70年代思考=紙=単一単価

定期的に、動画の単価は今の何倍の何百円は必要だ‥‥の文言をツイッターとかで目にするのですが、私が思うに、単価はいくらが適正か‥‥なんて固定単価の額面を議論する時点で、未来はとても暗い‥‥と感じます。

 

私が「未来の暗さ」を「一律単価の話題」から感じ取るのは、「単一単価=線が少なかった昔のアニメ制作=作業費のどんぶり勘定=70年代=解像度の小さな用紙と鉛筆で済んでいた時代」を連想し、現状とのあまりにも大きな齟齬と、過去のシステムから一向に発展できない状況に対する、強い閉塞感と挫折感に苛まれるからです。

 

横線3本の開き口(クチパク)の動画と、模様と装飾だらけのヒロインキャラの動画が、一律単価で取引されているのは、いかにも「線が少なくて品質基準も低かった」70年代のテレビアニメ量産時代の習慣の延長線上です。

 

最近、ふと気づいたのですが、70年代に基盤ができて80〜90年代に発展した日本の作画技術の中で、まさに「当事者」を自覚してやまないタイプの人は、紙を用いた作画=「紙と鉛筆」に固執する傾向が強く、現場の問題提起にしても「単価を上げろ」という論調に傾きがち‥‥だということです。

 

特に深刻だ‥‥と思うのは、当の作画する側が「単価はいくら」と「単一の単価の習慣」から離れられない強い傾向です。「単一の単価でバランスできる」と思い続ける意識の人間が現場の中枢を構成している以上、現場の未来(人材の育成や長期雇用なども含め)はどっちにしろ好転はするはずもない‥‥と、最近では強く思うようになりました。

 

 

「どうやって作業内容が大変か楽かを判断したら良いのか、基準がない」‥‥と言うのは、確かにその通りです。紙に描かれた線画をただ目で見て独自の感想を述べるだけじゃ、測定する基準がないもんネ。

 

私はカットアウトアニメーション・キーフレームアニメーションで用いる絵の、最終段階の清書を自分で作業することも多いので、線を描くのにかかる作業時間の目安・基準を把握しております。‥‥というか、誰でも、清書作業をしたことがあれば、知っているはずです。「線が多ければ多いほど、丁寧に清書すれば、時間はかかる」というあまりにも簡単で単純な作業構造を‥‥です。

 

コンピュータのデータとして線画が存在すれば、線画の画像から、線の量(=画素の量)はコンピュータでカウントできます。

 

紙のまま運用される紙の作画システムでは無理ですが、ペンタブやiPadで描いた「デジタル」の線画は、描かれた描線の量をデータから計測することができます。

 

中間値をどのように査定するかなど、アルゴリズムによって結果に多少の差は出ますが、口パクの絵とドレスを着たヒロインの絵の2枚の絵を比較して「同じ内容だ」と判断するほどズボラでマヌケではありません。どのようなルーチンでも、大体似たような結果=「絵によって内容が違い、作業時間も異なる」ことを示す計測値が出るでしょうし、透明性・公平性を保つため、スキャンアルゴリズムはオープンソースにしても良いでしょう。

 

もちろん、線の多い爆発のケムリと、ヒロインの感情を込めた顔のアップを比較すれば、同じ線の量でも、内容の重要度に大きな差はあるでしょう。動きの難易度も作業時間に影響します。でも、まずは線の量から、動画の「作業時間量」を検出して、作業費に反映させる「くらいのこと」は始めても良いと思います。「デジタル」を作画に導入するのなら‥‥ネ。

 

まあ、これは動画や清書の工程だけに通用するルーチンなので、原画やペイントや美術には独自の仕組みが必要だとは思います。例えば、原画に関して言えば、「演技」「構図」と言った、「清書」「中割り」とは違う技術が必要とされ、簡単には変動制を導入できないでしょう。とはいえ、止め口パクのカットと、キャラが銃弾と爆発を避けながら手前に走ってきて銃撃するカットが、同じ単価なのはどう考えても異常です。原画マンのモチベーションに頼るような作業システムなんて、技術レベル維持の観点から見たら危うい限りですが、アニメ制作現場は今も昔も同じことを延々と続けているんですよネ。

 

 

いったいどこの世界に、大きなマグロも小さなマグロも、同じ価格でセリ落される市場があるのか。デカいマグロは高価にきまってるじゃん。醤油ラーメンと全部のせチャーシューメンを同じ600円で提供するラーメン屋なんてどこにあるのか。新宿に往復1000円で行けるからと言って、東京から函館に往復するのに1000円の交通費しか渡さないなんてありえんでしょ。

 

内容に応じて、価格や費用なんて変わってあたりまえ。

 

そのあたりまえが、アニメ業界では、長い期間、通用しないままです。

 

 

アトムやスーパージェッターのような線の量で済んでれば、そりゃあ、一律単価のどんぶり勘定でも、どうにか受け流せたかも知れません。しかし2017年の現在、60年代当時のアトムやエイトマンスーパージェッターのクオリティでOKなアニメ作品制作って皆無でしょう?

 

もし、生産業のカウンセラーがアニメ制作現場を精査し始めたら、あまりの状態=深刻な問題だらけで卒倒するかも知れませんよネ。品質要求も作業に必要なコストも60〜80年代とはあまりにも大きく違うのに、なぜ、今まで作業基本構造に対して何も改善・改革せずに放置し続けたのか‥‥と。

 

 

 

アニメ業界はさも窮状を訴える被害者のような顔をしますが、コンピュータを始めとした現代の技術をどのようにアニメ制作の効率化に活用すべきかも考えず、効率の極めて悪い70年代の制作方法を延々と踏襲し続け、アニメーターはコンピュータ関連機器を鉛筆の代用品くらいにしか考えず、猛烈に効率が悪く損失率も高い方式を続けておきながら、「現場には金がないんです」って言っても、「まず、外界に窮状を訴える前に、ご自身の浪費と消耗の体質改善をなされてみてはいかがですか」と言い返されて「終了」です。

 

効率化って、当人たちの意識と行動次第なんですよ。アニメって、必ずしも絵コンテ・原動仕・美術・撮影の分業体制という型を踏襲しなくても作れるんですよ。作業を野放図に多人数にバラ撒かずに、少人数で効率的な作業フローを実践して完了させれば、一人に充当できる作業費も大きく向上できる‥‥と、本人たちが「自分ごと」の意識で取り組めば、効果はすぐに形になるのです。

 

効率化や近代化を「誰かが与えてくれるもの」と考えて、どっかりとイスに座ったまま作画だけしてたって、何ひとつ進展しません。作画の人間、特にキャラデザインと作画監督が近代化と効率化に向けて積極的に中心人物として動き出さない限り、作画の現場なんて結局変わらず、うわべだけ「動画の単価が数十円アップしました」という「現場の怒りを受け流す」対策に終始するだけです。

 

 

70〜90年代のままがいい。昔のアニメの作り方が好き。‥‥そうした個人の幸福感や思い出まで他人が干渉して指図するのは、「余計な御世話」だと思います。

 

しかし、そうした個人的な感情が制作システム戦略の意思決定に持ち出されて、技術や運用システムの近代化の足枷となり、現場の発展や改善を阻害するのなら、個人の感情など決して持ち込んではいけないものだと思います。むしろ、個人の感情と実質的な現場の取り組みは明確に分離すべきであって、昔の良き思い出は個人の胸の中に秘めるだけにしておけば良いです。

 

70年代システムの影響下にある、昭和30年代生まれ、40年代生まれ、50〜60年代生まれ、平成0年代(元年)生まれの人々が、2020年以降の日本において、どのような選択をして、どんな進路を進んでいくか。特に、昭和30〜40年代生まれの人間は、もうそろそろ「最後の分岐路」の前に立っているように思います。

 


最近、作画スタッフ募集の要項で「作品提出〜ただし、デジタルは禁止」という条件を、耳にしました。意外に思うかも知れませんが、私はその条件には賛成です。当人の生の画力や状態をジャッジする際に、デジタルだといくらでも「隠れ蓑」が可能だからです。デジタルは、描線をごまかせちゃうのです。

 

生の紙と鉛筆の描線は、形を捉える際の筆致・筆跡だけで、その人間の状態がわかりますし、清書かラフ描きかによって変化する線質の違いも、その人間の特性を示すからです。コンピュータに適当にアシストされるような状況では、本人が今後何十年も背負って生きる「絵」の本質が見えてきません。その点、鉛筆や水彩などで紙に描いた絵は、モロにその人間の技術力が反映されます。

 

人材の能力をジャッジする際に、何のフィルタもアシストも通用しない、生の紙と筆致による提出作品が適しているのは、とてもよく解ります。

 

過去に何度も書いていることですが、デジタルは当人の無能を補うツールではなく、能力を拡張するツールです。

 

デジタルで一時的に、自分の能力を補って取り繕っても、やがてそのバケの皮は剥がれて、より一層、辛辣な現実と向き合うことになりましょう。絵を上手く描けるよう努力しなかった人間が、デジタルの助けを借りて「コラージュ」しても、やがてバレる時がきます。

 

絵が上手くなりたいのなら、周囲の人間の「普通の価値観」なんて顧みずに、狂ったかのように無我夢中に絵を描きまくってこそ‥‥でしょう。「あの子、どうしちゃったのかしら」とお母さんが心配になるくらい、少年少女時代に絵を描いてこそ‥‥です。

 

私はコンピュータのリソースを最大限に活用するように努めますが、それは決して、「画力をデジタルでごまかす」目的ではありません。むしろ、画力を持つ人間の絵が、今まで以上に映像に反映されるようにする「拡張」「伸長」の技術です。

 

「デジタル」は、絵を描くのに挫折した人間の「集合場所」であってはなりません。私は絵が上手い! 自分は強い! ‥‥と紙やタブレットなど手段を問わず描き続けてきた人間が、これから未来の映像フォーマットにおいて十二分に力を発揮するために「デジタルを用いた作画」はあるのです。

 

なので、作画の人材選考において、「デジタル不可」はとても良い方針だと思います。当人の絵に対する生き様が、筆致から読み出せますもんネ。

 

 

ただ、今後のアニメーション映像作品制作においては、紙と鉛筆は「映像フォーマットに対して不適合」と言わざる得ません。画力を育成する際の「紙」と、現場を運用する技術基盤の「紙」は、別のフィールド、カテゴリで語られるべきでしょう。

 

私はここ最近、久々に紙ばかりと向き合ってましたが、もはやHDの現在でも、映像フォーマットに不適合であると思い知りました。線の少ない昔ながらのキャラ、例えばパズーくんやシータさんのようなキャラでもない限り、UHDに対応できる見込みはありません。

 

スキャンで潰れることがわかっていながら、細かいキャラ表に合わせて鉛筆で描くことの虚しさといったら‥‥。

 

A4〜B4サイズで150dpi・二値化の現実から目をそらして生きるのに、この先、どれだけ猶予がありましょうか。

 

我々は今後、高品質映像フォーマットと向き合って作品制作を続けなければなりません。昔話や思い出話で見ないふりしても、現実は確実に立ちはだかってきましょう。

 

私の中ではすでに「もう、紙はダメだわ」という感慨でいっぱいです。現場で用いられるA4〜B4用紙に鉛筆で線を引いても、150dpiで二値化している時点で、現行のHDのポテンシャルすら引き出せませんよネ。UHDになったら、どう運用していくつもりか、業界はまさに「ノーアイデア」でしょう。

 

春先に作業したエンディング映像の、4K60pで再出力した(iPadで4〜6Kで線画を描きました)映像を見ましたが、たとえ20Mbpsの1/100の圧縮率(オリジナルのProRes4444/4K/60pですと2.5Gbpsです)の配信用途のムービーでも、細かいディテールの1つ1つが緻密に動く別次元のニュアンスを実現しており、UHD時代に耐え得るアニメの質感を実感しました。紙では到底不可能な描画領域です。

 

描画の概念が移行し、描き方も変わり、団塊ジュニア上半期の人間たちが60代のおじいちゃん・おばあちゃんになって引退する頃に、紙の時代も終わるのかもなあ‥‥と感じます。

 

 

紙は、人材の能力を見極める際、「ごまかしのきかなさ」ゆえに、とても有効な素材となりえます。しかし一方で、紙の物理的サイズゆえに今後の映像フォーマットの進化には追随できない素材でもあります。

 

今後、制作現場はどのように紙とつきあっていくのか、成り行きは果たして如何に。

 


しみじみと

最近、色々なスタンスの仕事を引き受けて、しみじみ、アニメのような映像作品作りは、バックヤードの状況が映像に表れるものだと感じました。丁寧に長期間かけて準備するテレビもありますし、劇場スペック並みのクオリティを目指すテレビもありますし、時間の極端に少ないテレビもあり‥‥と、金ー時間ー品質の関係性は、なんだかボルトとワットとアンペアみたいなもんだなと改めて認識しました。

 

かつてのバブル経済やリーマンショックがそうであったように、第三次アニメブームなんていわれる現在の状況も偽装構造によって成り立っていると言わざる得ません。中小規模の制作母体でもアニメが作れるようになったここ10年の傾向は、その反動として、急速に業界の基盤を劣化させ、制作システムを老朽化させるに十分だったのでしょう。内部のことが解らない門外漢の人々は浮かれてもしょうがないとしても、インサイダーである制作現場側の人間は、以前のアニメブームの時と比べて、現在の「第三次アニメブーム」がどのように異なるのかを、しっかりと認識しておく必要がありましょう。

 

特に深刻に感じるのは、作画技術の層が急激に痩せている現実です。‥‥なので、ちまたでは「人材の育成を早急に」との言葉が各所で聞かれるのでしょうが、現場に金がない時点で「技術継承」「人材育成」なんて無理なんだと悟ります。技術を継承し人材を育成するにも「金ー時間ー品質」の関係性はついてまわります。

 

時間がなければ、自分の作業をストップして新人に人体やらパースやら平面構成やらの技術をレクチャーすることはできません。私がこの1〜2ヶ月、テレビシリーズの作監を請け負って全く身動きがとれなくなった様子を同僚が見て、「技術の育成、現場の技術力といったところで、仮にこのフロアに作画の新人がやってきたとして、江面さんはその新人に教えてる時間なんて、今ある?」と言われて、しみじみ納得。‥‥たしかに、テレビに関わっている以上は、毛頭無い‥‥ですネ。

 

線がめちゃくちゃ多い昨今のキャラ、ビデオグラムありきの高い品質要求度、期間の短いスケジュール。つまりは、中堅、ベテランが忙殺されるということは、新人が育たないことと同義なのです。

 

そして、パースも美術解剖も平面構成も習得しないまま中堅になってしまったスタッフが第1原画で「形だけのレイアウト上がり」を乱発する‥‥なんていう絵に描いたようなマイナスなスパイラルが発生もします。第1原画だけ作業するので、自分の原画がどのように修正されたかも解らず、技術の自己同期・フィードバックがなされないまま、どんどん歳だけとっていく‥‥というさらなる悪循環まで生じます。

 

新人の時代に右左がわからないのは、決して悪いことではないです。むしろ、当然です。問題は、そうした右左もわからない人間にたいして、技術の継承・伝達がなされず、人材育成が実質上機能しなくなった現状です。

 

で、ぎゃふん、と言われるかも知れませんが、そうした現状はどうにもできないでしょう。なるようにしかなりません。過去から現在へと続くアニメ業界は、誰かモーゼのような高潔な指導者が導いたわけではなく、なんだかんだ言いながらも、なるがままになってきたのです。

 

強固な新人育成プログラムが各現場に明確に確立されていたわけではありません。そもそもフリーランスのアニメーターが会社に席をおいて作業する際に、いきなり新人を指導する立場になるわけもないです。フリーの集まるフロアになんとなく新人や若年を育てる「隣組」みたいな雰囲気があっただけです。会社に所属しているアニメーターが新人を指導することもありましたが、腕が立ってくると独立して、さらなる広範囲な技量を習得するためにも、色々な現場を渡り歩くようになっていきました。

 

そうしたなんとない「人が育つ気風」が、いつしか「人が育たない気風」に変化しただけで、誰かが意図的に操作したものではないのです。世代人口の経緯、アニメブームの浮き沈み、人との関わり方における社会的な気風の変化も、影響していることでしょう。

 

人材を育成‥‥といっても、いきなり他社や他人の自宅に踏み込んで、技術指導するわけにもいかんじゃないですか。「じゃあ、このままで良いと言うのか?」と焦る気持ちもわからないではないですが、育成のメカニズムや実践のコストを計画しもせずに、ヒステリックに焦燥感、危機感だけを募らせても、状況は何も変わっていきません。「キモチの問題」だけで済むような甘い話ではないのは、一定の経験を有していればわかります‥‥よネ。

 

「じゃあ、滅びるしかないじゃん」と思う人もいるでしょうが、滅びるのをアホみたいに指をくわえて待っている人間だけで業界が構成されているわけでもないです。要は、滅びるところは滅び、生き残るところは生き残り、新たに台頭するところは台頭してくる‥‥という野生的とも言える自然淘汰がまた今回も作用するだけです。

 

滅びたくないのなら、滅ばないようにアクションすれば良い‥‥です。当事者たるそれぞれの、人、グループ、会社が‥‥です。

 

最近、テレビの作監を手伝ってしみじみ思ったのは、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」‥‥です。安全地帯で制作現場の未来を語っていても、結局は机上の空論ですもんネ。アニメーション作品制作の未来像を得るためには、キリングフィールドに立ち入って、未来のビジョンを見極める必要があったと痛感します。50代に入る前に、非安全地帯=危険地域の現状を身を以て体感したのは、未来を切り開く上での大きな指針となりました。

 

 

第2次世界大戦でドイツが失った人口は800万人で、現在のドイツにおいてもその影響は続いているらしい‥‥と同僚が話していました。同じく、アニメ業界がこの10年で失った事の影響を、この先の10年20年で嫌という程、思い知ることになるのかも知れません。

 

しかし一方で、日本では第2次世界大戦=太平洋戦争の反動として、団塊、そして団塊ジュニアの世代を形成したのも事実です。滅び、終焉というのは、新たな誕生のサインでもあるのでしょう。

 

ある一定の人々は、現在の状況に対して即物的に反応しがちですが、そうした日和見的感覚に巻き込まれることなく、大局を見据えてこそ、未来に「自分の望む生き方」を実践できるというものです。

 

ずっとアニメを作って生きていきたい? 映像作品に関わって一生を全うしたい? ‥‥だったら、その願いが成就するように、未来をしかと見つめ、順次的・累積的にアクションするしか‥‥‥ないですよネ。

 

私は、未来を諦めるどころか、逆に現状が見えたことで見通しが立って、どのようにすべきかが、数ヶ月前の自分より、明確に意識できるようにもなりました。新しい技術分野をどのように活かすか、そして「戦いの原則」をどのようにこれから未来の制作現場に当てはめて実践していくか、むしろ以前より積極的なキモチです。

 

ドラッカーの言う「基本と原則に反するものは、例外なく破綻する」という言葉は、個人の中にも、組織の中にも、技術体系にも制作運用にも言えることなのでしょう。

 

落胆や悲観などに限りある時間を費やす暇などありません。やることはいっぱいあります。「戦いの原則」を過去の歴史から学びつつ、どのように新旧の技術と織りなしていくか‥‥ということでしょうネ。

 

 


スタイル探求

アニメのキャラは、アニメーションの制作工程の制限を多く反映し、その制限事項がアニメキャラのスタイルを特徴付けています。‥‥なので、新しいアニメーション技法で制作する場合は、必ずしも、旧来の制限事項に沿う必要はありません。もちろん、新しい技法の制限事項に沿うことにはなりますけども。

 

では、新しい技法において、どんなキャラデザインのスタイルの広がりがあるのか。

 

それはもう、描いた人、次第。‥‥という、中々にワイルドな状況です。新しい技法で実現できれば、何でもあり‥‥ですもんネ。

 

iPadを始めとした「デジタル」で絵を描く利点は、様々な試行錯誤を様々なツールを用いて、様々にバージョンを保存しておけることです。何の気になしに描いてみた一枚の絵を、目鼻のバランスや髪型や色彩など色々とイジくってみたりと、A4用紙程度のiPad Proの中で自在に試作できます。

 

昔から、アニメキャラは鼻と口を非常に小さく描く傾向がありますが、最近のキャラクターはその傾向がより一層顕著です。とある監督さんが「そんなに鼻と口を描きたいくないのかなぁ」とおっしゃっていましたが、描きたく無いかは別として、今の時流の感覚として「人間の生きてるナマっぽさ」「実在感」よりももっと他の部分を引き立たせたいが故に、口と鼻には「遠慮してもらっている」のかも知れませんネ。「存在感」は欲しいけど、「実在感」は不要‥‥的な。

 

時流は時流として、何か違うアプローチはないものか、度々、iPadで落書きがてら試行錯誤しています。みんながみんな、同じ絵を描いて、「前に習え」する必要もないと思いますし(今の絵が好きな人が好きなように存分やれば良いのです)、せっかく今までの制限が消えた新技術においては、色んなスタイルのアプローチを試してみようと思っています。

 

例えば、「くりん」としたまなこの、可愛らしい顔立ちのキャラを、目をアニメっぽく大きくするでもなく、鼻と口を点と線で処理するのでもなく、違うスタイルで表現できないものか、iPadで時折描いています。実は、私の好みだけで言えば、大人っぽくて激しくてズルい女キャラ(Lady Double Dealer的な)のほうが好きなのですけどネ。以下は最近描いたもので、一枚の絵から色々とバリーションを作っています。

 

 

生産性にはほど遠い、いかにもスケッチのような状態ですが、線画からイメージすると「元の木阿弥」になることも多いので、あえて使用するペンは制限せずに、描きたいように描いています。新しい技術を前にした時、時には線画で絵を想像するクセから脱することも必要だとも思うのです。

 

それに、実制作においては一旦は線画の描き方に戻って生産性を確保して、その後のコンポジットの技術でこうした水彩画風・イラストタッチのスタイルで動かすことも可能になるので、キャラクター描写のコンセプトボードという意味合いもiPadで試せます。また、髪型を変えるような場合は、紙の場合は一枚の絵から変更するのは難しいですが(絵の具を除去したり上塗りするのは面倒ですし紙が痛んじゃいますもんネ)、iPadなどのコンピュータベースの絵なら大したことでは無いです。

 

 

去年と今年と、テレビアニメに久々に関わって感じたことは、テレビには絶対に死守すべき放映日という防衛ラインがあって、その中で様々な工夫が凝らされているということです。今の時流の絵は、逆の言い方をすれば、淘汰に生き残ったデザインとも言え、どんなに新しい技術が出てこようと、おいそれとはデザインやスタイルを変更できないし、変更するわけにもいかないのです。内情を知れば知るほど、関われば関わるほど、絵に全部色がついて、放映に間に合うだけでも、相当なものだと思います。

 

しかし一方で、新しい技術の取り組みも不断で続けなければ、世の中の映像技術についていけなくなり、旧式化の一途を辿るのも明白です。いきなりテレビアニメで斬新な技法を全面的に取り入れるのではなく、徐々に地ならしを進めることが肝要でしょう。

 

現在こなしていかなければならない仕事と、未来に生き残るための技術開発と、苦しい両面作戦をどのように展開していくかは、誰にも課せられた命題だとも思います。

 

そんな中で、私は、キャラにしてもストーリーにしても、普遍的なスタイルのものをいつしか志向するようになってきました。現在流行している絵にとびついても、10年後には古くなっていることでしょう。今、20代の人も、20年後には40代です。要は、時代性を象徴するようなデザインやスタイルは、必ずその反動が出て、古めかしくなっていくのです。

 

だったら、極端な味付けは極力抑えて、いつの時代に描かれてもおかしくないような絵柄に落ち着いて、丹念に熟成させるスタイルもあって良いかと思っています。もちろん、全てそうあるべきだと言うつもりはなく、数多いスタイルの中の1つとして‥‥です。

 

まあ、言うなれば、ジャズやクラシックのような絵でしょうかね。Bill EvansやWes Montgomeryのような音楽は、今でも色んなところで耳にしますし、ちょっと楽器のチョイスを変えてアレンジを小変更しただけで現代的な味付けも可能です。

 

音楽にも色々なジャンルがあるように、アニメにもこれからは色々なジャンルがあっていいように思います‥‥って、もう40年前に誰かが言ってたような気も‥‥しますネ。

 


透過式タップ穴あけ器

iPad作画を紙運用の作品で用いるには、プリントアウトしてタップ穴を何らかの方法で開けて、「紙として」やりとりする必要があります。

 

最初に誰もが考えるのは、プリンタに作画用紙をセットして印刷する方法ですが、その方法は紙が印刷ユニットにロードされる際に位置がズレるので実用は困難です。ガシャコン!ズルズルズル...と紙が用紙カセットから引き摺り出される際に、ズレないわけがないです。

 

同じ理由で、印刷した用紙に、タップ穴あけ器で穴を開ける方法も実用的ではありません。用紙に対して一枚ごとに印刷位置がズレているわけですから、角合わせも全く意味がなく、盛大にタップ穴がズレてしまいます。ロングショットの口パクで1ミリずれたら、顔面崩壊してしまいますもんネ。

 

ということは、結局は紙タップ(短冊状の紙にタップ穴が開いている)を一枚ごと、位置合わせして、貼り付けていくほか、「許容誤差に収める」方法はない‥‥というのが、今の私の見解です。

 

「ほとんどズレないプリンタもあるよ」と言われても、そのプリンタを買わなければならないし、それはA3用紙まで印刷可能なプリンタなのか、さらには「ほとんど」ではなく「絶対」じゃないと困るわけです。なので、「ズレないプリンタなんて、期待する方が虚しい」という結論に至っています。導入費の問題も深刻で、まさか個人で数十万、数百万もするプリンタを買うわけにはいかないですよネ。

 

しかしタップ穴貼りはかなり面倒。枚数が多い時は、1時間では済まず、2時間近く、作業時間をもぎ取られることもあります。

 

ではどうするのか。

 

私が考えているのは、「紙タップを貼り付ける時間消費を解消する」方法です。

 

紙タップを貼り付ける際、私は正面3箇所、裏面2箇所の5箇所で貼り付けていますが、段取りは以下の通り。

 

  1. プリントアウトした用紙の上部のタップ穴画像に、紙タップを這わせて、位置を合わせる
  2. ズレないように抑えながら中央、左右の3箇所をメンディングテープなどで固定する
  3. 用紙を裏返して、タップ穴周辺の紙を切り取る
  4. 左右2箇所(正面貼り付けの未固定部分の不安定な箇所)をメンディングテープなどで固定する

 

この4行程。中々に手間がかかります。

 

貼りつけ箇所を省くと、貼り付けてない箇所がピラピラと紙が遊んでしまい、イラっときます。用紙を揃えにくいし、ピラピラしたところから裂ける可能性もあります。なので、最低でも4箇所は裏表で固定したいです。

 

しかし、この紙タップ貼りが無ければ、作業時間は大幅に短縮されます。たとえ、一枚ずつ処理しなければならなくても、紙タップの貼り付け作業がないだけで、かなり楽になります。‥‥毎日の実感です。

 

要は、プリントアウトが一枚ずつ位置ズレしている状況は放置し(対応のしようもないから)、どんなに位置ズレを起こしていようと、たとえ一枚ずつでも位置を正確に合わせて、一発で穴あけできれば、上述の4工程の手間は一気に払拭できます。

 

タップ穴あけ機にガイドを設け、そのガイドに一枚ずつでも紙を這わせることができれば、穴が一枚ごとバラバラに無残にズレまくることは防げます。

 

私が考えている装置は、「紙を透過して、紙と穴あけ機のトンボ(位置合わせマーク)を合致させた後に、タップ穴をあける」器具です。

 

 

LEDライトは、穴あけ機に合体させた透明アクリル材の装置の中に設置し、紙のガイドと穴あけ機のガイドを透過する役割を果たします。

 

タップ穴あけ機とライトボックスが合体したような器具です。

 

まあ、制作費の90%はタッピング機ですが、合計、25,000円くらいで作れそうです。こんなこともあろうかと、DIYの各種電動工具を用意しておいてよかった。工具代まで含めると、かなりの額になってしまいますもんネ。

 

まさかな‥‥、此の期に及んで、タップ穴あけのソリューションを製作しようとは。

 

今の仕事には間に合いませんが、とりあえず、作っておこうと思います。紙タップ貼りの作業は、貴重な作業時間をもってかれて、無視できない問題なのです。

 

だからオールデジタルに‥‥というのは、まだ「無い物ねだり」です。近い未来に「あんな器具もつくったっけかな」と懐かしく思える日が来ると良いですネ。

 

 

縦3フレーム、横3フレームなどの大判は対応できるの? ‥‥って、その時は観念して、紙と鉛筆で描きます。紙ベースの作品ならばネ。そもそも私は「紙畑で育った人間」なのですから。

 


増幅器としてのデジタル

私はアニメ制作技術にコンピュータ活用を推進してやまない立場ですが、一方で、いち個人が技術向上を果たす上で「デジタル」が「逃げ道」として使われるのは避けるべきとも考えます。どんなにソフトウェアの機能を駆使しても、本人の画力までは補ってくれませんから、基礎的な知識と技術の習得はどんな道具を使おうと必須です。

 

平面構成の知識、パース技法の知識、人体の知識など、基礎的な技量を身につけるのは、相応に努力と精進が必要ですが、そこから逃れるためにコンピュータや周辺機器やソフトウェアを揃えても、当人の技量を補ってはくれません。

 

「ソフトのバージョンが古いから、俺は絵が下手なのか?」「環境設定をミスってるから、私はうまく描けないのかな?」‥‥‥無い無い無い無い。自分の能力の低さを、コンピュータの何らかの要素に転化する‥‥、それこそが、「逃げ道としてのデジタル」の最たるものです。

 

「コンピュータがあれば、不可能が可能になる」というのは確かにそうですが(例えば、フィルム時代では機材的に不可能でしたが、コンピュータとペンタブとネット環境があれば、一人で自主アニメを作って全世界公開することも可能になりますもんネ)、「無能が有能になる」ことはないのです。

 

自分は線画しか描けない人間だと思っていたけど、色付きイラストをペンタブで描いてみたら、結構いい感じにハマって好評だった‥‥というのは、そもそもその当人が絵が描ける能力を有し、コンピュータがその能力をさらに拡張して展開したからです。自分は絵なんて描いたこともないけど、コンピュータを使えばひょっとして上手い絵が描けるかも‥‥というのは無いです。

 

コンピュータは当人の「状態を拡大」する道具であって、無いものを補う道具でないのです。むしろ、当人の良い部分を拡張してくれると同時に、悪い部分も拡張してしまう、考えてみれば「恐ろしい」道具です。

 

環境を用意する側は、「これだけ性能の高いハードとソフトで固めれば、さぞやクオリティの高い映像が」と思いがちですが、それは半分YESで、半分NOです。作業環境だけで品質の高い映像が作れるのなら、環境だけ整えて、そこらへんを歩いている人に声をかけて雇えば良い‥‥なんて話にもなろうというものです。まあ、それは極論だとしても、程度の差こそあれ、コンピュータを使ったからといって、いきなり映像表現の基礎力が向上するはずもないです。

 

しかし、コンピュータが当人の性質を拡張する‥‥ということは、基礎力に開眼して努力し始めたら、その努力を拡張してくれる頼もしいパートナーにもなり得ます。手が苦手なら、様々な手の形はネット検索で容易に画像が得られますし、体の筋肉や骨格を色んな角度から見たければアートモデル専門のWebでモデル単位で全方位画像を購入もできますし、ネットの決済が嫌ならAmazonの代引きで購入して汎用の画像ビュワーで見ることもできます。いつ形成したかもわからぬ根拠の乏しいプライドで絵を描き続けるのではなく、それこそなぞってトレースするくらい人体を模写しまくれば、得るものは大きいです。

 

でもねえ‥‥「熱中して努力できること自体が、実は当人の資質の根本だ」なんて話になると、こと映像表現に至っては、コンピュータは、そもそも当人が努力できる人間か否かを選り分ける「キビしい選別機」とも言えます。

 

やっぱり、「アニメが好き」なだけでは作画やコンポジターで30,40,50,60代と生きて抜けないですよネ。「アニメが好きなのがきっかけだった」のは良いのですけど、そのきっかけから発展していかないと、正直、40代以降は厳しくなるように思います。

 

ただでさえ「苦しい」「ヤバい」と噂されるアニメの現場に飛び込むのですから、当人がアニメ好きなのは何の付加価値にもならない「当然の前提」です。そうした前提の先には、絵が上手でないと作画では喰っていけないし、映像の動きや光と影に敏感でなければコンポジターとして映像表現の中心的役割は果たせないでしょう。

 

 

コンピュータをプラス増幅器にするか、マイナス増幅器にするか、またはゼロかけるゼロでゼロのままか、当人の気概次第でコロコロと状況は変わります。私は「コンピュータのそういうところ」が何とも憎らしくて、気に入ってる部分でもあるのです。

 


AirDropのトラブル

iPadとMacを橋渡しするには、AirDropが便利です。しかし、そのAirDropが結構「使えなく」なるのです。

 

iPadからiMacが見えない、MacProからiPadが見えない、‥‥ということはよくあります。‥‥‥‥‥よくあるのは、困るんですけどネ。

 

どうすれば直るか‥‥というと、再起動が手っ取り早いんですが、再起動をおこなうにはやりかけのアプリケーションを一旦終了したりと面倒です。

 

なので、何か「AirDrop復活」の方法はないかと色々試してみたところ、以下の3種類の操作で大体直ることがわかってきました。

 

  • Bluetoothの入・切
  • WiFiの入・切
  • AirDropウィンドウの開き直し

 

AirDropはWiFiだけでなく、Bluetoothも使っているので、BluetoothのON/OFFだけでも直ることもあります。

 

‥‥で、なぜAirDropが不具合を起こすのかは、理屈的なところは解ってません。まあ、治ればいいか。‥‥という感じで、深刻に考えるのはヤメています。深刻な問題は、他にも色々あるし。

 

 


テレビこそ

現在、色々な仕事をチャンポンで作業していますが、やはりテレビは過酷です。仕事の依頼を受けた時点でスケジュールがないことも多いですし、作監をお手伝いしようものなら中々にハードな内容(パースから直すような根本的な直し)も多々ありますし、劇場や短尺を丁寧に作る仕事とは全く内容も作業意識も異なります。

 

で、テレビを作業してみて思うのは、テレビシリーズこそ、iPad作画などの「デジタル」作業仕様が活きる‥‥ということです。テレビシリーズのようなスピード重視の制作体制でどれだけカットを「底上げできるか」という作業目的においては、様々なコンピュータの利点を作画作業でも最大限に活かせます。

 

ただまあ、既に紙で流れているカットに、途中からiPad作画を介在させるのは、かなり面倒です。なので、「紙ベースの作品は、基本、紙で」の方針は変わりませんが、作監をやりつつ片手間でレイアウト(=絵コンテから描き起こす最初の工程)を作業する際は、タップ貼りのロスを差し引いても、iPadで作画したほうが格段に作業が速くなるのを実感しました。

 

特に、パースのアシスト機能は超便利。パース技法を習得済みで、パースの原理さえ解っていれば、こんなに便利ツールはなく、乱立する高層建築などもスイスイ描けます。定規でVP(Vanishing Point=消失点)に合わせながら描く手際を、Procreateが「定規の動作」をアシストしてくれるので、フリーハンド一発で建築構造物が描けます。キャラの位置を微調整してカメラ位置(ホリゾンタルライン、VP)の調整も容易です。

 

ただねえ‥‥フローがね。

 

紙とデジタルデータの混在は厄介至極。何の制作ドクトリンもなしに、混在できるほど甘いものではないです。

 

原画周りだけ作業性が良好でも、全体の取り回し的にNGでは、立ち行きません。なので、今はまだダメかな。流れの具合が悪い。

 

 

ただ、遅かれ早かれ、紙はその物理的限界により、未来の映像フォーマットには対応できず、なし崩し的に「デジタル」へと移行するようにも思います。時代がアニメ業界の台所事情に都合よく2Kのままストップするわけないのです。

 

紙に鉛筆で描くのは、「鉛筆の持ち味」を活かすような高級なニュアンス(もちろん、階調トレスだよね、その場合は)を必要とする作品以外では使われなくなっていくと感じます。「線画のインプットメソッド」として捉えるのなら、作業性においても品質的な観点でみても、今のA4〜B4サイズの作画は2Kが終着駅で、紙の時代は「旅の終わり」に近づいています。まさかA3用紙を標準フレームにするわけにはいくまい? でも実は、「拡大作画」で似たこと(=作業サイズを部分的にアップする)はかなり前から実施されており、映像フォーマットと作業サイズの不整合は「拡大作画」を以って、既に未来を暗示しているのです。

 

 

私は数年後に公開する作品においては、2Kで作品を作るべきではないと考えています。数年後の2020年代に発表される作品が2Kだったら、その時点で随分と見劣りすることになるからです。鳴り物入りで公開される2020年の作品が2Kだったら、ショボいの一言です。一生懸命作っていた当時は2Kは妥当でも、完成した時には既に古いものと化していた‥‥なんて、悲劇ではなく喜劇です。最低でも4K24pあたりでしょうネ。未来を着地点とする技術開発や作品制作は、その当時は「非常識」「非現実的」「荒唐無稽」といわれるくらいで「丁度良い」のです。

 

これから先、アニメ制作は、どんな技術展開を見せていくのか。

 

以前の時と同じく、大型の高予算作品から切り替わっていくのか、それとも利便性に気づいてテレビから切り替わっていくのか。どちらにしても、「新しい作り方を確立」したグループが台頭することでしょう。

 

 


技術の本命

カットアウトなどを始めとした、コンピュータを使って絵を動かす技術の本命は、わたし的には何といっても、4K8Kの高解像度で60fps以上のフルモーションで動かすことです。そこにHDRが加わるとさらに決定的にはなりますが、今は4K60pでも十分「本命」としての素性があります。

 

なぜ、4K60pフルモーションが新技術の当座の本命かと言うと、旧来の作画では絶対と言い切っても良いほど不可能な領域だからです。現在、紙と鉛筆と24コマタイムシートの仕事をしているので、4K60pで動いている新技術の映像とのギャップをまさに目の当たりにしています。4K60pフルモーションを現在の原画動画システムでやろうなんて、全く思いません。

 

そもそも、旧来の技術の限界(=新しい映像フォーマットとの乖離が進む現実)をほとほと痛感していたからこそ、新しい技術の模索がスタートしたのですから、旧来技術とのルック上のギャップがあるのは至極当然です。今までは、旧来技術に馴染むためにコマ落としなど故意にスペックを抑制してきましたが、最近ではできる範囲でスペック制限を解くようにしているので、一層、ルックのギャップは大きくなっています‥‥が、それも計画した上でのことです。

 

新技術を用いる新たな仕事も徐々に増えており、最近公開されたクロックワークプラネットのエンディングとは大きく毛色の異なる絵柄の作品も控えております。新技術は構造上の特性で、アニメのセル画以外の作風も容易に扱える性質があります。恐らく次の仕事は、イラスト・絵画指向、ドラマティック指向になると思います。新しい技術は、未開の平野のほんの片隅を開墾し始めた段階でしかなく、今後、どのような作風の仕事をこなしていくか、開拓の楽しみな技術でもあります。

 

* * *

 

思うに、これから先の10年間を見据えた時、「これを選択しておけば大丈夫」なんていう近視眼的技術論ではなく、視野を大きく広げた、柔軟な選択肢を有するアニメーション技術論が、新たな映像フォーマットに対応するため(=映像産業の未来展開)の基盤となるでしょう。

 

その際は、新技術だけでなく、旧来の技術も、改めて技術の「核心」「本質」「本命」を再認識することが必要になります。

 

なぜ「紙と鉛筆を使うのか」、「なぜペンタブで動きの1枚1枚を描くのか」、「ペイント」や「撮影」という工程の存在意義とは何か、アニメ作品を演出するとは結局どう言うことなのか。

 

その技術を選択する意味、技術の本質を改めて認識して、惰性ではなく確信をもって、自分らの技術と向き合う‥‥わけです。

 

「アニメはこのやりかたでしか作れなかったから」なんていう意識では、どんどん「違うやりかた」に侵食されるばかりです。

 

自分たちの扱う技術の「本命」とは何ぞや? ‥‥を再認識をして、存在理由と意義を改めて自覚できれば、どんな新技術が現れようと、容易にはブレない、明確な行動指針が得られましょう。

 

私は紙と鉛筆を今でも使いますし(むしろ最近、紙に戻る時間が増えた)、iPadで旧来フォーマットの作画もしますし、新しい技術を基盤としたアニメも作りますので、それぞれの「長所」と「急所」が作業の過程で浮き彫りになります。

 

旧来技術も新技術も、紙もペンタブも、技術論でフラットに精査すれば良いと考えます。色眼鏡なしで技術と向き合えば、その技術が持っている本質が邪魔されずにストレートに認識できます。

 

実際私は、旧来技術が4K60pで生き抜く方法を、新技術を模索する過程の副産物として得ることができました。「新技術こそは未来の技術だ」とか「従来技術こそアニメだ」みたいなバイアスのかかった捉え方をしていると、ぶっちゃけ、見失うことのほうが多いです。ポリシーなどに振り回されることなく、フラットに色眼鏡なしで、技術の特徴を捉えれば、「各技術の活かしどころ」が見えてくるのです。

 

 

自分たちの技術の本質・本命、長所と急所はいかなるものか。

 

アニメ業界の人々の意志だけでは、社会的な映像技術の進化を止めることはできません。明らかに、旧来アニメ制作技術とって不利な状況が、未来には待ち受けているでしょう。そんな中、技術の中身を技術論ではなく精神論にしてしまっていると、一層、進退窮まる状況に自ら陥っていきます。

 

自分たちの有する技術に対し、妙なプライドで褒め殺しにしたり急所を誤魔化すのではなく、恐れずに正視すれば、むしろ、旧来技術の中に新しさを見出すことも可能ですし、新技術が旧来技術に学ぶことも多々ある‥‥と思っております。

 

 


決戦兵器

ずいぶん前にも書いたことがあるのですが、紙の作画において、私には「決戦の武器」というべきものがありまして、コレです。

 

 

 

 

あと、コレも。

 

 

 

ただのシャーペンと芯ホルダーじゃん。‥‥というのは、たしかにそうなのですが、キモは「芯の径」です。

 

ステッドラーの925の方は「2ミリ」、コヒノール(コイノア)の方は「5.6ミリ」です。

 

 

これで描くと、「延々と描き続けられてしまう」のです。もっと違う言い方をすれば「アドレナリン筆記具」とでもいいましょうか。

 

芯が恐ろしく減らない(正確には、減っても、露出する部分が多いので、描き続けられる)ので、集中力が途切れず、頭の中のイメージを紙に放出し続けられるのです。

 

これはある意味、怖い。

 

体が疲れても、頭の中に絵のイメージが湧き続けることで、いつまでも止められずに描き続けてしまいます。

 

普通の鉛筆は、芯の露出が少ないので、ある一定のところで「鉛筆削りの小休止」が入り、テンションがちょい下がります。0.3〜0.7ミリのシャーペンに至っては、煩わしいほどに腰を折ってきます。

 

しかし、2ミリや5.6ミリは、1回のクリックでかなり持続し、5.6ミリに至っては1〜2時間は余裕でノークリック・無休で描き続けられます。

 

 

まあ、芯の径からして、イメージボードやレイアウトに使うのが適しており、いまどきの細密な瞳をもつキャラの原画には使えません。しかし、イメージを描き留める用途だと、恐ろしい適合性を発揮します。

 

ぶっちゃけ、これを持って、仕事したくない‥‥というのが本音です。「生気を吸い取られる」といいますか、すんごい速度で自分の体の中から紙にエネルギーが吸い取られていくのがわかるのです。‥‥まあ、表現は、あくまでイメージですけど。

 

しかしねえ‥‥いまどきの制作事情は、この決戦兵器を使わないとダメぽな感じがします。

 

 

多分‥‥ですが、うまくプリセットが作れれば、この2ミリと5.6ミリと同じ感触の筆記具が、Procreateでも作れそうな気はします。ただそれは、もうちょっと先にしておこう。iPadでの作業は、「そういうアレ」にしたくないので‥‥。

 

 



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