東京でオリンピック

東京でオリンピック…ということは、家電メーカーがわきわきと旺盛に活動するという事です。

家電メーカーが新しいテレビを売るには、それなりの「売り要素」が必要です。

総理大臣が4K8Kのテレビを視察したそうな。

新しいフォーマットの新しいテレビが出るという事は、オリンピックだけでなく、他のコンテンツも必要になってくる‥‥という事だすネ。

思えば過去も、そうして「でかいイベントに絡めて」アップデートしてきたんだよね。

校正

不定期に書き続けているこのブログ。読み返すと、変な文(接続詞とか同じ言葉の繰り返しなど)をちらほら発見します。なぜ、書いてる時に気づかんのか。

修正前:
「Finderの検索対象から、起動ディスク直下の「ライブラリ」「システム」から外されて久しい」
修正後:
「Finderの検索対象から、起動ディスク直下の「ライブラリ」「システム」外されて久しい」

順次、発見したものからチクチク直していますが、修正箇所が多いのがイタい。

面倒な最近のOSX


MacOSXは、バージョンを重ねるごとに、システム関連のフォルダやファイルをユーザから「隠す」ように仕様を変更してきています。

Mountain Lionでは、ユーザフォルダのライブラリも隠してしまったので、いちいち面倒です。
*ちなみに、Mountain LionでユーザのライブラリフォルダにFinderで潜る場合は、Finderの「移動」メニューから「フォルダへ移動...」を選び、「/Users/自分のユーザ名/Library/」を入力して「移動」ボタンをクリックすれば、フォルダのウィンドウが開きます。自分のユーザ名はホームフォルダの名前を確認すれば良いすネ。/varや/etcもこの方法でFinderでフォルダにアクセスできます。

また、いつの頃からか、Finderの検索対象から、起動ディスク直下の「ライブラリ」「システム」が外されて久しいです。これも凄く面倒。「/var」「/etc」を隠したいキモチは、MacOSからの経緯を考えれば解るんですが、ライブラリのプリファレンシスくらいは検索させてくれよ‥‥と思います。

もちろん、findコマンドで検索すれば、あっけなく検索できます。(要su,sudo

つまりは、ターミナルを使う類いの人とそうでない類いの人を、明確に線引きしとるんだね‥‥という事です。「ターミナルを常用してないような人は、システム関連書類を迂闊にイジるな」という無言の威圧を感じます。

「ここから先は"Mac"ではなくて"UNIX"だ」との無言の警告は、「/var」「/etc」あたりを不可視にしている事で解りますし、実際、MacOSノリでイジってはならない書類がわんさか収納されています。MacOS時代にはなかった書類群ですから、MacOS9からのユーザの移行を考えれば、当然の処置だったとは思います。

しかしなあ‥‥システムの「初期設定」「機能拡張」フォルダくらいは、MacOSで検索や操作をしたいものです。まあ、今でも「場所さえ解っていれば」管理者権限で操作は可能なんですが、「場所を検索する際に対象から外されている」ので、探す際にどうしてもターミナルの出番となります。

私はMac68kのNetBSDでコマンドラインを扱ったのであまり苦には感じませんが、常用はしておりません。フォルダの中身を見渡すのは、Finderで普通に操作しますし、複製や削除もFinderです。apacheの設定書類をいじる時でも、miやTextEditを使うクチです。viは操作法を忘れがちなもので‥‥。システム書類だろうが、出来るだけFinderなどMacOS定番の操作方法で完結したいのです。

しかしMacOSXはバージョンを重ねるごとに、ユーザの能力をどんどん「低く見積もった」仕様へと変更していきます。「あんたら、システムなんて手に負えないでしょ?」と言わんばかり。

ターミナルがあるからいいか‥‥と思う反面、軽く屈辱的なキモチ。

さえずり

ブログは日記、ツイッターはつぶやき、‥‥とか言われますけど、普通、日記やつぶやきって私的な範囲に限られるものであって、不特定多数の人々に流布するものじゃないですよネ。つまり、結局は「みんなに聞いて欲しい、見て欲しい」事を公開するのが、ブログやツイッターなわけです。

「このブログは私の日記であって、ごく私的で内密なものだ」なんて言いつつブログを書いて公開する人がいたら、白々しいにもほどがあるというものです。私的なものを全世界に公開した時点から、それは私的なものではなく、実質的に公的なものになります。なので、私はブログやツイッターを、「プライベートな日記」や「つぶやき」だなんて、とても思えないのです。

しかしまあ、ブログやツイッターへの「日本人らしい扱い方」に至るキモチはわかります。「自分からは言いたくないけど、それとなく気付いて欲しい」というキモチ。ツイートが「つぶやき」なんて呼ばれる事自体、「大きな声では言えないけど、私の言葉を聞いて」というキモチの表れなんでしょう。日本人の平均的なキモチを表した和訳ですよネ。

「tweet」って普通に訳すと「さえずり」ですよね。さえずりって、鳥同士がコミュニケーションするために使うのですから、決して「つぶやき」なんかじゃなく、短文による情報伝達です。

つまりは、どんなに気軽なスタンスであろうが、ツイッターやブログって、特定対象に向かって限定的に送信するメールとは明らかに違って、全世界の人々に自分の言葉を流布する「公言」行為ですよね。どんなに砕いたスタイルの文だろうが、どんなに短い文章だろうが。

今年の夏は、ツイッターで色々あったみたいですが、その発信源の人々はおそらく、漠然とツイッターを「気軽」に身の近くにおいて、漠然と使っていたんだろうな‥‥と思います。

しかし、漠然‥‥と言いましても、実は心の底で、自己顕示の欲望のバイアスが作用していたとは思います。自分を他者に意識して欲しい、知って欲しい‥‥というキモチが皆無な人は、このような公開の場で言葉1つ発する事はないでしょうから。

ツイッター、ブログの類いは、公開処理を実行した時点で、「誰かに受け取って欲しい」という前提ありきです。この事を掘り下げて考えてみると、ほんの少しだけ、作品表現行為と重なる部分がある‥‥とも言えます。ただし、「他者に自分を見せたという"覚悟"」には大きな差がある‥‥とは思います。

絵を描く、作品を世に出す‥‥なんて行為は、自己顕示の「ハイテンション・ザ・ベストテン」みたいなものです。私は小さい頃から絵を描いて人に見せていましたが、絵を見た人が「良いね」と言ってくれるのが最高に嬉しかったものです。絵の中で自己を顕示して、「良いね」と言われればまるで自分が好かれたかのように嬉しくなり、「良くないね」と言われれば存在を否定されたかのように落胆する。‥‥「人に何かを見せる」というのは、そういう性質の行為だと思っています。

「創作行為は、自己の表現であって、他者なんか関係無い」という人は、わざわざ他人に自分の創作物を見せる必要はないですよネ。自分だけで楽しむ創作行為は全くアリです。しかし、そういう場合は自分の部屋だけに飾っておけば良いのです。「人に見せてもいい」「見せたい」と感じた時点で、すでに「他人を意識」しているわけです。でもまあ、「他人を意識してばっかりいる」と逆に「愛されない」原因にもなりますから、難しいのですけれども。‥‥自己露出の押し引き、駆け引きが難しい。
*他人の好みばかりを気にして、自己を顕示しないのは、結局「嘘つき」ディテールを増す事に繋がります。また一方では、自己を顕示するには、顕示する相手・対象が必要です。自己の表現を研ぎすます事は、決して他人を排除する事ではなく、むしろ目に見えぬ他者との強烈なシンクロニシティを獲得する事でもあります。それらをバランスする事は、とても難しい事でしょう。‥‥まあ、いずれいつか、そんな話題にも触れられたら‥‥と思います。

このブログはもちろん、他人の視点を常に意識しています。公開してるんだから、当たり前の事ですよネ。同感だけでなく、反論や嫌悪感も意識しております。現時点では、むしろ、同意・同感してくれる人のほうが圧倒的に少ないとすら思っております。人口全体の中で多数を占めるのは、中道やや体制寄りの日和見層でしょうから、私が書き綴っている事は、耳障りの悪い事が多いでしょう。その点も「覚悟」しております。

ブログは文の推敲が出来ますが、気軽に発信できるツイッターのほうがむしろ難易度が高いと思います。「文責」という面において。‥‥即行で「文責込みの短文を作る」のって異様に難易度が高くありませんか? ‥‥まあ、ツイッターごときと油断して文責など考えた事もないガードの緩い人が、話題にのぼりがちになるんでしょうけども。

だから、ツイッターを「上手く利用する」人々って、ちゃんと「体制」を組んでいますよね。戦略に基づいた「つぶやき」。故意に話題を呼ぶ書き方をする人もいるでしょうし、それも戦術・技術なのでしょう。一般人が「気軽なつぶやきツール」と思い込んでいる状況を上手く利用して‥‥ね。

ツイッターもブログも、公開した時点で「自分を全世界公開」する行為です。‥‥考えてみれば、凄い事です。しかし、それゆえに、言葉が好意的にも批判的にも受け取られます。どんな「つぶやき」でも、他者が絡んできます。公開までのプロセスは簡易ではありますが、実質はシビアな事だと思います。

ちなみに‥‥このブログのカテゴリ「大きなひとりごと」は、「つぶやき」に相対するカテゴリとして設定しております。ほんとに独り言をつぶやきたいなら、わざわざブログで文字を使って書かんですわな。誰かに読んで欲しいから書くのです。

映像の世紀「世界は地獄を見た」

戦後50年の1995年にNHKが放送した、NHKスペシャル「映像の世紀」シリーズ、特に第5集「世界は地獄を見た」は、今でも記憶に残る番組です。この「映像の世紀」シリーズは、映像制作を志す人は、1度は見ておきたいものです‥‥が、DVDの高価過ぎる価格設定(1枚で定価7,120円、中古で3,000円くらい)で、特に学生さんにはあまり大手を振って勧められません。‥‥なんで、再放送したらチェックしてほしいですネ。

私はレンタルビデオ屋さんが登場した1980年代中盤以降、アニメーターで稼げるようになってから、頻繁に戦争記録映像のVHSビデオを借りて見ていました。かっこいい戦闘機や戦車が好き‥‥なんていう次元で自分が落ち着いちゃう事に、釈然としなかったからです。兵器が生み出される背景や経緯、戦争が起こる理由、実際に起きた戦争をナマで記録したもの‥‥などを、書籍やビデオ、テレビ番組で追いかけていたのです。

その頃の私(19〜20歳当時)が一生懸命見たのは、「秘録・第二次世界大戦」という1970年代にイギリスで制作されたドキュメンタリー番組です。小学生の頃、12チャンネル(テレビ東京)だかで放送してたのを観てましたが、オープニングが子供心に怖かった印象があり、ずっと心にひっかかっていたので、レンタル屋さんで見つけて借りたのです。

ちなみに、その「秘録・第二次世界大戦」は、ヒストリーチャンネルで定期的に放映されるようなので、ケーブルTVが視聴できる人は是非。‥‥ショッキングな映像も多いですが、映像作品を制作する人間ならば、見ておくべき、知っておくべき映像だと思います。

話を戻して。。。映像の世紀第5集「世界は地獄を見た」は、有名な映像から知らなかった映像まで、様々盛り込まれています。編集された映像クリップの中には、「これはモノクロではなく、カラーがあるはず」と、出所が「?」なものもありますが、一方、未見のホームムービーで撮影された映像もあり、戦後50年にふさわしい力作だったと思います。加古隆さんの音楽も、「映像の世紀と言えば、コレ」と言うくらい、印象的ですね。

「世界は地獄を見た」では、「第2次世界大戦は、大量の民間人が犠牲になった戦争だった」と繰り返し語られます。‥‥ただ、その言葉に感傷的になって映像を眺めるだけでは浅すぎます。忘れてならないのは、その「犠牲の前段階」です。いくら、どこぞの誰かがわめき散らしても、協力者、支持者がいなければ、何も事は起こらないのです。民衆が支持した政党、民間人から構成された兵員、民間企業で作られた兵器によって、戦争が「実施」された事も、しっかりと記録映像から受け取るべきでしょうね。

アニメを作るからといって、アニメだけを見てればいい‥‥とは、私は到底思えません。娯楽アクション・戦争映画だけでもダメだと思います。チューニングされリミッティングされコーディネートされた映像では、恣意的に情報が整理されすぎています。食べやすく調理済みの作りものだけ観てると、映像屋としての発想が「レンジでチン」レベルに終止してしまうと感じるからです。
*もちろん、ドキュメンタリーと言えど、構成・編集という人為的操作は入るのですが、全てが作り物の作品とは根本的に性質が異なります。ドキュメンタリーを過信するのが危険なのは事実ですがネ。

あまりにもナマな戦争記録フィルムを「常識フィルター無しのTHRU状態で」観て、凄い、かっこいい、怖い、恐ろしい、酷い、悲しい‥‥と様々に感じた自分の自己分析をする事が、たとえ作り物を作る我が身であっても、映像制作時の発想・イメージングの深い基点となると思います。「なぜ自分は、それをそのように、感じたか」という事を、深刻に思い悩ませてくれるのが、戦争の記録フィルムだったりするのです。

しかし、あと2年で戦後70年ですか。‥‥という事は、1967年生まれの私も相当‥‥。

情報で先回り、そして自己収縮

今は何でもググって情報を得て、様々な物事に対して、事前に準備したり対応できるようになりました。

こんな便利な世の中になったのは、いつ頃くらいだったか。

こうした状況の中、ありがちなのは、「結局、何もしないまま終わる」事です。情報をネットから収集して、自分の行動の先回りをして、結果を予測して、場合によっては何の行動もせず、ディスプレイの前に座ったまま自己完結する‥‥というような事。「無駄な事はしない」とでも言いましょか。

一見するととても合理的に思える、この行動パターン。実は、ちょっと危ういです。‥‥だって、多数の情報を処理しているのは、その時点での経験値の浅い自分の脳ですから、「有用」「無駄」に対する判断ミスは、おそらく多分に内包されておるのでしょう。

まあ、どこかレジャーにお出かけするのに、事前に経路をネットで調べようとか、その程度のレベルだったら、多少の判断ミスなんて深刻ではありませんが、自分の能力を開発するような場面に、ネットに転がる情報で自分を行く末を「安易にジャッジ」するなんて、‥‥まあ、いかにも危ういですよネ。

しかも、「ネットでググって、最小の手間で結果を得る」なんて事、今じゃ誰もがやってる事であり、誰もがネット上の共通したデータを取得してるわけです。パソコンの前に座って、真剣に2時間も検索してれば、だれでも「ひと通りの知識」を得られます。

ネットの検索名人になれば、知識の量は増やせるかも知れません。

しかし、ネットで得た知識は、経験値じゃないよね。

情報が少ない頃って、「しょうがないから、やってみる」事になって、それが経験値の取得に繋がったのですが、今は、何でも「先回り」して無駄を回避して、実際にやってみる事もせずに、解った気になるだけで終わりがち‥‥なのかも知れません。

これは私自身にも、かなり言える事で、世間の傾向どうこうではなく、何よりもまず、自分自身の身の丈の感覚として、キケンだと思うわけです。

例えば、前回の「万年筆で筆記体」。ネットでは「今どき、筆記体なんて書くやつはいない。アメリカでも筆記体はほとんど使われなくなっている。」なんて情報を目にするわけです。以前の私なら、「だったら筆記体なんて書けなくて良いよね」と、何もせずに終わっていたのですが、「情報で先回りするキケン」を気取るようになった今は、明確に、「別にアメリカの現状がどうだとか関係ない。筆記体の美しさに触れたいのであり、有利とか不利とかは別の側面だ」と言い切れるようになりました。

これだけ情報を得やすい世の中になったからこそ、逆に、「得た情報を基準にジャッジする事のキケン」を実感できるようになった‥‥のかも知れません。

情報って、使い方を誤ると、自分の機能を拡張するのではなく、収縮させる方向にも作用しますよネ。

ネットの情報ではいくらYESと書いてあっても、もし直感的にNOではないか?と思ったなら、試しにアクションしてみれば良いと思ってます。自己完結せずに、アクションできるかがキモ、ですネ。‥‥で、結果、やっぱりYESだったとしても、徒労に思えたアクションから少なからず「経験値」が得られます。パソコンの前で自己完結しているよりもはるかに、経験値が蓄積されていくよネ。数値にはやけに詳しくても、締め付けトルクの感触1つ解らないんじゃ、実戦ではどうにもならんす。

でもまあ、このブログのこの文字列も、結局は有象無象のネットの情報の一部分ではありますネ。どう取得するかは、人それぞれですネ。

生の字

私は字が奇麗ではありません。加えて、ここ10年以上、キーボード入力ばかりなので、文字をどんどん忘れています。

字が汚いのは何故か。理由は簡単で、字を奇麗に書こうとしてないから、ですね。

以前、知人に「自分は字が汚いと言うけれども、実は、根本的に、字を奇麗に書こうと思ってないんじゃないの?」と言われて、‥‥たしかに、そういうフシは自分にある‥‥と、何とない会話の中の指摘に、いたく感じ入った事があります。字を書くのをめんどくさがったり、「読めりゃいい」的に文字を書き綴ったりしてれば、そりゃあ、奇麗な字にはならんだろうな‥‥と思ったのです。

まあ、今でも日本語を奇麗に書くのはデキてないんですが、英字くらいは普通レベルに書けないかな‥‥と感じ、そういえば昔(小中学生の頃)、筆記体が奇麗で好きで随分練習したな‥‥と思い出して、最近は英字を万年筆で書くようにしています。

万年筆といっても、高級なものではなく、普及価格帯のものです。まあ、それでも、ボールペンに比べれば高価なんですが、8千円とか2万円とか「そうそう気安く買えない価格」ではなく、1,000〜3,000円くらいのものなので、いくつか買って書き味を楽しんでいます。

万年筆もほんとに色々あって、自分のイメージにピッタリくるものと出会えると、かなりハマります。逆に相性の良いのに出会わないと、万年筆全体のイメージを「自分は別にいいや」とひとくくりにしてフタしてしまうかも知れません。過去の私がそうだったので‥‥。

私は万年筆の筆記に、どうもカリグラフィ的な要素を多分に求めているようで、やや癖のあるものが好みです。違う言い方をすると、「表情が出る」ものが好きなようです。

例えば、ラミーの「ジョイ」の表情は大好きで、いわゆる「筆記体っぽい」絵になります。



私が愛用しているモデルを比較すると、以下のようになります。


*意外にLamy SafariのEF(極細)とM(中字)の差が無いですネ。EFで書いてるときは、「極細」感を感じるんですけど、結果は僅差。

ご覧のように「筆記体」感は、圧倒的にラミーのジョイが抜きん出ていますね。別に書き方は変えてないので、これは純粋にペンの特性です。
*各モデルのペンの線の太さにあわせて、字のピッチは無意識に調整していますが、気分的には全く同じ書き方です。

もし、極細の字が書きたい場合は、国産のEF(極細)を使うと、神経質なくらい、細い線が引けるようになります。私は極細で書くような用途(メモ用紙に細かい字でメモをとる‥‥など)の場合は、コンピュータでのテキスト入力にしちゃうので、国産のEFはあまり出番は無いのです。ラミーのEFはご覧の通り、「インク」感を残した細字なので、常用しています。

ラミーのジョイで使っているインクは、パイロットの「iroshizuku」シリーズの「月夜」というインクです。いわゆる、字を書くのを楽しむ人のための製品で、ビンのデザインがなんとも優雅です。


*ガラスの工芸品のようなインク瓶。たとえインクが空になっても、こんな奇麗な瓶では、捨てられないす。インクがなくなった空き瓶を、次はどんな使い方をしようかと、「デザインが良いので、都合、エコ」な商品ですね。



*カラーバリエーションはかなり豊富みたいです。私は今のところ、月夜だけしか持ってませんが‥‥。

ラミーのコンバータにちゅうと吸わせて、ジョイに装着すれば、色々なインクが使えます。





私は普通に文字を書く場合は、ペリカンのブリリアントブラックを使っています。セーラーだろうが、ラミーだろうが、ペリカンのインクです。別にこだわっているわけではなくて、今までトラブルが無いから、です。

ちなみにラミーのジョイは、3種類の太さが出ていますが、お勧めは一番太い「1.9mm」です。どうせやるなら、一番表情の出る1.9mmでしょう。


*水平にバッサリ切断されたペン先が、ジョイの描線のヒミツ。文字のデザイン上の角度に応じて、細い線から太い線まで、変幻自在に表情が変わるのです。


こうして、たまに万年筆を持って、字を書いてみると、その生っぽさが新鮮だったりします。

デジタルに囲まれて、デジタルで創作活動をしていると、「デジタルの予定調和」に落ち着きがちになります。デジタルが目新しかった前世紀ならいざ知らず、今世紀になってもなお、「デジタルで何でもできる」なんて考えてると、その思考のスキの多さが、色々な場面で染み出してくるように思います。

デジタルを使いこなすのは、いわずもがな最重要に必須な事ですが、だからと言って、生な感覚を忘れて良いわけでもないのです。デジタルを使いこなすための修練と、自分のナマの欲求を研ぎすます事は、全く等価で重要な事です。

自分の手の先から、ちゅるりと迂闊に飛び出す、あんな文字やこんな文字。ふと、見つめてみると、自分の事ながら興味深い、深層の探求が可能なのです。


イジめられると強くなる

私がatDBや、TSフォーマットや、xtoolsなど、自己開発のツールやフォーマットを作ってきた背景には、過去、Macは世間から冷遇されていた‥‥という明確な事由があります。

冷遇される‥‥つまりは、ソフトウェアや機能拡張のハードウェアが少ない‥‥という事です。作業上で色々なサブツールが必要になった際に、Macは選択肢が極端に狭いのです。

でも、その当時に感じたのは、ソフトウェアの量の多いWindowsでも、「他者の作ったツールの端々を繋いで、何とか綱渡りで、作業をこなす」ようなやり方では、いつ転んでもおかしくないという事でした。

ただ使わせてもらうだけに終始する、開発能力のない人間はミジメである‥‥と痛感したのです。

ただ、Windowsはたとえ「綱渡り」でも、どこかの誰かがつくったもので繋いで生きていけますが、Macは他者からのお裾分けすら存在しない事が多かったので、そうした「ミジメさ」を明確に意識できたのでしょう。

ゆえに、色々な事を覚えた‥‥のです。

近年、よく思うのは、ヒトって、イジめられたり窮地に立たされたりしないと、強くならないのかも‥‥という事です。

機能が足りないのを、どうやって工夫でカバーするか。ソフトウェアを揃えられないのを、どのように別の切り口をもって、映像表現するか。

そうするうちに、どんどん映像表現上のサバイバル能力に長けてくるんですネ。

Nukeを使ったからって無条件に絵が良くなるわけじゃないし、高いプラグインを使ってても心を揺さぶらない映像なんてヤマほどありますし‥‥、高価な鉛筆とプレミアムな紙を使えば、誰もがグっとくる絵を描けるわけじゃ‥‥ないもんね。

これは、逆の見方で、例えばライバルに勝ちたいなら、そのライバルを目一杯甘やかせば良い‥‥という事なんでしょうね。楽をして、悩まずに生きていけば、危機管理能力やサバイバル能力は、どんどん落ちていきますからネ。満ち足りていれば、工夫をする事も無くなりますよね。

窮地の状況やストレス、困窮、逆境って、言い換えれば、壁をブチ破るエネルギーでいうところの「モンロー効果」みたいな要素です。ただ単に情熱だけでは、地道な「足し算」だけに終止して、「かけ算」「べき算」は起こらないですからネ。

何らかの状況にイジメられると、従来自分の持つ能力に加え、周囲からのより大きなエネルギーが作用し一点に集中し、過去では想像できなかった突破力を得る事ができる‥‥のです。

イジメを負けるフェイズに作用させるか、勝つフェイズに作用させるか‥‥は、まあ、その人次第、ですね。


ちなみにモンロー効果。こんなモンロー効果もあるんか??

【モンロー効果】
 高層ビル街の路上で、スカートがまくれ上がるように風が吹き上がる現象。マリリン=モンローが映画「七年目の浮気」の中で見せた、地下鉄の換気口でスカートを押さえる場面から。


なんじゃ、そりゃ。

出来ない理由

色々な理由を挙げて、「だから出来ない」という方向へと導く人は、結構な数、存在します。まあ、そういう方向性の人間も色んな意味で必要なんですが、ふと人類の歴史をふりかえると、もしそういう人間全てで世界が構成されていたら、世の中、原始時代のまま、だよね。

できない理由を挙げるには、それなりの知識が必要ですから、経験者はとかく「出来ない理由を軸線に据えて、物事を考える」傾向があります。特に日本人はそうなりがち、かも。

私も、様々な理由で弱気になったりして、「こんな事、実現できるわけない。なぜならば、これこれ、こういう理由があるからだ。」なんて、自分の挫折感を「正当化」しようとする愚行に走る事があります。人間、強い面だけで構成されているわけじゃ、ないですもんネ。

しかし、今まで得てきた経験や知識は、出来ない理由付けではなく、出来る理由付けで用いて、新しい方向性を導き出していく「べき」なんじゃないか‥‥と、自分に言い聞かせて、気を取り直すのです。

「出来ない理由」を経験則から算出するのと同じように、「出来る理由」を経験則から算出しても良いじゃないか。

経験則をプラスに持っていくのか、マイナスに持っていくのか。

慎重な人間、攻める人間、活発な人間、物静かな人間、色々居て良いと思います。しかし、根底では、前へ進もうとする気概が一致している必要があります。

マイルストーンとなる作品は、その多くが、「出来る理由で動く」人間たちの手で作られてきたと思いますし、少なくとも私は、そういう現場を何度も見てきました。

皆が、出来ない理由を元にして、手をそこそこ抜いて作った作品なんて、‥‥いいものに仕上がるわけ、ないじゃないですか。

出来ない理由。‥‥落下より上昇のほうがカロリーを必要としますから、容易に、多くの人間が「落下」〜出来ない理由のベクトルにハマってしまうのかも知れませんネ。

私は、未来のアニメーション作品の作り方を模索・研究しているうちに、作品そのものを明確に「樹」としてとらえるようになりました。新しい作り方はその「樹」としての制作が可能なのです。

作品がリリースされる際に用いられる映像フォーマットは「当座のカタチ」であって、リリースされる商品は、樹たる作品からの「一時的な収穫物」に過ぎない‥‥という考え方です。つまり、「フォーマットを、作品の下流に置く」という事を明確に意識した制作運用スタイル‥‥と言えます。

だってね、フォーマットにガチガチに合わせちゃうと、後で全く潰しが効かないんだもん。

私は2000年に入った当時くらいから、アニメを2:3プルダウンで制作するのに反対でした。絵がぶっ壊れたプルダウン画像をマスターにする「後で扱いづらいフォーマットでわざわざ作る」事に、大きな疑問‥‥いや、反発を感じていたのです。

DVDは既に24pモードを持ってましたから、2000年当時にデジタル映像ワークフローを24で運用しても、決して奇抜な事では無かったはずです。今でもDVDに24pで収録できる事を知らない人は多いですよね。

「機材の問題」ってよく言うけど、私が思うに、正確には「機材を使う人間たちの問題」だと思います。加えて、「無知(というか不勉強)に由来する遠回り」か。

私は周りがプルダウンで処理していた時、自分で仕切れる作品については、「24p」「30p」で作って、ちゃんと納品しておりました。別に何のストレスもありませんでした。慣習、因習ではなく、然るべき合理的なフローを実践しただけでした。

ようやく現在、24pで運用するのが「普通」になりました。つまり、過去の出来事は、結局は旧い慣習で凝り固まった頭の恐ろしくカタいどこかの誰かが、29.97にしがみついてただけ‥‥だったのです。その影響で、数年間は確実に、プルダウンの絵で映像を作り続けていたわけです。

24ベースで編集してマスターを作り、放映用に29.97へ変換する。こんな簡単な、誰でも考えつく事を長らく実践してこなかったんだよね。昔はフィルムでつないでテレシネしてたじゃんか。旧態にしがみつくわりに、温故知新を実践できないんだよね。

1カットごとにプルダウンなんかしちゃうからさ、‥‥繋いだムービーのプルダウンフェイズはバラバラで、復元が物凄く面倒な事になって‥‥。‥‥まあ、1カットごと切り出して、プルダウン解除すれば、リサイズなどはできるようになりますが、いやはや、すんげえ、遠回り。

さらには長らく、テープで運用してたしね。デジベとかHDCAMとか勘弁してくれよ、って思ってました。ホントに、嫌々、テープに落としてましたね。高速ネットワークが張り巡らされたこのご時世に、何やってんだ‥‥と、怒りを通り越して情けなく悲しくなりました。

デジベやHDCAMのような低画質の映像がマスター??? 悪夢。‥‥しかし、「殿様」が選択したフォーマットだから、それに服従するんか。

この「フォーマットの下僕」の感覚、何とか、ならんか。

結局、作品造りは「今この時だけのもの」‥‥という感覚が、根底にあるからだよね。さらには、映画館やテレビ局が「親方」「殿様」っていう「子分の感覚」「家来の感覚」も根強いんでしょう。

もうそろそろ、映像コンテンツの最上位は、自分たちが作り上げたマスターにある‥‥という感覚を、「確固として自覚」しませんか?

映画館やテレビ、DVDやBDには、「樹から採れた果実」を分け与えているだけ‥‥です。「うん? 今度はどんなフォーマットで欲しいの? はいはい、じゃあ今回はHDで出荷ね」という塩梅です。

映画館やテレビに「献上」するんじゃないです。「樹から実を分けてあげる」だけです。

プランテーションの農奴のような感覚からは、もうそろそろ、脱皮したいと思いませんか。樹を植えて、育ててみたいとは思いませんか。

アニメ界はいつまで経っても、農奴の集落なんでしょうか。

なぜ、いつまでも、MasterではなくSlaveのままなんですか。

今すぐ出来ないから、未来も出来ないんでしょうか。

私は、作品を作り上げるカロリーを、「フォーマットに合わせた映像を作る」ために使うのではなく、「作品の幹を育てる」ために使いたいです。長きにわたり、甘い果実を実らせ続ける大樹のために。


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