ずけずけと未来を

「アニメの仕事は、産業として成立していない」とは、よく耳にするフレーズです。で、その次に展開される論調は「単価が安すぎる」「時給換算で安すぎる」‥‥です。

 

もういい加減、気がつくべきだと私は思っています。そういう論旨にゴールはない‥‥ということを。

 

仮に、作業単価が今の倍になったとしても、問題は解決しないと思うからです。むしろ、余計に「火に油を注ぐ結果」「傷に辛子を擦り込む結果」となるでしょう。私は「単価が安いからダメなんだ」なんていう近視眼的で全体を見渡せていない論調になど、一切加担したくないのです。ぶっとばしで雑な作業をする人間や簡単なシーンを担当する人間だけが余計に稼げるような構造ができて、一層悲惨で絶望的な状況が生み出されるだけです。

 

今までのアニメの作り方は、もはや総体として、2020年代の産業として成立しないのです。

 

 

日本で何が一番金がかかるか?

 

前回も書きましたが、「空間」‥‥場所、土地、占有する面積です。

 

そしてもうひとつ、同じくらい金がかかるものがあります。それは「人間」です。

 

つまり、2020年代を間近に控えた現代において、「空間と人間」を最大限活用できない産業は、どうやっても苦しい立場に追い込まれるのだと思います。1970年代の「空間と人間」の使い方が2020年代に通用すると思っているのだとしたら、かなり「おめでたい」思考です。「アニメだから時代錯誤が許される」とでも言うのでしょうか。

 

2020年代の「空間と人間」に、「時間」という要素を与えた時に、何が創出できるか‥‥が、最大のポイントでしょう。

 

私は、

 

空間 x 人間 x 時間

 

‥‥という掛け算によって、まずは技術を生み出し、その技術によって作品・商品を生み出すメカニズムを作りたいと考えます。要素は決して「足し算ではなく、掛け算に」する必要があります。

 

「掛け算の演算子」を体現するのは、まさにコンピュータやネットワークです。概念的な表現になりますが、要は、

 

空間コンピュータ人間コンピュータ時間 =技術

 

技術ネットワーク技術ネットワーク技術ネットワーク技術 =作品・商品(産業)

 

‥‥というイメージです。

 

2020年代を間近にした現代、空間と人間と時間を繋ぎ合わせる演算子はコンピュータとネットワークであり、それはアニメ制作でも同じです。

 

 

 

旧来のアニメ制作システムは、はたして、空間と人間と時間を有効に活用できているでしょうか。

 

はっきり申しましょう。活用できていません。

 

空間と人間と時間を甚だしく無駄に使い続けて、現代社会の技術革新を無視し続けて、でてくる言葉は「金がない」「時間がない」「働いてて厳しい」‥‥だなんて、窮状の自作自演です。

 

1970年代には有効だったメソッドは、2020年代に有効でないばかりか、むしろ、諸悪の根源とすら言っても言い過ぎではないのではないですかネ。

 

空間と人間と時間を有効に活用できない現場で、新人の動画マンが喰えないだなんて、よ〜く考えてみれば、あたりまえじゃないですか。母体そのもの、旧来システムのアニメ産業そのもの、現場そのものが、効率の極めてマズい大問題を抱えたまま、現代社会に居心地わるく居続けているわけですから。

 

空間と人間と時間を有効に活用できない古い意識で凝り固まった現場で、新人の作画スタッフが喰えるようになる状況なんて、永遠に実現しないんじゃないですかね。

 

 

 

ですから、「アニメは産業として成立していない」というセリフのあとに、「単価がどうだ」「就労の状況がどうだ」と言っても、甚だ的外れなのだと思います。

 

「アニメは産業として成立していない」というのならば、「昔からのアニメの作り方そのものが現代社会に著しく適していない」というべきでしょう。そこを見据えない限り、井戸端会議で「最近厳しいよねえ」と愚痴って憂さ晴らしするだけのことです。

 

状況がひどいと言いながら、その状況が何によってもたらされているかを解明しようともせず、アニメを産業としてゼロから作り直す気概すら持たず、「辛い」「誰か助けて」なんて言い続ける茶番に付き合い続けたい‥‥でしょうか。

 

しかし、ひとたび、旧来の現場に入り込んでしまうと、「辛い」「誰か助けて」と言い続ける自分に成り果てていきます。旧来の現場が、抜け出すことのできない永遠の居場所のように、どんどん自己洗脳にハマっていくのです。アニメを作るには、この方法とこの場所しかないんだ‥‥と。

 

私はイヤですね。そういうのは。

 

 

まあ、だから、最近、エドワード・ヴァン・ヘイレンを思い出したのかも知れません。自分ながら。

 

「ダメだったら弾き方そのものを変えちゃえばいいじゃん」「ギターなんて作り変えちゃえば良いじゃん」

 

過去の様式に縛られ続けて、いつまでもウジウジウジウジ悩んでこねくり回すんじゃなくて、今、手元にある道具と自分のアクションで変えていけば良い。

 

エドワード・ヴァン・ヘイレンの演奏は、今聴いても、パワフル至極でポジティブ、プラスイメージのベクトルに溢れています。改めて聴き直すと、「この凄まじい勢いって、何なんだろう」と、新鮮にすら感じます。音楽に対する、あけっぴろげなまでの楽しさが発散されています。

 

等しく、アニメを作るのは正直楽しい。根本的に痛快で快感的です。だって、自由に思い描いたキャラや情景が動いちゃうんですから。‥‥それを、なぜ、昔作ったアニメ制作の様式に固執して、苦しい作業にどんどん落とし込んでしまうんでしょうかネ。完成したアニメ作品そのもに、現場の阿鼻叫喚がじっとりと呪いのように染み込んで、表面的な明るい色彩のキャラの奥に、水カビ・黒カビのような暗さが見え隠れするのを、まさに映像そのものから感じ取れませんかネ?

 

現代には、現代のアニメの作り方があるはず。

 

 

 

「アニメは産業として成立していない」??

 

だったら、2020年代の現代に、改めて、産業として成立するように、アニメを「再発明」しましょうよ。ジョブズっぽい言いまわしですけど。

 

今必要なのは、しゃがみこんでセンチメンタルに傷をツツくことではなく、立ち上がって多少荒々しかろうと新しいフィールドにずけずけと乗り込んでいくこと‥‥だと思います。

 

 


ペーパーレスをテッテイ的に

現実的な話、これからのアニメーション技術展開において、紙と鉛筆をこれ以上使い続けても発展していかない‥‥と私は判断しております。紙と鉛筆を使い続ければ使い続けるほど、技術の発展は先延ばしになります。

 

ふと視点を変えて、「今までの技術を伝統として継承するんだ」というのならば、紙と鉛筆は重要なアイテム、中心的存在となるでしょう。であるならば、「紙と鉛筆を存続させる強い自覚と意識」が必要になりましょう。漠然と今まで使い続けてきたから‥‥なんていう意識ではなく。

 

技術を「伝統として保存する」のではなく、「時代とともに発展し続けて、未来と共存していく」と考えるならば、もはや「できるだけ紙は使わない方が良い」と私は考えています。2017年の上半期でそのあたりの思考は全くもって明快でクリアになりました。‥‥おそらく、最近「ワンハムワンボリューム」のギターを作ったのは、私なりの原点回帰、そして、過去とのピリオドを兼ねていたのだと思います。人は、何か新しい境地を目指す時に、自分とはなんぞやを改めて問うのと同時に、今まで背負ってきた荷をおろして身軽になる必要があるのかも知れませんネ。

 

自分の机の周りに必要なものは何か。

 

それは決して、紙の時代に生きて、なんとなく持ち続けてきた、紙を束ねるバインダーでもドキュメントボックスでもないはず。

 

もし紙が必要だとすれば、紙でしか手に入らない書籍の類いだけでしょう。徒然に溜まっていった印刷物や紙で描いた絵を、創作の最前線である机の周辺に放置して「場所取り」させている場合ではないです。最前線=制作・創作の作業場の「特等席」が、なんとなしに溜まり続けた紙の類いに占拠されているのは、作業の根本的な効率に関わります。

 

この2年くらい、旧来の原画作業をiPadで作業しましたが、設定類は全てデータとして供給してもらい、PDF化してサブのiPadやFireで表示して作業しました。それで十分作業は可能ですし、紙に机を占拠されずに済むので、机が広く使えます。旧来作業においても、ペーパーレス=データ化が有用なことは、私の中では既に実証済みで、新技術を展開するのなら、紙は1枚も存在すべきではないとすら思います。

 

しかし、一方で、自分の自宅の作業場をみると、まだまだ紙関連のものが放置されたまま残っています。

 

 

思えば、全く触らずに「デッドストック」状態になっている用紙の類いを、一番手の届く位置に置き続けているのは、我ながらどうしたことか。紙をこれ以上増やすつもりがないのに、机の脇の棚で堂々とドキュメントボックスが鎮座しているのは、なんとしたことか。

 

上述した通り、人は色んなものを貯め続けて背負ってきた経緯がありますから、紙もその流れの中で溜まり続けたわけですが、これから新しいプロジェクトに専心するには無用の品です。‥‥なので、自宅の作業場もどんどん紙をなくすべく、案を練っています。

 

自分的には、紙の存在意義を明確に「清算」する時期なのだと思います。

 

もしデータではない、リアルな物品が身近に必要なのなら、紙の書籍と、創作のイメージを膨らますための立体資料でしょう。‥‥こんな感じの。

 

タミヤの1/48のミリタリーミニチュアです。1/35に比べて場所をとりませんし、精密度は「コミックやアニメの作画の省略」に適した良い感じで、さらには1/48の航空機モデルと並べて対比できるので、オススメです。‥‥今は、1/48のRX-78もあるんですネ。驚きました。

 

画像データの閲覧だけでは、映像のイメージが貧困になることは多々あります。なんでもかんでも、ネットのデータ検索で済むことはないのは承知しています。

 

しかし、成り行き上でそこにあり続けて場所を占拠する紙の類いは、もはや私には不要です。紙をあえて置くのなら貴重な(=私にとって)書籍、そうでなければ「現実の立体として意味があるもの」を置いておくべき‥‥です。

 

日本がカナダくらい広いのなら、別室に紙資料をアーカイブ‥‥‥とか可能ですけど、日本で一番高価なのは「空間」ですもんネ。紙が絶え間なく増殖して空間を占拠していく様を、制作現場で日々目撃していますが、これから先、紙が現場を埋め尽くしていく状況を放置すべきなのかも、熟慮する必要があるでしょう。大量の紙素材に占有された空間を、未来の映像技術開発に活用すれば、どれだけ技術が発展できることか。

 

日本においては、空間をどのように有効に、これから先の未来に活用するか‥‥ということだと思います。

 

極論めいたことを言いますが、アニメの制作会社・制作集団が「過去に生きるのか」、「現在そして未来に生きるのか」を確実に分けていくのが、「紙」との関係だと思います。

 

過渡的に「デジタル作画」であったとしても、まずは紙から離れられるか‥‥が、過去の追憶に生きるか、未来を生き抜いていくかの、決定的な行動指針となりましょう。

 

* * *

 

デジタルテレビ放送、DCP、デジタルディスクの商売、そしてネットの映像配信。アナログデータなんて、どこにあるのか。アナログのデータで今後どれだけ映像ビジネスが成立するのか。

 

どんなに「鉛筆と紙の力を信じて」も、最後は「デジタルのお世話になっている」のです。フィルムを手放した時点で、紙の時代も終わっていたのだと思います。

 

私は紙が嫌いなわけでも憎んでいるわけでもなくて、むしろ長く深い愛着がありますが、しがみ続けていても商売は発展していかないじゃん?

 

映像の商業にこらから先の未来も関わっていくのなら、リアルな選択として、紙との付き合いは終止符をうたなければならない‥‥というのが、私の30年間アニメを作り続けきた上での答えです。

 

人間はあくまで生身の存在ですが、身の回りの物品、道具、そして創作の表現は、デジタルネットワークの中で発展していくことでしょう。その「変えられない社会全体の流れ」に観念して、自分の方針を決定すべし‥‥です。

 

どこかの国から核ミサイルが飛んできて爆発して、世界中が戦乱に巻き込まれるのなら、デジタルネットワークなんて物理的に分断されて成り立たなくなるかも知れません。しかし、そんな時はアニメだって今のようには作れないでしょう。デジタルネットワークが崩壊したら、その時はその時で考えることにします。

 

文明社会が滅亡するような事がなく、発展を続けていくのなら、デジタルデータのネットワークは‥‥どう考えても‥‥主流でしょうねえ‥‥。アナログデータはアンティークや懐古趣味の世界で存続するとは思いますけども。

 

デジタル映像産業の中において、紙を使い続けて「意図的にガラパゴス化」することで希少価値を高めることはできるでしょう。カセットテープが今でもわずかな会社で生産され続けているように。

 

しかし、本流、主流は、デジタルをどれだけうまく使いこなすかです。

 

なので、自分の身の回りから、紙をどんどん片付けていこうと思います。今までも取り組んできたことではありますが、今後はテッテイ的に‥‥です。

 


でけた

ワンハムワンボリュームのギター、できました。

 

これを‥‥

 

 

こんな感じに。

 

 

休日の数時間の作業でできる簡単な改造でした。

 

ピックアップのザグリが合わなかったり、ピックガードがネックに干渉したり、ピックガードのネジの穴が合わなかったりと、色々と修正箇所はありましたが、各種電動工具と材料でちゃちゃっと仕上げました。工具がないとそこそこ苦労するであろう作業ですが、普段から他の工作用途で揃えておいたので、スムーズに作業は完了しました。工具さえあれば、簡単な加工です。

 

 

ピックガードを固定するネジ穴は、結局1つしか場所が合わなかったので、全て木工パテで埋めて穴あけをやり直しました。まあ、違うメーカー製のピックガードの穴が合致することなんてありえないので、穴埋め&穴あけは想定しており、再掘削が可能な木工パテを準備しておいたのです。

 

出来上がった感想は‥‥、ん〜、バランスが悪い。

 

ピックアップの性能に明らかにギター本体が負けてます。木材云々ではなく、ブリッジなどのパーツの総合的なクオリティが、ダンカンのピックアップに各所劣っております。

 

ギター歴のそこそこ長い人であれば、弾いてみて「仕上がってない感」を実感できると思います。要は、「ちぐはぐ」なのです。弾いた時の感じがネ。

 

安価なパーツを組み合わせて、製造工程も相応に低コストで組み上げられたギターに、ダンカンのピックアップだけ浮いているような感じです。全て安い要素で組み上げられていた時には気にならなかったことが、気になりだす‥‥とでも言いましょうか。でもまあ、そのバランスの悪さも想定していたことではあるので、徐々に詰めていこうかと思っています。ブリッジが特に具合が悪いので、まずはそのあたりから調整します。

 

‥‥ちなみに、ブリッジのネジが2つ外してあるのは、5弦の下のネジが斜めにささっていたので、対称で2弦と5弦のネジを外したのです。ぶっちゃけ、1弦と6弦のネジだけ刺さっていれば大丈夫ですしネ。

 

肝心の音の方は、グッと良くなりました。ピックアップはまさに「音を拾う中心的存在」で、それをダンカン製に交換したのですから、当然といえば当然。バイクでいえば、エンジンを交換したのに匹敵しますもんネ。

 

以前の製品出荷オリジナルの状態は、ポールピースの位置が弦の真下にきてなかったりと問題が多かったですが、交換したらピッタリ合いました。何にでも言えることですが、安さを実現するにはパーツだけでなく製造工程も安く(=雑)仕上げて、安い製品に仕立てるのでしょうから、その辺の「作りの雑」さを徐々に詰めて修正していけば、そこそこな全体バランスには仕上げられると思います。‥‥ああ、これはアニメ制作も同じスね。

 

 

合わせて、以前から作ろうと思っていた小道具を自作しました。

 

弦を巻く「ストリングワインダー」の6.35ミリ六角ビットです。

 

 

安いストリングワインダーをぶった切って(サウンドハウスの120円のヤツ)、マイナスのビットと組み合わせて固定しただけの道具です。

 

電動工具に装着して使います。下図のように。

 

ブラック&デッカーのミニ電動ドライバ。回転数は固定ですが、クラッチ機構があらかじめついてたりと、木工や石こう壁などの軽作業にうってつけです。

*同用途のボッシュのも良いですが、クラッチ機構が必須の場面(脆い石こう壁とか)ではトルクアダプタを別途購入して装着する必要があります。

 

マイナスビットは、モノタロウさんで買った200円の安価なビットですが、それでもちょっと勿体無いくらいです。100円ショップのビットで十分でしょうネ。ワインダーにマイナスの切り込みを入れてマイナスビットの先端を合わせて、瞬着で仮固定し、金属用パテでガッチリ固定すると、こんな感じになります。金属用のパテはかなり固くなり強度が保てるので、色々な場面で重宝します。

 

この「ワインダービット」でギターの弦を巻けば、かなり楽チンです。昔から作ろうと思っていたアイテムです。

 

‥‥が、既製品もあるようで、作るのが面倒な人はコレを買っておけば良いですネ。私は既製品があるのを数日前まで知らなかったので、自作しちゃいましたが‥‥。

 


ワンハムワンボリューム

人生の長い時間の中においては、あえてターゲットを絞り込んで行動する期間も必要‥‥だと思っております。ここ5〜6年は、時間を少しでもアニメーションの新しい技術に注ぎ込むべく、全くギターを弾かないように自制しておりましたし、旅行・観光の類いも、絶っておりました。

 

しかし、雪解けの時も、人生の流れの中では巡ってきます。ターゲットを絞り込んで一直線に専心した結果、未来の情景が見え始めたならば、少しアクセルを緩めて色んな方向に動きやすくする‥‥ことも必要なのは、さすがに50年近く生きていればわかります。

 

なので、適当にアニメの仕事以外のことも復活させよう‥‥と思っています。本気にならない程度の趣味で。

 

第1弾はギターいじり。原点復帰も兼ねて、1ハム1ボリュームのギターを作って(改造)おります。

 

1ハム1ボリュームとは、こういうギター

 

 

リアピックアップと音量ツマミだけのシンプルな構成です。近年はさっぱり見かけなくなりました。

 

私は、なんだかんだと工夫を凝らした電気配線のギターよりも、ピックアップの電気信号がほとんど直にジャックに出力されるシンプルなギターが好みだったのですが、そんなことも忘れていたこの30年‥‥でした。

 

配線はこんな感じです。

 

 

おそらく、これ以上シンプルな配線はないでしょうが、頭の中で整理するためにもオムニグラフで配線図をおこしておきました。オムニグラフで模式図を作るのは、何だかプラレールみたいで楽しいです。

 

ダンカンのハムバッカーは気をきかせてコイルごとの取り出しができるように4芯(アースを入れると五本のワイア)仕様ですが、赤白のワイアを結線して直列で繋いで、プラスマイナス(ホットとコールド)のシンプルな2極の構成です。

 

この図を作った後で、本家ダンカンのWebでわかりやすい配線図をみつけました。‥‥これがあれば十分でしたネ。

http://www.seymourduncan.com/wiring-diagrams?meta_params=view-all,humbuckers

https://docs.google.com/gview?embedded=true&url=http%3A%2F%2Fwww.seymourduncan.com%2Fwp-content%2Fuploads%2F2016%2F05%2F1H_1V.pdf

 

ちなみに、日本では極性を「プラス、マイナス、アース」と呼ぶことが多いですが、一般的な英文のマニュアルでは「ホット、コールド、グランド(グラウンド)」です。

 

改造と言っても、改造するギターがもともとハムバッカー用のザグリが入っているボディなので、ハンダ付けとネジ止めだけの簡単作業です。トリマーでザグリ加工をしたりとか、シリアル・パラレルの切り替え配線を考えるとか、難しい作業は無用です。

 

必要なパーツは、ピックアップとピックガード、ポットとノブ、そして配線材くらいなものです。今回、ピックアップはトレムバッカーをチョイスしました。

 

 

ピックアップの二強はダンカンとディマジオですが、そのうち、ディマジオを搭載したギターも作ってみようと思っています。私は昔、ダンカンより若干安価だったディマジオをよく使っていました。

 

* * * 

 

しかし、今この歳になって色々と考えてみると、

 

  • プレーヤーとエンジニアを兼ねる
  • 既製品で足りなければ、改造して自分の思い通りの道具に仕立てる
  • 常識や慣用や通例に束縛されない
  • 欲する表現に対して合理的であること

 

‥‥などは、実は私が少年時代に傾倒したエドワード・ヴァン・ヘイレン直系の思想なのだとしみじみ思います。その思想は姿を変えて、私の映像制作のスタンスにそのまんま受け継がれています。10代の頃に受ける影響って、スゴいですよネ。

 

「この道具だとできない」「今まではそうだったから」みたいに言う人々は結構いるわけですが、「だったらできるようにすればいいじゃん」「今から変えればいいじゃん」というあっけらかんとしたスタンスでやってのけてしまう痛快さは、まさにエドワード・ヴァン・ヘイレンのアクションそのものでした。「できないだろ」と言われるそばから、「え?できたよ」と実際にやってのけてしまうのも、実にかっこよかったものです。

 

ワンハム、ワンボリュームというシンプルなギターを今改めて見つめ直すと、色々と感慨深く思えてきます。ギターはあくまでも趣味ですが、そこから得られるインスピレーションは、決して映像と無縁ではないです。

 

アニメ!アニメ!映像!映像!‥‥と思いつめたって、煮詰まるばかりですもんネ。アニメのことしか知らない悪い意味でのアニメバカでは、視野が狭まりすぎて、やがていつか進退窮まる時がくるでしょう。

 

アニメに限定しない色々な物事を吸収しつつ、最終的にはアニメに帰結させるような、良い意味でのアニメバカでありたいと思います。

 

 


芯から金属

Apple Pencilの芯を、あまり交換しないままにすると‥‥

 

 

‥‥のような感じになります。合成樹脂の先端が消耗し過ぎて、金属の円柱のようなものが露出しております。

 

休憩の後、作業を再開しようとして、気がつきました。いつから、めくれていたんだろ?

 

iPad Proの表面に貼ってある保護フィルムは無傷でした。‥‥なので、もちろん、本体のガラスも無傷。

 

多少は金属が触れようと、簡単には保護フィルムは削れないんでしょうかね。ともあれ、すぐに気づいてよかったです。

 

 

仕事で四六時中使っていると、芯の寿命は1ヶ月くらいなこともあります。書き味向上のシートを貼ってあるので、摩擦が多くて、消耗もはやいのかも知れません。

 

しかし、そうしたコストも作業環境全般の運用プランにあらかじめ組み込めば、特に問題はないです。

 

問題は、書き味向上の「保護シートの安定した供給」‥‥ですかね。価格や貼り替えの手間ではなく、結構、頻繁に品切れや生産完了してしまうので、いつでも入手できるわけではないのが、頭の痛いところです。

 

でもまあ、保護シートに限った話ではなく、PC関連製品は、昔から「安定した供給がおぼつかない」性質をもっていました。パっと現れるかわりに、いつのまにか消えてもいる‥‥という。

 

コンピュータの作業環境は昔から「なまもの」なのです。紙や鉛筆に比べて、はるかに流動的です。なまものなので、腐るのもはやい。

 

ぶっちゃけ、紙の作業環境の方が、先読みの計算がしやすいです。コンピュータが「なまもので、計算しにくい」というのも、何だか皮肉な話ですネ。

 

私の場合、保護シートの消耗による貼り換えタイミングは、年に2〜3回なので、耐用年数と実用年数を兼ね合いして、4年分くらい買いためておけば良い計算になります。‥‥となると、10枚か。

 

まあ、今度、保護シートを購入するときは、10枚はともかくとして、半分の5枚くらいはまとめ買いしておきましょうかね。「業務用」だもんね‥‥。

 

 

 

 

 


フランケンシュタイン、ブラウンサウンド

私の洋楽のルーツは、ディープパープル、レッドツェッペリン、ヴァンヘイレンと、とてもわかりやすいメジャーなバンドによるサウンドで、小学生高学年の頃に聴き始めました。

 

小学生でロック‥‥なんて、なんだかマセたガキのようにも思いますが、兄がロックを家に持ち込んだ影響で、自分の意思で聴き始めたわけではないので、マセてたわけでもないのです。ヴァンヘイレンとかを聴き始めるほんの1〜2年前には「およげたいやきくん」を聴いてたくらいなので。

 

で、やはり、兄が家に「エレキ」を持ち込んだので、私も見よう見まねで弾き始めました。グレコのレスポールコピーモデルで、ピックアップが3つついてる、今にして思えば特殊なレスポールでした。最初に弾けた曲は「スペーストラッキン」のリフでした。

 

中学に上がって、お小遣いで初めてロックのシングル盤を買ったのは、「必殺のハードラブ」です。言うに事欠いてなんてことを‥‥と凄く恥ずかしい邦題ですが、原題は「Somebody Get Me A Docter」で、ヴァンヘイレンの2枚目のLPに収録されていた曲のシングルカットです。バンドの来日記念だったような記憶もあります。

(2枚目の邦題が「伝説の爆撃機」なのも、今となっては、かなりハズかしいです。原題は「VAN HALEN II」で、「伝説」も「爆撃機」も全く見当たらない、日本の担当者の相当な「暴走」ですネ。まあ、それも時代の味です。)

 

私はやがて、リッチーブラックモアやジミーペイジよりも、エディヴァンヘイレンに傾倒していきました。底抜けに明るい雰囲気、ギターを我流でイジって改造する痛快さ、結果良ければどんな弾きかたでも導入する天性の感覚派‥‥と、怖い顔して魔法や伝説がどーのこーのと歌うブリティッシュロックよりも、理屈抜きの「今あるものであるがままに」鳴るニューエイジアメリカンロックに強く惹かれたのです。

 

最近、ふと、「そう言えば、自分の少年時代に好きだったサウンドとは、やたらと小細工して音を作り出すサウンドではなく、リアピックアップのみでワンボリュームのストレートなサウンドだったな」と思い出しました。Webで楽器屋さんのギターコーナーを何となく眺めていて、「最近、ワンボリュームでリアPUオンリーのギターって、全く見かけなくなったな」と思ったのがきっかけでした。

 

「フランケンシュタイン」と呼ばれる、エドワード・ヴァン・ヘイレン(以後、エディと略)が初期から使い続けたギターがあります。これです。

 

(レプリカが流行ってますが、フランケンもレプリカがフェンダーマスタービルドから発売されているようです。ほぼ300万円ですけど。)

 

んー、スゴい。ボロボロですネ。

 

経年変化を差し引いても、相当ラフな改造です。ピックガードを「要るところだけブッた斬って」使ってたり、リアのハムバッカー取り付けの都合でボディーのくりぬき穴の形がイビツだったり、見た目なんてどうでも良い‥‥と思いきや、ボディの塗装には3色使ってたり‥‥と、エディならではのバランス感覚としか言いようがないですネ。

 

フランケンシュタインの最大の特徴は、「エディにとって、必要なものだけがそこにある」点です。要らないものは付いていません。「もしかしたら、これもつけとけば、後々で得するかも」なんてみみっちいパーツなんて、まるでなし。「今、欲しいサウンド」に必要なパーツだけで構成されています。むしろ、要らないパーツはぶった斬ってでも廃棄してしまうほどです。

 

その潔さにも、少年時代の私は強く惹かれていたんだと思います。「サウンドがかっこよければいい」「上手ければいい」「前置きなんていらない」‥‥といった、ある種の「実力主義」を根底にしながら、決して技巧に走り過ぎて小難しくしない開放的な明快さを併せ持っていたのです。

 

* * *

 

こうして書いてまとめると、「自分の価値観の原点」になっていることを自覚できます。少年時代に触れる様々なメディアは、当人に大きな影響を与え、中核を形成していく‥‥のですネ。歳をとるとしみじみと判ります。

 

今の私にとって、「サウンド」は「絵」です。そして、「エレキ」は「コンピュータ」なのだと思います。エディの「ブラウンサウンド」が「フランケンシュタイン」によって具現化されていたように、私の欲する「アニメ」を具現化するためにiPadやiMacがどうしても必要なのです。

 

そしてサウンド作りにMXRなどのエフェクターが欠かせないように、Adobe CCやProcreateなどのソフトウェアは欠かせません。

 

私がコンピュータに馴染めたのは、集積回路に比べて甚だプリミティブとは言え、エレキギターの電気回路に馴染んで、つまみやスイッチでサウンドを探し出そうと、10代の頃にイジりまくっていたから‥‥なのかもなと、ふと実感します。

 

*我が家初めてのエフェクター「マクソンのD&SII」。これも兄がエレキと一緒に家にもたらしました。よく歪んだ記憶(ディストーションのエフェクターです)がありますが、一方で平べったい音にもなった記憶もあります。‥‥ただ、昔はアンプがとにかく「弱かった」ので、それで音がイマイチだった可能性もあります。現代の機材の中に組み込めば、良い使い道があるかも知れません。今は、アンプモデリング、スピーカーや箱鳴りやマイクのエア感のシミュレーションなど、様々な音の底上げができますもんネ。

 

10代の前半に、自分の感情を、アコースティック楽器ではなく、電気楽器・電子楽器で表現していたのは、その後の自分の特徴になったと思います。MIDIで0から127の数値で、例えばベロシティ(強弱)を表現するのも、そんなに抵抗なく馴染めましたしネ。

 

しかし一方で、「機械さえあれば、大丈夫」だなんて全く思わず、「結局は当人の感性と技術が全てを決する」と考えるのは、やはりエディの「道具も機械もテクニックも全部必要」という明快なスタンスに大きな影響を受けているとも思います。どんなに高いアンプとエフェクターを取り揃えても、演奏が下手じゃ全然お話にならない‥‥ですもんネ。

 

* * *

 

道具を使う「思想」って人それぞれですけど、「三つ子の魂」みたいに、使い方のドクトリン的な根底部分って、人格や性質が形成されきっていない10代中頃までに無意識・無自覚に型が出来上がってしまうのかも知れませんネ。後天的には変えることのできない根元の部分が、10代中頃にほぼフィックスしてしまう‥‥のかも知れません。

 

まあ、私の場合、ヴァンヘイレンだけに熱中していたわけでなく、家にLPレコードがあったラテンミュージックやクラシック音楽、アニメソング、当時の歌謡曲、高中正義やラリーカールトンやジェフベックのようなフュージョンやクロスオーバーなどにも大きな影響を受けていますから、複雑な組成ではあります。高校の頃にバッハ生誕300年で、浴びるようにバッハの音楽がNHK FMから流れていたのも影響がデカいと思います。

 

私自身が、小難しく考えがちな一方で、スカーッと明快でシンプルで開放的な性質を求めるのは、おそらく、子供の頃に見聞きしていた音楽や映像や絵の「混ざり具合」ゆえ‥‥なのでしょう。

 

複雑なテンションノートを好む一方で、エディの爽快なドローンコード(1,5,8のアレ。パワーコードとも呼ぶみたいです)のブラウンサウンドも大好き‥‥という、真逆とも言える性質は、自分ながら奇妙で、時に持て余すこともあるのです。

 

* * *

 

10代に好んで聴いた音楽って、私の事情だけでなく、色々な人々の「感覚の拠り所」になっているように思います。

 

例えば、コンポジット作業で「空気感」「光」「風」「空間」「冷たさ、温かさ」を表現しようとする人って、多勢の人々とは異なる音楽体験をしてきたことが多いです。私の知るところ、映像ニュアンスの「感覚の表現」に鋭い人は、皆、何らかの音楽体験を通過していて、興味深いです。話を聞いてみれば、皆、音楽に深く関わった経験を持ちます。

 

周囲の話題に乗り遅れないように、流行っている音楽だけを聴いてた‥‥とか、社交目的でバンドを組んでた‥‥とかだと、映像に音楽体験が滲み出すような特性は表れないんですが、ピアノを幼少からスパルタでやってたとか、声楽を大学で専攻していたとか、近現代の合唱をやってた‥‥とかすると、ぶっちゃけ、「ニュアンスの話がすぐに疎通できる」ので解るのです。

 

音に対する探求心は、実は、絵に対する探求心と、根っこで強くネットワークしているのでしょう。

 

別にAfter Effectsなんて、後で覚えりゃ良いんです。私の目する新しい技術による制作現場において、コンポジター(ビジュアルエフェクトなど)に決定的に必要だと思うのは、「ニュアンスに対する鋭い感覚」です。

 

音楽の一節を聴いて、「なぜ、こんな響きのニュアンスになるんだろう?」と興味が湧いて、自分なりに探求したことがあるか否か。

 

例えば、1,3,5,maj7,9,11,13だったり、1,3,5,7th,9,13だったり、1,3,5,7th,9+だったり、トライアド(いわゆるドミソです)の一筋縄ではいかない響きの「ナゾ」を探ったことがあるか、もしくはそうしたハーモニーを自ら奏でたことがあるか‥‥によって、ニュアンスに対する先鋭度・敏感度が変わってくるのでしょう。

 

もちろん、音楽をやっていた人だけが、映像のニュアンスに敏感だというわけではないです。

 

ただ、私の知るところ、「ものすごく微細なニュアンスの話が通じるのは、一般の人より突っ込んだ音楽体験をしていた人であることが、とても多い」のです。憶測や理屈ではなく、経験上‥‥です。

 

ちなみに、今回のお題のエドワード・ヴァン・ヘイレンも、とてもニュアンスには細かい人だと思います。アホみたいにパワーコードだけかき鳴らしているわけじゃなく、とてもユニークなテンションのハーモニーをええ感じにチョイと繰り出してきます。かと言って、テンションノートで埋め尽くしていかにも技巧的になりきらないところが、魅力でもあります。エディは1980年代に、アランホールズワース(=独自の和音とスケールのセンスを持つ鬼才。最近亡くなってしまいました。)を援助してホールズワースのソロアルバムをリリースしたこともあるくらいですからネ。(実は、私がホールズワースを知ったのは、エディ経由です)

 

* * *

 

とりとめのない音楽周辺の話になってますが、最近、シンプル&ストレートなギターが欲しくなってきて、兄から「使うのなら、やるよ」と貰ったバスカーズ(エントリーモデルのストラトコピーの中古品。ハードオフで数千円で買ったらしい。)を改造しようかと思っています。

 

今でもワンボリュームタイプのピックガードは売ってるようですし、ダンカンはオールドタイプのピックアップを製造し続けてくれているので(「TB-59」を買おうと思っています。高出力は必須じゃないので。)、改造と言っても大した手間ではありません。ワンボリュームの電気配線は極めてシンプルですしネ。

 

 

 

絵も音楽も、「芸の肥やし」ですネ。

 

 


雑感。

私はこのブログで、色々と悲観的なことも楽観的なことも書きますが、自分ながら、極めて楽観的だなと感じるのは「人の描く絵は必要とされ続ける」と何の疑いもなしに考える思考です。未来には様々な映像技術が発達して、ゆえにアニメは3DCGに取って代わられる、実写でもアニメと同じことができる、‥‥とは全く考えないところは、妙に、楽観的なんですよネ。

 

人が絵を描き、その絵が人の共感を呼び覚ます限りは、絵だけが表現し得るフィールドは限りなく存在する‥‥と感じます。

 

もちろん、3DCGは今後もどんどんと表現領域が発展していくと考えていますし、実写の魅力も十分承知していますが、一方で、描いた絵を動かすアニメにも「伸びしろは、いくらでもあるじゃん」と感じるのです。アニメを「原動画を描いてペイントして、背景と合わせて、撮影するもの」と限定しちゃうと、技術的にも経済的にも行き詰まりを感じずにはいられないですが、ふと、iPad ProやiMac 5Kなどの現用の機材を起点にアニメの作り方を仕切り直して考えてみれば、「いくらでもやりようなんてあるじゃないか」とぐんと前向きな気持ちになれます。

 

これは言い換えれば、「原画を描いて、動画を描いて」‥‥という「スタイルに固執するのをやめる」‥‥ということなのでしょう。

 

旧来の作業スタイルにしがみつくのをやめて、旧来の定番の技法を手放して、新たに「現在未来の道具で」絵を描いて動かすことを決心できるか否か‥‥ですネ。

 

「昔の方法は、現在においては、どうやら、うまくいかないことも多くなっている」‥‥なんて、当然なんですよネ。だって、今から50年くらい前に、50年前の道具と社会と経済ありきで作り出された方法なのですから。

*注)世界全般のアニメの歴史ではなく、日本のテレビアニメの制作体制が築かれた頃=1960年代後半〜1970年代から計算して‥‥です。

 

でも、現在は2020年代目前。現在の道具と社会と経済ありきで、アニメの作り方を考えるならば、最初から破綻している方法なんて選択するわけはなく、現在の様々な状況の中でどうやって「具合良く、アニメを作るか」をごく自然に考えます。

 

今までアニメを作ってきた数十年間をどうしても意識してしまうから、未来像にバイアスがかかって変質してしまうのです。

 

今までのことはすべてなかったことにして、まっさらに白紙から、「2020年代にどうやってアニメを作るか」を技術的にも経済的にも考えた場合、数千数万枚の大量の作業による多大な人件費を基盤とした制作方法を考える人などいないでしょう。現在未来の社会経済で通用するやりかたを、現在の道具を用いて考えるはずです。

 

わざわざ、最新の道具を有効に活かせず、お金が足りずに運用も厳しい方法を、ゼロから考えるとは思いません。「現実的に有利な方法を考える」でしょう。

 

要は、「過去のしがらみから脱すれば、現在有利な方法を選択しやすい」が、「過去のしがらみに囚われていると、現在不利な方法でも選択せざる得ない」とも言えます。

 

 

 

例えば、東京から大阪まで500キロ。

 

徒歩を時速5kmとして、8時間歩いて40Km。12日かかることになります。日曜は休んだとして、「徒歩で14日=2週間」。

 

その道中での1日3食の食事と宿泊場所のコストを計算して、「うわあ、随分と金と時間がかかるなあ」なんて、2017年現在に考えるでしょうか。

 

江戸時代ならともかく、今は平成です。鉄道網もモータリゼーションも、空を飛ぶ飛行機もあります。「徒歩で500Km」を計画する人など、特別な目的が無い限り、皆無でしょう。

 

新幹線ありき、ジェット旅客機ありき、高速道路と自動車ありき‥‥で考えれば、プロジェクトそのものが大きく様変わりします。「14日の徒歩」で縛られていたプロジェクトの限界を払拭することができ、新幹線などを用いた移動の段取りに1日かけたとしても、残りの13日間を他のリソース(プロジェクトの資源)として活用できるでしょう。

 

「時間と金」が変わる‥‥ということは、人も仕事も、そしてビジネスも変わる‥‥ということです。

 

 

 

「徒歩をやめたら、人間が関わらないものになる」と考える人もいるかも知れません。‥‥しかし、同じ例えで言うなら、飛行機も新幹線も自動車も、それを使ったからと言って、人間は相変わらず関わり続けていますよネ。

 

徒歩も新幹線も、人が移動することには変わりありません。同じく、数千数万枚の動画を描く地道な作業から、コンピュータを活用して動かす作業にシフトしても、相変わらず、人間が絵を描いてアニメーションを作ることに変わりはないのです。

 

私は実際に新しい技術で何度も作業しているので、リアルな感覚で喋れ(書け)ますが、人間はむしろ旧来よりも「関わりまくり」です。より一層ダイレクトに、映像にそのまま自分の「絵作りの挙動」が反映されるので、旧来のアニメ技術よりもデリケートで繊細な要素を人の手で制御しなければなりません。

 

紙を使おうが、コンピュータを使おうが、人間の脳内のイメージを具現化する以上は、人間はイメージ作りの中核なのです。

 

「コンピュータ=人が関わらない」‥‥なんていうイメージ、いつの時代のイメージのままなの? ‥‥という感じです。ミスターゴードンじゃあるまいに。

 

 

 

 

 

旧来のアニメーション技術から新しい技術へと移行することで、表面上は、多くの積み上げた技術を放棄することにもなりましょう。あくまで「表面上」はネ。

 

技術がうわべの段取りだけで成り立っているのではないことは、「技術を真に身につけた人」ならお判りでしょう。「段取りの暗記」ではなく、「技術の核心」を身につければ、いくらでも応用が可能です。

 

A1、セリフはB-(1,2,3かB-(X,1,2のどちらが良いか‥‥なんて瑣末な要素です。未来を考えるのなら、セリフを喋るアニメーション表現をどう処理してどう描くか‥‥の表現技術のほうがよほど重要です。

 

 

2020年代以降の映像技術の中で、「今までのアニメの段取りがないと、喰っていけない」人間になるのは、少々危険かなぁ‥‥‥と思います。「絵と映像を具現化できる」人間ならば、未来のどんな技術スタイルの中でも生きていけるんじゃないでしょうかね。

 

でもまあ、技術スタイルを変えて道具を持ち替えるということは「改宗」レベル・「宗教改革」レベルの物事だとも思いますから、わざわざ「宗教戦争」にこじらせても面倒ですし、各人各グループの思うところで行動して、欲する状況を順次的・累積的に獲得していけば良いのだと思います。

 

 


古いだの新しいだの

ちまたでは、「XXは古い。これからはOOだ。」なんていうフレーズが繰り返されます。ネットの記事を見ると、そんな文言をそこら中で目にします。人の関心を惹きつけるための鉄板フレーズなんでしょうネ。

 

製品のレビューとかでよく目にする「XXは古い。これからはOOが新しい。」などの論調でまくしたてる記事は、数年経過して読み直すと、ひどく滑稽だったりします。「新しい物事に踊らされて、浮き足立って、うつつをぬかす」のは、かっこ悪いし、みっともないですもんネ。新しい何かに対する対応の如何で、当人の性質すら透けて見えてしまいます。

 

新しい古いという形容詞は、時系列が存在する以上、どんなものにもつきまとうでしょう。新しいか古いかなんて、実はどうでもよくて、肝心なのは、新旧それぞれの、是非、可否、当否、です。

 

例えば、電子楽器は、古いものでも支持される事が、数千円の物品でもよくあります。BOSSのDS-1は今年2017年に何と「発売40周年」で、記念モデルが発売されています。電気回路で構成されるエフェクターが、40年のロングセラーだなんて、わたし的には、なかなか「いい話」だと思います。私が高校時代に愛用していたRATは、今でも製造され発売されていますし、MXRのダイナコンプなんて、発売から何十年経つのかも解りません。

 

どんなに古くても、良いものは残り続ければ良い。

 

新しいものが良いものならば、それを活用する。

 

私のキモチは昔から同じです。

 

では、ここでよく書いている「旧来のアニメ制作技法と、新しいアニメ制作技法」を対比させているのは、なぜか?‥‥というと、上述した通り、「是非」「可否」について考えるからです。

 

旧来のアニメ制作システムはどのように存続させていくかということに対して、様々な技術の可能性とともに、かれこれ10年以上考えてきました。しかし、何度も何度も、見方や角度を変えて、「未来に生き残る可能性」「今後も現場が成立する可能性」を考えてみたものの、どの方位から見ても「旧来現場には、明るく合理的な未来が見えない」ことに結論しました。

 

新しいか、古いか‥‥ではなく、未来の展望において可か否か‥‥が要点です。

 

2020年代以降には、2つの理由で、昔の方法が通用しにくくなる。ゆえに、昔からのアニメ制作スタイルは続けることが困難‥‥なのです。

 

1つは映像技術の問題。そして、もう1つは「労基」です。

 

4K60pHDRをはじめとした現代&未来の映像技術に対し、旧来のアニメ制作技法はあまりにも旧式化しています。とはいえ、「アニメとは秒間8〜12枚で絵を動かす技術が基盤だ」と言い張り続けることで、苦しいながらも作り続けることは可能かも知れません。

 

しかし、作り方に関しては、「アニメは旧来、このような労働時間と作業報酬で作り続けてきた」と言い続けて、労基を無視し続けることは、果たして今後の社会環境の中で可能でしょうか。‥‥まあ、無理ですよネ。

 

実は、映像技術以上に、旧来アニメ現場に痛烈なダメージを与えるのは、「労基への対応」なのかも知れません。最近、そのことについて耳にした現場の人も多いんじゃないでしょうかネ。あまりにも無視して違反し続けると、逮捕者だってでかねない雰囲気ですよネ。個人の作品への思い入れで連勤徹夜を何日も‥‥なんて、もはや美談ではなく、それを容認した責任者の逮捕に繋がる可能性だって否定できません。

 

* * *

 

思うに、テレビアニメ制作の制作費は、「作業者持ち出し」で大幅に補助されています。「持ち出し」とはつまりは、「アニメが作りたい」という作業者の情熱に起因する超過労働だったり、なし崩し的に大変な作業を請け負う現場の慣習だったりです。その「持ち出し」分、「自腹提供」分を、全て時間とお金に還元するなら、あっというまに予算をオーバーして、テレビアニメなんて制作そのものが全く成り立たない‥‥ですよネ。そのあたりは、現場である程度経験を積めば、暗黙の認識でしょう。

 

技術に応じた作業報酬、原画背景撮影300カット前後と動画仕上げ数千枚に及ぶ作業物量、常識的な労働時間から算出される制作期間、これらを「ごまかし」なしで全て計上した場合、1500万円前後で30分枠のアニメなんて「作れるわけない」じゃん‥‥です。

 

私はふと、アニメ業界に「痛烈な粛清」が沸き起こり、その粛清がもとで立ち直れないほどの弱体化が生じるとすれば、それは「労基」なのかな‥‥とも思っているのです。

 

未来社会の映像技術進化は無視できます。俺節で映像を作れば良いのですから。

 

しかし、労働に対する社会的基準を無視して、社会の中でどうやって存在していけるのか。俺節で、労基を無視できますかね?

 

アニメが産業として認知されるということは、アニメが正常な労働としても認知されなければならない未来が待っている‥‥と言えます。「2兆円産業」とやら‥‥なら、その2兆円に値する労基が「アニメ業界外側からの圧力」として求められていくわけですネ。

 

とは言え、労基を無視してきたからこそ、成り立っていたテレビアニメの制作事情。その構造事情を変えてしまったら、アニメ自体が制作不可能になるのは明白ですよネ。

 

私とて、30年間、アニメ制作に関わってきた人間ですから、その辺の事情は様々な経験で知っております。でも、事情を優先し続けて、今後の社会環境において、生き続けていけるのでしょうか?

 

昔と同じことは、未来にはもう、続けられないんだと、潔く覚悟しましょう。

 

旧来の悪癖を継承し続ける制作現場に、今後、どれだけ「一生の仕事」として若い人間が入ってくるでしょうか。「アニメ制作は20代の良き思い出。親から金を借りても家賃もままならず貧乏のどん底だったけど、自分の憧れを一時的にでも叶えたから満足だ。30代からはちゃんと稼げるまっとうな仕事につく。」なんていうアニメ現場の性質を、2020年代に入っても維持し続けるつもり?

 

 

労働力に対する対価、技術力に対する対価を誤魔化さずに、制作費として成立させるのは、産業の実情からして不可能。

 

しかし今後、アニメ制作がブラック体質から抜け出すには、常識的な労働基準はクリアすべきであって、誤魔化し続けるのは限界がある。

 

とは言え、現実的には、金はないけど、労働力は必要

 

 

‥‥ジレンマですよね。何世代にも渡って、誤魔化し続けた、アニメ業界のジレンマ。

 

 

2020年代以降のアニメ制作現場は、そのジレンマに向き合わなければならない、社会的な「潮時」なのです。

 

つまり、アニメ会社は、2020年代の基準に準じた労働力によってアニメ映像制作を存続させたい場合は、アニメの作り方を根本的に変える必要があるということです。

 

概念は極めて常識的で簡素です。労働力の総量を制作費に反映すれば良いだけです。

 

そして、新しい技術体系を確立することで、「労働の質」を変えることができます。ひどく効率の悪かった労働力から、効率を飛躍的に向上させた労働力へと。

 

旧来現場は、2000万では全然足りない〜っっなんて叫んでいるのに、新しい現場では時間もお金も余裕があって、作業者にも報酬が行き渡り、しかも4K60pのコンテンツをネイティブ(=2K24pアップコンではなく)で制作している‥‥なんてことも起こり得ましょう。

 

* * *

 

未来の世界にいきたい? ‥‥で、なぜ、徒歩なのよ。自動車を使えばいいじゃん。

 

徒歩で移動しておいて、「時間もかかるし、体力も消耗する」って、おかしな話ですよネ。そこで出てくる発想が「ハイテクシューズ」だもんな。

 

 

技術と労基。

 

アニメ業界の未来は如何に。

 

でもまあ、業界なんて得体の知れない無人格の集合体に憂うよりも、自分の未来をしかと見つめて、自分の関わる自分の現場を変えていくよう、お互い頑張りましょう。

 

 


雑感。

私はここで色々な自分の考えを書き綴りますが、それはあくまで、私の目指す未来のビジョンによるものであって、違う未来のビジョンを目指す人は、異なる考えをお持ちでしょう。要は各々が「うまくいくと思う方法で未来に進んでいく」だけのことです。

 

私は、私の経験による分析と予測から、「デジタル作画」には「現制作現場の問題を克服し、未来の映像技術の進化に順応していく要素が乏しい」と判断するわけですが、もちろん、私は全てを経験したわけでもないし、全てを見通す能力などないのですから、「デジタル作画」には私の知りえない、未来を大きく変える要素が内包されているのかも知れません。

 

しかし、前回書いたように、私にはそれが感じられないし、見えもしないのです。ですから、ここでは「デジタル作画」に対して、私の感じるまま、書くほかないです。どこかの企業の後ろ盾を得て記事を書いているわけではないので、自分の考えと裏腹に宣伝目的で「良いことだけ」を書くわけにもいかんのです。私が率直に、実際に旧来原画作業をiPad Proで2年近く作業して感じ得たこと、周囲の「デジタル作画」の状況や作業の品質、友人を通して伝え聞く状況など、自分の身の丈で書くだけです。

 

* * *

 

作画作業の状況は、何をどう美化しようと、やっぱり厳しい現実には変わりがないです。ゆえに、「少しでも収入がアップする手立てがあるのなら」「少しでも作業内容を楽にすることが可能なら」と考えがちです。思うに、「デジタル作画」に思考が流れる人の一定数は、そういう「少しでも状況が改善されるなら」という思考に基づいているのでしょう。

 

しかし、「少しでも良いのなら」と流される前に、よくよく、認識しておくポイントがあります。

 

道具を変えることで、今まで習得した技術を活かして移行できる‥‥というのは、今まで抱えてきた問題もそのまま移行してしまうことになります。良いことだけが移行できるのではなく、悪いことも流れ込んで移行してしまうのです。その最たる現状が単価の問題でしょう。

 

「デジタル作画」は映像技術的な限界もさることながら、もっと深刻な問題は、旧来現場の貧窮や悪癖も全て踏襲してしまうことです。

 

作画作業の道具がコンピュータへと移行する機会は、またとない現場改善の好機なのに、全くそれが活かされず、むしろ「都合の悪い部分は濁したまま、うやむやのうちに、移行してしまおう」とする無言の強い意志すら感じるのです。

 

当のアニメーターが、なぜ、それに気づかない?

 

散々、ブラック、ブラックと言われているのにも関わらず。‥‥です。

 

制作現場外部側の一般向けに喧伝するのは、「ディテールの細かい絵で、こんなにかっこよく動いて、アニメができるようになりました」でも構わないでしょう。しかし内部では「ディテールの細かい絵で、こんなにかっこよく動いて、アニメができるようになったけど、そのコスト=時間とお金は?」ということを真正面から問わなければなりません。「こんなことができる」のは技術発展として良きことでしょうが、同じ重要度をもって「作業者の生活のリアル」を考えるべきでしょう。

 

うやむやのうちに「デジタル作画」に移行し、全行程が「デジタル化」した旧来現場の未来像は明白です。より一層、大変な作業を請け負うことになる各セクションの作業者の姿です。

 

「細かく描けてしまうので、細かいキャラ設定をそのまま描けてしまい、原画も動画も仕上げどんどん大変になる」とか、「細密の限りを尽くした美設に基づく、極めてディテールの細かい背景美術」とか、「貼り込み数カ所はあたりまえで、数日で全部撮り切りの撮影工程」とか、採算度外視な内容に歯止めが効かなくなる未来が容易に想像できます。

 

「デジタルには移行しないで、紙に描ける細かさを上限にしておけば、こんな事にはならなかった」‥‥と後悔する日が来るかも知れません。

 

* * *

 

現在、テレビシリーズの原画単価は4000円前後です。私がキャリアを開始した30年前は2200〜2500円くらいでしたから、「時代に合わせて、倍近くにはなったんだ」と思いがちです。

 

でも、その考えは全く的を外しています。

 

現在のテレビシリーズは、放映して完了‥‥ではなく、製作当初から「円盤などのパッケージ販売」「配信ビジネス」が決定しています。

 

昔で言えば「OVA=オリジナルビデオアニメーション」の性質を多分に有するのが、今のテレビシリーズの姿です。「テレビアニメとは言いながら、最初からOVAとして販売することが決定している」のです。ゆえに、昔のテレビより、キャラ設定は細かくてデリケートだし、品質に気を使うし、パッケージRも放映後に作業します。

 

‥‥さて、30年前のOVAの原画単価は3500〜4500円くらいでした。

 

あれれ? つまり、どういうこと?

 

テレビシリーズは実はパッケージ販売前提のOVAである‥‥という「テレビ作品という肩書きに誤魔化されたトリック」があるのです。‥‥だとすれば、単価は実はそんなに変わってないのです。

 

これも「うやむやのうちに、そういうことになってしまった」事例ですよネ。

 

「デジタル作画」も結局、時代の流れに合わせて大変な絵を描いて作業時間は猛烈に伸びても、「うやむやのうちに、慣習を引き継いで」、アニメーターの生活はもっと厳しいものへと移行していくでしょう。これは過去の歴史からいくらでも学べる教訓です。

 

* * *

 

‥‥とは言っても、やっぱり、自分の頭と体で実感してみないことには、納得できないことも多いでしょう。

 

なので、虎穴に入らずんば虎児を得ず。「未来の現実」を獲得したいのなら、ツイッターばかり気にしてても先には進みません。実際に、自分の身でのりこんで、体感して「いけるか、いけないか」「喰えるか、喰えないか」を自分なりにジャッジすることが必要です。

 

実感したことで、未来のプラスイメージが想像できれば、そのイメージが具現化するように行動すれば良いです。逆にマイナスイメージのビジョンが見えてしまった場合は、それ以上は先に進まずに、自分の経験と照らし合わせて、もう少し時間をとって考えることが必要になると思います。

 

結局はなんだかんだ言っても、自分自身で自分の未来の舵取りをするほかないのです。そしてその各個人の舵取りの総合結果が、業界の動向になります。

 

1960年代から始まって発展し、今まで生き長らえてきた旧来制作システムは、構造寿命に達しています。ヒシヒシ‥‥と感じます。「根性根性ど根性。泣いて笑って作画して」なんていうのは、老いた世代の過去の思い出です。2020年代には、2020年代にふさわしい闘争本能が求められるでしょう。

 

労基の問題にも対処しなければならないでしょう。労基の水準をクリアして、コンピュータも手足のように扱い、コスト効率も最大限に高めつつ、そこでどんなアニメを作るか‥‥が、2020年代以降のアニメの作り方なのです。「昔話の武勇伝」は語り草程度でちょうどよく、未来の現場に「昔話の武勇伝」は要らないのです。

 

* * *

 

私の経た映像制作30年で獲得したことは、「細部を想像できるものは実現できる。細部が濁って曖昧なものは実現できない。」という単純明解な経験則です。

 

絵もプログラムも電気回路もそうですよネ。曖昧な部分があったら、その部分に関しては、絵を描けないし、制御文を書けないし、回路図を設計できない‥‥ですよネ。つまり、完成しない、動作しない‥‥のです。

 

「なんかよくわからないけど、良いかも知れない。うまくいくかも。」なんて、素人の言い草なのです。「あれとあれとあれを組み合わせれば可能となる。良いものになる。完成する。」と具体的に想像できることだけが、実際に実現できるのです。

 

もし、未知の新要素、思いも寄らない発見を得られる「セレンディピティ」があったとしても、それは漠然とした日和見から生じるのではなく、確信的に掴みたいものを掴みにいく経過によって生じるのです。

 

* * *

 

滅んでいった産業、忘れ去られた娯楽はいくつもありましょう。消えていったいくつもの中に、アニメを含めるか否か。

 

「自分の墓穴にもっていく」なんていう考えの人もおりましょう。そういう人は、殉死希望者を募って、先祖の墓前で自決すれば良いです。私は、そういう人がいるのを否定しませんし、むしろ、その人なりの意志を貫いた潔い選択だとも思います。

 

しかし私は、時代に順応し、世代を超えて技術が受け継がれる、アニメ制作技術の構造を求めていきたいと思います。死ぬことよりも、生きることを考えたいのです。

 

 


種を蒔く。事を導く。

ふと思えば、現在行動している「元」は、10年くらい前に行動していたことの結果といえます。ある日突然、思いもしなかったことが実現しようはずもなく、必ず「蒔いた種が発芽して生育した結果」が現れます。実がなるかどうかは、生育の状況次第ですが、とにかく、種を蒔くからこそ、芽が出るわけです。

 

しかし、「今の行動が、未来の種となりえるか」が察知できるようになるには、相当な経験が必要になります。ゆえに、絶対的な「生きた時間」が少ない20〜30代の頃は、10年単位で状況を俯瞰視することは難しく、「今、これをやっておくと、いいかも知れない」という漠とした感覚で行動します。もちろん、若ければ若いなりに当時は一生懸命「合理的に」考えては見るのですが、いかんせん、経験の蓄積途中にあるので、10年規模の発展予想図など、思い描きようがないのです。もし何らかの取り組みと発展の予測を可能にできるとすれば、歴史書から学ぶほかはありませんが、20〜30代の頃は「今を切り拓くのに必死」な状況が続くため、「10年単位でものを扱う」ことなど中々実践できるものではないのです。

 

では、40代以降はどうでしょう。

 

私が今、アニメの旧来制作システムに別れを告げて、新たな「次世界」の一歩を踏み出そうと心から決心できるのは、アニメ業界での状況を見据えることが「私なりの30年間の視点において」可能になったからです。

 

10年間だけでは判断が難しい、20年間だと経験は蓄積できているが複数の可能性から1つを選択するのに迷う、30年間だと‥‥まあ、それなりに判断ができるようになってきました。私は現在40代の終わりですが、今と同じ決心を20年前のアラウンド30の頃にできたかどうか‥‥は、かなり難しいかなとは思います。

 

 

新しい技術と制作体系で切り拓いていく未来には、多くの困難もつきまといますが、多くの明るい希望も見えます。明るい要素の中で、一番わかりやすいのは、「未来映像技術」、そして「お金」です。細かい絵柄=4K8K、滑らかなモーション=60〜120p、濃く深く鮮やかな色彩=HDR、そして、人ひとりに分配される作業費が大幅に向上できます。

 

私は旧来のアニメ技術に対して、どうしても、暗い未来の感情が拭えないのですが、それはまさに上述の「未来映像技術」と「お金」の面で圧倒的に不利だからです。新しいアニメ技術では有利に作用して追い風になってくれる世界規模の映像技術進化が、旧来のアニメ技術ではことごとく不利に作用して向かい風になるのです。アニメ業界の仕事だけをこなしていると「何が不利なのか」も具体的にわかりにくいのですが、2K24p(実質は8〜12fps)SDRで打ち止め状態のフォーマットと、大量の絵を描かなければ映像が作れない技術基盤は、「かなりヤバい」立ち遅れです。日本のアニメで用いる映像フォーマットはまさに前時代の遺物と化そうとしている一方で、制作費は全然足りていない‥‥という、深刻で大きな障壁が立ちはだかります。

 

では、「デジタル作画」と「デジタルタイムシート」だったら、どう改善できるでしょうか。「デジタルの作画とデジタルのタイムシートという種」が、どのように育っていって、10年後にどのような実を結ぶかを想像してみれば、「デジタル作画」が支える旧来アニメ現場の未来も見えてきましょう。

 

その未来、つまりは、

 

デジタル作画とデジタルタイムシートは、アニメーターの作業報酬を根本的に改善できるか?

 

‥‥かというと、まあ、できませんよネ。なぜかというと、

 

  • デジタル作画で可能になる細部の描きこみによって、今よりも一層、1枚を描くのに時間がかかるようになる
  • デジタル作画とデジタルタイムシートに移行しても、3000〜8000枚の作画と仕上げが必要なのは同じ
  • よって、制作費を分配する構造には変化が生じず、作業者ひとりに分配される作業費は、抜本的な改善が困難

 

‥‥という様相が、見えてきます。

 

今、デジタル作画とデジタルタイムシートを推進している人々の頭の中には、どのような「10年後のビジョン」が見えているのでしょうか。

 

私なりに、「デジタル作画」から見える10年後のビジョンを文字にすると、

 

  • テレビ作品の原画単価5000〜6000円
  • テレビ作品の動画単価300〜400円前後
  • テレビ作品の作画枚数4000〜8000枚
  • 4K対応の細かい絵柄を描くことにより、上記単価の向上は実質打ち消される
  • 作画の労力をカバーするための、今以上の随所にわたる撮影のテクスチャ貼り込み
  • 1話あたりの制作期間、作画〜撮影で1.5ヶ月
  • マシン環境を標準化するために、更新されずに固定されたソフトウェアとハードウェア
  • 24pのまま

 

‥‥という感じです。

 

中々、厳しい未来です。‥‥わたし的には「絶望的な未来」です。作業の金額だけでなく、作業期間の短さは、人件費を低く抑えるための常套手段なので、絶対に外せないでしょう。

 

作業内容が今でも釣り合っていないのに、さらに作業状況が過酷になっても、作業費は現在の1.5倍くらいがせいぜいでしょう。過去10年セグメントで、どのように社会とアニメ制作現場が「経済的に」変わってきたかを振り返れば、大体の予想はつきましょう。

 

デジタル作画とデジタルタイムシートの目指す10年後の未来は、道具がコンピュータに変わりこそすれ、作業者の苦しさはあいも変わらずの未来‥‥だと私は強く思います。「デジタルワークによって、効率化が図られて」と言う人もいるでしょうが、私の知るところの実例では、デジタルも紙も同じ単価で、同じだけ時間もかかるようなので、「効率化=お金」という図式は「デジタル作画」には当てはまらないようです。‥‥でもそれは当然で、数千枚も細かい絵柄を描いてれば、紙だろうがペンタブだろうが、作業内容が厳しいのは変わるわけがないのです。

 

「だからこそ、制作費を2倍に」‥‥というのは、実現性の乏しい主張です。

 

それを言うのであれば、「国家予算がせめて2倍あれば」「給料が2倍になれば」と誰もが思うでしょう。「制作費を2倍に」できる「根拠」がなければ、決して2倍にはなりません。祈ってれば成就するような空想物語ではないのです。

 

 

 

「どんどんデジタル作画の機運が高まっている。これからは作画もシートもデジタルだ」

 

‥‥と盛り上がるのは、20代の若い人ならある程度しょうがないです。しかし、30代後半から50代にもなろうとする人間ならば、「種を蒔いた後の10年後」は想像できるはず‥‥ですよネ。

 

 

「絵コンテがあって、作打ちして、まずレイアウトと1原を描くよね。その時に使うのはペンタブか。‥‥で、2原を描くときもペンタブで‥‥まあ、ペンタブなのは、慣れるとして、‥‥‥‥で、お金は? 作画する内容は?」

 

 

アニメ業界の、しかもアニメーターは、世間からブラックと呼ばれている現状から抜け出したいわけですよネ。

 

なのに、不思議‥‥ですが、なぜ、道具を変えて、同じことを繰り返すのか

 

10年後にブラック構造から抜け出たいのなら、今、「ブラックから抜け出すための、未来の元」を作り出す必要があるのですが、それが「デジタル作画」と「デジタルタイムシート」でしょうか? ‥‥私には、全くそうは思えないのです。

 

「デジタル作画」と「デジタルタイムシート」のどこに「ブラックからの解放」の要素が内包されているのか、正直、私には全く見えないのです。「ブラック状態から抜け出す画期的な要素がデジタル作画には欠けている」と感じます。道具をコンピュータにすげ替えたところで、今と変わらぬ未来がアニメーターには待ち受けています。‥‥本当に、現場はそれ=今と変わらぬ未来を望んでいるのでしょうか‥‥‥ね?

 

「お金の問題と、デジタル作画は、別枠の話だ」‥‥と言う人もおりましょう。しかし、「作画」の内容はアニメーターのお金(=作業時間)の問題に直結するのですから、切り離して考えるべき問題とは、少なくとも私は思いません。お金と作業のお話はあくまで同列に、双子の兄妹のように扱うべき問題と認識しております。

 

 

私は今から10年くらい前に、いわゆる「カットアウト」「キーフレーム」アニメーションの技術を「実用目的の技術」として取り組み始めましたが、まさに10年後の今、小規模ながら確実に芽を出し生育も進み、実を結び始めています。さらにその10年前、今から20年前に、煙などのエフェクトや鉄柵などのBOOK(切り抜いた背景のこと)をAfterEffectsで動かす試みを既に開始していました。自然界のサイクルのごとく、すべて「物事は時系列で繋がっている」ことを強く感じます。

 

「10年前に種を蒔かなかったら」、新しい技術の草木1本も私の周囲には存在しなかったでしょう。

 

ものすごくシンプルな物事です。種を蒔くからこそ、芽が出て育つ。

 

 

 

「作画をペンタブに切り替えて、タイムシートもデータ化して、旧来の原画動画単価で描く」という種を蒔いたのなら、その通りの延長線上の10年後が待っています。

 

「作画の新しい技術体系を地道に形成しつつ、徐々に作業実績を積み重ねていく」という種を蒔いたのなら、同じく、それに値する10年後が待っているでしょう。

 

 

最近、UHD BDと有機ELテレビのメーカーのデモを見て、一方でNetflixを視聴し始めて欧米のアニメ技術を垣間見て、未来のアニメのカタチが一層明確に見えてきた感慨があります。そして、度々報道される、アニメ業界の「ブラック構造」も、「10年後に、どんな現場で、どんな作り方で、どんな商売をして、アニメと関わっていたいか」という意識を、逆に「ブラックだ」と言われることで明確に自覚できるようにもなりました。

 

デジタル作画が導く10年後の現場で、どれだけのアニメーターが幸福感を感じていると想像していますか?

 

あいも変わらずの「アニメ作品に対するファン心理を人質にとった」ような働きかたを強制し続ける10年後ではないですか?

 

私は心底、そういう「憧れ」「生きがい」を質に入れて、二束三文で労働する「今までのアニメ制作現場」の構造に、疲れ果てたのです。‥‥だから、疲れ果てない、失望しない現場を作り出すことが、どうしても必要なのです。

 

もしかしたら、多くの人は疲れ果てて辞めていくのかもしれません。しかし、私にはまだまだ十分すぎるほど、アニメに対して、キング牧師みたいな言い方ですが「私には夢がある」のです。私は、過去30年の映像制作において何度となく、種を蒔いて育てたことが実を結んで、夢みたいなことが本当に実現した経緯を経験してきました。「夢」「憧れ」「生きがい」「やりがい」は、それを質として、少ないお金と長い作業時間と引き換えに手に入れる方法論だけではなく、「夢」「憧れ」「生きがい」「やりがい」をむしろ直に商売に結びつける方法論も存在することを、30年間の映像制作人生で学びました。

 

我々作り手は、ジョブとワークのことしか頭にないことが多いですよネ。ジョブ=仕事と、ワーク=作業に加えて、ビジネス=商売も、頭の中に常に巡らせておく必要があります。

 

 

 

私はこれ以上、「旧」現場において、加害者にも被害者にもなりたくはないのです。

 

だったら、もう答えはひとつ。「新」現場をつくるしかないです‥‥よネ。

 

 

10年前には存在しなかった、iPad Proも、iMac 5Kも、Adobe CCも、2017年には存在します。なんという「未来の種」でしょうか。この種を活用しない手はありません。

 

セレンディピティ」という言葉を最近テレビ番組で知りました。そのセレンディピティに不可欠な要素として、「準備した人にしか発見できない」とも語られていました。‥‥納得、ですネ。

 

 



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