線画描きと絵描きと

アニメとはこういうものだ! アニメは本来こうあるべき! ‥‥と言う人とは、新しいアニメーションの技術や運用やビジネスの話をしても、全くの平行線のままで、接点は生まれません。ゆえに、お互いの心情やポリシーに触れずにそっとしておくのが肝要。

 

ただ、全ての人が、「何か一つの価値観に縛られている」わけではないのも事実。

 

アニメーターの中には、線画だけを専門にする人もいれば、キャラの着彩イラストが上手な人もいますし、シーン全体の情景を描ける人もいます。

 

何がそうした「多様性」を決めているのか? ‥‥思うに、当人の根底の意識が色濃く影響しているのでしょう。

 

例えば、作画作業で言えば、作画している当人は、自分自身をどう思っているのか。

 

自分は原画マンだ。

 

こう言う人もいるでしょう。言葉の揚げ足取りをしたいわけではないですが、「あなたは原画だけを作業する原画専門の人ですか」と思ってしまいます。日本の量産アニメ独特の「原画の線画」だけを描く人のように思えていまします。

 

日本のアニメ業界では、「アニメーター」という言葉が、かなり狭い範囲を示す言葉になってしまっていて、「アニメーター=線画オンリー」という暗黙の総意すら感じます。

 

でも、アニメーターって、「何か」を動かす人でしょ? アニメ業界の「アニメーターの定義」は「線画専門」に限定され過ぎて、あまりにも狭義で、発展性に乏しいです。

 

自分は絵描きであり、絵を動かすアニメーターでもある。

 

‥‥との言い方のほうが、自分の「絵を描き、絵を動かす」という技術を要約しているように思います。

 

* *

 

私もかつて、「原画の線画」だけに囚われ、アニメーション技術の根本を喪失していた時期がありました。「線画のことしか見えてない」状態です。

 

でもそれでは、アニメーション映像を全体でイメージすることなどできません。過去の私に限らず、今でも、原画を描いている人は、自分の線画がどういう色で塗られて、どのような情景の色彩かをイメージできる人はあまりいません。大半は線画だけのことしか考えていないのです。

 

線画のレイアウトはできても、明暗のレイウアトには全く無頓着なのは、作画現場の特徴です。

 

線画でカッコいいバランスであっても、色がつくと全く違うバランスになって、意図しない結果になることも多いです。で‥‥さ、そう言う時に線画しか見えてない人は、例えば、「なんでかっこよくならないんだ!一生懸命レイアウトも原画も描いたのに!」とヒステリックに怒りますが、「じゃあ、逆に聞くけど、レイアウトを描いた時にどんな明暗や色彩のレイアウトをイメージしてたの?」と聞くと、「そんなところまでイメージしていない。そんなのは自分の管轄じゃない。線画を描くのがオレの仕事だ」みたいに自己防衛モードに突入します。

 

「そんなところまでイメージしてない」なんて言う人が、「自分がかっこいいと思うイメージ」を「他者が実現してくれる」と思うならば、「あなたは、イメージしているのか、いないのか、はっきりしてください」と言うほかないです。

 

「遠景の山並みは、空に比べて、どんな濃さなの?」と聞いても、「え?自分がそんなこと聞かれるなんて思いもしなかった‥‥」と驚いて、「いや‥‥自分は考えてなかった。美術さん任せで良いと思ってた。」と言う人が大半だと思います。

 

 

自分を「絵描き」としてみた場合、こうした「線画だけ」の意識は、極めて異質です。

 

普通、絵を描く時、線だけで終わらす?

 

‥‥その昔、知り合いの子に絵を描いてあげた時に「色は塗らないの?」と言われて、ハッとしたことがあります。

 

つまり、線画は描いているけど、絵は描いてないのです。自分が「原画工程」の人間であっても、絵の途中段階のところで意識まで止める必要はないでしょう。

 

 

たとえ、背景は美術さんに任せようと、レイアウトを描いている時点で、線画だけしか意識できず、明暗のレイアウトすら全く考えもしない‥‥のは、「そりゃあ、アニメ業界の今のシステムから離れられなくなるよね」と思います。「今度の仕事は、線画以上のことをしてほしい」と言われた時に「ツブシ」が効かないですもんネ。

 

なので、例えば「カラースクリプト」を作業する時には、一般的な原画マンには仕事を振り難いのです。多くの場合、ただの基本色の塗り絵になってしまうから。

 

シーンのコンセプトカラーをイメージして、メインの光の陰影を駆使してテンションをコントロールしたり、アンビエント的に忍ばせる光の演出‥‥などを、線画しか意識していない作業者には依頼できないわけです。

 

でも、それって、「絵描き」としてみれば、とても屈辱的なことじゃん?

 

「線画描き」としては認知されているけど、「絵描き」としては認知されていない。

 

少なくとも、私はそんなのはイヤなんですよネ。必ず誰かに色を塗ってもらわないと絵を完結できない自分‥‥なんてさ。

 

 

でも、線画だけしか意識できないのは、単に「そう意識することしかできない現場だったから」です。人間の可能性を現状で否定するつもりは毛頭ありません

 

おそらく、線画単体を描くだけでなく、全体の色彩を意識することを習慣づけて、コンセプトアートやカラースクリプトの作業をiPad Proや液タブで恒常的に作業するようになれば、多くの人間が「線画専門」の境遇から脱出できるでしょう。もちろん、収入の多様性も生まれましょう。

 

 

「デジタル」〜コンピュータの使い方と可能性を「デジタル原動画」に託すのは、まあ‥‥やりたい人がやれば良いと思います。それこそが「アニメの正常進化」と言うポリシーならば、そう思う人が実践すれば良いです。

 

私は、全く違うポリシーで未来の映像制作を進めようと思います。アニメーターは線画専門である必要などないし、むしろ、アニメーターは絵描きとしても活躍するべきだし、多様な収入の選択肢を得るべきだと思います。‥‥まあ、あくまで、私のビジョン‥‥なので、絶対に同意してくれとは無理強いしませんけど。

 

でもね‥‥、もったいないと思いますよ。どんな人間でも「一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」‥‥なのですから、現状に不平を言いながら自身の能力をダラダラと安ガネで消費するに任せるだけ‥‥なのはネ。

 

 

 


新しい時代の新しい映像技術によるアニメーション制作に至る前には、何本もの大きな河が流れていて、乗り越えられる人間と乗り越えられない人間を分けるだろうと思っています。それは技術的な面も大きいですが、意識、感情として、乗り越えたくない‥‥と思う人も多いでしょう。

 

前回書いたスキームも、河を渡る際に大きく影響してきます。スキームのもたらす利潤が、今まで通りのアニメ業界基準では、河を渡るための船さえ調達が困難です。船をうまく操縦して向こう岸に渡れるかが問われる以前に、渡河できる船そのものを得られるかも、個人や集団で明暗をわけるでしょう。

 

Windowsマシンは安く調達できる‥‥なんて今でも思っている人はいるかも知れません。しかし、安いWindowsマシンは要は安くて性能の低いマシンです。4Kの描き仕事とコンポジット仕事をこなせるCPUとグラフィックそしてM.2のSSDを、BTOで見積もりしようものなら、コンパクト筐体のマシン本体だけ(4Kモニタを含まず)で30〜50万円に軽く到達します。性能の高い構成にすれば、WindowsもMacもお金は同じ。

 

つまり、そうした「高性能な船」を買って、大きく激しく流れる大河を渡った末に得られる「利益」が問われます。高性能な船で激しく流れる河を渡って得られる報酬が、今までの原動仕の単価では、あまりにも採算に合いませんし、作業者たちのモチベーションがあがろうはずもないです。

 

河を渡る前段階でそんな状態では、向こう岸にたどり着いた先こそ本番なのですから、まさに、「是非に及ばず」です。どんな理由であれ、新天地に到達することができなければ、その新天地で店を開いて商売するなんて、できようはずもなし‥‥です。

 

今までの相場はこうだった。現在の単価はこうだ。アニメとはそもそもこういうものだ。アニメのあるべき姿とは‥‥のような話を繰り返すのなら、今までの場所に居続ければ良いです。受注側も発注側もネ。

 

 

ゆえに、「河を渡る必要なんてないじゃん」と言う人がいても当然です。しかし、今いる場所の境遇・待遇が、この先の未来も延々と続くことは、覚悟すべきでしょう。もちろん、「河を渡る」と決意した人にも覚悟は必要です。

 

ただ、「覚悟」の「致し方」は、40〜50代の人間と、20〜30代の人間とでは、大きく変わってきます。

 

「私はもう歳だし、こっち側でいいや」という50代の人間に、20代の人間が意志に関係なく巻き込まれるとしたら、それはもう災難以外のなにものでもないです。しかし、アニメ業界は旧来の技術基盤に深く足をのめり込ませたまま動けないので、若い世代ももろとも、選択の自由なしに、「河のこっち側」に引き止められ続けるような気配は満杯です。

 

一方、50代の人間でも、向こう岸に渡ろうと粛々とミッションをこなしている私のような人間もいますから、50代のなんとない総意=「別に今までのやりかたでいいじゃん」的総意に巻き込まれて同一視されるのは甚だ心外です。50代の人間がおしなべて古い思考しか獲得できないなんて、思われたくもないです。私のひと回り近く年上のベテラン中のベテランでも、20代の固定概念に囚われた人間よりも格段に思考が柔らかい人も多いです。

 

 

まあ、若い人間でも古い考え方をする人間は多いですし、年を喰った人間でも新しい考え方を実践する人間もいます。老若に関係なく、前例のない新しいことにチャレンジする人もおりましょうし、昔どこかで定まった意識にずっと縛られ続ける人もおりましょう。

 

色々な人間がいようと、新旧それぞれの考え方によって、土台となるスキームも変わるし、映像表現の結果物も変わるし、当然、お金も変わります。

 

「河」を渡るか否かは、当人各々の自由です。自分の運命の選択‥‥ですもんネ。

 

 

制作の枠組みも、人の技術も、人の感情も、集団の心理や行動原理も、河を渡るか否かで大きく変わるのが、まさに2020年代の未来といえましょう。

 

 

 


学生の頃

現在、学生がアニメ会社やスタジオでバイトするって話、存在するのかな? 聞いた事ないな‥‥。

 

私の世代(昭和40年前後生まれの世代)は、「あの人も高校生だよ」「あの人は中学を卒業してすぐに」みたいなことは結構ありました。10代半ばの子が在学しながらスタジオに通うのなんて東京近郊じゃないと不可能だったわけですが、20代前半の先輩は随分大人に見えましたし、20代後半の人は凄くベテランに見えました。

 

今はもう時代が何もかも違います。2020年代を間近に控えた時代です。

 

ただ、何を言うても、動画の出来高+アルファで稼ぐのは、今でも辛いはずです。その動画のキャリアを大学卒業からスタートするのですから、かなりキビしいでしょう。

*ちなみに、私の時は最低保証賃金なんてものはなく、完全な出来高でした。

 

動画時代‥‥。

 

私にももちろん動画時代がありますが、学校の休み時間に線の引き方を黙々と練習してたり、UP日がヤヴァい時には始発でスタジオから帰って寝ないで学校にいったりとか(よくまあ、ウチの親も許したもんだ)、「稼げない時期」を巧妙に学生期間に「消化」させていました。

 

そして、私自身も、学生時代の期間をうまく下積みに重ねておこうと「明確に」考えていました。‥‥まあ、つまりは、その頃〜30年前から動画の出来高では稼げないことが知れ渡っていたのです。独り立ちしてアパートを借りてしまったら、正直、動画の単価収入だけではすぐに破綻する‥‥と高校時代からハッキリと自覚できていました。

 

私の動画時代(80年代半ば)には既に線はかなり増えており、先輩から聞いた「月3000枚」なんて「どうすればそんなに描けるの?」と思っていました。「昔は今ほど線が多くなかったし、丁寧さもそこそこだったから、枚数が描けたんだよ」‥‥って、当時の先輩は言ってましたが、何だか既視感のあるセリフですネ。

 

 

まあ、昔話はこの辺で。

 

1980年代と2010年代では、あまりにも大きく、時代は変わりました。しかし、アニメ業界のワークフローが抱える問題は、30年前と変わっていません。

 

私の動画時代の1980年代中頃のように、学生時代に動画のキャリアを積んでおく‥‥なんてことができない現在、むしろ、状況は今の方が悪いとすら思えます。だからって、まさか今、学生に動画をバイトでやらすわけにはいくまい? ‥‥もう時代の「就労・雇用に対する意識」が違いますし、飯が食えないから学生時代に‥‥という考え方自体が2010年代には通用しません。

 

そろそろ考え方を根本的に変えないと、この先、20年30年とやっていけない‥‥と、少なくとも私個人の見解でそう思います。

 

 

私の未来の考え方は、アニメ業界のワークフローを一切踏襲しない、その事につきます。全く互換性がなくても可。むしろ、互換性は皆無にせねばと思います。

 

まあ、その辺はこのブログでちくちく書いてきたことなので繰り返しませんが、ワークフローを一切踏襲しないからこそ、根本から変われると思っています。

 

私が経験してきたことで、無駄だったことは何もない‥‥と思いますが、若い世代が同じことを経験して踏襲する必要もない‥‥とも思います。

 

私らが進める新しい技術は新しいなりに、相当キツいです。クレイジーで常識はずれと言っても、なんら誇張しているとは思いません。でも、クレイジーだからこそ、新しいとも思います。

 

しかし、クレイジーなのは映像表現や技法体系だけで十分です。お金の面までクレイジーなほど貧しい必要はないです。

 

 

そういえば、最近聞いた昔話で、スタジオによっては動画30円でやらせていたところもあったとか。悪い意味でクレイジーな貧乏話は、アニメ業界古今東西、尽きませんよねぇぇぇぇぇ。

 

 


平屋木造

旧来の現場は、既に先人の切り拓いたシステムの基礎=インフラ=道筋があるがゆえに、ロードマップを思い描くという意識が非常に希薄なように感じます。今までの通りやってればうまくいく‥‥という意識。

 

どんなに現場の窮状を認識していても、根本的には解決の糸口も突破口も見出せないのは、まさにその意識ゆえです。

 

建て直す‥‥って言ったって、その家に住み続けながら、取り壊して建て直すなんて、無理ですもんネ。

 

ホントにソレ。

 

今の自分の居場所を取り壊したら、行き場がなくなってしまう。だから、居場所がどんなに老朽化して問題を抱えようと居場所を一旦壊して建て直すことができないのです。

 

「旧来現場のオールデジタル」において、「根本問題を解決できる」ロードマップが全く見えてこないのは、そういう理由でしょう。

 

家を取り壊して一旦更地にして、未来に何十年も住める新しい家を建てる。‥‥それは、旧来現場が旧来現場であり続けるためには不可能なのです。

 

今までVHSデッキを使っていたのを、BDレコーダーに買い変える程度で、その家の何が根本的に変わると言うのでしょうか。平屋木造の狭い間取りは狭いままです。

 

 

じゃあ、永遠に新しい家には住めないのか。

 

‥‥そんなことはないですよね。

 

新しい家を建てるためには、何をすれば良いか、ちょっと考えれば誰にでもわかることです。

 

しかし、古い家への強い愛着が、その誰にでも考えつく思考を阻害します。

 

家や土地の問題ではなく、そこに住む人たちの問題‥‥と言えましょう。

 

 

 

 

 


道具の誉れ

残念ながら‥‥と申しましょうか、どんなに愛着をもってコンピュータ機材を扱おうと、1990年代からずっと使い続けている機材は皆無です。ケーブルすら全てリプレース‥‥です。

 

コンピュータ機材は、リプレース・入れ替えが宿命。

 

コンピュータ本体はダメ、モニターもダメ、ケーブル=モニタケーブル(私はD-sub15pinはもう使っておりません)、USB(1.1ね)、LAN(10baseとか)、ADBやシリアル、SCSIやIDE全部ダメ、マウスもダメ、キーボードもダメ。

 

あきれるくらい、全部ダメ、全部入れ替えです。

 

音声ケーブルだけは生き残っていますが、そもそもPC関連のケーブルじゃないし。

 

まあ、20年前のPC/AT互換機のキーボードや、D-subケーブルが辛うじて生き残っている人もいるかも知れませんが、macOSやiOS環境では20年前の機材は何も残っていません。

 

コンピュータの宿命ですね。これはガーガー言ってもどうなるもんでもない。

 

そういうもんだと思って観念して、コンピュータ機材なりの運用意識が必要です。

 

この辺にどうしても順応できないのがまさにアニメ業界で、昔の機材を使い続けるためのCS6止まりとか、そもそも道具に対する永続的維持費という概念がないのでサブスクリプションに納得できなかったり‥‥と、雇用や制作費の問題だけでなく、アニメ業界の「お金の闇」は深いです。

 

 

しかし、気持ちも判らなくもない。

 

私だって、コンピュータの「金食い悪魔」の流儀に慣れるのは、相当時間がかかりましたもん。

 

一度買ったら、道具は一生モノ‥‥という習慣をきっぱり捨て、時代の現用技術に合わせて道具を更新し、道具の運用コストも制作費に含める‥‥という思考は、そう簡単には受け入れられません。

 

日本人の美意識、職人技術者・実演者の意識として、道具は永く大切に使うもの‥‥ですもんネ。

 

 

しかし、現在の映像制作はほぼ100%、デジタルのデータが最終形態ですので、どう粘っても、どう足掻いても、最終的にはコンピュータの流儀を受け入れるのが肝要です。どれだけ個人が「反コンピュータ」を標榜しようと、その後で全てコンピュータのお世話になりますし、振り込まれるギャラだって銀行のネットワークでデータでやり取りされて口座に振り込まれて生活できてるんですからネ。

 

自分の描いた生の絵の現物を、号あたり何万で売るのでもなければ、コンピュータと「悪魔の契約」をするほかないです。そして、悪魔と契約したからには、悪魔をこき使う気概くらいが相応です。

 

コンピュータに金たま(失敬)を握られているようなヘナチョコのままでは、コンピュータに生命を吸い上げられて終わりです。

 

そういった意味で、4K60pHDRのアニメ制作は、コンピュータを馬車馬の如くコキ使うのにピッタリ!‥‥です。コンピュータは休む暇もないからネ。今まで高速だったコンピュータは「くっそトロく」なります。

 

 

 

 

で、ここまで書いといてなんですが、私とて何もかも道具のすべてをコンピュータへと移行させたわけではないです。

 

コンピュータが道具として活躍するのは、あくまでデジタルデータが支配するフィールドだけです。

 

デジタルデータを介在しないモノに関しては、コンピュータは無力です。

 

そんな中、最近ふと「惚れ惚れ」したのは、筆洗い。

 

‥‥これです。

 

 

*アマゾンでは10個まとめ売りです。いくら惚れ惚れしようと、10個はいらんな、10個は。‥‥なので、ペンテルなどの他の製品も考慮しても良いかも‥‥です。私はいつ買ったかもわからない、昔のやつを、死ぬまで使い続けると思われ。

 

 

サクラの「筆洗」。500円に満たない低価格。

 

それでも、数万、十数万、数十万するコンピュータ機器より、格段に長持ち。いつまでも、愛用し続けられます。

 

この「3重筆洗」は、容量といい、収納性といい、そもそも3重にした使い勝手の良さといい、まことに感服します。ダテに、私が子供の頃からのロングラン製品じゃないです。生き残るには意味があります。

 

私の使っているのは、厚紙のパッケージに入ってた頃の昔のもので、「サクラ」のロゴシールが貼られています。現行製品にも貼られているのかな?

 

 

 

もし、この製品の仕様が、3重ではなく、2重だったら、もう1組買うなど、面倒なことになっていたでしょう。

 

展開すると三槽になることで‥‥

 

  • 1槽目=筆の汚れを最初に落とす、水が一番汚れる槽
  • 2槽目=筆をささっとゆすぐ、さほど水が汚れない槽
  • 3槽目=筆ゆすぎの仕上げ、または、絵具を薄める用途に使う、水が一番きれいな槽

 

‥‥という必要十分な使い方が可能です。

 

各槽の容量も絶妙で、少なすぎず‥‥です。

 

大面積や十数枚など、多量の絵具を使う場合は、もっと大容量の筆洗が適していますが、私のプラモ・アクリル塗料用途では、そのコンパクトさゆえに場所もとらず、十分な洗浄力も提供してくれて、「なんてデキる子なんだ」と愛着が止みません。

 

*「重ねて収納」するため‥‥かもしれませんが、中央槽の「ちょっと大き目で多めの水の量」も絶妙。筆をすすぐ時に、水は多い方が良いですからネ。

 

 

しかも、中央槽にハンドルがついているので、重ねてコンパクトに収納できるだけで終わらず、ハンドルをSカンに引っ掛けて、「空中」に収納することも可能です。これが「なくさない」し、「邪魔にならない」しで、いいことずくめ。

 

 

 

このサクラ筆洗を下回るコンピュータ機器なんて、いくらでもあるわな。

 

すぐ故障する、大して役に立たずに旧式化する、設計のマズさから使うだけでストレスがたまる‥‥とか、コンピュータ関連機器がいくらCPUや集積回路を使って高価なシロモノだろうが、サクラ筆洗の「運用実績」に歯が立たないものは‥‥多いです。

 

比べること自体が間違っている‥‥なんて言われそうですが、道具を使ってモノを作る人間にとっては、「道具は道具」です。

 

道具に貴賎なし。

 

 

願わくば、私が使うコンピュータ機器も、サクラ筆洗と同じくらい、愛着と信頼をもてる道具でありますように。

 

 

 


本を読んでた頃

リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」が発刊40周年だとか。‥‥懐かしいですネ。

 

 

 

若い時分、漠然と命やココロの有りようを捉えていた私にとって、1980年代終わりから1990年代前半にかけて、シュレーディンガーライアル・ワトソンなどの多くの著作に触れたのは、大いなる刺激でした。

 

まあ、101匹目のサルは「構造の例え」の読み物として読めば良いし、書いてあることを自分の新たな信仰にしようとでも思いつめなければ、日本社会で漫然と生き続ける惰性的な自分にとって良い刺激になりましょう。

 

 

私は小さい頃から、「いきもの」について、どうにもよくわからなくなることがあって、床屋で切り落とされた夥しい量の毛髪を見て、奇妙‥‥というか不気味なキモチを抱いていました。髪だけでなく、爪切りで切った爪や、誤ってスライサーで切ってしまった自分の皮膚とか、「いつからソレはイキモノからモノへ変わったのか」が釈然としなかったのです。

 

一事が万事そうした「自分にくっついていた時はイキモノで、切り離された途端にモノに変わる」要素で全て構成されている自分自身‥‥が、正直、不思議でした。

 

で、そうした不思議や疑問は、日常生活では全く取り上げられることはなく(よほど変わった親でもない限り、子供にそうした話題をもちかけませんもんネ)、プロのアニメーターになってフリー作業者溜まりのフロアに出入りして、演出さんや先輩の原画さんの机においてあった上述の類いの本に遭遇するまでは、ぼんやりとしたままだったのです。

 

 

生命ってなんだろう、存在ってなんだろう、意識ってなんだろう、ココロってなんだろう‥‥と、ぼんやりながらも、他の人より強く興味を惹かれたのは、やっぱり、絵を描いていたからだとも思います。

 

原画ってさ、何もない白紙に、線で「イキモノ」を描くじゃないですか。

 

そして、その描かれた「イキモノ」は、喜怒哀楽を振りまくかのごとく、時間軸の中で「動いてみせる」わけじゃないですか。

 

ちょっでもモノゴトを掘り下げる習慣があれば、およそ絵を描こうとする人間が、イノチとかココロのメカニズムに興味を抱いても、それは必然と言えます。

 

 

でもまあ、本を読んだからモヤモヤは全て解決した‥‥なんてことはなく、一生死ぬまで、思索は続くのだとは思います。

 

新しい「コスモス」シリーズで「我々は星屑から生まれた」との一節がありますが、人間が何を悩み、何に幸せや不幸を感じ、何を愛するのか‥‥なんて、やがて皆すべて、星屑に帰すのでしょう。あまりにも長い時間の中の、ほんの些細な時間の狭間に、あまりにも小さな存在でしかない人間が生まれて死ぬだけ‥‥なのかも知れません。

 

でも、生きてるうちは、そのちっぽけなことが大事‥‥なんですよネ。

 

 

 


年長と若年

練習はどうしても不可欠。しかし、一人で練習していると7日間かかって気づくことが、既に「同じ道を歩んだ」経験のある先人から教えて貰うことで1時間で気づくこともある‥‥のは、まさに技術が人と人との繋がりによって高められる「典型」です。

 

技術習得にショートカット(=習得工程のスキップ)はないと思っています。しかし、一定の技術を習得して、次のステップに進もうとする時、新たな技術ハードルの超え方を模索する時間は「時短」できます。

 

技術を習得するのに必要な時間はどうしても必要ですが、習得に至る道を探し出す時間は、先人に「こうしてごらん」と道を教えてもらうことで大幅に短縮できるのです。

 

同じ年齢層で固まっているとどうしても気づけないことが、年長の層の厚みによって様々なヒントが得られ、ハードルの超え方を見つけ出すことができます。時には、5年かかっても見つけ出せないことが、たったの数日で‥‥です。

 

 

勘違いしてはならない‥‥のは、突破口を見つけ出した後には、突破する過程のキッツい修練が待ち構えていることに変わりはない‥‥ことです。突破口が見えたからと言って、その突破口を必死決死の行動で実際に突破するのは本人‥‥ですもんネ。

 

実際、多くの人は、ここで思い違いします。「突破口が見えたら、解決だ」と。

 

年長者や経験者は自分に突破口を指南してくれるだけです。実際に行動するのは自分です。

 

突破するための長く苦しい道のりは、本人が歩むほかないのです。そして、突破した暁には、新しい技術の世界が広がります。

 

 

‥‥まあ、新しい技術を習得しても、その先にまた新たなハードルが待ち構えていますけど‥‥‥ネ。

 

人生、突破、突破の連続‥‥‥ですネ。

 

 

 

コンピュータによる映像制作技術は、特にアニメ業界においては、フィルム時代のワークフローで固着している感があります。ツールを「デジタルに差し替えただけ」の進化止まりです。

 

現場状況の内情を考えてみれば、「オールコンピュータ時代の新しい技術」に対応するための、若年から年長の「厚い層が形成されていない」がゆえとも思います。

 

新時代の技術に厚い層なんて‥‥と思われるかも知れませんが、新時代の前段階の層は、徐々に形成されてしかるべしです。しかしながら、アニメの制作現場は「CS6でバージョンアップ停止」問題でもわかる通り、ここ10年前後の間、新時代の根底となる技術革新を無視し続けてきた経緯があります。新しい技術を持った層が育まれない状況に陥っています。

 

上述の考えで言えば、若年にアドバイスする年長者が、古いタイプの道先しか教えられないがゆえに、一向に新しい道が開けていかない‥‥とも言えます。年長者の多くが、昔のやりかたしか指南できない‥‥のです。

 

昔の技術を全年齢層が継承する‥‥というのは、「もろ刃」なのでしょうネ。慣れ親しんだ技術を継続して作業工程を流通できるが、新時代の映像技術品質には打つ手をもたない‥‥という点において。

 

例えばアニメーターについて言えば、形や動きの捉え方、情景の描き方、配置やアウトラインなどの平面構成など、豊富なアニメーション技術を、先輩やベテランに様々に指南してもらえるでしょう。‥‥しかし、4KHDRテレビや4K本放送を迎える未来社会にアニメはどのような技術を新たに獲得して実践するか‥‥は、紙時代の技術をメインに継承し続ける年長者層では具体的に指南できない現実がありましょう。

 

そうした現場の状況の限界は、アウトサイダーがどうこう言って改善されるものではありません。現場の運命は、現場の人間たちが変えていく他、ないのです。ゆえに、現場それぞれの性質が表れ、現場それぞれの未来性に変化が生じるのです。

 

蛍光灯で透過する作画机を、ペンタブに切り替えて「デジタル作画机」にすることくらい‥‥しか思いつかない年長者が、これから先の変動期において、若い人間たちにどうアドバイスするのか。

 

 

2020年代以降の道しるべを年長者がどう示すか‥‥は、実はとんでもなく重要だけれど、現状の水面下にあって、隠れて見えない極めて深刻な問題‥‥かも知れませんネ。

 

 

 

 


練習量

技術は練習量だけで推し量れるものではありません。能率や効率が悪い練習は時間の無駄に他なりませんし、肉体を使った練習は、頭脳を使った構造把握と同調して進めるべきものです。

 

一方で、苦しい練習から逃げるために、ことさらに理論に偏向するのも、技術が上達しない大きな理由でもあります。十分な練習量はどうしても必要です。頭で技術構造の概要を知り得たところで、リアルにその構造を体現する「実演技術」を駆使できなければ、単なる「耳年増」に終始します。

 

1日に10分しか練習しないで、楽器が上手くなるわけがないです。

 

1週間に2〜3枚しか絵を描かないで、絵が巧くなるわけがないです。

 

どんなに頭の中に理論を構築しようと、必要十分な練習量は必要です。ネットが日常生活に普及して、どんなに情報の量だけ身の回りに増えようと、現実に自分の体を用いて練習しなければ、絵や音楽の類いは、技術を習得できません。

 

練習を軽視して理論だけで技術をモノにできるかは、バッハのインベンションの第1番だけも良いから、実際に弾いてみれば判ることです。人体のクロッキーを一体描いてみれば、自分の観察画力の程度はすぐに判ります。

 

 

練習は辛いことも多いので、脱落者も相応に多いのは、昔からです。

 

「今はそんな時代じゃないから」と逃げても、逃げ切れるものではありません。‥‥だってさ、自分の技術の結果に、ありありとその本人の歩んできた経緯が映し出されるもんネ。結果物は、雄弁に、その人間の性質を語ります。

 

 

やみくもに練習すれば良いってものじゃないのは事実。スモークオンザウォーターの4小節のリフを毎日6時間弾いててもギターは上手くなりませんし、萌えキャラのバストショットだけ延々描いててもキャラ好きのファン感情に終始するだけです。

 

一方で、技術とは何なのか、どのような構造をもち、どのようなバリエーションや具体例があるのか‥‥を、いくらリサーチして理論構築しても、現実の自分が練習をほとんどしないのでは、描けない弾けない自分の現実からは抜け出せません。

 

 

やっぱりさ、普通の人たちよりも、格段に描いたり弾いたりしないとさ‥‥‥、一定のレベルを超えた技術習得なんて無理だって。

 

一般レベル以上の努力を積むから、一般レベルを超えた技量が身につくのです。「努力=根性論=旧時代の悪しき精神論」という安易な認識で、自分を誤魔化して逃げるか否かは当人次第ではありますが、自分の肉体から音なり絵なりを生み出す「実演技術」を獲得しなければ、どんなに理論で武装しようと「空論」です。その理論を宣う本人が、その理論を実際に実演できないのでは‥‥ネ。

 

絵や音楽の実演技術は、実演するがゆえに自分の肉体と共にあるわけで、どんなに綺麗事を言おうが、十分な練習量は不可欠です。練習なんてしなくても理論だけで上手くなれる‥‥なんてことは一切ないです。素晴らしい教則本もあるでしょうし、教え方の上手な先輩もいるでしょうが、結局は自己の修練の度合いに帰結するのです。

 

上手くなりたいのなら、練習は猛烈に必要で、理論も深く掘り下げる必要があります。

 

まあ要するに、両方必要なわけで、ゆえに、一生、修練と思索の日々が続くのです。

 

お互い、めげずに、頑張りましょう。

 

 

 


奢り奢られ

前回書いた「贈り物」で、ふと思い起こしましたが‥‥

 

ひと回り近く年上のスタッフ(まあ、監督さんクラス‥‥ですわな)とプライベートでご飯にいくと、今でも奢って頂いて、恐悦至極。

 

そうした監督さんなどの年上のスタッフの姿を日頃から見ているので、自ずと、自分がいい歳になったら、ひと回り下の年齢のスタッフには、奢らなければ‥‥と思います。

 

で、しっかりした人ほど、若くても「今日くらいは私も出します」と言ってくれるんですけど、そこはね、その若い人たちが40代になったら、20代の若い人に同じように奢ることになるんですから、若い時分はたっぷりと奢ってもらうのが良いのです。

 

つまり、奢られたつもりでいても、実は後払いなわけです。まあ、奢ってもらった人に返すのではなく、次の世代に還元するんですけどネ。

 

 

年上の人に教えてもらえるのは技術だけじゃなくて、人の繋がりも‥‥です。

 

ひと回り以内の同じ世代の仲間となら、どんどん割り勘にすればいいです。年上の人には奢ってもらって、年下には奢る。それでいいのだ。

 

 

 


ヴァンアレン帯

アマゾンで何かとチョコレートの宣伝が多いのは、ヴァン・アレン帯の磁場の影響か。

 

まあ、基本的に、何らかの理由で有名な人でもない限り、黙っててもチョコを貰える人って、あまりいないと思います。職場や営業の社交辞令とかは別として。

 

チョコを貰える貰えないでイジける男は多いけど、そもそも、イジけてる人って、自分から誰かに贈り物とかおみやげとか、日頃からしてるんですかね。

 

人に贈り物をしてなければ、人から贈られることも少ないように思います。

 

プレゼントやおみやげや差し入れを選んでいる時のドキドキワクワク感、料理やお菓子(私はお菓子はあまり作れませんが)を誰かのために作っている時に想像する食卓での笑顔‥‥などの、日頃からそうした感情を抱きもしなければ実践しもしない人間が、チョコだけ欲しい‥‥つったって‥‥‥なあ‥‥‥。

 

絵を描いて映像を作っているとふと思いますけど、「人が喜ぶ顔」に幸福感を感じるのは、何かしらの行動における大きな原点の1つ‥‥だと思います。もちろん、原点の全てとは言いませんし、「他人など全く関係なく、自分自身(の、ある意味禍々しいもの)を込める」というのも作品作りの要点でしょうが、一方で、他者との関係性も作品作りの大きな要素の一つだと私は考えています。

 

自分では全く記憶がないんですが、母親の回想によると、幼児の頃に「公園でみんなに自分のお菓子をあげて回ってた」らしいです。なぜ、そんなことをしてたのか、さっぱり覚えがありませんが、「さびしがりや」ゆえに「ともだち」になりたかったんだとは思います。‥‥当時、家にはドレミファブックというレコード付き絵本があって、たびたび、「ないたあかおに」「うちゅうせんペペペペラン」を読んでいたので、何か強い影響を受けたんでしょうかね‥‥?

 

 

 

さすがに私もこの歳になって解ることは、見返りを求めた時点で、贈り物は贈り物じゃなくなる‥‥という点ですかね。贈り物に即物的なアンサーを期待する時点で、それはもはや「取引・交渉の手段」でしかないもんネ。

 

賢者の贈り物」という絵本がありますが、世知辛い現代においては甘い話‥‥かも知れません。‥‥けど、相手を想った贈り物って、往々にしてそういうものだよね‥‥と思わせてくれるお話です。原作者の生涯は別としても‥‥。

 

*ツヴェルガーの挿絵もイイですネ。こういう絵柄も、もう十分に、アニメーション化できる時代になってきましたから、ちひろさんの絵なども意識しつつ、新しいアニメーションスタイルを作ってみようと思っています。

 

 

 



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