価値観の時間軸

人は往々にして、今まで体験して、やがて習慣化した、感覚や価値観に、無意識に支配されがちです。私も2003年のイノセンスくらいの頃まで、どうしても「フィルムの風合い」に対する愛着が強く、フィルムのもつ特性を表現のメソッドとしてコンポジットに取り入れていました。

 

例えば「フローティング」という技術は、絶えずカメラが動き続けるメソッドで、「手ブレ」や「ハンディ揺れ」よりもさらに小さく緩やかな揺れをカメラワークに追加するテクニックです。1999年のBlood劇場版で全面的に取り入れ、画面が全く動かなくなる(アニメだと「止め絵」で簡単にそうなる)のを防止していました。

 

前世紀の当時、アニメ制作といえば一般的にはフィルム撮影で、ラッシュチェックは16mm映写機で会議室などで映写してチェックしていましたから(35mm作品でもラッシュは16mm)、それはもう盛大に映像そのものが揺れまくっており、完成した35mmでも「今のレベルでいえば」相当揺れていました。そんな「フィルムの習慣」を身体中に纏っていた私が、業務用モニタに映し出される「デジタルアニメーション」の、「あまりにも整然とした」映像に違和感を感じたのは、今にして考えれば「幼いな」と思うけれど、当時の生理的感覚としては、とても受け入れられるものではありませんでした。

 

ゆえに、フィルムのグレインはもちろん、様々な「フィルムのいい感じ」を「デジタル」の表現の中に模索して、コンポジットの技術として確立していきました。

 

 

‥‥で、今。

 

少なくとも、「フローティング」は使っていません。なぜかと言うと、「デジタル」のあまりにも整然としたルックに、もう身体が慣れきったからです。「フィルムのようじゃなくても、気にならなくなった」のです。

 

しかし、それは私個人の感覚や習慣だけでなく、世間的にも、「デジタル」に馴らされていったのでしょう。20年近く前は、それこそ「CGの違和感が、あーだ、こーだ」と口にしてた人々は、すっかり「デジタル映像」にも慣れ、逆に「フィルムの特性」を古めかしく感じて、「デジタルのマスタリング技術が云々」などとフィルム作品のDVDやBDを責め立てるくらいです。

 

 

要するに、価値観には時間軸が存在し、徐々に、感覚や習慣も移行していくのです。

 

当時は違和感たっぷりでも、時間が経過して、社会の標準になるころには、価値観は既に次の段階や次元に移り変わっているのです。

 

そして、段階的に移行してきた新しい価値観を足場にして、次なる可能性を考えられるようにもなるのです。作品や製品を送り出す側、作り出す側の人間なら、なおさら‥‥です。

 

 

 

私が「デジタル」でアニメーションを取り扱うようになって、得た教訓はズバリ、

 

今の自分の価値観を、信じ過ぎるな

 

‥‥ということです。

 

 

 

むしろ、新しい技術のムーブメントに対し、今、違和感を感じているものにこそ、現時点では理解が及ばないものにこそ、「何か、得体の知れない可能性が潜んでいる」と考えるようになりました。

 

「今の自分の価値観にそぐわないものは、不必要なものだ」と安易に片付けてしまうのは、とんでもない判断ミスや勘違いではないか?‥‥ということです。

 

実際、2004〜6年あたりにアニメ業界全体規模で定着し始めた、「デジタルペイント」と「デジタル撮影」に差し代わったアニメ制作システムは、それからほんの10年前の1990年代は「常識の外側」、いわば「非常識」だったわけですが、2004〜6年にキャリアをスタートした当時の若い人々は、すんなり「デジタル」を受け入れ、それを「常識」として取り入れていったのです。いわゆる、「フィルムのフローを知らない世代」ですが、知らないがゆえに、「フィルムの慣習」を踏襲する必要性をハナから感じていなかった人々の行動が、まさに「価値観には時間軸が存在する」ことを証明しています。

 

 

私は、4Kをベースとし、最低でも24コマフルで動かす映像を、研究がてら、頻繁に目にしているので、たまに深夜のテレビアニメをみると、その線の太さ、動きの分解能の低さに、かなり違和感を感じるようになりました。

 

「ああ、そうだった。アニメというのは、3コマの8fpsが基本で、アップコンのレタス線ゆえに、線も太くなりがちだったんだ」と思い起こすのです。

 

今は世間の人々のほとんどが、2K30iや30pの映像技術圏内の中にいるので、4K60pは「異質の映像質感」です。

 

でもそれは、未来永劫、ずっと持続する感覚でも習慣でもない‥‥と思います。

 

人は、ストレスがないもの、快適なものに、寛容で無防備な性質があります。

 

皆、4K60pの実写映像に、最初のうちは違和感を感じるものの、自然となれていくでしょう。iPhoneのビデオ撮影、ネットでみる映像、テレビのニュース、バラエティ番組、そして何よりも「エロい」コンテンツの映像が、人々を次第に巻き込んで、いつしか価値観を塗り替えていきます。

 

今は技術的基盤が脆弱だとしても、徐々に技術は発展し、「技術的常識」をも時間が塗り替えていきます。

 

私はiPhone6で、2K60pのビデオを撮影してみて、「後でビデオアルバムとして見返すのなら、コレだな」と直感的に思いました。60pの動きが、とてもリアルで、今まで「ホームビデオとはこんなもんだ」と思っていた認識を、良い意味で塗り替えてくれたからです。過去の思い出を、このリアルなモーションで残せたら、どんなにか「記憶の中の映像」が色褪せなかっただろう‥‥と思うのです。「愛する何か」〜人でも犬でも猫でも金魚でも花でも風景でも〜を記録するのなら、フレームレートはかなり重要だと再認識しました。

 

歴史的映像もそうで、もし特別攻撃隊の海軍機が、米機動部隊の空母に突入する映像を、4K60pで残せていたら(SF的「もしも」…ですが)、「映像による追体験」は格段に強いものとなっていたでしょう。正視できないほど、強烈なリアル感が、見るものを圧倒したでしょうネ。

 

 

なぜ、人はテレビをみるのでしょうか。

 

答えは簡単ですよネ。

 

2K30pを求めて、テレビを見ているのではなく、そこに映し出される人々や事象の「光景」「ありさま」を見るためです。

 

アニメも同じです。

 

2K24pの雰囲気が大好き!‥‥だからではないですよネ。

 

 

 

プロになると、そういう根本的な部分が遥か下層に埋もれて、24.0なのか23.976なのかとか、お盆の上の事ばかりに気がまわるようになってしまいます。かくいう私もそうなりがちです。

 

そして一番マズいのは、そうした旧来の技術上の慣習や平均で判断を下してしまおうとするスタンスです。そして、その判断の正しきを何よりも自分を安心させるために、世間の風潮を引き合いに出すこと‥‥です。世間の風潮ほど、大きく揺れ動き、移り変わりのはやいものはない‥‥というのに。

 

iPhoneは日本では流行らない‥‥といってたアナリストは、少々、赤恥をかきましたよネ。

 

 

 

4K60pでアニメのコンテンツを‥‥というのも、旧来の作画の作業慣習や撮影の技術の「平均」で考えれば、何も有益なビジョンなど見えてきません。おそらく、皆が手を出さないのは、「旧来の作画や撮影の技術」や「現場の実情」から抜け出ることが難しいからでしょう。ぶっちゃけ、1秒60コマのタイムシートなんて、果てしなさ過ぎるもんネ。手を出さないのは当然至極。

 

そして、現時点での世間の風潮を引き合いに出して、「そのスタンスや思考で大丈夫」と自分を安心させるのです。そしてこう結論づけます。「アニメはリミテッドだから良いのだ」と。

 

おいおい‥‥。さも皆がそう感じているみたいなことを言わないでよ‥‥。私は、制作費が許されるのなら、枚数を使いたいように自由に使いたい‥‥と、フィルム時代から思ってましたし、ディズニーのマルチプレーンカメラにずっと憧れてましたよ。

 

エコノミ=ローコストが日本の総意みたいに言うなよ‥‥。頼むから。‥‥いつまでたっても、貧乏国じゃんかよ‥‥。

 

 

2000年頃にオール3DCGのアニメに関与したことがありますが、その作品はまさに「日和って」、24fpsの3DCGを12fpsに落としていましたが、あれは単にチープなだけだったな‥‥。アニメ現場気質の「悪しき感覚」で、2コマ打ちのルックに「依存」しただけ‥‥でした。

 

一方、2000年代中頃にスペインで作られたポコヨでは、コマ落としなんて一切せずに、可愛いニュアンスをはちきれんばかりに発揮していました。カリカチュアはされているけど、決してリミテッドではないのです。日本のアニメ現場の慣習とは無縁の、ヨーロッパで作られたのが、功を奏したのでしょうネ。もし日本で作ってたら、無意味なコマ落としが蔓延したでしょう。

 

それに‥‥です。

 

たまに見かける、リミテッドアニメーションと、エコノミーアニメーションを混同して語る論調自体、当人の知識が足りてないのです。リミテッドというのは故意に動きを限定して、表現を強調する「技法」なのよ。‥‥仕方なく、動きの枚数を削っている「状況」とはまるで意図が違います。リミテッドを、枚数を削るエコノミー=ローコストと誤認している時点で、実はまるで説得力に欠けるんですよネ。

 

 

 

アニメ制作においては、もし4K60pをフォーマットとするなら、今までの演出法や作画法は、通用しなくなります。今までの商業アニメの表現スタイルは、フィルム時代の24コマを基礎とし、無意識にせよ意識的にせよ、その分解能による残像感で映像を作っています。当然、フレームレートが変われば、色んな演出上の手練手管が通用しなくなり、新しい演出と作画法の確立が必要となってきます。

 

これは実際に、私が60pで研究してみた感慨でもあって、「映像作品の時間的感覚の取り扱いが一変する」と、恐れおののいた‥‥と言っても過言では無いです。60pで動かしたアニメの映像を見て、「うわー‥‥やばい‥‥。今までの方法があまり通用しなくなるぞ‥‥コレ」と途方にくれたものです。

 

‥‥と同時に、「アリだな」とも思ったのです。

 

アニメはリミテッドなもの、省略されたもの、3コマでカタカタうごくもの‥‥という価値観で絶対視するのではなく、「アニメなのに、なんでこんな不思議な質感なんだろう。今までのアニメとは明らかに違う。つくりもののようで、つくりものでない感覚‥‥というか」‥‥と、新しいアニメ映像の感覚や価値観も、十分イケそうだと思ったのです。

 

絵が動いて喋る、作りものであるはずのアニメが、何か、強烈に存在感を訴えかけてくる‥‥なんて、少なくとも私は「超絶に素敵!」だと思うのです。

 

 

4K60pで今のアニメキャラを動かしたら‥‥などと「現在の時間軸での技術想定や価値基準」で考えるのではなくて、「未来の時間軸」で、4K60pで最大限に生命感を発揮するキャラや作劇の表現を考えるのです。未来への前方予測のマージンを含めて、色々な可能性を探るのです。

 

‥‥そりゃあ、24コマフィルム起点のシステムで培ったスタイルをそのままに、とってつけたように4K60pを当てはめても、しっくりくるはずがない‥‥のです。

 

 

私は、24コマベースのアニメの雰囲気を今でもこよなく愛しております。しかし、その感情は、その感情のままでとっておいて、未知の新しいアニメーションの表現フィールドに進み出で、そこでしか得られないアニメの映像作品を実現して、新たな映像体験へと駒を進めたいのです。

 

今はぶっちゃけ、4K60pのアニメなんて、コストがかかり過ぎます。原画を描いて動画を描いて‥‥という今のスタイルでは到底、60pのフルモーションなんて実現できないですが、新しい技術をもってしても、12秒の尺でレンダリング50時間‥‥とか(まあ、コンポジット内容も大変ではありましたが)、運用的にお話になりません。少なくとも、今は‥‥です。

 

しかしねえ‥‥。今、アニメ業界が「あたりまえ」のようにして運用している「デジタルアニメーション」のフローだって、20年前は困難の連続だったんよ。透過光1つ、手探りだったんだからさ。1998〜99年制作(公開は2000年)のBlood劇場版の、とある1カットでは、その当時のハイスペックPCで5日間レンダリング(100時間越え)したのだって存在しましたしネ。

 

現在の業界の制作システムで、毎日アニメ制作に従事している人々が、新しい技術を目の前にして、「不可能」だとか「前例がない」とか「価値観が合わない」などと感じても、そうした人々が立つ足元そのものが、20年にも満たないちょっと前には「不可能」だとか「前例がない」とか「価値観が合わない」など言われてたものなのですヨ。

 

今、困難であることは、未来への何のバロメーターにもならんです。

 

現在が困難だから、未来も発展していかない…というのは、誤った判断です。昔、そのあたりを紹介する「プロジェクトX」なんていう番組があったじゃないですか。

 

今の技術的な価値観は、10年後20年後には、あてにならないことも多いです。人間の感情は何百年前でも共通する普遍的な価値観がありますが、技術的な価値観はどんどん、それこそ無節操・無慈悲とも言えるくらい、移り変わっていきます。

 

100年続いたことが、数年で消滅寸前まで衰退することだってある‥‥のは、「フィルム」の件で経験したばかりですよネ。

 

 

 

人は、自分のキャリアをもとに、未来の新しい土台や基盤を判断しがちですが、そのキャリアって、何年程度なのよ?‥‥とはよく考えます。

 

私はたかだか30年程度。しかもその間に、いろいろな土台の揺らぎも経験しました。

 

30年程度で、絶対的な価値基準の判断なんて‥‥‥さ、できるはずもないからこそ、新しいムーブメントに対しては、柔軟でいようと心がけたいのです。そもそも、人間の寿命の範囲内で、絶対的な何かって、形作れるのかな‥‥とも思いますしネ。

 

私が知る、経験豊かな人々は、実はそのへん、とても謙虚でフラットで、そして用心深いです。軽はずみに「自分の今の感覚だけで、最終判断」しません。

 

私も、現在の自分に縛られて、技術の限界や価値観の停滞を、自分の中に設けたくない‥‥のです。

 

 


UHD 4KのBD

なんか、略語ばかりでアレですが、要は4K HDRのブルーレイです。もう6万円を切る価格で、プレーヤーが発売されているんですネ。

 

日常会話では「4K、4K」言いますが、4Kは「4K、60p、HDR」の3拍子が揃ってこそ、4Kの真価を発揮します。解像度が4Kになっただけでは、はっきり申しまして、映像のプロでもない限りは見分けがあまりつかないですもん。まあ、撮り方にもよるとは思いますが、解像度だけで「世界が動く」わけはないのです。

 

で、アニメの今の作り方は、もう聞きたくもないでしょうが、「4K、60p、HDR」のどれにも対応できない限界があります。

 

私が「何かに取り憑かれたように」このブログで書き続けていることは、まさに「ソコ」なのです。アニメ業界が「デジタル作画」でどんなに盛り上がろうと、原画動画の単価制で作業分配するシステムのままでは、全く、時代についていけないのです。

 

実は、私らの作業グループで新技術にて引き受ける仕事は、内部的には4K対応のフォーマットで運用しています。これは全くもって制作条件とは切り離した内部的な取り組みで、量産試作機の初期型が実戦に参加するようなものです。アニメ業界ののんびりとした4K対応など待たずとも、自前で経験と実績が蓄積できますし、ゆくゆくは、4K商談のサンプルにも使えますしネ。

 

新技術のアニメで、わざわざ低解像度合わせの2Kで作る必要すらない‥‥と思う雰囲気すらあります。‥‥だってさ、新技術で苦労して作るのなら、高品質にフィニッシュして、「明日に繋げたい」じゃないですか。

 

 

4Kテレビは50型で10万円台前半、プレーヤーは5万円台。4K60pHDRの再生環境は、もう20万円を切るくらいまで、落ちてきたのですネ。ほんの数年前とは大きな違いです。そして厄介な3Dテレビは消えてくれて、これも時代の流れですネ。

 

足りないのは、4Kのアニメのコンテンツ。

 

アップコンやドットバイドットで作っている2Kアニメと比べて、4Kのアニメは映像表現面でも大きな差が出ますよ。もちろん、4Kを活かした演出法と作画法は必須となりますけども、ゆえに、旧来2Kアニメとは品質面で見た目上の差が出せます。

 

私らとしては、早めにオセロゲームの四隅を押さえてしまって、この先の10年20年を有利に展開したいと思っています。

 

 

一方、「デジタル作画」を旗振りしている人々は、現在から未来へと続く、長期的な映像戦略を見据えているのでしょうか‥‥ネ?

 

飛来するB-29を竹槍やライフルで迎撃できると思っているのか。航空戦がとって変わろうとしている時代に、大艦巨砲主義の大和と武蔵を建造して、それで勝てると思っているのか。巴戦の古風な空中戦でジェット機時代の制空権を掌握できると思っているのか。

 

アニメ業界「大本営トップ」的立ち位置の人間たちの戦略上の判断は、果たして、正しい方向を志向しているのでしょうか。

 

心に夢を抱いた若者を粗末な特殊攻撃機に乗り込ませて、特殊攻撃に飛び立たせていったのと、結局は似たことをくりかえしているようにすら思います。「デジタル」をジェット特殊攻撃機「橘花〜海軍特攻機に命名される「花」は「散る花」の意〜にしないでほしい‥‥と切に思います。

 

 

まあ、今の作り方に限界を感じたならば、そこで心中する必要はないです。

 

4Kテレビで、綺麗に滑らかにコク深く映し出される、未来のアニメーション作品を作りたいと思うのならば、私らと合力して、次世代を勝ち取りにいきましょうヨ。

 

 


タイムシート

新しいアニメーション技術には、旧来のタイムシートに記述できないテクニックがあまりにも多いです。モーションの24fps分解能でのタイミングを書き留めるくらいしかできず、いわゆる「作画上」も「ペイント上」も「撮影上」も、コンピュータならではの新しい技術をタイムシートには記述できないのです。

 

これはすなわち、どんなに新しい映像フォーマットが台頭してきても、タイムシートががっちりと昔の流儀に縛りつけて離さない‥‥ということでもあります。

 

いわゆるCutout Animation的な技術は、どうやってタイムシートに記述すればよいのか。まさか、全部、TB,TU,SLで記述するわけにもいかないでしょう。

 

Live2Dのようなキャラクターの「リグ」を組んだ動きはAfter Effectsでも可能ですが、タイムシートには全く記述できません。

 

そもそも3D空間のZ軸を記述することすらできません。

 

ピクセルモーション、ディストーション、三角メッシュやボーンで動かす時も、どこに何とも書けません。

 

フレームレートが24fps固定なのも、いかにも未来の展開上で危ういです。

 

 

例えば、納品は30pでお願いします‥‥なんていうオーダーは、ゲームのOPなどで2000年代の以前から存在しますが、24コマタイムシート上では何も対応できません。まあ、撮影上のテクニックでバックグラウンドで吸収してしまいますが、タイムシートがかたくなに24コマである以上、24コマの呪縛からアニメは逃れることもできません。

 

ちなみに、30p納品の技術は、未だに撮影を引き受けるグループによって技術格差があり、私が数年前に見た事例だと、まさかの「1234456788」で処理している作品がありました。納品した先のクライアントから「動きがシャクる」と言われたようで、そりゃ、当然ですよネ。「1234456788」で処理したら、PANなんてシャクるにきまっています。

*24コマで作っちゃった映像を30フレに変換するには、何らかの方法で4コマ分を5フレーム分に増やす必要があります。でも一番の解決策は、24コマで30fpsプログレッシブで作る方法ですが、それって案外普及してないんですよネ。

 

どうも、30pで納品してと言われたのに、24コマしか技術がないから、当初「WSSWW」のフィールド合成処理のプルダウンで納品したらしく、「絵が汚い」とダメだしをくらったので、仕方なく「1234456788」で処理したようです。‥‥で「納品拒否」をくらったその他社作品を、様々なトラブルの解決を含めて、同僚が作り直しの処理をしていました。

 

24コマタイムシートの世界しか知らないから、ちょっと違う映像フォーマットにぶち当たっただけで、すぐに対応不可能になる‥‥という事例を何度も見てきました。アニメ業界の結構な「弱点」であり、「触れられたくない部分」ですネ。

 

 

新しいアニメーション技術でもタイミングを記述するスプレッドシートは必要ですが、それはもはや「何コマ」の固定されたフレームレートはありません。秒は小数点で扱い、タイミングの分解能を24分割でラフに表現することはあっても、24コマ固定では一切ありません。

 

48fpsでも、59.94fpsでも、96fpsでも120fpsでも対応していく所存です。‥‥もちろん、納品フォーマットのフレーム数に応じて、制作費も制作期間もより多く必要になりますけど、対応できない制限はありません。

 

まあ、たしかに、タイミングを記述するシートは、フォーマットの策定が難しく、私も手を焼いていますが、テーマははっきりしています。

 

新しい技術を活用でき、新しい映像フォーマットに対応できること

 

命題が明確なら、いくつものアプローチで解決への糸口が見えます。

 

 

一方、「デジタル作画」では、そのへんの話題は「暗黙の御法度」みたいになっているようで、誰も口に出したがらないようです。

 

まあ、つまりは、新しい映像フォーマットの「ビジネスチャンス」を逃し続けるということでもあります。どんなにアニメ業界で触れたくない話題であっても、世の中の流れやビジネスはアニメ業界の弱点など考慮しませんから、徐々に、そして確実に、時代性を失っていく状況を招くでしょう。

 

アニメ業界が対応に足踏みしている間に、新しい技術をもった勢力が、仕事をどんどん引き入れて、実績と技術基盤を築いていきます。アニメ業界の作業者たちが、相変わらずの単価制度でスペックオーバーの仕事で苦しんでいる同時期に、新しい技術を持った人間たちは、有利な仕事をこなして、有利な状況をかたち作っていきます。

 

「そんなのズルい」と言っても、新しい技術を開発して基盤を確立する苦労は引き受けようとしないのだから、新しい仕事を新しい勢力に取られても、ズルくも何ともありません。開発にはたくさんのお金と時間が必要ですが、その対価を支払ってないのですから、新技術ベースの有利な仕事も手にはいるわけはないのです。

 

 

タイムシートは、いわば、アニメ業界・制作現場の今の姿を映し出す「鏡」とも言えます。

 

タイムシートのフォーマットの内容をみれば、アニメ業界のアニメ制作技術がどの段階かがわかります。どんなにデジタルデータ化しても、フォーマットが24コマフィルム時代のままだと、アニメ制作現場の技術レベルもその段階だ‥‥ということです。

 

タイムシートのフォーマットが根底から変わり始めた時、アニメ業界も根底から変わり始めるのでしょう。

 

 


ジェットエンジンだけぢゃジェット戦闘機にはならない

日本のアニメ制作技術が、欧米に比べて遅れをとっていると言うのは、確かに事実です。しかし、紙と鉛筆を捨て、「デジタルで今まで通りの原画と動画」を作業しても、欧米には全く追いつくことができません。

 

「作画作業用のコンピュータとペンタブ」を導入すれば、無条件に近代化できるわけではないのです。「欧米に比べて、日本は紙のままで、遅れをとっている」という論調は、実は全然、的を得ていません。私は自己研究の中で、線画までを紙で描き、動かす作業をコンピュータの各種機能でおこなっていましたから、「鉛筆だタブレットだ」というのは単なる入力メソッドに過ぎません。

 

要は、アニメの根本である、絵を動かす技術基盤を、コンピュータでリビルドしない限り、「欧米」には追いつけないのです。入力メソッドの入れ替えで解決する問題ではありません。

 

私が最近の「デジタル作画の盛り上げ」の風潮に全く気乗りもしなければ、同調もできないのは、その辺に由来します。

 

「日本は欧米に遅れをとっているから、デジタル作画で挽回すべし」というのは、いわば、零戦52型を無理やり改造して、ジェットエンジンを積んだ零戦71型を作るようなものです。そして、その零戦71型で編成されるのは、相変わらずの「特別攻撃隊」です。

 

だから、イヤなんだってば。

 

一番重要なのは、目先のペンタブやソフトの話ではなく、絵を動かす「技術の思想」そのものなんだってば。

 

私がもし零戦71型を「使い道アリ」と思うのならば、それは「どんな原型機でも良いから、ジェットを積んで試験飛行をする」とか、「旧型の機体にジェットエンジンを積んで、訓練飛行に使う」とかです。

 

実戦の、しかも主力装備として、ジェットエンジン型の零戦71型は、あまりにも虚しいと思っています。

 

 

零戦は何だか描く気がしないので(悲しい飛行機ですもんネ)、架空の日本機モドキで描きますが、現状の紙と鉛筆の作画を日本のレシプロ機に例えるなら‥‥

 

 

……のような感じです。いかにも小回りがきいて、ドッグファイトに強そうな感じです。

*ところどころ、柔らかそうなメカですけど。

 

そして、「原画と動画をデジタルで近代化だ」と言ってる未来像は、だいたい、こんな感じ。

 

ホントに、レシプロ戦闘機のエンジンを、ジェットに換装しただけです。用兵の思想も「格闘戦至上主義」を色濃く継承しています。

*実際、レシプロ機の絵の一部を消して描き直しただけです。

 

作画作業を、紙と鉛筆ではなく、タブレットで作業しよう‥‥というのは、「絵を生み出すエンジン」が「紙」から「コンピュータ」に変わっただけですから、別に何の嫌味でもなく、上図のような姿と言えます。実際、こういうレシプロ機の面影の濃いジェット機は実在しました。

 

飛行機をあまり知らない人は、上図のジェット機の「何がいけないのか」、よくわからないかも知れませんが、よりパワーの出るジェットエンジンの利点を全く活かせてない点が、イカんのです。「旧式な機体のスタイル」がジェットエンジンのポテンシャルを制限しちゃってるのです。

 

似たようなこと‥‥ですが、作画作業をコンピュータに移行しても、結局、実質的な内容が、紙と鉛筆の「作業スタイル」のままでは、コンピュータのパワーを活かせません。様々なコンピュータの機能を活用せず、紙と鉛筆の代用品にしている時点で、「ちょっと便利」くらいです。コピペが楽だな‥‥とか。

 

じゃあ、どんな機体のスタイル・デザインがジェットに適していたか‥‥というと、

 

 

‥‥のような後退角のデザインです。ジェット先進国のドイツで既に戦時中から研究が進んでいました。速度面で、レシプロ機の直線翼より効率的で有利でした。

 

作画に話を戻しますと、コンピュータのパワーにいち早く気づいたであろう欧米某国では、既に5〜6年以上前から「アニメ作画の後退翼」とも言える、様々な新しい作画技術を具現化したプロモーションビデオが完成していました。このブログでもちょっとだけ触れたことがあるかも知れませんが、当時仕事がらみで見て、かなりのショックを受けたものです。

 

欧米のソレは、ごく普通に、アニメの映像作品として成立していました。アニメの動かす新技術の合わせ技にとどまらず、カラースクリプトも徹底されていました。う〜ん、欧米パワー、恐るべし。日本でよく耳にした「Flashアニメ」とか言われていた映像とは、一線を画していたのです。それが5〜6年以上も前の話です。(多分、もっと前に映像は完成していたでしょうね)

 

私は当時(まあ、今も‥‥ですが)あくまで個人研究、欧米大手は会社のプロジェクトとして技術をどんどん構築していましたから、なんとも悲しく、侘しい感情に苛まれたものです。日本はいつまでたっても、発明と開発のできない国なんだなあ‥‥と。

*ちなみに、そのPVは、未だ世の中では公開されておりません。なので、私も詳しくは喋れません。

 

 

ジェットエンジンに動力源を変更するということは、様々な技術の革新が求められるのです。

 

同じく、作画の「エンジン」を、紙と鉛筆からコンピュータへと移行することも、様々な作画技術の革新が求められていきます。

 

単に「道具がペンタブになった。ソフトは何がいいかな」なんていうレベルを、「改革の目標」にしているようでは、はっきり言って、どうしようもない‥‥のです。

 

そして、先導役の人間たちが、「原画と動画をペンタブで作業しよう」なんて旗印を掲げているようでは、同じく、どうしようもありません。旗印は、「未来への行動の核心」を記すべきだと思うのです。

 

 

作画技術を近代化することは、原画と動画をペンタブで作業し、旧来のエコシステムの存続させることですか?

 

作画技術やシステムそのものを、未来の映像技術に適応させて、時代とともにアニメを産業として成立させ、アニメを末長く作り続けることではないですか?

 

 

私は、旧来の枠組みを取り払って、コンピュータのポテンシャルを引き出す新時代のアニメ制作技術を、地道に積んでいくことだと思っています。

 

今までのワークフローに固執し、枠組みに執着している以上、どんなに新しい「エンジン」が新開発されても、旧来の限界を突破することはできないでしょう。

 

旧来の枠組みを守りたいのなら、旧来のお金の問題もずっと引きずっていくしかないです。「日本のアニメーターは貧乏」なんていうフレーズを少なくとも私は30年前以上から聞き続けていましたが、それは原画と動画をペンタブで作画しても変わることはありません。デジタル作画だからって、単価が極めて優遇されるわけでも、5倍の効率を手に入れられるわけでもないわけですからネ。マシンのイニシャル&ランニングコストで、僅かな効率アップも相殺されるので、下手をすると、紙時代よりもマイナスに転じるフリーアニメーターも出てくるんじゃないですかネ。「デジタル作画」の話題の時は、そういう部分には綺麗に蓋をするよね‥‥。

 

 

旧来のセクショナリズムを撤廃した上で、コンピュータを導入してその優位点をふんだんに活用すれば、技術も、報酬も、大きく様変わりします。実際、私は今月後半から来月頭にかけて、短尺パッケージの原画全てと動画1200〜1500枚相当をひとりで作業することになりますが、それを今までの原動画技術でおこなうのは全く不可能ですもん。新技術だから引き受けられる仕事です。もちろん、報酬はその物量に対してのものなので、相応な額が出ます。

*ちなみに、技術の安易なコピペと流出を、「共有」とか「セクショナリズムの撤廃」とすり替えるのは、一番マズいので、取り扱いには十分注意したいですネ。流出によって技術を受け取った人は、それを「タダで手に入った」としか思わないもの‥‥なんですヨ。タダで手に入ったので、タダでさらにバラ撒いて、技術開発に金がかかるなんて全く思わない人種は、残念ながらそこそこ多数存在するのです。

 

しかも、キャラの中割りでのキャラ崩れもなければ、割りミスも色パカもなく、動きは中枚数など全く気にせずいくらでも滑らかに描写でき、今まであまりにも大変で避けてきた繊細な描写も可能‥‥と、作業する側も完成物を手にする側も、良好な相互関係を築けます。

 

私が進めている、そうした作画技術の発展計画を、上図の流れで飛行機に例えるならば、前述のコレを‥‥

 

 

下図のような‥‥

 

‥‥デザインへ進化させることを第1段階目標とします。

 

今までの「ドッグファイト用の機関砲」、つまり作画で動かす技術と同時に、ミサイルという新兵器、つまりトランスフォームやディストーション、ボーンや三角メッシュで作画する「新世代の武装」も併設し、機体はあらゆる空気抵抗を減らすため、より流線的に洗練=ワークフローを洗練させていきます。エンジンのパワーを速度に直結させるため、後退翼はいわずもがな‥‥です。

 

次は、データベースをガッチリ組んで、「全天候型レーダー」的な作業ができる‥‥

 

 

‥‥のような形態へと進化したいです。

*これでも、まだ日本機モドキのパーツはかろうじて残っています。胴体のパネルの一部‥‥とか。

 

そして、できれば6〜8年以内に、もはやレシプロ機の面影などどこにもない‥‥

 

 

‥‥のようなレベルまで進化できたらと思います。これでも、まだまだジェット機の歴史で例えれば、ジェット第2世代くらい‥‥ですもんネ。

*原型の日本機モドキからは何も流用せず、全部消して描いたら、こんな粗うなってしまいました。

 

F-14や15、F-16や18、フランカーやラプターやF-35なんて、高望みなんてしません。まずは第2世代のジェット機レベルまで、アニメの技術を進化させるだけでも、2020年代前半は上出来と思います。

 

 

このブログは文字で書くがゆえに、文字で何かを伝えるメディアですが、こうした「発展の理想」は、何よりも作品の表現で日々実践していけば良いと思います。

 

今年は去年以上に、色々と発展できそうな予感。やっぱり、ピンチの時代はチャンスの時代なのです。

 

もう、可愛いキャラでも、リアル風なキャラでも、キュートでもハードでもヘヴィでもクールでもkawaiiでも、何でも実践するものは実践していきます。自己研究はそろそろ切り上げて、次なるフェイズに突入せねば‥‥です。

 

「業界の総意」がどういう意向や流れでも、結局は自分たちの会社、自分たちのグループ、そして自分‥‥ですよネ。まず、そこを大事にして発展させていかないと。

 

 

 

 


Fire 40秒。

古いiPadやFireは、もっぱら設定やコンテのビュワーです。

 

古いけれど、9インチに2560pxをブっこんだFire HDXは、設定ビュワーとしてはスペックオーバーとも言えるタブレットです。

 

なぜ、Amazonはこのハイエンドタブレットの製品ラインをやめてしまったのか‥‥と思いますが、おそらくコストを含めた品質上の問題と思われます。私のHDXは、驚くべきことに、ディスプレイ表面が何かに押し上げられるように湾曲し、本体とディスプレイ表面に隙間が生じています。

 

9インチに2.5K(2560x1600)を詰め込んだ高密度液晶のタブレットを、5万円以下で売る‥‥という無理がタタったんじゃないでしょうか。画面が剥がれて反り返ったり、液晶のバックライトのムラはどんどん酷くなるし(設定を見るぶんには全く問題ないです)で、本体の崩壊が始まっております。

 

「いつか、壊れるだろうな」と思いながら、実用上はとりあえず問題ないので、そのまま使っています。

 

‥‥が、今日、作業に入ろうと思ったら、電源が入りません。画面が真っ暗。

 

「うわー、ついに来たか」と思いましたが、とりあえずそこそこ高価なタブレット(HDX 8.9, 32GBモデル 45,800円)だったので、対応策を検索してみたら、アマゾン本家にありました。

 

クイックヘルプ:画面の反応が遅い、またはフリーズした場合

 

Fireの場合、「電源ボタンの40秒の長押し」で、再起動できるようです。

 

 

端末アクセサリ(カバーも含む)を全て外して、電源長押しすること40秒くらい。

 

見事に電源が入りました。画面に映し出されたのは、いつもの300ppi越えの綺麗なディスプレイ。

 

ほんの10分くらいでトラブルは解決。平常作業〜。

 

 


柔軟路線

前回、コンピュータを外国の食材に例えて、「異国の新しい食材を、新しい調理法で」‥‥のような例えを書きましたが、異国ならではの調理法だと、イマイチ馴染みというかレスポンスが芳しくないのを感じます。日本には、アニメの表現域の余裕がまだまだたっぷりあって、様々なスタイルを模索するのが新技術の醍醐味ですが、新しい表現スタイルは確立するまでそれなりの時間を要します。幾度とないエラー&リトライが必要です。

 

なので、最近は「和風のアレンジ」、いわゆる「柔軟路線」も考えるようになりました。

 

「和風アレンジ」は、西洋の食べ物が日本に入ってきた頃、盛んにおこなわれましたよネ。

 

まさにその「和風アレンジ」アニメ技術版の柔軟路線を現在制作中。

 

しかし、新しい食材を和風にしすぎて、「これ、里芋? 大根? イワシ?」と思われては、新しい食材を調理する「技術者」の気概もシオシオですから、うまいこと、新技術の旨味も凝縮させたいと思っています。

 

「和風」の絵は、やっぱり、落とし所が見つけやすくて、絵になりやすいので、良いですネ。

 

ただ、せっかくなので、ディテールの端々に、「トラディショナルスタイル」他から抽出した様々な新機軸を盛り込む所存です。

 

和風伝統の、綺麗で可愛いキャラをより綺麗で可愛くするために。


時代は幾度となく

「デジタル作画」の話題を書いていると、1996年に私が「デジタルアニメーション」の現場に参加した時のことが、頻繁にフラッシュバックします。

 

当時の状況は、「コンピュータでアニメの工程の一部をリプレース」し、Photoshop的な「逆光」とか「変形」などコテコテの「CG要素」が2Dの「新しい技」、加えて、3DCGとの「合わせ技」が、まさに「デジタルアニメーションの真骨頂」とでも言わんばかりで、「絵全体のかっこよさ、美しさ」はまるで眼中にないような絵作りでした。ゆえに「コンピュータを導入しても、最終的にこんな画面を作ってちゃ意味ないだろ」と思っていました。私が1996年のそうした「デジタルアニメーション」の現場に呼ばれたのは、まさに「そこ」を改善する役割として‥‥でした。

 

日本の料理しか食べたことのない人々のところへ、外国帰りの人が「これが新しい食材だ」とばかりに、日本には存在しなかった異国の食材をただ単に皿に盛って出すのだけれど、箸でつついて食べて見ても「一向に美味しく感じない」‥‥というようなことが、当時の「デジタル」黎明期に発生していたのです。どんなに新しい食材で美味しさのポテンシャルを秘めていても、料理もしないでドンと皿に盛るだけじゃどうにもならないのを、「素材は調達できても、料理はできない」人にはわからなかったのです。

 

新しい素材を手に入れたのなら、新しい調理法で料理を作って、対価を支払うお客さんに新しい味覚を味ってもらって、「でしょでしょ? 美味しいでしょ?」と作った側も受け取る側も共に喜びたいと思うのです。

 

 

以下、マーケティングの古典からの引用です。

 

産業活動とは、製品を生産するプロセスではなく、顧客を満足させるプロセスであることを、すべてのビジネスマンは理解しなければならない。

 

 

「自分たちの作っているのは、製品ではない。作品だ。」と言いたい人も中にはいるでしょう。

 

しかし、その「作品」とて、「人が見て、対価を支払うこと」が大前提です。特に、市場に流通する「アニメ作品」の場合は、「作品は製品として」人々の手に届きます。

 

「アニメ作品」は、作った本人がどんな考え方であろうと、「アニメ商品」の宿命を帯びています。

 

作品は「アーティスト」の作る「純粋な」創作行為の成果物であって、お金の儲けは全く関係ない。どんな人が何人見ようが全然関係ない。極論、誰も見てくれなくてもいい‥‥とでもいうのでしょうか。‥‥少なくとも、私はそんなことを言い出す監督さんを「キャリアの乏しい新人以外」では見たことがないです。

 

ある程度の長い年月、映像制作の現場で、作品作りに参加した人ならば、商品として流通する創作物には、作品と商品の「扱いにくい二面性」があることは承知していますよネ。ですから、映像作品・映像商品を作ることになる我々は、創作とマーケティングの2要素を、頭の中で、そして作りあげる過程において、葛藤させるわけです。

 

その時の都合に合わせて、「アーティストだ」「商人だ」「作業者だ」「表現者だ」と自分の立ち位置をコロコロ変えるのではなく、それらを全て併せ持ったキメラだと覚悟すれば良いだけです。

 

なので、上記引用文を言い換えるならば‥‥

 

作品制作活動とは、作品を創作するプロセスではなく、作品によって観客を魅了するプロセスであることを、すべての制作者は理解しなければならない。

 

‥‥とも言えます。「魅了」とは必ずしも「明るくハッピー」なだけでなく、「ズーンと心に重く響いた」「とても切なく悲しい気持ちになった」「深く考えさせられた」でも、魅了と言えます。そしてその「魅了」が「次なる創作」と「産業の流れ」に結びついていくのです。

 

 

‥‥で、アニメ作品を「商品」と「作品」の両面で捉えた時、「デジタル作画」は「商品製造的に」どのようなメリットがあるのか、「作品創作的に」どのようなメリットがあるのか。

 

「商品的」「作品的」の2つに対して、「デジタル作画」が果たす役割は、かなり曖昧です。

 

 

しかし、「デジタル作画」を「過程」と見るならば、存在意義はあります。絵描きの人間が、道具としてのコンピュータに慣れる‥‥という効能において。

 

そして、「デジタル作画」をきっかけとして育成した若い作画スタッフが、その後の新時代のアニメーション作画の「エバンジェリスト」として未来に機能するのなら、過渡的な「デジタル作画」とて、決して「徒花」ではないでしょう。

 

とにかく現場の少数でもコンピュータの「様々な扱い」に慣れなくては、「デジタルデータ」時代の映像制作における、次世代フォーマットの新しい技術によるアニメーション制作なんて、作品づくりにしても商品づくりにしても、実質的に進展しないですもんネ。

 

だから、業界をあげて、デジタル作画に移行しようなんて、妙なナショナリズムをぶち上げるのは、わたし的には不信だし懐疑的です。やりたくない人まで巻き込む必要はなしです。やりたい人だけがやればいいのです。

 

時代は幾度となく、再現します。‥‥だとするなら、技術の発展や浸透は、あくまで競争の原理で高めていけば良いと思います。

 

 


デジタル作画に対する判断

「デジタル作画」に利点を感じないのであれば、無理に導入する必要など無いと思ってます。実際、私の主力は「コンピュータで絵を描いて動かす」技術であって、決して「デジタル作画」では無いです。何度も書いてきていることですが、原画や動画を単純にコンピュータへと移行した「デジタル作画」で何か劇的な導入効果が得られるか?‥‥と言えば、私の見解では「No」のまま変わりません。

 

しかし、「コンピュータによるアニメーション制作統合環境(APIE)」の一環の中で、旧来の原画スタイルの作業も可能なので、ぼちぼち引き受けています。互換機能を使って、です。

 

実際に私が引き受ける「高額な」仕事は、「デジタル作画」では一切なく、コンピュータ作画統合技術によるものです。

 

 

実際、「デジタル作画」を標榜する人々が、どのような現場の収益モデルを思い描いているのか、よくわからんのです。

 

そして、その「デジタル作画」が顧客(アニメ作品のフォロワー)に対して、どのようなユーザエクスペリエンスを提供すると考えているのか、その辺もよく伝わりません。そもそも、現場の内輪だけの話で、アニメ作品を手にする人々のことなど、考えてもいないフシを感じます。手描きで何千枚も描く以上、やっぱり細かい絵はキツいし、枚数の制限は依然として存在しますから、成果物は紙の時代と何も変わらないのです。

 

何か、「現場をデジタルにすることだけが意義」のようにすら、受け取れるのです。公の文書(ネットのテキストも含む)を読む以上は、「作画までデジタルに移行することで、現場、制作者、そして顧客に、何のメリットがあるのか」が不明瞭なんですよネ。

 

 

何度も何度も書いていますが、コンピュータは相当悪質な金食い虫なので、相応の効率的な映像制作システムを有し得なければ、何をどう考えても「原画動画を高価なコンピュータ機器で作業するだけ」では大した収益など得られないと思います。

 

その昔に放映した「プロジェクトX」の「Suicaカード」のエピソードを今一度、見返して欲しいですが(流石にネットでは見れないので、こちらのPDFを)、「デジタル作画」を導入することで何の利点が存在するのか、真剣に見直す時期がきているでしょうネ。

 

 

実際、「デジタル作画の利点って、何?」

 

 

私が見た「その筋」の資料によると、「欧米に比べて、日本は紙のままで、遅れをとっている」みたいな言い草ばかりが目につき、なるほどと思えるような要素が希薄でした。「なぜ、紙のままだと遅れをとっていると言えるのか?」の納得できる説明が見当たらなかったのです。

 

何か、コンピュータを使わないと退歩的で「悪し」で、コンピュータを使えば進歩的で「良し」みたいな、当事者の勝手な思い込みすら感じます。

 

それに、「デジタル作画」が従来の作画作業の「代替」であるのなら、その時点で負けていると思います。いかにも、近視眼的過ぎますもん。

 

 

 

なぜ、「デジタル作画」を、いくつかの協会団体は推進しようとするのでしょうかね? 協会で進めるべきことなのかな。

 

 

ある人は言っておりました。「自分は老眼が進行して、もう紙じゃ描けないから、デジタルで描きたい」と。

 

私は、紙を取り回す労力よりも、iPadで拡大縮小回転上下左右でグリグリとキャンバスを動かしながら、多彩な機能で絵を描く利点を知っているので、事あるごとに「iPad作画」の良さをこのブログで書きますし、紙運用の煩わしさも書きます。しかしそれは、「デジタル作画が良い」と肯定しているのではないのです。あくまで、「コンピュータで絵を描く際の利点」なのです。

 

むしろ、私が「デジタル作画」に期待するのは、(数日前に書きましたが)「破壊神」としての側面です。

 

 

私は間髪を入れずに、コンピュータ作画統合技術の利点を即答できますし、過去のいくつかの作品・作業事例、もしくは現在展開中の作品の「数字」で解説もできます。現在、ここ数年の努力の甲斐もあって、「作画の新技術」〜コンピュータ作画統合技術の仕事は徐々に増えてきており、同時に少人数制作の経験値も着々と積み重ねています。

 

片手に余るメインスタッフだけで、映像がどんどん出来上がっていく新しい制作システムは、旧来の大人足の作業システムと比べて、特徴的です。しかしそれは、「どういう映像を作りたいか(=売りたいか)」という発想が原点であり、現場の都合の打算で生まれたものではありません。

 

4K60pや8K120p、HDRという新しい映像フォーマットの中で、日本が培ってきた美意識の潮流を具現化したいと思うがゆえに、どうしても新しい作画技術が必要なのです。A4やB4の紙と鉛筆では到達できない、原画動画のスキームでは達し得ない、新たなフィールドを実感するからこそ、そのフィールドでアニメーション映像を創作し、新たなマーケティングを展開していきたいのです。

 

一方、去年に旧来技術主体の作品にメインとして参加した際は、ほとんど「コンピュータ」と「ネットワーク」の利点が活きませんでした。一部を「デジタル」で作業したところで、効果は薄いものでした。都合、「いつもの感じ」の制作状況に引きずり込まれていきました。

 

 

やはり、「デジタル作画」を推進する人に、「なぜ、デジタル作画を推進するのか」聞いてみるのが一番でしょうネ。そこで、納得できる返答が帰ってこないのなら、「あれ? なんか危なっかしいぞ?」と感じて、早急な判断をしないで、それで良いと思います。

 

数年前は、「デジタル作画」という言葉のインパクトで煙に巻くようなところがあったかも知れません。しかし、2017年現在は、そんなに皆、何も知らないわけじゃないし、「デジタル作画」の厄介な側面も実感しはじめていますよネ。

 

 

私は、あくまで「会社単位」「グループ単位」で構わないと思っています。業界全体を誘導しようなんて、必要なのかな?

 

とある制作会社が「見たことのない、新種の映像」を打ち出してきて、それに負けじと触発されて、他の会社も技術開発に取り組む‥‥みたいな「競争」こそが必要だと思います。

 

今の「デジタル」の撮影だってペイントの普及だって、業界の協会団体が音頭をとったわけじゃないしさ。

 

会社同士の、作品同士の、水をあけてあけられて‥‥の競争でいいじゃん。それで十分、発達していくと思います。あくまで、私論ですけど。

 


絵描きのマーケティング

前回引用した「マーケティング近視眼」の話題は、企業に限ったことではありません。部署でも、個人でも、同じ構造をもちます。

 

アニメーターが自分を「原画マン」と自認するか、「絵描き」として自認するかによって、当人の境遇や処遇、発展性も大きく様変わりするでしょう。

 

あくまで私の持論ですが、アニメーターは、30代以降は「絵描き」として自らを捉え直し、「アニメ作画の近視眼」から抜け出ないと、単価オンリー・定型の工程オンリーの仕事からいつまで経っても脱出することはできないと思います。高度な専門技術を有するにも関わらず、30〜40歳になっても、月10万円台前半の収入しか得られない状況に甘んじることになりましょう。そして、今後はさらに過酷になっていくことも容易に予測できます。

 

確かに単価の安さはあるでしょう。しかし、一方で、自分自身はどれだけ自分の能力を多岐に渡って、活用する取り組みを実践してきたでしょうか?

 

自分の能力を別の方面に活かすために、どれだけ行動してきたでしょうか。

 

「だって、依頼がないんだもん」‥‥というのは、まさに「マーケティング近視眼」で衰退していった事例の典型です。

 

「マーケティング近視眼」的に言えば、アニメーターは「自分はアニメの作画専門だ」と自ら限定することで、映像制作全般やネットワークコンテンツ産業で展開される様々な「絵を必要とする仕事」に乗り出せないのです。あくまで、線画だけで収入を得ようとし、自己限定、自己抑制、自己制限の枠から踏み出しません。

 

そんなの、あからさまに「行き詰まる」の、みえみえ‥‥ですよネ。

 

他業種に関しては、「古いやり方ばかり続けてても、時代は流れていくんだから、応じて、商売の方法も変えていかないとダメだよね」なんていうわりに、自分らの作業スタイルに関しては「不問」「無批判」なのは、滑稽過ぎます。

 

 

誰かが「カタ=型」を作ってくれるまで動けない‥‥という習慣は、それこそ1960年代生まれの私の世代でも、ありがちな傾向です。いわゆる無意識なシステム依存です。

 

重要なことですが、「型」は自分たちでも作れるんですよ。

 

 

「でも、アニメ業界の型はそう簡単には変えられないじゃん」という人もいましょうが、いきなりなぜ、型がいかにも変えられなさそうな相手を選ぶんでしょうかネ。

 

広大な太平洋の向こう側の土地ばかり夢見て、自分の足元にある土地は草ボーボーなのが気づかんかの。

 

自分ひとりや自分の仲間の小規模の取り組みで、新しい型を実践して、それは結果、アニメ業界のお盆の上でなくてもかまわないじゃないですか。アニメ作画に従事したら、外出禁止令や交際禁止令を厳守せねばならんのかネ?

 

 

日本人の美徳は規則正しく秩序を守って‥‥だとは思います。しかしその美徳が、ビジネス開拓の気概を著しく「去勢」しているのだとしたら、なんという悲劇、そして喜劇。

 

 

日本のアニメーターってさ‥‥ぶっちゃけ、上手い人だらけじゃん? 世界的にも見ても、相当レベルが高いのは、言われるまでもなく‥‥ですよネ。

 

その上手い人たちがアニメの作画机やペンタブの前から飛び出して、自分のリラックスできる場所で、iPad Proの12.9インチとApple Pencilを手にして、まずは色付きのイラストでも描き始めたら、どういうことになるのよ? ‥‥という話です。

 

1発目、なんともヒサンな色付きイラストになっても、大丈夫。失敗は本人以外、誰も見てないし、失敗作は誰にも見せなければ良いんだから。

 

うまく描けたのだけ、世に出せばいいのです。さも、「こんなのタイシタコトナイ」的な顔してネ。

 

‥‥で、「あ、自分って、イラストも結構イケるかも」と自分の能力の「拡張性」に気づいたら、あとは、その拡張した能力を、どう売り込んで、どうビジネスに変えて行くか‥‥だと思いますヨ。

 

 

日本人の職人気質は、紛れもなく日本人の高い技術を象徴する美徳でしょう。

 

その職人の型の中にビジネスを閉じ込めてしまうのか、職人気質から得た技術をビジネスで発展させるのかによって、あまりにも大きな差が生じます。

 

高い技術を有するには、職人に徹して、ひたすら技術向上を目指す期間も必要です。でもだからといって、死ぬまで限定された作業枠で生き続けるべきかは、当人の判断で良いと思います。「アニメーターは線画ひと筋」なんていう気風に縛られる必要はないでしょ。

 

 

制作費、単価の問題は、その議題そのもので取り組んでいけば良いのであって、それに自分の運命を託すべきものではないです。制作費、単価の問題とは別に、たとえアニメの現場が揺らいでも、他の技術ネットワークで生きていけるタフさを、「絵描き」「映像を作る人間」として勝ち得ていけば良いのです。


デジタルの効能

実際に原画作業をiPadでやってみて、「デジタル作画」の普及はまだまだ小規模で、紙が主流であることを思い知ります。でもまあ、その理由は単純に「コスト」の問題でもあるように思います。それなりの経済力をもつベテランのアニメーターの中には既に自腹で購入してイジりはじめているひとも多いですし、紙の作画の傍で「デジタル作画」のセクションを併設できる会社も存在するからです。

 

「デジタル化」の実際として、「撮影」工程でも似たようなコストの問題があります。知り合いから聞いた話では、撮影で今でもAfter Effects CS6を使い続けているのは大多数のようで、要は、After Effectsだけでなく、プラグインのバージョンアップ、マシンの更新など、様々なコストの問題で、CC2017には結果的に更新できないのだと思います。ちょっと試算しただけでも、CS6から作業環境全体を最新にするには相当な額になりますもんネ。規模が大きいグループほど深刻です。

 

アニメ業界を離れれば、After Effectsは最新版がスタンダードです。なぜって、最新版でやりとりすればバージョンの細々とした問題を回避できるからです。CS6に合わせて、バージョンダウンを何度も繰り返す手間は、最新版で統一している現場にとっては、無駄なコストとなります。私はトラブルの元となるAfter EffectsのAEPのやりとり自体を極力避けますが、AEPのやりとりが避けられない場合は最新版でお願いしています。もしそれで「NO。CS6で。」と言われた場合は、作業自体をご辞退させてもらっています。実際、私の作業マシンは、CC2017未満のアドビ製品はアンイストールしているので、CS6までのバージョンダウンはできないのです。

 

ちなみに、After Effects CC 2017でも、アニメの撮影は何の問題もなく可能です。機能的な障害はありません。ではなぜアニメ業界の撮影はCS6のままなのか‥‥というと、CC自体の導入の問題とか(定額費用)、CS6時代のプラグインが動作しないとか(プラグインの更新費用)、マシンやOSの要件がCS6時代から引き上げられているとか(本体&周辺機器の買い替え費用)、結局は環境を更新できない経済状態が障害だと思われます。CS6より以前のCS5のところもあると聞き及びます。

*撮影工程の名誉のために付け加えておきますが、中には「CCも導入済みで使えるけど、CS6のままの会社に合わせて、あえて標準はCS6にしている」ところもあります。しかし、結果的に撮影はCS6以前のままであることには、変わりありません。

 

「デジタル」に移行して10年以上経過した「撮影」セクションですら、5年前のバージョンから更新できない状況です。「デジタル作画」のコスト問題がどのようになるのかは、先達のありさまを見れば、想像に難くないでしょう。

 

コスト問題に加え、運用やメンテナンス面も加わって、「デジタル作画」は、もっと混沌とした状況になると思うのです。

 

「今だけ動けば良い」とばかりに導入した数十台の最低スペックのマシンに、いつインストールしたかも覚えてない旧バージョンのソフトウェア。ぐずぐずなアカウントとライセンスの管理。秩序なきサーバのディレクトリやファイルの運用。‥‥そのわりに、各社間で作業力の融通をし合うものだから、各社の内部の混乱が、各社間で錯綜して「感染」し、まさに絵に描いたような「エントロピーの増大」が予測されます。

 

正直、作画を含め「オールデジタル」にした際の、イニシャルコスト、ランニングコスト、メンテナンスのコスト、リプレースのコストを、どれだけ、試算できてるでしょうか。

 

そんなのやってみなければわからない」なんて答えるのだとしたら、相当ヤバいように思います。最初から負けがみえている‥‥と言っても過言ではないです。だって、イニシャル・ランニング・リプレースなんて、最低限の試算であって、もっと大きな枠組み・スキームまで計画できていないと、ダラダラと金を消費する「猛烈な金食い虫」に化けるのがコンピュータ関連なのです。

 

 

でも‥‥です。

 

迂闊な判断も、アニメ制作の未来を考えれば、ある意味、「一興」です。

 

猛烈な金食い虫だと知らず、「動画の人がペイントまでやってくれるらしいよ」なんていかにも他人事でマヌケな判断で手を出して、波状攻撃で襲ってくるコンピュータの「コスト消費攻勢」に持ち堪えられなくなって、会社を畳む‥‥なんてことがあったとしても、それは「自然淘汰」と見るべきです。アニメ制作共同体を1つの体とするならば、機能障害を防ぎ、自己で治癒する、「自浄作用」なのです。

 

アニメ制作共同体は、相当に疲弊しています。1970年代に本格化したテレビアニメのシステムは疲労蓄積が甚だしい。

 

そこで2つの選択肢が生まれます。1つは、疲労回復。もう1つは新たな共同体の誕生。

 

「デジタル作画」は、言うまでもなく、前者の「疲労回復」のカテゴリ。「デジタル作画」によって、今までの業界の疲労蓄積をショック療法で「手放したくないものまで」削ぎ落とし、裸一貫から再スタートを切るきっかけになれる‥‥かも知れません。

 

CS6から更新できない経済状態。最低限スペックのマシンしか初期導入できない資金。その状態からオールデジタルに突進して、まさに「生き残るところは生き残り、死ぬところは死ぬ」状況が、制作共同体全体の自浄作用となるのなら、疲労蓄積を払拭する「またとない機運」とも言えます。

 

いくつもの深刻な持病を持ち続けて、「あと何年生きられるか」なんて恐怖に怯えながら貯金の残高を計算するのと、イチかバチかでも大手術に賭けてみるか‥‥の、どちらを選ぶかは、個人、グループ、会社でそれぞれ考えていけばよいです。

 

私の場合、「まったなしの決断」を今から8年前に実行して、なんやかんやありながらも、うまく生き残って、現在があります。「あの時、決断せずに、閉鎖空間の中に閉じこもり続けていたら、今はかなりヤバかっただろうな」と強く、強く、実感します。失うものも多かったですが、それに増して、得たもののほうが多かったと、しみじみ思います。

 

 

私が「デジタル作画」「オールデジタルのアニメ制作現場」の機運に期待するのは、「デジタルをどう使いこなすか」などの目先のことではなく、「デジタルによって淘汰される現場」です。

 

「デジタル」で現場が大きく揺さぶられることによって生じる、「崩壊と新興」こそが、実は一番重要な要素だと思っています。

 

 



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