思い込みと思いやり

たぶん、顔って、性格で変わります。性格って言っても、7歳頃に確定する本人のルーツではなくて、後天的な後付けの性格。

 

以前に「非モテ防止三原則」を他の三原則をもじって書きましたが、ものごとを卑屈に考える習慣の人と、好感をもってポジティブにものごとを捉える人では、マンガ風に描くと、以下のように「パーツは同じでも、形状と配置が変わる」と思うのです。

 

 

顔の輪郭と耳と鼻と髪はコピペです。

 

目と眉と口、そして頭と胴の位置関係を変えてあります。

 

ネガティブな左の絵は、うがった視線、人を直視しないように半目、唇のフチだけ笑っている冷笑、怪訝な表情ゆえの目の下のシワ、お伺いを立てるような下僕っぽいポーズ‥‥が特徴です。

 

マンガ絵って、わかりやすくてイイね。

 

マンガやアニメの絵が示すように、キャラクターの性格付けで、顔の中身は大きく変わるのです。

 

どんなに目がシジミ目でも、肯定的・ポジティブな感情ならば、半目にはならず、小さいなりに目がパッチリします。

 

日頃、奥底に抱えている感情が顔に出て、まるで形状記憶のように顔つきが変わるのです。

 

 

 

何も、自己啓発みたいに、不自然にポジティブになって、目を怖いくらいに見開くべきだ‥‥なんて話ではないです。

 

単純に、当人のその時の状態が表情に表れる‥‥というだけです。だからこそ、作品において、キャラの表情で演技や演出もできるんだし。

 

影のある表情と、卑屈な表情はちゃいますしネ。

 

 

 

思い込んでる表情と、思いやってる表情は、やはり違います。

 

以前聞いた話ですが、いきなり男性から告白された際に、「‥‥‥なんで?」と聞き返したら、男はしどろもどろになってしまったらしいです。

 

男性は「心を込めて」告白すれば、マンガやアニメやゲームみたいな展開になると思ってたんでしょうが、話したこともない人間からいきなり「好きです」なんて言われた女性は、

 

話したこともないのに、なぜ、私を好きになれるの? 私のどこの何を好きになったの? 外見だけ?

 

‥‥のように感じるでしょう。

 

思い込みと思いやりは、違うんですよネ。

 

相手とのコミュニケーションを伴わない「心を込めて」は「思い込み」なのです。

 

思い込みは自分勝手。

 

思いやりは他人思い。

 

「いや。俺だって、こんなにも君を思ってる。君のことしか考えてない! こんなに一途で純な俺と付き合って欲しい!」とか、それが自分勝手なのです。

 

「思いやり」「他人思い」の特徴は、見返りがなくても全く構わないことです。

 

見返りを計算している=付き合ってキスしていつかセックスする‥‥なんて心の中で打算しているのなら、思いやりではなく思い込みなんすヨ。見返り要求は、結構簡単に相手にバレるものです。

 

お互いに身を預け合って、未来の運命も預け合い、お互いに対する自己犠牲が伴うことを、全く認識できずに、男の打算ばかり打ち出されては、女性側も引くだろうに。

 

心の底を打ち明け合って共感し合う‥‥なんて、生涯無二の親友の関係性ですよネ。親友になるプロセスをすっ飛ばして、恋人になってほしい‥‥と言われたって‥‥です。

 

打算の状態も、表情に出ますよネ。

 

 

 

やるせない気持ちを抱いている時は、やるせない表情になりがちですし、不信感と怨念を抱いている時は怖い表情になりますし、表情は簡単にコントロールできるものではないですよネ。当人の感情は境遇や環境から強い影響を受けますから、キモチだけで何とかなる問題でもありません。

 

ただ、どんな理由であれ、表情は感情が表れますから、恋愛云々に限らず、日々の生活や仕事を、自分の中だけでもポジティブに受け取りなおす、自分だけの方法論は必要かなと思います。

 

コロナでキモチが塞ぐこともありますが(NABが中止になった!)、何はなくても、自分のキモチは資本です。卑屈に物事を考えないようにせねば‥‥と、自分自身にも言い聞かせております。

 

 

 

 


大地の記憶

アニメーターで一人暮らしを始めた頃(1987年前後)は、西武池袋線沿線で生活していましたが、数年後に中央線沿線に引越して、自転車・バイクで制作会社に行き来する生活となりました。

 

小金井公園にもいくようになって、「くすの樹」という喫茶店でたまにくつろぐこともありました。洋館のような、ログハウスのような、雰囲気のあるお店で、私が好きだったのは、アイスクリームに熱々のエスプレッソを振りかけるアイスコーヒーフロートでした。

 

去年の4月に閉店し、40年の歴史を閉じた「くすの樹」でしたが、最近、五日市街道のくすの樹の前を通ったら、すっかり更地になっていました。

 

日常ではよくあることでしょう。古い店舗が消えて、新しい何かに建て替わることなど‥‥は。

 

しかし、わたし的には、何だか、すごくショックでした。実際に更地となった光景を見ると、自分の過去の一部が消失したみたいで、くすの樹で過ごした時間=思い出がもう2度と戻らない現実をはっきりと再認識させられる思いです。

 

過ぎた時間が戻らないのは、当然の事としても、過去をトレースすることもできなくなり、やがて、そこに雰囲気のある喫茶店が存在したことも忘れ去られるのでしょう。50年も経てば、誰も覚えていなくなるでしょう。

 

でも、それが世というものなんでしょうね。

 

だって、私は今いる場所に、以前何が存在したのか、知りませんもん。

 

くすの樹が営業開始する40年前よりも以前、そこに何が存在したかも知らないのですから。

 

 

 

誰も住まなくなった空家。廃屋のように痛んで、人の気配は全く存在しません。やがて取り壊されて、何か新しい建物ができて、新しい人たちが住んだり活動するのでしょう。

 

しかし、全く勝手な私の妄想ですが、朽ちた空家には、かつて住んでいた家族の愛憎がひしめいていたんでしょうね。狭い畳部屋で、些細なことで喜んで笑って悩んで泣いて、数人の家族がそれぞれの感情をもって生きていた‥‥と思うと、「面積あたりの人の想いの密度が濃くて」圧倒されるのです。更地ともなれば猫の額ほどの面積の上なのに‥‥です。

 

くすの樹だって、そこで告白したり、フラれたり、相思相愛だと解って舞い上がったり、別れ話をしたり、結婚の約束をしたり、若い夫婦と幼い子が夏の日にアイスコーヒーを飲んでささやかな幸せを感じたり、色んな人々の思い出が、かつて「くすの樹の存在した」大地で繰り返されたことを想像せずにはいられません。

 

私が今、こうしてキーボードをタイプしている場所は、過去、どんな人が生きていたんだろう。江戸時代、室町、鎌倉‥‥、いや、人類の有史以前に、どんな生き物がこの場所を通り過ぎたんだろう‥‥と思うと、自分の存在しているわずかな時間との対比も相まって、気が遠くなるくらいに圧倒されます。

 

自分はどこから来て、どこにいくのだろう‥‥という、それこそ古典とも言える命題を反芻してしまいます。

 

 

 

くすの樹が更地になっているのをみて、呆然としている自分に、我ながら驚いたりもしています。

 

これから先、胸をギュッと締めつけられるような寂しさを、何度も経験するんだろうな‥‥とは思います。しかし、その寂しさを何度も体験するからこそ、老境において、「みんないなくなちゃった。俺も、もう死んでも良いかな。」と思えるのかも知れませんネ。

 

昭和、平成、令和と、そして気の遠くなるほど未来に、宇宙の塵となるまで、大地は記憶し続けるのでしょうね。

 

 


彼岸

仮に未来、日本のアニメがグローバル化を果たして世界に飛び立った‥‥としても、そのエネルギーを作り出したのは、日本ローカルのファン心理あればこそ‥‥と私は感じます。そこをみないふりして、上澄の美味しい部分だけは取得できません。

 

極端な物言いかも知れませんが、エロを封じるとどんなことになるか、発酵プロセスを経ない腐った食材になるだけです。エロとは、まさにErosだ‥‥と、大人ならわかりますよネ。

 

  1. 1《ギリシャ神話》エロス(◇愛の神;ローマ神話の Cupid に当たる)
  2. 2〔時にe-〕性愛;情欲;(善・美を追求する)本来の愛
  3. 3〔集合的に〕《精神分析》自己保存の本能(life instinct);リビドー(libido

 

ただ、無意識にカジュアルに、構造も考えようとせず、「好きなんだからしょうがない」で済ませるのは、少なくとも、プロの仕業とはいえないです。「しょうがない」で本質を曖昧にできるのは、素人さんです。

 

 

 

昔から考え続けている命題で、「日本が島国根性を捨てたら、日本ではなくなるのではないか」‥‥というのがあります。

 

ゆえに島国根性万歳‥‥という話にもっていきたいのではないです。

 

欧米の主流に合わせることは、どこまでがOKで、どこからがNGなのか、です。

 

意固地になってはいけない。多勢の言いなりになってもいけない。

 

答えはまだ見つかっていません。

 

 

 

島国根性が根底にあって、ムラ社会のある種「監視の関係性」が成立しているからこそ、天災にあっても、盗難や略奪が横行せず、秩序を保った災害対応が各自可能だとも思えます。

 

日本人は素晴らしい‥‥なんて意味もなく嬉しがってちゃダメだと思うのです。

 

人を思いやる素行は、結局何から生まれ出るものなのか。

 

善悪の彼岸みたいなことを言いますが、日本の善悪の彼岸とはどういうものか、20代‥‥いや、もしかしたらうっすら10代の頃から考えてきました。

 

 

 

日本のマンガやアニメの表現も、そうした話題と直結しています。何の理由もなしに、日本の作風が自己成立しているわけないじゃんか。

 

ですから、グローバル化を目指しながら、グローバル化には慎重で賢いスタンスが求められます。「賢い」ってメチャクチャ、ハードルが高いですが。


「40代の高校生」の前回の流れで言えば、中途半端に怨念感情を抱き続けると、安易にすべてを自分の怨念に関連づけてしまって、大局を見失います。自己弁護と自己肯定に躍起になってしまってネ。「40代の高校生」はロスジェネ論法に帰結しないよう注意すべし。愚痴を延々と聞かされるコンテンツなんて、よほど結晶化していないかぎり、グローバルはもちろん、ローカルでも通用しないです。

 

自己肯定と、自己否定を、絶えずループして考えるのが賢明でしょう。

 

まあ、日頃としては、怨念にせよ楽観にせよ、無意識に流されないようにするのが肝要でしょうネ。

 

 

 


また買い占め?

去年の台風の時もそうだったけど、日頃は日和って漫然と生きている割に、危機感を煽られた途端に買い占めに走る人間って、どういう人間なんだろう。今度はマスクを買い占めか。

 

私は仕事の時間サイクル上、西友24時間スーパーに行くことが多いのですが、危機感に煽られて来店した見慣れない客=背広のオッサンとかを、大型台風予告の時、普通ならありえない時間帯に頻繁に見かけました。にわかにスーパーに来たって、どこに何が置いてあるかもわからんだろうにな、背広のサラリーマン風情のオッサン。スマホで電話しながら店内を彷徨っていましたよ。スマホの電話に夢中で通路で邪魔でな。

 

ついでに、身障者駐車スペースに何の躊躇もなく駐車したりと、サラリーマン生活しか知らない30〜40代の中年男が、にわかにスーパーに買い出しに来て荒らしまくるのを見ると、こっちまで心が荒みます。‥‥これがまた、普通に生きてそうな中年の男で、どの会社にでもいるサラリーマン風でさ‥‥、心が闇に覆われますわ。

 

高い民度が聞いてあきれるわ。買うのはいいけど、一度に大量に買い占めるなよ。

 

ちなみに、私は数年前のストックがまだ残っているので、マスクは今回まだ買いに行っておらず、買い占めがどんな酷い殺伐とした状況になっているのかは、ニュースやツイッターのみで知る限りです。

 

日頃からストックして、古いストックから消費するようにしておけば、買い占めなんてしなくて済むのにネ。

 

 

 

アニメの技術もそうだよ。

 

日頃から次世代に対応する技術の研究開発を少しずつでも進めておけば良いのに、移行期が本格的に到来してパニックになった時だけ、尻馬にのるようにして取り繕おうとするだけ。2005〜2008年はそんな時期でしたよね。

 

だから、貧困から抜け出せないんだって。先手を打てず、後手に回って、低価格設定のいいなりになるんだって。‥‥そしてやがて、後手後手の人々が、青かった海をレッドオーシャンに変えてしまうのです。

 

アニメを作るからって、自分の好きなアニメばっかり見ててもしょうがないよ。戦術を学んで実践しないとただのアニメ好きの中年です。アニメに親しんでいたいだけなら、アニメファンのままでいいです。

 

 

 

教育で、従順な羊になることばかり教えるんじゃなくて、戦術とか補給戦も、取り入れたらどうでしょうかね。

 

 

 


豊島園

豊島園が数年のうちに閉園するとな。

 

としまえん 閉園検討 跡地に“ハリポタ”テーマパークの交渉も

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200203/k10012270111000.html

 

 

子供が少なくなるというのは、まさにこういうことなんですかね。ハリポタに変えて、どのくらい挽回できますかね。

 

豊島園は身近な遊園地だったので、何度も行きました。高校の時に行ったのが最後ですが、その時は今にして思うと不思議なんですが、ラグビー部の友達ら(と女の子たち)と行きました。私はラグビーとは縁もゆかりもなかったですし、体育会系部活すら一度もしたことがないのですが、同じクラスだったので親しくなったのです。

 

入園して、入り口の近くにある「バイキング(フライング・パイレーツだっけか、正式名は)」に早速乗ったところ、船が振り子の上死点で一旦止まって、下がり始める時にポケットの中の小銭が「無重力的な感じ」で溢れ出して全部こぼして、ラグビー部の奴らと大笑いしながら乗った思い出があります。船が上下するたびに小銭がガランゴロンチャリンコロンと床を転げまわって、迷惑なんだけど可笑しな光景でしたな‥‥。最近のYouTubeをみて思い出しましたけど、揺れるたびに女の子が絶叫するのも、遊園地ならではの風景ですね。今となっては微笑ましい思い出です。

 

ティーンの頃は、呑み会で酔っ払って打ち解けるみたいな交流がないかわりに、遊園地の乗り物で絶叫して、いつも見せない面を見せ合って、もっと仲良くなるんでしょうね。何だか、男の子も女の子もいじらしくて可愛いよね。

 

豊島園。東京の庶民的な遊園地。

 

Wikipediaに「かつて存在した遊園地」とか書かれるんでしょうかね。子供の絶対数が少ないので、現実的にしょうがないとはいえ、寂しいものです。

 

夜が暗くなったとは以前ここで書きましたが、子供たちの歓声が聞こえてくる遊園地も徐々に姿を消していくんでしょう。昔は本当に社会が賑やかだったよな‥‥。現在の社会に活気がないのは、普通に生活していて実感しますもんネ。

 

加えて、「運動会がうるさい」とか小学校の近隣住民からクレームまで出るのなら、もはや、日本は子供の住む国ではないのかな‥‥と悲観的な気分にもなります。

 

 

廃業間近になると、懐かしさを求めて集ったお客さんで賑わうのかな。

 

 

 

 

 


ツイ求人

TwiiterなどのSNSが繁盛してるご時世。

 

アニメ業界の求人のツイートも見かけますけど、よく考えてみれば、募集される側の目線だけでなく、募集する側の目線でも、ツイッターって情報収集できますよネ。

 

ある程度、業界歴があって、実名をアカウントで公開している人って、逆に会社側からもツイッターで日頃の言動を情報収集されますわな。30〜40代の経験者でそれなりの給料を支払って中途採用・雇用する場合、「蓋を開けてみたらのリスク」は相当デカいでしょうから、ツイッターをチェックするのは容易に想像できます。

 

フリーランスで生きていく覚悟があるのならともかく、会社勤めしか知らない人間が、全世界向けに公開されるツイッターで自分の言葉を発信するのなら、転職する際のことも視野に入れないと、墓穴を掘る結果にもなり得ます。ツイッターに限らずブログも同じですが、ネットで言葉を発信する際は、結構な覚悟と度胸が必要ですネ。

 

個人の見解は自由だろ。‥‥は、その通りなんですが、自由だからこそ、自由に検索(検閲?)される側にもなり得ます。

 

 

 

当たり障りないツイート。

 

忖度だらけのそんた君みたいな生き方。

 

一方、私がツイッターではないにせよ、かなり辛辣なことをここで書くことも多いのは、まあそれなりに理由はあります。

 

高校在籍時からアニメの現場に出入りするようになって、30年以上、業界の基本的な悪い部分は何も変わってないことに対する、自分なりの行動の一部です。

 

昔から私を直に知る人と久々に会うと、多くの人は「昔と変わってなくて良かった」と言うのです。このブログの論調はトゲトゲしいことも多いですもんネ。なので、「人が変わった」と思われがちなんですが、そうでも無いのです。

 

私は、今まで随分と、親しい人たちに囲まれて、赤鬼くんの役をやらせてもらったので、青鬼くんの役も40代以降はやるべきだと感じています。

 

嫌われ役はイヤだとか、不利有利とか考えてたら、こんな内容のブログなんて書かんしネ。‥‥ズバっと覚悟はできてますよ。何が大切か、さすがにもうこの歳になって承知してますし。ジョバンニとカムパネルラの最後の会話を思い出します。

 

 

 

でもまあ、求人とか転職とか考えているのなら、ツイッターやブログでは控えたほうが良いのは事実でしょう。逆手にとって、耳障りの良いことだけ発信して「空気読める人」を演出する手もありましょうけど。

 

ただ、求人を出している会社は、会社の内部で能力度外視の仲良しクラブを作りたいわけじゃないでしょうから、結局は当人が何ができるかに尽きると思いますけどネ。

 

自分をちやほやしてくれる会社を探すものだと勘違いする人は多いのかも知れません。自分の能力が活きて正当に評価される会社を探すべきで、そのためには「自分の能力とは何か」をそもそも自分が解っている必要があります。新しい経験で能力が伸びるのは、その次のフェイズです。

 

それに‥‥根本的な、ホントに極めて根本的なことですが、旧来のアニメ業界のスキームの中で、いくら器用に立ち回ったところで、お金の話となれば、天井は低く底は浅いですよネ。30代にもなれば自覚している人も多いはず。私が30年以上前に高校時代から現場入りした時と、枠の構造限界は何も変わっていないので、当然、お金の限界も根本的に何も変わってないです。(そりゃあ、物価が上がったなりの値上げはありましょうけど、相変わらず雑な単価制度のままだし)

 

旧来枠の中でどんな職にありつくか‥‥という路線も必要ですが、同時に他の路線も模索して実践しないと、まさに老後貧困そのものです。もしくは死ぬ時まで現役でバリバリ働くか。ずっと座って待っているだけじゃ、業界の改善なんて進展するわけもないですしネ。

 

アニメ業界のスタッフは、アニメ業界の社員みたいな意識=自分の仕事はアニメ業界が用意してくれる‥‥という意識のまま、40, 50, 60, 70, 80歳と生きてどんな未来になるかを、時には考えてみることも必要です。60代になって考えてみて、ヤバイと気付いても、もはや遅し。

 

現状維持と新展開。現状維持だけでは未来がヤバい。新展開は軌道にのるまで時間がかかる。‥‥同時に進めるしかないですよネ。

 

此の期に及んでまだエスカレーターに乗ることを夢見るのなら、求人側とは大きくズレているでしょう。エスカレーターで最上階まで乗せていってくれる‥‥と考えること自体がズレてますもん。終身雇用大前提なんて、アニメ業界に限らず、今はあまりないですもんネ。

 

求人ツイートとか見かけると、色々と考えてしまうことも多いです。

 

 

 

 

 


夜が暗くなっていく。

ジョナサンの24時間営業廃止は、実際に午前未明のジョナサンに行ってみれば、「それでもいいんじゃない」と思えます。2〜3席の客のために、全電源維持してフロアスタッフとバックヤードスタッフ数名(内訳は知らないけど最低2名はいますよね)というのは、素人目に見ても採算が取れなさそうですもん。かなり大きな繁華街で、深夜も人がそれなりにいるエリア以外は、24時間営業って、もう時代とズレているのかも知れませんネ。

 

三鷹界隈もずいぶんと深夜は暗くなったと思います。店舗の灯りが消えると、街路も照らされず、如実に街が暗くなります。最近知って少しショックでしたが、オリジン弁当が0時で閉店するようになり(深夜に買いに行ったら閉まってました‥‥)、他の店も営業終了時間を切り上げています。

 

三鷹通りなんて、街路樹の電飾がなかったら、相当暗いですよ、今。

 

私がアニメーター駆け出しの頃の30数年前に似てます。街の風景が徐々に昔に戻りつつある‥‥と感じてます。

 

一方で、日曜の番組で、渋谷が大人の街に変わりつつある‥‥みたいな内容も放送していました。

 

要は、人口の多い層に合わせて、シフトしているだけのようにも思います。別の言い方をすれば、それほど、人口の減少は深刻なんでしょう。

 

私の年代は、戦後第二次ベビーブームと呼ばれる層で、いわゆる団塊ジュニアの前半部分に含まれます。たしか、昭和48年=1973年がピークだったと思います。

 

「このまま日本の人口が増えたら、日本がパンクする」なんて言われたものですが、今となっては失笑を禁じ得ないスね。

 

 

 

何をどう言ったって、客が来なきゃお金も稼げないのでしょう。しかも、社会はどんどんお金を使わない方向に邁進してますしネ。政府も企業も、人々が稼げるお金の乏しい中、どうやって絞り取ろうかと「金脈探し」ばかりしてますし。

 

あまり言いたくないけど、戦争のような悲惨な出来事がおきないと、世界の経済って活性化しないんですかね? だとしたら、なんとまあ呪われた構図なんでしょうか。

 

現代に生きる人間なら即答すべき「暗記でも知っておくべきこと」に、第1次と2次それぞれの世界大戦の死者数は何人?‥‥があります。‥‥答えられます?

 

およそ、2000万人と8000万人です。兵員だけでなく一般の死者も含めた数字のおよそです。

 

8000万人??? 8000人じゃなくて、8000万人ですからね‥‥。膨大な死者数ですね。

 

第二次世界大戦では、アメリカは50万人(Wikiによると42万人)、日本は300万人、ドイツは800万人、ソビエトは2500万人だったと思います。

 

そりゃあ、「自分が生きていること」に対してリアルにもなれますよね。たとえフラれたって女性に求愛したくなるし、子供だって作りたくなりましょう。だって、死んだら何もできなくなるでしょ。死によって全てが終わることが、社会のリアルとして戦争というカタチで身近にあったのですから。

 

でもさあ‥‥‥‥‥‥。8000万人は無いって。

 

8000万人の犠牲がなければ、ベビーブームは発生しなかったのでしょうかね。

 

戦争なんか始まったら、アニメなんてもう作れないからね。敵国がどれだけ酷くて、どのように勝つかを喧伝するアニメでも無い限り、アニメなんて作れなくなります。漫画やアニメは「なんだかんだ言っても平和」な社会の象徴だと思います。

 

 

 

でも、確実に夜は暗くなっています。車を運転しててもひしひしと感じます。環八も青梅も暗くなったよな‥‥。

 

この暗さを、明る過ぎた状態からあるべき姿に戻ったと思うのか。暗くなっていく夜を、社会のいく先と暗喩するのか。

 

今の20代が50代になる2050年の日本。

 

夜は暗いか、明るいか。

 

 

 

 


有利とか不利とか。

何を選んで、何を覚えて習得すると、後々有利か。

 

そんなことばかり考えている人は、そこそこ多いように思います。

 

でも、一番不利なのは、

 

何が後々有利かを考え続けて、結局何も身に付かず、5年10年経過すること。

 

だと思うんですよネ。

 

2000年代の10年間に何ができた?

 

2010年代の10年間に何が身についた?

 

「これがいいかも知れない」「あっちのほうが有利かもしれない」と、何ひとつ成果を出さぬまま、目移りするだけの年月は、有利不利で言うならば、かなり不利ですよネ。まさに「利」を得られなくて、耳の大年増になっただけ。

 

 

 

たとえ、40、50代になっても、10年の浪費はキツいわ。取り返しがつきません。

 

20、30代もせっかくの吸収力の大きい時期に足踏みしているだけなんて、自分の人生のリアルをずいぶんと無駄にしています。

 

「これはいけるかもしれない」

 

‥‥と思ったら、たとえ1年間だけでも、熱中して取り組んでみるのが良いです。他人から「こっちのほうが有利だよ」とか言われても、まずは取り組んだことで成果を達成することです。もちろん、自己満足で終わらないように、ちゃんと実用化して表に出しましょう。5カットでも10カットでも、自分の取り組んだものごとの成果を作品に表しましょう。

 

やっぱり、言われた通りに、あっちのほうが有利だったかも‥‥

 

‥‥と後々で思っても、実は1つの取り組みを成し遂げた経験は、その後の新しい取り組みに極めて有用となります。尻切れトンボで終始していては得られない、大きなノウハウを自分にもたらします。

 

私はスクリプトはAppleScript、GUI付きのソフトウェアのプログラミングはREALbasicで覚えました。今から20年前の話で、アニメーターとコンポジターの本職の傍らで習得しました。

 

AppleScriptなんて今では隅っこも隅っこ。REALbasicって今でも存在しているのか判らないほどです。でも、その2つを習得して色々なプログラムを自作した後で、他のXcodeとかPHPとかAfter Effectsのエクスプレッションやスクリプトなどを使った時に、

 

あれ? これ、何が書いてあるか、何を書けば良いか、解るぞ。

 

‥‥と自分でも驚くくらいに内容が理解できました。つまり、「読解力」「構成力」がAppleScriptとREALbasicを通して、知らぬ間に身についていたのです。

 

 

 

最初のうちは右も左もわからんです。

 

何をすれば良いのか、何を選べば良いかで、色々と迷うものです。

 

しかし、迷うことに2年も3年もグズグズ費やして、振り返ってみたら、10年間、何も覚えられないままだった‥‥なんていうのが、一番悪いです。

 

良き方向を模索して、むしろ、悪しき方向に進む

何が良いかで悩み続けて、どんどん悪くなる

 

そんなことになるのだったら、たとえ最短の直線距離で到達できなくても、何度も曲がって確実にたどり着いたほうが良いです。

 

 

 

周りを気にしてばかりいると、結局、何も得られず、おこぼれしかありつけませんよ。

 

一家言とまではいかないにせよ、目標を達成できたノウハウがあれば、次に繋がっていきます。

 

2020年代の10年間を、また目移りだけで過ごしてしまって、良いのでしょうか。

 

「デジタル作画」だって、ソフトウェアを日常の仕事道具にする、ペンタブで絵を描いてお金を稼ぐ‥‥というノウハウを得られるわけですから、決して紙作画の刷り直し的な面だけでなく、善き点も多く含んでいます。「デジタル作画」でコンピュータとペンタブの扱いに慣れれば、次にはもっと大きなステップアップが可能になるでしょう。

 

揶揄ばかりして何も行動しないのが、一番マズい。

 

展示会にいって現在の動向を見聞きするのは良いですが、それだけで満足しては何も進展しません。

 

アニメーターの人ならわかると思うけど、見聞きしただけで絵が上手く描けるようになった? 他のジャンルだって同じです。見聞きしただけで上達したり習得できるほどチョロいもんじゃないです。

 

 

 

損得は後でも調整できます。路線変更も後で可能です。しかし「行動すること」は、今開始しないと何も始まりません。

 

今のご時世、世代や時代や社会に関連付けた「できない理由」を取り上げる記事やツイートが多いように思いますけど、自分の運命は自分でも大きく変えられます。

*例えば、「ロスジェネ」=「こんなに酷い目にあったから社会に復讐だ」みたいなツイートではなく、むしろ同世代の励みになる「ロスジェネで辛酸も舐めたけど、今はこういう新しいことで道が開けた」みたいなツイートをしたほうがどれだけ有用か。私だって、「アニメ業界にいたからバブルなんて関係なかった。バブル世代がみな勝手放題だったなんて事実誤認の幻想だ。」みたいな記事を延々としつこく続けて書かんですよ。むしろ、アニメ業界の悲惨な作画単価があったがゆえに、どう言う風に思考して新しい方法論を実践してきたかを書き続けています。

 

自分自身で行動を開始して頑張りましょう。そうすれば、自ずと、そういう人たちが集まって、新たな何かが始まります。私は今まで、そういう体験を何度もしてきたので、2020年代も同じことが起きることが普通に予感できます。昔を振り返って、「よくまあ、あの狭いスペースにそうそうたるメンツが肩を並べていたもんだな。」と思っても、実はそれは偶然ではなく必然なのです。

 

私はまた色々な新しいことを始めようと思っています。昔から温めたアイデアを形に変えていくには、2020年はちょうど良い年です。もちろん、従来の仕事〜原画の仕事はすぐに控えているし、劇場のVFXの仕事もありますし、不思議なテレビの仕事も準備中ですが、それとは別に、新しいことはやります。

 

何かやろうと思っているのなら、老若男女分け隔てなく、2020年は良いスタートの時期ですヨ。

 

 

 


FBで汁

フェイスブックのアカウントだけは取得していて、そのまま放置しているのですが、定期的に「知り合いかも」メールが届いて、中身を読むと、実際に知っている人だったりします。

 

フェイスブック上の私のプロフィールなんて白紙のままなのに、以前に現場で仕事をした人とか、本人ではなく奥さんとか、「元旦那さん」(微妙だよね…)のアカウントとか、「なぜ、フェイスブックサイドが知っているのか」キモチ悪いのですが、個人の名前だけで検索して予測するんですかね?

 

 ‥‥まあたしかに、作品のスタッフリストはテキストデータとしてネットでいくらでも取得できるので、関連性を予測するのはできないことではないですがネ。

 

ずいぶん前に現場を去って他のところに行った人まで「おともだち候補」にリストアップされていて、関連性の予測とはいえフェイスブックの振る舞いが気色悪くて、やっぱりフェイスブックはいらんわ‥‥と引いてしまいました。まあ、今は情報漏洩社会だから、いちいちキモチ悪がっていても仕方ないとは思いますけどネ。

 

フェイスブックには職歴とか学歴とか、結構、皆が自分自身で書き込んでいるらしくて、これまた「生っぽくてやだな‥‥」とさらに引いてしまいました。どんな学歴や職歴があろうと、今何ができるかが重要なので、ぶっちゃけ余計な情報ですわな。実際、仕事を一緒にしている人の過去なんて気にしたことないわ。どんなにたいそうな肩書でも、どんなに無名でも、今がどうあるか‥‥でしょ。

 

ただ、そうしたフェイスブックに表示される情報を見て、「なるほど、そう言うことだったのか」と推して知ることにもなって、一層、何だか複雑でイヤな気分。

 

以前、「ロスジェネ」や「管理職」に拘る人が現場にいたんですが、その人のフェイスブックの学歴の表示を期せず見て、納得がいきました。「今の自分」を認められずにいたんですネ。中途で未経験で入ってきて最初から知ったかぶりでイヤだなと感じてましたが、フェイスブック提供の情報にて、あの「上から目線」はなるほど‥‥と思いました。

 

有名大学を出ていても、もちろん、気さくで良い人はいっぱいいます。作品で頻繁にご一緒する監督・演出さんも有名大学出身ですけど、経験豊富な善き現場人ですヨ。ロスジェネ世代でも、作品の中核を成す重要なスタッフは多いですしネ。

 

一方、その「ロスジェネ君」は‥‥、まあ、いいか。もう関わりのない人だし。

 

 

 

フェイスブックって、微妙なソリューションだなあ。‥‥少なくとも、私にとっては。

 

自ら個人情報を大公開しなくても、仕事の中身だけで繋がっていけると思うんですけどネ。仕事で繋がった縁こそ‥‥だと私は思いますが、まあそれも人それぞれで良いのか。

 

今日たまたまフェイスブックからのメールを読んじゃったのですが、結局何年も使ってないし、また放置でいいや。

 

フェイスブックもラインもツイッターもインスタグラムも抱え込んだら、私は処理が追いつかないでしょうし。

 

私はまだ当分ブログだけで良い‥‥と、改めて思いました。

 

 

 

マーラーの墓碑には、ただ「グスタフ マーラー」とだけ記してあるそうです。

 

「私の墓を訪ねてくれる人なら、私が何者だったのか知っているはずだし、そうでない連中にそれを知ってもらう必要はない」

 

私はまだ、そこまで達観できませんけどネ。

 

ただ、フェイスブックで履歴を載せたところで、効果なんて希薄だと私は思っています。

 

私に仕事を依頼してくれる人は、私がどんな仕事をしてきたかおおよそ知っているはずだし、そうでない人にフェイスブックのプロフィールだけで知ってもらう必要はない‥‥とも思います。

 

ネットを結構使っているわりに、そういうところはガンコなのかもね、俺。

 

 

 


NO FATEはFATEだった。

思えば、私が高校生の頃にバッハ生誕300年で、毎日のようにFMでバッハの曲を聴けたのは、運命としか言いようがないです。300年のモニュメンタルな年じゃなかったら、あそこまでバッハをエアチェックできなかったですもんネ。

 

でも、違う視点で考えると、バッハ生誕300年でFMで頻繁にバッハの曲が流れていても、全くバッハに興味を抱かなかった人もかなり多かったわけです。

 

つまり、「時代の運命」も、当人次第です。

 

当人がもともと有していた個性に対して、計らずして時代性が作用して、個性の傾向が強調されるのかも知れません。

 

 

 

「ロスジェネ」と呼ばれる世代も、その世代が全員ロストしているわけじゃないですしネ。アニメ業界には「就職氷河期」なんて関係なかったし。ついでに言えば、バブルも関係なかったです。ロスジェネと呼ばれる年齢層でも活躍している人は多いです。

 

戦中に少年時代を過ごし、戦争が原因で両親を失った私の父を見て思いますが、戦争孤児の全員が全員、根無草のような性質を持つわけではないです。私の父は執拗に「A級戦犯」の話を持ち出しますが、父自身が家庭を顧みず恐ろしいほどのお金をギャンブルに注ぎ込んだ「我が家のA級戦犯」と化したのは、どうしたことか。

 

運命や宿命って、やっぱり、本人の「つかいよう」だと思います。

 

人は、自分の生まれるタイミングを調整できませんよネ。ですから、どうやっても、時代の宿命・運命の影響下からは逃れられません。

 

ロスジェネだ就職氷河期だと40を過ぎても言い続ける当人は、20年間をどのように過ごしてきたのか。今までの20年間の運命をどのように使ってきたのか。

 

戦争で両親を失った父は、A級戦犯への怨念を、結局はプラスに転じられないまま、やがて死を迎えるでしょう。孤児となって引き取られた先の家でミジメな思いもしたでしょうが、それが様々にマイナス要素に繋がっているのを見ると、運命をどうしてもプラスに転ずることができない人間もいることを、まさに身内ゆえにまざまざと実感します。

 

 

 

私は小さい頃から、「ひがむ」のは嫌でした。小さいながらに、「ひがんだって、何も解決しない」と思ってたんですよネ。

 

私の「えずら」という名前は、響きが変で、よく間違えて呼ばれたり、「へんな なまえ〜」とか嘲笑う子供もいて、もっと一般的な「田中」とか「鈴木」とかの名前が良かったと、子供心に思っていました。なので、学年が変わってクラス替えがある学期初めは特にイヤだったものです。

 

名前は変えられない。

 

でも、一般的な苗字をもつ他の子供のことを、羨んでどうなるのか。

 

ひがんでも何も変わらないじゃないか。

 

‥‥というのを、小学校に入る頃から中学生くらいの間に経験したので、実は、そのことが後の自分の人生において「良かった」のだと今は実感できます。その当時は抜け出せない呪いのように悩んでいても、です。

 

中学生になれば、生涯の親友とも言える人間とも巡り合って、女の子に「えずらくん」とも呼ばれたら「えずら」という響きも満更でもなくて嬉しいもので、やがて「変な名前、全然OK」と思えるようになりました。

 

一方で、なぜ、あいつは俺の親友になってくれたんだろう、なぜ、あの子は好きになってくれたんだろう‥‥と思うと、「名前なんかじゃない」と解ったのです。サラ・コナーじゃないですが「NO FATE」です。

 

いやでも、実は「FATE」なんですけどネ。

 

「運命が自分を左右するのではない」ということを実感できる運命だったからこそ、絵が上手くなりたいと阿呆ほど子供の頃から絵を描きましたし、ギターを抱いたまま眠るほど弾きまくりました。

 

ゆえに、音楽の仲間もできて、絵の仲間もできて、制作現場でも多くの人たちと知り合いました。

 

私がもし「えずら」という名前じゃなかったら、運命も大きく変わっていたと思います。エスカレーター式人生を盲信して、自分には何ができるのかを自問自答しなかったかも知れません。

 

運命はつかいよう‥‥ですネ。

 

 

 

自分の人生はエスカレーター式にうまくいくなんて、子供の頃から思っていなかったです。アニメ業界に入ったら、より一層、エスカレーターなんてお笑い草で、自力で階段を登るものだと覚悟しました。

 

だから、「就職氷河期」云々で怨念を溜める人のキモチは正直わからないのです。「運命をうまく使えば良いのに」と思うのですが、そもそも自分の運命から逃げ続けて他者や他世代をひがんでばかりいれば、マイナス方向に傾くばかり‥‥なのかも知れません。

 

私の父だって、「孤児だからこそ、自分の家族を大切にしたい」という方向性もあったはずです。しかし残念ながら、父は怨念感情を底に敷いたまま、戦争による「不意の不運」を、ギャンブルによる「不意の幸運」で埋め合わせるようなことばかりしたのでしょう。そして、自ら「家庭内のA級戦犯」になったのです。

 

ちなみに、私の母は、戦中に高円寺から疎開したことで、疎開先で酷くイジめられたそうで、「疎開=戦争で運命が変わった」ことは父と同じです。しかし、父とは逆に「こんな酷い子供時代だったからこそ、自分の子供には同じ思いはさせない」と考えたようです。父とは「運命の使い方」がまるで180度違います。

 

「自分は疎開先でひどくいじめられた子供時代だったから、状況は違えど、同じく辛い思いをした戦争孤児の人なら、思いを1つにして助け合って生きていけるだろう」と母は考えたそうですが‥‥‥‥、とんだ間違いでしたな‥‥。

 

でもまあ、その間違いのおかげで、私は誕生したので、何とも皮肉なものです。

 

でもその皮肉から学べることはたくさんあります。物凄い反面教師ですわ。

 

 

 

NO FATEは、実はFATEだったのでしょう。トンチみたいですが。

 

 

 

 

ターミネーターで思い出しましたが、そう言えば、今年はバイクを買うぞ。‥‥というのを目標にしたい。

 

と言っても、シュワちゃんの乗るハーレーでもないし、大型排気量でもない、250ccのレブル。

 

若い頃は250ccのアメリカンなんて‥‥と思ってましたが、今はすんなり受け入れられます。シンプルな理由ですが、車重が軽くて維持費が安いのはいいね。

 

500ccのほうが見た目がマッチョでかっこいいけど、この歳になって、その辺はどうでもよくなってきました。パワーよりもライドを楽しみたい気分です。ガラス張りの密室ではなく、直に風を切って走るのは、乗用車にはないUXですよネ。

 

とりあえずは、ヘッドライトがLED化されるまで待ちたいです。私はBSA M20くらい古ければヴィンテージにも興味がありますが、レブルのような立ち位置なら、前後ディスクの方が良いですし(ドラムブレーキはイヤ‥‥)、ヘッドライトがLED化されるなら(500ccは既にアナウンスがありましたよネ)その方が良いです。

 

 

500だけじゃなく、250も、Sエディション(=下図の、LEDでビキニカウル付き!)をよろしくお願いしますヨ。ホンダさん。

 

 

 

バイクを買っても大丈夫なくらい、頑張ります。

 

 

 

 



calendar

S M T W T F S
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< July 2020 >>

selected entries

categories

archives

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM