ネットの言葉

ネットに向けて自分の言葉を発信するには、ブログなど色々な手段がありますけど、中でもツイッターは難易度が高いと感じます。スマートフォンで気楽に言動を発信できますが、言葉の音感や抑揚がすっぱり抜け落ちて、活字だけが表示されるわけですから、最悪の場合、伝えたい内容と真逆の受け取られ方をする事だってありえますし、実際にそのような事例も多いですよネ。

social networking service〜ツイッターとかフェイスブックって、まさにネットワーク、「繋がる」が合言葉のようですが、これも良い事ばかりではなくて、悪い事も相応にあると感じてます。例えば、誰かがツイッターで「誰かを軽く嘲る」ひとことを発信し、面白がった人々がどんどん参加して「嘲笑自慢大会」に花を咲かせていく‥‥というのも、まさに「繋がってる」と言う事なんでしょうが、大勢が個人を嘲り笑って繋がる姿って、‥‥気持ちいいもの‥‥ですかね?

人名をわざと誤変換して「チョイ嘲り」するのも、ネットではありがちですが、私はその行為を実行した人の「心の状態」が端的に見えるようで、辛くて読むのを止めてしまいます。侮辱以外の何ものでもない(=意図して誤変換しているのですから)自らの発言に対し、「ツイッターだからジョークっぽく偽装できる」という発言者当人の計算が見えてしまうのも辛いです。何か含みのある誤記を面白がって、サッと寄ってサッと離れる連中の関心は、短期間引き寄せられるでしょう。しかしその代償は大きいと感じます。実際、「人の名前を、解っていながら誤記して、からかってみせる」人を、信頼できるのでしょうか。

アカウント単位で繋がっている状態って、逆に言えば、アカウントを削除すれば簡単に切れる繋がり‥‥ですよネ。そんなアカウントの数ほしさに、本当に大切な繋がりや信頼を捨ててしまうくらいなら、‥‥少なくとも私はアカウントベースの繋がりなんていらないと思います。

言葉には、意図が作用するものだと思います。しかしツイッターって、意図や意志が、場当たり的な口語調によって歪められるし、会話になると「売り言葉に買い言葉」の泥仕合になりやすいように見えます。何か「人間の弱点の増幅装置」なような気がして、今でも手を出してはいません。

私はブログのような、推敲と編集ができるスタイルがちょうど良いです。このブログのアニメ制作関連記事で、たまに、ある種「一定の人々に嫌われる」ような内容を書いたりしますが、それは当然、意図したものです。キツい上り坂を進むのか、楽な下り坂を進むのか、ここを終点として立ち止まるか、後ろを振り返って戻るか、‥‥という岐路を前に、誰もが喜ぶ進路選択なんて実現不可能だと思いますから、「来るのか来ないのか」「行くのか行かないのか」バッサリとした意志を文に反映させているのです。‥‥なので、私にはツイッターよりブログのほうが適しているのでしょう。

ツイッターは、もともと長文を分割発言する事を想定してはおらず、テキトーな短い会話でヌルく繋がるのが本来の目的だったんでしょうね。とは言え、誰もいない場所で打ったツイッターの1文字は、誰もいない場所で口から発した1音とは、明らかに重みが違う‥‥んですよネェ。

201[4]

2014年が明けました。おめでとうございます。

無事に年を越せて、ひとまず安心です。新年の豊富は‥‥有り過ぎて鬱陶しいので、できるだけ手短に。

HDで高解像度はひと段落なんて考えてたら、もう既に次の波が見えてきたようです。しかし、4K8Kだと電力村周辺が盛り上げようとしても、出し物が無ければ空のハコです。当分、4K8Kは実写オンリー?‥‥まあ、確かにリアリティが格段に向上した4K8Kの実写映像は呼び物の1つかも知れませんが、反面、「目視の代用品」としての性質が浮き彫りになるのかも知れません。目視の現実世界とは明らかに異なるのに、「現実感」「リアリティ」でジャッジされるのだとしたら、何とも分が悪い話ですが、実写ゆえの宿命とも言えそうです。
*「実写だから現実だ」なんて薄い話をしたいんじゃなくて(実写映画だって作りもの、ですからネ)、「一般的に、実写は現実と比較されがち」という話の事‥‥です。

私の作りたいのは、現実世界には存在しない、アニメーション映像作品です。リアリティが格段に向上した映像フォーマットで、非リアルなアニメーション作品を作るという、何とも愉快な創作。画像がきめ細やかで、動きがキモチ悪いほどに滑らかなのに、映っているのはあくまで人の手による創造物の絵。私の目指しているのは、「リアルなのにリアルじゃない」という境地なのです。

ですから、今の商業アニメーションを4K8Kでトレースしようなんて、全く思っていません。表現も技術も売り方も「振り出しからスタート」です。

なので、この新しい取り組みは、今のところ、クリエーターもエンジニアもプロデューサーもスポンサーも、自分1人でやらなければ、先に進みません。役割分担が成立するのは、前例(というか成功例)がある場合のみ、なのです。

いくつかの「点」と「点」が繋がって「線」になり、「線」と「線」が集まって「面」になり、「面」と「面」が組み合わさって「立体」になる‥‥という手順に対し、個人が「正攻法」でトライしたところで、成すべき事の多さに挫折するのは必至です。私は現場肌の人間なので、異なった発想による「工法」を編み出す事で、高く何重もあるハードルをクリアしたいと考えています。

「新工法」を考える‥‥と言っても、もはや技術だけに固執するつもりはありません。技術という局所だけを見つめ続けていると、ダシを染み出させるばかりで、それ以上は何も発展しない‥‥ですからネ。‥‥まあ、これ以上は申しますまい。

やろうとする事の広さや高さ深さを前にして、ダメになる理由・できるはずがない理由を考えたらきりがない‥‥ですが、私はそんなに悲観的ではありません。何故かと言うと、私が成そうとしている事が「人の手でいかようにでも描ける、アニメ」を作る事だから‥‥です。

この世界は広くて色んな人々がいますから、私なんぞが手出しできない事は沢山ありますが、絵を動かしてお話を作る事には、どうやら手が届きそうなのです。絵を描こうとする意志と、コンピュータのお陰で。

あ、結局、手短にはならなかった‥‥。

ではまた1年、頑張ります。

デジタル音痴はアナログ音痴

また、わざとムッとするような表題で。‥‥最近は、歯に衣を着せるのが面倒になってきて‥‥。

最近よく思うのは、デジタルが苦手だ‥‥と言う人は、実はアナログも苦手だったんじゃないか?‥‥という事です。

単に、自分の手に馴染んだ使い慣れた道具に愛着を持っているだけで、特にアナログ全般に興味があったわけじゃないのでは。

例えば、紙と鉛筆で絵を描く事と「アナログが得意」という事は、同義じゃないですよネ。‥‥だって、「紙と鉛筆」で絵を描いている人でも、フィルムや光学レンズ、カメラ装置、照明装置、アナログオーディオなどに疎い人はいっぱい居ますもんネ。

実際、アナログの各種知識は、多少の読み替えでデジタルにも応用可能です。

アナログとデジタルの間に「線引き」をしたい人は、いっぱい居るようですけども、私が思うに、アナログの特性はデジタルでも十二分に応用可能・適用可能です。断絶してはおらず、むしろクロスオーバーしている部分も多いです。技術や知識は、相互で活用できます。

コンピュータの能力を活用している身近な人々を思い起こしてみると、皆、相応にアナログ的な物品(車、バイク、オーディオ、火器・ミリタリー、ファッション、楽器などなど)にも詳しい人が多いです。要は掘り下げてモノを見ているか否かで、アナログ・デジタルは副次的なように思います。

「デジタルは‥‥」という論調、実は、「新しい道具」に馴染めない、覚えるのがめんどくさい‥‥という事を、「アナログ vs デジタル」という図式にすり替えている人は、実は結構多いんじゃないかな‥‥と思います。多分そういう人は、自分の使い慣れない道具だったら、アナログ系でも拒絶すると思います。

ですから、「自分は紙と鉛筆で絵を描く時に、最大の能力を発揮できる」と言い切れる人は、潔いしかっこいいですよネ。決して、アナログ・デジタルの理由付けで弁解せずに。

一方、アナログを古いものとして見下す類いの人は、何か自分の劣等感・トラウマを「デジタルのブランド」で覆い隠そうとしているのかな?‥‥とも感じられます。

数年前のブログで「鉛筆のような低次元のものを高度なコンピュータと同じにするな」とコメントされた事がありましたが、「この人はなんで鉛筆を低レベルだと言い切ってるんだろう。この人はムラのない高品質なハイポリマーの鉛筆を自分で作れるとでも言うのだろうか。その鉛筆を使って人の心を動かす絵が描けるのだろうか。鉛筆の事をさして掘り下げた事もないのに、よくもまあ、鉛筆は低レベルだと言い切ったもんだ。」‥‥と呆れるのを通り越してヒトの悲しさを感じてしまった事があります。

「デジタルは先進的かつ高度で、アナログは前時代的で低レベル」というスタンスを取る人って、結局はデジタルを毛嫌いする人と同じ穴のムジナのように思います。「アナログとデジタルの両方を良さを知り、自由に使う」という発想に至らない点で、です。

デジタルもアナログも双方、長所と短所を内包しているわけで、要はどのように両要素を合理的に活用していくか‥‥だと思います。デジタル信者だのアナログ信者などと、あえて不自由な選択をする事はないと思うんですよネ。

*余談‥‥ですが、私が小学高学年の頃にやった自由研究は「なぜ鉛筆は紙に絵(字)を書けるのか?(=なぜガラスには書けないのか)」と「なぜカセットテープは録音できるのか?」‥‥でした。だって不思議じゃん? 理屈を知らないじゃん?。‥‥身近にあるからスルーしがちだけど、高度なアナログ技術だと思いますヨ。当時のうちの親もそうだったけど、技術的な理屈を知っているオトナはほぼいなくて、「そういうものだから」で済ませちゃうオトナがほとんどだったよネ。‥‥ちなみに、「なぜカセットテープは録音できるのか?」の自由研究は、「磁気記録」>「電気信号」>「信号化」>「音の記録」>「音のしくみ」というとんでもなく巨大で奥行きのある題目に直面し、小六の私にはとても手におえるものではなく、「ヤバいヤマに手を出してしまった」と途方に暮れたものでした。

核の傘の子

私は小さい頃から飛行機が好きですが、では飛行機好きがどの世代もみな同じ趣向かというと、大きく違うと思っています。銀翼・単葉・低翼・固定脚にみなノスタルジーを感じるかというと、そうでも無いような気がするのです。‥‥実際、確実に私は、大戦間の飛行機にはノスタルジーを感じません。

私がノスタルジーを感じるのは、センチュリーシリーズくらい以降の時代です。センチュリーシリーズとは、F-100からF-110(=F-4)の「100番台のアメリカジェット戦闘機」の事です。F-86とかはちょっとまだ遠いんですよね。

F-100
F-101
F-102 F-104
F-105
F-106
*F-110は改名によりF-4(有名な"ファントム"です)となりましたし、F-103, 107, 108, 109は試作&計画のみですから、実質はF-106までがセンチュリーシリーズと言えますネ。

もちろん、「プラモデルで昔の飛行機に馴染む」という道筋はあるのですが、少年期に「時代から受け取る雰囲気」と共鳴するのは、自身が生まれる10〜15年前の飛行機が限度だと思います。

私が少年時代の頃はまだ、「いつ第3次世界大戦が起こるか」「核攻撃の後、世界はどうなる?」と言った話題が、まさに「現役」でした。真綿のように吸収力の高い少年期において、時代の風潮や空気感は、当人に強い影響を及ぼすでしょう。私が小中学生だった頃は、夏休みともなれば必ず「世界の軍事兵器」的な番組があり、エンディングは「イマジン」で閉める‥‥というのが定石でした。NATOとワルシャワ条約機構軍、戦術核の使用、水爆は1発で関東一円を壊滅させる、核よりも怖い中性子爆弾‥‥などと散々恐怖を煽っておいて、最後にイマジンを流されてもなあ‥‥と、子供心に釈然としない感情を抱いたものです。

怖い時代ですが、表面的には平和でした。そんな曖昧な時代の空気が、私のノスタルジーと一致しているようです。私にとって銀翼は「死の鳥」のイメージです。良い要素ばかりがノスタルジーの中核を成しているとは限りませんもんネ。「田園に死す」もそうですけど。

ちなみに、アニメは時代(や地域)の空気を、制作当時には意図していなかった角度から伝えてくれる事があります。ディズニーの短編では、ドナルドが「かちかちタマゴ」(中に何が入っているかは‥‥)を掴んで爆発し、地球の裏側まで穴が空いて落ちていく‥‥なんていう話がありました。‥‥ウソ?と思いますが、50年代のアメリカらしいスタンスと言えます。マジンガーZでは、暴走したミネルバXが向かうのは原発でしたが、すなわち、「ブッ壊れたら絶対にOUT」という意識はもうその頃からあった‥‥という証ですね。


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