雑感

作業の手間を効率化するために、急場でAfter Effectsのスクリプトを作りました。特定のエフェクトのプロパティのキーフレーム群をイーズインアウトに変更しエクスプレッションでループ化する‥‥というものです。山ほどプロパティとキーフレームを設定しなければならない場合、手作業でいちいちキーフレームを操作していると、時間も手間もじくじくと消費します。After Effectsのスクリプトフォルダに自作のスクリプトを入れておいて、簡単に実行できるようにすると、積もり積もって結構な作業力の節約になります。

 

山ほどのキーフレームの操作‥‥なんて、今までのアニメの撮影では珍しいですが、コンピュータで描いた絵を動かすとなると、100〜200のプロパティそれぞれに、5、10、20のキーフレームがある状態では、あっという間に500〜2000個のキーフレーム数になります。膨大なキーフレームの操作に対し、手作業の作業形態を放置したままだと、能率が一定以上で頭打ちになります。「できるのに諦める」「可能を不可能にする」状況に甘んじてしまうのです。

 

スクリプト1つで、ぐんと能率が上がることも珍しくはありません。

 

 

キーフレームの操作に直接関わるスクリプトを作ってて思ったのは、旧来のタイムシートで標準化されている指定や記述は、かなりの部分をスクリプトで自動化できる‥‥ということです。‥‥あれ? これって、ブログで昔にも似たようなことを書いたような気がするな。

 

パーティクルやテクスチャハリコミは、そもそもタイムシートでは正式にはサポートしていない標準から外れた、最近のエスカレートした撮影要求(=そもそも撮影の仕事ではなく、作画管轄の技術です)なので、自動化は無理です。しかし、通常のタイムシート標準仕様であれば、「タイムシートを真の意味でデジタルデータ化できれば」かなりの自動化は可能です。

 

セルのタイミング(コマ打ち)、BGやBOOKやセルの重ね順、PANやZOOMなどのカメラワーク、カメラワークの加速減速(イーズ)、透過光の処理、ディフュージョンなどの定型の光学フィルタ(のシミュレーション)は、タイムシートの記述法をデジタルデータで規約して定義できれば、タイムシートを記述する行為が撮出しとタイミング撮を兼ねることも可能になります。

 

まあ、撮出しは「現物を見て、フレーミングを再考する」工程でもあるので、現物を見ないままで完全な「撮出し」なんてできませんが、「レイアウト通り・シート通りに素材が上がって入れば」という仮定の上で、セルワークとカメラワークをタイムシートでかなりガッチリとコントロールすることは可能でしょう。あくまで、真の意味で、タイムシートがデジタルデータ化できたなら‥‥です。

 

しかし、この15年くらいで、すっかりと撮出しは「なかったもの」になり、言うなれば「後撮出し」、つまり、「ラッシュチェックで初めて素材が組み合わさったのを見て、リテーク出しというかたちで撮出しをする」手順に業界全体が染まった感があります。ここ10年くらいの間に業界入りした人の多くは、撮出しの意味すら解らない人も多いでしょうし、実質「ムダ撮」で本撮を撮り切って、リテーク出しからが本番だ‥‥なんていう現場も多いでしょうしネ。

 

‥‥なので、作業を完了することに必死すぎて、先回りしてルーチンワークの自動化だの管理の自動記録だのなんて、タイムシートのデータ化、ひいては作業の自動化がどれほどの人の心を動かすのかは、何とも先が読めません。

 

エフェクトの必要ない、ほんわかした作風のアニメなら、タイムシートのデジタルデータ運用規約が出来上がってしまえば、一人で撮影することも可能でしょう。人間が関与するのは、ルーチンワークでは対応できないカットのみに絞って、通常の芝居のシーンなどは自動化でかなりのところまで完了できます。‥‥「デジタルタイムシート」のソリューションが「記入ソフト」のレベルを凌駕し、素材の管理や撮影コントロールの領域まで発達すれば‥‥ですけどネ。

 

いや〜、でも、それは現実的には無理っぽいですね、今までの現場の動向から考えても。「誰が開発するんだ?」のところでスタート直後で躓きますもんネ。

 

各方面の「識者」「経験豊富な技術者」を招集したところで、無様なほどにコケていくプロジェクトは、それはもう、いくらでも‥‥ありましたよネ。

 

 

 

「デジタル作画」を推進しても、作業に関わる様々な事柄の制定とデジタルデータ上の規約が揃っていなければ、ネットワークとデータに囲まれていても、「デジタルの孤島」で活動する作業グループになってしまいます。

 

自分たちの新しい「デジタルベース」の現場における、様々なインフラや規格や体系は、自分たちで形作っていくしか、実質的な道は開けません。規模の拡大を目指すのなら、現場作りに相応の手応えを得た後で、徐々に周囲を取り込んでいく‥‥というのが、現実的な道筋でしょう。

 

私自身、残りの半生を旧来技術のお世話に消費するよりも、まだまだ幼い新技術の育成に力を注ぎたいので、旧来制作システムは適当に付き合いつつも、本命は新しい制作システムと技術体系です。

 

タイムシートをはじめとした、様々な要素の「新定義」は、新しい作画技術やコンポジット技術と同時に推し進めていくべき、重要な課題です。

 

 


果てしない水汲み

アニメを未来に渡って作り続けるには、どうしたら良いんだろう。

 

若手アニメーター、月給10万円未満が50%超 「死に体で支えている」苛酷な生活実態とは(調査結果)」を読むと、今の作り方の限界を感じます。おそらく、誰もが。

 

こうした話題を前にした時、多くの人は制作費のことを持ち出しますが、私が考えるに、今の作り方を維持しつつ、原画・動画だけでアニメーターが歳相応に正常に生活できるようになるためには、現在の作業単価の4〜5倍は必要で、さらに単一単価制度は廃止しないと、問題は大きく改善できないでしょう。

 

でも、それをできる会社、ぶっちゃけ、ないですよネ。

 

「大変な作業を請け負えば、相応の報酬が得られる」というあたりまえ過ぎることを、まずは現場で成立させないと、お金はいつのまにかどこかへと消えていくだけです。

 

作画だけじゃなくて、撮影でも同じで、派手で大変なドンパチのカットが盛りだくさんなシーンを、他の日常芝居のシーンと同じ「秒単価」でぬけぬけと伝票を切ってきた時は‥‥‥‥‥

 

 

でもね、もういいんだよね、そういうのは。

 

過去の幻影です。

 

 

現場の技術自体、現場の制作構造自体、現場のお金の感覚自体、現代とあまりにもズレすぎているのです。

 

どうやったら、よくなる? ‥‥なんて、「今の住処」に居続けたまま、話し合うだけ無駄。

 

どうせすぐに、内輪で「あなたのほうが1畳多いのはズルい。」「あなたのほうが日当たりが良くて不公平だ」なんていう骨肉の争いが始まるだけだもん。彩色単価からお金をカットして動画単価に補填すべきだ‥‥なんていう人がいるくらいだからね。

 

そんな人々が集う狭い住処で、現在の基準だと建蔽率でひっかかるから、柱だけは残して、全面改築だ!‥‥なんていう取り組みが、果たしてどれだけ有効か。

 

 

数キロ離れた川に、バケツを両手にもたせて、水を汲みにいかせといて、「大した量を運べない奴だな」なんて、あまりにも酷い話です。でも、アニメ業界の制作技術って、延々と現在でも、そういうことをやってるんですよ。

 

バケツによる水汲みは大変だから、水の単価を上げよう!‥‥って、アホすぎると思いません?

 

なぜ水路を作って、電気でポンプを動かそうとしないんだろう? 電気は電球を灯すだけにしか使えないと思っているのだろうか?

 

バケツの水汲みをしていた人は、水を扱う様々な新技術の技術者として再出発すれば良いのです。

 

でもね‥‥、「水路を作るのって、大変じゃん」‥‥というのが、業界の総意なんだよね。

 

 

まあ、だから、私はもう、既存の現場にどうこうと提案するのはやめたのです。今までの現場の流儀が気に入っている人々に、余計なお節介なんて、すべきではないと達観しました。

 

だってさ‥‥。今の場所に、新しい住処を作るのって、実質的に無理じゃん? 今いる人々を一旦でもどかさないと、新しい建物なんて建てられないですもんネ。

 

 

 

必要なのは、古い考え方に固執する人がいない、今の現場とは違う場所に、新たな設計に基づく、新たな住処を建築することです。少なくとも、私はそう思います。

 


鉄輪の赴く先

iPhoneが登場した時、日本において、結構な地位の偉いさんやアナリストの方が、「iPhoneは日本では流行らない」と言ってしまった理由は、既に各所で分析されていますが、要は「何かの延長線上でしか見れなかった」から‥‥ですよネ。携帯電話の延長線上、パソコンの延長線上、そして人々の今までの使い方の延長線上‥‥と、何かしらの延長線上にiPhoneを当てはめようとしたのは、当人の思考の性質そのものだったのでしょうネ。

 

iPhoneが発売からしばらくのあいだ、売り上げが伸び悩んだ頃に、

 

「iPhoneは、一時的にはブームになるだろうと思っていた。だが、端末が一般の人に魅力的かは疑問。こういう流れは想定していた」

 

‥‥だそうな。

 

でもまあ、その次の流れは想定できなかったんですネ。今では驚くほど、会う人会う人がiPhoneを持っているような普及ぶりです。

 

言うなれば、今までの流れの中だけで、新しい何かを捉えることの難しさを、iPhoneの日本での大流行の一件は物語っているのでしょう。

 

 

なんか、同じ思考形態で、4Kをはじめとした未来の高品質映像フォーマットについて語っている人、特にアニメ業界で多くないでしょうかネ?

 

 

4Kを「解像度が上がった2K」と考える人は結構目や耳にします。驚くのは、すでに「デジタル作画」を取り扱っている人間でも、4Kを「解像度が上がっただけ」としか認識していない人がいることです。

 

延長線上から一歩外れて、「解像度が上がるということは、何を呼び寄せるのか」をちょっと考えてみただけでも、「流れにどのような変化が生じる」のかがイメージできる‥‥と思うんですよ。実際に「何ピクセルのキャンバスに、何ピクセルのペン先で」絵を描いている人ならば、特に‥‥です。

 

 

iPhoneの時と、同じ勘違いが、また「再演」されるのかな。

 

 

作画の延長線上で未来の映像フォーマットを理解しようとする。現在の身の回りの機材の知識だけで、未来の現場を思い描く。人々のアニメに対する印象の延長線上で未来のアニメを考える。つまり、既存の何かの「直線的な」延長線上でしか思考できない状態です。

 

何かと何かが衝突して生ずる新しいベクトルとエネルギー‥‥とか、多かれ少なかれ、考えてみたりしませんかネ?

 

直線的な延長線上の視界しか持てない人にとっては、例えば、ハチミツを水に溶かして瓶詰めして放っておいたら、やがてミードになった‥‥なんて魔術としか思えないのかも知れませんネ。

 

 

日頃、iPhoneを使っているのなら、なぜ、「日本におけるiPhoneの顛末」を、思考のイメージとして活かせないのかな? ‥‥特に、自分らの仕事の未来イメージにおいて。

 

‥‥私は、私なりのレベルゆえに考えが及びきらないまでも、あーでもない、こーでもないと、色々と角度を変えて考えて、自分らの技術開発の基軸に活かそうと心がけますけどネ。iPhoneが日本で「売れちゃった」のって、「思索の好材料」だと思うのですよ。

 

 

 

単一直線上に、物事が大人しく在り続けたことって、逆に「稀」ですよネ。

 

物事は、したたかに、動的に、クロスオーバーさせつつ、取り扱っていきたいもの‥‥ですネ。

 

 

私は今、昔ながらの作画スタイルの仕事をiPadで、新しい技術ベースの仕事もiPadで、別方面の新しい技術ベースの仕事はMacで、畑の違う映像の仕事もMacで‥‥と、「重い鉄輪」がゆっくりと動き出した感慨をしみじみと実感しています。「動き出し」はいつも、傍目からはまるで静止しているかのように、ゆっくりと動き出します。

 

その鉄輪が歩む軌道は、いくつも交差しながら、見知らぬ新しい土地へとつながっています。

 

 


Apple Park

Apple Park。

 

 

四月、オープンとな。

 

巨大な社屋。5600億円。‥‥むーん。

 

まあ、世界有数の企業だもんね。アップル。

 

 

iPhoneの時もそうだったけど、定期的にアナリストの定人数は、予想をハデにブチ外すよね。

 

Appleは経営破綻してどこかに買収されて消える‥‥なんて90年代に言ってたのは、どこのどいつだ。‥‥でもまあ、たしかに危なかったよネ、当時のAppleは

 

私だって、1997年に自費でPM8600/250を買う頃に、Windowsにしようか本気で迷いましたもん。でも、PM8600筐体の頃から、確実にAppleは立て直しを進めていて、その成果が製品に反映され始めていました。日本版のOSを漢字Talkとか言ってた頃からMacOSへと統合したり、マシンのメンテナンス性が格段に向上したりと、「Macにしてみても良いかな」と思い直せた時代が、1997〜1999年くらいの頃でした。

 

Bloodの劇場版を1999年に作っていた深夜のこと。ふとIEでブラウズした、AppleのWebにiMacが大きく映し出されたのを、今でもよく覚えています。あの不思議なパソコンが要は「スティーヴの仕業」だったんですネ。iMacは衝撃的すぎて、ニセモノの半透明一体型PCも出たし、そこらじゅうの雑貨が不必要にトランスルーセントになるわで、社会現象の起爆剤にもなりました。

 

色々言われる人だけど、結局はスティーヴ様々ですね。

 

 

でも、こうした社屋に、私はあまり憧れは感じませんよ。日本は日本独自のやりかたと美意識があります‥‥って、強がりにしか聞こえんですかね。

 

ディズニーやピクサーのキャラに心の底から愛をもてないですもん。アメリカの趣向には馴染みきれません。私はどんなに社屋が立派でも、もし扱うキャラがアメリカナイズされたものだったら、辞めちゃうと思いますしネ。

 

ほら‥‥。やっぱり、私は根底はとても保守的なのです。好きなものをより美しく表現するために、技術をどんどん乗り換えて進化させていこうとは思いますが、好きなもの自体を変える気など全くございません。

 

 

何か、元も子もない言い方になっちゃいますけど、「日本って、こんなだから、こんなキャラを生み出して、こんなアニメを作れる」とは思っているのです。利点でもあり、弱点でもありますネ。

 

ただ、「こんなままで良い」とは思わないので、何か新しい道筋を探そうとは思いますけど、あくまで日本の特性や美点を鑑みたものでありたい‥‥です。

 

 

 

 


マスター

SD時代、あんなに苦労して作ったテレビシリーズが、720x486(D1)の寸法でしかオリジナル映像が残っていないのは、今にして思えば、「もったいない」です。しかもプルダウンした画像で、簡単にはプログレッシブな画像に戻せないというオマケ付きで。

*WSSWWの各カットの映像を、編集で切って繋いでいるので、簡単には戻せないのです。

 

フィルムなら、スキャンし直して‥‥という手段もありましょう。16mmは結構キツいとは思いますけど、それでもグレインをスキャンする技術進化に打って出ることはできましょう。しかしビットマップ画像はどんなに叩いてもひっくり返しても1ピクセルは1ピクセルでしかありません。Googleの超解像技術でも使う?

 

でも、そもそも、以前のD1サイズの「デジタルアニメ」は、720pxが解像度の全てではありませんでした。

 

制作現場ごとで違いますが、D1サイズの映像を作るのに、作業サイズまでD1サイズであることは稀でした。最低でも960pxで作業しており、私が関与していた作品は4:3の昔の動画用紙の150dpiだったので、千数百ピクセルでした。細かい数値は忘れましたが、アップコン次第で2Kにも通用するピクセル寸法だったのは確かです。

 

1Kオーバーのオリジナルサイズで、24pの映像ファイルにしておけば、様々に活用できたのにな‥‥と思います。

 

720x486では、限界が低すぎますもんネ。編集工程を中心とした、当時の「運用上」の限界だったので、しょうがないと言えばしょうがないですが、素材サイズもコンポジットも、もとは1Kオーバーだったのに‥‥と惜しまれます。

 

ちなみに、私がメインで担当した2004年のテレビ作品のOPは、マスターは1280か1440px(どっちだったかパッと思い出せない)で、24pで残っています。当時はProResなんてなかったので、映像のマスターはPSDの16bit(各色)連番で可逆圧縮=事実上の非圧縮で保管してあります。‥‥まあ、技術仕様はいかにも、前の年まで作業していた劇場映画の影響を色濃く反映していますね。

 

当然ですが、テレビで放映したりDVDで発売した0.7K映像より、1.3Kのオリジナルのほうが遥かに鮮明で繊細です。

 

なぜそんな「当時としてはオーバースペック」なことが、テレビにおける「デジタルアニメーション」の黎明期である2004年にできたかというと、OPワンパッケージで取り仕切れたからです。どんな制作的な内部構造でも、納品するものに問題がなければOKで、自由に作業フローも規約も制定できたのです。

 

一方、テレビ本編は、編集上の縛りから、D1でプルダウン映像(24 to 30)でした。当時は、高品質で軽量で取り回しの容易なQuickTimeのコーデックも存在しなかったがゆえに、D1サイズのアニメでは「当時としても昔ながらの」アニメーション圧縮のロスレスが定番でした。2017年の今でも、アニメーション圧縮のロスレスが定番だと思っている人にたまに遭遇することがあって、D1時代の名残を感じます。2Kが標準の現在、アニメーション圧縮なんて使ったら、そもそも色深度が足りなくてトーンジャンプの元凶になりますし、低画質高容量の代名詞になってしまいます。Macを使っているのならProRes、WinならDNxHDやDNxHR、共通ならCineFormあたりが選択肢ですが、………当時はそんなもんないので、アニメーション圧縮のロスレスは中間コーデックの定番でした。

 

 

歴史は繰り返す。

 

現在、高詳細で繊細な絵でアニメを作ろうと思うのなら、1.5Kではなかなか難しいです。ペンタブで描いてて、ヒシヒシと感じますよネ。iPadで1.5〜2Kのキャンバスで絵を描くと、その解像度の荒さがペン先で実感できます。

 

都合、ビデオ解像度を上げることになりますが、せっかく作った高詳細の絵を、当座の編集や納品サイズが2Kだからといって、2Kをマスターにする必要はないよネ。

 

特に、短尺の場合は、内部的な融通も効きますから、様々な技術的な運用も兼ねて、高解像度でマスターまで作ってしまって、当座の納品サイズにダウンコンすれば良いです。グレーディングの技術を応用すれば、ダウンコンの際に生じる僅かな不整合(フォーカスのエッジ感やグレインサイズなどの特性の差)も吸収できますしネ。

 

まあ、テレビ本編では通用しない考え方ですが(現在のテレビ本編の作業費で、4Kとか作っちゃマズいですもんね)、お金的にも余裕のある短尺では、未来に向けて様々な取り組みを徐々に実践しておくのが肝要と心得ます。

 

 

今も昔も共通しているのは、アニメ制作現場には「マスターを作る」という概念自体が乏しいことです。あくまで「納品仕様に合わせる」のであって、「マスターを作っているわけではない」意識が色濃いです。

 

まあ、完全に請負の仕事ならば、「発注に応じた納品」に意識が集中するのは致し方なし‥‥ですが、自社で権利を保有しているにも関わらず、作り方が「納品合わせ」なのは、ちょっと‥‥いや、かなり、「もったいない」です。10〜20年後に再レンダリングなんてマシン環境の変化によって不可能なことが多いのですから(データを残しておけばいつでも再レンダリングできると思う人がいて困ります)、作業時オンタイムでマスターを作っておいて、納品にはコンバートで対応するのが「未来を考えるのなら」有用です。

 

でもこういうことは、制作現場全体の意識とも言えるので、やっぱり行き着くのは、「制作現場のリストラクチャー」なのでしょう。メーカーの宣伝として機能していた昔のテレビアニメの制作構造をずっと引きずったまま、品質だけは作品内容重視の2017年仕様‥‥という不整合は、もうそろそろ終息させても良いころだ‥‥だと思います。

 

作品の内容が重視される時代に移り変わったのであれば、完成映像=マスターに対する意識や概念も移り変わって然るべき‥‥だと思っています。

 

 


世代

よく、「ゆとり世代」とか「さとり世代」、「バブル」とか「ロスジェネ」など、世代の特徴をして、自分を定義づけることがありますが、わたしはどうもピンとこないのです。たしかに時代性の特徴はありましょうが、個人のポテンシャルに深く関与しているようには思えません。

 

どんな世代でも、何らかのプラスマイナスを包括しているのであって、世代が悪かったから自分は不運だ‥‥なんていう論調にはどうにも賛同できません。どの世代でも、勘の良い人悪い人、伸びの良い人悪い人はいて、もっと言えば、人の「良し悪し」の評価も、ある場所ではダメダメづくしでも、違う場所ではてきめんに性質を活かせることもあって、人の使い所や評価なんていうのは、「世代性で総括できるものではない」というのが、私の経験からくる率直な感想です。

 

私はもう10年以上、学生の若い人たちを見ていますが、たしかに「世代ごとの全体の雰囲気」程度は感じるものの、やっぱり人はその人自身で成り立っており、「XX世代だからダメ」なんていう決定的な場面を経験したことがないです。

 

むしろ、「自分はXX世代なので不運だ」とか言って、自分の境遇を世代性に転化する様を目や耳にすると、少々イラっときます。例えば絵を描くのならば、デッサン力の欠如やパースの知識の低さは、世代のせいじゃないだろ?‥‥と思いますしネ。単に、その人間の学習法や絶対的な学習時間に欠陥があるのであって、「XX世代だから絵が上手くならない」なんてありえません。こと、絵に関して言えば、上手くなりさえすれば、世代なんて簡単に超越できます。

 

頼りになるロスジェネ世代のスタッフは多いし、ゆとり世代でも感性が鋭く自分に厳しい人もいます。世代なんて、ほんの些細な会話の中で感じる程度で、技能でネットワークする現場においては、本人の技術だけがよりどころです。技術は度外視されて世代の違いで冷遇される‥‥なんて、少なくとも私の知るアニメ制作現場では皆無です。

 

自分の不運や境遇のわびしさを、世代性を理由にして自分の中でごまかしちゃうのは、結局は何も解決しないよネ。どんどん怨念感情が募っていって、境遇に対する恨みが外部へと発散されて、逆に疎まれて、好転への糸口を見失う原因にすらなり得るんじゃないですかネ。

 

「自分はゆとり世代だからナメられてる」とか、「自分はロスジェネ世代だから運から見放されてる」なんていうのは、実は、そういう思考で物事をあてはめるがゆえに、ナメられて運から遠のくだ‥‥と、様々な人間模様を見てきて思います。世代にこじつけて何かにつけてイジけちゃう人を、周囲はどうやって扱えばよいのか‥‥を、客観的に考えてみれば、自分の立ち位置を世代で定義することの「逆効果」を分析できるんじゃないですかね。

 

実は、「おまえはXX世代だからダメなんだ」と言い放つ他者と、「自分はXX世代だから損をしている」という当人は、「同じ穴のムジナ」なんだと思います。人間そのものを見つめないで、安易に「世代の風潮」で人間をジャッジする思考において、どっちもどっちじゃないですかネ。私は、世代で分け隔てなんてしませんし、性別も年齢も国籍もマイノリティも、要はその本人の状態が重要なだけです。

 

むしろ、少人数の制作規模においては、個性や世代なんて拡散していた方が良いとすら思います。どんな世代がどんな私生活を送っていようが、作品制作で比類なき能力を発揮してくれれば、それでOKなのです。そして、発揮された能力が正当に評価されて、相応の報酬が与えられる現場を作るのが、目標でもあります。世代で何かをジャッジする遑などありません。

 

 

技術者だったら、絵描きだったら、コンポジターだったら、とことん自分の技量を高めて、色々なプロジェクトに参加して、それでも何か違和感を感じるようだったら、その時に初めて「世代」の性質を考慮してみても良いとは思います。‥‥でも、技量がめちゃくちゃ高いのに、世代ゆえに冷遇される‥‥なんて、あらゆる世代のスタッフが入り乱れる制作現場においては、私は見たことがないですけどネ。

 

たしかにね‥‥「あの時代の、あの感じと雰囲気は、グッとくるよね〜」などの世代ごとの共有感は、超越できないこともありましょう。もうそろそろ50代になろうという私が、20代の人たちに対して友達のように輪には入っていけないな‥‥とは肌身でひしひしと感じます。

 

しかし、制作現場はお友達クラブではないので、仕事の腕っぷしで繋がる「仕事仲間」で充分です。

 

 


扉の鍵

tga1.jpg今は亡き、演出・監督のわたなべぢゅんいちさんと出会った頃、教えてもらった楽曲のひとつに、山下達郎の「夏への扉」という曲がありました。

*追記:おぼろげな記憶だと、わたなべさんが好きだったのは、山下達郎バージョンではなく、難波弘之「センス・オブ・ワンダー」バージョンだったように記憶しています。

 

私は、山下達郎ハインラインも馴染みがなかったので、いわゆる70〜80年代のフュージョン系アレンジの楽曲、AOR系の曲というのが第1印象でした。聴くうちに、徐々に愛着も増していき、今では、iPhoneの中には必ず入っている定番となっています。

 

歌詞は、そのまま、小説の内容を反映していますが、あらすじを要約するような無粋なものではなく、物語の心情的なエッセンスを表現しています。

 

今にして思うと、なかなか、グッとくる節もあります。

 

もしか君 いまここで

やり直せなくても

さびしく生きることはない

 

あきらめてしまうには まだ早過ぎる

扉の鍵を みつけよう

 

 

今の時期、別にアニメ業界だけでなく、日本全体にも、なにか妙にキモチに響くものがありますネ。

 

わたなべさんが、当時の20代前半の「迷える」私にこの曲を聴かせてくれたのも、なにかピッタリくる感じような雰囲気があったのでしょうかね。そして、わたなべさん自身にとっても。

 

 

わたなべさんが死んで、もう10年‥‥だと昔からの仕事仲間の方から聞きました。

 

ただ、私は結構定期的に、わたなべさんのことを思い出しているので、10年とか聞くと、ちょっと意外な感じもします。

 

わたなべさんが生きていた時、「墓参りなどしなくても、その人のことを、どれだけ思い出しているかのほうが、大事だと思う」と話していたことがありました。

 

たしかにそうかも知れません。冠婚葬祭の儀式とは別に‥‥な。

 

今はもう一緒に仕事をしていなくても、あるいはもうこの世に存在していなくても、今でも私の心の中に響き続けるコトバとビジョンがあります。即物的に一緒に居ることやネット経由で文字をやり取りするだけが、繋がりの全てではないのです。

 

 

むしろ、深い繋がりというのは、目の前の近い距離に実在してたり、頻繁に手軽にSNSでやり取りすればするほど、見えなくなっていくようにすら、思います。

 

でもそうした日々の馴れ合った関係とか、瑣末な文字のやり取りの中に、後になって輝きを放つ原石のような何かが埋もれていたりもするんですよネ。

 

 


とはいえ、オールデジタル。

最近、ほんの少しだけ作画の修正の仕事を引き受けたんですが、引き受けた後で「あ。紙の道具は机から亡くしたんだった。やってもうた。」と気がつき、必要最低限の鉛筆を引っ張り出してきた次第です。鉛筆はやっぱり、レイテンシーもなければ、ガラスの厚みもないので、ダイレクト感があって描きやすいです。しかし、コンピュータのような「融通」は利かないですネ。

 

iPad ProとApple Pencilが出て、ようやく、紙とコンピュータの格差をグンと詰められた感は大きいです。ここ数日、紙で作業してみて、改めて実感しました。私はもう、紙でなくても、十分、やっていけます。

 

実は私は、かなりの保守派ではあるのです。「うそこけ」とか言われそうですが、思想の根本や道具への愛着は、何か、絶対的なものすら、我ながら感じます。鉛筆に対する絶対的な信頼は今でも変わることはありません。

 

と、同時に、「プラグマティスト」でもあるので、この先に絵やアニメで喰っていこうとする時に、鉛筆に頼り続けるのは「現実的でない」と思うし、実際にApple Pencilで絵が思い通りに描ける「現実」があるので、サバサバと表面上の行動指針を変えているだけです。

 

 

 

オールデジタルのプロジェクトはあっちこっちで頓挫していますが、こと、私らの作業グループにおいては、基本はオールデジタルで、たまに、紙の現場との折衷案としてプリンタやスキャナにご登場願うだけです。

 

プリンタなんて、まさにストレスの中心的存在。紙詰まりとか重送とかインク詰まりとかトナー切れとか位置ズレとか、トラブルの総合商社です。加えて、ランニングコストは高いですしネ。オールデジタルに移行して久しい私らの作業グループにおいては、「紙に戻る」のがひと苦労です。

 

基本的なシステムがすでにあって、インフラもそこそこ整って、作業する人間も特に意識することなく、「デジタルオンリー」の作業に慣れていれば、オールデジタルはストレスのない環境です。現実世界の媒体に起因するトラブルは全くないので、データの保全を完備しておけば、トラブルはかなり抑えられます。‥‥まあ、最近のAfter Effectsのキャッシュ問題などソフトウェアの不具合はちょっとストレスを感じますが、紙をバッサバッサと取り回すなどの日頃の小さなストレスによって確実に蓄積していくストレスよりはマシです。

 

逆に、基本的なシステムがまだ無くて、インフラも整っておらず、作業する人間が今からソフトウェアやネットワークの扱いを覚えて‥‥みたいな、何もかも「始まったばかり」では、オールデジタルはストレスの連続でしょう。オールデジタルを標榜した現場で、「足止めばかり。何もかんもトラブルの連続」と感じる人々も、多いんじゃないでしょうかネ。

 

でもそれは、やはり環境が整ってないから‥‥なんですよネ。簡単に言っちゃいますけど。

 

環境の整備や、人々のノウハウの充実なんて、口で言ってどうにもなるわけでなし。快適さや合理性を確信して、肌身で実感している人間たちが成功事例を積み重ねて、徐々に周囲を取り込んでいくしかないでしょうね。特に、日本の国民性の中においては。

 

 

 

いやあ‥‥ほんとに、オールデジタルが「真の意味」で充実してくると‥‥「楽」ですよぉ。紙の時代を経験していますから、なおさらそのギャップが解ります。‥‥まあ、「楽」とか書くと、大きな誤解や誤認を産むんですけど、あえて「楽」と書いておきます。

 

「楽」は決して「簡単」と同義語ではないですけど、「技術の運用」を「デジタルデータ時代の映像制作」で展開するのなら、今までの苦労が大きく軽減できますから、やっぱり何と表現しようと、全部を「デジタル」ベースにしてしまえば「楽」になる‥‥としかいいようがないです。快適で、合理的です。余計な負荷を削ぎ落とせます。

 

 

でも、システムもフローも含めた総合環境が充実してなければ、オールデジタルは絵に描いた餅。‥‥いや、現実の「餅」でも、そのまま生かじりしようとしてるのが、今のオールデジタルの現状です。餅は炙って柔らかくして食わないとダメでしょ。‥‥でも、その炙るコンロをちゃんと常備してないですよネ、多くのアニメ会社は。

 

まあ、今のところは「時間」をまつしかないですネ。「皆が気付くまでの時間」はどうしても必要です。

 

 


オールデジタルの頓挫

私が、自分の経歴の中で幸運だったと思うのは、前世紀末の「デジタルアニメーション」立ち上げの時期に深く関与できたことです。コンピュータを導入した制作システムなど存在しないところからスタートし、色々なことを解決しながら、徐々に長尺が作れるように発展していった経緯を、極めてリアルに体感できました。当時、20代後半でしたが、物事を柔軟に吸収できる年頃に「システムを構築する」方法を自然とマスターできたのは、大きな収穫であり、現在まで続く得難い財産です。

 

2016年から今にかけて、「オールデジタル」を標榜して、結局成し遂げられなかったプロジェクトを、いくつも耳にします。作画部門にPCとソフトウェアを供給すれば「デジタル」を具現化できるわけではないのを、今の時期、色々な人が痛感していることでしょう。

 

ペンタブで作画すれば「デジタル化」できるわけじゃないもんネ。実は、作業の動作を「デジタル」化するのと同じくらい、いや、それ以上に、作業行程周辺の整備が必要なんですよネ。

 

何に注力すればシステムが出来上がっていくのか。‥‥一番重要な知識が、システムありきでキャリアをスタートした人間にはよくわからないのです。かくいう私も、「デジタルアニメーション」の取り組みを1996年に開始するまで、絵に描いたような「業界システムの箱入り息子」で、単に「作業をコンピュータに置き換えれば、デジタルでアニメを作れる」と勘違いしてましたもん。

 

時は経ち、2017年。同じ勘違いが、そこかしこで繰り返されているんだと思います。‥‥普通、そうなるわな。システムの作り方なんて、社会システムの中でぬぼーっと生きてれば、学ぶ機会なんてないもんネ。

 

「ノウハウさえ溜まってくれば」‥‥なんて思う人もいますが、それも大いなる勘違いです。「ノウハウ」が溜まることは、決してシステムの構築には結びつきません。むしろ、「ノウハウ」で現状をやり過ごすことだけを覚えて、システムの設計をゼロから見直そうとする気運を妨げる、「障害の原因」にすらなり得ます。

 

2017年の「オールデジタル」の経緯って‥‥

 

  • 新しい土地を購入しました
  • ワラを敷いてとりあえず座ってみました
  • 壁があったほうが良いと思って板で四方を囲ってみました
  • 雨が降ってきたら濡れてしまうので、屋根もつけてみました
  • 住みにくいけど、工夫でなんとかなると、自分を勇気づけてみました
  • ふと、トイレがないことに気づきました
  • なので、部屋の中に便器を置いてみました
  • 急場は凌げましたが、部屋の中に便器を置くことは異常だと思いました
  • 加えて、下水道がないので、色々とヤバいことになってきました
  • 夜になると電気がないのでまっくらにもなりました
  • ライフラインが開通していないので、旧市街から物資を調達しました
  • いくら土地があっても、ちゃんとした家とインフラがないと暮らしていけないと、改めて解りました
  • 新しい土地を離れ、昔住んでいた家に戻りました

 

‥‥みたいな状況も多いんじゃないですかね。

 

今まで、普通に暮らして来れたのは、様々に環境の行き届いた「家」があったからで、「土地」を漠然と購入しても、そのままでは暮らしていけないことを、昔の家を飛び出してみて改めて気がついた‥‥という、めちゃくちゃ「ありがち」なオチです。

 

家の建て方も知らないのに、土地だけ買っても、そこでは生きていけません。‥‥普通に考えればわかることですが、なぜか、自分たちの身になると、気がつかないものです。

 

 

解決法はシンプルです。

 

家を建てることをちゃんと意識して、建築する方法を実践すれば良いのです。ただそれだけ。

 

 

その際、最初から鉄筋のマンションを建てようと、素人が誇大な夢を見ないことです。小さなコテージから始めます。

 

数十秒のアニメ映像を、まずは「オールデジタル」のプチシステムで作ってみることからスタートします。その際に、決して「個人の器用さ」に頼って作るのではなく、その場その場の取り回しで作るのではなく、どんなにミニサイズでも「システムで運用して」作るのです。‥‥実はこれが「極めて重要」です。

 

数十秒の短尺だから、命名規則もフォルダ構成も、レイヤーの名前も、テキトーでいいじゃん。===ダメなのです。そういうことをしてるから、いつまでたってもシステムが作れないのです。

 

「小さい作品だから、個人の手際や器用さで、作っちゃえば良い」だなんて、チャンスを無駄にする典型です。「小さい作品だからこそ、システムのプロトタイプや雛形の運用テストができる」のです。小さい作品こそ、「手弁当ではダメ」なのです。

 

おそらく、「オールデジタル」で頓挫するのって、現場を構成する作業者各個人がコンピュータを扱える状況を、システムができたと誤認したがゆえ‥‥でしょう。各作業者がコンピュータの扱いに慣れて、器用に個人プレーで立ち回って場当たり的にこなせるようになったことを、ワークフローができたとか制作システムができたなどと勘違いするのは、ほんとに‥‥‥‥‥‥よくあること、、、なのですよ。

 

 

実のところ、ファイル名やフォルダ構成、レイヤー名だけをパッと見ただけで、当事者のシステム運用のスキルやレベルがわかります。システムが構築された現場で扱われるファイル名は、とても「整然として美しい」ものですが、システムが出来てない現場のファイル名は「無残に汚い」です。各作業者が個人プレーで状況を切り抜けていくような現場だと、それはもう、ファイル名もフォルダ構成も支離滅裂になります。

 

こんな風に書くと「そうか。決め事をどんどん決めていけば、システムが作れるんだ!」と思いがちですが、それも大いなる勘違いです。

 

ワークフローの設計、ネットワークの設計など、様々なシステム要素を鑑みた上で、「設計上から決め事が浮かび上がってくる」ようにするのが「正解」です。

 

何の根拠ももたない一時的な決め事で、作品制作が成立するのは、個人制作の短尺の自主作品だけです。その場のノリで決め事を乱発しても、うまく統制できるわけがない‥‥ですよネ。

 

あくまで、決め事はシステム設計全体から滲み出していくものなのです。

 

 

 

システムを軽んじる人、システムの重要性は知りつつも困難にブチあたる人、手堅くシステムのステップアップを進める人。2017年から数年は、色々な思惑と状況が錯綜する数年となりましょう。

 

 


日本の強み

欧米のいわゆるカットアウト系のアニメや3DCGベースのアニメは、日本の今後の技術展開の観点からみて、決して無視できない「潮流」であると感じます。その「潮流」が、新たなエコシステム=生態系をかたち作ると考えます。

 

ただ、私は一方で、欧米の動向は気にはなるけれど、日本は日本ならではの強みがあって、その強みが「新たな潮流」と混じりあった時、欧米では考えつかないような形態を形成できるとも考えています。私が、悲観的な展望を抱かないのは、その「日本の強み」ゆえです。

 

欧米がカットアウト系で発展しようが、日本も合わせて「カットアウト一本勝負」にでる必要はなく、むしろ、従来の技術を最大限に活用し、カットアウト系と様々な豊かな表現と組み合わせて「複合技術」とすることで、「欧米のカットアウト系とは一線を画す」映像が作れると、今から強く予感できます。

 

欧米から輸入した技術をもとに、日本人は何を作り出したか。今のアニメを見渡せば、ディズニーの絵柄の影も形もないですよネ。

 

同じく、カットアウト系の技術を日本が扱い始めても、決して欧米の表現スタイルで満足するわけはなく、独自の美意識を色濃く反映するでしょう。小難しい技術論を持ち出すまでもなく、実は、日本の美意識こそ、日本の最大の強みだと思います。同じ動力源を用いても、欧米とは活用アイデアが大きく異なる、美意識を足場とした「発展の独自性」が日本にはあるのです。

 

しかし、どんなに日本に「強み」があろうと、新たな表現技術の潮流が一向に滴ってこないのなら、どうにもなりません。カットアウト系を全く扱うことができなければ、組み合すもクソもないです。0 x 1000 = 0です。

 

もっと言えば、「日本ならではの強み」が、潮流を塞き止めているような皮肉な状況すらあり得ます。

 

日本のアニメは、たとえその源流がディズニーなどのアメリカンアニメーション(タップの規格やところどころに残るインチサイズが「先祖の面影」を物語っていますよネ)だとしても、独自の美意識を色濃く反映した、「ほとんど米国人の血が残っていない、クオーターのクオーター」の混血です。しかし、出自がどうであれ、アニメ業界を支えている技術基盤は、テレビや劇場の夥しい数のアニメを作り上げてきた経験と実績であり、それゆえに、日本で独自に発達した作業様式に「かなりの自信を持っている」と言えます。今や、アニメは日本の「土着の特産物」かのようです。

 

その和製アニメに対する強い自信が、24コマシートに作画のタイミングを書き込んで、絵を一枚ずつ動かす技術基盤から、一向に目線がそれず、旧来作業スタイルに「無意識」にでも固執している原因だとも言えます。「新しいものなど求めずとも、今のやりかたで十分うまくいく」という考えは、口に出さずとも、多くの作画関係者が胸に秘めているのではないでしょうか。

 

ゆえに、カットアウト系のアニメ技術に対してひとたび日本が「本気」で取り組み始めたら、欧米人では全く予想もできなかった作品表現を生み出せるにも関わらず、「そもそも手を出さないから、進展もしない」状況に甘んじます。現在のエコシステムに漫然とした安心感を抱くあまりに、新しい技術の潮流を感じることができずに遅きに失する‥‥のも、実は「日本人ならでは」なのです。

 

 

日本のアニメの作り方が、特に状況が過酷なテレビアニメにおいては、産業として成立しにくい状況にどんどん進んでいるのを、業界経験のある人なら誰しも認識しているはず‥‥です。70〜80年代に形成されたアニメ業界のエコシステムが、2020年以降にどのような様相を呈するのか、どんなにポジティブに考えようとしても楽観的なビジョンは浮かびません。

 

一方で、家庭のテレビは、やがて耐用年数に到達し、「次に買い換えるのなら、4K」という人は結構いるでしょう。白黒テレビ〜カラーテレビ〜テレビのステレオ放送〜VHSビデオデッキでの録画〜DVDの登場〜DVDレコーダでの録画〜ハイビジョン放送〜BDの登場〜BD or HDDレコーダでの録画‥‥という流れに、人々がなんだかんだ言いながらも誘導されていることを考えると、次のリプレース時期にすんなりと4Kを受け入れてしまう家庭は多いと予測されます。家電メーカーの2020年あたりの主力が、2K上位互換の4Kテレビになっていれば、なおさらです。

 

旧来のアニメ技術の限界は、内側からも外側からも、ジワジワと迫ってくるのに、「今は大丈夫。だから、未来も大丈夫だろう。」という、ある種の、戦前から通じる日本人の「おおらかさ=呑気さ=危機管理の甘さ」が、「同じ過ちの歴史を繰り返す」元凶とも言えます。

 

今のアニメ制作スタイルで散々痛い目にあって、もうこれ以上はダメだと疲弊しきって破綻するまで、次の技術への移行へと踏み出せないのは、日本人の悪い性質だとも思います‥‥が、同時にその粘って粘って粘りきる粘り強さが、アニメをここまで高度に技術発展させた原動力とも考えます。

 

弱さは強さのみなもと。悪は善を生み出すジェネレータ。

 

‥‥悩ましいですネ。我が国の性質とは言え。

 

 

それにまあ、根本的なシフトである必要もなく、日本人の「なんでも取り入れてしまう国民性」を発揮して、今の技術に新しい技術を組み合わせる発想で、むしろ良いと思います。白黒はっきりさせて「塗り替える必要」など、こと、技術に至っては必要ないのです。技術発展の本質は「覇権争い」ではないのですから。

 

中々に、技術のシフトや新規導入というのは、日本人の気質ゆえ、難しいものがあるな‥‥とも思いますが、少なくとも私は、難しいからといって、あきらめないですヨ。

 

踏みつけられても、最後には粘り勝ちできるのも、日本の「強み」なのですから。

 

 



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