平屋木造

旧来の現場は、既に先人の切り拓いたシステムの基礎=インフラ=道筋があるがゆえに、ロードマップを思い描くという意識が非常に希薄なように感じます。今までの通りやってればうまくいく‥‥という意識。

 

どんなに現場の窮状を認識していても、根本的には解決の糸口も突破口も見出せないのは、まさにその意識ゆえです。

 

建て直す‥‥って言ったって、その家に住み続けながら、取り壊して建て直すなんて、無理ですもんネ。

 

ホントにソレ。

 

今の自分の居場所を取り壊したら、行き場がなくなってしまう。だから、居場所がどんなに老朽化して問題を抱えようと居場所を一旦壊して建て直すことができないのです。

 

「旧来現場のオールデジタル」において、「根本問題を解決できる」ロードマップが全く見えてこないのは、そういう理由でしょう。

 

家を取り壊して一旦更地にして、未来に何十年も住める新しい家を建てる。‥‥それは、旧来現場が旧来現場であり続けるためには不可能なのです。

 

今までVHSデッキを使っていたのを、BDレコーダーに買い変える程度で、その家の何が根本的に変わると言うのでしょうか。平屋木造の狭い間取りは狭いままです。

 

 

じゃあ、永遠に新しい家には住めないのか。

 

‥‥そんなことはないですよね。

 

新しい家を建てるためには、何をすれば良いか、ちょっと考えれば誰にでもわかることです。

 

しかし、古い家への強い愛着が、その誰にでも考えつく思考を阻害します。

 

家や土地の問題ではなく、そこに住む人たちの問題‥‥と言えましょう。

 

 

 

 

 


道具の誉れ

残念ながら‥‥と申しましょうか、どんなに愛着をもってコンピュータ機材を扱おうと、1990年代からずっと使い続けている機材は皆無です。ケーブルすら全てリプレース‥‥です。

 

コンピュータ機材は、リプレース・入れ替えが宿命。

 

コンピュータ本体はダメ、モニターもダメ、ケーブル=モニタケーブル(私はD-sub15pinはもう使っておりません)、USB(1.1ね)、LAN(10baseとか)、ADBやシリアル、SCSIやIDE全部ダメ、マウスもダメ、キーボードもダメ。

 

あきれるくらい、全部ダメ、全部入れ替えです。

 

音声ケーブルだけは生き残っていますが、そもそもPC関連のケーブルじゃないし。

 

まあ、20年前のPC/AT互換機のキーボードや、D-subケーブルが辛うじて生き残っている人もいるかも知れませんが、macOSやiOS環境では20年前の機材は何も残っていません。

 

コンピュータの宿命ですね。これはガーガー言ってもどうなるもんでもない。

 

そういうもんだと思って観念して、コンピュータ機材なりの運用意識が必要です。

 

この辺にどうしても順応できないのがまさにアニメ業界で、昔の機材を使い続けるためのCS6止まりとか、そもそも道具に対する永続的維持費という概念がないのでサブスクリプションに納得できなかったり‥‥と、雇用や制作費の問題だけでなく、アニメ業界の「お金の闇」は深いです。

 

 

しかし、気持ちも判らなくもない。

 

私だって、コンピュータの「金食い悪魔」の流儀に慣れるのは、相当時間がかかりましたもん。

 

一度買ったら、道具は一生モノ‥‥という習慣をきっぱり捨て、時代の現用技術に合わせて道具を更新し、道具の運用コストも制作費に含める‥‥という思考は、そう簡単には受け入れられません。

 

日本人の美意識、職人技術者・実演者の意識として、道具は永く大切に使うもの‥‥ですもんネ。

 

 

しかし、現在の映像制作はほぼ100%、デジタルのデータが最終形態ですので、どう粘っても、どう足掻いても、最終的にはコンピュータの流儀を受け入れるのが肝要です。どれだけ個人が「反コンピュータ」を標榜しようと、その後で全てコンピュータのお世話になりますし、振り込まれるギャラだって銀行のネットワークでデータでやり取りされて口座に振り込まれて生活できてるんですからネ。

 

自分の描いた生の絵の現物を、号あたり何万で売るのでもなければ、コンピュータと「悪魔の契約」をするほかないです。そして、悪魔と契約したからには、悪魔をこき使う気概くらいが相応です。

 

コンピュータに金たま(失敬)を握られているようなヘナチョコのままでは、コンピュータに生命を吸い上げられて終わりです。

 

そういった意味で、4K60pHDRのアニメ制作は、コンピュータを馬車馬の如くコキ使うのにピッタリ!‥‥です。コンピュータは休む暇もないからネ。今まで高速だったコンピュータは「くっそトロく」なります。

 

 

 

 

で、ここまで書いといてなんですが、私とて何もかも道具のすべてをコンピュータへと移行させたわけではないです。

 

コンピュータが道具として活躍するのは、あくまでデジタルデータが支配するフィールドだけです。

 

デジタルデータを介在しないモノに関しては、コンピュータは無力です。

 

そんな中、最近ふと「惚れ惚れ」したのは、筆洗い。

 

‥‥これです。

 

 

*アマゾンでは10個まとめ売りです。いくら惚れ惚れしようと、10個はいらんな、10個は。‥‥なので、ペンテルなどの他の製品も考慮しても良いかも‥‥です。私はいつ買ったかもわからない、昔のやつを、死ぬまで使い続けると思われ。

 

 

サクラの「筆洗」。500円に満たない低価格。

 

それでも、数万、十数万、数十万するコンピュータ機器より、格段に長持ち。いつまでも、愛用し続けられます。

 

この「3重筆洗」は、容量といい、収納性といい、そもそも3重にした使い勝手の良さといい、まことに感服します。ダテに、私が子供の頃からのロングラン製品じゃないです。生き残るには意味があります。

 

私の使っているのは、厚紙のパッケージに入ってた頃の昔のもので、「サクラ」のロゴシールが貼られています。現行製品にも貼られているのかな?

 

 

 

もし、この製品の仕様が、3重ではなく、2重だったら、もう1組買うなど、面倒なことになっていたでしょう。

 

展開すると三槽になることで‥‥

 

  • 1槽目=筆の汚れを最初に落とす、水が一番汚れる槽
  • 2槽目=筆をささっとゆすぐ、さほど水が汚れない槽
  • 3槽目=筆ゆすぎの仕上げ、または、絵具を薄める用途に使う、水が一番きれいな槽

 

‥‥という必要十分な使い方が可能です。

 

各槽の容量も絶妙で、少なすぎず‥‥です。

 

大面積や十数枚など、多量の絵具を使う場合は、もっと大容量の筆洗が適していますが、私のプラモ・アクリル塗料用途では、そのコンパクトさゆえに場所もとらず、十分な洗浄力も提供してくれて、「なんてデキる子なんだ」と愛着が止みません。

 

*「重ねて収納」するため‥‥かもしれませんが、中央槽の「ちょっと大き目で多めの水の量」も絶妙。筆をすすぐ時に、水は多い方が良いですからネ。

 

 

しかも、中央槽にハンドルがついているので、重ねてコンパクトに収納できるだけで終わらず、ハンドルをSカンに引っ掛けて、「空中」に収納することも可能です。これが「なくさない」し、「邪魔にならない」しで、いいことずくめ。

 

 

 

このサクラ筆洗を下回るコンピュータ機器なんて、いくらでもあるわな。

 

すぐ故障する、大して役に立たずに旧式化する、設計のマズさから使うだけでストレスがたまる‥‥とか、コンピュータ関連機器がいくらCPUや集積回路を使って高価なシロモノだろうが、サクラ筆洗の「運用実績」に歯が立たないものは‥‥多いです。

 

比べること自体が間違っている‥‥なんて言われそうですが、道具を使ってモノを作る人間にとっては、「道具は道具」です。

 

道具に貴賎なし。

 

 

願わくば、私が使うコンピュータ機器も、サクラ筆洗と同じくらい、愛着と信頼をもてる道具でありますように。

 

 

 


本を読んでた頃

リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」が発刊40周年だとか。‥‥懐かしいですネ。

 

 

 

若い時分、漠然と命やココロの有りようを捉えていた私にとって、1980年代終わりから1990年代前半にかけて、シュレーディンガーライアル・ワトソンなどの多くの著作に触れたのは、大いなる刺激でした。

 

まあ、101匹目のサルは「構造の例え」の読み物として読めば良いし、書いてあることを自分の新たな信仰にしようとでも思いつめなければ、日本社会で漫然と生き続ける惰性的な自分にとって良い刺激になりましょう。

 

 

私は小さい頃から、「いきもの」について、どうにもよくわからなくなることがあって、床屋で切り落とされた夥しい量の毛髪を見て、奇妙‥‥というか不気味なキモチを抱いていました。髪だけでなく、爪切りで切った爪や、誤ってスライサーで切ってしまった自分の皮膚とか、「いつからソレはイキモノからモノへ変わったのか」が釈然としなかったのです。

 

一事が万事そうした「自分にくっついていた時はイキモノで、切り離された途端にモノに変わる」要素で全て構成されている自分自身‥‥が、正直、不思議でした。

 

で、そうした不思議や疑問は、日常生活では全く取り上げられることはなく(よほど変わった親でもない限り、子供にそうした話題をもちかけませんもんネ)、プロのアニメーターになってフリー作業者溜まりのフロアに出入りして、演出さんや先輩の原画さんの机においてあった上述の類いの本に遭遇するまでは、ぼんやりとしたままだったのです。

 

 

生命ってなんだろう、存在ってなんだろう、意識ってなんだろう、ココロってなんだろう‥‥と、ぼんやりながらも、他の人より強く興味を惹かれたのは、やっぱり、絵を描いていたからだとも思います。

 

原画ってさ、何もない白紙に、線で「イキモノ」を描くじゃないですか。

 

そして、その描かれた「イキモノ」は、喜怒哀楽を振りまくかのごとく、時間軸の中で「動いてみせる」わけじゃないですか。

 

ちょっでもモノゴトを掘り下げる習慣があれば、およそ絵を描こうとする人間が、イノチとかココロのメカニズムに興味を抱いても、それは必然と言えます。

 

 

でもまあ、本を読んだからモヤモヤは全て解決した‥‥なんてことはなく、一生死ぬまで、思索は続くのだとは思います。

 

新しい「コスモス」シリーズで「我々は星屑から生まれた」との一節がありますが、人間が何を悩み、何に幸せや不幸を感じ、何を愛するのか‥‥なんて、やがて皆すべて、星屑に帰すのでしょう。あまりにも長い時間の中の、ほんの些細な時間の狭間に、あまりにも小さな存在でしかない人間が生まれて死ぬだけ‥‥なのかも知れません。

 

でも、生きてるうちは、そのちっぽけなことが大事‥‥なんですよネ。

 

 

 


年長と若年

練習はどうしても不可欠。しかし、一人で練習していると7日間かかって気づくことが、既に「同じ道を歩んだ」経験のある先人から教えて貰うことで1時間で気づくこともある‥‥のは、まさに技術が人と人との繋がりによって高められる「典型」です。

 

技術習得にショートカット(=習得工程のスキップ)はないと思っています。しかし、一定の技術を習得して、次のステップに進もうとする時、新たな技術ハードルの超え方を模索する時間は「時短」できます。

 

技術を習得するのに必要な時間はどうしても必要ですが、習得に至る道を探し出す時間は、先人に「こうしてごらん」と道を教えてもらうことで大幅に短縮できるのです。

 

同じ年齢層で固まっているとどうしても気づけないことが、年長の層の厚みによって様々なヒントが得られ、ハードルの超え方を見つけ出すことができます。時には、5年かかっても見つけ出せないことが、たったの数日で‥‥です。

 

 

勘違いしてはならない‥‥のは、突破口を見つけ出した後には、突破する過程のキッツい修練が待ち構えていることに変わりはない‥‥ことです。突破口が見えたからと言って、その突破口を必死決死の行動で実際に突破するのは本人‥‥ですもんネ。

 

実際、多くの人は、ここで思い違いします。「突破口が見えたら、解決だ」と。

 

年長者や経験者は自分に突破口を指南してくれるだけです。実際に行動するのは自分です。

 

突破するための長く苦しい道のりは、本人が歩むほかないのです。そして、突破した暁には、新しい技術の世界が広がります。

 

 

‥‥まあ、新しい技術を習得しても、その先にまた新たなハードルが待ち構えていますけど‥‥‥ネ。

 

人生、突破、突破の連続‥‥‥ですネ。

 

 

 

コンピュータによる映像制作技術は、特にアニメ業界においては、フィルム時代のワークフローで固着している感があります。ツールを「デジタルに差し替えただけ」の進化止まりです。

 

現場状況の内情を考えてみれば、「オールコンピュータ時代の新しい技術」に対応するための、若年から年長の「厚い層が形成されていない」がゆえとも思います。

 

新時代の技術に厚い層なんて‥‥と思われるかも知れませんが、新時代の前段階の層は、徐々に形成されてしかるべしです。しかしながら、アニメの制作現場は「CS6でバージョンアップ停止」問題でもわかる通り、ここ10年前後の間、新時代の根底となる技術革新を無視し続けてきた経緯があります。新しい技術を持った層が育まれない状況に陥っています。

 

上述の考えで言えば、若年にアドバイスする年長者が、古いタイプの道先しか教えられないがゆえに、一向に新しい道が開けていかない‥‥とも言えます。年長者の多くが、昔のやりかたしか指南できない‥‥のです。

 

昔の技術を全年齢層が継承する‥‥というのは、「もろ刃」なのでしょうネ。慣れ親しんだ技術を継続して作業工程を流通できるが、新時代の映像技術品質には打つ手をもたない‥‥という点において。

 

例えばアニメーターについて言えば、形や動きの捉え方、情景の描き方、配置やアウトラインなどの平面構成など、豊富なアニメーション技術を、先輩やベテランに様々に指南してもらえるでしょう。‥‥しかし、4KHDRテレビや4K本放送を迎える未来社会にアニメはどのような技術を新たに獲得して実践するか‥‥は、紙時代の技術をメインに継承し続ける年長者層では具体的に指南できない現実がありましょう。

 

そうした現場の状況の限界は、アウトサイダーがどうこう言って改善されるものではありません。現場の運命は、現場の人間たちが変えていく他、ないのです。ゆえに、現場それぞれの性質が表れ、現場それぞれの未来性に変化が生じるのです。

 

蛍光灯で透過する作画机を、ペンタブに切り替えて「デジタル作画机」にすることくらい‥‥しか思いつかない年長者が、これから先の変動期において、若い人間たちにどうアドバイスするのか。

 

 

2020年代以降の道しるべを年長者がどう示すか‥‥は、実はとんでもなく重要だけれど、現状の水面下にあって、隠れて見えない極めて深刻な問題‥‥かも知れませんネ。

 

 

 

 


練習量

技術は練習量だけで推し量れるものではありません。能率や効率が悪い練習は時間の無駄に他なりませんし、肉体を使った練習は、頭脳を使った構造把握と同調して進めるべきものです。

 

一方で、苦しい練習から逃げるために、ことさらに理論に偏向するのも、技術が上達しない大きな理由でもあります。十分な練習量はどうしても必要です。頭で技術構造の概要を知り得たところで、リアルにその構造を体現する「実演技術」を駆使できなければ、単なる「耳年増」に終始します。

 

1日に10分しか練習しないで、楽器が上手くなるわけがないです。

 

1週間に2〜3枚しか絵を描かないで、絵が巧くなるわけがないです。

 

どんなに頭の中に理論を構築しようと、必要十分な練習量は必要です。ネットが日常生活に普及して、どんなに情報の量だけ身の回りに増えようと、現実に自分の体を用いて練習しなければ、絵や音楽の類いは、技術を習得できません。

 

練習を軽視して理論だけで技術をモノにできるかは、バッハのインベンションの第1番だけも良いから、実際に弾いてみれば判ることです。人体のクロッキーを一体描いてみれば、自分の観察画力の程度はすぐに判ります。

 

 

練習は辛いことも多いので、脱落者も相応に多いのは、昔からです。

 

「今はそんな時代じゃないから」と逃げても、逃げ切れるものではありません。‥‥だってさ、自分の技術の結果に、ありありとその本人の歩んできた経緯が映し出されるもんネ。結果物は、雄弁に、その人間の性質を語ります。

 

 

やみくもに練習すれば良いってものじゃないのは事実。スモークオンザウォーターの4小節のリフを毎日6時間弾いててもギターは上手くなりませんし、萌えキャラのバストショットだけ延々描いててもキャラ好きのファン感情に終始するだけです。

 

一方で、技術とは何なのか、どのような構造をもち、どのようなバリエーションや具体例があるのか‥‥を、いくらリサーチして理論構築しても、現実の自分が練習をほとんどしないのでは、描けない弾けない自分の現実からは抜け出せません。

 

 

やっぱりさ、普通の人たちよりも、格段に描いたり弾いたりしないとさ‥‥‥、一定のレベルを超えた技術習得なんて無理だって。

 

一般レベル以上の努力を積むから、一般レベルを超えた技量が身につくのです。「努力=根性論=旧時代の悪しき精神論」という安易な認識で、自分を誤魔化して逃げるか否かは当人次第ではありますが、自分の肉体から音なり絵なりを生み出す「実演技術」を獲得しなければ、どんなに理論で武装しようと「空論」です。その理論を宣う本人が、その理論を実際に実演できないのでは‥‥ネ。

 

絵や音楽の実演技術は、実演するがゆえに自分の肉体と共にあるわけで、どんなに綺麗事を言おうが、十分な練習量は不可欠です。練習なんてしなくても理論だけで上手くなれる‥‥なんてことは一切ないです。素晴らしい教則本もあるでしょうし、教え方の上手な先輩もいるでしょうが、結局は自己の修練の度合いに帰結するのです。

 

上手くなりたいのなら、練習は猛烈に必要で、理論も深く掘り下げる必要があります。

 

まあ要するに、両方必要なわけで、ゆえに、一生、修練と思索の日々が続くのです。

 

お互い、めげずに、頑張りましょう。

 

 

 


奢り奢られ

前回書いた「贈り物」で、ふと思い起こしましたが‥‥

 

ひと回り近く年上のスタッフ(まあ、監督さんクラス‥‥ですわな)とプライベートでご飯にいくと、今でも奢って頂いて、恐悦至極。

 

そうした監督さんなどの年上のスタッフの姿を日頃から見ているので、自ずと、自分がいい歳になったら、ひと回り下の年齢のスタッフには、奢らなければ‥‥と思います。

 

で、しっかりした人ほど、若くても「今日くらいは私も出します」と言ってくれるんですけど、そこはね、その若い人たちが40代になったら、20代の若い人に同じように奢ることになるんですから、若い時分はたっぷりと奢ってもらうのが良いのです。

 

つまり、奢られたつもりでいても、実は後払いなわけです。まあ、奢ってもらった人に返すのではなく、次の世代に還元するんですけどネ。

 

 

年上の人に教えてもらえるのは技術だけじゃなくて、人の繋がりも‥‥です。

 

ひと回り以内の同じ世代の仲間となら、どんどん割り勘にすればいいです。年上の人には奢ってもらって、年下には奢る。それでいいのだ。

 

 

 


ヴァンアレン帯

アマゾンで何かとチョコレートの宣伝が多いのは、ヴァン・アレン帯の磁場の影響か。

 

まあ、基本的に、何らかの理由で有名な人でもない限り、黙っててもチョコを貰える人って、あまりいないと思います。職場や営業の社交辞令とかは別として。

 

チョコを貰える貰えないでイジける男は多いけど、そもそも、イジけてる人って、自分から誰かに贈り物とかおみやげとか、日頃からしてるんですかね。

 

人に贈り物をしてなければ、人から贈られることも少ないように思います。

 

プレゼントやおみやげや差し入れを選んでいる時のドキドキワクワク感、料理やお菓子(私はお菓子はあまり作れませんが)を誰かのために作っている時に想像する食卓での笑顔‥‥などの、日頃からそうした感情を抱きもしなければ実践しもしない人間が、チョコだけ欲しい‥‥つったって‥‥‥なあ‥‥‥。

 

絵を描いて映像を作っているとふと思いますけど、「人が喜ぶ顔」に幸福感を感じるのは、何かしらの行動における大きな原点の1つ‥‥だと思います。もちろん、原点の全てとは言いませんし、「他人など全く関係なく、自分自身(の、ある意味禍々しいもの)を込める」というのも作品作りの要点でしょうが、一方で、他者との関係性も作品作りの大きな要素の一つだと私は考えています。

 

自分では全く記憶がないんですが、母親の回想によると、幼児の頃に「公園でみんなに自分のお菓子をあげて回ってた」らしいです。なぜ、そんなことをしてたのか、さっぱり覚えがありませんが、「さびしがりや」ゆえに「ともだち」になりたかったんだとは思います。‥‥当時、家にはドレミファブックというレコード付き絵本があって、たびたび、「ないたあかおに」「うちゅうせんペペペペラン」を読んでいたので、何か強い影響を受けたんでしょうかね‥‥?

 

 

 

さすがに私もこの歳になって解ることは、見返りを求めた時点で、贈り物は贈り物じゃなくなる‥‥という点ですかね。贈り物に即物的なアンサーを期待する時点で、それはもはや「取引・交渉の手段」でしかないもんネ。

 

賢者の贈り物」という絵本がありますが、世知辛い現代においては甘い話‥‥かも知れません。‥‥けど、相手を想った贈り物って、往々にしてそういうものだよね‥‥と思わせてくれるお話です。原作者の生涯は別としても‥‥。

 

*ツヴェルガーの挿絵もイイですネ。こういう絵柄も、もう十分に、アニメーション化できる時代になってきましたから、ちひろさんの絵なども意識しつつ、新しいアニメーションスタイルを作ってみようと思っています。

 

 

 


佇まい

私は、50年生きてきて、ようやく絵というものが解りかけてきた感が最近あります。まだ、迷いも多く、未熟者ですが、何をよりどころにすれば良いかが、実感できるようになってきました。

 

立体的な空間、時間は、残照に留め、あくまで平面での振る舞いに注視する‥‥ということが、私の求める「絵の世界」だと自分自身を自覚できるようになりました。

 

はっきり言いまして、最終的=つまり、絵としての最終形態においては、立体の理屈など、どうでもいい。そして、現実の理屈も、どうでもいい。

 

平面上に展開し、平面上にその完成像を表すことが、絵の全てです。

 

そして、それこそが、絵の最大のアドバンテージだと心底思えるように、ようやくなってきました。

 

‥‥まあ、私にとっては、ですけど。‥‥一般論とはいいませんヨ。

 

 

もちろん、平面上に絵を展開するために、立体の把握や現実のリサーチなども必要でしょう。人々を円滑に絵の世界に引き込むために、見かけ上の理屈や立体感は(作風に応じて)不可欠だと思います。しかしそれらは全て絵の美しさ、面白さを具現化するための、単なるいち手段です。

 

私の好きな画家さんが、とあるテレビ特集番組で、手を描くために義手メーカーを訪ねて手の模型をあらゆる方向から観察していました。‥‥こう聞くと、「手の立体を把握するためだろう」とか「構造を知るためだろう」とか思いがちですが、‥‥‥違うんですよネ。つじつまや理屈を合わせるため「だけ」に、わざわざ立体を遠方まで確認しにいったのではないでしょう。

 

絵の中の佇まいを成立させるために、自分の目で存在感をできる限りクリアに観察・確認したいのだと、私は思っています。

*ちなみに、そのテレビ特集番組は、既に亡くなった人の絵を描く‥‥という内容だったので、モデル本人の手は直に観察できなかったのです。

 

途中経過として寸法の計測もするでしょうし、細部までスケッチ・模写するでしょうが、それは手段であって、目的ではないです。

 

 

私は実際、アニメの原画仕事ではなく、自分たちの新しい表現を盛り込んだプロジェクトの絵になると、制服の襟ひとつ、悩んで描けなくなることがあります。‥‥なんていいますかね、「どこかで誰かが描いたような」「慣れだけで描いた」「打算的な描写」が、自分で描いてて嫌になってくるのです。

 

たとえ最終的に1本の線で描写されようと、それは平面上で描かれる「然るべき佇まい」であってほしいわけです。

 

 

まあ、そうしたスタンスは、大量に絵を描く旧来のアニメ制作向きでないのは、百も承知しております。制作構造的に、いちいち1本の線で悩んでたら、キリがないですもんネ。

 

ですが、新しい技術においては、1本の線で延々と悩むかは別として、今まで不可能だった画風を動かせる利点があります。もう「アニメ絵」でなくても構わないのです。アニメを作るときに、必ずアニメ絵にしなければならなかった過去の足枷が外れます。

 

絵を動かす‥‥ということに対して、「まず、絵であること」が「許される」ようになるわけです。「アニメ絵以外、お断り」と門前払いを喰らうことは、新技法においてはありません。

 

腐心して描いた1本の線が、粗雑に扱われることなく、アニメーションの時間の中で動かせるようになります。苦労の甲斐もあろう‥‥というものです。

 

 

でもまあ、ゆえに、あまりにも表現の選択肢の幅が広すぎて、逆に迷う‥‥ということもあるんですけどネ。

 

まあ、ビジネスモデルも含め、色々と切り拓いていくことは多いです。

 

 

今後、もしかしたら業界の人々は、「アニメ制作のためのアニメ絵」を作り続けるために、色々な工夫をするようになる‥‥かも知れませんが、私からすれば、それはある種、競合が増えずに好都合ではあります。ライバルが少ない〜海はレッドよりもブルーなほうがやりやすい‥‥ですもんネ。

 

私ら新技術に取り組むグループは、アニメ絵でも、アニメ絵ではない絵柄でも、色々なスタイルと手法でアニメーションを作っていきます。新旧拘らず、あくまで、平面上での最終的な「絵の佇まい」を至上として。

 

悩むことも、迷うことも多いですが、それもお楽しみの内‥‥です。

 

 

 

旧来スタイルによる当面の現実的な路線、未来の様々な可能性への取り組み。

 

現実だけでは行き止まりで先が見えない、夢や理想だけでは現在から未来に繋がらない‥‥と、要するに、両方を同時に進める必要があるわけです。

 

‥‥であるならば、今は今、未来は未来‥‥で、「分けて」考えて行動すれば良いのでしょう。

 

未来を、ことさらに現在の延長線上や刷り直しによって限定する必要もないです。

 

「映画とは本来こういうものだ。アニメは映画じゃない」みたいな論調が最近話題になりましたが、実はアニメを作っている当事者も、「アニメとは本来こういうものだ。アニメ絵じゃなければアニメじゃない」‥‥みたいな暗黙の決め型に縛られているように思います。「型」に束縛されている‥‥という点で、私から見ればどっちも‥‥って、まあ、いいや、それは。

 

こと、アニメ作品の条件を考えれば、絵が動いて、話を紡いで、映像作品となる、‥‥それだけで、アニメ足り得ると私は思ってます。

 

 

*好きな画家は古今東西たくさんいるんですが、上村松園も昔から好きです。‥‥のわりには、山種には一度も行ったことがないんだよねえ‥‥。出不精だから。

アホみたいに混んでる上野美術館の企画展をみるくらいなら、常設の洋画や松園の「」をゆっくりたっぷり見たほうが、数倍幸せです。


生まれ変わりの期間

何度も繰り返し書きますが、最近数年は20数年前と構造が酷似しています。ゆえに、20数年前に行動して上手くいったこと、もっとこうすれば良かったと思うことを、実践すれば良いと感じます。

 

20数年前、まさかフィルムとセルが消えるとは、周りの誰もが思っていませんでした。「フィルム&セル」組は、まさに業界の本道であり、コンピュータによる「デジタルアニメーション」組は少数も少数で、「うまくいくかどうかも判らないモノ」程度の認知度でした。VHSアナログビデオテープが全盛でもあったので、「コンピュータデータによって、アニメ映像を形成する」こと自体、世間一般・業界大多数で「現実味の薄い」話だったわけです。

 

私自身はMacintoshのPhotoshopの大きな可能性に触れ、やがて「デジタルアニメーション」が台頭する確信はありましたが、「フィルム&セル」と共存していくとも考えており、セルやフィルム撮影台だけでなくまさかフィルムそのものまで「消える」なんて思ってもみませんでした。

 

私はその1996〜2000年当時、一眼レフカメラをいつも持ち歩くほど愛用していましたから、余計に、フィルムが消えるなんてありえないと信じて疑わなかったのです。当時のデジカメはQuickTakeでそりゃあもう、お粗末至極の性能(小さい画像、汚い画質、すぐに切れる電池)で、信頼できるカメラはまだまだフィルム方式だったのです。

 

*2009年頃のムービー用フィルムパンフレット。五反田のラボのロビーで待ち合わせの間に、フィルムの思い出に‥‥と、記念にゲットしておきました。

 

その辺の経験から鑑みて、今回の大変動期も、作画の現場はもしかしたら‥‥と思うこともあるのですが、作画の未来は読みきれません。少なくとも私自身は、新技術を推進する立場を明確にしつつも、20年前と同じように、「旧来技術が消滅することはない」とも考えています。紙を廃止しても鉛筆をペンタブに持ち替えて「デジタル作画」として継続し、金がかかる構造も含めて、継承していくと予測しています。

 

なぜかというと、新技術はよほどコンピュータに慣れた人間でないと、あまりにも「作画感覚が違いすぎる」ので移行は困難で、ゆえに作画畑の人々の多くは「移行できない=昔の技術を使い続ける」と思うからです。旧来の作画感覚で仕事をする人ほど、カットアウト、キーフレーム、三角メッシュやボーンの操作感覚は、違和感たっぷりで拒絶感を乗り越えられない‥‥と思われます。

 

旧来技術の中で生き続けたい人の「許容」として、旧来作画ベースの現場は存続すると予測しています。

 

ただし、経験したありのままで考えると、そのあたりも未知数‥‥と言わざるえません。少なくとも、20年前の私の「フィルム&セルと、コンピュータ&データは、お互いに長所をアピールしつつ共存していく」と考えていた予測は大外れだったわけですから。

 

 

 

 

‥‥で、そうした全体像だけでなく、私個人の仕事周りにも、20年前と酷似する状況は再演しています。

 

これからはコンピュータを自分の武器にして仕事をする!‥‥と決心しきれたのは、1997〜1999年くらいのことでしたが、その間にスパッと紙と鉛筆からコンピュータに完全に切り替えられたわけではなく、昔のご縁=自分の能力を知ってくださる方々からの仕事は続けていて、実質は紙とコンピュータの掛け持ち状態でした。

 

そして現在も、同じ状況を再演しています。新しいスキームと、旧来のスキームの、同時進行。

 

前に、「良い死に場所を見つけた」と書いたのもつかの間、ドドドッと旧来の原画&コンポジットの仕事依頼が複数来て、20年前の再来〜死に損なう日々が続くのかも知れません。

 

 

新しいカタチに生まれ変わるには、実はそれなりの長い年月が必要‥‥みたいです。過去の経験から、そう思います。

 

自分ではズバッズバッ!と豪胆かつ積極的にアクションした気でいても、大きな物事が動きだすにはそれ相応の時間は要するのです。大転換期であればあるほど‥‥です。

 

 

 

 

じゃあ、誰かさんが物事を動かすまで、待ってればいいや‥‥というのは、ものすごく、見当はずれな考えでネ‥‥。

 

そうした日和見行動は、まさに状況に流されるままに流されるので、溺れ死にそうになるところから「次のフェイズ」をスタートすることになります。最近のアニメ現場の状況を鑑みるに、いきなり最初から不利な立ち位置でキャリアを開始する人も多いと推測しますが、それはその制作集団が日和見したツケが回っているだけです。

 

物事の流れを読んで「先行投資」して「良い位置につける」行動を実践した制作集団は、流れの影響は受けつつも呑みこまれっぱなしになることはなく、また次のタイミングを狙っているものです。

 

 

とは言え、新機軸をどんどん打ち出して、新しいアイデアを実践して形にしても、物事は即応しません。大きな流れが方向を変えるには、様々な要素と相応の時間が必要です。

 

だからと言って何もしなければ何も変わりません。むしろ、何も行動しなかったことが、数年後、十数年後に、どんどん不利な局面へと自分を追い込んでいきます。

 

まあ、戦争論そのもの‥‥ですネ。

 

大胆な戦略展開と地道な持久戦が並行で進みます。

 

 

* *

 

 

1原2原はおろか、3原、4原、果ては0原(ゼロゲン!!!)まで存在するようになった状況。

*ちなみに、ゼロゲンやヨンゲンは同僚から聞いた話であって、私の周りには、そんな仕事の状況はありません。関わる作品制作スタッフの名誉のために明記しておきます。

 

もちろん、ウケ狙いやネタで0原や4原の仕事を増やしているのではなく、切実なその現場の理由があるのでしょうが、どんな理由があろうと、それは「型崩れ」「崩壊」に他なりません。だってさ‥‥‥、3原、4原や0原まで発生しちゃった現場って、いったい、原画料金はいくらに細分化されるの? ‥‥まさか、1カット、1000円?

 

仕上げさんがキャラ修正するのが恒常化した現場、本撮テイク1を2〜3日で撮り切るのが恒常化した現場。

 

「近年10〜15年の状況」しか知らなければ、新しい未来をどうやって切り拓けば良いか、実感があまりにも希薄でしょう。

 

惰性でアニメを続けるベテラン、今の状況を「しょうがない」で済ませる中堅、憧れだけでその先は何も考えてない新人は、まあ、ふさわしい場所が未来に用意されるでしょう。

 

要は、私のようなコンピュータ導入の黎明期を肌身で知る古参スタッフと、業界入り当初から「地獄の現場」で生き続けたがゆえに未来を変えたいと強く思う中堅スタッフ、そして、アニメを憧れだけでなく生業として真剣に新しい技術と経験を吸収していこうと決心する新世代スタッフの、人材を選抜した上での結束が必要不可欠となりましょう。良き未来を志向するのなら、ベテラン・中堅・ルーキー全ての世代において、日和見路線や尻馬路線と決別する覚悟と行動が求められます。

 

 

 

いくら大勢で寄り集まっても、烏合の衆や日和見集団じゃ、何も動かせません。かえって、身動きが取れなくなるもの‥‥ですよネ。そんなの見飽きるほど見てきましたワ。

 

なんだかんだ議論しようが、あれこれ小理屈をひっつけようが(=我ながら)、結局は、物事を動かす意志をリアルに実践できる人間たちだけが、自分たちの運命を変えていける‥‥と、この20数年を経験して、実感します。

 

 

 


賭けずとも

色々とスッキリと物事が進まない日々ではありますが、だからと言ってため息をついてても何も解決しないですから、どんどん先に進めましょう。

 

最近、新しいソフトウェアを3ライセンスもまとめ買い(自費でな)しましたが、4Kにも60pにも対応していて、頼もしいばかりです。

 

どんどん作例を増やして、ザクザク状況を積み上げていくべし。

 

 

 

 

私は「賭けごと」について、とても凡庸な人間であるがゆえに、「賭けずとも、上手くいくこと」に対して、妙に従順なのです。

 

上手くいくことって、既に表面に判りやすく答えが出ているんですよネ。その逆も然り‥‥ですけど。

 

20年前の「デジタルアニメーション」の時も、もっと昔のアニメーターになった時も、そして現在進行形の新技術の取り組みも、「賭ける必要などない」ほどに「上手くいくこと」だとの確信がありました。

 

自分は才能がない、上手くいくはずがない‥‥と自虐を演じる人はどんなジャンルにも存在しますが、ほんとにそう思うのなら、やらなきゃいいじゃん‥‥と思います。「イチかバチかの賭けに出ることに緊張している」時点で、負けが予兆されているとも思いますしネ。

 

本当に賭けに強いヤツは、賭けること自体にビクビクおどおどしてませんし、私のように賭けに弱いヤツは、賭けずとも目的を達成できるように地道に準備して状況を作りだそうと行動します。

 

 

私はギャンブル系はまるでダメで、その昔、ポーカーやパチンコなどにめっぽう強い親友がいましたが、「異能戦士」のように思えたものです。ポーカーマシンのメダルをざっくざく出しているのを見て、自分には無理だと悟りました。

 

なので、ギャンブルの才のない私は、無意識にでも「勝てるものにしか手をださない」人間へと自然と傾いていきました。‥‥ギャンブルに強いヤツが親友だったので、対比として、特に「そうなっていった」のでしょう。

 

我を振り返るに、「自分は賭け事には弱いから、賭けに頼る事なく、確実に勝てる道を探そう。賭けに負けても、勝負には勝てる戦いを仕掛けよう」と考えたのだと述懐します。こうして書いてて、なんとなく昔の自分を成り行きを思い出しました。私は自分なりの才覚に応じたリスクマネージメント・リスクコントロール(今風に言えば)を身につけていったわけです。

 

 

 

 

今のアニメ業界は、「西からお日様が昇って、東に沈む」ことを願っているかに見えます。自然の摂理を「ひっくりかえした」ような、何だか、天才バカボンの歌みたいですネ。アニメ業界は時間が逆行してくれるのを望んでいるかのようです。

 

一方、私らのような少数派ムーブメントの弱者にとっては、自然の摂理は心強い味方です。時間が進んで、時代が進めば、やがて「事」は上手く同調して進んでいきます。東から昇るお日様の通り道に合わせて、色々を育めば良いだけです。

 

 

とは言え、一切の「賭け要素」がなく「安全パイ」で進行する‥‥なんていうのも自然の摂理に反しています。どんなに予測していようが、思わぬ方向にサイコロが転がることもありましょう。

 

ゆえに、未来はこうなる!‥‥なんて一択ではなく、いくつもの可能性を考慮しておく必要があります。可能性の分岐を、恐怖ではなく、楽しみに変えて‥‥です。

 

 

ただし、日本が江戸時代にタイムスリップしないのと同じように、アニメ業界を取り巻く状況も、70年代テレビアニメの時代へと逆戻りしません。時間だけは、可能性の如何に関係なく、不可逆です。

 

まあ、核戦争さえ起こらなければ‥‥ですがネ。大戦争が起こったら、時間は不可逆でも、時代は巻き戻ることもありましょう。アニメなんていう娯楽が年間に数本しか存在しなかった時代に‥‥です。

 

 

 

私は、時間が不可逆だという一点だけでも、十分、「戦える」と思ってます。時間は色々なことを変えていきますもんネ。変わりさえすれば、隙が出来て、動ける‥‥ということです。

 

不可逆な時間をどう上手く使いこなすか‥‥‥は、私だけでなく、全ての人におしなべて問われるのでしょうネ。

 

 

 

 

‥‥と書いたそばで、今月もこなす仕事が盛りだくさんで、押しつぶされそう‥‥。

 

1月、もう終わっちゃったのか‥‥‥。ひと月が速過ぎるわ。

 

 



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