慣れれば、慣れる

思うに、昔の人の知能や身体能力がことさら低かったわけではなく、全世界規模の技術基盤や文化などが複雑に入り組んで「時代」を形成し、人々はその強烈な影響化にあったのだと思います。1935年生まれの戦前の新生児をタイムマシンで現在につれてきて、現代社会で育てれば、まさに「現代人」になると思います。人は「状況に慣れる」性質を持つ‥‥のかも知れません。
もっと個人レベルの視点で考えてみると、なぜ、子供・学生の頃は「下手」なのか。10代の身体に致命的な弱点があるわけでもないのに。「自身の肉体」という道具は存在したのに、何かしらの要因や意識が不足していて、「上手くできない」のです。
人が「慣れるイキモノ」だとするならば、古いものに慣れ親しむばかりでなく、新しいものに慣れる事にも、その性質を発揮したいところです。
「できるのに、できない」事は、次世代映像制作の取り組みをしていると、痛烈に実感します。「1年前に、このやり方が、なぜ想い浮かばなかったのかな‥‥」とか「妙に、昔の作法に縛られて、思考が凝り固まっていたな」‥‥などと、自身の発想の不自由さに歯がゆくなる事があります。
After Effectsで動きを作る事は、今の私には「できる事」です。ずいぶん昔のAfter Effectsでも動きは制御可能でしたから、要は今まで自分の中で「できないことにしていた」だけです。一般的に見れば、「撮影」という行程では、動きをAfter Effectsで作り出すなんて、じゅうぶん変則的ですし、旧式の撮影行程で撮影スタッフが動きに関与するのは御法度(動きのクオリティで考えて)です。しかし、動きの経験と知識を持った人間が、撮影とは全く別の視点でAfter Effectsを用いてアニメーションするのであれば、状態が全く異なります。
「できる事とできない事」の組み合わせは、言うなれば「de facto standard」です。「実勢によって事実上の標準とみなされるようになった」とは言い得て妙で、自分自身・自分の身の回りの技術・趣向などにおいても、自らの認識で「実勢によって事実上の標準」とみなしています。そして人は、いつの頃からか「自分の実勢」の更新をストップし、「自分とはこういうもの」とばかりに、グローバル定数のように固定して設定しがちなのかも知れません。
でも、過去全てにおいて、実勢に甘んじて何もアクションしない人によって世界が満たされていたら、まだ石器時代以前のままかも知れませんネ。飛行機も飛ばないし、電話もテレビもない。もちろん、アニメも、After Effectsも存在しないスね。
個人レベルで言えば、自己の「de facto standard」は、言い換えれば、「閉塞感の自作自演」とも言えます。自分の行動パターンをバックサイドで適度に設定しておきながら、「このごろ、自分自身の行動に閉塞感を感じる」などとは、滑稽にもほどがあります。
でも、自分の性質、趣向なんて、そうやすやすと変えられないじゃんか。‥‥まあ、そうかも知れません。
だったら、趣向はそのままで、別腹で新しい事をしてみて、それに慣れちゃえば良い‥‥のです。ある時期から「自分が得意だ」と決めつけた以外の、自分にとっての新しい事をすれば良いです。新しい事に着手するのに、「今までのをナシにする」とか、極論に走る必要がありますか。
かと言って、新しい事をするだけではダメで、「慣れるところ」まで習熟しないとダメッすネ。‥‥で、「慣れるところ」までいくには、状況を作る必要があります。まあ、自身を振り返ると、この「状況を作る」方法が若い頃には解らないのよねェ‥‥。
思うに、「自分はこの程度だ」と達観する事が、自己の発展を阻んでいたと述懐します。私は今では普通に、カラーボード・イメージボード類を仕事で描いたりしますし、ビジュアルエフェクトやグレーディングで微妙な色の操作をして画面作りをしますが、実は過去の私は「色彩は不得意だ」 と思っており、20代中頃まではずっと敬遠していました。そんな私が、メルセデスCMや2000年のBLOOD劇場ではカラーイメージボードを描き、ジョバンニではイマジカのグレーディングに立ち会うようになるのですから、要は過去に自ら「できるのに、できない」状況を生み出していたわけです。私が「本質的かつ宿命的に色彩に向いていない」なら、じゃあ、今なぜ、このような仕事をしてるのか‥‥という事です。今だからキッパリ言えますが、「できない」と自虐的に思考していただけです。そしてその自虐思考が、プラス要因を丁寧に1つずつ潰していく「負のジェネレータ」になっていたのです。
After Effectsで絵を動かすなんて、そんな果てしない事を‥‥。もしできたとしても、手描きに比べて、相当にヘナチョコなんじゃないか‥‥。数年前はそんな迷いもありましたが、実際に着手して作業に慣れてくると、「まだまだいけそうな予感」をひしひしを実感できるようになりました。日本のアニメーターの技量はハイパークラスですから、肩を並べるにはほど遠いヨチヨチ歩きですが、今のアニメーターのシステムでは全く手の届かないフィールドがもう見えていますし、今後の成長を加味すると、ある種、楽観できるのです。アニメ作画やアニメ撮影はまさに真っ赤なレッドオーシャンですが、夏の木陰から涼しげなブルーオーシャンが見える思いです。‥‥これも構想だけではダメで、「慣れる」ところまでやってみて、初めて実感できる事です。
慣れれば、慣れるもんです。逆に、慣れるまでつきあわなければ、いつまでたっても、変化は訪れません‥‥というか、相対的には時間の進行に置いていかれて後退していきます。
今のアニメの制作方式。「新しいフォーマットについていけなくなったら、心中するまでよ」と自虐思考に陥ってたりしませんか。それこそは、過去に消えていった娯楽産業と同じ末路を、自ら好んで進むようなものです。紙に鉛筆で原動画を描くスタイルを存続させたい‥‥とするなら、それを「実勢」と達観せずに、何かしら新しい突破口を志向することが必要でしょう。‥‥つーても、何だかんだ言って「今のシステムがいい」という人が多いこの業界、‥‥変われるタイミングも極めて見つけ辛いのかも知れません。