高画質

1992年東京のハイビジョン映像がYouTubeで観れます。

 

 

映像が鮮明なのは、純粋に良きことです。不鮮明よりは鮮明なほうが、色眼鏡を挟むことなく、当時の雰囲気を思い出せます。

 

働くお兄さんやおじさんは、2019年現在と見分けがつかないことも多いですが、女性のファッション(メイクも含め)で1990年前後だと言うのが判りますネ。ほとんどの女性の髪の色が黒髪なのも、この時代までの大きな特徴だ‥‥というコメントをどこかで読んで、なるほどと思いました。

 

私が、絵であっても、東洋人のキャラは黒髪が好き‥‥というのは、この時代を0〜20代と生きた強い影響かも知れないな‥‥と改めて認識したり。

 

 

映像には、時代ごとの技術に起因する「何か、勿体振った」雰囲気があって、「あたかも当時の情景が、その当時の映像記録技術の品質上のディテールであったかように、皆が錯覚」しがちです。映像技術自体は故意に色付けしているわけではないんですけどネ。

 

第二次世界大戦における太平洋戦域の戦争映像も、もしハイビジョンで残されていたら、「昔の出来事」ではなく、まるで昨日の出来事にように鮮明でリアルに再生されるでしょう。

 

もし安土桃山時代にハイビジョンカメラや4K60p撮影のiPhoneがあったら、信長も秀吉も家康も、同じように淡々と高画質で映像記録されていたんだと思います。リアルに生きていたひとりの人間として、アレキサンダー大王も卑弥呼も仏陀も、間近で見るかのごとく、ハイビジョンや4K映像で体験できたでしょうネ。

 

まあ、映像機器が発明される時代以前はともかく、現代においては、かつてその世界に生きていた人物や出来事が現実だった‥‥ということをできるだけ「現実味」をもって未来にも体感するには、やはり映像のクオリティは高ければ高いほど有効でしょう。

 

 

ではアニメはどうか?‥‥と考えると、あまりにもシンプルですが、「作風によりけり」ですね。

 

アニメは現実の映像ではないので、作風次第で如何様にでもコントロールできましょう。

 

ただ、前にもブログに書いたように、あまりにも低解像度(例えばプレステ1のムービーは320x240 15fps)なのは、後々に鑑賞が辛くなるので、2020年代は最低でも2Kドットバドットで作るのが標準になるとは思います。

 

私は絵を描くがゆえに、線画に深く関わるので、4Kの生々しい描線は私の考える表現に適しています。今後、4KHDRテレビがもっと普及して、作画の作業環境も4Kプレビューが当たり前になれば、線画と解像度の密接な相互関係をリアルに意識できるようになります。

 

まあ、絵の作風・画風の幅は、極めて幅広いので、よほどエッジがぼやけて古さが目立つようでなければ、2K以上で適宜品質を決定すれば良いと思います。

 

 

 

30pとはいえ、1992年のハイビジョン映像が残っているのは、何か嬉しい気がします。D1(DVD)サイズの映像は、やっぱり不鮮明で薄皮をかぶせたような映像ですもんネ。

 

現在、iPhoneの4K60pで我が子を撮っている親御さんが、子供が成人して仕事について家庭を築いた後に、鮮明な4K60pで幼い当時の映像を見た時、どんなキモチになるんでしょうネ。

 

私が幼少の頃にも、願わくばハイビジョンがあれば‥‥と思うこともありますが、まあ、それはいいっこなしです。昔は昔で、良い部分も沢山ありましたし。

 

 


言葉のデジタル

経験をもとでに‥‥というのは、業界外部だけでなく、内部にも言えることです。

 

「デジタル」

 

コンピュータを作画や彩色の業務に使うだけでなく、プログラムやネットワーク関連まで実践して経験を積むと、「デジタル」を「デジタル=コンピュータやネットワーク関連の総称」というニュアンスでは使わなくなってきます。なぜかと言うと、不適切で曖昧で要領を得ずカッコ悪いからです。

 

デジタルソフト

デジタル教育

デジタル産業

 

最近目にした、不思議な「デジタルほにゃらら」です。

 

デジタルソフトって、何なんだろう‥‥。デジタル教育とはどんな教育の中身なのかな‥‥。デジタル産業って、なんとなく言わんとしているニュアンスはわかるけど、曖昧過ぎて意味にブレ幅が多過ぎます。

 

門外漢の人々の見当違いの発言を、業界内部の人々が指摘するなら、自分たちの「デジタル」の言葉の使い方にも、もうちょっと慎重かつデリケートになるべきだと思うんですよネ。

 

 

「デジタル教育」。‥‥バイナリーディジットの話から始めて、画像のデータ構造や、TCP/IPの仕組みなど、デジタルのデータがどのように扱われるかを学ぶ場ではなさそう‥‥ですよネ。おそらく、昨今のアニメ制作現場のコンピュータの使いかた・使われ方を、TIPSレベルで解説する内容ではないかと推測します。

 

TIPSだとしても、新人にShellの使い方を指南し‥‥なんてことだったら頼もしいですけど、そうではあるまい。

 

「デジタルソフト」も謎の多い言葉です。「デジタル」に「ソフト」をくっつけて、え〜と‥‥この場合の「デジタル」と「ソフト(ウェア)」は何を指して意味しているのかな‥‥。正直、意図がよくわかりません。

 

「ソフトウェア」という言葉で十分事足りると思いますが、なぜ「デジタルソフト」という言葉を捻り出したのか、業界の「デジタル」の言葉の使い方を象徴しています。

 

 

いや‥‥もちろん、「デジタル」と言う言葉をそんなに厳密に取り扱って喋っているのではないのは、わかっているのですよ。なかば、「スラング」ですよネ。

 

であるなら、スラングはスラングとして認識して、正式な場面で連呼したり記述するのは避けないとあかんですよネ。日々の軽い会話とは分けて扱うのが良いと思います。

 

うちの坊主がさぁ‥‥最近生意気になってきてさぁ‥‥

 

とか会話している時、聞いている人は

 

え? ご自宅ってお寺さんでしたっけ?

 

とか、

 

早くも息子さんは7歳の若さでご出家されたのですか?

 

‥‥とか思わないですよネ。坊主といえば、おそらく幼い男の子のお子さんを指すのは、誰でもわかること。

 

でも、そのスラングのまま、例えばニュースで

 

昨日16時ごろ、7歳の坊主が行方不明になりましたが、無事保護されました

 

なんて言わないじゃん。ギャグですよネ。マルコメ味噌や一休さんのような、本当に小さな坊主姿の男の子だったら、笑いますけど。

 

 

 

業界団体や会社組織が、デジタルデジタルと安易に連呼してたら、そりゃあ皆も、デジタルという言葉を安易に使い始めますよネ。

 

私も以前は「デジタル」という言葉を安易に使っていた時期がありますが、最近は真の意味で「デジタル」という言葉が適している場合のみ使うように心がけています。コンピュータ=デジタルなんていう使い方はしません。

 

「デジタル」と言う言葉には罪はありません。使う人間がルーズなだけです。

 

日常の中でつい口をついて出てくる「デジタル」まで刈り取ろうということではなく、人目に晒されて議論の対象になるような場面では、慎重に「デジタル」は扱ったほうが良いと思います。

 

 

このくらい、愛称としてくだけた「デジ」の使い方なら、可愛いんですけどネ。ちなみにこのロートの「デジアイ」は前から愛用しています。限りなく「ハツネ嬢」を想起させるデザインが何とも。‥‥とはいえ、「DX7のグリーン」だけでは商標登録は難しいでしょうしネ。

 


体験をもとでに

今は、ネットを検索すれば色々な情報を得られるので、ともすれば、疑似体験とばかりに、ネットで見聞きしただけで体験したと錯覚する場合もありましょう。ツイッターの文言を見ていると、匿名がほとんどということもあり、「本当に経験した上で言ってるのかな?」と怪しい論調も散見されます。

 

経験していない部分を仮定や推測で埋めて、さらにその上に論調を重ねて、同じく隙間には推測で埋めて‥‥なんて繰り返していると、巨大な耐震偽装建築が出来上がります。そして、ほんの一蹴り二蹴りで倒壊します。

 

知らない部分は、知る機会に出会えるまで、放っておけば良いのにネ。構造物のない空っぽの上に、さらに積み上げようとするから無理が出るのでしょう。

 

ちなみに私は、

 

初めて貰った動画作業料金が、月に50円玉1つ。(月末に研修で一枚だけ本番動画だったので)

拘束で詰めていた会社が倒産

同じ部屋で作業していた演出さんの急死

内容に拘るあまり数が上げられなくなって稼げなくなって、ライフライン全部停止

ゆえに心が闇落ちした時代

フリーランスのアニメーター

会社に所属して会社員

完全出来高(フリーランス)

月極めの拘束料金(フリーランス)

月給(会社所属)

作画とビジュアルエフェクトや撮影の作業を兼任

作画監督の経験

撮影監督の経験

実写映画にコンポジットで参加

実写映画のスチルカメラマンとして参加

Windowsがメインマシンだった時期

MacOS9の終焉を経験

プログラムを覚えて、自作のソフトを作業に用いる

Mac/Winを50台近く所有(中古がほとんど)していた時期(=やり過ぎ)

バイクを5台所有(中古車がほとんど)していた時期(=やり過ぎ)

雨上がりの夜中にバイクで100km/hで転倒、アスファルトから火花が出るのを確認

オフ車で土手をヒルダウンしていた時にいきなり大きなゴツ石を敷き詰めたエリアに突入し転倒&全身打撲

バイクの転倒が原因で今でも左肩の古傷がシクシク痛む

初めて買った自動車を大破

最愛の猫との死別

etc, etc....

 

‥‥まだ色々あったように思うけど、いっぱいあり過ぎて直ぐには思い出せません。

 

‥‥というような体験をもとに、このブログは書かれております。アニメーターとコンポジターの経験、フリーランスと会社員の経験、アニメと実写の経験、スタッフや会社の死‥‥など、全て実体験に基づくもので、定位置しか知らずに想像で書いているわけではないです。

 

なので、美術さんや色彩さんや制作さんのことは関わった部分でしか書けませんし、国家公務員の人々のことも(父母がそうでした)実感が全くありませんので書けません。

 

わからない部分を想像で埋めて、わかったことにするのは、まあ、軽率ですよネ。すぐにボロが出るし。

 

完全出来高でフリーランスの経験のない人間が、さも何もかもわかったようにフリーランスのことを語るのはイラっとくる一方で、会社組織に属したことのない人間が、さも「楽してんだろう」みたいに知ったように語るのもイラっときます。知らないんだったら、知らないなりに、一歩引いて語れば良いのにネ。

 

経験しなければ一切喋っちゃいけないなんてことはないと思います。ただ、「これは推測や仮定ですが」というキャプションは必要でしょうね。

 

 

 

アニメの現場を改善したい‥‥というような志を、現場外部の方が抱いてくれるのは嬉しくもありますが、一方で現場の内情を肌身で判るには相当時間がかかるだろうとは思います。

 

アニメ制作現場はさ。‥‥工場とは全く違う性質を持つので、「労働者」という言葉のイメージとは一致しにくい側面を持ちます。

 

Cut 1を100カット、Cut 2を50カット、Cut 3を200カット、それぞれ受注して生産!!

 

‥‥なんて、ありえないじゃないですか。そんなアホな、ですよネ。

 

丸兼用でもない限り、1カットごと全部違う内容をゼロから作って最後まで仕上げるのが、アニメ制作各工程のスタッフの仕事です。全然、工場型じゃないです。

 

「カット156、2つ追加入りました〜!」

 

「あいよ、お後、156、2カット!」

 

‥‥みたいな飲食店のメニューとも違いますわな。

 

 

 

アニメ雑誌の古くからの影響だか、発祥はわかりませんが、「アニメーター」をアニメ制作のスターのように扱う傾向も今でもありますよネ。「アニメーター信仰」ともいうべきか。

 

こうした傾向、原画や作監をクリエイター扱いする一方で、動画や彩色を軽んじる風潮は、現場を知らないファン層には相応にあるのかもしれません。まあ、素人さんゆえに、現場を知っているわけがないので、しょうがないといえばしょうがない。

 

私は現在、自分の描いた線画がそのまま彩色されて動いてコンポジットされる仕組みの、新しい技術でアニメを作る毎日ですが、ゆえに、自分の線の隅々まで色彩設計さんに委ねています。つまり、線画の至らない部分〜変な言い方ですが、「線画の恥ずかしい部分」まで見透かしてもらった上で、色彩を委ねているわけです。

 

作業中の作品では、ものすごく複雑なデザインのメカというかキャラというかモンスターが出てきますが、それはもう色彩設計さん(彩色も兼任)のクリエイティブ能力だけが頼みです。私はあまりの線の多さ・複雑さに描いてて目が虚ろになるばかりで(自分でデザインしたので文句は言えない)、色彩設計さんの色彩感覚にすがって甘えてばかりです。

 

AIがらみの記事で「ペイントはクリエイティブではない」的な論調も以前見かけましたが、何を言うのか‥‥。実際にやったことのない人間が、クリエイティブか否かを判断するという、ここでもまた「想像に想像を重ねる」愚行が再演されます。

 

頼りになる色彩設計さん・彩色スタッフがどれだけ貴重か、現場を知らない人にはイメージできないのです。頼りになり過ぎて、甘え過ぎる傾向すらあると言うのにネ‥‥。実際の線画と状況を前にして、頭の回転の速さや臨機応変の対応能力は、まさにクリエイティブそのものでしょ。修羅場の場数ゆえに、度胸も座っていますしネ。

 

AIは確かに期待大です。しかしその期待とは、作業者の心強いアシストとなる期待です。例えば、AIにまずやらせて、うまくいってない部分やデリケートな部分を人間が修正するような、人と忠犬みたいな関係は大いにアリでしょう。

 

作業の実際を知らないで、想像だけでAIだ自動中割りだと宣っても、空回りするだけです。

 

 

 

経験を大いに活用すべきで、未経験の部分は謙虚さが必要です。

 

冒頭にも書いたように、ネットでの検索文書や画像映像が、いつしか疑似体験となってすり替わり、未経験の部分をあたかも経験して知っているかのように錯覚するのは危険ですよネ。

 

私は4Kに関して、2014年くらいから取り組み始めたので、線の詳細感や作業のポイントをそれなりに知っています。しかし、HDRに関しては、去年から「体験ラッシュ」で、知らなかったことをどんどん知り得て更新する毎日です。

 

PQ1000なんて、今までのsRGB/Rec.709のアニメの経験しかなければ、頭で理屈を理解できたとしても、実践するのとは大違いです。暗部と明部のコントロールは超難しいですヨ。例えば、光のフレアの扱いは、今までの定番技法は一旦忘れて、ゼロから考えすのを余儀なくされます。色も暴れるしね‥‥。

 

ですから、4K時代のアニメも、まずは自分らで4KHDRで作ってみないと何も感触は得られないし、ゆえに中身のある議論も難しいです。未経験者が集って想像だけで話すことの無意味さは、お判りでしょう。

 

思うに、実際に現場での作業に関わってきた人は、4Kにも慎重な物言いになります。過去の現場体験が、未知の体験にも活かされ、さも知っているようには振る舞わない「免疫」が出来ているからです。

 

一方で、実際に現場での経験がない人が、なぜかフィルム時代を引き合いに出したり、何一つ描いてもいないのに想像だけで「4Kなんて無理だ」とか言っちゃうんですよネ。評論家ぶっても、知識に限界はありましょう。

 

 

 

厳しい体験は、買ってでもしろ!‥‥なんて言いますが、買うまでしなくても良いですけど、まあ、後に活きるのは確かです。

 

知らないことは恥ずべきではなく、むしろ伸びしろとして捉えるべきです。

 

知らないことを知っているように振舞っては、学びの機会を逸し続けることにもなりましょう。

 

「え、うそ! そんなの知らなかったよ! こうやればできるのか」でいいじゃんか。実体験をもとでにして、先に進みましょう。

 

 

 

 


プログラム教育の小学校義務化

‥‥というのを、今日初めて知りました。へー。

 

私は常日頃から、このブログでも、「これだけコンピュータに囲まれて、コンピュータまみれなら、プログラムは絶対に覚えた方が良い」と書いてきましたが、小学校での学習が義務化されるとは正直驚きです。

 

何を教えるんだろか? ‥‥多くの大人たちが「覚えようとしない」物事を、どうやって子供らに教えて「必要なものだ」と理解させるのか、その辺は興味があります。

 

 

 

プログラムは「プログラム言語」とも呼ばれるように、「言語」の1つとも言えます。

 

言語を理解し、読み書きできる。つまり、プログラム言語の読み書きは、コンピュータが深く浸透した「現代社会」の「識字率」を左右すると言っても過言ではないです。

 

世界の識字率の分布図

 

将来の日本の大人=現代の子供たちの「現代&未来社会の識字率」をアップさせるために、子供の頃からプログラムをごく身近なものとするのは、理にかなっています。

 

明治大正、そして昭和の頃まで、親が子に言い聞かせたセリフで、「学をもたない人間は貧しくなる」というのがありました。「自分の時代はしょうがなくても、子供には高校、そして大学まで行かせたい。貧乏だからこそ、そこから抜け出すためにも、学が必要だ」というくだりが、昭和のテレビドラマや漫画の「家庭の描写」でありました。

 

学校でトップの成績の生徒が、家庭の経済事情により、中学卒業と同時に東京へ集団就職‥‥という描写は、戦後昭和の「泣けるエピソード」として語られました。

 

学をもたないと何がダメなのか‥‥と言えば、「頭のいい奴ら」に簡単に騙されて、容易に搾取される側に回るから‥‥というのもありましたネ。健常人なら誰でもできる仕事にしかありつけずに、安く買い叩かれ悔し涙を流す‥‥という描写も、昭和の漫画にはそれなりに多かったです。

 

 

現代は一見、識字率もほぼ100%で、誰もが学をもっているように見えます。しかし、こと、プログラム言語になると、そうはいきません。

 

アニメの仕事でも、「その程度の雑事なら、スクリプトをちゃちゃっと作って、ちゃちゃっと済ませちゃえば」なんて言えるのは、プログラムを覚えた少数派で、多くの人はどこかの誰かが作ってくれたフリーソフトに頼ったり、最悪の場合は手作業で長い時間をかけて処理します。

 

とりあえず空のフォルダを、カット番号 1から300まで作って‥‥なんていう作業を、手作業でやろうものなら、地獄です。地道にフォルダを新規作成>フォルダ名をカット番号でリネーム‥‥を繰り返すなんて、どんなに苦労してやり遂げても何の評価も得られないどころか、時間の浪費でマイナスコストですらあります。

 

プログラムを覚えれば、スクリプトを2〜3分で書いて、一気に処理できます。

 

tell application "Finder"

    set fol to make new folder at desktop

    repeat with i from 1000 to 1300

        make new folder at fol with properties {name:(characters 2 thru -1 of (i as Unicode text)) as Unicode text}

    end repeat

end tell

 

*300個のフォルダを001〜300まで作るのは、数秒で処理終了。「変更日」を見れば、処理が一瞬なのがわかります。Apple Scriptは処理が遅いので300フォルダだと2秒くらいかかりますが、他の言語なら1秒以下でしょうネ。

*あ、しまった。つい、000から始めてもうた。‥‥ので、301個のフォルダですネ。

 

たった6行のスクリプトがかけないばかりに、5分もかからず終わる作業を、30分も1時間もかけて疲労まで引き受けて作業することになります。

 

私がコンピュータを触って仕事を始めたのは28歳の頃で、その1年後くらいにプログラムを覚え始めました。決して早いスタートではなかったですが、まだ頭の柔軟性と体力はあった時期なので、覚えられたのです。「そのうちに覚えよう」なんて思ってたら、どんどん覚えられないカラダになってしまいますヨ。

 

 

 

なぜ、教育の現場が、子供たちへのプログラムの授業を必須としたのか、特に検索して調べていないので、真意はわかりませんが、まあ、普通に考えて、「使わせてもらっている受け身のコンピュータ」ではなく、「どんど使いまくる攻めのコンピュータ」のほうが、社会の趨勢から鑑みて妥当ですよネ。

 

今以上に、日本が弱くなっても悲しいですし。

 

子供の頃にプログラムを覚えられる(カジる程度でも)のは、学習に対する身体能力から考えても有効でしょうし。

 

もしかすると、旧世代と新世代を分ける、新たにまた1つ大きな分岐点が生まれるのかも知れませんネ。

 

 


誰でもとは誰

私はこのブログで、コンピュータを積極的に活用すれば、飛躍的に効率が高まる‥‥のような話を書きますが、じゃあ、コンピュータを導入すれば、どこでも誰でも高効率を実現できるか?‥‥と言えば、全く違います。

 

高性能なレースマシンにまたがってコースを走ったからと言って、誰でもグランプリの表彰台に上れるかと言えば、そんな簡単なことではないのはわかりますよネ。おそらく、素人がレースマシンにまたがって不用意に(たとえば原付バイクのように)アクセルを開ければ、フロントタイヤが浮き上がってパニックになって制御不能となり、コースを外れて壁に激突して大破です。

 

そして出てくる言葉はコレ。「レーサーバイクを買えば、誰でも速く走れるって言ってたじゃねーか!」とクレイマー。

 

速く走れるのは間違いないですが、「誰でも」ではないです。マシンのパワーを知っている人ほど、「誰でもできる」なんて口が裂けても言わんですヨ。だって、市販のスクーターのように大体誰でも扱えるようには、ハイパワーレースマシンは設計製造されていませんもんネ。

 

作画でコンピュータを使うのも似たようなものです。コンピュータをプロの作画作業で使うとなると、「誰でも」とはいきません。

 

 

 

作画でキャリアを積んだ人は、紙と鉛筆などなくても、頭の中で原画を描いて、同じく、頭の中でシートもつけられますよネ。

 

まさか、紙に描いてみないとわからない、タイムシートに番号をつけてみないとわからない‥‥なんてことはあるまい。新人ならともかく、中堅以降なら頭の中だけで組み立てられるはずです。

 

同じく、コンピュータで絵を動かすには、頭の中だけで、どこにどんなキーフレームを打って、どんなイーズにして、どんなエフェクトをかけるかまで、既に見えているくらいの能力は必要です。自分の手足同然に、自分の身体の内部にコンピュータの性質や挙動を一体化させるレベルまで、一心同体となる習熟が必須です。

 

紙で作画をしていた人が、「デジタル作画」ならまだ馴染みやすいとは思いますが、コンピュータの各種エフェクトやキーフレームで絵を動かすとなると、別次元のスキルが必要になります。覚えることは山ほどあります。

 

しかし、その山ほど覚えた報酬として、新たなアプローチをいくつも得られます。

 

 

 

コンピュータはとかく「うまい話」のネタになりがちです。「こんなに簡単に出来た!」なんて言うのは、もう20年以上前からの常套句です。

 

しかし残念ながら、コンピュータは、誰でも達人に仕立て上げる「都合の良すぎる」ソリューションではないです。

 

どんなに高い筆記具を買っても、それだけではプロにはなれないですよネ。コンピュータも全く同じです。

 

私はソフトウェアメーカーのセールスマンではないので、「誰でも出来ますよ」なんて言えません。

 

ただ、既に何らかの道具によって「出来ている人」には、「うまく馴染めれば、もっと出来るようになる」とは言えます。

 

 

 

コンピュータはさ‥‥。自分の能力を拡張してくれるものであって、ゼロを100にしてくれるものではないです。

 

「いや違う! プリセットやテンプレートを使えば、俺にだって出来る!」とか言うのは、ギャグ狙いですよネ。誰かの作ったプリセットやテンプレートを使わないと出来ない時点で、もはや自分の能力とは言えませんもんネ。

 

紙と鉛筆の経験は無駄にならない‥‥と以前書いた記憶がありますが、それは紙と鉛筆で能力が「100」あるところに、コンピュータで数倍に拡張できるからです。

 

自分の技術や能力から逃げ続けていると、いつまでたっても、技術や能力は自分に味方してくれません。コンピュータの各種プリセットでごまかしても、やがて化けの皮は剥がれます。

 

自分の技術や能力と向き合って、向上に努めれば、技術や能力は心強い味方になりますし、コンピュータによってさらにパワーアップも可能となります。

 

 


電子

「電子」という言葉は何だろう。例えば、「エレピ」は、

 

エレクトリックピアノ=電気ピアノ

エレクトロニックピアノ=電子ピアノ

 

‥‥の2つを総称すると思われますが、だいたい皆が想像する音=フェンダーのローズピアノは「電気ピアノ」のほうです。

 

電気ピアノのほうは、エレキギターと同じで、実際に何らかの素材を物理的に振動させて、マイクで集音して増幅する仕組みです。

 

*鍵盤ごとの金属板をハンマーで叩いて振動させて、電磁マイクで音を拾います。エレキギターのスチール弦とピックアップの関係と同じです。練習スタジオに置いてあったのを数回弾いた程度で、楽器としての実感や記憶はほとんどないです。むしろ、後年のサンプリング音源のほうで馴染みました。

 

一方、電子ピアノのほうは、電子回路(トランジスタやダイオードを含む電気回路)によって音声電気信号を生成する仕組みです。電子ピアノはシンセサイザーの親戚のような感じです。

 

*私が初めて手にした88鍵の電子ピアノ「PF80」。アニメーターになった(完全出来高で保険もなかったので「就職」と言いにくいところが何とも‥‥)お祝いに買ってもらった思い出の品で、今でも保管してあります。当時、一人暮らしの狭いアパートには持ち込めず、お金が稼げるようになってもう少し広いアパートに住めるようになったのちに、実家から運び込みました。作画の仕事で気分が詰まってくると、このエレピで練習して気分転換していました。

 

電子ピアノは、電子回路を使うからといって、必ずしも「デジタル信号」ではなく、「アナログ信号」のものも多数あります。昔はみな、アナログ信号を扱う電子回路で、電子ピアノもシンセサイザーも製造されていました。

 

ややこしいことに、

 

電気か電子か

アナログかデジタルか

 

‥‥という複数の分岐があって、実際はかなり混同されて扱われています。

 

電子出版

電子申告

 

えーと‥‥この場合の「電子」のスコープはどこだ。これらの「電子」とは何を指しているのだろう。‥‥と、考えだすときりがない‥‥というか、その言葉が生み出された経緯を察して達観するしか術がなくなるので、最近はあまり拘らないようにはしています。もう定着しちゃってますしネ。

 

ゆえに、「デジタル作画」も今は、「Digital Genga」「Digital Douga」という名称で扱い、新しい「デジタル作画ではない」作画方式と分別して運用しています。「デジタル作画」という言葉も、使いようによっては、新旧の意識の差を表現できると気づいたので、「Digital」という本来の意味はあえて黙殺して、「紙と鉛筆の方法をコンピュータ機材に移植した方式」の代名詞として「デジタル作画」と呼ぶようにしています。‥‥そうしないと仕分けられないという現実問題もあるゆえに。

 

新しい技術は、紙を一切使用しないのが大前提で、扱うデータもビット(binary digit)を組み合わせたデジタルデータなので、もはやいちいち「デジタル何々」と表現する必要がありません。iPhoneなどのスマホを「電子携帯電話」「デジタル携帯電話」などと呼ぶ必要がないのと同じです。工程の内容をシンプルに表せば良いだけです。

 

おそらく、「デジタル作画」の人々が、次の技術フェイズに進むには、ある程度「デジタル作画」を経験したのちに、新しい技法の可能性にも目覚めて、「この新しい方法までデジタル作画と呼んでしまうのは如何なものか」と葛藤してから‥‥でしょう。3日で終わる作業を3週間もかけて作業するコストの比較を、実地で体験して体で覚えないと、やっぱり人から聞いた理屈だけでは動かないのが人情というものですもんネ。

 

 

しかし不思議なのは、アマゾンや楽天でのショッピングを、

 

デジタルショッピング

電子通販

 

‥‥と呼ばないことです。

 

なぜ? なぜ皆、そう呼ばない?

 

今までの、「電子」何々、「デジタル」何々の流れで考えれば、「電子通販」「デジタルショッピング」「デジタル通販」と呼んでも良さそうなのに、会話の中で一度も聞いたことがないです。

 

インターネットを手段として買い物をするので、「ネット通販」と呼ぶことが多いですよネ。

 

なので、アニメ業界が手段=道具を名称に組み込んで「タブレット作画」にしないで、なぜ「デジタル作画」にしたのかは、謎なんですよね。まあ、「デジタルTU」とか謎用語を作るくらいの業界なので、推して知るべし‥‥とは思うのですが。

 

世の中の、「電子」や「デジタル」は、結構気分や雰囲気に左右されているケースが多いので、その気分が薄れる頃まで傍観して受け流すのが良いのだと最近は思っています。

 


プライムがサブ

私は、絵や映像の技術に関わる人間なので、技術志向ではある一方で、半世紀を生きればさすがに、技術だけでビジネスがうまくいくとも考えておりません。技術をおろそかにして「ビジネスを転がす」だけでは上手くいかないと思いますし、技術だけを大切にすればビジネスが成功するとも全く思いません。

 

エンジンだけではどんなに馬力を生み出しても車は走りませんし、エンジンのない車体は押せば転がりますが自走することはままならないですもんネ。

 

エンジンも車体も優良であればこそ、お客さんを乗せて商売もできましょう。

 

 

 

2010年代を振り返れば、2000年代のリーマンショック〜サブプライムローンの破綻からワンテンポ遅れて、2010年代のアニメ業界は言わば「サブプライムカンパニー」の出現、そして破綻の様相を呈した年代だったとも思えます。

 

サブプライムとは、

 

優良(prime)より下(sub)

 

‥‥という意味で、たまに耳にするサブプライムローンとは、

 

低所得・低信用者向けのローン

信用力以上の借入れ

 

‥‥を意味するようです。

 

信用力以上の貸付をどんどんおこなって、あたかも経済が活性化しているように錯覚し、実際に返済能力がない相手に貸付けたがゆえに焦げ付きが至るところで発生し回収不可となり破綻‥‥というのが、2000年代のサブプライムローンの景気破綻の概要です。

 

2010年代のアニメ業界の制作事情も、まさにサブプライム的な制作受発注が頻発したのでしょう。お膝元に実働スタッフが存在しない会社が、制作能力以上の仕事を受注し、乱造状態で作画崩壊をおこし、リテークにも対応できず‥‥となれば、まさに「サブプライムカンパニー」による「サブプライムアニメ制作」の破綻です。

 

2000年代の「デジタルアニメーション」と呼ばれた、仕上げ以降のコンピュータ導入も、サブプライムな「作品転がし」に拍車をかけたのでしょう。そのさまをして「デジタルの罪」とか言う人もいますが、罪のなすりつけ・責任転嫁も甚だしく、「デジタル」そのものに罪などあるわけもなく、悪用した人間たちに罪があるのです。

 

 

 

2020年代は、アニメ制作の「安全保障」をアニメ制作会社自らが取り組んで、今までの制作コスト基準を根本から仕切り直すことが必要となるでしょう。サブプライムなアニメ制作でいくら本数を増やしても、結局破綻していたのでは本末転倒ですもんネ。

 

技術の優劣は確かにビジネスに影響を及ぼしますが、技術だけでは社会的信用は得られません。己の技術だけで生きていくのであれば、制作会社の力など借りずに、個人作家として活動すれば良いです。

 

制作会社の存在意義とはなんだろう‥‥と考えた時、アニメ制作を運用する「HUB」のような役割だとは誰もが答えるでしょう。しかし、「HUB」「制作拠点」と等しい重要度で「社会的信用の拠り所」としての意義が挙げられましょう。

 

個人では重病にかかることもありますし失踪するような人もいましょう。どんなに仏か神様のような人でも、個人の信用度には限界があります。ふと何もかも嫌になって、お金だけを持って行方を眩ますことが絶対ないとは言い切れません。

 

一方、会社は、ある日突然、まるごと失踪するのは難しいですわな。逃げも隠れもできなくなるのが、会社です。ゆえに、信用も、個人に比べて、相応にアップします。

 

でも、会社には大きいのと小さいのがあって、事務所ワンフロアで小規模で成り立っているようなアニメ会社も、昔からありました。会社組織であっても、その信用度や制作能力には大きな差があります。

 

‥‥で、2010年代は信用度の低い会社=実制作能力の低いサブプライムな会社にも、どんどんアニメの発注が行われました。それによって、チャンスを掴んだ会社もあるでしょうし、自滅した会社もあります。

 

2020年代を前にして、「サブプライムなアニメ制作」の危険性を、インサイダーの皆が「制作&製作」の視点で気づきはじめたような気配を感じる今日この頃です。

 

少なくとも、近年の作画崩壊の常態をみて、アニメ制作会社を過信して前払いすることへの不安は、かなり増していましょう。

 

一方で、1000万ちょいの制作費で、まともなアニメが作れるわけがないことも、もはや白日のもとに晒されています。作画崩壊と嘲笑する前に、どれだけの制作費によって作られていたかも、関係諸氏は考慮すべきところです。

 

 

 

制作会社の技術力も、制作会社の信用度も、製作委員会の予算規模も、「サブプライム」レベルでまかり通っていた事例自体が、2010年代の特徴と言えます。

 

2020年代にアニメ業界に息切れがおきて、「安さ爆発アニメ制作」によって支えられていた夥しい数の作品制作ラッシュに「ひと区切り」がつくのなら、決して悪いこととは(少なくとも私は)思いません。

 

まともにアニメを作ろうとしていない会社が、まともなアニメを作れるわけがないです。

 

まともなお金を用意していないのに、まともなアニメを作れるわけもないです。

 

短期的収益を上げるチャンスとか言ってる一部の人々にご遠慮願えるなら、アニメの制作本数の減少は中期的にみれば良い傾向です。

 


 

昭和のテレビアニメは、おもちゃの宣伝、企業のイメージ広告から始まり、最近のキャラ人気の「宣材」としてのアニメ制作には、私自身、もう懲り懲りなのです。できるだけ加担したくないです。

*藤沢薬品のフジ丸のような、主題歌の最後にスポンサー名を連呼する露骨なのは流石に今はないですけど、別の手口で巧妙に‥‥は、まあいいか。

 

キャラ人気でもいいじゃん…とか思いがちですが、アニメーター自身の「キャラ大好き」感情ゆえに安い単価でも頑張って描いちゃう事を改めて冷静に考えれば、以下のような考えは笑って済む問題でもないでしょう。

 

アニメはこれから儲けるのに最適な分野

http://kanemochi.net/?p=497

 

わざと癇に障る極端な書き方ですが、あながち外れてもいないでしょう。事実、世間で言われる「数兆円産業のアニメ」って、純粋にアニメ映像の売り上げではなく、キャラクターグッズのアニメ関連商品なども含めて‥‥ですよネ。

 

ゆえに、アニメ映像は、昭和の時代と同じソレ=グッズを売るための販促を期待されてもいましょう。お金を出す人々視点ではネ。

 

 

 

私は映像配信向けのアニメ制作には、好感をもちます。

 

なぜかと言うと、映像作品そのものが商品で、顧客も映像を見ようとして対価を支払うからです。民放の深夜にタダで映像作品を見た後に、関連商品を買い求めるビジネスモデルとは大きく異なります。

 

キャラ人気ビジネス。関連商品の宣材としての位置づけなら、できるだけアニメ制作費のコストは抑えにかかるでしょう。目的に応じた行動そのものです。

 

一方、映像配信会社のアニメは、まず何より、映像そのものが製品ですから、クオリティの基準・水準は高いものが求められます。製品=映像の、QC(クオリティコントロール・クオリティチェック)が問われます。もちろん、作るためのお金も相応に高くなります。

 

かつてのキャラ人気だけに支配されていた「グラビアアニメ」、映像全体のクオリティなんて二の次で、キャラさえ綺麗に描けていれば、ドアノブの位置が異様に高い位置についていようが、多少のパカなんて御構い無し‥‥なんていう濫作乱造は、映像配信のサブスクリプションにおいてはそもそも映像が売り物なわけですから許されません。

 

映像配信会社とは定期的に技術の打ち合わせやディスカッションをしています。「カラーサイエンティスト」という役職の人と4KやHDRの意見交換もしています。おもちゃ宣伝アニメと違って、「映像こそが売り物の中心なんだ」ということが、クライアントの行動そのものから伝わります。

 

私としても、映像そのものが売り物になる時代は、大いに望むところです。映像作品として完成した上で、キャラの人気が出るのなら、それはそれで良いです。キャラ人気ビジネスのために、映像制作がないがしろにされるような状況から脱出できるのなら、本望です。

 

 

2020年代に突入して、果たして、2010年代のサブプライム基準のアニメの作りかたが通用するかどうか。

 

まさに今を生きる人間が、生き証人となりましょう。

 

 

 

 


ニッポンジン

バンザイチャージとは、「万歳」と叫びながら敵陣に突撃する、いわば陸兵の特攻みたいなものです。日本兵だけでなく、ソビエト兵にも見られたとか。ソビエトの場合は「ウラー!」(ура)なのかな?

 

「何のためなら、死ねますか」

 

と言うのは、日本においては今でもどこかから聞こえてきそうなセリフです。なぜか‥‥

 

「何のためなら、生きられますか」

 

‥‥にならないのかなと、いつも思うのです。

 

何かのために生きる!…のではなく、何かのために死ぬ!…との言い回しになるのって、なぜなんでしょうね?

 

実際、一度も死んだことがない人間が「死」を想像するよりも、今まさにリアルタイムで経験している「生」を想像したほうが「合理」的だと思うのですがネ。

 

まあ、現代においては、「死ぬ思いをした」を要約して「死」という語り口にしているのであって、リアルな死を指すものではないのでしょう。ただ、どういう意味であれ、「死のう」などとスローガンに掲げるのは「死んだこともない奴がよく言うよ。では、まずあなたが実践して皆に示せば?」と言いたくなります。

 

とは言え、日本人の奥底に、そうした死へのスタンスがあるのは否定できません。

 

私の母方の先祖は武家の流れを汲むらしく、元旦にはおしるこを食べます。なぜ武家がおしるこ?‥‥と思いますが、母から聞いた話ですと、おしるこの中の茹でた小豆が、横一筋に皮が裂けている見た目から、「腹を切る覚悟=死ぬ気で物事にあたれ」という「一年の計」とのことです。

 

私はこうした家訓をことさらに美しいとは思いませんが、日本人が物事に対して追求に追求を重ねる性質の、何か大きな1つの要因と思えます。

 

祖父が他界した今でも、祖父の意志に倣い、元旦にはおしるこを食べていますが、切腹云々ではなく、とことん頑張る気概として受け取っています。私の中では永遠に、死は美徳にはなりません。ちなみに、祖父は料理が得意で、おしるこを含め正月の料理は祖父が取り仕切って作っていました。

 

 

零戦

 

どんなに運動性能が優れた戦闘機でも、防弾鋼板を省いた操縦席には乗りたくないです。零戦を日本人の美徳と考えるのは、少なくとも私は嫌です。

 

運動性を実現するためには、重量を軽くするしかない。そのためには、銃弾からパイロットを守る防弾鋼板を省き、極限まで機体を軽くすることだ。

 

こうした考えが、設計者だけでなく、軍部にも受け入れられ、さらには、パイロットにも実質的に受け入れられたのは、日本の問題点を象徴する事例と言えましょう。

 

俺たちは器用で腕前が良いから、敵の弾になんか当たらねえ。だから防弾も必要ねえ。

 

‥‥などと思っていたのだとすれば、今にして思えば、あまりにも軽率だったと思います。死なずに済んだ人が死んだ‥‥という道徳云々以上に、戦力消耗の観点においても。

 

私はむしろ、ほとんどの点で零戦に劣るF4Fを用いて、戦術によって零戦の格闘性能を封じ込めた米国パイロットのほうに好感を持ちます。

 

実質の後継機となるF8Fを載せた空母が、日本に向かう途中で終戦となったのは、日本人にとって不幸中の幸いでした。あんなの(F8F)が日本の空をうろちょろされたら、どんだけ日本機が叩き落とされたことか‥‥。

 

*小型な機体に、大出力のエンジンを積み、格闘戦にも強く、開発当初から零戦を強く意識したF8Fベアキャット。1946年の「コロネット作戦」がもし発動してたら、日本機はとんでもないことになっていたでしょう。幸い、1945年の夏に戦争は終結して、関東をさらなる地獄絵図へと化す、コロネット作戦は実行されませんでした。

 

 

じゃあ、日本人はアメリカ人のマネをすれば良いのか‥‥といえば、そう言うことではないです。日本人の気質、例えば物事にこだわって手先指先を駆使して通常では達し得ない深みにまで到達するような性質を、物量処理の方便に悪用しなければ良いのです。

 

物量戦、人海戦術に誘い込まれたら、大手や大国の思う壺なんですよ。そうした誘いに乗らず、日本のアドバンテージをどのように活かすかを、知恵を振り絞って考えるのです。

 

アニメの産業拠点が、アジアの大国に奪われる?

 

ほら‥‥その考え方が、日本のアドバンテージを全く意識できていない証拠です。

 

確かに、人ひとりは「人足」に数えられましょう。しかし、人足以外の要素が日本にはあったからこそ「漫画映画」「テレビまんが」をここまで発展させてきたのです。他の国々が日本ほどアニメを進化させなかったのは、トンチみたいな言い方ですが、「外国は日本ではなかったから」です。

 

だいたいさぁ…。物量戦、総力戦で、日本が大国に勝てると思うわけ? 勝てるわけないじゃん。単純な物量勝負なら。

 

アニメはさ。いわば、第四次産業とも言える性質を持つわけじゃないですか。1次2次ではないことを、なぜ「勝機」と捉えないのか。

 

第四次産業を人海戦術の大量生産によって世界にバラまいても、粗雑な趣向品が多くの人々の琴線を揺り動かすとは思えません。

 

ライバルが似た技術で追いついてきたのなら、また別の新技術を投入して引き離せば良いことです。大量生産の雛形では模倣に時間がかかる欠点を突けば良いし、それを可能とする手先指先の器用さは多くの日本人は有しています。

 

大きいと言うことは安定していることでもあり鈍重でもあるのです。小さいと言うことは不安定かも知れませんが敏捷でもあるのです。

 

日本のアニメ業界は小さいのに鈍重になってしまったのです。作り方の定番にハマりきって変えようとしなくなって久しいです。だから外野の人々から、終わりが見える‥‥なんて言われます。

 

小国日本のアドバンテージを思い出してみては如何?

 

 

 

 

CCV機という飛行機があります。

 

飛行時の挙動をわざと不安定にして運動性能を高める飛行機のことです。墜落しないのは、挙動を常に把握するコンピュータの制御があるからです。一時的に不安定になっても、安定状態に復帰できる仕組みです。

 

思うに、日本は「昔取った杵柄」とばかりに、安穏と過ごしてはダメなんだと思います。CCV機のように、ある種のアクロバティックな挙動にて、小回りを活かしたフットワークの軽さで、大きなライバルの盲点をどんどん突くような方法で戦うのが向いています。

 

相手が長距離重爆撃機なら、こちらは高機動のステルス戦闘機で迎撃すれば良いです。

 

「戦闘機では、本格的な爆撃はできないじゃん。防空や制空ばかりしていたら、国内に押し込められるばかりじゃんか。」…と言う人は、戦闘機と爆撃機の用途の違いを心得た人ですネ。たしかにその通りです。

 

領土…というか市場を獲得するのに、かならず敵地を爆撃して灰にするだけが戦略でしょうかネ?

 

違う市場獲得の方法があると思いますよ。日本は地理的には島国かもしれませんが、インフラでは他国と地続きなのですから。

 

100年前と大きく違うのは何か。50年前と違うのは? 20年前、10年前と違うのは?

 

地理的には100年前とも1000年前ともさほど変わらなくても、情報や産業の仮想的な地形は、激変と言えるほど大きく変わっていますよネ。

 

 

 

最近、アニメ業界関係者のツイートで、現場をどうするか、業界をどうするかの話題が盛り上がっていました。私も触発されてブログで自分なりの考えを書き記してみましたが、思考だけ先行しても実践は思うようには進みません。

 

思考することは重要ですが、ある程度考えたら、一旦妥協点に着地して、橋頭堡の構築を実践することが肝要です。

 

完全な解決案が思考できるまで‥‥なんて待っていたら、個人的にも集団的にも、気がつけば三途の河が迫っていましょう。私は全くもって完璧主義者ではないので、虫食いでも進められるところは進めて、後に点と点を結んで線に、線と線を組み合わせて立体にできれば良いと考えます。

 

 

 


雑感

私はフリーランスのアニメーター時代に、同室の演出さんの急死を経験し、作画の月拘束だった制作会社の倒産も体験しました。棺に納められた演出さんの顔、まるですぐにでも作業再開するかごとく残された机、「数度の不渡りで倒産確定、債権者が明朝やってくる」という前日の夜から倒産当日の夜明けまで、リアルに経験しました。会社が倒産したら、お金なんて1円も口座には振り込まれないですからネ。

 

スタッフの死、会社の死。

 

その死の中身は、中ボスやラスボスをやっつければ終わるゲームではありません。

 

 

 

なぜ、高い制作費と引き換えに、制作が完全終了した納品後でないとお金が出ないケースが出てきたのか。なぜ、アニメ制作現場のQC(クオリティコントロール・クオリティチェック)では足りず、発注元独自の厳しいQCが導入されるのか。

 

アニメ業界ひっくるめて、危なっかしいからですよネ。ぶっちゃけて言えば。

 

どこの馬の骨ともわからぬ人間や集団に、何千万何億も先渡しするわけないじゃん? 自分がお金を出す側で考えてみればわかりますよネ。馬の骨ではなく、名前が知れた個人でも、急に重い病気にかかったりしたら、先渡ししたお金はどうなるでしょう。

 

アニメーターが10人集まって、例えば世界規模の配信会社を相手に、「自分たちはこういうアニメが作れます。なので、制作費をください。」と掛け合って、すぐにポンと前払いで1億円貰えると思います? まあ、極端な例え話ですが、個人の限界、仲間で連む限界とは、そういうことです。

 

会社でも同じで、前払いで受け取らないと経営が回らない会社に対して、果たしてお金を出す側は安心できるでしょうか。まさに私が体験した会社の倒産は、「この契約書さえ通れば前金が出て生き延びられる」みたいな瀕死の状態でしたから、そもそも信用なんて壊滅状態でした。

 

商業における「安全保障」が問われるわけです。

 

ですから、アニメ制作者個人や集団が寄り合って総じて、社会的影響力(=社会的信用)を持てるようになるのが、まさにテーマだと私は思っています。

 

アニメ制作会社は、揺すればお金が零れ落ちてくる玉手箱ではなく、倒産すら一歩先に待ち構える、社会的にみれば「中小企業」でしかありません。「零細」と呼べる場合も多いでしょうし。

 

アニメ制作会社を悪役に例えて労働運動するのも、リアルに倒産=現場の解体を味わった私からすれば、「悪者打倒」のデフォルメされた認識は空回りするようにも思えます。

 

一方で、アニメーターと演出「だけ」を対象にした団体も、思考の原点として限界を感じます。アニメーターと演出だけでアニメが作れると言うのなら、やってみりゃあいいじゃん。

 

もし皆で知恵を出し合うとしても、「打倒何々」とか「暴徒鎮圧」とか、内輪で対決してても始まらんですよネ。

 

復讐心に燃えて、アナキズムにひた走り、体制の打倒ばかりに熱中するのは、あまりにも視野の狭い子供じみた行動です。戦後処理なんて全く考えてなかった‥‥単に憎しみだけで行動してた‥‥なんて、背信にもほどがあります。

 

 

 

何度も書きますが、今までのアニメの作り方では限界があります。

 

そして肥大に肥大を重ねた現場も、そのままでは維持が困難でしょう。私が聞いた話では0原から4原まであるというから驚きです。

 

自分たちの足元は改革しないで、他者の改革だけ迫る‥‥なんて、頓挫が見え見えです。

 

今までの作画方式をコンピュータに置き換えるだけの技術転換なんて、本当に未来があると感じてます???

 

複雑で丁寧さが要求される状況を前にして、ただひたすら人力で克服していく‥‥なんて無謀です。ボルトアクションの小銃に銃剣を提げ、白兵突撃・バンザイチャージを2020年代も継続するつもりか。いつまでたっても、ガダルカナルから逃れられない国民性なのか。

 

たとえ自動小銃になったとしても、白兵突撃はしたくないし、させたくないです。マシンガンを初めとした重火器、装甲戦闘車両、戦闘ヘリ、輸送車を駆使した戦術を実施したいです。空軍や海軍の力も借りて、時には諸外国との「政治的要素」も活かして、勝つための「現代の戦い方」を仕掛けたいです。

 

時間を昭和40年代に戻すことは不可能です。もうそろそろ新しい元号となり、2020年代も間近です。

 

昭和を引きづり続けるのは終了して、極めて根本的な部分からメスをいれないと、お金の部分にもメスは入っていかないと思います。

 

改革は必要です。問われるのは、改革の中身です。

 

 

 


雑感

私は、レイアウトチェックをスキップして原画を2者に分割する「1原2原」にはどうしても構造上の欠陥があると考えています。

 

なによりも、レイアウトのチェックができなくなる点です。今、レイアウトチェックって、実質死んでしまったのですかね。

 

第1原画は、レイアウト+ラフ原画+シート‥‥で、レイアウトと同時にラフ原画まで描くので、描く側は「レイアウトの変更があった場合、ラフ原が全直しになる」という恐怖、チェックする側は「ラフ原を描いてもらったので、レイアウトの直しが気が引けてできなくなる」という状態に陥っています。実際、そういう場面は何度もありました。

 

第2原画のほうは、「原画の仕事はないですか」という問い合わせではなく「第2原画の仕事はないですか」というのもあると聞いて、愕然としました。「原画の仕事を問い合わせて、第2原画ならあります」という流れではなく、最初から「第2原画決め打ち」で仕事を欲しがる人がいる‥‥という現実において。

 

もう、もとには戻らないのかな‥‥。

 

原画の第1第2工程が既成事実となって、今や第2原画もれっきとした工程のようにフィックスされて、もし以前のカタチに戻そうと統合しようものなら、「第2原画で生活している人もいる」とかの論調が巻き起こりそうです。

 

総々作監、作監十数人にしても、もとのカタチに戻す努力をしても良いんじゃないかと思いますが、「必要だから存在しているんだ」と言う論調もあるでしょう。

 

従来の現場の出来事は、従来の現場の人間が主導して解決していくべきで、私が口を挟むこともお節介だなと思います。

 

 

 

アニメ業界を親方のように慕って、親方の決めた枠組みでしか生きられない自分。親方に異を唱えて、枠組みの限界を突破するのが、そんなにダメなことなのかな。


世界規模の新しい技術が活用できる場面において、それすらも「業界がお気に召すように献上」するのか?

 

だったら、ずっと、親方=業界のいいなりのままだよ。

 

 

 

親方=従来のアニメ業界はずっと健在なのでしょうか。

 

アニメは産業ゆえに、時代の流れによって、浮き沈みもありましょう。

 

過去、旧来技術に固執するあまり、時代についていけなくなって、衰退した産業はいくらでもあります。

 

 

 

私は、アニメ業界の主流に同調せずとも、アニメを作って未来に生き続ける道を模索したいです。やっぱり、作監が1話に十数人クレジットされるのは異常だと思うし(「監督責任」をとれないじゃん?)、「1原2原」でレイアウトチェックが死んでしまった現実を受け入れられません。

 

原動仕美撮と言うカタチを崩して新しいカタチに変えても、絵を描いて動かす人は不動、色を彩る人も不動、情景を造り出す人も不動、コンポジットする人も不動です。ただ、原動仕美撮というスタイルではなくなるだけで、人間の力は不動です。

 

新しいワークフローには、レイアウトを吟味する工程がちゃんと設けられています。動きの根本を専門に扱う工程、絵を綺麗に整然と動かす工程、階調トレスを扱いHDRでペイントする工程、ランドスケープ(景観)を作り出す工程、舞台のレイヤー構造を組む工程、ビジュアルの様々な効果を生み出す工程、その他にも色々と工程が継承されたり新定義されています。

 

私は今までよりアニメ制作にはお金がかかるようになると思います。たとえ新技術を導入しても、4KHDRの時代にふさわしい丁寧で美しいアニメを作りたいですから、お金が従来より多くかかるのは当然です。人件費も機材費も今までの枠に収まるわけがない‥‥と、私は実感しています。

 

 

 

でも、まあいいか、もうこの話題は。

 

従来現場をどうしていきたいかは当人たちが決めるべきだし、新しい現場も当人たちが構築していけば良いだけのことです。

 

お金の問題も全部含めて、「誰かが変えてくれるのを待つばかり」だから苛立ちもするのです。

 

当事者の行動こそが、未来を変えていけると思います。

 

 



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