雑感の雑感

前回、新しい技術による制作現場を形成する前段階として、ボトムアップ型が良い‥‥的な事を書きましたが、書いた後でいつも気になるので、注釈をば。

 

草の根でボトムアップ‥‥といっても、いついかなる時も「お人好しではダメ」です。「穏やかな人柄」と「お人好し」は似て非なるものです。

 

草の根で実績もなく、試験段階だから、「タダでも、やらせてもらうだけ、ありがたい」とか言ってちゃ、絶対にダメです。そういう人が未来を台無しにしてしまうのです。

 

業界や会社に期待して動き出すのをじっと待っても、ただ時間だけが過ぎて新しい事はできないから‥‥と思い、自分で自己研究をし、自主制作をしても、それを何らかの形で「実用化」する際は、キッチリ、十分な対価を要求しましょう。要は、いつでも「交渉の準備をしておく」という事です。

 

日本人は、自ら事を起こす‥‥という自己意識が低いのか、不必要に自分を謙遜しすぎる傾向があります。まあそれが「思いやり」などの良き国民性を形成しているのかもしれませんが、新開発、新事業といった側面ではマイナスに働くことも多いのではないでしょうか。個人レベルだと特に、です。

 

草の根の自己研究で自主制作をおこない、自己投資している‥‥ということは、自分に投資した「リターン」もちゃんと計算しましょう。これは鉄則です。


雑感

3DCGでアニメ絵風のキャラを動かすのでもない、動画何千枚何万枚を送り描きや中割りで動かすのでもない、描いた絵をコンピュータで動かすという方式に私がこだわっているのは、未来の映像フォーマットと制作コスト問題と表現限界突破の3つの柱があるからです。

 

何度も何度も繰り返し考えますが、「24コマで打ち止め」「多くの人足が必要なので沢山のお金がかかる」「セル画時代のアニメ絵から抜け出せない」という3つの大きな限界を、今までのアニメの制作方法と技術ではどうしても突破できないのです。

 

ちまたの魅力的な個人制作の動画を見ると、「描いて動かすって、やっぱりいいよなあ」と心が折れそうになりますが、絵を動かす楽しみと、世界規模の技術発展はどうにもシンクロしません。

 

中30枚だろうが、中100枚だろうが、平然と動かせる新しい技術が必要なのです。‥‥というか、中割りの中枚数という概念自体に、未来の映像フォーマットとの決定的な乖離・断絶があると思います。

 

絵を動かしてお話を作る‥‥というアニメが、時代の技術進化に取り残されて、アンティークな骨董品的存在に知らず知らずのうちに成り果てていく‥‥のは、正直、アニメを生業として30年も続けてきた私にとっては耐え難いものがあります。

 

プロ、アマチュアとも、絵を動かすのは楽しい事でしょうが、そのフィールドで立ち止まってしまうと、アニメ全体が竜宮城の浦島太郎になってしまいます。絵を動かすことに終始せずに、社会の技術の変移に、どのように沿っていくかを考えねばなりません。そもそもアニメを仕事にする‥‥というのが、近代社会の技術の移り変わりから生まれ出でたものなのです。鎌倉時代や江戸時代に野菜を作る事はできても、アニメは作れなかったわけですから。

 

浦島太郎を竜宮城もろとも、未来社会に移築してしまうこと、つまり、「24p on 60p」という方式は数年前からアイデアがあります。しかし、それでどれだけ上手くいくかは、テストしかやったことがないので、確実なことは言えません。でも、どうしても24コマの世界から出たくないのなら、ソレしかないかな‥‥とは思っています。

 

ただ、私の本命は竜宮城のカプセル化ではなくて、前述した通り、技術の発展にシンクロしてアニメの作り方を変える事です。

 

プロ、アマチュアに限らず、そろそろ、48〜60pや4Kを個人的な目標にしても良いように思うんですよネ。2DCGに限って言えば、制作現場と同等の機材が、個人でも手に入るんだし。

 

スマホを持ち、インターネットのSNSを使う人間が、まさか、「俺は昔のままだぜ」なんていうのでしょうか。自分にとって都合の良い部分だけ未来を取り入れ、都合の悪い部分は未来を拒絶しようとしても、結局は人間社会は一蓮托生、皆を呑み込んで未来へと流れていくのです。

 

 

 

それにさ‥‥、今までのアニメ作画技術、制作技術から脱しない限り、作業費の問題は解決しないと思うのですよ。電卓で計算すれば、誰でもわかる事じゃないですか。動画の単価が100円上がったところで、昭和から続く業界の問題は全く解決しないと思います。だからといって、アニメ番組だけが、30分枠の制作に1話4〜5千万円も制作費を獲得できるんでしょうかネ。‥‥無理ですよネ。もし仮に1話数千万‥‥なんて話になったら、深夜に追いやられている現状がもっと悪化して、そもそも発注自体が激減すると思いますし。

 

今まで、L寸1枚のピザを16人で分けていたので、皆の取り分は1/16。それじゃ生きていけないから、せめて一人1/4は食べたい。ということは、16人だから、ピザは4枚必要だ。つまり今までの4倍のお金が必要だ。

 

‥‥う〜ん。では、その4倍のお金は誰が出すのでしょう。制作費は言うがままにアップするものでしょうか。むしろ、今の傾向は、どんどん安くなっている‥‥とすら、知り合いから聞き及びます。今や週100本とも言われるアニメ制作本数に、景気良く湯水のようにお金が飛び交うのでしょうか。

 

制作費に限界があるのなら、高効率化と小人数体制しか有りえないです。L寸1枚のピザを16人で分けるのではなくて、4人でわけるようにする、制作技術の再発明が必要なのです。

 

「アニメの作り方はこうだ」って決めつけて、作画に関する技術改革をほとんどしてこなかった‥‥のではないでしょうか。

 

 

「いつか誰かが道を開いて、自分たちを導いて助けてくれる」なんて、実際にはないですよネ。

 

自分を救う道は、自分で切り開いていかないと。

 

自主制作といえど、4Kや60pで作ってみたら良いのです。今までの業界の経緯からして、何か物事が変わっていくのは、トップダウンではなくて、草の根、ボトムアップだと感じます。

 

私もやってますから、皆さんもどうですか。


フィルム時代

事実上「アナログの聖域」だった作画が、今では急速に「デジタル作画」へと移行している雰囲気を、日々の作業の中でひしひしと感じます。

 

「紙と鉛筆」を「アナログ」と呼ぶ言い方も「何だかなあ‥‥」とは思いますが、それよりも、「フィルム撮影台が懐かしい」という論調を「今更になって」聞くようになって、何とも都合の良い話だな‥‥と思います。

 

フィルム撮影台が急速に姿を消していった2000年代前半に、フィルム撮影台を惜しむ声って、作画の現場などでは耳にしませんでした。むしろ「デジタルアニメーション」に関わっていた私の方が、「皆でフィルムを捨てる選択をしてしまって、本当に良いのか?」と当時言ってたくらいです。以前にも何回か書いていますが、私はフィルム撮影工程こそ経験してはいませんが、35mmライカ判でアホほど写真を撮りまくっていたので、フィルムには深い愛着があったのです。

 

私は、作画一本槍で「絵作り」を学ぶ方法は採らず、カメラのファインダーごしに絵作りを学ぶこともしました。線で区切ることに夢中になりがちな作画感覚から抜け出して、明暗によるレイアウト、色彩によるレイアウトで作図することを、カメラから多く学んだのです。毎週2回はフィルムを現像に出し、月3〜5万円くらいは平気で現像代に消費していました。

 

そんな私がなぜ「デジタル」を使い始めたかというと、アニメのフィルム撮影台には多くの制限事項があり、せっかく獲得した多様な作図法を実践することが困難だったからです。決して、フィルム嫌いではなく、むしろ、制限の中で多彩な表現を実現する撮影監督さんを敬愛していました。私が「デジタル」を選んだのは、実現したい映像を得るための実質的な手段だったのです。

 

1990〜2002年頃までの私は、絶えずコンパクトフィルムカメラを携帯しており、お気に入りは「Nikon mini」(AF600QD・1993年発売)、好きなフィルムはコダックのPantherでした。フィルムカメラをよく知る人は、この組み合わせでどんな写真が撮れるか、大体想像がつくのではないでしょうか。まあ、Pantherは高いリバーサルフィルムでしたので、安価なFUJIの400を混ぜながら‥‥という感じでした。ちなみにメインの一眼レフはEOS100QDとEOS1で、所有するカメラはニコン、キャノン、フジ、ミノルタなどメーカー混在でした。私は「ニコン派かキャノン派か?」なんて、全くどうでもよく、撮れる写真(=結果物)の方が重要だったのです。フィルムも色々なメーカーのものを使い、イルフォードやアグファなども使っていましたが、定番はフジかコダックの25〜50の低感度のカラーネガ・ポジでした。(ぶっちゃけ、アニメーターでのキャリアを積んで、金回りが良くなってくると、高価なポジ(リバーサル)ばかりを使えるようになりました。‥‥わかりやすいネ。)

 

当然の成り行きとして、フィルムの階調特性やグレインにも敏感になりました。35mmスチルカメラの撮影経験からくる知識が、「デジタル」を使ったコンポジット技術にふんだんに活用できたのは幸いでした。また私は、69の中判カメラも使っていたのですが、35mmと69中判では作図の概念を変えないと、フォーマットのポテンシャルが活きないことを学び、それも「デジタル」のアニメ「撮影」、つまりコンポジット技術に活きています。

 

そして2016年。今頃になって、巷で「フィルム撮影台が懐かしい」だなんていう言い草をたまに耳(目)にしますが、私が思うに、正確には「自分が熱中した時代の時代性が懐かしい」のだと思います。決して、フィルムそのものが懐かしいわけではなく、フィルムが活躍していた頃の「時代性」が懐かしいのでしょう。自分の馴染んだ時代が過去のものへと過ぎ去っていく寂しさを、「フィルムが懐かしいという論調にすり替えている」ように思えます。

 

そして、なぜ、今頃になって懐かしいと思うのかというと、当人のメインである紙と鉛筆の地位が脅かされ始めたから‥‥だと思います。他人事だった「デジタルへの移行」が当人の身に及んだことで、「シンパシー」が生じたのでしょう。

 

過去、昔‥‥というのは、学ぶべき対象であって、懐かしんで殻に閉じこもる道具や方便ではない‥‥と、少なくとも私は感じます。

 

スマホやネット、深夜でも金を下ろせるATM。ゴーストや色ズレのない綺麗なテレビ。ネットで注文すれば翌日に商品を手にできる通販。社会環境はいち個人の感情などお構いなしに変わり続けます。そしてそのいち個人は、適度に環境変化をちゃっかりと利用したりもします。

 

フィルムが消えていったのも、アニメの制作工程が徐々にコンピュータベースへと移行するのも、要約すれば、社会の動きの一部です。‥‥だとするならば、その動きが生み出すエネルギーを、どう上手く使うか‥‥ですよネ。

 

人間、10年経てば、10歳、歳をとるのです。そんなことをウジウジ考えていても、状況が良い方向に向くとは思えません。重要なのは、フィルム時代を懐かしんで昔は良かったなんて思いふけることではなく、フィルム時代のあれやこれやから未来へ繋がる何かを学び取ることでしょう‥‥ネ。


徐々に4K60pHDR

プレステ4の新型の広告メールがヨドバシから来てたので、ちょっと覗いてみたら、上位機種「PlayStation 4 Pro」は私が度々このブログで取り上げている「4K60pHDR」仕様のようで、まあ、プレステで普及が飛躍的に促進されるとは思いませんが、地道に足場を整えつつある状況を感じます。ストレスだらけだった3Dテレビと違って、4K60pHDRはシンプルに「人間とって快適」なので、コンテンツの「作り手」「送り手」さえ手慣れてくれば、案外、普及は円滑に進んでしまうのかも知れません。どんなに映像フォーマットが高品質でも、コンテンツがなければお話にならんですもんネ。

 

普及には何はもとより、テレビ本体の価格が重要になるわけですが、2016年9月現在はアマゾンですら13万円ちょいで50型の4K60pHDR仕様のテレビが買えたりもします。

 

つまり、今後はいよいよ「4K60pHDRのコンテンツ不足」が際立ってくる‥‥とも言えそうです。

 

その点、アニメ業界は何とも難しい状況です。何せ、まともに2Kのコンテンツすら作るのが難しい状況です。深夜のアニメを見ていて、なんか絵が雑だなあ‥‥と感じる作品があるかも知れませんが、それは、作画など制作工程における素材時点で絵が荒いことも原因の1つですが、1280〜1600ピクセルの横幅の映像をアップコンして像がボケていることも、アニメの映像がモッサリして「雑」に見える原因の1つです。

 

「フリッカーフィルター」という名目で像を故意にぼかすことがありますが、多くの場合、「ぼかし過ぎ」の傾向にあり、要点を踏まえた映像処理をおこなえば、像をシャープに保ったまま不快なチラツキを抑えることが可能です。なぜチラツキが発生するのかも研究せずに、全体を安易にぼかす方法を採り続けていては、今後の高詳細映像には対応できません。アニメ業界各社各グループの技術水準はかなりのバラつきがあり、2Kすら未だに持て余すような状況も珍しくありません。

 

アニメ業界的には、4K云々以前に、「まず、ちゃんとした2K作品を作れるようになる」ステップを踏まないと、次なる高品質映像フォーマットの市場には参入できない‥‥のかも知れないです。

 

とはいえ、今のアニメ業界から感じるのは、「高画質は面倒で厄介」という雰囲気です。つまり「高品質映像フォーマットに対するモチベーションがとても低い」ということです。

 

これは金銭的な理由もあるでしょう。しかし、一番の理由は「高品質映像フォーマットにおいて、アニメで何をしたら良いか、想像できない」のが実際のところだと思います。想像できないから、アクションのしようもない‥‥ということですネ。

 

でもまあこの辺は、映像を作る自分らで「目指す場所」を探っていくしかないでしょう。未来をどのように思い描くまで、周りに頼るわけにもいきません。

 

 

4K60pHDRが徐々に馴染んでいく今後の社会において、「追い詰められていく」と感じる人もいれば、「チャンスがどんどん近づいてくる」と感じる人もいるでしょう。

 

私‥‥はもちろん、どんどん4K60pHDRなどの高品質フォーマットが普及して欲しい側です。アニメ作品作りが楽しみなだけでなく、実写の映像でも4K60pHDRは楽しみです。ホームビデオ(iPhoneなどの録画機能など)も4K60pHDRが標準になって欲しいと思います。

 

その時々の記録メディアの性能に由来する、ある種の「味」の良さは、私も大いに感じるところではあります。フィルムのグレイン(粒状感)は今でも深い愛着があります。しかし、それはまさにその時々、その時代の味であって、新しい時代には新しい記録メディアの味を味わえば良いのです。

 

 

とはいえ、やっぱり色々大変そうな、4K60pHDR。

 

いくつもの技術的難題、そして運用的難題が立ちはだかることでしょう。特にHDRは、一番普及が遅れている要素であり、ハードもソフトも、そしてそれらを扱う人間も、「ひとかわ」むける必要があるでしょうネ。今後、HDRがどのようにグラフィック・ビデオ関連を巻き込んでいくのかを注目しています。ぶっちゃけ、iMac 5Kでは4K60pまでは実現できているので、あとはSDRの100nitsからHDRの1000〜3000(規格上は10000までも)nitsへ拡張される「べき」コンピュータモニタ周辺の動向に期待しています。

 

でも、そんな難題の憂鬱を払拭するほど、4K60pHDRの絵は綺麗ですヨ。4Kも60pもHDRも単品じゃダメだったんだな‥‥ということを認識します。3つ合わさってこそです。8Kより、まずは4K60pHDRを駆使できるようになりたいですネ。ポスプロや放送機器展など4K60pHDRのデモが見れる機会があれば、見ておくことをお勧めします。

 

色々大変そうだけど、同じくらい喜びも多い、4K60pHDR。

 

細かいニュアンスが描写される高詳細の画面、ひっかかりがなく滑らかなモーション、肉眼で見たときのように抜けが良く透き通った色彩。そんな映像のフィールドで、手塩にかけた映像が各家庭で鑑賞されることを考えただけでも、未来の作品制作におけるモチベーションが高まります。

 

わかりやすく言えば、粗雑な乱造を繰り返すグループには4K60pHDRは向かい風となり、高品質な仕事内容で身を立てようとするグループには追い風となってくれる‥‥ということでしょう。

 

今までのアニメ業界標準の制作方式や因習にがんじがらめになっていると、とてもではないが対応できそうもない4K60pHDR。‥‥つまり、今までの作り方を変えれば、道も開ける‥‥ということですネ。

 

1000nitsが再生可能なBVM-X300。428万円なり。ファイルフォーマットやコーデックをとっとと決めてもらって、早く、コンシューマ市場にもHDRが浸透して欲しいものです。iMac 5KのHDRモデルが出たら良いなあ‥‥。


お金がないから云々

お金が無いからカレーばっかり作って食べ続けてうんざり‥‥みたいな話を最近耳にしましたが、それって、半分は本当かも知れませんが、半分は言い訳のようにも聞こえます。「お金が無いからカレーばかり」なんて言い草を聞くと、当人はそもそも、料理を作るのがあまり好きじゃ無いでしょ?‥‥と思うのです。

 

例えば、ニョッキ。‥‥じゃがいものニョッキなら、恐ろしく安上がりで、「木曜日はニョッキ」と言われるくらい、腹持ちも良いです。

 

スマホを持っていれば、ニョッキの作り方なんて、簡単に検索できます。でも、カレーばっかり作って子供らに食わせているような人って、ニョッキを作って皆に食べてもらって喜ばせようなんて、想像する事自体が希薄なのかも知れません。ゆえに、カレーくらいしかローコストの料理が思いつかないし、考えようともしない‥‥のかも。

 

もちろん、レストランのシェフが作るような調理法、つまり、生クリームやゴルゴンゾーラを使うような内容だと食材が高価になりがちですし、じゃがいもを裏ごししたり小麦粉をふるいにかけたりするのも手間がかかって面倒です。

 

でもシェフなみに作ろうと思えば、ニョッキに限らず何でも手間はかかるし、切れ味の鋭い包丁だって欲しくなります。そんなことをしなくても、十分、美味しい料理は作れます。

 

ニョッキは、裏ごしとか、ソースにこだわらなければ、さして難しい料理ではありません。特売で安売りしている時にじゃがいもを買っておいて、テキトーに3〜5個洗って(皮付きでも食べられるくらいに)フツーに茹で上げて熱いうちに皮をむき(多少皮が残っていても気にしない)、マッシャー(100円ショップので十分)でできるだけダマにならないように潰し、薄力粉と卵1個と塩少々を混ぜ合わせて耳たぶくらいの固さにネタを仕上げ、あとは熱湯で茹でるだけ‥‥で「あらごしニョッキ」は完成です。

 

あとは、オリーブオイル(2016年現在は、イタリアやスペインの輸入オイルが安く買えます)、水で戻した乾燥にんにくスライス、テキトーな唐辛子的なモノ(一味唐辛子でもかまわない)、そして塩で、ペペロンチーノと同じソースを作り(ニョッキを茹でたお湯でのばす)、ニョッキとあえれば主食としても通用する一品の出来上がりです。

 

カレーと白米の組み合わせよりも安上がりじゃ無いですかね。下手すると。

 

さらに、ペペロンチーノのソースをやや多めに作っておいて、半分にソースを分けて、30gくらいの申し訳程度のひき肉を加えて、ケチャップで赤く色付けして酸味と甘さを加えて、「トマトソースもどき」を作ってあえれば、それだけで2つの味のバリエーションのニョッキ「ペペロンチーノ味」「トマトソース味」が作れます。

 

要は、美味しいものを食べたい。美味しいものを食べた時の幸せを分かち合いたい。‥‥という、「ものつくりの根源的な欲求」とも言える衝動が、当人にあるかないかが大きな分岐点だと思います。

 

「作り手」のそうした潜在的な衝動が起点となって、同じお金の使い方でも、無感動で食べ飽きるような料理を作ってしまうか、「そんな少ない食費だとは思わなかった」と言わせるくらいのバリエーションに富んだ料理を作るのか‥‥が、最終的に決まってしまうのかも知れません。

 

料理ってさ、高価な食材を使えば無条件に美味しくなるわけでもないじゃん。

 

たしかに食材にお金をかければ、食材調達上の制約がなくなり、美味しい料理を作れる「可能性」はアップしますよネ。しかし、作り手が「美味しいものを作って食べる幸福感」に疎ければ、その「可能性」は調理時にどんどん失われていきます。食材にお金をかけられないのなら、なおさら。

 

同じ金額であっても、その先の「可能性」の分岐はいくつも残されているわけです。‥‥ですから、お金が無いから、カレーしか作れない‥‥というのは、状況を誇張しすぎのようにも思えるのです。子供の頃にお母さんが色々な料理を作ってくれて、美味しい思い出がいっぱいあるけど、実は、当時はかなりビンボーだったのを大人になって知った‥‥なんていう話を知人から聞いた事もあります。

 

 

これってさ‥‥、アニメーション作品制作にも、かなり共通する話‥‥ですよネ。

 

「こんな映像が見たい」「であるならば、その映像を作り出さねば」‥‥という根源的な欲求も希薄なまま、単に惰性で制作フローを流すのだとしたら、「美味しい」=「美しい」映像に仕上がるはずもないです。

 

「惰性のカレー」のような映像制作をしないためには、とても素朴な事なのですが、「美しい映像が見たい」「かっこいい映像が見たい」という映像の作り手の「根源的な欲求」を保ち続けることが、何よりもの(あえて言うのがこっぱずかしいくらいの)必須条件だと思っています。

 

 

コンピュータを活用したアニメーション制作は、作画をも巻き込んだこれから先の未来が本番。

 

どのような未来のアニメーション映像を思い描いているのか。あるいは、思い描けていないのか。

 

人ぞれぞれ、制作グループそれぞれが内包する「根源的な欲求」が如何なるものか‥‥で、未来の映像制作における可能性の分岐も左右上下するのでしょうネ。


ペンタブ、雑感

前回の記事を書き終えた後で、ハタと気付いたのは、要はIntuosがそのまま液タブになってくれれば良いんだよな‥‥ということです。

 

Intuosという名前に変わる随分前から、Wacomのペンタブを使い続けてきましたが、つまりは、あの薄さと取り回しの身軽さで、液タブを実現して欲しいわけです。「液晶ディスプレイをペンタブにした」ものではなく、「ペンタブを液晶にした」ものを。

 

現在の私は、もはやIntuosすらほとんど使わなくなってしまいました。これは単純に、ペンタブの作業内容がiPad Pro+Apple Pencilに喰われた結果です。After Effectsなどでどうしてもペンタブを使いたい時だけIntuosを使う程度で、「描き」の作業はほとんど全てApple Pencilで作業しています。

 

MacOSXからiOSへの行き来は、正直、ちょっと面倒ではあります。ただ、その面倒さは運用法を洗練させたり手際でカバーできますが、絵の「描き味」は道具そのもののポテンシャルに決定的に左右されるので、何か別のものでは代え難いのです。道具の優劣は、絵を描く時の効率と品質に深く大きく影響します。私がiPad Proを使う理由は、まさにそこです。

 

WindowsやOSXで動作するPhotoshopやClip Studioを、ペンタブを用いて作業できる。‥‥おそらく、現在のペンタブの一番の魅力はそこでしょう。違う言い方しますと、WindowsやOSX、PhotoshopやClip Studioをメインに用いずに、iOSとそのApp群で作画のフローを形作るのが難しい(と思われている)のでしょう。でも実のところ、ワークフローって、作ったもの勝ち、運用できたもの勝ちみたいなところがありますから、今まで鉄板のOSやアプリであっても必ずしもフローの主役になるとは限らないのです。コアレタスとAfter Effectsの過去を振り返れば、一目瞭然。‥‥つまり、WindowsやOSXで動作するだけが売り要素では、決して、未来は安泰とは言えません。

 

絵を描くだけなら、ホントに正直に書いちゃいますが、iPad Pro 12.9インチ+Apple Pencil+Procreateの方が格段に快適です。ジェスチャーに馴染めば、ペンタブ+PC/Macはおろか、使い慣れた紙よりも数段、作業性が向上します。最近のProcreateは、どんどん機能が追加されており、綺麗な線を引くアシスト機能も実装されましたし、6Kでもスイスイ描ける軽快さも相変わらず健在です。

 

逆に考えると、液タブや板タブが、iPad Proのようなハードへと進化すれば、状況は変わってきます。制作集団視点で考えたとき、iPadの一番の障害はApple IDの手錠をかけられてiOSの独房に閉じ込められていることですから、iPad Proに匹敵するペンタブの出現は、PC/Macの既存のシステムやインフラを自由に使えて、かつ、バツグンな描き味も手に入れることを意味するわけです。


ペンタブの技術がiPad Proと同等かそれ以上へと進化するのか。iPad Proの足場たるiOSやApp群が、より一層作業しやすくなるように進化するのか。

 

まあ、時代が進むのを見守るしかないですネ。機器メーカーの「中の人」の頑張りに期待するしかありません。そのかわり、優れた機器やソフトウェアが発売された暁には、それを使って今まで以上のクオリティの結果物を作るのが、作品制作者側の人間の役割です。優れたツールには優れた作品表現で応えるのが、宜しかろうと思います。

 

何もかもお膳立てが揃って作業環境が快適になる‥‥なんて、今までの経験からありえないことと解っていますから、その時々の技術社会のアレコレを取り入れて、ハードウェアもソフトウェアもコンテンツも共に歩んでいく‥‥のでしょうネ。


アラウンド50の逃げ切りイメージ

私は宇宙戦艦ヤマトとハイジの本放送が小学校1年の時、さらば宇宙戦艦ヤマトは小学校5年、銀河鉄道999とカリオストロの城、ガンダムが小学校6年‥‥と、まさに「アニメブーム時代の申し子」とも言える世代です。生まれる前からテレビアニメが存在した世代でもあります。

 

そんなアニメ世代の少年少女も今やアラウンド50。一方、アニメ制作は確実に「デジタル化」の道を辿り、数年前は「聖域」とも言えた作画工程にも「デジタル」の波はどんどん押し寄せています。

 

生まれた頃からアニメ制作のシステムが存在した世代にとっては、旧来のアニメ制作スタイルは「普遍的」なものに思えるでしょう。‥‥しかし、日本のテレビアニメの制作システムはたかだか50〜60年前後。人類の歴史の時間からすれば、ほんの束の間の出来事と言えます。(=ヤマトのナレーションみたいな口振りですが)

 

まあ、要は、いつ大変化が起きても、さして驚くことではないのです。人類が食事をしなくなった!‥‥というのなら天地がひっくり返るような大事ですが、アニメの作り方が変わった!‥‥というのは、「時代が変化したんだったら、普通じゃん?」と言われるだけのことです。

 

2〜3年のスパンではなく、20〜30年のスパンで考えてみましょう。私の同世代の人々の中には、旧来のアニメ制作スタイルを維持して、「自分が働いている期間だけは、今までのままの作り方で、逃げ切りたい」なんて思う人もいると思いますが、ぶっちゃけ、その「逃げ切る期間」は、あと何年なのよ?‥‥という話です。

 

60歳になったら引退して、悠々自適の余生を送る? ‥‥さて、それを可能にする「リアルな貯金」はどれだけ貯まってるでしょうか。現実から目をそらさずにイメージしてみれば、アニメ制作関係者のうち、どれほどの人間が60代で引退できるほどの貯蓄を有しているのか、「その難しさ」が思い浮かぶはずです。もっと言えば、何歳まで生きるつもりなのか、生きたいのか。

 

恐らく‥‥ですが、大した貯金も築けず、持ち家も持たず、助けてくれる配偶者も子もいないような境遇の場合、あと10年逃げ切って60代で引退するなんて、「夢のまた夢」なんじゃないですかネ。

 

自分のゴールはどこにあるのか。仕事を辞める時か。死ぬ時か。

 

どこをゴールに据えるかによって多少の増減はありましょうが、アラウンド50の人間は、この先20年間は現役で働き続ける状況が予測できるわけです。

 

20年‥‥ってさ、「逃げ切る」にはとても長い年月だよネ。

 

アラウンド40の人間ならば、30年はまだ残されているわけで、「逃げ切る」年月として、より一層、程遠い期間ですネ。

 

現在60代以上の人たちには、「どうぞ逃げ切ってください」と申し上げられますが、アラウンド40、50の人間は、「逃げ切る」なんてイメージは現実的に判断・評価して、未来予測が甘過ぎる‥‥と思うのです。

 

ヤマト世代以下のアニメ制作関係者は、逃げ切る・やり過ごす‥‥なんてイメージではなく、制作スタイルのフェイズを大転換するイメージが、生きていくために不可欠なんじゃないですかネ。

 

昔話は、雑談や酒の肴だけで十分。

 

今必要なのは、自分らの未来が消滅しないように、時代の技術変革に合わせて、巧妙にシフトしていくことです。その際、「逃げ切る」イメージを「現役」の人間が持ち続けることは、有害にすらなり得ます。何かにつけて「消極的」で「ネガティブ思考」になりますもんネ。

 

20〜30年も逃げ続けるなんてできません‥‥よネ。

 

「新しい物事なんて、もうそんな気力も体力もやる気も出ない」なんて言っても、一方で、20〜30年の長期間を逃げ続ける気力や体力はあるんでしょうか。

 

判りやすい分岐点としては、東京オリンピックが終わった後でしょうね。そこから、逃げ切ることを選択したアラウンド50と、もう一度生き直すつもりで新しいフェイズを選択したアラウンド50の差が、徐々に浮き彫りになっていくことと思います。


タブレットと他と

ここ数週間の間に自宅にて、45リットルゴミ袋10袋前後に及ぶ大量の紙関連を処分しました。もちろん、高解像度でスキャンして‥‥です。紙そのものだけでなく、クリアホルダやバインダ、ドキュメントボックスなど、紙を収納する事務用品や文具なども、大量に処分しました。思い入れのある筆記具は、大切にダンボールに格納した上で倉庫送りとなりました。

 

ふと周辺の状況を見渡すと、あの人もこの人も何気に「デジタル」を使い始めていて、ちょっと驚きです。私の現在作業中の作品においても、特に「デジタル作画」を謳った作品ではないにも関わらず、半数の原画マンが何らかの形で「デジタル」で作画作業を進めています。

 

私の密かな仮説〜状況は2年を3回繰り返して6年、6年を3回繰り返して18年で、ほぼ転換し周期する〜という分析に、どこか近い状況を感じます。現在の「使う人は使い始めているが、使っていない人は傍観している」という状況は、1998年前後の状態にかなり近いように感じられます。いわゆる「既視感」というやつです。

 

‥‥で、1998年前後に既に「デジタルアニメーション」に関わっていた人は、18年後の2016年においてもタブレットで作業してたりするので、状況だけでなく、人それぞれの行動も、18〜20年くらい前と似たカタチとなっているのは、とても興味深いです。18年前を振り返れば、2016年以降の状況を暗示しているようにも思います。

 

私は‥‥といえば、2台目の13インチiPad Proの導入を考え始めています。私だけでなく、iPad Proを使い始めた人は、その作業の快適性ゆえに、2台目、3台目のタブレットが欲しくなるようです。あくまでMac/PCが主幹‥‥という人でも、マルチディスプレイとペンタブを兼ねたiPad Proの「融通がきく」性能は、仕事場と自宅作業場の両方に常設したいと感じるみたいで、私だけが妙にiPad Proにハマっているわけではないのを知って、ちょっと安心しています。

 

ただ、移り変わりの激しいコンピュータ関連機器ゆえに、現行のiPad Pro 12.9インチは9.7インチに比べてやや見劣りする面が出てきており(まだ発売してから1年経ってないのにネ)、とりあえずはAppleの恒例イベント後の10月まで待ってみようとは思っています。Apple製品は「買うと損しやすい時期」というのがあり、Apple主催の定期イベントの1ヶ月前は待てるなら買い控えておいたほうが良いのです。実は職場のMac Pro(ゴミ箱型)も、9月のイベントを待って導入した経緯があります。現行機種を買った1ヶ月後に全く別物の新型が出たら泣くに泣けないですし、導入を進めた人間のリサーチ不足=失態にもなりますからね‥‥。

 

 

私だけでなく、若手中堅ベテラン全域にわたって、タブレットによる作画(絵コンテも含むので演出さんも)作業が徐々に広まりつつあります。その理由の大きなところは、ぶっちゃけすぎて気が引けますが、「デジタルは楽(=融通がきく)」だということでしょうネ。

 

紙をバッサバッサとり回さなくても良い(特に大判ネ)し、消しゴムのカスで机は汚れないし、推敲と修正にはいろいろなアプローチがあるし、「旧来の作画スタイル」内だけで見ても、利点は多いです。しかも、作品が終わるごとにカット袋を収納したダンボールが山積みになることもありません。行き場所がなくて廊下に積まれたダンボールの山って、アニメ会社を貧乏臭くしている悪癖の代表例ですからね‥‥。

 

それに、今さらいうことでもないでしょうが、タブレットで絵を描くことを、旧来基準のアニメ作画に閉じ込めておくことはないわけです。同じ機材で線画から色付きのイラストまで、極めてミニマムな機材規模で実践できるのは、コンピュータで絵を描く大きな利点の1つです。

 

ちなみに、私が自分の「本命」として取り組んでいるのは、その複合例、すなわち「今までのアニメでは到底不可能だった絵柄を、アニメで動かす」ことです。言い換えれば、紙と鉛筆とセルと絵の具とフィルムではできなかったことを実現することです。「今までと同じことをするのなら、今までのままでも良い」わけですが、「今までできなかったことを、新しい道具で実現する」のは、至極、正論だと思っております。

 

また、描いた絵がナマで見る側に伝わるのも、「デジタル」で絵を描く・映像を作る大きな利点の1つです。「デジタルなのにナマ」という表現も奇妙ですが、中間コピー媒体での劣化を大きく抑えた上で、高解像度端末で美麗に再生される可能性を秘めているのも、デジタルの醍醐味と言えましょう。‥‥まあ2016年現在は、データストリームの性能制限と各家庭の端末の性能不足により、「美麗」と呼ぶにはもう少し時を待たねばならないでしょうが‥‥。

 

 

出版や映像作品に従事する絵描きは、1点ものの油彩を描く画家ではなく、最終的には複製物を市場に流通させて対価を得ている「複製元」「コピー親」たる人間です。それはデジタル云々ではなく、フィルム時代でもそうでした。

 

その「複製物で商売する」構造が、どんどん洗練されてきて、「複製の中間コスト」「中間劣化」が抑えられ、2016年の現在に至ります。

 

これから先、「データを格納するためだけに存在し流通する媒体」というのは、どんどん消滅していくのかも知れません。Apple MusicやAmazonのプライムMusicはもとより、Kindleの読み放題も始まり、ビデオオンデマンド(VOD)もどんどん浸透してきています。

 

昨日、楽天レンタルの「サービス中止=廃業」のメールが来て、巷でもそこそこ話題になりましたが、円盤を物理的に介してコンテンツを販売する商売も、もしかしたら予想よりも格段に速い速度で衰退しちゃうのかも‥‥知れませんネ。

 

実際、私はここのところCDを全く買わなくなりましたが、それはApple Musicの影響が100%です。しかもそのApple Musicの費用は、クレジットカードのポイント還元(ポイントをiTunesギフト券にできる)ですべて賄っています。‥‥まあ、「社会構造の思う壺」なのかも知れませんが、現代社会の都市圏で生きる以上は、「長いもの」に闇雲に反発するよりは、「利用されつつしつつ」がちょうど良いと思っています。

*私はクレジットカードのポイント(自動で追加されるので実感はないまま)を何となくクオカードに還元して使っていましたが、iTunesギフト券にするようになってからは、「お得感」が高くなりました。‥‥まあ、クオカードでも代金は代金‥‥ですから、人それぞれのお得感は不思議なものです。

 

そんな社会の変遷の中でのアニメ制作。

 

90年代や80年代、ましては70年代と同じようにいくはずもなし。

 

テレビシリーズの基礎は70年代に培われましたが、70年代と同じ基本構造で作ること自体、限界が近いのでしょうネ。

 

タブレットを使って作業するという行為は、現代社会の全体像の中のほんの一部ですが、逆に言えば確実に、現代社会の現実=リアルの表れであると思います。


空気を読んだ代償

穏便に済ませてその場を取り繕っても、結局はさらなる悪化を招くことは、この10年間で業界全体が身にしみて痛感したことだと思います。悪い内容での「まさか」が、現在の制作状況では現実になっているのを、業界に10年以上滞在した人なら解っているはずです。

 

1日300カットの撮影、捨て動仕、作監10数人。

 

10年前の業界人がタイムスリップして現在の制作状況を見たら、「そんな未来にはならないように、声を大にして啓蒙し、悪化対抗策や改善案を実践しなければ」と思うでしょう。

 

で、現在。

 

10年後の未来を見据えて、何か啓蒙したり、対抗策や改善案を打ち出していますか?

 

つまり、同じことを繰り返すだけです。

 

状況が悪くなった、大変になった、お金が安くなった‥‥などの話題を身内の井戸端会議で語り合うだけの構造は、10年前、20年前、30年前と全く同じです。私も含めて、皆が何の効果もない井戸端会議に参加して、「深刻ぶっていた」いただけです。

 

私がここ1〜2年、辛辣な内容をブログで書くようになったのは、そうした自分の「悪化を容認した態度」に対する後悔と反省がきっかけになっています。

 

「あの時、マズいと思ったんだよなあ‥‥」では、何の解決にもならんのです。思っただけで何か状況を好転させられるんだったら、そんなに楽なことはないわけです。

 

辛辣なこと、痛いところをつくこと、触ってほしくないところに触ることをしなければ、その場は「空気を読んで」穏便に済ませることができるでしょうし、和気藹々と終了出来るでしょう。

 

人は誰しも、嫌われたり疎まれたり憎まれたりしたくないものです。

 

できる限り、八方美人で居たいよね。

 

で、この結果です。空気を読むことに全力を傾けるような連中が、どんどん状況を悪化させたわけです。

 

 

私も、できる限り八方美人でいたいと(こんな私でも)思いましたし、和気藹々と作業を進めるのが良いと考えていました。私も皆と等しく、空気を読んだ連中の一員だったのです。

 

でも、どうやら、そのやり方ではダメみたいです。

 

‥‥現実問題として、そう思いません? もし「まあまあ、ことを荒立てずに」の方針が功を奏したのだったら、現在の状況まで落ち込んではいないはず‥‥ですよネ。

 

その場に居合わせた人間が、自分に降りかかるトラブルを回避するための、ズル賢い処世術が「ことを荒立てず」のスタンスなのです。そのことに気づいている人は、相応にいると思うんですけどネ。

 

 

「恐れ」を何に抱くか‥‥は、人それぞれでもありましょうし、年齢別で差もありましょう。私は今では、重要な場面で空気が凍りつくことも恐れなくなりました。空気を読みすぎて後で大惨事の恐怖を招くより、今、凍らせて恐怖しておいたほうが良いからです。

 

それに雨降って地固まる‥‥ということもあります。

 

空気を読み続けるばかりでは、いつまでたってもフワフワした状況が続き、そのフワフワ感の代償としての窮状の恐怖が継続するだけです。

 

 

 

今後、アニメ業界は「移行期の旬の時期」へと入っていくでしょう。その「旬の味覚」を喰う側になるのか、喰われる側になるのか、人それぞれです。

 

空気を読むことに必死になるより、転換期の旬の香りを嗅ぎ分ける方が、移行期には重要です。過去10数年の業界のアレコレが、全て教えてくれているではないですか。

 

とは言え、3年で制作スタッフが辞めていく‥‥というような状況も業界では多い中、経験を伝承することすらままならないでしょう。であるならば、生き残り組が伝承していく必要がありましょう。

 

淘汰に生き残って、経験と技術も豊富な人々〜すなわち発言力のある人々が、空気を読んで穏便に事を済ませるスタンスに徹していたら、誰が状況を好転させられるのでしょうか。

 

実力を持った実感があるのなら、いいじゃないですか、多少キツいこと言って嫌われたって。 ‥‥発言力を持たない若い世代に、ケンカしている姿を年長者が見せることだって、重要な新人育成の要素だと思いますよ。


雑感

「デジタル村」で活動しようと、思想まで変える必要はありません。結局のところ、私は自分の創作の源を、それこそ10代の頃から変えてはおらず、自分のやりたいことを運用するための「トランスポート層」として「デジタル」を利用しているだけなのです。

 

やりたいことは昔から変わらずに存在し続けていて、その実現手段としてオンタイムの技術を選択している‥‥というわけです。

 

自分はどのような意志に基づいて、どのような手段をもって、最終的にはどのような絵の表現をしたいのか。その辺りの自己分析や自己批判を習慣化できている人とできていない人では、「デジタル」や「道具」に対してのスタンスも大きく異なると思います。

 

言い方を変えれば、自分が絵や映像に関わって全うする「ビジョン」が、どれだけ明確に意識できているか‥‥とも言えますネ。

 

鉛筆を使うのが重要なのか。

 

絵を描くのが重要なのか。

 

私は紛れもなく、後者です。‥‥なので、絵を描くための手段や道具を変更するのは、やぶさかではありません。その時代ごと、よりダイレクトに映像制作の核心を突ける道具やスタンスを選択します。

 

まあ、この辺は人それぞれなので、これが正しいとか正しくないなどの虚しい論議は必要ありません。自分の描いた通りのビジョンに基づいて行動すれば良いのです。

 

 

ただ一方で、絵を単なる方便として用い、「デジタル」と絡めようと画策した時、どんどん話は妙な方向に転び始めます。「デジタル村」にどっぷり浸かり過ぎる危険は、実はその辺にあるのです。「デジタル村」はあくまで冷静にその「村の活用方法」を意識すべきであって、絵をないがしろにした別の部分で心酔すべきものではないのです。

 

絵で作品を作りあげて商品として成立させようとしているのに、絵を創り出す感覚の希薄な人々が中核を成すのだとしたら、笑けてしまうくらい本末転倒じゃないですか。でも、「デジタル村」はそういう流れに流されそうになることが往々にしてあります。「絵描き不在のデジタルアニメ」なんていう冗談のようなことが起こらないように、「村」の意識や統制を固めていく取り組みが、今後も必要だと思っています。‥‥まあ、中核を絵描きだけで固めても、統制がとれずにグチャグチャになってダメなので、要は「良いバランス」が必要なのでしょう。

 

身の回りに「デジタル」が溢れ、ふんだんに「デジタル」を活用しようと、ものつくりの中核は決して「デジタル」ではなく、人間の生っぽい部分です。「生臭い」と言っても言い過ぎではないでしょう。

 

その人間の生臭い部分を、「デジタル」のトランスポート層とアプリケーション層で実現する「痛快さ」が、「デジタル」をあえて用いる醍醐味だと思っています。

 

 

アニメーション制作における「デジタル」リソースの活用術と運用術。作画村からデジタル村への移住計画。両村の色々な感情が錯綜することでしょう。

 

導入期の2000年初頭から、今までの初期浸透期を経て、ようやく第2段階たる発展期が到来します。おきまりのフレーズではありますが、「お楽しみはこれから」‥‥なのです。



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