二人称欠如

ツイッターって、他者とテキストでやり取りできるので、あたかも二人称のような関係を一時的にではあれ築けたと思いがちですが、結局のところ、三人称のままに留まるように思います。

 

サバサバして後腐れない人間関係は、「現代的」で身軽で都合が良いんでしょうネ。

 

しかし、こと、ものつくり・お話作りにおいて、一人称と三人称しか人間関係を持ち得ない人間が、二人称が頻繁に出てくるストーリーを創作する場合、二人称欠如の状態は強い影響を作品表現に及ぼすと感じます。

 

俺とお前、あなたと私、君と僕‥‥という二人称の関係性を、一人称と三人称だけの想像で描こうとしても、そりゃあ、嘘っぽいし、話も薄くなるし、ストーリー上・ドラマトゥルギー上で不整合も生じましょう。

 

絵においても、一人称の願望だけで二人称を描こうとすれば、相手の心の描写よりも、髪型や体つきに固執した絵も描いたとしても、当然は当然です。

 

まあ、突き詰めに突き詰めて、本人の願望が高次元に昇華すれば、それはそれで常人には及ばぬ完成像を作り出すこともありましょう。ただし、ガチに孤独のまま、そこまでいける人は相当少ないとは思いますし、かなり個性的な絵を描く画家でも、現実世界では普通にパートナーがいたりもします。あの神秘的なモローにもデュルの存在がありましたしネ。

 

 

 

ツインテールとかポニーテールとか、髪型に固執するのって、何か閉鎖的な当人を感情=一人称の内側を感じることがあります。「ポニーテールの日」があると聞いたことがありますが、髪型に執着するって何だろう‥‥と考えたことがあります。

 

まあぶっちゃけ。

 

好きになった人の髪型が、好きな髪型じゃん?

 

二人称たる身近な人間を前にすれば、過去自分が漫画やアニメで好きになった髪型など、どこかに吹き飛んでしまうもの‥‥だと思います。

 

 

 

現在はツイッターなどSNSをスマホで気軽に閲覧できるため、三人称的存在をさも身近な二人称的存在のように感じますが、実際は「一人称の自分の感情」と「三人称のテキスト」の中で、結局は一人遊びに終始している‥‥のだとすれば、何か虚しい気はします。

 

まあ、それが日常の優先度の低い位置ならば良いですが、アニメ作品制作においては、お話を作り、キャラを作るので、二人称欠如は「人物描写の欠如」にも繋がります。二人称で人を愛せない人間が、いくらシナリオの中で愛を叫んでも嘘っぽくなっちゃうもんネ。

 

絵を描くにしても、ネットに上がっている他人の上手い絵を模倣するばかりでなく、身近な人間の生の仕草やふとした感情の機微を感じ取ることも必要でしょう。

 

表面上は人が苦手でも、心の奥では人との繋がりを求めている‥‥のだとすれば、ツイッターのような手段で自分の欲求を誤魔化すばかりでは、いつまでも人の心は作品には描けない‥‥かも知れません。

 

 

 

ふと、ニュートン「死とは何か」巻末の養老先生のコラムを読んで、思いました。

 

二人称における「死」は、一人称にとって「究極の繋がり」とも思えます。それが人間だけでなく、猫や犬であっても。

 

 

 


サーバ整理

今から十数年前、自宅でサーバを構築してLAN/WANで活用するのが流行ったことがあります。自宅のWAN側のIPアドレスを複数のDNSに紐づけて、ルータの特定ポートを開放、外から自宅のサーバに接続する‥‥という具合です。バーチャルホストを設定しておけば、1つのIPでも、複数のサイトに分岐して活用できます。

 

2019年のご時世、この「自宅でサーバ」を構築しなくても、レンタルサーバは安いし、Cloudは発達しているしで、同じようなことは可能です。

 

もちろん、自宅で一線を退いたマシンを使うことで、安価に自前のサーバを組むことは可能ですが、ポートを開放するということは、予期せぬ侵入者の危険に晒されていることにもなり、いまどきはよほど腕と情報に自信でもなければ、わざわざ負のリスクを背負いこむこともないでしょう。レンタルサーバにしておけば、そもそも公開しても良いものだけをサーバにアップしていますし、仮に攻撃されるとしてもレンタルサーバ会社のマシンですし、Cloudとレンタルサーバの料金は自分を危険から守る「保険料」のようなものです。

 

私は随分前からポートは全て閉じており、LANだけでサーバを稼働しています。

 

ただ、忙しさにかまけて「自宅でサーバ」時代のまま数年放置していました。サーバのマシンはMac mini Serverで2011年のモデルなので、かなり昔のマシンが動き続けていたことになります。Wikiサーバの最後の更新を確認すると2013年なので、‥‥あれまあ、6年も放置していたのですネ。

 

 

 

ということで、休日に整理。

 

Mac mini Serverの外付けHDDを全部外して、他のMac mini(以前、紙で4Kをやろうとしていた頃に使っていた)に移して、Wikiサーバだけが動作するマシンにしました。

 

現在、私の自宅で通電しているサーバのHDD容量は、17TBくらいです。でも、中身が満タンに入っているわけではないので、12TBくらいだとは思います。

 

モスボール保管しているdisableなデータや、タイムマシンのバックアップを含めると、もはや何TBあるのかは計算するのも面倒です。表計算で管理してはいるものの、中身のデータ容量までは把握しておりません。

 

企業のサーバではないので、のんびりとしたものですが、古いデータを遡ればPC98のマルチペイントで描いた絵まで発掘できますので、個人的には大切なものです。ちなみに、データは最低コピーを1つ、厳重なデータはコピーを2つ作って違う場所に保管し、天災や火事などの物理的損傷に耐えうる対策をしています。‥‥まあ、日本に巨大な隕石が落下して日本列島が消滅したらダメですけどネ。

 

 

 

紙に比べれば飛躍的に保管のコストは抑えられますが、外部のHDDにデータを移すだけでは全くもって不完全でもあります。

 

例えば、After EffectsのAEPを「アーカイブ」と称してせっせと保管する人々もいますが、20年前のAEPがサードパーティのプラグインも含めて完全に当時のまま開けるなんて奇跡に近いです。‥‥ということは、今保存しているAEPも何年後かには開けないデータになるのは、想像に難くないですネ。

 

機材を丸ごとモスボール保管するか、TIFFなどの枯れたフォーマットで保管する手間は必要です。でもまあ、それでも、紙よりは断然保管は楽です。

 

紙はねえ‥‥保管の維持費が半端ないですからネ。そこらじゅう、ダンボールだらけになって、制作会社の廊下は臨時倉庫さながらです。しかも、カビを防止したり、過度な乾燥などによる劣化を抑えるために、紙にとって快適な室内環境が必要となります。

 

もし私が自宅でも紙のまま作業していたら、今頃、紙に部屋が占拠されて押し潰されているでしょう。実際、紙の素材はかなり捨てましたし。

 

HDDの定期的な買い替え・乗り換えにコストがかかる‥‥って言っても、紙を保管するのに比べれば100倍マシです。日本都市部で一番コストが高いのは、「空間」ですからネ。

 

 

 

自宅でファイルサーバといっても、余った昔のMacと何世代か前のOSのファイル共有だけのことですから、2020年代以降も宅内サーバは動き続けると思います。

 

 


ゲーム障害

‥‥という言葉が、最近はあるらしいですネ。

 

要は、ゲームに没入するあまり、日常の様々な物事や行動に大きな悪影響が生ずる‥‥ということみたいです。

 

【心を取り戻せ ゲーム障害との闘い】

https://www.tokyo-np.co.jp/hold/2019/gamingdisorder/list/190608.html

 

ゲーム依存は病気 WHO、国際疾病の新基準

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45280950V20C19A5MM8000/

 

「ゲーム障害」を過度に心配してはいけない理由

https://wired.jp/2019/06/03/video-game-addiction-facts-statistics/

 

 

スマホなどの普及によって、家のテレビやパソコンの前に座らなくても、気軽にどこでもゲームができるのも、ゲームに没入できる状況を助長しているであろうことは、ちょっと考えれば解りますわな。

 

 

 

私はスマホでゲームをすることもないし、家でもほとんどゲームはしません。

 

しかし、昔はゲームに熱中したこともありますし、今でもプレイし続けているゲームはあります。

 

なぜ私はゲームをしないかというと、ゲームをする時間が無い‥‥というのが第一の理由です。ゲームをする時間があるのなら、もっと他のことに使わないと寿命がどんどん足りなくなるからです。非常に明快な理由。

 

第二の理由は、今流行っているゲームの内容が、私がやりたいゲームとは合わないので、単に興味が湧かないのです。これも同様にシンプルな理由です。

 

おそらく、ゲームが出来る時間の余裕ができたら、私はまたゲームをしたいと思うでしょうし、実際、フライトシミュレータをやりたいと、随分前から考えています。

 

つまり、ゲームのプレイ時間を自他ともに許容できる人間は、ゲームが出来るんだと思います。

 

私にはゲームに時間を使っている余裕はないので、ゲームは出来ないのです。

 

「いや、違うよ。余裕の有無に関係なく、生活が破壊されても、ゲームに没入してしまうのを、ゲーム障害と言って‥‥」というのは、言葉ではわかるんですが、実情としては「本当には生活が破壊されてはいないから」ゲームが出来るのです。記事を読むに、結局は誰かが助け舟を出しているから、当人はなりふり構わずゲームに没入できるんでしょう。収入も途絶え、ネットも端末も死んで、生活インフラも途絶えれば、ゲームなんてできなくなりますもん。

 

ものすごくシンプルなことですが、結局は当人の状態の「写し鏡」ですよネ。

 

 

 

ゲームから学べることはあります。私は大戦略とシムシティをプレイしていなかったら、もしかしたら今でも構造的に物事を考えない人間のまま‥‥だったかも知れません。

 

しかし、ゲームに限らず、どんなに自分のためになる本を読んだり体験をしても、次に自分のアクションが伴わなければ、現実世界での進展はありません。

 

マップをクリアしたからといって、自分の人生が現実世界で開けることはないです。

 

あくまでゲームはゲーム。

 

 

 

ゲーム障害か。

 

私自身の考え、あくまで私の感想ですが、‥‥‥‥人生の時間を、ゲームのプレイ時間に多く消費してしまうのは、もったいないと思います。もし、そのプレイ時間の半分でも、他の物事に使えるのなら、自分の人生は変わってくると思えるからです。

 

ゲームの中の世界と、現実世界は、「世界が違う」ことを認識ることはまず必須です。

 

同時に、ゲームの世界での体験は意外に現実世界でも応用できることが多いことを認識することも必須です。

 

私は、大戦略とシムシティをやって、良かった!!‥‥と正直に言えますし、そのゲーム体験をどのように自分の仕事に活かせるかも、自分の今までのキャリアを引き合いに出して語れます。

 

一方で、パズルゲームやシューティングの類いは、あまり仕事には活きていないことも、冷静に語れます。私の経験を踏まえた上で論理的に。

 

つまり、猿のマスターベーションのように延々とハマって抜け出せないゲームもあれば、ふと思い立って現実世界へ新たな思考と共に踏み出せるゲームもあるのでしょう。悪い酒があるように、ゲームにも悪いゲームがあるとは思います。

 

もちろん、良い酒と同様、良いゲームもあるでしょう。

 

 

 

例えば大戦略やシムシティは、現実世界では決して1つの都市や軍隊を作れることはないですが、ゲームの中だけでは、都市や軍隊を作り、都市を経済を発達させたり戦争に勝利して終結させることができます。

 

私が感じる「ゲームの素晴らしい特徴」です。都市を更地から作っていく体験なんて、誰もできんでしょうが、ゲームなら(ゲームなりのデフォルメはあれど)体験できます。

 

ゲームの中では最強の軍隊を作ることもできれば、第二次世界大戦の歴史を変えることもできるし、ハイテクと緑が共存する理想国家を作ることもできます。

 

 

美術館も中央図書館もオペラハウスも博物館も動物園もコンベンションセンターもあって、空気は綺麗で水は澄んで緑に溢れて、医療と教育は充実し、犯罪率も低く、地下鉄や高架の鉄道、国際空港やテレビ局やハリウッドスタジオがあって、ハイテク産業が発達して、核融合炉まであって‥‥と、どうせ「都市」を作るのなら理想都市にしてみたいよネ。

 

教育と医療にはお金がかかりますが、そこをケチると住民の不満は増えます。緑のない灰色の街、水と空気の汚い街にはハイテク産業は寄り付きません。高度な医療と教育を実現することは、住民の生活のみならず、商業と工業をハイレベルに発達させることにも繋がります。

 

住民の「民度」を上げるためには、まず何に着手すべきか‥‥なんて、シムシティのようなシミュレーションゲームでしか体験できないでしょう。

 

戦略シミュレーションで言えば、子供のプラモ感覚で戦闘機と戦車だけを大量購入しても戦争には勝てないことを知ります。また、無策な正面攻撃一本槍では大量の損失が出ることも解ります。奇策ほど周到な情報収拾と綿密な侵攻作戦計画が必要だと悟ります。

 

ゲームでこれらを疑似体験しないばかりに、現実世界で大失策による大敗を喫することもありましょう。

 

もしかしたら、私がアニメ業界と映像業界で生き残ってこれたのは、大戦略とシムシティで経験した構造的戦術論を実践したことも、生き残れた大きな要素のように思います。作業場での知識と経験だけでは、構造的に物事を俯瞰視して分析する「癖」が身につかなかったでしょうネ。

 

ゲームが役に立つことは大いにあります。

 

 

 

ゲームを「障害」にしてしまうか。

 

それとも、「疑似体験」にして「現実」においてプラスに活かすか。

 

気晴らしだけのゲームに一生を消費してしまう「愚」は避けたいものですネ。

 

 

 

書を捨て町にでよう‥‥ではないですが、

 

ゲームを止め世界にでよう

 

‥‥です。

 

ゲームに没入したまま、一生は終われないです。

 

 


植物

大きな唐辛子が赤く熟しました。

 

Apple Pencilと比べると、その巨大さがわかります。

 

 

 

小さな種の1粒が育って、花が咲いて、こんな大きな実がいくつも生るのですから、植物はすごいですネ。考えてみれば、人間も同じです。

 

育て方が悪ければ、決して実など生ることなく、枯れ落ちます。

 

単に栄養だけ与えても、病気や虫害に冒されて死滅することもあります。

 

同じ場所に撒かれた種は、全て平等にすくすく成長することはなく、群を抜いて成長する個体の陰で光が遮られて、生育せず花も実もつけずに終わる個体もあります。

 

園芸をやってると、自然って残酷だな‥‥と思います。

 

 

 

植物に必要なのは、土、水、光、そして風、です。

 

園芸の初心の頃は、風を意識できないのよネ。一生懸命、土と水だけ与えて、育ちが悪いと日当たりを気にします。風の存在に気づくことはないです。

 

植物を植える間隔を密集させると風通しが悪くなり病気にかかりやすいです。しかし、風通しが良くても、風が細菌を運んでくることもあります。風が強すぎると、葉が干からびることもあります。

 

風は難しいですネ。

 

 

 

植物だけでなく、人間にとっての「土、水、光」、そして「風」も、日々、気にしたいものです。

 

 


掛け値無し

最初から一攫千金を目論んで、アニメーターになる人なんているのかな。

 

小さい頃からアニメが好きだ。アニメが描きだす空想の世界、アニメの世界に近づきたい、同化したい。キャラが動くのを自分で描いてみたい。

 

アニメーターになりたいと思う心は、掛け値無しです。

 

 

 

前回書いた、「封筒に50円玉1枚」のプロ報酬だって、当時の私は嬉しかったのです。

 

だって、アニメを作り出す一員に初めてなれたのですから。

 

美談にするつもりは全くないですし、むしろその後の強い「くさび」となるような「50円」でしたが、偽らざる当時の気持ちは「嬉しい」という感情のほうが優っていました。

 

掛け値無しだったのです。

 

 

 

私が中高生の頃は「うる星やつら」が全盛で、私も「ラムちゃん」を描いてみたいと思ったものです。‥‥私が描かせてもらえたのは動画時代に描いた「温泉マーク」だけで、私が原画として仕事を受注できるようになる頃は、うる星やつらのブームは終わってしまい、今日の今日までラムちゃんは仕事では描いたことがないです。

 

*iPad Pro(とApple PencilとConcepts.app)でラムちゃんを描いたお。本当はもっと「当時っぽく」寄せて綺麗に描きたいですが、とりあえずマーカーっぽいペンにて。

*現在、ガチガチに硬派でリアル系の絵を描くベテランも、ラムちゃんを描いてみた昔は‥‥あるでしょ?

 

 

ラムちゃんはともかく。

 

アニメへの憧れから入った人間も、いつしか技量の向上とともに描く絵が変わってきます。

 

つまり、人は成長し、描く絵も変わってきます。

 

皆が憧れだけで仕事を続けるわけではなく、技術と経験の蓄積とともに描ける絵、描きたい絵が変わってきて、アニメの表現はどんどん広がっていきます。

 

生きていればこそ、自分も全体も、発展の可能性が生まれ、豊かになります。

 

 

 

商業作品のアニメーターは、掛け値を無くすと、どんな気持ちが残るのでしょうか。

 

僕の、俺の、私の、描いた絵が動くのを、見て!

 

お金が稼げなければ生きてはいきません。綺麗事では済まない現実があります。

 

でも、何もかも削ぎ落とせば、残るのは「自分の描いた絵が動くのを見て!」です。

 

 

 

夢もあり、希望もあり、ときには野心もありましょう。

 

しかし、ある日突然、命が途絶えてしまったとしたら。

 

未来への夢が、打ち切られてしまったのだとしたら。

 

 

 

もし、「残留思念」(幻魔大戦みたいだけど)が残るとすれば。

 

 

 

たとえ、その人間、その人々の存在は消えても、その人たちが作った作品は存在し続け、観続けられて、愛され続けるのなら。

 

描いた人間は嬉しく思うでしょう。

 

掛け値無しに。

 

 

 

 

 


めばえ

自分は何が得意なんだろう。‥‥その「何とないけれど、とても重要な、命題」を自己認識するために、5〜25歳の20年が誰に対しても用意されているのだと思います。特に映像娯楽産業の類いは、学校の勉強では教えてくれないことばかりが必要になりますから、それこそ10歳前後で何らかの「兆候」が現れないと、5〜25歳までの期間を単に「行事を消化する」20年にしてしまいかねません。

 

特に5〜9歳あたりの「欲求の芽生え」は、実はものすごい重要度をもって、当人に運命的とも言える強い影響が生じる‥‥と、つくづく感じます。

 

勘違いしないでおきたいのは、既に5〜9歳の子供が、自分の未来を実感している‥‥というわけではなく、自分の未来を左右する「思考と行動の基本」が芽生えるということです。

 

今でも覚えていますが、私は小さい頃「肉屋さん」になりたいと絵に描いたことがありました。お肉が好きだったので‥‥。全然自分の未来を予測できていませんよネ。私に限らず、子供の頃に考える「実際の職業」なんて、誰しも、大きく的を外していることでしょう。

 

子供の頃に芽生えるのは、自分がどのように物事を考え、かつ、実際にどのように行動するか‥‥という「光や風や影」のような「手では掴めない」けれど実際に「大きな役割を担う何か」です。

 

成長する間に、色々な出来事と遭遇し、表面上の性格は大きく変動するかも知れません。しかし、当人の体験から得た知識や経験則よりももっと深いところにある「原理」は、5歳くらいからの10年未満で形成がほぼ完了してしまう気がします。

 

 

 

打算などかなぐり捨てたフィールド、計算や損得勘定では割り切れない、自分の「行動の不思議」、もっと遡れば、自分の「思考の不思議」が、幼い頃の自分に深くリンクしていると思うのです。自分ですら「ミッシング」した思っているリンクでも、実は見えないところで恐ろしく太く強い信号線で繋がっているのでしょう。

 

大人になってから、後付けで絵を好きになろうとしても、結構キツいと思うんですヨ。

 

自分の中の原理が「ソレじゃない」と自動判断するがゆえに、結果、1週間で1枚くらいしか絵を描かなくて、それでも「絵を描けるといいことがありそうだから」みたいなスケベ根性だけは大人になってしまった自分はもたげていて‥‥というのは、まあ、未来には繋がらないですよネ。

 

絵を描く、映像を作る、お話を作る‥‥というのは、やっぱり、自分で「作る」ことの喜びを、自覚なしでも「体や脳の奥で」知っているからです。

 

キャラクターを描く、キャラクターを動かす。キャラクターの人物像に迫る。情景を見る。色彩や陰影を感じる。水や炎の動く様や音を感じる。何かを綺麗だと思う。美しいと思う。

 

これは極端に言えば、自分の愛し方、そして、自分の愛され方に、深く繋がっていると思います。

 

愛する。愛される。生まれ出でた時から必要なプロセスが、どのように積み重なっていって、幼少の自分を形成したかは、考えてみれば重要極まりないことが解ります。

*「愛」とは世間的に複雑で微妙で曖昧な言葉ですが、実はそんなに難しく考えることもないシンプルな内容だと最近は判ってきました。そのことについてここでは風呂敷を広げませんけど。‥‥それに「愛の定義」を自分で見つけられない時点で、人から言葉だけ聞いても理解できないものでしょうしネ。

 

 

 

ただ、そうした自分の原理と向き合っているだけでは「お金は稼げない」ですから、その原理から湧き出るいくつもの潮流を「活用」して「仕事に変えていく」のは大人になった自分です。

 

逆に言えば、打算で色んなものを欲張っても、自分の原理とそぐわなければ、さらなる活用や応用、発展は難しいと思います。「これに噛んでおけばイイコトがありそうだ」なんて、いつかどこかで息切れします。

 

人付き合いは、仕事に合わせて変えられるでしょう。しかし、人の愛し方は、仕事のノウハウでどうこうできるものではないです。しかし、当人の「愛し方・愛され方」がビジネスの表面にも滲み出ることはあるでしょう。

 

それを考えれば、お役所手続きだけでは完結しない、人と人との繋がりで形成されるビジネスにおいては、当人の原理がプラスにもマイナスにも作用することは、理屈で考えて「当然」と言えます。

 

絵の面白いところは、たとえ人付きあいそのものが苦手でも、絵で自分を表現できるところ‥‥でしょうネ。絵を介して、他者と繋がる‥‥という「絵という言語」でコミュニケーションできるのが何とも面白いです。絵を介して、打ち解けていく‥‥ということもあるのです。

 

絵に限らず、人それぞれ、自分の原理に基づく言語を見出しているのでしょう。‥‥いや、見出していない人もいるのか。そもそも、自分の原理を見つめなくても生きていける人は、世の中には結構多いですもんね。

 

絵はそういった意味では、自分の原理から大きな影響を受けるものなので、絵を描いて生活していくというのは、「自分を追い詰めやすい」職業を選択した‥‥と言えるのかも知れませんネ。

 

深夜のアニメを見て軽い感想を述べる程度なら、アニメファンのままで良いです。しかし、アニメを職業にして、しかもクリエイティブに関与するのなら、自分の「芽生え」の部分に立ち戻って、「自分は何なのだろう」という様々な自己分析と自己批判が必要になるのでしょう。

 

 

 


捨て身ではなく、攻めで。

存在意義、存在理由の確認は、特に20代中頃の若い年頃には確かめたくてしょうがないものです。なぜかって、自分に自信を持ちきれていないわりに、周りからはそこそこ頼りにされているので、本当に自分に価値はあるのか、知りたいからです。

 

「俺はもう辞める!(=ここから出て行く)」

 

‥‥というのは、私も若い頃に何度も思ったものです。なにせ、アニメの作画の報酬は昔も今と変わらず安かったですもんネ。フリーランスの原画マンでしたから、アニメ会社からは何の保証もなく、尚更でした。

 

このセリフには裏があって、

 

「俺が辞めると困るでしょ」

 

‥‥というある種の「恫喝」が含まれています。周囲の「そんなこと言わないでよ。辞めないでよ。」という引き止めを見越しての発言‥‥というわけです。「そんなに思い詰めて‥‥」と周囲の罪悪感も引き出せるかも知れませんネ。

 

こうした「辞めてやる」戦法は、即効性は強いものの効果は一時的で少なく、さらには「いつか辞める人」というマイナスイメージを周囲に植え付ける結果ともなります。「辞めてやる」戦法は、身軽な20代までしか使えない、リスクの大きな「捨て身」戦法なのです。

 

 

 

ではどうすれば良いかというと、様々な価値で自分を武装するところから、20代の若気の至りからの脱出が始まります。

 

1個の武器では弱点や急所だらけなのを、徐々に増強していくのです。例えば、絵を描くにしても、アニメの線画ばかり10年描くのではなく、着彩したイラストやコミックなどにも挑戦すべきでしょう。風景画を描けるスキルも有効です。

 

しかし、20代の頃は「自分の武器の少なさ」を客観的に認識できませんし、特に20代前半には時間的制約(=自分の基礎を作ることに時間を要すため)から複数の武器を持てるほど経験を積み重ねられません。

 

ゆえに、徐々に、かつ、確実に、「自分を1つではなく、複数の価値で支える」取り組みを開始するのです。

 

 

 

原画マンは、作監、キャラデザと作画の「出世コース」が用意されてはいますが、誰もがその出世コースに乗れるわけではないですし、一生キャラデザインで食っていける人は極めて僅かでしょう。

 

アニメ撮影に至っては、撮影の次は、撮影監督で頭打ちです。

 

要は、1つの役職、1つの工程、1つのセクションで自分をカテゴライズすると、早々に「昇進の限界」が生ずるわけです。

 

例えば、10人の撮影スタッフが居て、その内8人が撮影監督‥‥とか、如何にもバランスが悪いですよネ。残りの2人は、まさか撮影監督に「空き」が出るまで、どんなにレベルアップしても撮影監督になれなかったりしてネ。

 

 

 

お盆休みの高速道路みたいに、同じ道に大量の自動車が殺到するから大渋滞が起こるんですよ。昇進コースに大量の人間が殺到すれば、状況は真っ赤っかです。

 

 

 

なので、様々な価値で自分を武装することが必要になります。複数の足場で、複数のアプローチで、立体的に状況を作ることで、満員御礼大渋滞の昇進コースで順番待ちをすることなく、違うコースで自分の人生を展開できます。

 

しかし、武器の1つ1つが実戦で使い物にならなければ、これまた逆効果です。「色んなものには手を出しているけど、どれも使えそうもない中途半端なヤツ」みたいに認識され、一向に仕事の幅など広げていけません。

 

色々なモノに手を出しただけでは、新しい武器になるどころか、何も獲得できずに人生を無駄に消費するだけです。一定以上を踏み込むからこそ、今までとは違う何かを掴めるのです。体験学習や体験コースで幅が広がるなら、そんな簡単なことはないわけで、「あいつは狂ったのか?」と思うくらいに夢中に熱心に踏み込んでこそ、掴んで自分の武器にできます。

 

なので、20〜30代の体力があるうちです。夢中に熱心に‥‥を支えるのは、体力そのものです。

 

 

 

「辞めてやる」戦法一本槍だった自分からいつしか変わって、新しい戦法〜立体的な戦術と戦略で自分の行動計画を立案できるようになるのは、複数の武器で武装する習慣が身につくから‥‥とも言えます。

 

 

 

色々な武器が身についたら、いよいよ「ひとりエアランドバトル」の開始です。自分一人でどんなに小規模でも、「陸海空」的要素を動員した戦術は、様々な場面で有利に展開できるでしょう。陸がピンチなら空から援護すれば良いのです。

 

もう「辞めてやる」「出て行く」と啖呵を切らずとも、自分の「存在意義」を自分自身で確信できる自分(「自分」が多いな)に変わっていることと思います。

 

自分に与えられた仕事だけでなく、自分から攻めにいく仕事の「ビジョン」も、常日頃からイメージできるようにもなります。

 

 

 

俺は今まで、1000カット、1万カットもやったんだ! なぜそれを評価してくれないんだ!

 

いえいえ、周囲はちゃんと1000カット、1万カットやったことを認識しています。

 

違う言い方をすれば、1000カット、1万カットやったこと「だけ」を認識しています。

 

他者の認識を変えていくには、あたりまえで当然のことですが、他者の認識が変わることを実行すれば良いのです。同じことを繰り返すから、周囲は同じ認識のままなのです。

 

新たな広がりを得るのは、新たなことをまず自分自身で開始することです。

 

自分の中の要素を、点から線へ、線から平面へ、平面から立体へ、そしてその立体に時間軸を追加して「4次元」的に組み立てていきましょう。

 

 

 

1点に集中して生きるのも人生です。‥‥であるならば、立方体を羨ましがってはいけません。1点でとどまってどう生きるかを考えるべきです。

 

私は1点集中では生きていけないようなので、立体を時間軸で動かして、生きていこうと思います。

 

 

 

今は、iMac 5Kがあり、iPadもあるからな。

 

この「時代的事実」はあまりにもデカいです。

 

 

 

iPadは立体的に活動するのに、とても使い勝手の良い、優れたツールです。アニメの線画だけに終始する道具ではないです。自分の「絵が描ける」という能力を、アイデアと工夫次第で、自分自身を横にも前にも上にも拡張できます。

 

令和は色々と大変そうな時代ですが、一方で、テクノロジーが味方になってくれるので、なんだか差し引きゼロで、あとは個人の推進力次第。

 

時代がマイナスに作用しないだけ有利!‥‥とも思う今日この頃です。

 

*一番安いiPadとApple Pencil、Procreateや「コンセプト」Appがあるだけで、自分の画力を元手に、色々な拡張ができます。自分の能力を「一点」に閉じ込めるのではなく、「マイ・ビッグバン」で爆発させましょう。

 

 


人身

今日、中央線の立川駅で早朝に人身事故(飛び込み自殺とのこと)、昼に総武線で同じく人身事故(やはり飛び込み自殺らしいです)で、今日の中央・総武線は、大混乱でしょう。

 

中央線は昔から、それこそ私が中央線沿線で暮らしたり仕事するようになった20〜30年前から、人身事故‥‥というか飛び込み自殺は絶えなかったのですが、朝と昼に2回も発生したのは聞いた覚えがありません。

 

ツイッターで「駅員に怒鳴っているオジさんがいた」と見かけましたが、それに限らず、駅員に怒鳴ってどうこうなる問題ではないのに、そのオジさんっていったい歳はいくつなんだろう、イイ歳して逆上して冷静な判断を失ったのかと呆れます。電車の中で赤ちゃんが泣いているのを怒るオジさんもいる‥‥との話をどこかで聞いたことがありますが、そのオジさんて自分が赤ちゃんだった時に公共の場所で一切泣かなかったんですかね。まあ、散々歳を食って生きてきたオジさんの中にも、道理も合理も状況判断も通じない馬鹿な奴はいるよ。

 

確かに、公共交通機関が停止するのは、予定が全て狂うので、困るは困るでしょう。

 

ただね‥‥。私は怒鳴る気持ちにはなれないです。どんな理由があれ、人が自ら命を絶ったのなら、例え見知らぬ人でも「そうか‥‥」と思うしかないです。

 

できることは、その後の予定に関係する諸氏に連絡することです。遅刻にまつわる手配をするだけです。人身事故をどんなに恨んでも、現実は現実なので。‥‥駅員に怒鳴ったからと言って、人身事故の事実や影響が消え去るわけがないです。

 

 

 

ちなみに‥‥。

 

私は高校生の頃、駅のホームで乗車待ちをしていて、斜めに立っていたオジさんが飛び込み自殺をしたのに「居合わせた」ことがあります。

 

斜めと言っても、私が立っていた位置のさらに進行方向側だったので、飛び込む瞬間も轢かれる瞬間も見ていません。

 

ただ、音だけは鮮明に覚えていて、電車が私の前を通過する少し前に「プア〜〜〜ン!!」と電車が鳴らしたクラクションの音、そして、オジさんの後ろで乗車待ちをしていたオバさんたちの「キャーーーー!!!」という悲鳴(=目の前で乗車待ちしていたオジさんが飛び込むのをモロに見たでしょうから、そりゃあ、叫びますよね)を、今でも覚えています。

 

私はそのオバさんたち(3人くらいだったと思う)の「お陰」で、オジさんの姿が隠れて、ふら〜っと飛び込む瞬間を見ずに済みました。オバさんたちが悲鳴を上げて、放射状に後退りするビジュアルは覚えています。私はその時、「クラクションを鳴らされたからって、そんなに大声で叫んで驚くなんて、オーバーだなぁ」としか状況を理解できませんでした。オジさんが飛び込んだなんて、思いもしなかったのです。

*ふら〜‥‥と飛び込んだというのは、オバさんたちが警察に話していて、伝聞で知っただけで、私からは全く見えませんでした。

 

その後、ホームの中途の位置で電車は止まり、すぐに駅員や警察が駆けつけ対応が始まりました。ホームと電車の間から覗くと、靴が転がっていたように記憶します。遺体も血も見えませんでした。‥‥面白がってあれこれ見る気にはなりませんでしたし。

 

しばらくして、停止していた電車がゆっくりとバックして動き出した際の「ギィィィィィ‥‥‥」という重く軋んだ音も覚えています。

 

1時間かそれ以上は電車は動かなかったと記憶します。40年近く前の、京浜東北線での出来事でした。

 

 

 

そういうわけで、私は駅の飛び込み自殺を、どうにも「迷惑のひとこと」で済ませられないのです。「あんなことがあったのなら、そりゃあ、電車もしばらく止まるわ‥‥」と思い出してしまうのです。

 

公共の迷惑だとか、許すべきだの、許さないべきだの、議論する気もないです。

 

「そうか‥‥自分で自分の命を絶った人が、またひとり増えたんだな‥‥」としか思い至れないです。そりゃあ、電車が遅れるのは困るけどさ‥‥、「言葉だけで議論」する気にはなれんです。

 

 

 

 


今年もあと半分。

今年もあと半分となりました。

 

今年前半は特にしんどかった。。。色々なことに追われて、セルフネグレクトに陥りそうな自分を抑制するので精一杯だったような気もします。

 

セルフネグレクトはわかりやすいサインですよネ。なので、自己検証は可能であり、自分自身で回避可能です。自分の机に、数日前のコーヒーの空き缶が置きっぱなしになっていれば、いかにも解りやすいサインですもんネ。

 

 

 

人の感情など「さじ加減」で「いい加減」で、ダメだと思う時は悪いことばかりをチョイスしてダメな理由で武装しちゃうし、良い時はなんでもポジティブな気分になって全てのドアが開放状態になります。

 

でも、実はそうした「躁鬱」の状態に身を任せるのは、どっちも宜しくないのですよネ。全閉も全開も実は危険状態です。プラスであれマイナスであれ、極端な挙動はそのあとに大きな反動が出るので、加速時も減速時も旋回時も、冷静な状況判断とハンドルさばきが必要なのだと思います。

 

 

 

日本のカットアウトは夜明け前で、日本には太陽はまだ昇らないのか‥‥と、悲観的な気分にもなりますが、冷静に状況を判断し試算すれば、必ず太陽は東から姿を現すことは解りきっています。地道に、イキらずに、クールに淡々と実践しつつ、水平線が明るくなるのを待てば良いです。いくら焦っても、日の出の時刻は決まっているのでしょうしネ。

 

欧米の「8:2の割合」は、やがて日本にも訪れるであろうことは、ひしひしと実感する毎日なのですから、状況が整った時にすぐに展開できるように今は準備を着々と進めましょう。

 

Toon BoomのHarmony Premiumは高いソフトですが、使いこなせばF-15E戦闘爆撃機級に、ドッグファイトで良し、対地攻撃で良しで、「未来の戦場の様相」が見えてきます。どんどん中身を知れば知るほど、未来のアイデアを「統合的」に思い浮かべることができます。

 

Harmony Premiumを「マルチロールファイター」として考えれば、高くて当然とも言えます。高ければ高いなりに、今までの常識では考えられなかった戦果をどんどん積み上げれば良いのです。

 

 

 

 

満ち潮もあれば、引き潮もあります。昼もあれば、夜もあります。‥‥それを考えれば、昼間の太陽だけでなく、夜の月をイメージすることも、大切なんでしょうネ。

 

コンピュータも考えてみれば、地球の物質から生み出されたのです。アナログとかデジタルとか言って分け隔てせずに、全て地球から生み出されたものと考えれば、アナログ信者にもデジタル信者にもならず、ニュートラルな思考が可能でしょう。

 

 

 

今年残り半分、オーバーヒートもオーバークールもしないよう、アクセルを最適に踏み込んで、まずは7月8月を乗り切ります。

 

 


沖縄戦

今日、6月23日は沖縄戦終結の日です。東京大空襲(3月10日)や、オラドゥール村の虐殺(6月10日)と並んで、沖縄戦の凄惨な戦闘は、のちの世界を生きる日本人なら覚えておきたい「戦争を抑止する記憶」です。

 

本当にそんなことが事実として起こり得たのかと、耳を疑う出来事の連続です。

 

戦争に反対して平和な日々を1日でも多く欲するのなら、戦争の過去の歴史を遠ざけるのではなく、むしろ近づいて様々な視点から自分なりに研究することです。

 

人間は、ここまで残忍になれる‥‥という事実を、自分の日々の怒りや憎しみの中に見出して、自分自身をまず抑止することを学ぶのが、まさに身の丈の戦争反対の実践です。野放図に怒りや憎しみや敵対心をバラ撒くことが自由ではあるまい。ツイッターはそういった意味で、戦争の根元を見るようです。

 

 

 

兵器を「人殺しの道具」で片付けては、何の進歩も教訓も得られません。

 

武士の刀や鎧が示す通り、武器は機能美に溢れています。その機能とは、敵を打ち倒し、自分が勝つ‥‥という機能です。

 

戦国時代の騎馬を「かっこいい!」と思うのと、「F-15」「10式戦車」をかっこいい!と思うのは、実は根っこは同じです。でも近代兵器の方が残忍だと思われがちですけどネ。

 

戦国時代の合戦のエピソード、現代兵器のスペックなど、兵器や戦争を知れば知るほど、「かっこいい」だけでは終わらずに「実際に殺されるのは絶対に嫌だ」と思うようになります。

 

国宝館に飾ってある歴史的な名刀でも、その刀で実際に切りつけられて野原に倒れ、半死のままカラスにつつかれて、12時間以上さんざん悶え苦しんだのちに死ぬ‥‥なんて、誰だって嫌でしょ?

 

 

 

沖縄戦のエピソードは、実際に民間人の居住区が戦域となり、戦闘に巻き込まれた点で、本土の戦争状態(空襲)とは大きく性質が異なります。

 

日本本土決戦、アメリカからみれば、オリンピック作戦とコロネット作戦〜ダウンフォール作戦が実際に発動すれば、沖縄と同じく、民間人を膨大に巻き込んだ惨劇が日本各地で繰り広げられたことでしょう。一説によれば、アメリカはダウンフォール作戦で50万人の米兵戦死者を概算していたとか。

 

*少年兵と呼ぶにも、あまりにも若い、あどけない少年たちが召集され、その半数が戦死したと伝えられています。

 

 

私は子供の頃から「大和と武蔵」とか「戦艦武蔵のさいご」とか子供向けハードカバー本を読んでいたので、戦史について興味があり、今ではKindleで様々な時代の戦史を読んでいます。

 

ゆえに、命のやり取りなど微塵もない、美少女キャラを飾り立てるだけの兵器は、私はどうしても馴染めません。兵器の非情なまでの「機能美」は認識するものの、おもちゃのように弄ぼうとは思いません。

 

「戦艦武蔵のさいご」をアマゾンで探してみたら、私が子供時代に読んだのと全く同じ本が、今でも古本で売ってました。

 

*かなりエグい内容です。銃弾を受けて腹が裂けて、腸がとび出た同期の兵の描写とか、文章で読んだだけなのに、今でもイメージが思い浮かびます。

 

 

沖縄戦といえば、特攻も盛んに実施された戦いでした。

 

子犬を抱いた17歳の少年飛行兵も、沖縄戦で戦死しました。写真中央の犬を抱いた飛行兵は、実際に特攻によって、米海軍のDD-630「ブレイン」に突入したとのことです。DD-630は沈没こそ免れたものの、戦域を離れ後方に下がり終戦を迎えました。

 

 

 

子犬のかわいさと少年の飾り気のない表情が、かえって辛く切なく、心に沁みます。

 

 

 

最近読んだ記事で、「日本が第二次世界大戦で戦っていない国はどこか」という質問を大学生(女子大)に質問したところ、ギャグではなくマジメに「アメリカ」と答えた学生が十数人いたとか。

 

太平洋戦争を中学・高校で習わずして、大学って合格できるんですネ‥‥。まあ、特殊な例とは思いたいですが。

 

正解は「.▲瓮螢 ▲疋ぅ帖´5譽熟◆´ぅーストラリア」の中で、「▲疋ぅ帖廚任后ドイツは同盟国で、日本が負ける前に、降伏して負けましたので、戦いようがありません。

 

ひっかけとしては「ぅーストラリア」か、日本が無条件降伏する寸前で攻めてきた「5譽熟◆廚任△辰董◆岫.▲瓮螢」と答えた女子大生は、まさに戦後も戦後、日本と仲の良いアメリカだけを知っている世代なんでしょうネ。

 

信じられない‥‥というよりも、これが「これから来る令和の時代」だと記事でも書かれていましたが、正直、私も驚きました。

 

さらに、学生は「どっちが勝ったんですか?」と挙手して質問したとか。

 

 

 

戦争の歴史を遠ざけても、戦争抑止には繋がりません。逆に無知になって、戦争をその場の雰囲気で安易に肯定しちゃうんじゃないですかね。

 

アメリカと日本が戦ったことすら知らない世代が、どうやって、戦争の悲惨さを認識するのか。

 

あちゃ−‥‥‥と言う感じで、少々考えが混濁しております。ホントに知らんのかな‥‥、日米戦争と無条件降伏を。

 

 

 

アニメが作れるのは、何だかんだ言っても、平和な世の中だからです。

 

しかし‥‥。

 

もしかしたら、戦争の悲惨な記憶が薄れて、無かったことになった時、戦争は再び起きるのかも知れませんネ。

 

 

 

 



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