実情と開発と

こんな記事を見ました。

 

□若手アニメーター、月給10万円未満が50%超 「死に体で支えている」苛酷な生活実態とは(調査結果)

https://www.huffingtonpost.jp/2017/02/25/animator-working-environment-02_n_15011282.html

 

私が10代の頃〜30年以上前から変わっていない実情です。

 

なぜ、変わらないんでしょうか。‥‥誰かが状況を変えるのを怠っているから? その「誰か」とは誰?

 

マンガやアニメみたく、わかりやすい「悪の権化」「ラスボス」がいれば良いのですが、まあ、そんな簡単な構造じゃないのは、ちょっと内部に詳しくなれば誰でもわかることです。

 

私個人の見解‥‥ですが、変えられない根本的な構造理由があるから‥‥だと思っています。

 

 

 

細かい絵柄を1枚1枚動かして、数千枚。‥‥どう考えたってお金はかかりますよネ。

 

絵を1枚1枚描いて塗って、5千枚、1万枚‥‥だなんて、莫大な労力とお金がかかって当然です。でも、莫大なお金をそう易々と調達できるわけがないです。


思うに、まともな作画単価を設定すると、1話22分で6〜8千万くらいの制作費は必要だと思いますが、そのお金をかけただけ、全ての作品が売れまくるのでしょうか。

 

作るのに8千万円x12話=9億6千万円かかったテレビ作品が、1億円分しか売れなかったら、8億6千万円の損失です。

 

ゆえに、1話の「相場」は多少の大小はあれ、決まってきます。

 

 

 

1話につき何千枚も作画して塗って、膨大な人手が必要で、一方では制作費には限りがある。

 

私は30年以上、アニメ業界に関わっていますが、その難問を解決する答えは全く見出せません。計算式がそもそも30年以上前から破綻していると思うからです。

 

線のメチャクチャ多い巨大ロボットが2体、これまた線の多い巨大バイクにタンデムしてるような絵を、1枚120円で描かされりゃ、いくら無知な若者でも「こりゃ破綻してるわ」と思いますよ。それが30年以上前の物価の安かった社会での出来事でも。

 

 

 

すなわち、計算式を根本から考え直す必要があるのです。

 

ポアンカレ予想のペレルマンじゃないですが、皆が皆、トポロジーを使って難題を解こうとしている中、微分幾何学で解くアプローチが必要なのでしょう。

 

皆、40年前以上に確立されたアニメの作り方に思考や行動を縛られすぎていませんか。旧来のアニメ制作技術には無批判・棚上げで、制作費や単価のことばかり突いても「埒が明かない」です。

 

原動仕のシステムは自然の摂理じゃないんです。やりかたを変えても天罰などくだりません。

 

自分たちの足元がぬかるんで、底なしの泥沼だということを、昔からそうだったなんて言わずに、しっかりと見つめる時期だと思います。

 

 

 

「じゃあ、お前はどうなんだ」と言われるかも知れません。‥‥なので、もう10年以上前から仲間と共に「別の計算式」に取り組んでいます。他者からは荒唐無稽にしか見えない開発でしたから、当然、自費、自腹です。

 

しかし、ようやく、4KHDRの時代の流れに合わせて、取り組みを本格化できる段階に漕ぎ着けた‥‥と思います。

 

4K60pHDRは旧来のアニメ現場にとっては「泣きっ面に蜂」かも知れませんが、私らにとっては「この上ない福音」です。やっと、技術と時代とのランデブーポイントに辿り着ける‥‥と意気も揚々です。

 

 

アニメ現場を改善したい? ‥‥であるのなら、次の時代をしっかりと見据えて、然るべき技術開発に取り組むべきです。

 

いつまでも、先人の築いた遺産にすがるのではなく。

 

改善、改革、創造、開発‥‥なんて、どれも結局は「やったもの勝ち」なんですから。

 

 

 


思考の限界、変える限界

予定調和、今までの感じ、‥‥という誘惑は、特に仕事の本数が多くて心身ともに疲労している時に、悪魔のように耳元で囁いてきます。

 

しかし、予定調和路線、今までの感じで片付けちゃった先には、良いことだけでなく、悪いことも踏襲し続ける未来が待っています。

 

何かを変えるには、想像よりも遥かに大変な労力を必要とします。簡単には、物事は変わらないのです。ゆえに、当座の辛さにメゲることなく、大局を見極めて行動していくことが必要になりましょう‥‥と、自分を励ましておきます。

 

 

 

何かを大きく変えようと思うのなら、予測しきれない大変な労力を必要としましょう。土台から変えるには、土台の上にのっかってきた様々な古いものを全部どかして、さらに土台を掘り返して地ならしをする必要があるのですから、考えるだに大変です。だから、多くの人は、そんなことには着手しません。

 

ゆえに、マイナーチェンジに終始します。

 

でも、アニメの現場に必要なのは、根本的な問題解決と未来発展技術ですよネ。

 

使用するソフトウェアを変えようが、描いている絵柄が旧態依然とした内容ならば、未来の映像技術世界においては見劣りも甚だしいです。ソフトウェアで効率化を実践しても、その効率化が支えるアニメーション作品が古い感覚で制作されるならば、やがて時代の流れに遅れをとるでしょう。

 

 

 

やっぱり、物事を変える源は、人間の脳、思考そのものなんだよな。

 

だから、物事を変える「変え方」も「規模」も「内容」も、当人の脳内の思考に大きく依存するのです。コンピュータにインストールするソフトウェアを変えれば状況が変わる!‥‥と思う人間は、そうした脳・思考しか持ち合わせていない‥‥ということなのでしょう。

 

当人の思考の限界は、物事を変える限界と、強く深く結びついています。

 

 

 

思うに、物事の大変化って、小さなワンルーム規模で始まることが多いです。それは当人たちの思考が源になって、広がっていくからです。

 

フリーランスアニメーターの作画机エリアの一角、喫煙スペース、独立した特殊な部署、なんとなく浮いてしまったスタッフが身を寄せ合う狭い作業場。

 

‥‥そんな場所の、ちょっとした雑談から、新しい発想は生まれることが多いのです。

 

決して「大工場」の「大部屋」ではないです。

 

予定調和とは、逆に言えば、調和を乱さない従来規範の人間たちの思考の集合体であり、当然ながら「調和を乱す」言動や人間は、調和の中には存在できません。ゆえに、大工場の大部屋の予定調和の中から、「革新的な何か」なんて生まれ出るはずもないのです。

 

みんなで意見を出し合う大会議や、大きな組織単位で行動する規模で、物事を大きく変える新しい発想は生まれでないです。少なくとも、私が見てきた事例は、打算にまみれて鋭さも切れもない凡庸な結果となったものばかりです。皆がふところに「予定調和、今までの感じ」を忍ばせて参加するから、当然といえば当然です。

 

 

「予定調和、今までの感じ」などバッサリ切り捨て、新しい思考ができる人間など、大所帯では無理です。

 

なので、真に新しいことを始めるのなら、少人数が必定。

 

ゆえに、少人数それぞれにのしかかる「物事を変える労力」の負担は、かなり大きなものとなりますが、‥‥その負担は言わば、物事を変えることができる「プログラムコード」でもあるのです。

 

プログラムのコードがたとえ小規模でも完成しなければ、プログラムを実行することは‥‥ままならないですもんネ。

 

 


めめんともり

10代、20代の、若い頃の私は、自分が死ぬことなんて全く考えもしませんでした。これはすなわち、親が私を健康で丈夫に産んで育ててくれた賜物ですが、そうした「死ぬことなんてありえない」初期状態の恩恵を、寸分も意識することができなかったのは、まさに近視眼的思考そのものだったと思います。

 

一方、小さい頃に大病を患った人は、幼い頃から「死」の影を感じて生きて、たとえ現在は健康体であっても、何かの拍子に幼き日の死の影が蘇る‥‥とも言います。私は、「健康に生まれ育った人は、根本的な思考の性質として、死を感じることが希薄だし、健康に対してずさんで傲慢」と言われたことがあり、しみじみと自分の視界の死角を思い知った経験があります。

 

しかし、いくら健康体でも、老いとともに、やがて生命の機能維持能力は衰え、各所に綻びがあらわれるようになると、なまじ「死の影」を感じなてこなかった人ほど、死を強く意識するようなことも‥‥‥あるのです。

 

まさに今の私がそうです。

 

今の私は、何を計画するにも「死を起点」に考えるようになりました。

 

人は必ず老い、そして必ず死ぬ。‥‥という、あたりまえ前過ぎることを、あたりまえ過ぎるからこそ、自分の中心において、未来の計画を立てるような思考へと変化しました。

 

若い時は、あれほど死に対して無意識で無頓着で、健康に対して不遜で傲慢だった‥‥にも関わらずです。

 

 

死が必ず待ち構えているからこそ、今、私は何をすべきなんだろう。

 

何を残し、何を捨てるべきか。

 

何を伝え、何を断つのか。

 

 

私はたとえ200年の寿命があったとしても、アニメを心底作りきれないと思います。もし生まれ変わりがあったとするなら、またアニメを作りたいとも思います。‥‥‥でもま、生まれ変わったら、その時は既に「自分」ではないので、全く意味がない‥‥ですけどネ。

 

人間の寿命は短いもんですネ。

 

 

死ぬまで面白おかしく生きる人もいるでしょうし、10代20代の怨念やコンプレックスをひきずったまま孤独死する人もおりましょう。ひとつの価値観や行動原理で総合できるものではないです。

 

ゆえ、「自分だったらどうする」と、私は考えるのです。

 

 

こんな記事を目にしました。

 

なぜ「貧しい高齢者」が一気に増加? 識者が語る2042年の日本の姿〈AERA〉

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180327-00000027-sasahi-soci&p=1

 

1960年、1970年には、明るい未来、素晴らしい未来のビジョンばかりが、身の回りに溢れていましたが、いまどきは、こういう記事ばかりですね。

 

自宅にコンピュータやFaceTimeやスカイプがあろうが、話しかければ答える携帯テレビ電話があろうが、世界は幸せでも平和でもない‥‥ということを、実証し続けている現代。

 

「それは平和ボケだ。昔は、天候不順や自然災害で干ばつが起きるたびに、大量の餓死者が出たことを思い出せば、今は少なくとも生き延びられるだろうが」‥‥というのはよく語られる論調ですが、どうやら、生存率=幸福感ではないことは、現代人はうすうすでもクッキリハッキリでも自覚していますよネ。

 

なんか、思考の風呂敷を広げ過ぎちゃったな‥‥とは思いますが、未来の世界、やがてくる自分の死の刻、そして、なんとしても作ってみたい「美しいアニメ」に思いを馳せながら、まったり粛々と生きる今日この頃のわたし‥‥なのです。

 

memento mori‥‥ですネ。

 

 

 


人の明暗

昨日、いくつかのツイートでリンクされていたコレ。

 

30歳貧困男性がアニメ制作会社で見た深い闇

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180328-00213089-toyo-soci

 

この記事に対する反応で、同情だけではなく、批判するコメントも多いのが興味深いです。

 

https://headlines.yahoo.co.jp/cm/articlemain?d=20180328-00213089-toyo-soci

 

 

教師になる夢がまずあって、家の不幸により大学を中退し、マスコミ関連の会社でバイト、バイトをやめてアニメ会社に就職、御多分に洩れず厳しい労働内容から離職、マスコミ関連会社に復職、そのマスコミ関連会社を辞めてバイト、農家になるべく準備中で、同時に実習助手の兼業も目指す‥‥という道のりは、たしかに「文面だけ読めば」迷走しているようには感じられます。批判する人が出てきてもおかしくはないです。

 

ただね‥‥。あくまで、要約した記事の情報ですからね。本人がどのようなニュアンスで言葉を選んだか‥‥なんて、記事ではふっとびますから、短くまとめられた記事を読んで過剰に同情するのも批判するのも、それはそれで勇み足です。

 

映像制作を生業にしている私からすれば、「映像制作」をなぜ、この人が選んだかは気になるところです。夢は教員だったとのことですが、本人の意思とは裏腹に大学を中退して夢が絶たれた経緯があったにせよ、その後にマスコミ関連会社やアニメ会社‥‥というのは、なぜだろうと思います。

 

おそらく、当人の内部では、自身で意識か無意識かはわかりませんが、「教師と映像制作スタッフ」が繋がる何かしらのシナプスがあるのでしょう。しかし、その内部構造を、限られた記事の情報から読み解くのは不可能です。

 

 

 

何が人の行動を左右するんでしょうネ。

 

そして、何が、明暗をわけるのでしょう。

 

地域性はまずあるでしょうネ。地域の特性は成長期にも深く影響します。そして、親の性質も関係するでしょう。幼少の頃の影響は絶大です。

 

しかし、北海道出身の方も、沖縄出身の方も、アニメーターにはいます。

 

声優さんを親御さんに持つ人も、私のようにアニメとは何の縁もない郵政・郵便局勤めの両親を持つ人間もいます。

 

 

「本人の性格や性質」とは言いがちですが、人間の性質なんて、一言で言い表せるほど単純でも明快でもありません。「本人の性質」って何よ?‥‥と思います。

 

記事では、本人の生い立ち〜どこに生まれてどこで育って、両親はどんな職業でどんな価値観が家風で、少年時代は何に熱中して、何が得意で何が不得意で、どんな友人関係を形成しどんな恋愛をしてきたのか‥‥などは全く伝わってこないので、要領を得ません。アニメ制作会社がリアルに酷い制作状況なのは伝わってきますが、現在は農業と実習助手を目指す本人の思考や性質は記事からは読み解けません。

 

 

こういう記事を読んで、私が未来の新技術ベースの現場に想うことは、「自分のところは、こういう現場にはしないように、地道に頑張ろう」ということです。そのためには、労働環境云々のもっと地層の深い部分〜アニメを作る技術を根本的に変えて、労働の「エンジン部分」を一新することこそ、残りの人生の事業と再認識するのでした。

 

アニメ業界を変えることはできなくても、自分が深く関わる現場の技術ベースや労働構造を意図的に変えることはできます。特に、監督権限をもつチーフや責任者が土台を変えようと思うのなら、1年2年で簡単に諦めないで、10年規模で取り組むべきです。‥‥諦めるのが早過ぎる人は、多いように思います。

 

構造を変えずに、ソフトウェアのチョイスや使い方をチョコチョコとマイナーチェンジしたって、状況の根本なんて何も変わっていかないですよ。

 

それに、人材なんて、募集して簡単に見つかるもんじゃないです。人材獲得を甘く見過ぎる傾向は、どんな業界でもあるでしょうが、アニメ業界も御多分にもれず‥‥ですネ。

 

 

 

さて、人材をどうしようか‥‥。今度のプロジェクトは待った無し‥‥だからな。

 

人材の巡り合わせって、やはり、誰かが人為的に操作できるものではなく、時間と場所が導く運命‥‥という気がする、今日この頃です。

 

 

 


リア充とかコミュ障とか

「リア充」って、未だに意味がわからなくて、会話の中にぽっと出てくると、ふわっとスルーする私がいます。

 

現実の生活が充足している。‥‥意味がわからん。

 

現実の生活が充足してる人って、そんなにいる? 豪邸に住んでいる人だって、ビクビクどこかで恐れを抱いて生きている人は多そうだよ。ビバリーヒルズの暮らしぶりを取材したNHK特集とか昔見ましたけど、いたたまれないよね。

 

コミュ障って言葉もよくわからなくて、

 

「コミュ障」という略語は、病気というよりも人見知りや、他人とのコミュニケーションがうまく取れないと感じたときに、「自分はコミュ障だから」と都合のいいように使うことが多く、医師に診断されるコミュニケーション障害とは少し意味合いが異なります。

 

‥‥みたいな記事も検索して読んで、私も人付き合いがうまいとは言えない方なので、テストしてみました。

 

そしたら。

 

 

 

罵られました。

 

「リア充」なのか?

 

仕事に追われて月月火水木金金、旅行に行きたいけど行けない、たまにはお酒でも飲みたいけど飲めない、幸せな家庭(一般論)に恵まれているわけでもない、この私が?

 

釈然としないまま、他のテストもしてみました。

 

これ。

 

 

あー。なるほど。

 

確かにな。

 

誰か特定の人に負けるのがイヤ、というよりも、人々の何気ない総意みたいのに屈するのはイヤですね、昔っから。

 

では、他のテスト。

 

 

まあ、犬タイプではないです。猫タイプでしょう。

 

ムラ食いしますし。

 

 

‥‥‥脱線したのを元に戻して、コミュ障の別のテスト。

 

 

 

ハイレベルかどうかは判断の基準もわからんですが、おしゃべりは好きです。‥‥なんか、「猫タイプ」の診断結果と矛盾も感じますが。

 

おしゃべりが好きなのは、寂しがり屋のせいでしょうネ。事実、こうやって、ひとりでブログでおしゃべりしてますし。

 

次元大介がルパンに向かって言う「独り言の悪い癖がついたぜ。寂しがり屋め」というセリフが身に沁みます。

 

‥‥独り言の悪い癖が、まさにブログか。

 

 

でもさ‥‥。私に限らず誰しも、‥‥例えば小学生から高校生などティーンの頃に、同級生の男の子でも女の子でも、会話の中での笑顔を見ると、幸福感を少なからず感じませんでした? 色々な笑顔を記憶していますよ、今でも。

 

人見知りだからって、おしゃべりが嫌いなわけじゃないもんネ。むしろ、人見知りこそ、おしゃべりが好き‥‥なのだとしたら、ネコタイプがおしゃべり好きなのは、あり得るのかな。

 

でも、喋り過ぎはあかんね。胸に刻みます。

 

 

とは言え、違うテストでは「聞き上手だけど、もっと自己主張してみよう」と診断されたり、よくわからんですワ。

 

 

まあ、人間、多面性をもってて然るべしですから、あまり気にせず、生きるのが吉でしょうネ。

 

ネコだって、番犬のように子供を守るネコだっているんだし。

 

 

 


被害者意識

被害者意識で思考する人は、さぞ他人も被害者意識で物事を考えていると思いがちですが、実際は違います。失敗したり被害に遭遇することは確かに辛いことではありますが、思考や意識まで失敗や被害に覆われることはないです。

 

被害にあったり失敗したからといって、被害者意識に捉われるか否かは、本人の性質次第です。

 

他人を見て「こいつ、すげえ、被害者意識が強いな」と安易に言う人こそ、実はとんでもない被害者意識の当事者だったり‥‥するのかもネ。

 

 

私は「デジタルアニメーション」の状況が急激に悪化し始めた2005年以降について、正直なところ、強い被害を被ったと実感しています。新規参入した制作会社があれよあれよと言う間に良好だった環境を劣悪なものへと変質させてしまった‥‥と身をもって体験しました。

 

でもね。そのことで、意識まで被害者意識にはなりませんよ。被害者意識に陥っていたら、新しいアニメーション技術の開発なんて着手せずに、呑み屋でくだまいて愚痴をこぼすだけに終始していたでしょう。

 

2018年の現在に想うことは、新しい方向性を得るために、当時の被害や失敗はむしろ「運命の必須」だった‥‥ということです。

 

もしあのまま、事がうまく運んでいたら、私らは今でも「今までの作り方で十分だ」と思い続けていたかも知れません。作業内容を度外視した均一単価制度、人足を膨大に必要とする現場、それによる制作構造の破綻‥‥などを省みることもなく、根本的なシステムの病巣にメスをいれることもなく、ドンマイドンマイで誤魔化し続けていたかと思うと、背筋が凍る思いです。

 

業界の状況がマイナスにどんどん転んでいくことで被害を被ったり、一方で、その状況の劣化に自分らの体質を合わせようとして失敗したりと、辛いことは多かったわけですが、逆に考えれば、小さい頃からアニメを作りたくて熱中してきた自分が、今までのアニメの作り方に対して、自分自身のなかで決定的なピリオドを打つには、天地がひっくり返るほどの「大事件」が必要だったと述懐します。

 

未練がましく、被害者ぶって今まで生きてきたら、新しいフェイズには進めなかったと強く実感します。被害者意識に自分の能力を無為に費やし疲弊させてしまっただろうと思います。

 

 

記事「二度はやらないほうがいい、人生を大きく変える10の失敗」4ページ目の引用ですが、

 

被害者のフリをすることは、自分の力を放棄することにほかならず、そのデメリットは計りしれない

 

‥‥というのは、本当にその通りだと実感します。

 

例えば、ロスジェネとかゆとりとか、自分が挫折しそうになった時、都合よく世代論に乗っかるような人間は、ぶっちゃけ、頼りになるとは思えません。ロスジェネ世代でも、世代論に逃げ込むことなく、弱音を吐かない人は多いですし、技術的にも信頼できる人も多いです。「世代の被害者」を公言する人は、なによりもまず「自分の被害者意識の被害者」なのでしょう。

 

他人の世代は好く見える。‥‥隣りの芝生は青く見える。

 

ずっと、他人を羨み続けて、歳を重ねていくのは、果たして、自分にとって良きことか。

 

被害者意識で行動し続けることは、果たして、良き未来へ続く道なのか。

 

 

同じ記事ですが、「二度はやらないほうがいい、人生を大きく変える10の失敗」には、色々と示唆に富むことが書かれていますね。

 

「同じことをやって、違う結果を期待する」「すぐに成功や満足を得ようとする」「予算を考えずに進める」「大局的に見ない」「すべての人を喜ばせようとする」‥‥など、アニメ業界でも当てはまることは沢山あります。

 

「同じことをやって、違う結果を期待する」と少し似た教訓‥‥というか思考ですが、「過去と現在と新しい要素を足した単純な計算式を思い浮かべられない」過ちを繰り返す失敗もあります。SDからHDに移行した時と同じセリフを今も各所で耳にしますが、未来予測をまるでマジックか予知能力か妄想のように考える人は多いです。‥‥が、そんなの、足し算を理解してれば容易に未来像の予測はできるものです。

 

10という過去に、現状の10を足し、新しく出現したテクノロジーの10を足せば、未来は30になる。

 

‥‥‥小学生でもできる計算式ですヨ。

 

なのに、30なんてありえない、30なんて認めない、30なんて夢物語だ‥‥という人の、なんとも多いことよ。

 

 

昔を大切に想うのは善きことです。今を大切にするのも善きことです。しかしそれは、固執して盲目になることや、被害者意識に凝り固まることとは、全く無関係です。

 

本人の思考のバイアスがどのように作用するかがキモとなります。

 

 

どうせさ。地球なんて肥大化した太陽に呑み込まれる運命なんでしょ。科学の予測によれば。

 

それ以前に、自分たちの苦労して作ったアニメーション作品も、文明滅亡とともに、砂の中に消えます。

 

もっとそれ以前に、人生なんて100年生きれば上々。

 

どうせ死んじゃうんだもん。どう足掻いても。

 

どうせだったら‥‥‥、被害者意識などに捉われるのは、単純に、もったいないよなあ‥‥。

 

 


子供の将来

こんな記事を見かけました。

 

「子どもになってほしくない職業」の1位はぶっちぎりでYouTuber その理由とは?

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180320-01462289-sspa-soci

 

1位はぶっちぎりでYouTuberとのこと。100人にアンケートして59%だそうな。

 

しかし、11種の中から選べば‥‥との内容なので、大まかな傾向や目安でしかないでしょう。100人という人数も少ないように思いますし。

 

私は、「もし選択肢の中にアニメーターが入っていた場合、どんな結果だったろう」と思うと、ちょっと怖くなります。「ゲームクリエーター」が8%で3位だったので、もしかしたら、アニメーターもランクインしたかも‥‥ですネ。‥‥いや、確実に?

*しかし、なんだ。‥‥SPAの記事は「面白い」のが多くて、真面目な記事との境界線に戸惑いますネ。

 

記事の「精度」はともかくとして。

 

その昔、アニメーターの男女比は、圧倒的に男のほうが多かったように思います。アニメ制作会社のフリー原画マン(そもそも「原画マン=Man」ですもんね)のフロアには女性は1人か2人で、ムサい男どもの中に咲いた1輪のマーガレットのような存在でした。もしくは魔女(失敬)のような男勝りの女性か。

*ちなみに、仕上げさんは圧倒的に女性の方が多く、男性アニメーターと仕上げさんのカップルはとても多かったです。

 

今はアニメーターでも女性は多いですよネ。大学や専門学校でも女性の志望者が多いように感じます。‥‥私の知る現在の限りでは。

 

これには、いくつかの理由が想像できます。

 

 

  • 社会の変化で、女性の進出が増えた。
  • 男性が現場から減った。

 

 

ゆえに、男女比に変化が生じた‥‥と、「あくまで想像や憶測ですが」感じます。リサーチしたわけではなく、私の憶測でしかないので、その点はご理解のほど

 

じゃあ、なぜ、男が減ったように感じられるのか。

 

 

まずは、少子化があるでしょう。

 

私の世代は、子供はそこらじゅうを駆け巡って電柱に激突するほど、ウヨウヨいました。まさに「子供の時代」を私は生きました。いわゆる団塊ジュニアの世代のちょっと前です。団塊ジュニアは1973年をピークとするようですから、1967年生まれの私はちょっと前ではありますが、子供は多かったですヨ。

 

ゆえに、「長男は別として、次男、三男は、好きなことをやらせても良いだろう」という気風は強かったように思います。あるいは、長男がダメでも、次男がいるさ‥‥という「親の計算」はあったでしょう。

 

少子化の現代はどうでしょうかね。‥‥どんな時代でも「親の計算が子に影響する」のなら、「家を継ぐべき人間」を、あえてリスキーな方向へと向かわせるでしょうか。

 

 

次に、戦争なき社会です。

 

戦中に少年少女時代だった親、戦後の貧しい時期に少年少女だった親が、「せめて子供には自分の好きな道を歩ませたい」と思うことも多かったと思われます。私の親がまさにソレでしたからネ。父は実質上の戦争孤児、母は疎開で辛い少女時代を過ごし‥‥と、戦争に対する怨念感情は根深く、私の親に限らず、「戦争に対する反動」ゆえに「子供には好きなことを」と思う親は、今よりも確実に多かったと思います。

 

開戦間近、戦中、終戦直後に生まれて、おしなべて戦争に巻き込まれた親たちが子に対して抱く感情と、戦後70年以上が経過した現代の親が子に対して抱く感情が、「同じわけがない」のは誰でも想像できますよネ。

 

「自分の家のことも考えて将来を決めろ」と子に迫る親は、逆に昔より増えているかも‥‥?

 

 

そして、アニメ業界の「悪評」の情報共有です。

 

今の親御さんは、いくらでもネットで検索して、アニメ業界の色々な噂や現状を知ることができます。

 

一方、昔は調べようとしてもほとんど手がかりがなかったがゆえに、悪評など耳にすることもなく、実際に自分の子供が喰えてない様子をみて、「アニメ業界はこうだったのか」とようやく認識できたことでしょう。

 

 

少子化

 

親の感情

 

聞こえくる業界の情報

 

この3つが揃えば、十分過ぎます。

 

よほど子供の未来の希望に理解があって、子供の生活が苦しくても援助しようと思う親御さんでもなければ、アニメ業界に「家の跡取り」を送り出しますかね。‥‥私は、昔より格段に難しいと思うな。

 

 

私の世代は、

 

目方で勘定するほど、子供がいっぱいいた

 

戦中と終戦直後の貧しかった時代の反動

 

情報不足

 

‥‥の3つが揃うことで、アニメ業界に入れる男の数も多かった‥‥ように、私のあくまで私論ですが、思います。

 

 

一方で、「それって、ある意味、女性性にたいして、酷くないか?」‥‥とは思います。「女性は結婚して、よその家の人間になる」「跡取りになり得ない」という旧態依然の社会認識は根底にあるように思われるからです。

 

しかし、社会の認識や慣習、民衆のなんとない総意を、ここでどうこう言っても、制作現場の何が即応で変わるわけじゃないです。

 

むしろ、女性スタッフを継続的で最有力な技術戦力と捉え、結婚しようが出産しようが、高齢で引退するまでポテンシャルを発揮し続ける人材足り得るには、現場はどうあるべきかを考えたいですし、実践していきたいです。

 

男は女とは違う。女は男とは違う。生物的・性差的な差異があるのは承知していますが、こと、アニメーションの技術においては、基礎技術と応用技術の体得に差異は生じないと実感します。男より男っぽい描線や表現をする女性の方々を何人も挙げることができますもんネ。

 

 

 

話を戻して。

 

まあ、ここで書いたことは、私の推測や思索の域を出ない、「そうなんじゃないかな」的な分析です。

 

実際にアンケートをとって、「自分の子供がアニメ業界に入るのを良いと思うか否か」を集計すると‥‥‥‥‥‥‥‥、どんな結果に、なるんでしょうね。2018年の現代は。

 

 


感覚を数値で表すこと

ブログの記事を色々書いてて我ながら思うのは、私は小さい頃(小学5年だったと思う)からエレキギターを弾いて、兄の買ったプレーヤー寄りの音楽誌(機材記事や楽譜が載ってるタイプの)を読んでいた影響で、「ツマミの位置」=数値で「自分の好きな感じ」を表現することに、自然と馴染んでいたことです。

 

2018年の現代っ子ならいざ知らず、1967年生まれの私が、小学生でエレキなどを弾き始めたのは、自分の意思というよりは「家にエレキがあったから」=兄の影響なんですが、やっぱり、エレキギターや電気オルガン(電気でモーターを回して送風してオルガンの発音管を鳴らす)を弾いてたことは自分の「感覚」の大きな根本を成すように思います。‥‥‥でもまあ、絵を描き始めたのは小学校1〜2年なので、絵の感覚はもっと根深いですけどネ。

 

私がエレキを弾き始めた頃は、インベーダーゲームが日本で大流行しており、「自然界」系ではない操作系に、子供までハマり始めた世代だったとも思います。

*実は私はインベーダーゲームは当時やってなかったんですけどネ。‥‥小学校で「ゲームセンターへの出入り」が禁止されてたから。

 

当時に家にあったのは、グレコのレスポールのコピーモデルと、ELKというメーカーのアンプと、「D&SII」というマクソンのディストーションでした。

 

 

 

今、こうして、D&SIIを眺めると、「バランス」って何をコントロールしていたのか思い出せないんですが、色々とツマミの位置を変えて組み合わせて、一生懸命音を作ろうとしていました。ツマミが3つしかない‥‥と言っても、仮にツマミのボリューム幅を11段階だとして(0から10)、11の3乗=1331の組み合わせが存在しますから侮れません。まあ、実際は使う範囲は2〜10の9段階くらいなので、9の3乗で729通りくらいかな‥‥とは思いますけどネ。

 

エフェクターだけでなく、ギターのボリュームとトーン(といっても私は全て10のフルでしたが)、アンプのボリュームとBassとTrebleとファズ(時代を感じるね)が加わり、組み合わせのバリエーションは膨大です。

*ELKのアンプはトランジスタで、ボリュームの位置で歪みが変わってくることはなかったので、設定要素としては外しちゃっても良いとは思います。単なる最終の音量(マスターボリューム)でしかなかったから。

 

私が中学生になる頃には、CS01というヤマハのミニ鍵盤のモノフォニックシンセサイザーが三万円前後で発売され(破格でした)、友人が買ったこともあって、さらに「表現の数値化」に馴染んでいきました。シンセサイザーはまさに自分の欲しい音をアナログであれデジタルであれ「値」によって作り出す楽器でしたからネ。

 

CS01は今見ると必要最低限の構成のアナログシンセサイザーではありますが、自分の欲しい音を「より積極的」に「数値」で作るのに最適でした。

 

 

ちなみに、「アナログ」という言葉を、「データ化しない=アナログ」「電気や電子に頼らない=アナログ」「生身の人間=アナログ」という捉え方をする人はたまにいますが、非デジタルのディスクリートやICの電気回路による「アナログなデータ」「アナログ信号処理」は往々にして存在するので、「アナログの言葉の使い方がズレている」と感じることがあります。アナログでもめっちゃエレクトリック&エレクトロニックな事例は多いです。

 

話を戻して、私が中学卒業間際の頃は、いよいよ「デジタル」を体現するパーソナルコンピュータ〜廉価なMSXが発売される時代となりました。「人々のヒットビット」のアレです。

 

今では信じられないほどの超低スペックなコンピューターでしたが、私にとっては「ミュージックマクロ」という「シーケンサー的な」機能とFM音源との組み合わせにより、夢のような世界を提供してくれるコンピュータでした。‥‥が、やっぱり自分では買えず、友人のMSXを使わせてもらってマクロを打ち込んでいました。

 

そして高校を卒業してアニメーターになって、人並みチョイ以下くらいにはお金を稼げるようになって、「デジタルデータ」で楽器を制御する「MIDI」に突入します。MIDIに手を染めた最初の頃に買ったのは、TX81ZとMT-32とQX5でした。

 

 

 

 

MIDIは演奏をデジタルデータとして記録し(あくまで演奏の動作を記録し、音声をデジタル記録するわけではない)、再現することができました。

 

ノート(音=ドとかレとかミとか)を記録し、音の強弱や発音の長さを記録し(ppやff、レガートやスタッカート)、ペダル(ピアノのダンパーペダル)のオンオフを記録し‥‥と、人間が楽器を操る動作を細かく記録できました。

 

昔にもピアノロールという自動演奏システムがあり、ラフマニノフやマーラーが直に弾いて記録した演奏を再現して聴くことができますが、MIDIはピアノロールの現代版というべき機能を提供してくれていました。

 

MIDIはピアノの音色だけにとどまらず、様々な音色をマルチトラックで1系統16トラック(16チャンネル)まで重ねることができたので、頑張ればオーケストラ規模の楽曲も、当時の音源でショボい音ながらも作ることが可能でした。

 

でもそれはすなわち、大量の数値で音楽の表現を具現化することであり、絶え間ない「数値責め」に対して、「数値返し!」で負けずに応酬していました。

 

 

こうやって、書いてみると、自分は結局、コンピュータに馴染むべくして馴染んだ‥‥とも言えますが、当然のことですが、絵なり映像なり音楽を作っているときは、使っている道具がなんであろうと、数値なんて具体的には意識していません。信号のレベルオーバーなどを数値でイメージすることもありますが、頭の中が数値で動いているわけではないです。あくまで、生身の感覚です。

 

「数値ありきで表現している」のではなく、「表現を数値に置き換えている」のです。

 

「言い方が逆なだけじゃん」‥‥と、言葉遊びのようになってしまいますが、重要なことです。

 

表現が目的、数値は手段

 

‥‥という、「逆だったら絶対にNG」な極めて重要なこと‥‥なのです。

 

ですから、私は正確には、

 

表現のためなら、手段の数値化も厭わない

 

‥‥というだけです。決して、コンピュータのために映像を作っているのではなく、映像のためにコンピュータを使っているに過ぎません。

 

 

人には、目的よりも手段のほうが重要‥‥という人もいます。それはそれで構わないと思います。

 

鉛筆で絵を描くことこそ、自分の最愛の行為‥‥と言う人がいても、批判すべきことではないです。例えばショパンのように、ピアノという絶対的存在ありきで音楽を作り続けた作曲家もいます。

 

手段を優先しても、人の心を打つ作品は作れましょう。表現を極めさえすれば、です。

 

 

私は結果物に重きをおく人間だ‥‥というだけです。手段を変えるのは、さほど苦痛ではないです。必要なら率先して手段を変えます。

 

一方、商業作品制作においては、手段よりも結果のほうが重んじられますし、商業世界においては「時代性」も必要です。ゆえに、手段に固執するのは、あまり良い選択とは言えない‥‥とは思います。個人作家で特定のファンが多くいてビジネスが成り立つ‥‥という場合でもない限りは。

 

 

 

表現の数値化は、深刻に考えるとドツボにハマりますし、軽く考えるとハズしてダメだし、中々手強いです。でも、結局は自分の脳内のビジョンと「答え合わせ」すれば良いだけですから、キーフレーム1つ1つにビジョン・イメージを反映させていけば良い‥‥だけです。

 

でもまあ、表現の数値化を「ソフトウェアの設定した範囲」に合わせるのは、正直、面倒ではありますネ。

 

あと、現状のソフトウェア&ハードウェアの限界もあります。MIDIの強弱(ヴェロシティ)は0-127とショボいし、音源の表現力もよほど高い音源を買わなければ生の楽器には近づけません。映像においても、生の人間の視覚ダイナミックレンジは、現行のテレビ放送なんて目じゃないほど、鋭敏で繊細です。sRGBやRec.709のモサっとした濁った色彩で、よくず〜っと今まで我慢してきたと思うほどです。

 

なので、私は、4K60pHDR、8K120pHDRなんて聞くと、夢がどんどん広がるんですよネ。

 

 

 

 

 


記憶容量と言語学習

人間の記憶容量に限界があるのか、人間は自分自身をゼロから設計して作ったわけではないでしょうから、確実なことは言えないとは思いますが、医学研究上は「限界はあるらしい」です。つまり、記憶容量は無限ではない‥‥ということみたいです。

 

記憶を無理に詰め込むと、記憶に混乱が生じるらしいです。新しい記憶を収納するために、昔の記憶を廃棄しにかかる‥‥ のが、医学上の経験で知られているとか。

 

それは凄く納得。

 

おもいあたるフシ‥‥というか、経験があります。

 

面白がって、色々な語学をかじってみた時期があるのですが、その頃から格段に物忘れが酷くなりました。自分でも手に取るように、記憶の「本棚」がどさどさっと崩れて散らかった感覚を実感し、正直、恐怖でした。

 

ただ、記憶が無作為に混乱するのではないみたいで、ティーンの頃の記憶はあまり混乱しておらず、20〜40代の記憶が散らかった印象です。小さい頃に覚えた戦闘機のシルエットと最高速度は今でもすぐに思い出せますが、ここ十数年の記憶はかなり乱れました。

 

最近、「チック・コリア」の名前が思い出せなくて、どわあああああ、劣化してる、確実にジジイになってる‥‥と焦りました。「フレンズ」という曲が聴きたくてApple Musicで検索しようとして、チック・コリアの名前が思い出せなかったのです。ジャズピアニストの大御所を‥‥です。

 

 

なので、言語学習は、現実の語学だけでなくプログラミング言語も、若いうちにやっておくのが肝要です。

 

どうせオジサンオバサンになれば、個人の差こそあれボケてくるんですから、若いうちのできるだけ早期に、語学は根付かせておくと良いと思われます。

 

プログラミング言語はいっぱい種類はありますが、基本的には大して変わりません。

 

"ABC" + "DEF" + ".psd";

'ABC' . 'DEFF' . '.psd';

"ABC" & "DEF" & ".psd"

 

みんな「ABCDEF.psd」の結果となります。連結演算子の違いくらい、すぐに読み解けますよネ。表面の違いよりも、根底の構造を若いうちに理解しておけば、色んな言語もそんなに怖くないです。プログラム言語は暗記する語句が少ないのも特徴ですし。

 

でも、リアルな読み書き喋りの言語は、暗記物が多いし、発音もあるので、20代からできる限り着手したほうが良いですネ。

 

私は40代になって面白半分に、ロシア語とドイツ語とエスペラント語(焼肉&寿司バイキングみたいなチョイスだ)に加え、英語の覚え直しをやろうとして、自分でも呆然となるくらい物覚えが酷くなって、今でもその後遺症に悩んでいます。20代だったら、面白半分でも可‥‥だったんでしょうけどネ。今ではすっかり忘れてしまって、自分の名前の「Hisashi」をキリル文字では「Xucacu」のように書くとか、断片しか覚えていません。イクラ(魚卵)はイクラ(икра, ikra)‥‥とか、苗字まで男女で変わる(スキーとスカヤ)とかネ。

 

 

人間の寿命が、200〜300年あれば、いろんな国の言語を覚えて、いろんなプログラム言語を覚えて、いろんな画風のキャラを描いて、いろんなメカを描いて、色んな作品を作って‥‥と夢も広がりますが、現実的には、人生でやりたいことがやれる一番イイ時期はたった50年です。

 

そういった意味では「人生50年」は今でも変わっていないのかも知れませんネ。

 

 

 


どうせなら

日々、アニメの制作業務を粛々とこなし続け、どこかの誰かが作業環境や待遇を向上してくれるのを待つのは、それはそれで人生の選択肢の1つでしょう。

 

「いつか、お金が上がる」のを期待しつつ、年月を積み重ねる。

 

「いつ」「どのくらい」作業環境や報酬が向上するのかは全くの未知なので、ただひたすら、待つ、待つ、待つ‥‥。

 

でも、ごく普通に考えて、待っている時間をもっと他のことにも使ってみても良いと思います。「待ち時間」の使いかたの工夫です。

 

「雨乞い」している時間を他の何かに使って、別の選択肢を増やそうと考えるのは、自然な流れです。

 

しかしながら、雨乞いの日々で不満を抱え続けていても、「次の仕事の話が来る」と多くの人は「自分はまだ必要とされているし、生きていける」とばかりに「不満が一時的にマスク」され、「別の選択肢」「新しい可能性」を見つける「大変なこと」からは遠のいてしまいます。

 

多くの人が、現状に強い不満を感じながらも、現実的にはその不満の多い作業を受注し延々と作業する日々に甘んじます。

 

そして、日々の作業の中で、「何か別の方法を見出さなければ」と危機感が再燃し‥‥という、同じ繰り返しです。まるでビューティフル・ドリーマーのごとく。

 

当座の安心感と、当座の危機感の、無限ループ。

 

 

いっそのこと、干されるくらいのことがあったほうが、新しい可能性や選択肢を得るきっかけが生まれます。

 

「現在の自分の世界をブッ壊す」のはキツいことですが、自分の経験からも、そう思います。

 

干された屈辱感と挫折と忍耐、干された際の不安、干された状況を打開するための知恵、干された時に生まれる別路線の人脈、干された状態から起死回生への実質的な段取り‥‥など、日々の業務に塩漬けされながら生きるだけでは得られない経験と知的人的財産を獲得できます。

 

 

でもまあ、それも人それぞれです。「干されるのはイヤだ」という感情の中で、どのように行動するかは、その人間の根本が作用するでしょう。

 

干された時、ある人は「これからは、どんなに理不尽なことでも言うことを聞くようにしよう」と過度に従順になるかも知れませんし、ある人は「こんな仕事、辞めてやる!」と感情的にもなるかも知れません。

 

「仕事があるだけ有難い」と物乞いのような気分に自分を貶めて卑屈になることもあれば、「下衆な仕事などこちらからお断りだ」とどんなにイキがっても実際に全く仕事がなければ日々の諸経費を払えずに電気水道ガスも止まることもあるでしょう。

 

じゃあ、どうするんだ。‥‥ということです。

 

あまりにもあっけらかんとした答えで恐縮ですが、「極端な行動に出ずに、表向きは中庸でいく」ことでしょう。全ての可能性を留保し、時と場合によって、使い分けることです。

 

新しい可能性を探って準備することは、今までのことを一切拒絶することとは同義ではありません。同時進行が可能です。

 

「自分を干した状況と人間が憎い」‥‥だなんて、アホ丸出しです。感情に支配されているようでは、新しい可能性をモノにすることなど到底不可能。

 

キモチだけじゃダメなのです。キモチは原動力ですが、エンジン単体だけで車は走るまい?

 

それに、干されたら干されたなりに、新しい人間関係も新しい信頼関係も生まれるものです。捨てる神あれば、拾う神あり。

 

でもまあ、最後は自分が頼りなのは正直なところ‥‥ですけどネ。拾う神も、なんでもかんでも拾ってくれるわけじゃないですから。

 

 

 

冒頭に戻って。

 

待つだけの人生か。色々と動きまわる人生か。

 

人それぞれとしか言いようがないですが、どちらも、その当人の行動に相応の人生が展開されます。

 

消極的な人には、消極的な人生。積極的には人には、積極的な人生。

 

まあ、私はどうせ生まれ出てやがて死ぬのなら、自分の美しいと思うビジョンを、できるだけ美しく表現して映像に結実したいと思いますから、待つだけの人生ではなく、「ソレを可能にすべく」動き回る人生を選択しますネ。

 

 



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