フレーミング

いまどきの4K HDRテレビで昔のDVDやBDを再生していると、「標準」「スタンダード」設定のままだと60〜120fps(pかiかは調べてないのでわかりません)に補完されて動きも画像も滑らかに表示されます。いわゆる、ハリウッドの映画人たちが嫌う「ソープオペラ」状態です。

 

私の作業場では、4KHDRのリファレンスモニタとミラーリングの状態で4KHDR民生テレビを併設しており、「ご家庭でどんな状態で再生されてしまうか」も気にかけながら(=あくまでも気にかける程度であって、基準ではない)、日々の作業を進めています。709にしろ、DCI-P3にしろ、民生の「標準」プリセットは、リファレンスモニタとは落差・格差があり、映像を作る側としては悩ましいのですが、一方で現実は現実として受け止め、民生テレビで全く破綻してしまうような映像作りは避けるようにしています。ストライクゾーンを広くとるのがプロ‥‥とココロに定めて。

 

都合、擬似的にフレームレートを向上した映像を民生テレビで見続けることになりますが、最近、昔の実写ドラマのDVDを再生していて、「自分のカラダの慣れ」に我ながら驚いたことがありました。

 

DVDなので、720x480の解像度なのは承知で観ておりました。動きはソニーブラビアの「標準」プリセットのままなので60p相当の動きに補完されているはずですが、イマイチ、滑らかさが足りないように思えたので、「画質」「詳細」設定を確認したら、ちゃんと「モーション」が「滑らか」に設定されています。

 

なぜ、イマイチ、滑らかさが足りなのか、理由を探っているうちに、どうやら「動き」ではなく「DVD解像度」がイマイチ感の原因だと気付きました。

 

「本当にそれが理由? ‥‥動きもモッサリしてみえるぞ」と思ったのですが、日頃からあまりにも2K(HD)〜4K(UHD)解像度で60〜120fpsの映像に慣れすぎたため、解像度がDVDの低解像度になっただけで動きの印象まで引きずられて滑らかさが足りないと錯覚したようです。‥‥我ながら。

 

映像制作者として、この錯覚は結構ショックです。動きと解像度は、別でジャッジできなければマズいですもんネ。

 

試しに「モーション」を「切」にして、NTSC DVDビデオの30fpsで再生したら‥‥

 

30fpsでも凄くカクカクしている

 

‥‥と唖然としました。目に飛び込む印象でハッキリと、動きが「雑」なのです。24fpsはまあ24コマのルックとして承知していますが、30fpsまでもはやカクカクとして雑に見えるようになるとは、正直思っていませんでした。

 

あれ〜‥‥、こんなに30fpsってカクカクと残像感のある映像だったっけ?‥‥と、不思議に思いました。だって、24〜30fpsしかない時代は、ソレで十分と思っていたわけですから。

 

体の慣れとは恐ろしいものです。

 

ソニーのブラビアに搭載されている「コマ数補完」技術。入ってくる映像は、たとえYouTubeの15fpsの映像だろうが、macOSデスクトップのカーソルの動きだろうが、何でもかんでも60〜120fpsに変換しまくる、恐ろしいヤツです。

*ちなみに、日本のアニメ業界標準の2コマ3コマタイムシートの動きはフルアニメーションにはなりません。だって、2コマ打ち、3コマ打ちで、連続して静止画を出力しちゃってるから、補完のしようがないのです。セルの動きだけ取り残されて、BG引きやカメラワークだけ補完されるので、結構、かなり、相当、キモチ悪い動きになります。

 

 

これから数年のうちに、各家庭の液晶テレビの買い替えが進みます。理由は単純で、液晶パネルが経年で故障するからです。新しい品質を体験したいから買い替えるのではなくて、単に故障したから買い替えの必要性に迫られるだけのことです。

 

人々がテレビを買い替える時に、どんなテレビを買うでしょうか。

 

故障して使えなくなった昔のハイビジョンテレビと同レベルの2K/HDでSDRのテレビを、3〜5万円で買うでしょうか。

 

それとも、有機ELのフラッグシップ4KHDRテレビを買うでしょうか。

 

おそらく、多くの人は、そのどちらでもないでしょう。「フレーミング効果」の示す通り、中堅のモデルを買うと思われます。

 

集計してみると、松竹梅の「竹」を選択する人が半数となる‥‥みたいですよ、世の中というものは。

 

フレーミング効果の内容は色々とあるようですが、ここでいうフレーミング効果とは「極端の回避性」です。

 

どんなに安くても、故障したのと同じスペックで同じレベルのものを再び買うのはどうも‥‥なあ‥‥

 

じゃあ、奮発して、昔20万円でハイビジョンテレビを買ったのと同じ出費で、55インチのイイヤツを買うか‥‥。‥‥でも、今は10万円前後で随分と性能の良いのが買えるみたいだな‥‥。

 

自分が思ってたよりもちょっと安く買えるみたいだし、4K放送とやらにも対応しているみたいだから、真ん中の無難なやつを買うか。

 

‥‥のような流れになりそうです。つまり、安過ぎるのも、高過ぎるのも、両極端を回避して、中くらいのものを選択する‥‥ということです。

 

もちろん、その「中くらい」のなかで「中の下」か「中の上」はあるでしょうが、最低と最高は選択せず、真ん中を選ぶ結果に落ち着くのです。

 

その「中くらいのテレビ」とは、2019年以降で言えば、4K HDRでモーション補完が標準装備されたテレビです。

 

*昔の37インチと同じ設置スペースで、今は43インチが置けます。去年までの4Kチューナーを搭載していないモデルだと、8〜10万円の価格帯です。動きの滑らか補完がない廉価モデルだと、パナソニックのEX600(2017年モデル)で税込7万円を切る値段です。‥‥いやはや、時代の変化は恐ろしい。

*全てのモデルに倍速補完機能・モーション補完機能がついているわけではないので、買う時にそのへんを注意することをお勧めします。フレーム補完機能は、ニュースとかバラエティとかでは、もはや必須のように思います。動きが滑らかだと目が疲れないですからネ。

 

 

 

*今後、どんどん発売されるであろう4Kチューナー内蔵の4KHDR民生テレビ。今は43インチで15〜18万と割高感が否めませんが、1〜2年のうちにやがて小慣れてくるでしょう。

 

 

おそらく、7〜12万円の価格帯、10万円前後の4KHDRテレビに購買層がまとまるのではないでしょうか。テレビ好きの人だったら「中の上」で10〜18万円くらい。‥‥つまり、多少のバラつきはあれど、中くらいのモデルを中くらいの値段で買う人々が過半数。

 

一方、テレビなんてどうでも良い、とりあえずあれば良いだけ‥‥という人は、6万円以下で片付けて、マニアの人は20万円を超えても買うでしょう。いわゆる両極端の人々が残りの半数を分ける。

 

未来が現在と違うのは、「中くらいの意識の人々が買うテレビは、4KでHDRでモーション補完するテレビ」だということです。大多数の人が、4Kの高詳細な画像、60fps以上の滑らかな動き、平均400〜600nitsの鮮やかな色彩を、「ごく当たり前」な日常として体験するのです。

 

フレーミング効果で言えば、

 

「4KHDR60pが普通だ」というフレーミングを、ごく一般の人々が有する

 

‥‥のが、すぐ先の未来社会と言えます。

 

アニメ業界がアニメをいつものように作っていても、「なんか、最近のアニメって雑になったよね」と言われる日が来るのかも知れません。仮に制作体制を立て直して改善して、現在よりも丁寧に2KSDR24pのアニメを作っても、4KHDR60pの映像に慣れた人々は、現場の苦労など一切知りようもないので、「雑だ」「ぼやけてる」「動きがカクカクして目が疲れて気持ちが悪い」とか言い出すかも‥‥知れませんヨ。

 

 

そんなバカな。一般の人々は映像のプロじゃないんだから、そんなの見分けられねーよ。

 

‥‥と思う人こそ、そんなバカな‥‥です。映像技術とは縁の遠い人だからこそ、日々4KHDRの60p補完プリセットを難なく受け入れ、いつの間にか慣れてしまうのです。映像のプロではないからこそ、理屈も理由もなく、古いのと新しいのを体感で見分けてしまうのです。昔の映像を「何か雑だね」の一言でバッサリ切ってしまうほど、残酷でもあるのです。

 

 

さて。

 

アニメ制作現場の未来品質はどうですか。

 

未来社会を見据えて、次の品質基準の準備をしていますか。

 

世間は塗り変わっていきます。現在のアニメ業界にとって都合の良い社会であるかは、どうも難しいように思います。

 

現在のアニメ現場が作り出す品質は、アニメの終着駅でしょうか。

 

現在のアニメ品質を終着駅にしたまま、そこで生涯を終える人がいても良いでしょう。しかし、全てのアニメ制作者の生涯の終着駅と決めつける必要はないです。

 

私は、路線の終着駅が全ての旅の終わりだとは思いません。「トレーダー分岐点」じゃないですが、新しい路線に乗り換えて、また新しい旅が始まると実感しています。サブちゃんの「終着駅は始発駅」です。

 

まずは、新しい技術から目を背けないこと。新しい映像技術のムーブメントをむしろ直視して、さらなる新しい商売を展開するくらい、したたかであるべき‥‥と、少なくとも私は考えます。

 

 


P-125

私は最近、まともな鍵盤で弾いてなくて、フルスケールの鍵盤など、いつ弾いたか忘れるくらいです。

 

 

nanoKeyでもMacやiPadの音源を演奏することはできます。USBで繋げば、あとはGarageBandを立ち上げれば、すぐに音がでます。しかし、あくまで簡易用途であって、鍵盤楽器を弾くメインにはなり得ません。

 

実家のデジタルピアノ(この呼び名も昭和の名残りですネ。今は「電子ピアノ」と呼ぶのが主流のようです。)は、以前埋もれていたのを使えるようにしたものの、再び腐海にのまれてしまった(=色んな荷物や置物の「台」になっている)し、まあ、弾く人がいなければでかくて邪魔なものにしかならないのもピアノの現実です。

*まあ、「電子」も相当古い言い方ですが、「デジタル」よりはマシなような気がします。「デジタル」って離散・非無段階という意味ですから、それこそメモ書きした整数だってデジタルと言えますもん。「あなたはYesかNoか?」の2択を迫るのもデジタルですわな。

*ちなみに「電子」はエレクトロニック、「電気」がエレクトリックと呼ぶようです。エレキギターは、エレクトロニックギターではなく「電気ギタ=エレクトリックギター」の略語です。

 

一方、最近は電子ピアノの低価格化が進み、以前では考えられないような値段で高性能な製品が買えます。

 

私が気になっているのは、5万円のコレ。

 

 

 

ヤマハのP-125。音質はデモ映像で確認してもらうとして、このクオリティの楽器が5万円で買えるのが、正直信じられません。

 

中には、88鍵で27000円の製品まであって、80〜00年代とのあまりの価格の差に、愕然とします。

 

ほんとに、なんて現代は恵まれているんだろうか。

 

88鍵ともなれば、昔はこういう値段が普通だったんよ。345000円。

 

 

まあ、nordのピアノは電子ピアノというよりはステージピアノに属するので比較の基準は違いますが、それを差し引いても5万円はないわ。

 

5万円は安すぎる。

 

でも、だからと言って、皆が気軽にピアノを弾くようになったか?‥‥というと、そうではないみたいだよネ。スマホばかりイジって、楽器なんか見向きもしない人ばかりのように思えます。

 

楽器が弾けるようになると、楽しいよ。

 

 

 

 

何か道具を使って、自分のイメージを表現する‥‥というプロセスは、絵でもそうだし、音楽でも同じです。道具の使い方の上手下手がイメージの伝達に影響するという点において。

 

なので、絵を描く人が、楽器をたしなむことは、決して無駄なことではなく、自分のイメージ表現の道筋を、音楽という別の経路を使うことで、自分自身の内なるイメージを別の角度から改めて認識できるのです。

 

仕事で絵を描いていない時はスマホでゲーム‥‥というのも良いでしょう。私もファミコンやセガサターンでゲームしてたもんネ。

 

しかし、それだけ‥‥じゃなくてもいいよネ。時間は他にも使いたいです。

 

昔みたいに20万円出さなければ電子ピアノが買えなかった時代じゃないです。‥‥何度も書くけど、5万だもん。ウェイト付き鍵盤88鍵フルスケールでリアルなピアノ音源がいくつも内蔵された電子ピアノが‥‥です。

 

 

まあ、あとは置く場所ですネ。

 

これが曲者です。

 

少なくとも、私は置く場所が今のところ確保できないので、P-125は買えません。悲しいな‥‥。

 

今の日本は、ただ生きるだけのために、どんどんお金がかかるようになって、趣味のためにはあまりお金がかからなくなっているように思います。88鍵の電子ピアノを買うだけでも大変だった昔とは大違いですが、一方で家賃の高騰は凄いものがあります。

 

日々生きるためだけに、高騰した家賃やスマホ一式の月額などに、お金が飛んでいき、趣味をしようにもできない現実があるようにも思います。

 

車に乗らない、バイクに乗らない、楽器も弾かない。実は社会全体、若年層全体が、そっち方面にお金が回せない‥‥のかも知れません。

*バイクは新車で買うと高いですが、程度の良い中古は豊富です。最近は排ガス規制などの対応で新車の値段が上がっているように感じますが、実は昔でも新車を買うのは中々難しかったです。私は随分とバイクを乗り継いできましたが、新車で買ったのはTW200だけです。

 

それができない代わりに、スマホだVRARだ‥‥ってことなんでしょうかネ。疑似体験でどうぞ‥‥って。スマホ経由でお金を吸い上げたい人々は、そりゃあできるだけ、人々をスマホ漬けにしたいわな。


バッハのインベンションが1曲弾けるようになるだけでも、ものすごく嬉しいし楽しいもの‥‥なんですけどネ。

 

 


実演家

アニメーターに権利を‥‥という話をSNSで見かけますが、権利というのはつまり何なのか、著作権か隣接権かを踏まえておらず、そもそも自分が著者なのか実演家なのかの線引きが曖昧なまま、権利権利と念仏を唱えるだけでは、何の具体的進展も起こりえません。

 

もっと言えば、アニメ映像制作における「制作現場の実演」とは何か? アニメーターの原画マンだけが実演しているのか?

 

全修した作監は? 原画と原画の中間の、動きの中絵を描いた動画マンは? 背景美術は? ペイントは? コンポジットは?

 

俳優さんは作品で自分の役を演じ切りますが、アニメーターはキャラの演技を全カット作画するわけではありません。そもそも集団で細切れで映像を作る場合に、実演家の定義はどこまで通用するのでしょうか

 

 

私は以前、キャラクターのセル素材だけ渡されて、背景もエフェクト作画(キャラ以外の作画要素)も画面全体の色彩も効果も、全部After Effectsで作って完成させる仕事をしたことがあります。まさにキャラ素材以外の絵作りを全てしたのに、「あなたはキャラを描いてないから実演家ではない」と言われるのだとしたら、到底受け入れられるものではありません。

 

実際、その「キャラのセル以外、全部作る」仕事で、完成した映像を見たら、クレジットされているのはプロデューサーと監督とキャラデザイナーだけで自分の名前などどこにもクレジットされていませんでした。正直、酷い仕事だと思いましたから、二度とそういう仕事はしないと固く誓ったものです。20年近く前の話です。

 

まあ、昔話はおいといて、実演家。

 

アニメ制作現場の実演家、著作隣接権って、どう定義する?どう解釈する?‥‥って話です。

 

その部分がフワフワしたままで「権利を!」と叫んだところで、社会から同情は得られても、具体的な支持や協力は得られないでしょう。

 

 

実際、アニメーターは著者ではないのは、誰でも実感していることです。例えば、人気の漫画原作のアニメ化で、アニメーターが原画を描いても、そのアニメーターは、原作の漫画を描いていませんし、その漫画の人気がでるようにプロモーションしたわけでもないですし、販売網を駆使して部数の売り上げに努めたわけでもありません。人気がでるまでの段階には一切関与せず、人気が出てアニメ化された後で、しかも絵コンテで筋立てを絵で指定された上で、初めて絵を描くわけです。つまり、著者ではなく、実演のカテゴリに分類されるように思います。

 

ショパンのバラードを現代のピアニストが楽譜を見ながら、自分の指だけでピアノから音を出して演奏した‥‥としても、ピアノ曲を作った(著作した)ことにはなりませんよネ。

 

もしアニメーターが「他人の原作であっても、自分はゼロ=白紙から自分の手で絵を描いた。だから自分の著作だ。」と言うのなら、世間で人気が出た作品をピックアップして、その作品の絵を元にちょっとしたオリジナル要素を刷り込んで絵を描いて「自分の著作だ」といくらでも主張できることになります。人気が出るまでの努力や出費や開発は全くせず、人気が出たところで便乗して絵を描いて、原作者・著者になれるのなら、もはや著作の世界は無秩序の荒野となり果てるでしょう。

*20年くらい前に、フレーズサンプリングによるラップミュージックの著作権絡みでモメたことがありましたよネ。当時のクローズアップ現代で特集してたのを思い出します。

 

アニメーターの描く絵は、原作に基づくストーリーと絵と演出家の指示によるものですから、著作ではなく、実演です。そこはちゃんと、冷静に認識しておくべきです。権利を問うにしても、実演家の著作隣接権のカテゴリで争うことになりましょう。

 

加えて、上述したように、原画マンだけが実演家なのでしょうか。アニメ制作現場の実演はどのセクションのどのスタッフまで認められるのでしょうか

 

では反対に、スタッフ全員が実演家として認められるのでしょうか。‥‥ちょっと無理ですよネ。実写でレンズに映った全ての役者に実演家の権利が還元されるのか、オーケストラ団員全員にロイヤリティは発生するのか、例えば、同じキャラを複数のアニメーターで描いて、7カットしかやっていない人と40カットやっている人の「実演の配分」はどうなるのか。

 

アニメーターは俳優と同じ‥‥なんてフレーズも耳にしますが、俳優さんは演技を最初から最後まで全うします。シーンや数カット単位で俳優さんが役を入れ替わるなんてありません。1人のキャラに対して何人ものアニメーターが入れ替わり原動画を描く時点で、俳優と同列には実演を語れません。

 

 

とまあ、アニメ制作現場で実演家を定義しようとしても、そう簡単には着地できません。適用の区分はとても難しく、難問だらけです。

 

実演家云々に限らず、アニメ業界の様々な「昭和から続く流れ」は簡単には変えられません。ちょっと工夫したところで焼け石に水です。

 

なぜか歯止めが効かないか‥‥というと、旧来のスキームで仕事をするアニメーターが、現場のシステムに苦しめられているのも事実ですが、現場のシステムに高依存しているのも事実だからです。原画という作業枠に依存するからこそ、原画という料金体制からも脱出できません。

 

つまり、どんなに深刻な問題を抱えようと、共依存が形成されて、抜け出せないのです。

 

アニメの制作現場に必要なのは、私個人の強い実感で言えば、「まずは昭和を終わらせること」です。5月1日に新しい元号になるとのことですが、アニメ制作現場は平成を通り越して未だ昭和感覚が持続したままです。コンピュータをいちいち「デジタル」とかいうオッサン感覚は昭和感覚そのものですしネ。

 

そればかりか、明治大正の女工哀史が昭和と平成をスルーし、新しい元号まで引き継がれる勢いすら感じます。

 

昭和を終わらせる‥‥とは、すなわち昭和からの制作運用技術を終了して、新しい枠組みと技術で運用することです。野放図に肥大化してきた制作規模を改めて縮小し、コンピュータネットワークありきの運用技術を基盤とし、少人数高配当の現場を形成するのです。

 

なぜ、いつまで経ってもアニメの作画技術を昭和のままで停滞させるのか。アニメーター自身の保守的な技術スタンスにも原因はありましょう。「コンピュータが苦手」とか自嘲している期間は、とうに過ぎ去ったのです。原画という作業形態にこだわって依存しすぎているからこそ、結局、新しい枠組みも形成できないし、抜け出すための基礎体力も得られないのです。

 

作画内容が大変になって、枚数もいっぱい描き続けて、どんどん膨張するばかりに任せたら、お金は細切れになり、得られる報酬の配分がどうなるのか、イメージするまでもないですよネ。各スタッフに椀飯振舞いできるほど野放図に制作費が得られるわけじゃないです。実演家を定義するといっても、テレビ1話で作監が17人もいるような状況で実演の領域や境界線の線引きすら困難でしょう。

 

実演家‥‥と言葉では簡単に言えますが、その「実演」とはアニメ制作ではいかなるものか。そもそも昭和から脱し得ないアニメ制作のカタチ自体が未来に持ち堪えるかどうか。新しいアニメ制作のカタチとは何か。

 

日頃から、あらゆる方面から考察して、未来の戦略と戦術を温めておくことが肝要です。「いざ!」という時に初めて考え始めるのでは、全く遅いですからネ。

 

念仏を唱えるだけでは、未来は変えられませんもんネ。

 

 

 


EDLで単純分割

ソフトがよりどりみどりで機能豊富になった現在でも、何だかんだ言って、一本つなぎのムービーをEDLで単純に編集点で分割するスクリプトは常備しておいて良いと思います。DaVinciやPremiereのEDL機能に頼らず、After Effectsのスクリプトで分割して各カットごとにProRes4444で書き出すニーズは、たまにはあるもんだ‥‥と実感しました。

 

EDLはテキストファイルなので、拡張子がEDLでもテキストエディタで読めます。中身を読めば、映像の作業に従事している人なら誰でもわかる、極めてシンプルな構成・構造です。

 

 

001  A008     V     C        19:08:53:10 19:09:09:12 01:00:00:00 01:00:16:02
* FROM CLIP NAME: 977.MOV

002  BL       V     C        00:00:00:00 00:00:06:00 01:00:16:02 01:00:22:02

003  B007     V     C        13:50:47:18 13:51:08:10 01:00:22:02 01:00:42:18
* FROM CLIP NAME: 154.MOV

 

 

各クリップではなく一本に繋いだムービーファイルを単純に編集点で分割したいのなら、編集点の行にある3番目のタイムコードで次々分割すれば良いだけです。とは言え、After Effectsはタイムコードに疎いソフトなので、タイムコードを小数点の秒数(=After Effectsの「time」)に変換するユーザファンクションを用意しておくのは必須です。

 

ProRes4444は複数回のトランスコードには強いコーデックですが、トランスコードなどせずにQuickTimeで分割しちゃって、独立保存形式で保存する手もありますネ。QuickTime内部ではfpsではなくTime Scaleで毎秒を管理しますが、23.976fpsだと23976だったりして解りやすいですから、タイムコード分析のサブルーチンをうまく作れれば、EDL分割はさして難しいプログラムではないです。

 

EDL関連はたまに必要になる程度なので、準備ができてなかったり、以前作ったはずのスクリプトを紛失してたりと、後手感が否めませんが、折を見て作っておこうかと思います。

 

ちなみに、各レイヤーをIN/OUT点で整列するスクリプトや、Z軸位置の値でレイヤー順をソートするスクリプト、2つ以上のキーフレームにイーズをつけてピンポンループするスクリプトなどは、もう10年は使い続けています。パペットのピンは階層が深くて面倒なので、エクスプレッション自体を自動で適用するスクリプトを作っておけば、CO/KFアニメーションは作業がスピーディーに進みます。

*CO/KF=カットアウト、キーフレームの略

 

スクリプトは毎作品の作業で徐々に蓄積されるものなので、計画的に事前に揃えることは中々難しいです。当座しのぎで作ったスクリプトをその場で捨てずに、後日に汎用性を加味して、ライブラリとして保存しておけば、作業の強い味方になります。

 

スクリプトを駆使すれば、After EffectsにEDLインポート機能を付与して、EDLからプロジェクトを新規作成することも可能になると思います。「そういうことはDaVinciでやればいいじゃん。」と私は思うので、作ろうとは思いませんが、EDLの中身を理解し、プログラムを使えるようになれば、本来存在しなかった機能をAfter Effectsなどの常用ソフトに追加できます。

 

Edwardが無理やりストラトのボディを削って、ハムバッカーをぶっこんだのと同じく、自分の思うようにカスタムしてこそ、ですネ。

 

 

 


アマとプロの境界線

2019年現在、アニメーション制作での機材面における、いわゆる「プロとアマ」の差はほとんどありません。下手をすれば、CS6を使い続けているプロの方が、CCを使っているアマより機材面では古く劣っていることすらあります。つまり、現時点では境界線はほぼ無い‥‥と言って等しいです。

 

アマチュアの人ができるだけ出費を抑えて、自主制作でアニメを作ろうとして、しかもそのクオリティがプロフェッショナルと比べて遜色がないものを作ろうとした時、何が必要になるでしょうか。

 

技量

 

 

ぎゃふん。これはもうしかたないです。頑張るしかありません。なので、機材面を列記します。

 

液タブかタブレットPC一式〜CintiqやiPad Pro:10万前後

作画用のソフト:クリスタ、Procreateなど=月額1000円、1ライセンス1000円など

WindowsPCかMac:15〜30万

外付け2〜4TBの記憶装置:1台1万円程度

画像レタッチのソフト:Affinity Photoなら6000円

コンポジットのソフト:Adobe After Effects CCなら月額2千数百円

編集のソフト:DaVinci Resolveなら0円

音楽&音声ソフトウェア:GarageBandなら0円、Main Stageの追加音源3600円

表計算や文書作成:Numbers、Pagesなら0円(Macの添付ソフト)、PDF編集も0円

プログラム開発:Xcodeなら0円

スタッフ連携手段:Googleドライブを使用(小規模なら0円)

 

 

PhotoshopやPremiereを使わずAfter Effectsに限定することで、一番金のかかるAdobe CCの出費を抑えつつ、他は無償版やライセンス買い切りを賢く利用して、ローコストかつハイクオリティのアマチュア自主制作が可能です。もちろん、プロがプライベートで自主制作する際にも活用できます。

 

私がなんだかんだとMacを推すのは、Adobe CCはWin/Mac共通でも、他のカテゴリでMacは色々と自主制作に有利だからです。線画だけ描いてもアニメーションは完成しませんから、映像トラックを見ながら音楽や音声を作れるソフトが標準添付だったり、膨大な数の音源が3600円で入手できたり、ちょっとしたGUI付きソフトをXcodeで自主開発できたり、進捗管理を添付のNumbersで管理したりと、映像や音楽の制作に有利なのです。Appleはジョブズ時代に「企業のビジネスユーザで張り合うのはやめた。個人の趣味ユーザを獲得する。」という路線に転じたので、サラリーマンがデスクワークで事務処理をするには適しませんが、音楽や映像を個人や少数で制作するには色々と揃っているのです。

 

まあ、自分のリソースとの兼ね合いがあるのでプラットフォームはお好みで良いとしても、2019年現在は20年前の1999年の状況と比べて、恐ろしく機材に恵まれています。

 

もちろん、ノウハウがなければ、技術がなければ、どんなに環境が揃っていても機材のポテンシャルを引き出すことはできません。しかし、技量の向上に努めれば、プロと同等の品質を作れるのは、現在の極めて大きなアドバンテージです。

 

2019年現在におけるアマとプロの境界線は、もはや機材面では喪失している‥‥と言っても過言ではないです。

 

 

しかし。

 

それはあくまで2010〜2019年くらいの、混沌とした時期の話だった‥‥と思い出話になる未来がすぐそこまで来ています。

 

4KHDRの「HDR」のPQ運用部分は、アマチュアが購入可能な機材=現在のアニメ現場の機材では、根本的に不可能ですし、ステレオLRの2chではなく標準で5.1chとなり、ともすればAtmosやDTS:Xなどにも対応となれば5.1.2chが最小限設備になりますから、2020年代のプロ現場の機材は相当刷新されることになります。2010年代の機材環境は古さが際立ってきます。

 

2010年代にプロとアマが均質化していた時期は終わりを迎え、新しい2020年代以降は、4Kをザクザク処理できる高性能なPC、1000nitsでPQカーブ対応のHDRモニタ、チェックでの視聴環境は5.1.2のサラウンド‥‥ともなれば、その環境導入価格だけでもプロとアマの差は歴然となります。

 

まあ、これはもちろん、プロのアニメ制作現場が、ちゃんと未来技術と足並みを揃えれば‥‥ですが。

 

思うに、中小のアニメ会社が2010年代に乱立し、その中小制作会社をあてこんでアニメの「製作」会社も増えたのは、2010年代の「制作環境ローコスト化」が無縁ではなく、むしろ直接的に影響していると私は考えています。「アニメは安く作れる」と作る人間も作らせる人間も慢心したのです。コンピュータではなく、人間の問題です。

 

一方、そうした「2010年代のクオリティ」は、徐々に現れてくる新しい品質基準を前にして、徐々にディゾルブして旧式化していきます。リプレースが進む各家庭の4Kテレビの中で、2010年代を引きずったテレビアニメのクオリティは明らかに「前時代的」な品質として比較されるようになるでしょう。

 

SDサイズのブラウン管テレビに、今、戻れます? 世間がブラウン管時代の品質に戻ると思います? 戻れないし、戻らないですよネ。

 

考え方を変えれば、機材面で同質化していたプロとアマの間に境界線が甦り、プロは技術と経験だけでなく、機材面でもプロの面目を果たせる時代が復活すると思います。‥‥まあ、イタチごっこだとは思いますが、2020〜2030年の10年間くらいは。

 

ですから、2020年代基準の機材への更新ができない制作集団は、2010年代の1.5K程度の制作を続けながらポスプロに高依存するか、古くて何が悪いとHDSDRの営業のまま開き直るか、引退するか店を畳むかの、いずれかになるでしょう。

 

アニメ制作現場の機材環境が、アマチュアと一線を画して、モダン(現用)な映像技術を体現する環境へと更新することで、色々な過去からの因縁を断ち切るきっかけの1つともなりましょう。CS6で1280pxでコンポジットしているままでは、「まだそんなことやってんの?」と不用意に見くびられ続けます。自分たちの機材が自分たちの作り出す品質の足場となるがゆえに、機材環境の新旧は、まさに自分たちの未来を暗示します。

 

 

2020年代、アマチュアは2KSDRの自主制作アニメを限られたコストの中で作り、YouTubeなどの配信手段でプロに並び得る映像をアピールできるでしょう。製作委員会の縛りがないのが自主制作のアドバンテージですから、自己の「企画原作」「切り口」で勝負しつつ、クオリティでも遜色のないものを目指すべきです。素人芸で開きなおる方法もあるでしょうが、機材に恵まれた現在ならプロを脅かす作品で勝負しても良いと思います。

 

一方プロは、プロであるがゆえの、最新の4KシネマやUHD映像コンテンツ、HDR1000nits PQのDolby Vision、AtmosやDTS:Xなどを駆使して、アマチュアでは真似のできない一歩進んだ映像技術品質で「商売」することをスタンダードにすべきです。

 

もちろん、どんなに技術が進化しようと、絵の生み出す根本的な魅力はプロアマの境界はないです。だからこそ、「絵が生まれた後」の表現品質・技術品質の豊かさを、プロは追求していかねばなりません。

 

もし表現品質の豊かさなど不要というのであれば、原撮のGIFでもツイッターに貼り付けて自己アピールに終始すれば良いです。‥‥でもそれじゃあ、光と陰の織りなす物語は作り出せません。

 

プロがさ‥‥、「アマチュアと同じ品質方法論で構わない。機材が同じなんだから。」とあぐらをかいて開き直っちゃったらさ‥‥、やっぱりプロとしての存在意義はどんどん薄くなりますよネ。

 

プロの「ありよう」、プロの存在価値は、機材面においてプロアマの境界線が曖昧になった10年間の経緯があったからこそ、逆に浮き彫りになっている‥‥と、しみじみ実感します。

 

 

 


道具のカスタム

iPadの書き心地はどうか、液タブと比べてどうか、店頭で書き比べて決めれば良い。

 

う〜ん。わからんよ。店頭じゃ。

 

だって、サラサラシートは貼ってないでしょ。デモ機には。

 

3年以上使った(=発売以来使い続けた)私の実感で言えば、書き味向上シートを貼ったiPadと貼らないiPadでは、画具として全く別物です。

 

ガラスの上にペンで書くことの心地悪さ、コントロールの難しさは、悪い意味で特筆に値します。ツルツル滑るガラスの上で、どうやって筆先の正確なスタート&ストップができるのか、考えれば、どれだけ困難かは想像しただけでも何となくわかりますよネ。

 

自動車やバイクで考えればイメージできます。ノーマルタイヤを履いたままで、ツルツル滑る路面を何の準備もなく走るだけでは、思い描いたラインは走行できませんよネ。滑って思うようには走れません。同じく、筆先にも「路面グリップ力」は必須です。

 

 

iPadに限らず、楽器でも、バイクでもそうですけど、使って間も無くその道具・ツールのポテンシャルなんてジャッジできません。使い込んでみて、徐々にわかってくるものです。

 

私はオフロードバイクに乗っていましたが、納車時の「デュアルパーパス」タイヤではオフオフ両方ともどっちつかずで良いところ無しでしたが、ゴリゴリなオフ寄りのタイヤに替えた途端「大化け」しました。RMXとTS200というバイク2台とも‥‥です。

 

私は昔のCintiqを使っていて「これじゃ限定的な仕事しかこなせない」と思っていて、一時はタブレットそのものを諦めようかと思っていた矢先、iPad ProとApple Pencilが発売されました。しかし、ガラスの書き味に違和感を覚え、すぐには使い慣れず、何らかの「書き味向上」の方法を探っていたところ、そのものズバリ「書き味向上サラサラシート」が発売されてすぐに導入してみました。結果は、今まで散々書いてきたので省略しますが、まさに「iPadで絵を描く必須のカスタム」となりました。

 

道具に対するスタンスは、実は当人の道具を使いこなすポテンシャルとも言えると思います。もしかしたら、自分の人生を使いこなすチカラ=自身の現状を突破したり拡張する能力が、道具に対する当人の態度で見え隠れする‥‥と言っても言い過ぎではないように思います。

 

用意された初期環境がなければ達成することができない‥‥とか、教えてもらわないとできない‥‥とか、製品の仕様がこうだからダメだ‥‥とか、私はそんな簡単に何かを諦めるのは昔からイヤな性分でして、ダメなら変えてしまえば良いと思う人間でした。「ハードロック」の影響だな。

 

人それぞれで良いとは思いますが、私自身は、「コレクション」ではなく「見栄や装飾」でもなく、「道具」として何かを手にするのなら、使い続けるうちにボロボロになって全然構わないと思うのです。改造だってどんどんします。

 

自分も傷だらけ、道具も傷だらけ、それでいいじゃないか。

 

Edwardのフランケン、Yngwieのダックは、傷だらけだからこそ、カスタムしているからこそ、かっこいいのです。

 

むしろ、傷一つない道具を使っているほうが、「おぼっちゃま」みたいでカッコ悪い。‥‥と思うくらいです。

 

業務連絡:貸与して頂いている機材は、大切に大切に使ってますヨ。

 

 

絵を描くために買ったiPad Proは、まさに絵を描く道具なので、どんどん使いやすく、どんどんカスタムすれば良いのです。買って数日で使いこなせるものではないと思います。

 

iPadはまず、ツルツルのガラスをなんとかしないとネ。

 

ちなみに、書き味向上シートを貼ると、

 

ジェスチャの感度が鈍る

Apple Pencilのペン先の消耗がはやい

 

‥‥などの弊害もでますが、書き味には変えられません。私はプレイヤビリティのほうを優先します。

 

*特に最新型に拘らないのであれば、私のオススメは第2世代のiPad Pro 12.9に、書き味向上フィルムを貼るカスタムです。性能と価格のバランスがよく、第3世代の「本体が曲がる」事故も聞きません。カメラの出っ張りも小さいので、第3世代よりも結果的に薄くなり、机との一体感も良好です。軽いのでどこにでも持っていけますしネ。

 

*私の使い続けているのはコレ。10枚セットのを発見したので(一枚あたり1000円以下)、今度まとめ買いしようと思っています。iPad Proはまだまだ第1世代も第2世代も現役です。

 

 


EthernetとWi-Fi

Apple製品はできるだけシンプルなインターフェイスと環境設定で誰でも簡単に扱えるように工夫されていますが、それが思わぬストレスの原因になることも実はかなり多いです。

 

例えば、Air Drop。

 

Air Dropは、同じ周囲のmacOSやiOS端末に対し、簡単な手順でデータを送信できる仕組みですが、BluetoothとWi-Fiが必須となるので、送受したいiMacやiPadは都合、BluetoothとWi-FiをONにすることになります。

 

これがクセモノで、iOSは良いとして、Macは「日頃、EthernetとWi-Fiのどちらを使って通信しているか」がわからなくなります。

 

macOSユーザとして、「まあ、通信速度の速い方を自動選択してくれているだろう、‥‥普通に考えて。」と根拠のない希望的解釈をしていたのですが、どうもそうではないことが最近発覚しました。

 

iMac Pro(や、新型Mac miniも)のEthernetは10Gbpsの高速通信が可能です。Wi-Fiは5GHz帯でも10Gbpsの有線LANよりは遥かに遅いので、映像の作業場(ローカルエリアネットワーク)でデータを転送する場合は有線Ethernetが断然有利です。

 

しかし、Air DropのためにWi-FiをONにしていると、せっかく高速な10Gbpsのインターフェイスと10GbpsのHubでiMac Pro同士を接続していても、こともあろうに、低速なWi-Fiで通信する‥‥みたいです。

 

最近、70GBのデータを送受したら、「予測時間 1時間」と出たので気づいた次第です。10Gbpsの高速ネットワークで70GBのデータのコピーに数十分かかるのは、いかにもおかしいです。(ローカルで低速なHDDを使っているならネットワークに送り出す速度も遅くなります。しかし、ローカルの高速ディスクと10GbpsのLAN経由なのに転送速度が遅いのは、何らかの原因があるでしょう)

 

試しにWi-Fiを切って再接続したら(=Ethernetのネットワークだけの状態)、「予測時間 1時間」が「予測時間 3分」になり、実際に2分ちょっとで70GBの転送が終了しました。

 

つまり、明示的にWi-FiをOFFにしないと、どんなに高速なEthernetで接続していても、低速なWi-Fi経由のネットワーク接続になることもある‥‥ようです。

 

Air Dropの時だけWi-Fiネットワークを使って、通常はEthernetネットワークを使う‥‥みたいな動作設定はできんもんかね‥‥。

 

iPad ProからiMac Proに転送する時だけWi-FiをON、通常はWi-FiをOFF‥‥みたいなことを明示的にしないと、Ethernet経由で転送を確保できないです。‥‥何か、システム環境設定以外の設定方法はあるんかな‥‥。

 

Appleは結構、性能よりもうわべの簡単さを優先するようなことが昔からあります。その方針があまり作業に影響しないうちは良いのですが、さすがに「3分が1時間になる」のは黙認できないほどの劣化です。作業速度=稼ぎに直接関わってきますもんネ。

 

こうなってくると、Air Dropも手軽なのか面倒なのか、作業場で使うにはよくわからなくなってきますネ。

 

 

 

 


あてをあてにしない

ごく当然のこと‥‥ですが、他人をあてにしていると、その他人が動き出さない限り、あては外れます。他人に依存していると、自分の状況は他人任せになります。

 

他者や組織、もっと広げて考えれば世代や社会に対して、「周りの誰かが改善してくれないから、自分も改善されない」なんて言いだしたら、それこそ、2年3年どころではなく、5年10年、もしかしたら20年30年も、「あてにして待ち続ける一生」に甘んじるかも知れません。

 

自分ひとりで何でも可能になるなんて傲慢なことは言いませんが、他者をあてにしているだけでは、可能を不可能へと自ら悪い方向に誘導しているものだ‥‥とも思います。

 

私は新人類とかバブル世代とか言われた世代ですが、バブルが膨らもうがは弾けようが、アニメーターをやってて何の変化も感じなかったです。六本木のきらびやかなシャンデリアの下で腰振って踊ったことなんて一度もないですし、アッシー君でも財布君でも無かったです。原画料金もバブル膨張期だからって、別に何も特別なことはなかったです。相変わらず、昔から安かったです。

 

いわゆる団塊ジュニアで就職氷河期と呼ばれる世代の人(私のちょっと下の世代)を何人か知っていますが、やはり、世代特有の何か特別で強烈な逆境に遭遇したなんてことは言ってませんし、「ロスジェネなんてひとくくりにされるのは迷惑」とすら言います。「就職難だろうが、自分のやりたい目標は決まっていたから、難易など関係なかった」とも言います。

 

思うに、世代論は全員に当てはまるものではないです。

 

他者に何かを依存して、「他者の責任」に転嫁している時点で、その人はずっと好転の機会を失い続けるし、自らロストしているように感じます。

 

世代を呪うと、当人が自己呪縛に陥って、世代に呪われる‥‥とも言えそうです。「呪い返し」、つまり、何かを強く呪うことで、自身が呪われた人生を歩む‥‥とも言えます。

 

まあ、たしかにエスカレーター式の人生を夢見ていたのなら、そのエスカレーターに不調が発生すれば、「ぜんぜん上に運んでもらえないじゃないか!」と不満を抱えるでしょう。エスカレーターが故障して停止すれば、いつまで経っても上には「運んでもらえない」ですもんネ。

 

でも、エスカレーターが故障していくら待っても動き出さないようなら、普通の感覚で考えて、エレベーターの手すりを乗り越えて出て、階段なりで自分で上を目指して昇り始めるんじゃないですかネ。そりゃあ、エスカレーターみたいに自分は突っ立っていさえすれば上まで運んでくれるようなことはないでしょうが、自分には「歩ける足」があるのですから、「何だよ‥‥故障かよ」と舌打ちしつつも歩き始めないと、延々と時間をロストするばかりです。

 

今まで10年、20年とロストしてきた人は、同じ思考や行動のまま、この先10年、20年とロストし続けるのかも知れません。

 

 

怨念感情は根深いものがあって、例えば、私の父は、戦争によって両親をまさに「ロスト」した‥‥というよりは「ロストさせられた」のですが(父親は戦死、母親は終戦後間もなく病死)、ずっとロストした怨念感情を抱えたまま年老いているのを感じます。以前、父は何か太平洋戦争のテレビ番組を見るたびに「靖国のA級戦犯についてどう思うか?」と何度も何度も話してきたのを思い出します。戦争当時に子供だった父は、当時の政権に対し投票によって是非を行使することもできませんでしたから、国家を導いた指導者に対する怨念は一層強いのかも知れません。

 

父は喪失感を抱いたまま、足を地につける感覚が希薄なまま生き続けて、そしてそのまま死ぬのかも知れません。父は昔から、刹那的・衝動的・反射的に「自分の損得」のために場当たり的に行動するようなことがある‥‥のを、私は小さい頃から感じていました。何かを取り戻そうとする脅迫的な観念が根っこにあったのか、それとも、今あるものは今のうちに獲得しないと永遠に失うという自己防衛的な感覚が無意識下に植え付けられているのか、刹那的で衝動的な行動をし続けて、度々、家庭を危機的状況に引きずり込んでいました。

 

自分は戦争によって人生をメチャメチャにされた。どうしてくれるんだ。‥‥そうしたどうにも解決できない怨念を心のどこかに思い続けて、父は今も生きて、そして生涯を終えるのかも知れません。

 

父の境遇に同情する感情は子供の私にも当然ありますが、では戦争孤児はみな父のような人間性なのか?‥‥というと、そうではないですよネ。ロストした状況をそのまま怨念感情に結び続ける人が100%なわけではないです。ロストしたからこそ、何かを見つけ出そう、ロストしたからこそ、しっかりと強い絆を形成しようとする人もいるでしょう。

 

 

父は国家公務員で、自営とか全く経験がないまま、定年退職しました。つまり、どんな時でも、「お給料」は貰えていたわけです。そうした「お給料感覚」しか体験しないまま人生を生きると、集団や組織に対する不満が募り、世代論で自分の境遇を占ったりするのかな‥‥とも思います。給料で働く人は、月々の自分の作業1つ1つに対して請求書を書くことがないので、内訳の感覚が希薄ゆえに、自分は何を獲得して何を喪失したかがかなり曖昧なまま、人生を送るようなこともあるでしょう。

 

一方フリーランス・自営の人間は、「自分の売りは何か」「自分の値段はいくらか」「自分は何用の人間か」をリアルに毎月毎年考えることになります。世代論にぶつくさ不満をぶちまける暇があったら、自分の売り要素を増やして価値・価格を「世代を超えて」引き上げていく必要性に迫られるからです。

 

どちらにせよ、他人をあてにして、自分の現状を覆いかぶせることは、あまり良い結果を招き寄せないと、私は思ってます。会社勤めであれフリーランスであれ、アニメーターはアニメ業界に依存し続ける体質から離脱すべきと思いますし、自分の能力を手広く展開する方法は2019年の現在はやまほどあります。iMac 5KとiPad Proがあるだけでも、1980年、1990年とは大違いです。

 

 

まあ、残酷な構造論で考えれば、他者に依存するがゆえに喪失し続ける人間も、自発的にアクションして獲得し続ける人間も、そのどちらでもなくぬぼーっと生きていられる人間も、全ては必要な構成要素なのでしょう。

 

ただし、過去の流れに甘んじるか否かまでは、運命ではないと思います。「No Fate」です。

 

世代論、社会論に染まるか否かは、自分次第です。

 

 

 

 


計画周期

「デジタル化の罪」にはまいりました。まさか、これだけコンピュータの世話になっておきながら‥‥。

 

「デジタル」が嫌いなら、フィルムに戻れば良いと思いますよ。ホントに。

 

そんなにコンピュータに罪をなすりつけたいのなら、コンピュータなどに頼らず、同志を募って、フィルムカメラ撮影&現像時代、セル&絵具時代に戻れば良いと思います。

 

ぶっちゃけ、アニメ業界全体がフィルムを捨てるとは、2000年代前半まで私は思っていませんでした。コンピュータに移行する人と、フィルムを使い続ける人とで、2流派が存続すると思っていました。

 

‥‥だって、どう考えても、コンピュータに移行する気も覚悟も興味もない人は、結構大勢いましたもん。

 

 

でもまあ、それもいいか。今となっては、何もかも手遅れです。過去を悔やむより、新しい未来に目を向けましょう。

 

人を呪わば穴二つ‥‥とも言います。誰かを呪うことは、結局は自分の墓穴も掘っているに等しい‥‥ということです。何かを恨んだり呪ったりするのではなく、自分自身の過去の行動を振り返って、同じ状況を招かないように、今度の転換点では前回の教訓を最大に活かすことが肝要です。

 

 

ですから、「アニメは1.5K SDR 24pで十分だ」と思っている人は、それ以上進む必要はないのです。1.5〜2.5K SDR 24pで打ち止めにして、未来の映像フォーマットはアップコン技術に任せれば良いでしょう。今までの作り方で十分だという人は、今までの作り方のまま、ずっと未来も作り続ければ良いですし、それを実現してくれるスタッフを大事に守っていくべきです。

 

4K8Kの時代に、今までとは違う、新しい表現技術の新しいアニメの世界を切り開きたい人は、ちゃんと覚悟して新しい世界へと進みましょう。後になって「4K8Kの罪」などと言い出すことのないよう、自分自身の追い求めるビジョンをしっかりと見定めて。

 

 

 

自分のビジョンを持たずに、周囲に流されて生きるのも、これまた生き方の1つでしょう。しかし、何か成し遂げてみたいもの、子供の頃からの夢を実現したければ、周囲と歩みを合わせるだけでなく、自分なりの「計画」が何らか必要にもなりましょう。

 

私の場合は6年周期でものごとを計ることが多く、結構ジャストなタイミングで、自分の転機が6年で回っています。例えば、1996年に初めて正式な報酬でコンピュータを扱ってアニメの作業をしましたが、その前後を6年ごとに遡っても、何やら区切りがハッキリしています。

 

もちろん、1年程度の揺らぎはあります。6年ごとにかっちり運命が回っていたら、なんか、出来過ぎですもんネ。

 

他人に聞いたことがないので、私だけかも知れませんが、6年の周期は私にとっては結構具体的な周期なのです。ちょっと列挙してみます。

 

 

1972年〜:マジンガーZ、ど根性ガエル放送開始

特にど根性ガエルは大好きで、「びっくりコン虫採集」や「かんかんあきカン」はその後に観直して大いに驚いきました。さらに今観ると小林七郎さんの美術もとてつもなく凄くて(ギャートルズの美術も凄いですよネ)、まさにテレビアニメの黄金期でした。翌年73年はヤマトとハイジが同じ時間帯に放送されるなど、小学校就学当時の幼児だった私が夢中にならないわけがないです。キューティーハニーも73年です。おそらく、アニメと私を結びつけた「始まりの始まり」です。

 

1978年〜:劇場のアニメ映画の再来〜さらば宇宙戦艦ヤマト

東映が丁寧に劇場アニメを作っていた1960年代から時が過ぎ、テレビアニメから派生した作品が新しいスタイルの劇場アニメとして、少年少女の心を掴んだのが「アニメ映画・宇宙戦艦ヤマト」です。私も多分にもれず、「メカデザイナーになりたい」と小学校の寄せ書きに書くほど、アニメに夢中になりました。翌79年はガンダムと999(劇場)です。凄い年ですネ。私は小学生ながら、アニメーターになるのを自分の目標と定めた年(歳)とも言えます。

 

1984年〜:Apple MacintohのCM「1984」、Van Halenの「1984」

当時はAppleの「1984」よりもヴァン・ヘイレンの「1984」しか目に入らなかったのですが、どちらも私には重要な要素と言えます。私はアニメだけに熱中して少年時代を過ごしたわけではなく、「洋楽」のロックやフュージョンにも夢中になりました。いわゆる「ギター少年」だったのです。ハイテクな楽曲をギターで弾く‥‥という「技術」のありようをまさに体現していたのがエドワード・ヴァン・ヘイレンでした。随分とコピー(既存の楽曲のギターパートを演奏するのをコピーと呼びます)したものです。Appleに関してはまだまだ先の「縁」ですが、「1984」のCMは有名ですよネ。ちなみに、私が高校に行きながら、本番動画を描き始めたのもこの頃です。

 

1990年〜:アニメーター時代〜どん底の生活

フリーランスながら制作会社で席を借りて(詰める‥‥と言います)、色々な巧い人たちの色々な仕事に触れ、自分のレベルアップも果たそうと躍起になった挙句、どんどん上がりの数が落ちて稼げなくなり、ライフラインが全て止まるようなどん底の生活に陥ったのが、このあたりです。思えば、この時期の体験がなかったら、ヘナちょこなまま歳を喰っていたと思います。サバイバル能力が(皮肉なことですが)相当養われた期間です。同時に、「自分は何をして生きていきたいか」を真正面から丸裸で見つめることができた頃でもあります。

 

1996年〜:Macintoshで仕事を始める

イメージボードと連番エフェクト(Photoshopで1コマずつエフェクトを描く〜今だったらAfter Effectsでやるようなこと)を作業するためにMacintosh Quadra650で「正式に報酬のある、コンピュータのアニメの仕事」をしました。翌97年にはAfter Effectsの使用も開始して、現在の基礎が出来上がった時期です。「Blood the Last Vampire」と「イノセンス」の作業は、広範なコンピュータと映像の知識を与えてくれました。日本でDVDが発売開始されたのも96年で、まさに「映像のデジタルデータ」産業が本格的に開始された年でもあります。(Video CDは画質に難あり、Laser Discはそもそも映像はアナログ方式でした)

 

2002年〜:業界のコンピュータ導入の開始

今まで日和見していた多くの制作会社が、仕上げと撮影部門をコンピュータへと転換開始したのが、2002年以降くらいからです。それまで丁寧に作っていた作画とコンピュータによるアニメ制作が、急激にグレー、そしてブラックへと染まっていった時期とも言え、わたし的には「痛恨」としか言えない期間です。私は、プログラムによるツールの開発をおこない、徐々に進行する価格破壊に対して、クオリティと自動処理で対抗しようとしていた期間でもあります。

 

2008年〜:表現や質よりも、量と速度、そして価格破壊

生産スピードに優れた二値化トレスの席巻により、ニュアンスの繊細な階調トレスが風前の灯火となり、「コンテ撮・原動撮・タイミング撮・リテーク撮(素材の作り直しや修正によって)の撮影フルコースの制作スタイル」が現場を支配していきました。少数で高品質な映像を作っていた制作集団は物量に対抗できず行き場所を失い、コンピュータ導入初期の丁寧に映像を作っていた現場はほぼ消滅、大量に物量を捌く「工場型現場」に転属するか、別の活路を見出すことになりました。世間的にはHD解像度のブルーレイが普及し始め、競合していたHD-DVDが撤退した頃です。

 

2014年〜:止められない濫作、映像産業全般への活路

アニメが安く速く作られるようなった時代は、言わば、「シリーズ放映終了後、3日経ったら忘れるようなアニメ」を大量に作るような時代とも言えるでしょう。しかしこの傾向に抗うことは、アニメ業界のチェーンリングに組み込まれている以上、不可能です。ゆえに反発的なスタンスを採った私は2008〜2014年の間、アニメの仕事は希薄となり、一方で3DCGや実写などの畑違いの映像ジャンルの仕事をするようになりました。「捨てる神あれば拾う神あり」とでも言いましょうか、実写の方々との仕事で、アニメでは決して体験できない色々な技法や段取りを覚えることができました。4Kでアニメを作る研究を開始したのもこの年で、「2014」の末尾「4」にゴロを合わせて、プロジェクトを「2014K」と名付けていました。

 

そして2020年〜:4K HDR 60pの実用化の時代

アニメや映画の場合、簡単には60pには移行できないでしょう。動きのルック・フィーリングがあまりにも違うからです。しかし、4KやHDRは、拒絶する理由はないです。なにせ、旧来のフィルム作品であっても、今までのSDR〜sRGBやRec.709では再現できるものではなく、ようやく4Kの解像度とHDRで再現できるレベルに到達できたからです。実は、今までのDVDやブルーレイ(ネットの映像も)の色彩は「レベルダウンした状態」に甘んじていたわけです。‥‥さて、アニメはこうした新世代の技術を前に、どのように未来を生きていくのか‥‥、私は2020〜2026年の次期6年間の目標を、まずは4KHDR、そして60pを技術の定番として確立していく所存です。

 

2026年:新技法・新技術の標準化と作品表現バリエーションの拡充

 

2032年:鬼に笑われそうなので、この辺で(実は考えてはいますけど‥‥)

 

 

まあ、本人の人生は、本人のものです。誰が口をはさむものでもなし。6年ごとの周期で捉えるのも、無段階でシームレスに捉えるのもアリでしょう。必ず、人生を周期で区切る必要もないです。自分の一生を1つの周期と考える人もおりましょう。

 

ただ、私は、たとえ生まれ変わりがあったとしても、次も、その次も、アニメを作りたいです。そのくらい、アニメにはまだのびしろがあるし、やり足らないし、作り足りません。

 

‥‥とは言うものの、生まれ変わりなんて全く信じてないので、つまりは「生きている期間に、できるだけ精一杯のことをする」だけです。なので、漠然と人生を1周期で捉えるのではなく、「フェイズ」として捉え、CCPM的に自分の一生を活かしていきたいです。

 

ただポカンと生きているだけじゃどうにもならないけど、さんまさんの言う通り、生きているだけで丸儲けとも思えるのです。死んだら、何もできないですもんネ。

 

 


D問題・2

おそらく、コンピュータ関連の機材や技術に直接関与していない人間ほど、「デジタル」と言いがちなのかも知れません。私の作業集団では「絵を描く」と言えば、iPad Proやタブレットで絵を描くことを指し、いちいち「デジタル作画」とは言いません。逆に紙で描くことの方が今では珍しいので、「紙の作画」「紙のタイムシート」といちいち「紙の」と付け加えています。

 

仲間内で「いつもの場所に置いといて」も、常用するサーバのディレクトリを指しますし、「送る」「受け取る」もネットワーク経由での受け渡しがデフォルトなので、たまに郵送で届くとぎょっとします。

 

良い悪いの話ではなく、当人たちの普通・日常が何なのか‥‥が、使う言葉で透けてみえてくるわけです。

 

私は1996年からコンピュータをアニメの仕事に導入し始めましたが、やはり最初の頃は「デジタル」と自分でも頻繁に言ってたように思います。やがて、ネットワークやプログラムなど、コンピュータの技術要件に関わりはじめると、自然と「デジタル」という言葉は使わなくなっていきました。日常でコンピュータを使うようになり、デジタルデータを扱うのが日常茶飯事になると、「デジタル」という語句を付与する必要もなくなったからです。

 

 

「デジタル化の罪」という言葉を見かけましたが、ちょっと考えてみるとおかしな言葉で、「デジタル」そのものには罪はないですよネ。それを扱う「人々」が罪を生み出したのであって、「デジタル化」=「コンピュータの導入」そのものに罪が存在するようなイメージを言葉に覆いかぶせるあたり、「デジタル」が他人事のような言葉です。

 

1996〜2002年の頃は、「デジタル化」=コンピュータ導入の現場は「ホワイト」だったんですよ。単価もそこそこ高かったし。

 

私は「これでアニメの現場に光明が見えた」と当時思ったものです。フィルム時代の散々な状況を前に、私自身、潰れる寸前でしたから、特にそう思えたのです。撮影は1人で全カットできるほどお金もスケジュールも余裕がありましたし、今のような「二値化一択」でもありませんでした。作画とコンピュータのソフトウェアと掛け合わせて、作画技術にも大きなステップアップが可能でした。つまり、表現技術と制作運用の両面で、希望の光が差していたのです。

 

その光に暗雲が覆いかぶさったのは、2002〜2008年の頃です。あまりの状況の悪化・劣化に、耳を疑いました。多くの制作会社が大した準備も技術習得もせずにまさに「尻馬に乗って」「デジタル」を導入し、早々に「安売り合戦」が始まりました。

 

私は当時、テレビアニメの撮影監督を1クールだけやりましたが、線撮で300カット、追加の線撮とタイミング撮で150カット、本撮300カット、リテーク150カット‥‥と、300カットの作品に最低900カット(もっと増えることもある)を撮影する状況にまで、わずか2〜3年のうちに悪化したのです。

 

「デジタルの罪」‥‥って、導入初期からの経緯を踏まえた上で出てきた言葉には思えません。「デジタル」=コンピュータ導入に罪は無いよ。罪があるとすれば、「デジタル」を安売り合戦に悪用した人間たちです。フィルム時代から抱え続けた病巣が、安売りの悪習慣によってさらに悪化したに過ぎません。

 

 

コンピュータを知らないから、「デジタル」と呼んで、時には「悪人呼ばわり」「罪人呼ばわり」する。

 

コンピュータを知って、プログラムを知って、ネットワークを知れば、「こんなに画期的な能力があるのに、なぜ、現場は悪い方向にしか使えないんだ??? もっと良い使い方、有効で効果の高い使い方ができるはずだ」と思うでしょう。

 

コンピュータを「デジタル」としか呼べない「うわべの理解」のままだから、誤用もするし、誤認もするのです。

 

そんなにコンピュータ、「デジタル」が嫌で「罪がある」と言うのなら、今からでもフィルム撮影台を復活するなり新規制作して入手して、トレスマシンとセル用紙と絵具でセル画を作って、紙の背景と組み合わせて、2階ぶち抜きの大きな暗室で撮影して、フィルムを現像所に輸送して現像して16ミリラッシュフィルムでラッシュチェックして、ネガ編集してテレシネすれば良いです。

 

‥‥と言っても、今では各人各世帯に届けられるのは、デジタルデータ化した映像商品です。それともポジをデュープしてフィルム上映をしますか?

 

実は「デジタルの罪」とか言っちゃう人って、フィルムのこともあまり知らないのでは?

 

私が知るフィルム時代の撮影監督さん達は、「デジタル」〜コンピュータの映像技術のことを悪く言いません。何故かというと、純粋に技術的にジャッジした上で評価しているからです。とあるベテランの方は「俺がもうちょっと若かったら、1からコンピュータを覚えなおすんだけどな‥‥」と言ってたくらいです。

 

 

コンピュータのパワーを「デジタル何々」とか呼んで他人事にするのは、ホントにもう、やめません???

 

それをやり続ける以上、技術のカジュアルコピーも止まらないし、安売り薄利多売合戦にもピリオドを打てないと、私は思います。

 

若い人たちも、コンピュータの秘めたるパワーを、自分の手で解き放って大いに活用しましょうヨ。

 

 

 

 

 



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