穏便では収束できなかった

今の状況が良いだなんて、誰も思っていないんだから、わざわざブログで書くことでもなかろうに‥‥と、思う人もいらっしゃるでしょう。しかし、その「事を穏便に済ませよう」としてきたツケが、今の状況だと思っています。事を荒立てないことで、事態が収束しているのならまだしも、全く逆で、悪化の一途をたどっています。フローの一番尻の撮影を作業していると、ここ10年の凄まじい劣化の経緯が、リアルに感じられます。

穏便に済ませておけば、いつか事は治る。‥‥それがウソだと言うことがこの10年で証明されたわけです。

一昨年原画を作業した際、とっとと作打ちして3〜4ヶ月前に原画をあげて、撮影入れがどれだけ前倒しになるか、試してみたこともあるのです。結果は、早く原画をあげても、何の効果もなかったのです。もうシステムが麻痺しているとしか思えない。‥‥現在は、納品寸前にドカンと撮影する劣化スケジュールが業界全体に根付いているのかも知れませんネ。

黙って一生懸命耐えて、作業をどんなにこなしても、「いつか改善する」なんてありえませんヨ。「やればできるじゃん」という認識がさらに上塗りされて、より一層の凶暴な劣化が待ち受けているだけです。

でもなあ‥‥色々なことを思うと、最低最悪の状態まで落ちるしか、やり直しのきっかけって生まれないのかな‥‥とも思うのです。デジタル作画を「もっと速く、もっと安く」(そのような喧伝記事を以前見ました)に巻き込んで、今の流行も次第に失速してアニメの神通力が弱まり、借金を返済するためにさらに借金をして‥‥みたいなことを続けて、もう逃げ場がなくなって追い詰められることでしか、復興の兆しは見えてこない‥‥と思うことがあります。

復興プロジェクトはやぶさかではない。しかし、それを頼みの綱にしてもダメなんだと思います。前にも書きましたが、別軸のプロジェクトを何本も用意して進めておかなければ。

いい歳こいての徹夜の連続は、死に直結するって。

甘い思い出との決別

作監20人とか、本撮1日とか、門外漢の人なら「ゴージャスですね」「そこまで速度アップできるよう技術が進化しましたか」と思う人もいるかも知れませんが、現場の人間でそのようなレスポンスをする人はいません。だって、皆、解っているから。

とうとうここまで来てしまった‥‥と。状況に、劣化に劣化を重ねて、そんな事例が出るところまで、来てしまった‥‥と。

だから、内部の人間なら、誰も今の状態が「商売繁盛の表れ」だなんて思わないのです。

落ちるところまで落ちて、いつか「どこの誰がヤラかすのか」、自分らの現場にキツいお灸をすえるためのキッカケとなる「生贄」「人身御供」を待っている‥‥のかも知れませんネ。その生贄には自分らはなりたくない‥‥と思いながら。

日本の国民性かも知れませんが、日本人の集団性って、自分からは「自分が悪かった」と言い出せない性質・風潮がありますヨネ。先の大戦だって、「自分たちは悪くない。戦争が悪かったんだ」ととてもズルい逃げ方をしてますし。‥‥だから、アニメ業界の場合も、「状況」のせいにして、自らを総括する習慣自体がない‥‥のでしょう。ゆえに、「悲惨極まりない、可哀想な生贄」がいつか登場して、「ああなったら最後だ」的な「強烈なきっかけ」を待っているかも知れません。
*私も作画だけをしていたアニメーター専業の頃はそんな日本人らしい日本人‥‥でしたが、「デジタルアニメーション」や新しいアニメーション技法に取り組むようになると、そもそも技術基盤が曖昧で、作業完了した自分の作業の総括・問題点の洗い出しをしないと、技術体系が構築できない弱みがあったので、自然と「総括癖」「フィードバック癖」がついたのです。現在のアニメ業界の作業は従来のアニメ制作システムに支えられているので、総括などしなくても生きていけるがゆえに、どんなに劣悪な状況になっても、アニメ制作システムや技法を信じて疑わないのかもしれませんネ。

1980年代前半のアニメ雑誌には「週30本を超えた! この乱造乱作の状態をなんとかしなければ!」的なスタッフ座談会の記事がありましたが、現在はそれをはるかに上回る本数だと聞きます。

でも、現在の60本とも70本とも言われる作品数の内訳は、30年前の1980年代とは大きく異なります。昔は、そのほとんどがゴールデンタイムのアニメで、最低でも半年放映の規模でした。今はゴールデンの方が超珍しいですよネ。しかも1クール(1/4年)の作品も多いです。

現在、現場のベテランと言われる世代(ヤマト、999、ハイジ、ジョー、うる星やつら世代)の人間は、ゴールデン時代のアニメが忘れられないのかな‥‥と思うことがあります。現在の状況においては週何本だ‥‥なんていうカウントは虚しいばかりなのに、商売の基準を今でもゴールデン時代の慣習で捉えようとしているのかも知れません。これは言い換えれば、テレビが茶の間の中心だった頃の、昭和・平成初期の価値観の「なんとない慣習」です。

もちろん、ガンダムやドラゴンボールなど、今でも続く、恐るべき通算本数の作品はあります。でもそれはあくまでひとにぎりで、しかも、大量生産のノウハウを持つ大手の仕事だったりします。

昔の甘い思い出や、数少ない大手の仕事ぶりを基準にして、現在の自分らの劣勢をなだめる鎮痛剤にしても、何も解決しないよネ。何度も書くことですが、自分の身の回りにある現場の状況に、直接、メスを入れていかないと、解決の糸口は見えてきません。

少なくとも私の考えはハッキリしています。ゴールデン時代の昔の思い出は、きっぱり忘れよう!‥‥ということです。もう戻らない過去に、どんなに未練を抱いても、手に入るのは悲しく空しい感情だけです。過去の思い出に生きるのではなく、今、そして未来を生きなきゃ‥‥と思うのです。アニメが深夜専門のような状況に変化している現在、昔のように本数でカウントしても、商売繁盛の是非はまるで見えてきませんもん。

じゃあ、どうすんのよ‥‥て、そんな簡単に答えなど見つかりません。これから未来はどうすんのよ‥‥という言葉は自分自身に投げかけるものであって、他人に迫って詰問するものではないです。

所与のシステムに今まで依存し続けてきたんです。ゆえに、「どうすんのよ」なんて他人に聞いて依存する習慣が根付いちゃっているのです。これから先の未来、その「どうすんのよ」的スタンス、既存システム依存のスタンス自体を変えていかなければ‥‥と思います。

ビジネスモデルまでは手に余るかも知れませんが、少なくとも自分たちの現場のシステムモデルは、現場の人間たち本人が新たに作る気概を持って、そろそろ良い時期なんだと思います。

どうすんのよ‥‥ではなく、こうします!‥‥とビジョンを持ってネ。

忙しさのベクトル

仕事が忙しい‥‥ということは、多くの場合「繁盛している」バロメーターのように語られます。しかし、歴史を紐解いてみると、忙しさは決して発展のベクトルだけでなく、滅びのベクトルでも起こりえます。

アニメの本数が増えて人手が足りない‥‥なんて話を耳にすることが多いですが、作監20人とか1日で300カット本撮テイク1とか、これはどう聞いても商売繁盛の「発展のベクトルが示す状況」とは言えず、むしろ先の大戦での敗戦間際の日本やドイツの状況〜「滅びのベクトル」を想起します。もし商売繁盛のベクトルにあるのだったら、少なくとも、金回りは良いはずじゃん?

金無い、時間無い、品質低い‥‥のどこが、商売繁盛の表れなのか。‥‥作業歴30年の私の経験から鑑みるに、異様に安い作業費を設定する会社って、大体「姿を消して」いますヨ(もしくは大きく傾いている)。実名は出さないですが何社も知ってますし、原画料未払いのままの知り合いもいます。

めちゃくちゃに破壊された現場を、最低限機能するように修復しつつ、未熟な人員まで戦力にカウントして投入する状況。新技術の開発にお金を回す余裕はなく、旧式の技術のまま総動員令で増産し続けてなんとか現場に送り出すも、消耗が激しく、どんどん劣勢へと追い込まれていく。あれれ‥‥これってさ‥‥、いつのどこの話? 太平洋戦争末期の日本?‥‥それとも‥‥? 

‥‥なるほど。‥‥ホントに歴史には学ぶべきことは多いですネ。

新しい体制をスタートするには、古い体制は亡ばなければならない‥‥のでしょう。現在、業界から聞こえる劣悪な作業状況は、一旦滅ぶための必要不可欠なプロセスなのだと思います。人が老いて死ぬ時って、大抵は何らかの病気にかかるじゃないですか。「xx不全」とか。現在の現場の機能不全って、そういう類いだと常々感じています。

死の次には、新しい生があります。

歴史は、「崩壊しても、その次がある」‥‥ということも教えてくれます。戦争に負けた人々がそのまま世界から消滅した‥‥わけではないのは、歴史の示す通りです。日本もドイツも技術立国としての地位を、悲惨な敗戦のがれきの中から築き上げましたよネ。ポーランドのように、一度は地図から消滅した国が、復活した事例もあるくらいです。

国の呼び名が消えて、国は消滅しても、人々は生き残って、現在があります。

こうした歴史的事実を楽観的に捉えるのならば、業界の体制が滅んでも、アニメを作り続けようとする人々がいる限り、アニメは生き続けられる可能性があります。まあ、あくまで可能性です‥‥が、私は残りの人生をそこに注ぎ込もうと思っています。

ぶっちゃけ、作監20人とか、本撮1日とか耳にしても、驚きはしても、嘆く気も批判する気もありません。「あ、なるほど。今はそういう状態なんだ」と状況認識して崩壊の進行度を試算するのみです。

「苦しい中でも一生懸命やってるんだ!」‥‥とは、それ即ち、感情論です。「一生懸命さ」を「良し悪しの天秤」の基準にしたら、途方もない水掛け論の始まりです。「一生懸命ならば良い」とは、現場に一番導入してはいけない価値観・論調です。「一生懸命」で事態が解決するのならまだしも、一生懸命さがかえって破滅のベクトルへと邁進することだって、山とあるのですから。指導者はいかなる時でも現場の感情に流されず、事態を客観視できるクールさが必要です。

現場の混乱が各所から聞こえてくる中、現在の権益を維持したい勢力は、「デジタル作画」をもって新時代を掌握する軸にしたいのかな‥‥と思えるフシがあります。でも、それってまるで「旧帝国陸軍的な発想」ですよネ。「戦陣訓」を唱え続ける性根が残る限り、世界的な技術ムーブメントの潮流には追随できないと思います。「デジタル作画で新しく築き直すアニメ業界の未来」的なものは、築き上げた時点で既に旧式化して時代性との乖離が深刻になっているでしょう。業界がもし新生できるとすれば、それはブレインの入れ替えがあって始めて‥‥でしょうけど、実はブレインを入れ替えずにどうやって未来を手中に収めるかが権益勢のテーマなので、‥‥まあ無理なのです。

業界のシステムに慣れきって、そのお膳立ての上で仕事をしているのならば、業界の動向は気になるところでしょう。でも、それって、業界と運命を共にして、最悪の場合は心中する‥‥ということです。「共依存」の関係要素はできるだけ断ち切っておいたほうが良いです。絵を描く、映像を作る‥‥という技能を、「原画」や「撮影」などのアニメ業界仕様の仕事だけに限定する必要はないのです。

「業界がダメになったら自分はおしまいだ」なんて言うのではなく、自分の能力を足場にして色んなことをどんどん仕事に変えて、逞しく生き残っていく「変化に強い」性質が、これから求められていくのだ‥‥と思っています。

技術力と体力の乏しい会社が淘汰され、大手と気鋭の新グループが、余分を削ぎ落とした上で体制を立て直すのか。はたまた、一旦バラバラになって、再編成と新秩序が生まれるのか。もしくは生き馬の目を抜くような群雄割拠の時代が訪れるのか。

‥‥どのような道筋を辿るかは予測しきれませんが、現在の「本数がたくさんある」状況が、未来への何の担保にもならないことは、私の経験からして予測できます。むしろ、現在の本数の多さは、「無差別な振るい分け」のプロセスであり、より一層の明暗が浮き彫りになるように思えるのです。

ネットのいろいろな統計の情報を眺めると、企業設立から5年で8割の会社が倒産する‥‥とか、10年後の生存率は5%‥‥とか、10年後に3割、20年後には5割が倒産する‥‥とか、数字がバラバラではありますが、いずれにせよ、多くの会社が維持困難に陥り廃業し、入れ替わるようにして多くの新しい会社が毎年生まれる‥‥ということなのでしょう。30年続いた老舗だって、決して安泰ではないことを様々な資料が示しています。新興の会社においては、推して知るべし。

大きな流れをいち個人では変えらえないのは事実。しかし、大きい流れに身を任すだけが能ではありません。母体の大小に関わらず、状況に慢心せず、常に推移を監視して、複数進行させている「どの軸を用いるのか」を判断して、状況の中で生き残っていくしかないのだと思います。

フィルム時代の末期を思い出してください。新しい技術ムーブメントを前にして、システムの終焉なんてあっけないものです。アニメ業界の旧来システムが盤石だなんて、今の状態をして、誰が言えるのでしょうか。実はそのことだけを見ても、未来に向けてやるべきことは見え過ぎるくらいに見えている‥‥と思うのです。

正念場と修羅場と糞地獄

あまりにも忙しすぎて、仕事量の濁流に溺れ死にそうになるような状況は、どんな現場でもあると思います。人はそれを「正念場」と言ったり、「修羅場」と言ったり、フルメタルジャケットではないですが「クソ地獄」などと呼んだりもします。

正念場。プラスイメージな言葉ですネ。今を乗り切れば未来が開ける‥‥とか、攻めて「勝ち」を取りにいくような時に、使われることの多い言葉です。正直、アニメ現場では「正念場」なんていう言葉をあまり聞かなくなったように思います。

修羅場。「修羅」なんていう言葉から、惨憺たる様相を連想します。大方、マイナスなイメージですが、「自分は修羅場を生き抜いたんだ」というある種の自負も含めて感じるので、マイナスの中にプラス要素も見え隠れする言葉のように思います。アニメ現場では、よく耳にする言葉です。苦しい今を乗り切っても、新しい何かがあるとは思えない‥‥というやるせない感情の中、今を生きていくために必要な闘いだ‥‥という逞しさも感じる言葉です。

クソ地獄。‥‥まさに神も仏もない、一筋の希望すら見えない状態を連想します。今を生き抜いても、同じ地獄が続くだけ。もしかしたら死んでしまった方がいっそ‥‥などと考えることすらあるかも知れません。マイナスもマイナス、プラス要素などどこにもなく、地獄さながらの状況を生き抜いても、何のプライドも達成感も得られず、どんどんダークな感情に落ち込んでいくだけ‥‥です。

アニメ業界には、上記3つとも存在します。私は過去30年の中で、どれも経験しました。これは必ずしも状況に巻き込まれるシチュエーションだけでなく、自身の感情や性向によって自らの内面側に生み出してしまうこともあります。

でも、どんな場合でも、解りきっていることは1つ。クソ地獄からだけは脱出すべき‥‥ですよネ。

クソ地獄だって1度くらいは経験しておいても‥‥なんていうのは、生還した人の言い草で、そのまま消えてしまうことだって往々にしてあり得る、危険な状態だと思います。ホントに、何もかもが無意味のように思えて、どんな励ましの言葉も皮膚でポロンと跳ね返ってしまうような状態は、超絶ヤバいです。それでも、腹は空くし排泄はするし眠りもする、体の生理だけが鬱陶しく、生きているのは生理現象の作用だけ。しかも金はどんどん消費されていくのに大した稼ぎは得られない‥‥。嗚呼、糞地獄。‥‥生活を改善するとか、良いところ探しとか、そんな甘っちょろい対応策ではなく(安全地帯に慣れきった周囲の人間はそのように言いがちです)、スッキリサッパリ、手荒い手段を使ってでも、脱出するしかないのです。

考え方の角度を変えれば、クソ地獄と修羅場の差は、命綱があるかないかの差‥‥とも言えます。地獄のような状況でも、命綱があれば生還できますからネ。じゃあ、何が命綱たり得るか?‥‥ということですが、それは人によってそれぞれ大きく違います。

20代中頃の私の場合は、幼い頃からのアニメへの憧れ‥‥でしたネ。シンプルですけども。

すごく細い、ミシン糸のような命綱でしたが、その糸の存在に気づいて、糸を手繰っているうちにクソ地獄からの出口に辿り着いたのです。いつ切れてもおかしくない細い糸でしたがネ。

今の私の命綱は、新しいアニメーションへの取り組みです。

新しいアニメ技法やシステムへの取り組みなら、どんなに忙しくても、それは地獄でも修羅場でもなく、正念場です。

今のアニメ業界になんとなく歩調を合わせて、なりゆくままに生きて行くしかないんだ‥‥なんて思ってたら、とっくの昔に絶望してます。それに、今の業界の破滅スケジュールがどんどん進行して、しかも自分はどんどんオジイさんオバアさんになっていくのだとしたら、絶望云々以前に、物理的に生活が破綻して心中するしかなくなります。

人間というのは、キモチに大きく左右される生き物だと思います。同じ肉体的負荷でも、その負荷の向こうに、プラスを感じているか、マイナスを感じているかで、大きく人は変わってきます。そして、当人を取り巻く未来も変わってくるのでしょうネ。

 

真実と嘘

真実を貫き通すのは辛く険しいことだ‥‥とはよく言いますが、別の面から見れば、真実はある意味「楽」なのです。嘘をつかなくて良いから。

真実はシンプルに、リニア(直線)で貫き通せば良いのですが、嘘は捏造のクオリティに波があるので、状況によって変動が激しいのです。

「なんだかんだ言っても、大丈夫。この先もなんとかなるよ」なんてことを、このブログで私がどうしても書けないのは、それがウソだと思うがゆえです。「なんとかなるよ」は業界的にはすなわち「問題を先送りにできるよ」ですから、「大丈夫ですヨ。この先も今までと同じように、問題を先送りにして生きていけますヨ」なんて、どうしても書く気になれないですもんネ。

ウソってさ、ウソを吐き続けなければ、いつかはバレるじゃん? でも真実はさ、別に何のフォローやリカバーも必要ないもんネ。

真実を貫き通したがゆえに、たとえ一時的に不利な状況や不利益を被ったとしても、やがてウソの波高が下がった際に真実が自然と浮き彫りになります。誰かが誰かを貶めようとして、罵詈雑言ネガティブキャンペーンを張ったとて、ウソが息切れた時に、「あれ、何かおかしいぞ」と周囲は勘づくのです。

よく言いますよネ。嘘をつくと、その嘘がバレないように、さらなる嘘をつくようになる‥‥と。

その点、真実はとても楽です。あるがままでいいんだもん。

例えば、私はここでよくApple製品の話題を取り上げますが、それは単純に使い易い製品がAppleには多いからです。使いにくいものを無理してサクラのように持ち上げるような嘘はツラいですもんネ。iPad ProとApple Pencilの使い方に慣れ、旧来のペンタブと比較して、作業効率が飛躍的に向上したことは以前にも書きましたが、どんなに長年Wacom製品を使い続けた経緯があっても、Wacom液タブとiPad Pro・Apple Pencilを比較した際の「実感に嘘はつけない」です。

コンピュータを使った色々な未来への取り組みにしたって、私が実物を使ってガチで実感していることを書いているだけです。できないものはできない、できるものはできる、ただそれだけの真実です。

また、各所の知り合いから耳にする現場の状況、そして自分が実際に作画や撮影監督などの作業を通して感じる実感、そして映像の技術の移り変わりを肌身で感じ、さらに自分の年齢に起因する様々な影響をも加味した時、「このままで大丈夫」なんて嘘はどうしてもつけないですよネ。

ただ、「嘘も方便」とは言います。つまり、方便程度にとどめておくのが吉。‥‥ということでしょう。

未来へ向かって進む、大切な舵取りにおいて、嘘は「大破綻」の引き金になることだってありましょう。先の大戦で日本人が国家ぐるみの嘘を経験し、今なお、その傷跡が体の奥底でジンジン痛んでいることを、忘るるべからず。負けているのに、勝っているなんていう嘘は、もうこりごり‥‥ですよネ。

手で絵を描く人、脳で絵を描く人

現在、じゃんじゃんバリバリ、iPadで絵を描く日々で、何か20代のアニメーター100%だった頃を思い出します。ここ十数年の私は、手を用いるより脳みそで絵を描くスタンスが多かったのです。

私はアニメーターで線画を描く日々の頃、「線画って、絵の単なる1要素でしかないのに、線画だけで自分の思考がストップするのはマズい」と感じ、21か22歳の頃に12回払いのローンで一眼レフカメラ「Canon EOS100QD」を買いました。線画で思考するだけでなく、色彩や明暗で画面を構成する力を養いたかったのです。

フィルム時代の当時、年間数千枚をアホのように撮りまくり(当時デジカメがあったら年間何十万枚だったでしょうネ)、原付バイクで東京近郊を走り回って、情景を色んなレイアウトで切り取っていました。



*故わたなべぢゅんいちさんとバイクで走り回る時は、いつもコイツを首から下げていました。

原画マンがレイアウトを描く時、線画による境界線で構成していきます。作業フローの段取り上、それはそれで構わないのですが、その作業習慣が災いして、「線画しかイメージできない」状態になるのは、前回書いたように「絵を作ろうとする」自分にとっては、著しく危機的なことでした。

線画はあくまでアニメを作るための手段の一つであって、最終目標ではないのです。少なくとも、自分にとっては。

ですから、完成画面ではなく、線画しか見えてない自分の状態に、恐怖と不安を感じたがゆえに、「例えば、情景を描く時に、どんな明暗のレイアウト、色彩のレイアウトが考えられるだろうか」と、作画とは全く別のアプローチを試みたのです。

カメラを使って、脳で絵を想い描く。

「え? カメラなんて、実物を前にして、ただシャッターを切るだけじゃん」‥‥なんていう人は、典型的なカメラ音痴です。まあ、カメラに開眼する前の人は、大体そう言うものです。私だって、カメラを実際に手にするまでは見くびっていたと思います。

カメラをナメている人の写真って、「なぜ、シャッターを切ったのか、意図がまったく伝わらない」写真になるのです。シャッターを切るだけ‥‥とか言う割には、全然ダメダメなのです。

例えば、街を歩いている時、ふと街並みに目をやって、「あ、この雰囲気、すごくいい感じ」と思って、カメラを取り出してシャッターを切ったとします。‥‥で、撮った写真を見ると、その「すごくいい感じ」が写真に全く写り込んでいないのです。「現場検証」の写真のようになってしまって、その時感じたなんとも言えない雰囲気はどこかに消え失せています。それは何故だか、お分かりでしょうか。

ずぼらに、シャッターを切ったからです。作図していないからです。

カメラにも作図は必要なのです。報道カメラはともかく(‥‥いや、報道カメラだって、混乱の中でさえ、絵の収まりは考えるはず)、自分が感じた美しさを写真に収めようとするならば、カメラのファインダーを通して、脳内で絵を描くプロセスが必要なのです。

そのプロセスが抜け落ちると、定点の監視カメラみたいな写真になるわけです。

つまり、全然、簡単ではないのです。

線画を描くアニメーターに向かって、「鉛筆を持って線を書くだけだろ」みたいなことを言ったら、「じゃあ、お前が鉛筆を持って同じ絵を描いてみろよ」と言い返されるでしょう。それと同じように「シャッターボタンを押すだけだろ」と言えば、「じゃあ、お前がカメラのシャッターボタンを押して、同じ写真を撮ってみろよ」と言い返されるわけです。

つまり、手で絵を描こうが、脳で絵を描こうが、どちらも技術と経験、‥‥あんまり使いたくない言葉ですけど、「才能」が必要だということです。(ちなみに、才能とは、天賦の才などではなく、能力を磨き上げることで手にできるものです。)

そして、未来の現場においては、その両方の絵描きが必要です。

脳で絵を描く人間の特性は、ある程度の傾向があります。光や空気といったものに敏感で、それをなんとか、絵や映像に具現化したいと思う人間です。絵を輪郭で描くのとは全く異なる言語で、絵を描き出したいと思う人。

光や空気を描こうとした時、線画はあまりにも表現力に乏しいです。放射線や波線で描くくらいです。しかし、色彩と明暗を持ってすれば、様々なアプローチで描き出すことが可能となります。

しかし問題は、従来のアニメ制作現場においては、脳で絵を描ける人がとても少ないことです。もう少し正確に言えば、脳で絵を描く機会が制限されている‥‥ということかも知れません。

作画さんが線画を手で描いて、美術さんが背景美術を手で描いて‥‥、そのあとは背景に合わせて色決め、タイムシートに指示のある撮影効果で背景&セルに効果をトッピングする。‥‥まあ、絵を脳で描く場所は、極めて限られていますよネ。脳で絵を描く可能性は閉ざされていると言っても過言ではありません。

でも、そんな今までのやり方では、頭打ちなんですよネ。だからいつまで経っても、「細かく色分けしたキャラクターを作画で動かしまくるのがクオリティ」という価値観から抜け出せないのです。良くも悪くも「作画の打算」の上に成り立っています。現場で作業慣れしたスタッフは、心の中では「ああ、また作画で動かしまくって、勢いを作るタイプの見せ方か」と思う人も結構いると思います。ただ、そういうことでしかクオリティを表現できなくなっている「現場の技術の頭打ち」もあるのです。

作画のレベルの高さは、日本のアニメ業界の真骨頂でしょう。そこに疑問を挟む余地はありません。しかし、「作画レベル一本槍」の価値観を永遠に続けるままでは、未来の発展があるようにも思えないのです。

情景を光と空気で知覚する絵描きは、線画で発展してきたアニメ業界一般では、稀有な存在です。とはいえ、今まで接してきた人の中に、数人は確実に存在し、そこには若い人間も含まれます。決して希望がないわけではないです。むしろ、1つの芽が樹に成長して、多くの実りを生み出すことだって、普通に考えられます。

私の目下の目標は、そうした才能を集めて、現場を作ることです。手で描く人間、脳で描く人間、両方がコンピュータという溶媒を介してクロスオーヴァーする現場です。

私自身としては、「動かしまくりの作画力」に依存しない、総合的な絵作りの作品を、まずはどんどん作っていくことが、未来へ繋がる取り組みだと思っています。アニメーターや美術スタッフだけでなく、色彩設計やコンポジター・ビジュアルエフェクトのスタッフの視点を大いに盛り込んだ、総合技術の作品です。もちろん、そうした総合技術を取り回して作品を紡ぎ出す優秀な制作スタッフの存在も欠かせません。

つまり、新しいドクトリンの現場を作ることが、新技術を指向する私の世代の急務なのでしょう。

何だ。未来は考え方次第で、頭打ちどころか、のびしろが山ほどあって、やることも沢山あるではないですか。

*念のため、脚注)
手で描く‥‥という表現は、「手を物理的に使って絵を描く」という意を指しています。手で絵を描いている人だって、脳の中でも絵をイメージしています。手を使って描く人は、脳を使っていないなんていう曲解はしないでくださいネ。手に筆記具を持って絵を描くか、そうではない間接的な手段で絵を描くか‥‥ということを指し示しているのです。

2年目の自分

私は今まで講師めいたこともして来て、成長を楽しみにしている若い人間もいます。一方で、アニメ制作を諦めて辞めるタイミングは、私の経験則からして、2年目、5年目、そして30歳前後‥‥のタイミングが多く、少なくとも、私が将来一緒に仕事をしたいと思っている若い人には最初の2年を切り抜けて欲しいと思っています。

最初の2年目の苦悩。私にもありました。

私は、高校在学中から動画と原画を作業し始めて、卒業して完全にプロになってから2年目くらいの時に、どんよりとした挫折感を経て転機が訪れました。ちなみに、何度も書いてますが、私の時代は高校から動画や原画をする人はさほど珍しい事ではなく、東京近郊に住んでいれば、ちょうどバイトのようにアニメの作画スタジオに出入りすることもできたのです。私の初原画は高2の冬に作業した魔法少女モノの数カットだったと記憶しますが、正式な私のキャリアは高校を卒業した後からです。

プロ(=作業報酬で生活する)になって最初の1年目というのは、とにかく無我夢中で作業するだけで、クオリティとか作業スタンスとかを俯瞰で見ることなどままなりませんでした。しかし1年目を過ぎ、2年目に突入するあたりから、自分の将来に漠然とした不安を、ふと感じるようになりました。

家賃3万円の賃貸アパートで一人で原画を描き、技術の基準になるのは作監さんのレイアウト修正だけ。テレビシリーズのローテーションが終わって、次のテレビシリーズのプリプロ時期に入ると、ただ単に外注原画マンだった私は、受注が途切れ、年明け早々の1月は丸々手空きになったりしたものでした。18〜19歳の冬のことです。‥‥そりゃあ、不安にもなりましょう。

2年目の年末が来て、またも、次期テレビ準備期間の1月に手空き。上手い人やプロダクションに所属する人は、制作さんが何か作業を見繕って、仕事を入れてもらっているのに、自分には来ない。‥‥自分がヘタクソなのが、ミジメな境遇のすべての原因だと思いました。そして、人手が足りない時は頼りにされても、人手が余った時は、簡単に切り捨てられるんだとも悟りました。

あれ‥‥? 自分ってアニメで何がやりたいんだったけか? 何を夢見ていたんだっけか?

毎日原画を描いて、時間がほんの少し空いた時はお笑い番組で憂さ晴らし。‥‥そんな生活を続けてきた自分に、手空きの1ヶ月によって、自分を振り返る時間ができたのです。

プロになってから、仕事の依頼をどんどん引き受けて、何でも描いてきたけど、そもそも自分って、何が好きでアニメーターを目指してたんだろう‥‥と、学校を卒業してから2年近く作業して、始めて冷静に考える時間ができたのです。

お金を稼ぐため。‥‥確かに、仙人ではないので、霞を喰って生きて行けはしないわな。お金を稼ぐのは生きていくための基本です。でも、お金を稼ぐことがテーマだったら、なんでわざわざアニメを選択したのか。

アニメーターになって痛快な作画をして、思いっきり目立って楽しみたい。‥‥まあ、速弾きギタリストみたいな感じですネ。自分の力を試したい、誇示したい‥‥という欲求。そもそも、「自分で描いた絵を他人に見せること自体」が「自分はできる奴アピール」のようなものですからネ。そこを人はオブラートに隠したがるけど、描いた絵を他人に見せる行為の本質は「謙遜」の薄皮では誤魔化せないでしょ。

ソレはソレとして、もっと根っこの部分‥‥そもそも何でアニメが好きなんだろうという部分、言うならば、アニメを職業に選んだ「野心」の部分を、じっくりと考えた時、「原画作業の向こう側のビジョン」が何となく見えたのです。「絵コンテに書いてあることを原画で踏襲するだけ」に精一杯な自分が、元々の自分の「職業選択のビジョン」と照らし合わせて、致命的にダメダメだった‥‥という事に気づいたのです。

抽象的な物言いになりますが、それは「アニメの何に心惹かれていたのか」を自覚した事でもありました。私の場合、「絵の雰囲気が映像として動くこと」(漠然とした言い方ですが)が、アニメのたまらない魅力でした。実写制作を選択しなかった理由もそこにあるのでしょう。

「であるならば、自分の原画作業に、その心惹かれていた要素を、練りこんでいけば良いのでは?」と考えました。自分の作業の中に「絵の雰囲気」を模索するようになったのです。「原画」であると同時に「絵」を意識してみよう‥‥と思いました。ちなみに、「絵」にとどまらず「映像」をも意識するには、あともう少し経験が必要でしたが、20歳の頃の私は「絵」を意識するだけでもエポックだったのです。

今まで「BG空」と書いていただけのレイアウトが、キャラのバックに空が広がっている時にはどんな空が良いんだろう‥‥と考えるようになりました。そして、そうした考えを「BG空」と書くだけでなく、実際に(たとえ何本かの描線でも)雰囲気を描くようになりました。‥‥まあ、実は、どんなにレイアウトで線画で描こうが、実際は美術さんの采配でいい感じに空を描くので、直接的な作用は少ないんですけどネ。

そうした「絵の雰囲気」を念頭に置きながら、絵を描くようにしたのは、あくまで私独自の取り組み、‥‥言ってしまえば「独りよがり」だったのですが、奇妙なことに、作業結果に対するレスポンスに変化が現れるようになってきました。それまでは、単純なカット割り振りの末の担当でしたが、「この人にはこのシーンをやって欲しい」的な割り振りが、自分になされるようになってきたのです。

技量なんて何も変わっていないのに、絵を描く考え方にひとひねり加えたことで、「誰でもいい中の一人」という境遇から、「あの人にお願いしたい」という境遇へと徐々に変化していきました。

自身を「切り捨て御免の消耗品」とやさぐれかかっていた私でしたが、ある意味、自分を消耗品レベルにしていたのは自分自身だったのかもな‥‥と述懐します。

やがて、監督さん、演出さん、作監の人と交流を持つようになり、面白がりの人が多い現場ゆえに、「やってみれば」的に難易度の高いシーン(=作品でもウェイトの高いシーン)を振ってもらえるようになり、冬場に仕事が途絶える「1月無職」ではなくなりました。

でもまあ、実は、そうして作業上の実感を得て、頼りにされるスタッフへと成り上がっていく過程で、より大きい挫折の壁が待っている‥‥のですが、それはいつかの機会に。

構造を分析する習慣を持つ人ならば、自分を取り巻く作業環境がどのような性質のものか、2年もしないうちに薄々感づくことでしょう。その際に、「諦めてアニメをやめる」人もいますし、「どうせ自分はこの程度」と惰性に流される人も、そして「どうすれば現状を打破できるのか」ともがく人もいます。選択肢は人それぞれです。ぶっちゃけ、自分の人生、どれを選んでも良いのです。現場は、道徳教育の場ではないですからネ。

ただ、アニメの映像制作で60〜70歳まで喰っていこうと思うのなら、やはり、自分の年代ごとに立ちはだかる壁は突破していかないと、どこかで行き詰ると思います。私の世代(1960年代生まれ)の恐ろしい最後の壁は、10数年後の60代前後に、加齢による衰えに加え、次世代映像フォーマットの影響も相まって、その後の人生の生死を分けるような辛辣な厚い壁が立ちはだかると思われますから、ベテランとて壁とは無縁ではないのです。


プロになって2年目というのは、自分の力に対する自信と落胆が相互に襲ってきて、不安定になりやすい時期だと思います。環境によって、人によって、多少の前後はあろうとも。‥‥そして不安を紛らわすために、1つの考えに固執するようなことも起こりがちです。

そんな時はThink Defferent。信じて疑わなかった自分の内面までも、クールに突き放して観察することで、自分の行動指針やスタンスにモデファイを加えてみるのも良いです。現場を知って2年目‥‥というタイミングは、そういう時期なのかもしれません。

このブログでは、現場の技術的なことを中心に書いていますが、たまにはこんなことも書いてみました。書かないと、ココロの中に記憶しておくだけで、当時の私と同じ世代・境遇の若い人に、一向に伝わりませんもんネ。

業界という幻

私に限らず、多くの人はアニメ制作事業をおこなう制作会社や人々を総称して「アニメ業界」なんていう書き方をしますが、ぶっちゃけ、何らかの具体的な連合体は存在しません。作業が切羽詰まった時に労働力を融通し合ったりするので、何となく連合体めいた雰囲気があるだけで、作業費の適正価格を調停するようなアソシエーションやギルドが存在するわけではありません。もしそんな団体が業界を仕切っているのなら、私が知人から聞いたとんでもない作業費(高いんじゃなくて低い方です...)なんて、許されるわけがありませんもん。

つまりアニメ業界って、アニメ制作に関わる人々の「暗黙の総意の仮想人格」のようなものです。

「いや。自分はアニメ業界で確実に仕事をしているけど。」と言う人もいるでしょう。でも、実際は、どこかの会社との作業取引・作業契約ですよネ。源泉徴収の事業者欄に「アニメ業界」とは印字されてないですもんネ。

つまり、アニメ業界なんて言っても、実際はリアルにお付き合いのある制作会社数社を指し、さらに、横のつながりで聞いた作業事例を総合して、自分の頭の中で「アニメ業界のイメージを形成」しているのです。

ですから、アニメ制作事情全体を指し示す際は、「アニメ業界」という言葉を使っても当たらずも遠からずを得ますが、何か具体的な改善案や解決案を打ち出す時には、「アニメ業界」を引き合いに出しても雲をつかむような話になるのです。洗面所の水漏れがいよいよマズいことになってきたので、どうやって修理するのか、その費用と期間は?‥‥という時に、安倍政権の話題を持ち出して物価の話をしたところで、埒が明きませんよネ。

世界の平和を願うよりも先に、身近な町内の平和、家庭の平和の実践ですよネ。

家庭や町内が不和だらけで、その不和の集合体たる世界が平和になるはずもなし。

アニメ業界に何か人格を求めても、そもそもが幻のように実体を持たないのですから、「アニメ業界を改善しよう」じゃなくて、「自分たちの制作体制を改善しよう」が正しいスタンスです。

1978年のアニメ雑誌を懐かしく読み返すと、アニメ業界の「中の人々」は、何十年も同じことを言い続けていることに気がつきます。






タハハ、という感じですよネ。

つまり、アニメ業界はこのままじゃマズい‥‥なんていう座談は、忘年会の酒の肴と自覚して、本当に自分たちが実践すべきことは、自分の身の回りのテリトリーで行動を起こすことです。決して、アニメ業界の改善なんていう大掴みで抽象的な目標ではなくて、自分たちが椅子に座って作業している現場のリアルな改善と知るべきです。

じゃないと、いつまでたっても、「問題を認識している」アピールだけで終わるのです。

「こんなシステムがあったらいいな」ではなく「こんなシステムを作る」と自らが実践するのです。「人材を育成すべき」なんてツイートするばかりではなく、実際に「人材育成の教材や教程を作成する」ことから始めるのです。言葉を重ねるだけでは、システムやカリキュラムの構築など出来ません。

もういい加減、虚しいですよネ。言葉だけの問題認識なんて。

‥‥で、こうして書いている私自身が、書いているだけで行動を起こしてなければ、何の説得力もないですもんネ。なので、行動し続けるのです。そして、それが徐々に軌道に乗りつつあります。

特にベテランはさ‥‥、言葉ではなく行動で、若い人間に示さないとマズいと思うのですヨ。40〜50代はそういう年齢なのだと思います。

まあ、老いも若きも、業界という幻に惑わされることなく、今、自分の身の回りにあることから取り組んでいけば、やがてクラスタ処理のように徐々に改善の「レンダリング」が進むんじゃないですかネ。

時間

うーむ、異様に忙しい。女神さんの落書きをしていた1ヶ月前が懐かしい‥‥。‥‥でも理不尽な忙しさではないので、全然OKです。

人間の直感が敏捷に働いて、極度に集中する時間って限られているので、最低限の時間の確保はともかく、時間があるだけ良いものが作れるわけではないのです。むしろ、時間が長いとダレたり不要な迷いが出たりもします。

時間をかければ無条件に良いものができるわけではありません。

ただ、時間がないことが、指示だけを消化する「流れ作業」に繋がっちゃうと、作品はどんどんつまらないものになりますよネ。流れ作業で作った作品って、見る人間が見れば、すぐにバレますし。

同じ1時間をかけても、惰性で流して作業した結果物と、意欲的に取り組んだ結果物では、その後の展開が異なってきます。「じゃあ、他の人に頼みます」と言われるのか、「あなたに作業して欲しいんです」と言われるのか、そして、最終的には受け取るお金も変わってきます。

私は駆け出しの若い頃(18歳くらい)に、無我夢中でスケジュールを厳守しつつ絵コンテの内容を原画として具現化するよう努めましたが、テレビアニメの閑散期にはあっけなく仕事がなくなりました。まあ、ヘタクソだったのが最大の理由だと思いますが、その時に「単に作業をこなすだけでは、簡単に干されるんだな」と思ったのです。

同じ1カットの原画を描くにも、もっと意欲的な何かを作業に盛り込まないと、ただの「穴埋め要員」にしかなれないんだと痛感したのです。

‥‥で、自分なりの意欲的な何かを原画に込めるようにしたら、そこからパァっと道が開けてきました。その変わりようが、とても不思議でした。

ただ単に穴埋め的なカット割り振りではなく、監督さんや演出さんに「江面くんにここをやってほしい」と言われるようになったのです。思えば、20歳前後の頃に、「その事」すなわち「時間の使い方次第で自分の人生が変わる事」に気付いていなかったら、とっくにアニメに挫折して辞めていたかも知れないです。

作業する際の考え方一つ、時間の使い方の一つで、自分の人生は大きく変わっていくのだと実感しました。

「何で自分はくすぶっているんだ。自分だけ不公平だ。」なんて考えている人は、もしかしたら、自分自身が負の方向に歩んでしまい、「誰も評価してくれないんだったら、必要最低限のことしかしない。もともとギャラだってたいしたことないし。」とより一層の負のスパイラルに邁進してしまっているかも‥‥知れませんネ。

でもこれって、典型的な破滅パターンなんですよネ。負に取り憑かれた人間は、負の要素をより一層引き寄せてしまう性質が表れるのです。「自分は不遇だ。だから、何か良い話が来るまで、自分では何もしない」。‥‥典型的な負のサイクルパターンです。何もしなければ、良い話なんてくるわけがないのに‥‥です。

時間の使い方を、マイナスの方向に自ら振り向けていたら、その通りの結果になります。‥‥だとしたら、プラスの方向に振り向けたら良い‥‥のです。まあ、その実際のやりかたは、人それぞれだとは思います。歳を重ねるにつけ、時間の使い方も変化していきますしネ。

休む時間は必要です。しかし、活動している時間を、消極的に使うか、積極的に使うかで、人生って次第にマイナス・プラスのどちらかの極性に傾いていくんだよネ。

時間をどれだけ、自分自身にとって、有効に使えるかは、一生のテーマかもしれませんネ。

自信について

思うに、変動の時代に心がけるのは、足を地につけて立ち止まらず、惑わされず踊らされず柔軟に‥‥という一見、逆のベクトルに思えることを実践する‥‥ことでしょうネ。

足を地につけたまま立ち止まってしまったら現在とのギャップは広がるばかりですから、自分が現在持ち合わせている技術と経験を足場にして、しっかりと一歩ずつ進み続けることが必要です。

ネットの情報に容易に惑わされず、ツイッターなどのSNSの文言にも踊らされず、自分の考えをしっかりと持つ一方で、古めかしい慣習に囚われずに、柔軟な思考を絶えず意識することも必要でしょう。

これを真に実践するのはなかなか難しいことだと思います。ただまあ、漠然とした物言いですが、自分の中に確固たる「自信」があり、その自信を過信しなければ、少なくとも変な方向にはヨレていかないとは思います。

自信は強がることとは違います。自信があれば、強がる必要もないのです。むしろ、強がることは自信の無さや不安の表れでしょう。自信があれば、不必要に焦る必要もないですし、状況を鑑みて「お先にどうぞ」と譲ることもできます。

自信とは何か‥‥というと、小さな手応えと成功の集合体でしょう。決して、まぐれあたりの体験に基づくものではありません。「できるかもしれない」ではなく「できる」と言い切れる事が、それ即ち、自信です。「できる」と言い切れるのは、様々な過去の経験と技術の蓄積があるからです。

数少ない経験しか持たなければ、その経験を持ち出して強がりたくもなるでしょう。しかし、多くの経験を持っていれば、1つ1つ持ち出して説明するのも面倒ですから、自ずと強がる必要性がなくなります。淡々と状況と目算を述べるのみ‥‥です。何を確保して、どのように展開して、どんなタイミングでアクションするかが判っていれば良いのです。

そして、自信があればあるほど、できないものに対してはキッパリと「できない」と切り捨てられるのです。そして、できないものを回避して別の手段で攻略する思考へと柔軟に切り替えられます。私がベテラン監督と仕事をしてきて、信頼する由縁もそこにあります。そして、その仕事ぶりや現場術を学んできました。

ただ、どんなに自信があっても、本番に弱ければダメです。本番ではピシッと決めないと。

‥‥というか、本番に弱いと、そもそも確固たる自信が自分の中に生まれないので、「本番に弱い自信家」というのは実は本当の自信の持ち主ではないんですけどネ。ただの喧嘩っ早いヒトなだけです。そして、そういう無理なハイテンションに依る勢いは、数年で衰えます。

最近は、ネットを駆け巡る情報に翻弄されがちな世の中ですが、空元気ではなく、威勢でもなく、真の意味での自信を持っていれば、さほどブレることはないのでしょうネ。


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