子供には高校、そして大学まで行かせたい。貧乏だからこそ、そこから抜け出すためにも、学が必要だ」というくだりが、昭和のテレビドラマや漫画の「家庭の描写」でありました。

 

学校でトップの成績の生徒が、家庭の経済事情により、中学卒業と同時に東京へ集団就職‥‥という描写は、戦後昭和の「泣けるエピソード」として語られました。

 

学をもたないと何がダメなのか‥‥と言えば、「頭のいい奴ら」に簡単に騙されて、容易に搾取される側に回るから‥‥というのもありましたネ。健常人なら誰でもできる仕事にしかありつけずに、安く買い叩かれ悔し涙を流す‥‥という描写も、昭和の漫画にはそれなりに多かったです。

 

 

現代は一見、識字率もほぼ100%で、誰もが学をもっているように見えます。しかし、こと、プログラム言語になると、そうはいきません。

 

アニメの仕事でも、「その程度の雑事なら、スクリプトをちゃちゃっと作って、ちゃちゃっと済ませちゃえば」なんて言えるのは、プログラムを覚えた少数派で、多くの人はどこかの誰かが作ってくれたフリーソフトに頼ったり、最悪の場合は手作業で長い時間をかけて処理します。

 

とりあえず空のフォルダを、カット番号 1から300まで作って‥‥なんていう作業を、手作業でやろうものなら、地獄です。地道にフォルダを新規作成>フォルダ名をカット番号でリネーム‥‥を繰り返すなんて、どんなに苦労してやり遂げても何の評価も得られないどころか、時間の浪費でマイナスコストですらあります。

 

プログラムを覚えれば、スクリプトを2〜3分で書いて、一気に処理できます。

 

tell application "Finder"

    set fol to make new folder at desktop

    repeat with i from 1000 to 1300

        make new folder at fol with properties {name:(characters 2 thru -1 of (i as Unicode text)) as Unicode text}

    end repeat

end tell

 

*300個のフォルダを001〜300まで作るのは、数秒で処理終了。「変更日」を見れば、処理が一瞬なのがわかります。Apple Scriptは処理が遅いので300フォルダだと2秒くらいかかりますが、他の言語なら1秒以下でしょうネ。

*あ、しまった。つい、000から始めてもうた。‥‥ので、301個のフォルダですネ。

 

たった6行のスクリプトがかけないばかりに、5分もかからず終わる作業を、30分も1時間もかけて疲労まで引き受けて作業することになります。

 

私がコンピュータを触って仕事を始めたのは28歳の頃で、その1年後くらいにプログラムを覚え始めました。決して早いスタートではなかったですが、まだ頭の柔軟性と体力はあった時期なので、覚えられたのです。「そのうちに覚えよう」なんて思ってたら、どんどん覚えられないカラダになってしまいますヨ。

 

 

 

なぜ、教育の現場が、子供たちへのプログラムの授業を必須としたのか、特に検索して調べていないので、真意はわかりませんが、まあ、普通に考えて、「使わせてもらっている受け身のコンピュータ」ではなく、「どんど使いまくる攻めのコンピュータ」のほうが、社会の趨勢から鑑みて妥当ですよネ。

 

今以上に、日本が弱くなっても悲しいですし。

 

子供の頃にプログラムを覚えられる(カジる程度でも)のは、学習に対する身体能力から考えても有効でしょうし。

 

もしかすると、旧世代と新世代を分ける、新たにまた1つ大きな分岐点が生まれるのかも知れませんネ。

 

 


誰でもとは誰

私はこのブログで、コンピュータを積極的に活用すれば、飛躍的に効率が高まる‥‥のような話を書きますが、じゃあ、コンピュータを導入すれば、どこでも誰でも高効率を実現できるか?‥‥と言えば、全く違います。

 

高性能なレースマシンにまたがってコースを走ったからと言って、誰でもグランプリの表彰台に上れるかと言えば、そんな簡単なことではないのはわかりますよネ。おそらく、素人がレースマシンにまたがって不用意に(たとえば原付バイクのように)アクセルを開ければ、フロントタイヤが浮き上がってパニックになって制御不能となり、コースを外れて壁に激突して大破です。

 

そして出てくる言葉はコレ。「レーサーバイクを買えば、誰でも速く走れるって言ってたじゃねーか!」とクレイマー。

 

速く走れるのは間違いないですが、「誰でも」ではないです。マシンのパワーを知っている人ほど、「誰でもできる」なんて口が裂けても言わんですヨ。だって、市販のスクーターのように大体誰でも扱えるようには、ハイパワーレースマシンは設計製造されていませんもんネ。

 

作画でコンピュータを使うのも似たようなものです。コンピュータをプロの作画作業で使うとなると、「誰でも」とはいきません。

 

 

 

作画でキャリアを積んだ人は、紙と鉛筆などなくても、頭の中で原画を描いて、同じく、頭の中でシートもつけられますよネ。

 

まさか、紙に描いてみないとわからない、タイムシートに番号をつけてみないとわからない‥‥なんてことはあるまい。新人ならともかく、中堅以降なら頭の中だけで組み立てられるはずです。

 

同じく、コンピュータで絵を動かすには、頭の中だけで、どこにどんなキーフレームを打って、どんなイーズにして、どんなエフェクトをかけるかまで、既に見えているくらいの能力は必要です。自分の手足同然に、自分の身体の内部にコンピュータの性質や挙動を一体化させるレベルまで、一心同体となる習熟が必須です。

 

紙で作画をしていた人が、「デジタル作画」ならまだ馴染みやすいとは思いますが、コンピュータの各種エフェクトやキーフレームで絵を動かすとなると、別次元のスキルが必要になります。覚えることは山ほどあります。

 

しかし、その山ほど覚えた報酬として、新たなアプローチをいくつも得られます。

 

 

 

コンピュータはとかく「うまい話」のネタになりがちです。「こんなに簡単に出来た!」なんて言うのは、もう20年以上前からの常套句です。

 

しかし残念ながら、コンピュータは、誰でも達人に仕立て上げる「都合の良すぎる」ソリューションではないです。

 

どんなに高い筆記具を買っても、それだけではプロにはなれないですよネ。コンピュータも全く同じです。

 

私はソフトウェアメーカーのセールスマンではないので、「誰でも出来ますよ」なんて言えません。

 

ただ、既に何らかの道具によって「出来ている人」には、「うまく馴染めれば、もっと出来るようになる」とは言えます。

 

 

 

コンピュータはさ‥‥。自分の能力を拡張してくれるものであって、ゼロを100にしてくれるものではないです。

 

「いや違う! プリセットやテンプレートを使えば、俺にだって出来る!」とか言うのは、ギャグ狙いですよネ。誰かの作ったプリセットやテンプレートを使わないと出来ない時点で、もはや自分の能力とは言えませんもんネ。

 

紙と鉛筆の経験は無駄にならない‥‥と以前書いた記憶がありますが、それは紙と鉛筆で能力が「100」あるところに、コンピュータで数倍に拡張できるからです。

 

自分の技術や能力から逃げ続けていると、いつまでたっても、技術や能力は自分に味方してくれません。コンピュータの各種プリセットでごまかしても、やがて化けの皮は剥がれます。

 

自分の技術や能力と向き合って、向上に努めれば、技術や能力は心強い味方になりますし、コンピュータによってさらにパワーアップも可能となります。

 

 



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