時代の節目

セブン「1000店閉店、移転」‥‥の記事を最近読みました。

 

セブン「1000店閉店、移転」はドミナント戦略の限界か

https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1910/16/news032.html

 

記事文中の‥‥

 

このビジネスモデルが高度経済成長期につくられたことからも分かるように、これらのハッピーはすべて「人口が増え続ける」ことが前提となっている。ひとたび社会が人口減少へ転じれば当然、ガラガラと音を立てて壊れて、不幸な人たちを量産していくのだ。

 

‥‥という部分は、まさに私も日々感じるところです。

 

団塊世代、団塊ジュニア世代が、どんどん加齢し、お金の使い方に少なからず変化が生じ、今までの商業・産業に影響が出ていることは、日々ニュースをチェックしていなくても、道を歩いたり自動車で走るたびに間接的に感じます。夜の道は、24時間店舗の灯りが少なくなり、10〜20年前と比べて、暗くなったと実感します。

 

XXの若者離れ‥‥という論調も、半分くらいは「単に若者の人口減少」「経済ピークの衰退」によるものだと思います。若者の興味が離れた云々を言う前に、絶対数の減少、そして経済の低調化によって購買意欲が削がれていることも、全てとは言わないまでも、大きな原因だと感じるのです。

 

あれだけ酷い戦争があって、戦中は男も女も我慢して、その反動ゆえの戦後のベビーブーム‥‥となれば、色々な産業と商業が盛んにもなりましょう。その好調が永遠に続くわけもなかった‥‥と今は冷静に思えます。

 

 

 

日本のアニメ、特にテレビ枠って、この先、どうなるんでしょうね。深夜まで追い詰められた後は、どこに行き先があるんでしょう。これから20年、40年、60年と、深夜枠で生き残っていくのでしょうか。

 

アニメ業界のビジネスモデルもいわゆるドミナント戦略、特に近年は萌えキャラ好みの層へのドミナント戦略に傾倒し過ぎて、過去の様々なジャンルを廃れさせてしまった感があります。萌えキャラにあらずんばアニメにあらず‥‥みたいな風潮が2010年代を席巻しましたよネ。

*私は「ドミナント」と聞くと、トニック、サブドミナントと続いてしまうのですが、意味的には「有力な」とか「支配的な」を意味するらしいです。

 

もはや、深夜にハウス名作劇場を放送するわけにもいかんでしょう。あしたのジョーのハングリーな世界観に共感する世代は、この先、もっと減ることでしょう。少年が謎の美女と宇宙の星々を旅するような素朴なストーリーを、誰が作り、誰が見るのか。

 

ただひたすら、「性の欲望」にうっすら関連付けつつ、地上波OKのような作品を、深夜枠で作り続けるのか。

 

団塊ジュニア世代のアニメスタッフの引退が始まる2020〜2030年代に、アニメの制作事情も大きく変化して、新しい姿に変わり始めるように思えます。

 

どこかのツイートで見かけましたが(なので情報の信憑性はそこそこで)、アニメを学校で専攻しても、実際にアニメ業界に就職するのは1割‥‥というのも目にしました。アニメ業界の、特にアニメーターへの報酬額の低さは、今や世間に知れ渡るところですから、世間で報道される「アニメ産業の好調」はアニメ制作現場からすれば「製作サイド」の一人歩き・一人勝ちのようなもので、衣のつかない「制作」現場は今後どんどん衰退するようにも思えます。

 

好材料‥‥ないですよねえ。製作ではなく、制作サイドは。

 

制作が難しくなれば、製作も頓挫します。花火はどんなに明るく輝いても、火薬が燃え尽きれば、さっきの輝きが嘘のように静まって消えます。現在の明るさは、未来の明るさを、何ら担保しません。

 

 

 

セブンの1000店閉店移転は、日本の産業の、アニメ産業も無縁ではない、「これからの日本」を暗示しているように思えます。

 

人口バブルも、経済バブルも、そしてアニメのバブルも、はじけて消滅するのが摂理なのだとしたら、「もし団塊ジュニアジュニアの層が生まれていれば、今の日本みたいにはならなかっただろう」なんてIF分岐を考えるだけ虚しいです。膨らみ続ける何かは、結局はどこかで破裂してリセットされるのでしょうかね?

 

業界みんなで生き残ろう!‥‥なんてことは、みんなそれぞれの独自の事情を抱えているので、物理的に実践不可能でしょう。廃業するもの、生き残るもの、生まれ変わるもの、それぞれの未来が2020年代以降にやってくるのでしょうね。

 

団塊ジュニアに依存するのとは、別の考えを実践しないと。

 

団塊も、団塊ジュニアも、やがて社会の表舞台から姿を消すのです。

 

実は、団塊ジュニア向け商売から離れることが、本当の意味での「戦後の終わり」なのかも知れないですネ。

 

 

 


これから必要なこと

紙に描いたキャラ原案と絵コンテだけ持参して、「映像化したい」「誰か協力して欲しい」と訴えるよりも、たとえ5カットでも自分でゼロからフィニッシュまで映像化して、形にして見せたほうが良いと思います。自分の作品企画が、どのような映像作品になるのか、自身ですら具体的にイメージできていないものに、周囲がホイホイお金を出すわけないのです。

 

キャラ表と絵コンテだけでは一般の人々は判断に困るでしょうから、たとえ15秒でも、キービジュアルを映像化したほうが手応えは得られるでしょう。また、実際に数カットでも映像化することで「自分の中での答え合わせ」もできます。そして今は、iMacもiPadもApple Pencilもあるので、自分ひとり〜数人で作画の最初からコンポジット・編集の最後まで(数カット規模なら)可能な時代でもあります。

 

たった15秒でも4KHDR版と2KSDR版を作り、もし、HDRが無理ならSDRの民生500nitsテレビ合わせでも良いと思います。「映像作品」を作りたいのに、映像技術に無頓着で「難しい部分」は他人任せで、ストーリーと絵を動かすことにしか興味のない作品企画‥‥では、訴求力が低過ぎると感じます。

 

映像制作においては、個人でも、少数人数でも、大規模な制作集団でも、コンピュータをどこまで「新世代の映像技術」に対応して使いこなせるか否かが、2020年代以降の命運を分けると思っています。

 

 

 

最近強く感じるのは、アニメ制作現場の技術はどんどん旧式化して、製作側のニーズに対応できなくなってきていることです。

 

4KHDRのコンテンツが欲しいと感じているクライアントに、どんなに出来が良くて素晴らしいアニメ映像を売り込もうとしても、2KSDRでは「対象外」なのです。相手が自動車を欲しているのに、バイクを一生懸命売り込もうとしても、買ってはくれません。

 

アニメ制作現場のスタッフ、特に作画や演出の人たちは、あまりにも映像技術の進化に対して無関心過ぎるように感じています。

 

4Kも、HDRも、作画や演出に直結する重要な技術要素です。4K時代の作画は、様々な点で2K時代とは大きく変わります。当然、演出の手練手管も2Kとは変わってきます。

 

4Kが普通になる2020年代以降、もはや紙による運用は不可能です。紙で対応できるのは2Kまでで、「正真正銘4K」として売るためには、タブレット作画が必須です。単純に、A4〜B4用紙が4K以上の解像度に対して小さいからです。

 

4Kでの映像制作においては、以下のような1万ピクセルのビデオ解像度も普通に存在します。5〜6000ピクセルなんて日常茶飯事の解像度です。

 

 

1万ピクセルは重いです。After Effectsも反応が鈍くなります。動作がアホになって、キャッシュが更新されなくなることもあります。‥‥でも、斜めに付けPANしただけで、このくらいのキャンバスサイズにはなります。

 

アニメは実写と違って、フィールド(芝居場)の大きさでピクセル寸法が決まりますから、例えばクイックTUを連発するような演出は現場に大きな負担をかけるでしょうネ。

 

つまり、作画方法も、コンテの切り方も変わるのです。

 

Q.T.Uのハッタリのためだけに、15000ピクセルの絵を作るのは、演出技法に難ありです。4K時代においては、従来の習慣のままの2K作品のつもりで絵コンテは切れませんヨ。

 

 

 

そんな時代〜作画や演出の常識が変わる時代を前にして、紙で書き留めたキャラ原案と絵コンテだけで、どうやって未来の作品企画をプレゼンして、どうすれば諸々の関心を惹きつけられるのか、「制作現場スタッフずれ」した感覚をリセットして考えてみれば、難しいと思うでしょう。「私は作画」「俺は演出」なんて言ってられるのは、制作現場の内側にいる時だけで、作品そのものを売り込む際には、現場特有のセクショナリズムの結果物よりも、「完成形が想像できる」提示物が必要です。

 

今後、アニメ制作現場には、「新しい技術力を有した、新しい現場スタッフの育成」までのしかかるのですから、企画をする人間の感覚まで旧時代のままなら、身動きできずに進退窮まるでしょう。どんなに現場の労働基準をブラックからグレーに明るくしても、「旧式過ぎて作り出すものに価値がない」と判断されたら、なんのためのホワイト化だったのか、悲劇を通り越して喜劇になります。

 

 

 

2Kにアップコンして納品する1.3〜1.6Kのキャンバスサイズは、4Kのドットバイドットで作っている制作運用からすれば、プチサイズとしか言いようがないです。2Kまでしか制作できない制作集団においては、スマートアップスケーリングだけが頼みの綱になりましょうが、残念ながら「ドットバイドット」を納品条件にしている作品では「レギュレーション違反」になり、納品は拒否されましょう。

 

まず、企画の段階で、次世代の映像技術をたっぷりと意識できていなければ、新時代の映像技術を「水を得た魚のように」活用することができません。企画する時点から、4K時代の脳の思考が求められましょう。

 

世界規模で進行する新しい映像技術を、作品を自由に描くキャンバスとして意識することが、何よりも必要です。

 

4Kなんてわからないし‥‥とか言いがちですが、自分の使うコンピュータや日頃見るテレビを4Kにすれば、実感も湧いてきます。作画や演出の仕事をする際に「わからない」では済まないのと同じく、今後4Kや8Kが標準の映像技術になるのなら、「わからないまま」に終始するのではなく、色々と情報を集めて自分からアクションして、最初は手探りでも4KやHDRの研究を始めることが必要です。

 

作画も演出も、様々な趣向の作品制作において、「わからないを、わかるに変えてきた」仕事じゃないですか。4Kでも同じバイタリティを発揮すれば良いのです。

 

 

 

でもまあ、何よりも、紙から離れることが最初の一歩です。

 

A4用紙じゃ未来には対応できんス。

 

せっかく磨きをかけた日本の作画技術も、A4用紙の中に閉じ込めているばかりでは、発展の兆しすらありません。

 

 

中国、台湾、韓国以下。デジタル競争力世界30位という日本の惨状

 

 

「デジタル競争力」という言葉のアヤはおいといて、要は日本はコンピュータをうまく活用できていないということですネ。アニメ業界で考えれば、一層のこと、「日本の遅れ」を深く実感するところです。

 

誰が悪いって、自分たち自身が悪いんです。いつまでも紙に依存して、未来を見ようとしないココロが。

 

紙ではもう4K時代以後の映像制作には太刀打ちできないと、うすうす解っているはずなのに、そもそも「4Kなんて本当に広まるのか」みたいなことを考える人まで、アニメ業界には多いんじゃないでしょうか。

 

たかだか10年前に「2Kなんてオーバースペック」と言ってた人たちが、自分の言動も忘れて、すっかり2Kに馴染んだ生活を送っているのが、論より証拠。‥‥4Kはごく普通に日常生活の基本スペックになりますヨ。

 

2Kに限らず、VHSからDVD、DVDからブルーレイ、もっと遡れば、白黒からカラーへと、映像技術・映像産業の進化は、歩みを止めずに進み続けました。これからだって同じです。2Kでぱったり進化がとまるわけないじゃん。

 

 

 

紙に対する執着を断ち切って、タブレットでも絵を描けるようにすべし。

 

ただそれだけでも、次世代の扉を開いて進むことになるのです。

 

タブレットで絵を描けなければ、お話が全く先に進まないのです。A4用紙に描いてスキャンする時点でもう無理なのです。

 

CintiqでもiPadでも、まずはペンタブで絵を描くことに慣れるのが、4K時代以降、2020年代以降、令和以降の、絵を動かす映像産業の第一歩です。

 

 

 


ニケさん

前回の「ロック禁止」は、ロックというジャンルだけで文化祭での演奏が不許可になる‥‥という、40年後の今となっては懐かしい珍事とも言えます。任意の音楽1曲ごとに対して、ロックであるか否かという判断基準が非常に曖昧なのに、境界線を設けて可否を断行するという点で、当時少年だった私も「おかしな話だ」と思ったものです。

 

一方、現在色々と議論されている豊乳献血ポスターの一件は、絵の表現内容が「道徳」的か否かの境界線というよりも、赤十字が豊乳イラストを採用した点が叩かれていますよネ。

 

もし議論の論点が、道徳的な絵画の表現云々という主旨なら、道徳観は何によって定められるのかを徹底的に論じる必要がありますし、そもそも絵画や文学や音楽を道徳の基準で量るべきかも問われましょう。

 

しかし、豊乳献血ポスターの論点はそこではないですよネ。赤十字という公的な組織が、客寄せとして胸の大きいキャラを採用したことで、物議を醸したと感じます。

 

まあ、意図したことかどうかはともかく、今の感じだと、赤十字の「炎上勝ち」のような状況でしょうかね。

 

もし、乳袋の巨乳のイラストを「全世界に認めさせたい!」と思うのなら、赤十字とは別のところで、描きたい人が戦うべきです。「私は乳袋が好きだ!」と言う人が、その好きな理由を絵に込めてネ。

 

 

 

前にも書きましたが、私は、乳袋や巨乳は欲求にストレート過ぎて気が引けます。正直、率先して描く気にはなりません。乳袋に頼らなくても、美しく魅力的な女性は描くことはできると思っています。

 

ただ、歴史的に見ると、「乳袋表現」は結構、皆さんが好んで採用していますネ。

 

サモトラケのニケなどは、乳袋と呼んでも良いような、胸の大きさや形が想像できる表現、さらには体のくびれ、太ももやふくらはぎにかけての美しいカーブなども表現されています。ヘソのくぼみまで判りますし、何なら、左足の短い布がミニスカにすら見えるでしょう。

 

 

 

このニケさんの像を見て、エロいだけだと思いますか?

 

私は、エロくもあるし、美しくもあるし、かっこいいし、神秘的であるとも思います。

 

有名なニケの像。‥‥欠損した頭部や腕は、もし存在したらどんな姿だったんだろうと、子供の頃から不思議な想いで美術書のページを眺めていました。

 

 

 

思うに、球体は美しいのです。美のフォルムの究極の原点のように思います。

 

女性の胸に限らず、見つめる瞳もそうですし、命の源の卵もそうですし、そもそも私らの住む美しい地球が球体ですし、様々な恵みをもたらす太陽も丸いです。太陽の周りを円運動で回り続ける惑星の軌道も、太陽系の美しい秩序のように思います。

 

力ずくで音速を超えていた時代に、エリアルールという曲線フォルム(曲線形は円や球の展開形)を導入することで、多くの航空機で音速突破が可能になりました。

 

一方的な力のゴリ押しではなく、力をしなやかに受け止めて吸収し強さをさらに増すような、得体の知れない力強ささえも感じます。

 

*飛行機好きなら誰でも知っている「エリアルール」。様々な航空機で採用されています。

 

 

美術の歴史、美術の知識の云々に関わらず、たとえ無意識であろうと、球体の美に惹かれる人は多いように思います。

 

萌えキャラの瞳は、球体である瞳をどれだけ美しく表現するかを競うようなところもありますよネ。

 

猫好きは、頭部を撫でた時のなんとも言えない頭の丸み、肉球の丸み、ゴロゴロ言いながら見つめてくる瞳の丸みが「たまらない」と思う人も多いでしょう。

 

円運動は、様々なアニメーションの基本です。関節という基点に支えられて、人体は様々にアニメーションします。楕円運動、八の字運動は、円運動のバリエーションです。

 

ちなみに、サイン波は、円運動を1軸に展開したものです。After Effectsでも、エクスプレッションで描画できます。1秒で1周する時計回りの円運動、左から右に通り過ぎるサイン波のエクスプレッションです。

 

 

[Math.sin(time*Math.PI*2)*-thisComp.height/3+thisComp.width/2,Math.cos(time*Math.PI*2)*thisComp.height/3+thisComp.height/2];

[time*thisComp.height/1.5,Math.cos(time*Math.PI*2)*thisComp.height/3+thisComp.height/2];

 

ずっと見つめていると、眠っちゃいそうな睡眠導入の効果がありそうですネ。

 

 

 

中途半端な知識で、美の表現をゴリ押ししたり封殺しようとするのは、どちらも稚拙です。

 

大して「美とは何か」も日頃考えてもいないのに、思いつきの理屈をでっち上げて、「表現の自由」とか言ったところで説得力がないばかりか、かえって論客の幼稚さが目立ってしまいます。

 

一方で、自分こそは道徳の体現者なりと自惚れて、美をただ甘いだけの砂糖水のように捉えて、美の苦みや渋みを理解できず、権威主義視点でしか評価できないのも、これまた稚拙なり、です。美には徳だけでなく、毒もあることを理解しないとネ。苦みがあるからこそ、一層の甘みを感じることができるのです。

 

美について論議するのなら、美について日頃から研究しないとアカンす。にわかに美を語ったところで、にわか仕込みがバレます。

 

たかだか100年生きれるか否かの人間が、美を完全理解して操作しようなどと、傲慢過ぎて片腹痛いです。死ぬまで求め続けるものだと感じます。法律で明確な「美か否か」の境界線を制定できるはずもなし。

 

私が思うに、美とは何かを世代を通じて求め続けて、やがて答えが見つけられないうちに人類の文明は滅んで、地球も太陽の崩壊と共に消滅する‥‥という顛末だと思っています。

 

結局、答えは出ないのか。

 

いいじゃん。それで。

 

答えが解らないからこそ、のびしろがあるんじゃないですかネ。美には。

 

 

 

絵描きの人間は、10代20代の頃は単に「好きだから」でアニメキャラを描いていても構わないとは思いますが、30代くらいからは「美についての自我に目覚め」ても良いと思います。

 

怪しいナショナリズムに足をすくわれないためにも、日頃はオーダーに合わせて萌えキャラや乳袋を描いていても、いざという時は「自分なりの美の持論」をしっかりと発揮したいものです。

 

絵を描く側は、日頃からしっかりと美について考えておきたい‥‥ですネ。美の本業とも言える職種なのですから。

 

 

 


ロック禁止。

私が中学生の頃、「ロックは不良のやるものだ。フォークはOKだが、ロックは禁止」と言う、学校や一部地域社会の「子供の育て方の指針」みたいなのがありまして、さらには「バンド禁止」みたいなのが私の中学でもありました。実は、私が中学3年生の頃に同級生らと「ロックバンド」を組んで、何かの学校のイベントで演奏して「ロック禁止解除、バンド禁止解除」を事実上果たしたこともありました。当時演奏したのは、マイケルシェンカーグループの「アーム・アンド・レディ」、TOTOの「アイル・サプライズ・ザ・ラブ」、レインボーの「アイ・サレンダー」で、こってこての選曲が中学生らしくて、我らながら微笑ましいです。

 

ロック禁止、バンド禁止。

 

フォークやポップス、歌謡曲はOK。フォークの弾き語りならOK。

 

当時、釈然としない思いを抱いたことがあります。

 

どこからがロックで、どこまでがフォークやポップスか。その境界線で禁止か否かが決定される。

 

当時、私の地元のイトーヨーカドーのレコード売り場では、ヴァン・ヘイレンのレコードは「フォーク」の中に並んでいましたが(笑)、ヴァン・ヘイレンをフォークとしてカテゴライズする奴はいまい。当時も相当「変な感じ」に思えましたが、だからと言って「ポップス」の中に混ぜるのも可笑しな感じです。

 

やがて「ロック」の棚が増え、そのうちに「ハードロック」「ヘヴィメタル」という棚も増えましたが(ちょうどブームでしたよネ、1980年代の中頃は)、逆にヴァン・ヘイレンが「ヘヴィメタル」の棚に並んでいても、それはそれで違和感を感じたものです。

 

まあ、レコード売り場での棚の「境界線」がそんな感じでしたから、学校の「禁止」の境界線なんて、もうフワフワもいいところでした。フォーク同好会はOKでも、バンド同好会は不許可。フォークや歌謡曲はOKでも、ロックはダメ。山口百恵さんのロックンロールウィドウはOKなのかな?

 

 

 

例えば、エレキギターは禁止でも、学校のクラブ活動のフォーク同好会で、フォークギター(というギターの種別があるかはナゾ。スティール弦を張るアコースティックギターだよね、要は。)で「Rude Mood」を弾いたらお咎め無しだったのかな?

 

 

 

「フォークギターを使っていても、フォーク以外の音楽は弾いちゃダメです!!」と先生に怒られるんだろうと思います。

 

おとなしい雰囲気の曲「The Rain Song」でも、「ツェッペリンだからダメ! あの人たちはロックバンドでしょ! ここはフォークの同好会!!」と怒られると思うし。

 

 

 

前回の「豊乳赤十字ポスター」の件も、同じとは言いませんが、似たものを感じます。現在の社会的な状況を鑑みれば、「豊乳ポスター」は、「槍玉には上がるだろう」「ただで済むわけはない」とは思います。

 

言うならば、「宇崎ちゃん」のあの絵は、オーバードライブたっぷりの音でパワーコードを鳴らしたような直球感がありますから、「ロック禁止!」とすぐにダメ出しされるようなものですネ。

 

なぜ、ロックが学校で禁止されていたのか、バンドが禁止されていたのかは、結局解らずじまいでしたが、想像するに、「反社会的な歌詞の内容」「ハメを外した不道徳な行い(奇声を上げて体を揺さぶるなど‥‥笑)」のイメージが、学校の規律を守る上で著しく反するものとして受け止められたのでしょう。

 

う〜ん。ロックを演奏したかった意味は、全くソコにはなかったんですけどネ。純粋に、歌謡曲とは全く違うかっこよさに惹かれたのです。ホーホー教の教徒になったわけではないですが、周囲の大人たち(常識人を自認する)は「子供が変な宗教にハマらないように」神経を尖らせていたのかも知れません。

 

 

 

ロック禁止!‥‥と言っていた人々、教育者たちは、ロックであるものとそうでないものの聴き分けができていたのか?‥‥というと、かなり疑わしいです。当時の私も、その点=「境界線の線引き」に強い疑念を抱いていました。

 

TOTOなんて、ポップスっぽい曲が多くて、ルカサーのオーバードライブサウンドがなかったら「ロザーナ」は明らかにポップスですし、「99」を単体でロックミュージックという人はいませんよネ。

 

判断基準が恐ろしく曖昧な点にはフタをして、イメージ優先でロック禁止と宣う当時のオトナたちに対して、信用する気にはなりませんでした。私の担任の先生は理解を示してくれていて、バンドを組むことも見守っていてくれましたが、世間の「エレキ禁止」「ロック禁止」「バンド禁止」の風潮を体現している「オトナたち」に関しては、勝手に「独自の道徳信仰」でもしてれば良いと諦めていました。

*学校の先生との出会いは、本当に大事な人生のイベントで、運命が支配しますよネ。幸運、不運が大きく分かれます。

 

イトーヨーカドーのフォークの棚にヴァンヘイレンのレコードがあったので、つまり、ヴァンヘイレンはフォークということでOKで、アコースティックギターでユーリアリーガットミーやミーンストリートを、文化祭で弾いてもよろしいですか?

 

‥‥とか言ったら、ロック禁止のオトナたちは「よし、良いだろう」と言ったんでしょうかネ??

 

「戦争を知らない子供たち」を、マーシャルのフルオーバードライブサウンドでリフを刻んだアレンジにした途端、それはロックになるんでしょうかね??

 

フォークがOKという理由も、実のところ、世代的にフォーク世代の先生たちの「耳慣れ」に大きく偏向していたようにも思います。

 

私のひとまわり前の世代は、「フォークは反体制の象徴。不良のやるもの。」みたいな時期もあったと聞きます。ロック禁止の前には、「フォーク禁止」があったとも言われます。(私は経験していないので細かく知りませんが)

 

フォークがOKで、ロックが禁止と言う私の体験も、世代を12年巻き戻せば、両方とも禁止だった可能性もあるわけです。

 

 

 

2019年現在で、学校で「バンド禁止」「ロック禁止」ってあるんですかね?

 

中学校の文化祭で「SMOKIN' IN THE BOYS ROOM」とか「Hot For Teacher」とか演奏すると、流石に風紀委員顧問の先生に色々言われそうですけどネ。

 

モトリークルーといえば、男にも女にも人気がありましたが、私の好きなのは「Looks That Kill」のMVです。芝居やシチュエーションがこてこての80年代!!!!‥‥という感じが好きです。

 

ビジュアルは男尊女卑感に溢れていますが、歌詞の内容は「彼女はカミソリのように鋭い」「彼女はCool Black」といった内容で、結局は登場する女性戦士には迫りきれず、なぜか最後には女性戦士を4人で囲んでガッツポーズするあたり、どこか女性を女神のように表現しているのも、なんだか妙にオスネコっぽくて可愛いです。

 

 

今だと色々と問題視する人もいそうなMVですネ。

 

結局、時代性と言うのは、様々な鬩ぎ合いの結果論ですから、2020年代がどのような時代になるのか、やはり鬩ぎ合いで状況が変わっていくのでしょう。

 

ロック禁止もそうだし、豊乳献血ポスターの「環境型セクハラ」問題もそうですが、封じ込めようとする勢力があるのは当然のことだとは思います。

 

かと言って、封殺に反発して、野放図に何でも自由にブチまけていたら、秩序も風俗も乱れましょう。

 

絶えず流動し続ける時代の中で、解放と封印とが鬩ぎ合って、推進と抑止のパワーバランスができあがっていくのでしょうネ。

 

 

 

今、半世紀生きてきて、「ロックが学校で禁止された」理由は冷静に受け止められるし理解できます。

 

まず何よりも、あの「ギザギザしたエレキギターのディストーションサウンド」がダメだったんだろうな‥‥とは思います。穏健派を逆撫でするような音色ですしネ。ヒトと言う生き物は、瞬間的な印象で評価を決めつけるイキモノであることは、半世紀の様々な体験から痛感するところであります。

 

タイムマシンがもしあったら、過去の自分に会いに行って「もう少し大人しくしとけ」と言うか?‥‥というと、それは無いと思います。学校内の小さな出来事ですが、「ロック禁止解除」をやっとくべきだったと自分では思います。その辺りに悔いはなし。

 

 

 

 


血の騒動に思ふ

豊乳キャラ献血の話題が、思いのほかひきずって炎上していますネ。日頃絵を描かない人は忘れがちですが、現実の人物の写真と絵が違うのは、そこに描いた人間の意志が反映されているか否かです。胸の大きさは絵ではいくらでも意識的に操作して描けるので、現実に生きる人間の身体的特徴ではないです。つまり、描いた本人が「何を描こうと意図したか」を如実に表すのが絵です。

 

「巨乳」の絵は、巨乳を描きたい人が描いたんですヨ。自然と、いつのまにか、巨乳の絵が出来上がっていた‥‥なんてないです。現実と絵の世界を錯誤しないようにネ。大きい胸を意図的に描いている絵を「大きく描こうとしたわけじゃない」「たまたまだ」「胸に意図はない」とか言い出す人間が出てくると、ウソがさらに火に油を注ぐ結果になって、炎上するんじゃないでしょうか。

 

でもぶっちゃけ、今回の騒動は「赤十字の炎上勝ち」のような気もします。実際、私も「献血に行こうかな」と近隣の献血ルームや献血について調べましたもん。邪推とは思いますが、「こうなることをわかって仕組んだ」としても不思議ではないです。血が足りない! 献血する人が減っている!‥‥ということを、広くアピールできましたもんネ。

 

 

 

巨乳といい、乳袋といい、女性が嫌悪する類いの描写は、コミックやアニメの絵を描く側は日頃から承知しておくべきです。承知した上で、どのようなフィールドで絵を売るか‥‥ということでしょう。コミックの1コマと赤十字のポスターは明らかにフィールドが異なりますが、そのフィールドの性質の差ゆえに、叩かれて騒動になったのは事実でしょう。

 

文化って難しい要素だらけですよネ。どう変化するか読みにくいです。

 

ピンクレディの当時の衣装を見ると、明らかに「若い女性のミニスカート(=太ももとパンツ)にそそられるオッサン趣味」が丸出しで、まるでキャバレーのコスチュームみたいです。しかし、当時は女児のファンも多く、近年に復活コンサートをした映像では、当時の少女たち=アラウンド40〜50の女性たちが、客席でみんなで振り付け通りに嬉しそうに楽しそうに踊ってたりして、「おっさん趣味」とは違う展開へと変化しているのが解ります。

 

性的‥‥と言い出すと、成人女性の体のラインに添わせた裁断のリクルートファッションだって、性的なように思います。MA-1と軍パンなら体のラインなんてわかりませんが、スカートやハイヒールは明らかに女性限定のファッションであり、そもそも「男らしい」「女らしい」という文化的な位置付けが、やがて性的な搾取にも繋がるのでしょう。(最近、ハイヒール是非の話題もありましたよネ)

 

人間という生物的な存在自体が、今回の話題で言えば「胸」でもわかるように、わざわざ「繁殖可能な成熟度」を視覚的にアピールするために、他の動物には見られない乳房の膨らみを身体的特徴としています。人間という生きものの不思議にぶち当たります。猫の雌は、胸は大きくないですもんネ。

 

かと言って、「性の解放」の顛末をまたやるのか?‥‥という話です。老若男女みな同じ服を着て落着する話とは思えません。人間という生物自体が、女性ならではの体型、男性ならでは体型を宿命的に有するので、同じ服を着てもダメでしょう。絶対に性差は表れます。

 

 

 

私は今回の「豊乳」キャラのコミックは知りませんでしたし、正直、最初に騒動中のポスターをネットで見たときは「相変わらず胸の存在感をアピールしてるなー。これをやったら怒る女性も多いだろうな。意図がバレないわけないな。女性の魅力を表現するのは乳袋だけじゃないのになー」とやや嫌悪感を覚えました。

 

‥‥が。

 

なんか、今回のキャラ(宇崎ちゃん)の顔って、目にする機会が多くなると、妙に可愛く見えてくる感じがありますネ。胸はともかく、顔のデザインが徐々に目に馴染んでくる‥‥と言いますか。

 

なんでだろう?‥‥と思ったのですが、アレだ‥‥、ハロウィンのコウモリに似た「妖怪」的な可愛さなんだな。

 

 

可愛い妖怪的なキャラと大きい胸とのギャップも、キャラの魅力の1つなんだと思うようになりました。

 

八重歯を口の輪郭線で切る描き方も、可愛いですよネ。

 

しかし、その可愛さ、ギャップの面白さで、社会の女性たちが容認してくれると思うのなら、あまりにも浅はかです。ソレとコレとは別なんですよネ。コミックやアニメの世界感が社会に通用すると錯覚するのは、冷静な視点を欠いています。

 

 

 

「大きい胸を強調したキャラのポスターが嫌悪された」ことは、おとなしく真摯に受け止めるべきでしょう。赤十字の限られた予算(=おそらく)で、「炎上商法」としては成功したのかも知れませんが、公的組織が仕切る場所に「巨乳キャラ」を出すのはまだ難しいということは今回の一件でわかりましたよネ。

 

私はそれこそフィールドジャケットトラウザーズを着た女性キャラでも十分魅力的だと思います。肌を過度に露出しなくても、女性の美は表現できるでしょう。「乳袋」に頼ることなんてしなくても、佇まいや顔の表情の機微で魅力的な女性の人物像を描けると思います。もちろん、男性のキャラも佇まいで表現したいのは同じです。

 

幼い顔つきのキャラのラッキースケベみたいなイラストばかりを描くのが、日本のアニメやコミックの絵描きの仕事‥‥みたいなのは、正直、息苦しいです。子供っぽい顔つきばかりで、大人を描こうとしない風潮も感じます。アニメやコミックの絵描きは、精神的に、ピーターパンとウェンディ(の年頃のまま)ばかりみたいに思われるのもイヤなのです。

 

でも、そうした大人の女性に魅力を感じる私の好みは、あくまで私個人の好みであって、共感を得たいとは思いますが、他者の好みをこき下ろしたりナショナリズムに訴えるようなことはしません。

 

 

 

実際の話、ビールのジョッキを、ビキニ水着の女性が持ってニッコリ笑っているポスターなんて、男性社会の女性性搾取の象徴でしょう。日本社会はそうした経緯を経て現代に至っています。女性がその経緯において、男性よりピリピリと神経を尖らせるのは当然と思います。男性が空気のように感じている男性社会のなんとない風習や光景でも、女性は「また毎度の男性優位のパターンか」と感じ取るのです。

 

一方で、男性性は、男らしくあれ、男なんだから涙を見せるな、男はいかなる時も強くあれ、と、男性性なりの社会的な「型」にハメられてきた経緯もあります。ただその「強者であることを強要される型」は、弱者的な女性性搾取とは異なり、型にハマってしまえば強者の横暴も行使できるので、多くの男性はその「型」を受け入れてきた経緯がありましょう。男性社会依存型の女性に「男なんだからしっかりしてよ!」「男のくせに弱音を吐かないで!」と言われても、甘んじて「強い男を自己演出」してきた人は相当多いはずです。

 

男と女の差は、同質化できない大きな物理的性質があるがゆえに、絶対になくなりません。猫だって、男の子と女の子で大きく違いますもんネ。見た目はわかりにくくても性格や行動に特徴がハッキリ表れて差がでます。

 

そこにきて、「男のくせに」「女のくせに」なんて言い出したら、物別れに終わるだけです。いつまでも平行線です。

 

今回の献血ポスターの話題は、実は掘り始めると文化的・社会的な「男女の歴史」の経緯を掘り起こすことにもなるでしょうし、男性女性の生物的な特性の話にも波及すると思います。

 

ツイッターのひとことで結論が出せる簡単な話ではないです。

 

まずは、男性社会の偏りを、男女をエクアル(equal, =)に扱う環境へと、意識的に変えることを前提に話を進めないと。

 

例えば仕事なら、「これは男の仕事だ」「女の仕事だ」なんて決め付けることは一切せず、個人の能力に照らし合わせて役職を決めていくのが良いです。実際、欧米と仕事をすると、女性のリーダーやトップが多いことを実感しますが、日本はまだ少ない‥‥ですよねぇ‥‥。

 

アニメ業界では女性の作画監督が増えて(昔はかなり少なかったですよ)エクアルな状態になりつつありますが、女性の監督やプロデューサーはまだまだ少ないですよネ。どんどん能力に相応して増えると良いと思っています。

 

例えば、「俺は男だから」と妙にプライドだけ強くてヘナチョコな男性より、キビキビと思考を回転させて仕切っていく女性のほうが、良い結果を招くことも多いんじゃないでしょうか。強さを求められる場面では、まさに個人のタフさとバイタイリティがものをいうのであって、男女の性差は関係ないです。

 

 

 

話が散らかりましたが。

 

今回の豊乳献血ポスターは、男性社会のなんとない感覚がカジュアルに持ち込まれていて、自己の能力でキャリアを積んだ女性=「男性社会非依存」で自分の運命を切り開いてきた女性ほど、その「安易な男性社会マインド」を許せなく感じるのかも知れません。公的組織である赤十字が、旧時代の男社会マインドに(そこまで深刻に事前分析していたかはともかく)加担したことで、声を上げる人が多かったとも思えるのです。

 

「じゃあ、どうすればよかったんだ?」

 

‥‥と思う人も多いでしょう。

 

‥‥実のところ、私もよくわからないのです。具体的な落とし所が見えません。

 

普通に毒のないコミック・アニメキャラだったら、ここまで興味を惹くことも炎上もしなかったでしょうが、ポスターとしての効果も低かったでしょう。つまり、炎上しないかわりに、献血が危機的状況にあることを社会にアピールできない状況が継続していたでしょう。

 

炎上することで話題性を盛り上げ‥‥ということを主催者が最初から計算していたとするのなら‥‥‥、う〜ん、ワルい人たちだなあ‥‥、人がワルい。勝手にツイッターやワイドショーが拡散してくれるので、叩かれはするけど、「血が足りない!」ということも広くアピールできましたもんネ。

 

このやりかたが二度三度通用するかは疑わしいですが、今回に限っては結果的に、献血に興味を持つ人を増やせたんじゃないでしょうか。少なくとも私は献血してみようと思いましたもん。

 

炎上商法の是非も問われる今回の一件。

 

簡単に答えは出せないと感じてます。

 

 

 

身の丈の感覚で思うと、「管理職か否か」で自分の値打ちを測ったり、「世代のせい」にして自分の能力不足から目を背ける男よりも、確実に仕事をこなして知識と経験のキャリアを積んでいる女のほうが、絶対に頼りになるし、次世代のリーダーとして推挙できます。

 

私は男だから思いますが、「男だから」というよりも、個人の能力として「自分だから」をアピールすべきと思います。男女の今や珍妙とも思える文化的価値観や位置付けよりも、個人としてどのような能力を有しているかを問いたいです。

 

2020年代の令和。

 

「宇崎ちゃん」も、女性の要職も、両方とも抹殺していては、モノツクリ日本はFuture is Black。‥‥ということだけは言えます。

 

良い方向に日本のモノツクリが進んでいくと良いですネ。

 

 


遥かなティペラリー

イマジナリーラインの話題を、業界関係者のツイートで見かけました。私は、フリーランスのアニメーター時代に、制作会社のフリーランススペースで、様々な年長のかたと一緒に作業して、時には作品分析や演出論や作画論を時間も忘れて話したがゆえに、イマジナリーラインはもはや「習慣」になるほど体に叩き込まれております。ゆえに、コミック(特に日本の)の見開きドーンの絵がイマジナリーラインを無視した絵になっているのが(紙面の都合を優先しているのかな?)、どうも苦手になってしまいました。

 

カメラはぶっちゃけ、どうとでも設置できるので、例えば、テニスの試合の両選手を、必ず右向きで捉えることは可能です。しかし、それだと、どっちの選手がどっちに向かってボールを打っているのかわからなくなり、まるでダブルスの選手2人に見えます。

 

いわゆる観客の視点‥‥というヤツです。イマジナリーラインを超えないようにするのは、自然の法則でもなんでもなくて、映画を観ている観客に内容を理解してもらうための、「映画の文法」です。

 

なので、故意にイマジナリーラインを何度も超えて、「道に迷った」「方向を見失った」「混乱している」という効果を出すことも可能です。

 

文法は、文章を作るため、会話するためにある‥‥ので、使いようですネ。

 

イマジナリーラインを始めとした映画の文法は、若い頃に意識して覚えておきましょうネ。

 

 

 

私はこうした映画に関すること、作画に関することを、学校ではなく、現場で学びました。現場の年長の方々は、個性的な人が多かったですが(=アンタが言うか)、知識も豊富であり、若かった私は多大な学びの時間を得ました。

 

最近、ふと「Uボート」というドイツの映画を思い出して、まるであの頃(私の20代にフリーランス部屋で作画していた頃)は、Uボートのような生活だったと懐かしく思い起こしました。

 

 

 

かなりキツイ日々を送っていました。お金が稼げない貧困による、生活の崩壊。

 

前にも書きましたが、あまりにも稼げなくて当時住んでいたアパートのライフラインの一切が停止することが、何回もありました。

 

食事中の人には申し訳ないですが、水が止まるとウンコも流せなくなりますからネ。でも、どんなに屈辱的で惨めな生活を送っていても、人はウンコをして「生きてる」ことを実感します。

 

スチールラックをまるで2段ベットのようにして寝ていたこともありました。そういうことを話すと、今の若い人にはドン引かれるのですが、「寝れるだけマシ」とも当時は思っていました。寝てすぐだと、スチール棚が冷たいのですが、しばらくすると体温と熱交換されて、温まるのです‥‥とか、今だと悲惨な話ですよネ。

 

実際、当時寝ていたスチールラックを「Uボート」とか「潜水艦」と呼んでいた記憶があります。

 

そうしたことを、自分の過去としては、いろいろな意味で、今は懐かしく思えるのです。

 

もちろん、今の時代に、そんなことはやりませんし、真似なんて若い人にはさせません。あくまで、30年前の私の20代の思い出です。

 

Uボートって、艦内の環境が劣悪過ぎますよネ。しかし、Uボートの男たちを、悲惨な奴隷労働のようには描いていません。自分たちの任務が過酷な上に、稼ぎも良いわけでもないけれど、艦乗りの気概に溢れていて、自分の持ち場にベストを尽くします。そんなところが、私の20代の頃の現場とちょっと似ているのです。

 

ちなみに、今でもベストを尽くすのは変わりないですが、昔と大違いで、環境は良いです。

 

 

 

映画Uボートの中で好きなシーンはいくつもあるのですが、敵であるイギリスの歌「遥かなティペラリー」をドイツ海軍乗組員皆で合唱するところは、かっこよくて痛快でスキです。

 

 

 

この歌詞を読んで、今更ながらに合点がいきました。

 

当時の私は、かっこいい車に乗って彼女と休日にドライブするわけでもなかったし、都心の洒落たお店で美味しいディナーを食べるわけでもなかったですが、毎日「自分の好きなことを職業にして」いることは実感していました。

 

世の中の同世代の若者は、おそらく、もっと楽しい休日を謳歌し、ワクワクドキドキな男女交際をしてるんだろう。スキーも海水浴もクリスマスもいろいろお楽しみだらけ。

 

一方、アニメ関連は「オタク」とか言われて、正直、蔑視されていたような時期もありましたよネ。

 

さよなら、お洒落な夕食。さらば、かっこよくてハイセンスな男女交際。

 

遥かな彼方よ。イッツ・ア・ロングウェイ。

 

自分が作りたいと思うアニメ作品への道のりはひどく長い。けれど心はいつもそこに。‥‥歌詞を一部変えると、まるで当時のキモチそのままです。

 

クソ地獄のような中にいて、なぜアニメを作り続けるのか。若い頃には、悩みに悩み抜いた時期がありましたが、今もこうしてアニメを作っています。

 

そして、Uボートのラストシーン。

 

まさにアニメ業界のアニメ現場の顛末を物語っているようにすら、思えます。

 

 

 

美化しようとは微塵も思いません。

 

スチールラックで寝たり、椅子を並べて寝るなんて、2019年の今はすべきではないです。

 

若い人間の「アニメへの憧れ」を搾取するような状況を正当化しようとも思いません。

 

 

 

しかし、私は、私が体験したあの頃が懐かしいです。今の若い人には絶対に同じ思いはさせたくないけど、自分の思い出として懐かしいです。

 

遥かなティペラリー。心はいつもそこに。

 

 


百万倍を生きる

私の倉庫には、古いMacが眠っており、私が初めて買ったPowerMac8600はもちろん、「アニメ制作現場で初めて自分用に設置された」Quadra650も、愛着ゆえに中古で買ってストックしています。

 

当時使っていたQuadra650の記憶が曖昧ですが、Appleに今でも残る仕様表を見ると、メモリは132MBおよび136MBだそうな。

 

半端な数字ですが、どうやらオンボードでメモリが4MBと8MBのモデルがあるらしく、72ピンのSIMM 32MBを4つ挿せば、確かに4+128=132 or 8+128=136になりますネ。

 

モトローラの68K Macは他にも、Performa575も中古で買って遊んでいました。メモリは64MBでした。68LC040から68040にプロセッサを交換した記憶があります。

 

MacBSDというのが流行って、私も御多分にもれず、68K MacにUNIXをインストールし、shellやviで操作して、自宅内のネームサーバとか(そこそこ台数があったので‥‥)を走らせていました。現在のmacOSはUNIXベースなので、MacBSDの基礎知識が今でも役立っています。/etcとか/varとかは、その頃に馴染んだ知識です。Configファイルをテキスト編集してサービスを動作させる仕組みも、その頃に覚えて今も現役の知識です。最近のmacOSは、Apacheとか隠しちゃったもんネ。

 

 

 

以前は68K Macの写真も見れたAppleの歴代マシンのページは以下。

 

 

ボンダイブルーのiMacは今でも大切に保存しています。引越して広い場所に移れたら、現役に復帰させよう(あくまで趣味で)と思ってます。

 

 

 

そして2019年の今。

 

iMacは64GBのメモリとなり、頑張れば128GBのメモリも積める時代になりました。

 

24年前後で、1000倍ですネ。メガからギガですもんネ。

 

 

 

ちなみに、私が中学・高校の頃の「MSX」は、16KBから64KBのメモリ容量でした。(友人が所有していただけで、自分では所有していなかったので、128KBが存在したかは覚えていません)

 

MSXではミュージックマクロを打ち込んでました。行番号と共に、鳴らす音を文字で打ち込む簡単な命令文です。3音ポリだったような記憶があり、FM音源を鳴らせた記憶があります。なにぶん、自分の所有物ではなかったので、記憶が曖昧で‥‥。

 

 

 

なので私は、中学から今までの間で、64KB、64MB、64GBと、1000x1000で、1000000倍の世界を体験したわけです。

 

百万倍。

 

キロからメガ、メガからギガ。

 

 

 

自分がこんなにコンピュータを毎日使う人間になるとは、20年前も30年前も40年前も思いもしませんでした。

 

人生、どうなるかわからんもんですネ。

 

 

 


環境とお金と自宅

何度も書きますが、コンピュータは猛烈な金食い虫です。私は18歳(1987年前後)の頃にお祝いに買ってもらった数万円の机を30年以上現役で使っていますが、1997年に数十万円を費やして買ったPowerMac8600はとうの昔に使わなくなりました。

 

つまり、コンピュータを使って仕事をする場合、その環境維持のコストゆえに、

 

作業に対する報酬金額が高いこと

 

‥‥が何よりも必須となります。3DCGの作業費と同じ理屈です。紙と同じ値段で作業したら破綻するのは、電卓を弾くまでもないです。なので、私はアニメの原画の仕事=「デジタル原画」と呼ばれる作業は避けて、「コンピュータを用いたことが結果物にちゃんと反映される」価格の高い仕事を請け負うようにしてきました。(しがらみゆえ、例外もありますが)

 

その報酬の良さ=報酬金額が高いぶん、いっぱい酒が呑める‥‥のではなくて、年次の環境増強の資金に当てる必要があります。

 

 

 

アニメ業界は、紙と鉛筆と机で作画して来た人の発言権があまりにも大きいため、その点=機材のメンテナンスと更新費用にまるで無頓着だったりする‥‥ことも多いのではないでしょうか。コンピュータを何年かの周期で買い換えて更新することが、感覚として理解できないので、まるで無駄使いでもしているように思う人もいる‥‥のかも知れませんネ。

 

まさに2010年代、Adobe CCに移行せず、いつまでもCS5.5や6を使い続けたのは、それがたとえ作画以外の撮影工程であっても、「アニメ業界の性質」を物語っています。

 

CS6どまりにし続けたら、停滞している期間は良くても、どうしても移行しなければならない時に相当な「痛み」・皮膚移植のような大手術となるわけで、健康で正常な人間の細胞のように代謝〜徐々に入れ替え・更新を進めた方が、新しい時代にも適応できて成長も順次促進されると思う‥‥んですよね。代謝を失った身体はまさに死を意味しますしネ。

 

でも、アニメ業界の多くは、CS6に留まって、CCに移行しなかった事実があります。今後、生皮を剥いで、相当な痛みとともに、新しい皮膚を移植する、苦痛の叫びが業界のあちこちから聞こえてくるかも知れません。

 

最低64GBのメモリ(すぐに128GBくらい必要なると思われます)、i9の4GHz前後で8コア以上、4Kのモニタを60Hz 10bitで3台以上接続できるビデオ性能、色に関わるスタッフ(彩色、美術、コンポジットなど)は基準となるHDRモニタ(300〜1000nitsでPQ対応)、液タブかiPad Pro 12.9、高速なWiFiとBluetooth、最低1Gbpsのネットワークで10Gbps推奨、10Gbpsのハブ、USB3.1、Thunderbolt3の40Gbps、M.2でThunderbolt3の高速な外部キャッシュディスク、最新のOSと映像制作ソフトウェア。

 

こうした2020年代基準の機材を、一気に更新など本当に可能なのか、エクセルで見積もり表を作れば、愕然とするでしょう。更新が、2010年代前半の内容から‥‥となれば、もはや全部買い直しです。生き残る機材のほうが少ないです。

 

 

 

身の丈のお金の話です。会社規模だと各所で差が大きいので、個人単位のお話にて。

 

毎月2万円をあてて、サブスクリプションとマシン入れ替えの積み立てに備える(10年で240万円)

または、

10年に1度、ドカンと240万円捻出する

 

‥‥このどちらが現実的でしょうか。そして、どちらが自分の新たな技術として身につくでしょうか。

 

私は前者だと思います。

 

まず、10年に1度とは言え、240万円なんて1度に工面できないですもん。

 

さらに、10年に1度、240万円を費やして装備を一気に更新しても、色々な技術基盤が多少なり10年前とは異なるがゆえに、すぐに240万円分の最新機材の優位を発揮できません。使う人間の知識がすぐには対応できないからです。

 

順次、知識を更新しながら、様々な技術を吸収して、古い技術を入れ替えていく必要があるわけですが、「10年に一度の機材更新」においては、まさにその「順次」が不可能なんですよネ。

 

1度に240万円の機材環境を導入しても、人間の経験と知識と技術は、1度にドンと増えることはないです。

 

 

 

つまり、10年我慢して一気にハードもソフトも更新すれば良い‥‥というわけにはいかんのです。

 

それに‥‥根本的な問題ですが、10年の期間、ちゃんと貯金できますかネ? 結局、なんだかんだと出費して貯められないんじゃないでしょうか。

 

しかも、あらゆる最新技術の足並みが、ピタッと揃うことなんてないです。結構‥‥いや、かなりバラバラです。10年後に、ベストな機材購入を一気に決済するなんて、可能とは思えません。

 

 

 

一年で使える環境機材費を決めておいて、その枠内で購入し(大枠はローンで)、その機材環境出費を相殺するために、必要に応じて仕事の幅を広げていく。

 

紙と鉛筆と机だけなら、「作画の仕事はこういうものだ」と自ら限定しがちですが、機材に色々と金がかかって、それが自腹ともなれば、「仕事の幅を広げなくちゃ」と思うものです。年間24万円出費が増えたのなら、最低でも24万円の増収を図りたいですよネ。

 

現在のアニメ業界の作画料金では、とても賄えないと実感するはずです。ゆえに、自分の仕事の内容と種類を増やすべく、自然と思考が働きます。自分自身をプロデュースする自我に目覚めます。

 

自分の可能性をなんとなく諦めていた悪癖は、実は、コンピュータ機材に比べて、金のかからない紙と鉛筆と机に道具を限定していたことも、多分にあるのではないかと思います。

 

 

 

以前、「アニメ制作会社がフリーランスに機材を貸し出す」みたいな論議も聞いたことがありますが、‥‥‥5分も考えないうちに「ありえない」ことがわかりますよネ。

 

A社、B社、C社の3社を掛け持つアニメーターは、3社分の3セットのPCとモニタと液タブを自宅に置くのでしょうか?

 

それとも、A社が貸し出した機材で、ちゃっかりB社とC社は、アニメーターに作業依頼するのでしょうか? もしA社の仕事が終了したら、B社とC社の仕事が中途でも、機材を回収するんじゃないですかネ?

 

ちょっと考えれば、会社が自宅作業のフリーランスに機材貸し出しなんて、あり得ないことがわかりますよネ。

 

自宅の機材は、自分で揃えるしかないです。その代わり、アニメの作画だけでなく、色んな仕事を請け負って、マルチに稼ぐのです。

 

 

 

アニメ業界の契約社員‥‥みたいに、アニメーターはアニメの作画だけしか仕事しちゃいけない‥‥わけじゃないです。

 

むしろ、もっとアニメ制作会社以外の色々、アニメ制作会社の仕事であっても作画以外の何かを、自分の道具を駆使して開拓すべきだと思います。

 

2020年代以降に「絵を描いて生きていく」には、コンピュータは金食い虫だからこそ、むしろ強い味方にすべきと、私は思うのです。

 

 

 


台風が去って

最大級と言われた台風が去って、幸い、私の周りは被害らしきものはありませんでした。バケツが転がった程度、唐辛子やシソの草木がやや斜めになった程度でした。(事前にやんわり補強しておいたので、前回の台風よりは倒れませんでした)

 

停電も発生せず、PC関連は特に異常なしです。

 

しかし、浸水した地域の映像を見ると、やはり相当な規模の台風だったことがわかります。いつ誰の身に降りかかってもおかしくない状況だったのでしょう。私の地元は水害で昔から被害を被り続けた地域で、堤防の備えに戦前から取り組んでいたので(小学校の時に地元の歴史で学びました)、今回も堤防(土手)が守り抜いてくれました。東京の多摩川の方では一部の地域で水害が発生したようです。

 

今日まで休日ですので、休める人は休んだ方が良いかもです。早朝にスーパーに寄りましたが、まだ品薄の状態が続いていました。

 

 

 

台風襲来の当日は、ネットも繋がりにくくなっていました。帯域を制限でもしてたのかな? それとも単に皆がネットにアクセス集中してたのかな?

 

私は東日本大震災の時に、色々と買い揃えたものが今でも健在で、乾電池のストックも定期的に補充していたので、水と食料以外はそこそこ充実していました。単3で駆動するラジオやめちゃ明るいLEDライトやランタン、トランシーバ(スマホはすぐ使えなくなるので)などを準備していましたが、出番がなかったのは幸いでした。

 

防災も国防もそうですが、実際に備品を使わないのが一番ですよネ。

 

使わないまま古くなって、定期的に入れ替えるのも、コストのうちです。今まで事故ったことがないからって、無保険で自動車を運転するお馬鹿さんはいないですもんネ。

 

でも、いつか東京全域レベルで災厄が来るような気もします。オカルトみたいな話ですけど、言わば「確率」的な話で。

 

大震災の時に計画停電すら免れた地域(=つまり東京の区と周辺の市)は、「幸運」な状態〜「不運を免れ続けた」状態が続いており、エントロピー的に危ういようにも思うのです。東京の中心部は74年前に徹底的に凄まじいほどに焼け野原になったので、そこで一気にありったけのジョーカーを同時に引いたような状態だったのでしょうが、最近は40枚以上引いても1枚のジョーカーにも当たらない状態〜「残りのカードに高確率でジョーカーが潜んでいる」状態とも言えそうです。

(オイルショック、バブル崩壊、リーマンショックと、不幸のタネを散らしてはいますが、東京限定ではなく日本全体や世界規模の話ですし、東京地域の大規模な建物破壊やインフラ崩壊は、戦後未だ経験していませんよネ)

 

と、オソロしい予感もする中、また日々の仕事を再開するとしましょう。

 

 

 


さらば32bit、さらばS1500

自宅のiMac 5KをmacOS10.15「カタリナ」にアップデートしました。

 

もちろん、様々なリスク覚悟で。‥‥32bit切り捨てはかなりの影響があるでしょうからネ。

 

なので、自宅のiMac 5Kだけで、作業場はHigh SierraとMojaveのままです。

 

「無理せず、昔のバージョンのままでいいじゃん」と思う人もいるでしょうが、現在の狭い視点で見れば「新しい何か」はリスキーでも、視点のスパンを広げれば、昔のままでいることのほうがリスキーでもあるのです。特にコンピュータの類いは、今でも日進月歩なので、あっという間にガラパゴス化して陳腐化します。

 

事実、平均的なアニメ業界のコンピュータ関連技術事情は、古いままで10年間続けてしまったリスクで溢れている‥‥と言っても過言ではないですよネ。おそらく、4KHDRの波を乗り越えられずに店を畳むことになる制作集団も、今後増えることでしょう。

 

とは言え、いきなり制作現場の環境を最新=つまり未知の障害を含む環境に更新するわけにはいかないので、私は20年近く前から、自宅のメインマシンをある意味「人身御供」にして最新環境にして、「毒味」してから現場に導入するというパターンを繰り返してきました。

 

で、今回もその感じで、まず私物のMacに、「32bit切り捨て」のカタリナをインストールしました。32bit廃止でどんなことが起こるのか、特に旧製品ハードウェアあたりがヤバそうで、下手をするとスキャナもプリンタも全滅かな‥‥と覚悟してインストールしました。

 

 

 

インストールを実行してみたところ、結構待ち時間が長かったので、「やっぱり大きなアップデートなんかな」と感じました。3〜4時間はかかりました。「残り時間を計算中...」の表示で何十分も止まるので、フリーズしたかと思いかけましたが、そのまま放置してたら無事アップデート終了しました。

 

再起動後にログインして、早速ドックを見たら、あれやこれや、使用停止のアイコンがオーバーレイしてました。

 

 

 

QuickTime7が、本格的に死ぬ時が来ましたか。

 

もういつ終わってもおかしくないとは思っていましたが、実際に廃止になると感慨深いものがあります。「マックユーザー」が手作りでムービーを編集していた頃の名残りが、まさにバージョン7でしたが、今後は「ジオシティーズのホームページ」が消えたのと同じく、アマチュアリズムは姿を潜め、「プロとアマのヒエラルキー」の境界線がより明確化する時代になっていくのでしょう。

 

脱線しますが、あまりにもテレビが高価だった昭和30年代に、少しでも安くテレビを手に入れようと「テレビの組み立てキット」が発売されたこともあったようです。技師でもない個人が組み立てるなんてスゴい時代だと思います。欲しいものを単に完成品を買うのではなく、自らも参加して作り出そうとするバイタリティが、今とは大きく差がありますネ。

 

実は、時代が進化すると、「知識を活かして有利に展開する者と、完成物に対価を払ってただ受け取る者の、2局化」が進行するのかも知れませんネ。

 

人々は「便利で楽になった」と言いつつ、知識と経験をどんどん手放して、お金を徴収される側に回っていく‥‥という、能力の貧富の差が激しくなるんだと、薄々感じているこの10年です。iPhoneを手にして「自分は情報社会に強い人間になった」と錯覚して、実は猛烈な搾取の対象となる‥‥なんて、まるでイスラエルの学者さんが説いた人類の未来予測みたいで怖いですネ。

 

 

 

話を戻して。

 

QuickTime7が終了するのは、もう数年前に予告されていたことですのでショックはないですが、富士通のスキャンスナップ「S1500」が死んだのは、ややショック。‥‥もし、本格的にダメな場合は、旧OSのままで今後も稼働する「2013年のMac mini」に接続して使おうと思っていましたが、それが現実になりそうです。

 

開発元のWebを確認すると、

 

 

‥‥だそうなので、カタリナでS1500を動作させるのは、もうダメですネ。潔く諦めます。

 

 

 

一方、Epson Scanはドライバのアップデートで、対応しています。エプソンから最新の対応版をダウンロードしてインストールしました。

 

ただ、私はプリンタ(複合機)もあるので、スキャナの単品ドライバではなく、「エプソンソフトウェアアップデータ」なる「エプソン関連をいっきに面倒見る」ソフトをまずインストールして、「アップデートが必要なものを判別して全部インストール」してくれるようにしました。

 

64bitのカタリナでも、2009年製のスキャナ「GT-X820」がちゃんと動作しました。円盤ラベル印刷の「プリントCD」も動作するよう(起動だけ確認しました)です。

 

 

エプソンスキャンでも、システム環境設定のプリンタ・スキャナの設定でも、両方で使用可能です。

 

自宅のもう1つの複合機、ブラザーのDCP-J940Nも普通に認識され動作可能みたいです。(印刷は試していません)

 

 

 

ちなみに。

 

このブログにキャプチャ画像を載せるために、PNGやHEICをJPEGに変換する自作の自動処理を、AppleScriptとShellの連携によるアプリケーションにして使っているのですが、今回のmacOSアップデートは毎度のこと色々あるようで、素ではAppleScriptのアプリケーションは動作しませんでした。

 

 

 

AppleScriptはここ最近のOSアップデートでは、必ず動作しなくなるので、再度コンパイル&アプリケーション形式書き出しをおこなっています。‥‥AppleScritpはもはや、粗末に扱われ過ぎな感、満載。

 

 

 

32bit打ち切りでどうなることかと思いましたが、今のところ、大被害は無いです。

 

動作しなくなったS1500は相当古いスキャナですし、そもそもスキャンをすること自体が、iPad Proによって絵を描くことでほとんど無くなったので、S1500に「今までありがとう。いつか使う時まで、さらば」と潔く言えます。

 

これを機に、さらなる「断捨離」を進めて、これから先の人生に「本当に必要なもの」を明確にしても良いかな‥‥と思いました。

 

 

 

 



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