「大和」というネーミング

最近、「大和」という名称を、「フラッグシップの何か」に命名する「潜在的な意識」を考えてみた事があります。

戦艦大和は、世界最大の46cm主砲を装備し、まさに「俺たちの最高最強の」戦艦ではありますが、「艦船による艦隊決戦」という、時代からズレた感覚で計画・建造され、有効な戦略上の活躍もないまま最後は「特攻兵器」として出陣し、航空機勢によって撃沈された‥‥という、ある種「滅びゆくものの美」を背負った存在でもあります。

私は、人々が自分たちの何かに「あえて、大和と命名」する時、実は潜在意識の中に「最強かつ最後」という「終焉を予感するファクタ」が存在するのではないか‥‥と感じます。本人たちは無意識でも、「最高のものを用いて、最後の時を迎えるんだ」という「心中」の感情を、どこか「大和」という名前に託しているのではないか‥‥と。

私が過去から感じていた「大和」という名の持つ「不吉さ」は、その辺に由来するのかも知れません。ですから、私は自分の計画する新しいアニメーション制作システムに、間違っても「大和」なんていうネーミングをするわけもないですし、端末名にも命名する気分にはなれません。片道燃料の特攻作戦のイメージが強すぎちゃって‥‥。

別に「大和」は、戦艦固有の名前ではないのですが、戦艦大和の生い立ちと最後を子供の頃から書籍で読んでいたので、なおさら、「大和」という名前を避けがちなのかも知れませんネ。私が日本伝来の名前をチョイスするならば、スサノヲとかツクヨミとか、軍艦には無い名称を選ぶと思います‥‥恐らく。

慣れれば、慣れる

何故、平安時代にジェット機を生産できなかったんでしょうか。平安時代にはジェット機を生産するための、根本的な資材〜もっとさかのぼって言えば、元素が地球上に存在しなかったんでしょうかネ。‥‥そんな事はないわけで、要は総合的なテクノロジーが発達してなかったからですよネ、大雑把に言えば。

思うに、昔の人の知能や身体能力がことさら低かったわけではなく、全世界規模の技術基盤や文化などが複雑に入り組んで「時代」を形成し、人々はその強烈な影響化にあったのだと思います。1935年生まれの戦前の新生児をタイムマシンで現在につれてきて、現代社会で育てれば、まさに「現代人」になると思います。人は「状況に慣れる」性質を持つ‥‥のかも知れません。

もっと個人レベルの視点で考えてみると、なぜ、子供・学生の頃は「下手」なのか。10代の身体に致命的な弱点があるわけでもないのに。「自身の肉体」という道具は存在したのに、何かしらの要因や意識が不足していて、「上手くできない」のです。

人が「慣れるイキモノ」だとするならば、古いものに慣れ親しむばかりでなく、新しいものに慣れる事にも、その性質を発揮したいところです。

「できるのに、できない」事は、次世代映像制作の取り組みをしていると、痛烈に実感します。「1年前に、このやり方が、なぜ想い浮かばなかったのかな‥‥」とか「妙に、昔の作法に縛られて、思考が凝り固まっていたな」‥‥などと、自身の発想の不自由さに歯がゆくなる事があります。

After Effectsで動きを作る事は、今の私には「できる事」です。ずいぶん昔のAfter Effectsでも動きは制御可能でしたから、要は今まで自分の中で「できないことにしていた」だけです。一般的に見れば、「撮影」という行程では、動きをAfter Effectsで作り出すなんて、じゅうぶん変則的ですし、旧式の撮影行程で撮影スタッフが動きに関与するのは御法度(動きのクオリティで考えて)です。しかし、動きの経験と知識を持った人間が、撮影とは全く別の視点でAfter Effectsを用いてアニメーションするのであれば、状態が全く異なります。

「できる事とできない事」の組み合わせは、言うなれば「de facto standard」です。実勢によって事実上の標準とみなされるようになった」とは言い得て妙で、自分自身・自分の身の回りの技術・趣向などにおいても、自らの認識で「実勢によって事実上の標準」とみなしています。そして人は、いつの頃からか「自分の実勢」の更新をストップし、「自分とはこういうもの」とばかりに、グローバル定数のように固定して設定しがちなのかも知れません。

でも、過去全てにおいて、実勢に甘んじて何もアクションしない人によって世界が満たされていたら、まだ石器時代以前のままかも知れませんネ。飛行機も飛ばないし、電話もテレビもない。もちろん、アニメも、After Effectsも存在しないスね。

個人レベルで言えば、自己の「de facto standard」は、言い換えれば、「閉塞感の自作自演」とも言えます。自分の行動パターンをバックサイドで適度に設定しておきながら、「このごろ、自分自身の行動に閉塞感を感じる」などとは、滑稽にもほどがあります。

でも、自分の性質、趣向なんて、そうやすやすと変えられないじゃんか。‥‥まあ、そうかも知れません。

だったら、趣向はそのままで、別腹で新しい事をしてみて、それに慣れちゃえば良い‥‥のです。ある時期から「自分が得意だ」と決めつけた以外の、自分にとっての新しい事をすれば良いです。新しい事に着手するのに、「今までのをナシにする」とか、極論に走る必要がありますか。

かと言って、新しい事をするだけではダメで、「慣れるところ」まで習熟しないとダメッすネ。‥‥で、「慣れるところ」までいくには、状況を作る必要があります。まあ、自身を振り返ると、この「状況を作る」方法が若い頃には解らないのよねェ‥‥。

思うに、「自分はこの程度だ」と達観する事が、自己の発展を阻んでいたと述懐します。私は今では普通に、カラーボード・イメージボード類を仕事で描いたりしますし、ビジュアルエフェクトやグレーディングで微妙な色の操作をして画面作りをしますが、実は過去の私は「色彩は不得意だ」 と思っており、20代中頃まではずっと敬遠していました。そんな私が、メルセデスCMや2000年のBLOOD劇場ではカラーイメージボードを描き、ジョバンニではイマジカのグレーディングに立ち会うようになるのですから、要は過去に自ら「できるのに、できない」状況を生み出していたわけです。私が「本質的かつ宿命的に色彩に向いていない」なら、じゃあ、今なぜ、このような仕事をしてるのか‥‥という事です。今だからキッパリ言えますが、「できない」と自虐的に思考していただけです。そしてその自虐思考が、プラス要因を丁寧に1つずつ潰していく「負のジェネレータ」になっていたのです。

After Effectsで絵を動かすなんて、そんな果てしない事を‥‥。もしできたとしても、手描きに比べて、相当にヘナチョコなんじゃないか‥‥。数年前はそんな迷いもありましたが、実際に着手して作業に慣れてくると、「まだまだいけそうな予感」をひしひしを実感できるようになりました。日本のアニメーターの技量はハイパークラスですから、肩を並べるにはほど遠いヨチヨチ歩きですが、今のアニメーターのシステムでは全く手の届かないフィールドがもう見えていますし、今後の成長を加味すると、ある種、楽観できるのです。アニメ作画やアニメ撮影はまさに真っ赤なレッドオーシャンですが、夏の木陰から涼しげなブルーオーシャンが見える思いです。‥‥これも構想だけではダメで、「慣れる」ところまでやってみて、初めて実感できる事です。

慣れれば、慣れるもんです。逆に、慣れるまでつきあわなければ、いつまでたっても、変化は訪れません‥‥というか、相対的には時間の進行に置いていかれて後退していきます。

今のアニメの制作方式。「新しいフォーマットについていけなくなったら、心中するまでよ」と自虐思考に陥ってたりしませんか。それこそは、過去に消えていった娯楽産業と同じ末路を、自ら好んで進むようなものです。紙に鉛筆で原動画を描くスタイルを存続させたい‥‥とするなら、それを「実勢」と達観せずに、何かしら新しい突破口を志向することが必要でしょう。‥‥つーても、何だかんだ言って「今のシステムがいい」という人が多いこの業界、‥‥変われるタイミングも極めて見つけ辛いのかも知れません。
 

ツールのメリハリ

私は20年以上前に購入したプラモデルキットを今でも倉庫に保管しており、最近いくつかをひっぱり出してきて制作しているのですが、かなり昔(多分30年近く前)のキットから懐かしい付属品が出てきました。



プラモについてた接着剤です。昔の男の子たちは、この接着剤を使って、プラモを組み立ててたのです。プラモのパーツはランナーから手でちぎり、ちぎった痕をハサミ(図工用の)で切り取って作りました。‥‥まあ、ハサミで痕を処理するのは「丁寧」なほうで、最悪そのまま組み立てて、「へその緒」がいくつも残った完成品になったものでした。

子供時代の自分を思い出し、「そりゃ、ブザマな出来になるわな」としみじみ思いました。

この接着剤、水飴のような粘性をもっており、貼り合わせの断面にトロリと塗って、パーツを貼り合わせて接着するものですが、そんなやり方で奇麗にできるわけもないです。食パンのジャムサンドみたいになります。ただ、「プラモはそういうふうに作るもんだ」とマインドが固着してたので、皆が皆、この水飴接着剤でプラモを作ってたのです。

そうして過去を振り返ると、自分が子供だった事もありますが、ニュートラルにジャッジしてみても、「ツールが悪い」のは事実です。図工用のハサミとカッター、水飴接着剤しかなければ、奇麗で繊細な模型なんて作れないです。最悪、切れ味の悪い刃物でケガをしちゃいます。

しかし、経済力ゼロの「養われ小学生」に、最適なツールを買い揃える事など不可能。そこにあるツールで作るしかありません。本来、図工用のハサミは、プラキットを切る目的では設計・製造されてないのですから、上手く使えなくてあたりまえなのですが、当時の私は「自分は指先が不器用だ」と消沈したものでした。

そして現在。今の私のプラモ制作ツールのメインメンバーは以下の通り。



何でも高いものを買い揃えているわけではありません。ハンディルータは1,500円のものもありますし(ルータは1〜3万円するのもザラです)、ヤスリに至っては3本セット100円のものを使っています。しかし、ニッパーにはお金をかけてまして、特に青い柄のものは3,500円します。もちろん、「ニッパーごとき」にそんなコストを払うのは、明確な理由があるから、です。

制作をしていれば自ずとそうなりますが、ツールのラインアップは「高いツールと安いツールのメリハリ」がつくようになっていきます。また、似たような見た目でも、様々な場面で使い分けするようになります。上の写真はニッパーが3つありますが、使い方がそれぞれ違います。横着して不適応な場面で一緒くたにツールを使うと、パーツとツールの両方を破損する事すらあります。

「高いのを買っとけばOK」と言うのも、ちょっと違うのです。作業工程や段取りによっては、高価なツールの性能が「全く活きない」のです。高価なツールにはそれ相応の「高いだけの理由」がありますが、高価なりの性能を使いこなしてこそ‥‥です。やけに高価なブランドツールで身の回りを固めるのがカッコ悪く見えるのって、要は「使いこなしていない感」が見えちゃうからですよネ。また、何から何まで100均のツールだけで揃えるのも、「時間と金を引き換える」事になり、大袈裟かもしれませんが、人生をディスカウントしているように思えます。

2,000円以上クラスのニッパーは、直接的に制作時間&クオリティに作用します。一方、1,000円のヤスリでなく、100均のヤスリでも、速度とクオリティにはほとんど影響が出ません。こうして、ツールにお金をかける部分のメリハリが利いてくるのです。プラモ用として「みくびった」500円前後のニッパーを使うと、後処理に余計な時間を消費して、ぶっちゃけ、人生の時間を無駄にします。時間と質を獲得するために、必要に応じて「ハイ&ロー」を使い分けるのです。

「ニッパーなんて100円ショップので充分じゃん」‥‥という人は、プラモを作ってない人、もしくはプラモをあえて作り辛く作る人でしょう。ツールには、使っている人間でないと判らない「ツールのクオリティ」というものがあるんス。

ちなみに、接着剤はこの通り。



接着剤にこんな種類が必要か?‥‥とか言われそうですが、必要なんス。どの製品も皆、特性・性質が違い、適材適所で用いる事によって、速く良く、キットを作る事ができます。もしこのラインアップが揃ってなければ、制作時間は数倍(そのほとんどが乾燥待ち時間)にふくれあがります。

これは映像制作のコンピュータにも言えて、何でもWindowsで済まそうとするのは、おそらく映像制作のビジョンが見えてないからだと思います。時間と質を犠牲にする事になります。映像制作本位で考えれば、WIndows、Mac、Linuxが混在するのは当然の結果であり、映像制作を犠牲にして管理の都合だけで考えれば、Windows一色になるでしょうネ。

話を戻して。

しかし今は100均とかあっていいよな。例えイマイチのニッパーでも、100円で買えるなら、プラモ制作には図工用ハサミより10倍マシですもん。私が子供の頃に、100均なんてあったら、嬉し過ぎて、足しげく通うだろうな‥‥。でもまあ、デザインナイフもダイソーにいけば100円で買えるわけなので、そうなってくると、子供たちに「ツールが身近にあるのに、何で奇麗に作れんのか?」と妙なプレッシャーがかかることになりますね。それはそれで、いきなり高いハードルで、可哀想。

現在はプラモを作る子供なんているのかな? 自分の指先を、子供のうちから沢山使っておくと、色々と可能性が広がると思うんですけどネ。スマートフォンのタップやスワイプだけじゃ、モノは作れんですからネ。

お金と時間

お金と時間。使い方次第で様々に作用するもの、ですね。

私は、量ではなく構造にお金を使うのが良いと思っています。今どきの話題で言えば、4Kモニタにお金を使うのではなく、4Kを制作する基礎構造にお金を使う‥‥という感じでしょうか。清水の舞台から飛び降りる覚悟で現在の高価な4Kモニタを買うのだったら、今は2.5Kのモニタでやり過ごして、お金はもっと他の4K対応の「地味な足回り」に投じるべきだと考えています。4Kモニタを買ったところで、4Kの映像作品を作るノウハウやストラクチャが手に入るわけではないですもんネ。

これをプラモで例えると、「プレミアのついたキットに大金を投じる」のは「量」にお金を使うやり方で、「切れ味の鋭いニッパやルータに地味にお金を使う」のが「構造」にお金を使うやり方‥‥と言えるかと思います。無理して高価なキットを買っても、それを作る技術や基礎環境がなければ、どうにもなりません。それに、プレミア価格4,800円のキットは、やがて再販されれば定価1,200円になって流通します。であれば、一時的な衝動にお金を使うのではなく、プレミアと普及の差分、4,800 - 1,200 = 3,600円のお金を「価値あるもの」にしたいと考えるのです。

時は金なりと言いますが、直接的に「今欲しいからお金を使って手に入れる」のも「時は金なり」だと思いますし、多角的に「攻勢のタイミングを計って、お金と時間を使う」のも「時は金なり」だと思います。私は後者を選ぶようにしています。

「大戦略」という戦略ゲームがありますが、「状況の表面」に反応して動くだけでは「大勝利」条件をクリアする事はできません。前線で戦車部隊が壊滅的被害を受けたから、後方で戦車を増産しよう‥‥とか、敵爆撃隊が飛来したから、戦闘機部隊を振り向けよう‥‥とか、理屈にあった行動のように見えますが、これはいわゆる「前線に振り回されている」状態で、‥‥まあ、勝てないですわな。戦車部隊が壊滅的被害を受ける状況、爆撃機が飛来しただけで混乱する状況。‥‥そんな状況を作る事自体が、アカんですネ。

「わざと膠着状態を作る」のも戦いのテクニックなのです。戦い方は、パッと見が華々しい「正面突撃」だけでなく、有利な地形を選んで故意に「防御戦を仕掛け(変な言い方ですが)」つつ、攻撃ラインを別に設け、タイミングを図った大攻勢により勝利に導く方法もあるのです。‥‥まあ、ゲーム上の話ですが、90ターンで設定されている戦略マップを20ターン強で勝利する事ができます。この方法は、お金と時間を使う様々な事例に応用する事ができます。

大きな目標を大金と大パワーで突破する‥‥なんて方法は、少なくとも日本人の私には考えられません。目標のウィークポイントを探して、様々な角度から仕掛けを作り、同時爆破で大きな障壁を倒壊させて、目標に辿り着く方法は考えつきますが。

なので、私がお金をかけたいのは、構造、仕掛けの道具なのです。4Kモニタを数十万で買うくらいなら、ワークグループサーバや自動処理マシンを構成したり、新たなソフトウェアの運用方法を模索するのに使いたいです。プラモならよく切れるニッパ(2000円くらいのネ)とか、ハンディルータとか。4Kモニタだけがあってもそこに映るのがショボい映像じゃ情けないし、どんなに高価なキットでもまともに作る道具がなければ台無しですからネ。

ただ、「周りが熟れるまで、待って居よう」と何もせずに日和見をするつもりはありません。日和った結果、何が待っているかというと、‥‥まあ、いいか、この話は。

プレミア事物にお金を投じるのは、「プレミアへの幻想」が多少なりとも作用すると感じます。「それを手に入れれば、スゴい事が出来るかも知れない」という幻想。私は、「ミラクルには、種も仕掛けもある」と考えている人間なので、何か単品のプレミア物品が、自分の願いを叶えてくれるなんて、思えないのです。

大収穫は、地道な土作りから取り組んだからこそ‥‥ですヨネ。

ネットの言葉

ネットに向けて自分の言葉を発信するには、ブログなど色々な手段がありますけど、中でもツイッターは難易度が高いと感じます。スマートフォンで気楽に言動を発信できますが、言葉の音感や抑揚がすっぱり抜け落ちて、活字だけが表示されるわけですから、最悪の場合、伝えたい内容と真逆の受け取られ方をする事だってありえますし、実際にそのような事例も多いですよネ。

social networking service〜ツイッターとかフェイスブックって、まさにネットワーク、「繋がる」が合言葉のようですが、これも良い事ばかりではなくて、悪い事も相応にあると感じてます。例えば、誰かがツイッターで「誰かを軽く嘲る」ひとことを発信し、面白がった人々がどんどん参加して「嘲笑自慢大会」に花を咲かせていく‥‥というのも、まさに「繋がってる」と言う事なんでしょうが、大勢が個人を嘲り笑って繋がる姿って、‥‥気持ちいいもの‥‥ですかね?

人名をわざと誤変換して「チョイ嘲り」するのも、ネットではありがちですが、私はその行為を実行した人の「心の状態」が端的に見えるようで、辛くて読むのを止めてしまいます。侮辱以外の何ものでもない(=意図して誤変換しているのですから)自らの発言に対し、「ツイッターだからジョークっぽく偽装できる」という発言者当人の計算が見えてしまうのも辛いです。何か含みのある誤記を面白がって、サッと寄ってサッと離れる連中の関心は、短期間引き寄せられるでしょう。しかしその代償は大きいと感じます。実際、「人の名前を、解っていながら誤記して、からかってみせる」人を、信頼できるのでしょうか。

アカウント単位で繋がっている状態って、逆に言えば、アカウントを削除すれば簡単に切れる繋がり‥‥ですよネ。そんなアカウントの数ほしさに、本当に大切な繋がりや信頼を捨ててしまうくらいなら、‥‥少なくとも私はアカウントベースの繋がりなんていらないと思います。

言葉には、意図が作用するものだと思います。しかしツイッターって、意図や意志が、場当たり的な口語調によって歪められるし、会話になると「売り言葉に買い言葉」の泥仕合になりやすいように見えます。何か「人間の弱点の増幅装置」なような気がして、今でも手を出してはいません。

私はブログのような、推敲と編集ができるスタイルがちょうど良いです。このブログのアニメ制作関連記事で、たまに、ある種「一定の人々に嫌われる」ような内容を書いたりしますが、それは当然、意図したものです。キツい上り坂を進むのか、楽な下り坂を進むのか、ここを終点として立ち止まるか、後ろを振り返って戻るか、‥‥という岐路を前に、誰もが喜ぶ進路選択なんて実現不可能だと思いますから、「来るのか来ないのか」「行くのか行かないのか」バッサリとした意志を文に反映させているのです。‥‥なので、私にはツイッターよりブログのほうが適しているのでしょう。

ツイッターは、もともと長文を分割発言する事を想定してはおらず、テキトーな短い会話でヌルく繋がるのが本来の目的だったんでしょうね。とは言え、誰もいない場所で打ったツイッターの1文字は、誰もいない場所で口から発した1音とは、明らかに重みが違う‥‥んですよネェ。

201[4]

2014年が明けました。おめでとうございます。

無事に年を越せて、ひとまず安心です。新年の豊富は‥‥有り過ぎて鬱陶しいので、できるだけ手短に。

HDで高解像度はひと段落なんて考えてたら、もう既に次の波が見えてきたようです。しかし、4K8Kだと電力村周辺が盛り上げようとしても、出し物が無ければ空のハコです。当分、4K8Kは実写オンリー?‥‥まあ、確かにリアリティが格段に向上した4K8Kの実写映像は呼び物の1つかも知れませんが、反面、「目視の代用品」としての性質が浮き彫りになるのかも知れません。目視の現実世界とは明らかに異なるのに、「現実感」「リアリティ」でジャッジされるのだとしたら、何とも分が悪い話ですが、実写ゆえの宿命とも言えそうです。
*「実写だから現実だ」なんて薄い話をしたいんじゃなくて(実写映画だって作りもの、ですからネ)、「一般的に、実写は現実と比較されがち」という話の事‥‥です。

私の作りたいのは、現実世界には存在しない、アニメーション映像作品です。リアリティが格段に向上した映像フォーマットで、非リアルなアニメーション作品を作るという、何とも愉快な創作。画像がきめ細やかで、動きがキモチ悪いほどに滑らかなのに、映っているのはあくまで人の手による創造物の絵。私の目指しているのは、「リアルなのにリアルじゃない」という境地なのです。

ですから、今の商業アニメーションを4K8Kでトレースしようなんて、全く思っていません。表現も技術も売り方も「振り出しからスタート」です。

なので、この新しい取り組みは、今のところ、クリエーターもエンジニアもプロデューサーもスポンサーも、自分1人でやらなければ、先に進みません。役割分担が成立するのは、前例(というか成功例)がある場合のみ、なのです。

いくつかの「点」と「点」が繋がって「線」になり、「線」と「線」が集まって「面」になり、「面」と「面」が組み合わさって「立体」になる‥‥という手順に対し、個人が「正攻法」でトライしたところで、成すべき事の多さに挫折するのは必至です。私は現場肌の人間なので、異なった発想による「工法」を編み出す事で、高く何重もあるハードルをクリアしたいと考えています。

「新工法」を考える‥‥と言っても、もはや技術だけに固執するつもりはありません。技術という局所だけを見つめ続けていると、ダシを染み出させるばかりで、それ以上は何も発展しない‥‥ですからネ。‥‥まあ、これ以上は申しますまい。

やろうとする事の広さや高さ深さを前にして、ダメになる理由・できるはずがない理由を考えたらきりがない‥‥ですが、私はそんなに悲観的ではありません。何故かと言うと、私が成そうとしている事が「人の手でいかようにでも描ける、アニメ」を作る事だから‥‥です。

この世界は広くて色んな人々がいますから、私なんぞが手出しできない事は沢山ありますが、絵を動かしてお話を作る事には、どうやら手が届きそうなのです。絵を描こうとする意志と、コンピュータのお陰で。

あ、結局、手短にはならなかった‥‥。

ではまた1年、頑張ります。

デジタル音痴はアナログ音痴

また、わざとムッとするような表題で。‥‥最近は、歯に衣を着せるのが面倒になってきて‥‥。

最近よく思うのは、デジタルが苦手だ‥‥と言う人は、実はアナログも苦手だったんじゃないか?‥‥という事です。

単に、自分の手に馴染んだ使い慣れた道具に愛着を持っているだけで、特にアナログ全般に興味があったわけじゃないのでは。

例えば、紙と鉛筆で絵を描く事と「アナログが得意」という事は、同義じゃないですよネ。‥‥だって、「紙と鉛筆」で絵を描いている人でも、フィルムや光学レンズ、カメラ装置、照明装置、アナログオーディオなどに疎い人はいっぱい居ますもんネ。

実際、アナログの各種知識は、多少の読み替えでデジタルにも応用可能です。

アナログとデジタルの間に「線引き」をしたい人は、いっぱい居るようですけども、私が思うに、アナログの特性はデジタルでも十二分に応用可能・適用可能です。断絶してはおらず、むしろクロスオーバーしている部分も多いです。技術や知識は、相互で活用できます。

コンピュータの能力を活用している身近な人々を思い起こしてみると、皆、相応にアナログ的な物品(車、バイク、オーディオ、火器・ミリタリー、ファッション、楽器などなど)にも詳しい人が多いです。要は掘り下げてモノを見ているか否かで、アナログ・デジタルは副次的なように思います。

「デジタルは‥‥」という論調、実は、「新しい道具」に馴染めない、覚えるのがめんどくさい‥‥という事を、「アナログ vs デジタル」という図式にすり替えている人は、実は結構多いんじゃないかな‥‥と思います。多分そういう人は、自分の使い慣れない道具だったら、アナログ系でも拒絶すると思います。

ですから、「自分は紙と鉛筆で絵を描く時に、最大の能力を発揮できる」と言い切れる人は、潔いしかっこいいですよネ。決して、アナログ・デジタルの理由付けで弁解せずに。

一方、アナログを古いものとして見下す類いの人は、何か自分の劣等感・トラウマを「デジタルのブランド」で覆い隠そうとしているのかな?‥‥とも感じられます。

数年前のブログで「鉛筆のような低次元のものを高度なコンピュータと同じにするな」とコメントされた事がありましたが、「この人はなんで鉛筆を低レベルだと言い切ってるんだろう。この人はムラのない高品質なハイポリマーの鉛筆を自分で作れるとでも言うのだろうか。その鉛筆を使って人の心を動かす絵が描けるのだろうか。鉛筆の事をさして掘り下げた事もないのに、よくもまあ、鉛筆は低レベルだと言い切ったもんだ。」‥‥と呆れるのを通り越してヒトの悲しさを感じてしまった事があります。

「デジタルは先進的かつ高度で、アナログは前時代的で低レベル」というスタンスを取る人って、結局はデジタルを毛嫌いする人と同じ穴のムジナのように思います。「アナログとデジタルの両方を良さを知り、自由に使う」という発想に至らない点で、です。

デジタルもアナログも双方、長所と短所を内包しているわけで、要はどのように両要素を合理的に活用していくか‥‥だと思います。デジタル信者だのアナログ信者などと、あえて不自由な選択をする事はないと思うんですよネ。

*余談‥‥ですが、私が小学高学年の頃にやった自由研究は「なぜ鉛筆は紙に絵(字)を書けるのか?(=なぜガラスには書けないのか)」と「なぜカセットテープは録音できるのか?」‥‥でした。だって不思議じゃん? 理屈を知らないじゃん?。‥‥身近にあるからスルーしがちだけど、高度なアナログ技術だと思いますヨ。当時のうちの親もそうだったけど、技術的な理屈を知っているオトナはほぼいなくて、「そういうものだから」で済ませちゃうオトナがほとんどだったよネ。‥‥ちなみに、「なぜカセットテープは録音できるのか?」の自由研究は、「磁気記録」>「電気信号」>「信号化」>「音の記録」>「音のしくみ」というとんでもなく巨大で奥行きのある題目に直面し、小六の私にはとても手におえるものではなく、「ヤバいヤマに手を出してしまった」と途方に暮れたものでした。

核の傘の子

私は小さい頃から飛行機が好きですが、では飛行機好きがどの世代もみな同じ趣向かというと、大きく違うと思っています。銀翼・単葉・低翼・固定脚にみなノスタルジーを感じるかというと、そうでも無いような気がするのです。‥‥実際、確実に私は、大戦間の飛行機にはノスタルジーを感じません。

私がノスタルジーを感じるのは、センチュリーシリーズくらい以降の時代です。センチュリーシリーズとは、F-100からF-110(=F-4)の「100番台のアメリカジェット戦闘機」の事です。F-86とかはちょっとまだ遠いんですよね。

F-100
F-101
F-102 F-104
F-105
F-106
*F-110は改名によりF-4(有名な"ファントム"です)となりましたし、F-103, 107, 108, 109は試作&計画のみですから、実質はF-106までがセンチュリーシリーズと言えますネ。

もちろん、「プラモデルで昔の飛行機に馴染む」という道筋はあるのですが、少年期に「時代から受け取る雰囲気」と共鳴するのは、自身が生まれる10〜15年前の飛行機が限度だと思います。

私が少年時代の頃はまだ、「いつ第3次世界大戦が起こるか」「核攻撃の後、世界はどうなる?」と言った話題が、まさに「現役」でした。真綿のように吸収力の高い少年期において、時代の風潮や空気感は、当人に強い影響を及ぼすでしょう。私が小中学生だった頃は、夏休みともなれば必ず「世界の軍事兵器」的な番組があり、エンディングは「イマジン」で閉める‥‥というのが定石でした。NATOとワルシャワ条約機構軍、戦術核の使用、水爆は1発で関東一円を壊滅させる、核よりも怖い中性子爆弾‥‥などと散々恐怖を煽っておいて、最後にイマジンを流されてもなあ‥‥と、子供心に釈然としない感情を抱いたものです。

怖い時代ですが、表面的には平和でした。そんな曖昧な時代の空気が、私のノスタルジーと一致しているようです。私にとって銀翼は「死の鳥」のイメージです。良い要素ばかりがノスタルジーの中核を成しているとは限りませんもんネ。「田園に死す」もそうですけど。

ちなみに、アニメは時代(や地域)の空気を、制作当時には意図していなかった角度から伝えてくれる事があります。ディズニーの短編では、ドナルドが「かちかちタマゴ」(中に何が入っているかは‥‥)を掴んで爆発し、地球の裏側まで穴が空いて落ちていく‥‥なんていう話がありました。‥‥ウソ?と思いますが、50年代のアメリカらしいスタンスと言えます。マジンガーZでは、暴走したミネルバXが向かうのは原発でしたが、すなわち、「ブッ壊れたら絶対にOUT」という意識はもうその頃からあった‥‥という証ですね。


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