blogだから文字だけど

文字で何を書いても、文字上で未来予想や問題を指摘しても、文字を使ってどう足掻こうが、東京オリンピック3年後の2023年前後には、アニメ業界の事態は「落ち着くべきところに落ち着いている事」でしょう。2023年のアニメ業界が、果たしてアニメ業界と呼び続けられるほど、そのカラダを維持できているかも含めて。

今は黙々と粛々と行動する時期なんでしょうネ。ただまあ、わたし的に、文字を書く行為を考えると、書く事で物事を整理して今後の展開のために最適化しているのでしょう。書いた後に、覚悟ができますしネ。

アニメ業界って誰かが「業界を作ろう」と「宣誓書」の宣言で始まったわけでなく、同じような業種・職種が作業を融通しあっているうちにできた「自然発生」体ですよネ。1996〜2003年の頃の「デジタルアニメーション」だって、その当時の人々や会社が示し合わせて行動したわけではないですもんネ。横のつながりでお互いに作業を受発注しているわりに、規定や規格を定めるソサエティ・標準化団体が存在しないのは、業界の成り立ちを暗に示しています。

2023年にどのような業界が形成されているのか。ツイートの文字が乱れ飛んで、何がどうなっても、確実にその「今とは違う未来」はやってきます。様々な人々が文字を書いても、想定したくない方向へ未来が進むかも知れません。

人々がその時々の雑感をツイートする毎日は変わりばえしなくても、長いスパンでみれば、必ず時代は変わり続けています。アニメ業界に今まで存在していたシステムや作業品目が、何十年も先、永遠と継続される‥‥と、考えるほうが非現実的です。人の生き死にと同じように、アニメというモノ作りのシステムが誕生した事自体が、その死も予言しているのでしょう。そして多くの人が「せめて、自分が生きている間だけは、業界は生き延びてほしい」と思っているのかも知れません。

2013年で鉄腕アトムのテレビシリーズから50年でしたが、いやはや、アニメ業界もイイ歳だと思います。確実に「疲労」「加齢」による「体力低下」はどんどん進行しています。ブラック業界などと揶揄されるまでもなく、誰もが問題を認識しているでしょう。それを「カラ元気」で吹き飛ばすか、「ブッ倒れるまで、事を荒立てない」でいくか、または「新たな生命を生み出し」苦労してでも育てていくか、‥‥結局は、各人に行動が委ねられているだけだと思います。

何万何億という言葉を皆で積み重ねても、訪れる未来は1つです。

こうして私も文字を書きますが、文字を書いただけで自分らの未来が変えられるなどとは思っておりません。このブログは、一種の意見広告みたいなものです。告知しないと考えも共有できませんので、書くだけは書きますが、それだけでは未来は変わらないと考えています。ほんのきっかけ程度の事だと思います。

アニメ業界を変わらずに存続させたいのなら、または、アニメ作りの新しい世界を切り開きたいのなら、今、実際に何をすべきか‥‥という事に尽きますよネ。

2015〜18年の3年間における、発言力のある30、40、50代の人間の責任は重いです。決定権(決裁権とも?)を持つ人間はさらに責任重大です。未来を極端に大きく変えてしまうと言っても過言ではありません。「会社が」とか「業界が」とか「社会が」などの「出来ない理由」を用意するんじゃなくて、むしろ「出来る理由」を見出して、まずは自ら動かないと。

今までとは違う動きかたをすれば、案外、いろいろなものが見えてくるものです。そして、道すがら、意外な拾い物もするものです。動けば動いた分、その報酬は得られるものです。即金じゃなかったとしてもネ。

死と生

呑みの席で、若くして亡くなったスタッフの回想を聞きながら、25年前のフリーランス原画マン時代に一緒に作業していた演出さんの事を思い出していました。その人も、30代の若さで突然逝ってしまいました。

マンションの一室に作画机を詰め込み、肩を並べて作業していた、あの頃。コンピュータグラフィックスなど全く無縁、紙と鉛筆に明け暮れる毎日。生活費倹約のため、仕事場の台所(=マンションだったので)で飯を炊き、ダイニングテーブルで5〜6人の作業仲間と一緒に食事していました。そんな中、演出さんが亡くなったのは、アジア行き(=もちろん、仕事上で)のパスポートを申請した帰りの事でした。
*注)常駐する人間が10人に満たない小規模な会社で、今はもう倒産して存在しません。

私はその当時、24歳前後だったと思いますが、12月の寒い雨の降る夜に、いつものように軽口を喋りながらスタジオ入りした際、皆の顔が全く無反応で凍りついていたのを今でも鮮明に思いだします。「XXさんが亡くなりました」‥‥と、一緒に原画を描いていた同僚が、私の軽口を打ち消すように告げました。

前日まで普通に話し、私の磨いだ白米を炊飯して食べた、まさに「同じ釜の飯を喰った仲」の人が、プツリと途切れたように死んでしまったのです。それから後のしばらくの間の、様々な事は私の記憶が曖昧で、正確には覚えていないのですが、死因は心不全的なものだったと記憶しています。その演出さんは、日頃から心臓のあたりをこぶしで強く叩いてマッサージしていましたし、その後に妹さんや弟さんから聞いた話ではお父さんも似たような病状で早死にしたとも聞きました。

つまり、その演出さんは実家においては、父親亡き後は母親のひとつ手で育てられた兄弟姉妹の長男であり、ゆえに「東京に出てアニメ制作を本業とする」事を母親から猛反対された経緯があったようです。「絶縁」「勘当」状態だったのを、後から聞きました。

「すぐにもやして、お骨だけを家に戻す」由を聞いて、今どきの「ルームシェア」とも言える状態で身内のように一緒に作業していた私らは、大きなショックを受けました。あまりにもすぐに、その演出さんの肉体が地上から消滅してしまう事に。‥‥そして、他ならぬ、お母さんがそれを望んでいる‥‥と言う事に。

最後に会う事もなく、顔も見ないままで燃やしてしまう‥‥という措置に、他人では計り知れないほどの、母と息子の間の決定的なわだかまりを感じました。その演出さんは口には出していませんでしたが、まさに「家を捨て」「故郷を捨てて来た」のでしょう。

火葬の日、喪服姿の弟さんと2人の妹さんと初めてお会いしました。私は半ば共同生活していた身として、「なぜ助けてくれなかった」と罵倒される事も心の中で覚悟していましたが、妹さんたちは涙を浮かべて、「兄と一緒に仕事をしてくれて、ありがとうございました」と私らに告げてくれました。その演出さんは、母親にとっては許し難い息子でも、弟さんや妹さんたちにとっては、兄弟姉妹想いの、子供の頃に魔法使いサリーちゃんの絵を描いてくれた、善き兄だったようです。

弟さん妹さんが木棺の前へと導いてくれました。歩き近づくにつれ、木棺の中が見えて来て、私は心のどこかで怯えていたのを思い出します。私はまだ、その時点で「本当に死んでしまったのか」理解できていなかったのでしょう。

木棺の中で眠る演出さんのその顔は、まるで別人のように力が抜けていて、生前の「いつも何かを考え事している」ような険しい表情から、解き放たれたようでした。

演出さんがアジア諸国に飛んで、「海外動画のおとしまえ」をつける状態からして、その当時からアニメ制作状況は困難を極めていたわけですが、思えば、その演出さんは故郷を捨てて上京しているがゆえに、どんなに状況が困難でも、アニメを辞めて故郷に帰るわけにはいかなかった‥‥のでしょう。そしてその心情が、「ルート」に存在していた‥‥のかも知れません。

弟さん妹さんの取りはからいで、私ら作業仲間もお骨を骨壺へと納めました。全て納まり、木箱を持たせて頂いた時の、その「小ささ」「軽さ」を忘れる事ができません。

演出さんの死の事について、私は長らく記述するのも語るのも停めてきましたが、昨今における何かご都合主義的なデジタル作画への誘導や、日増しに劣化し終末へと突き進んでいく現場の状況を聞き及ぶに、こうして初めて書いてみました。私もいい歳になって、語るべき時期に来たようにも思います。私も若い頃はなんだかんだ言っても「その時だけやり過ごせれば良い」ように行動していた馬鹿な若者だったのかも知れませんが、そういうようなわけで、考え方や行動が変わっていったのです。ただ、それには、相応の長い月日が必要でしたけども。


今思えば私は、その演出さんの死で、大きく変わったのでしょう。安易な作り話ならば、「死を無駄にしない」的な美談展開へと流れるのでしょうが、現実はそうではありませんでした。少なくとも私の場合は、その後、ダークな感情へと大きく傾き、どん底とも言える状態へと沈みました。

20〜30年前当時はアニメに対する社会的な許容が狭く、とあるアニメ制作会社のビルの1階にあるコンビニでは、アニメスタッフがそのコンビニで夜に買い物をするとあからさまに嫌がらせにあったり(店員が異常だったとも思えますが)、アニメ好き=根暗=異常者=キモチワルい‥‥的な社会的印象が今よりも格段に強く、しかもその当時からアニメーターは「巧くなるほど喰えなくなる」傾向(=腕が上がると、テキトーな内容で作業を完了できなくなる)があり、「状況に対する怨念感情」が私の中で累積し、どんどんやさぐれていったのです。それは自暴自棄とも呼べる状態であり、「幼年時代からのアニメに対する憧れ」だけが極細の「命綱」でした。

「アニメを作りたい」という意思と「オレのやっている事は、全て無駄なのだ」という思考が同居する、絵に描いたような「Ambivalent」だったと思います。経済的にも破綻し、実家にも迷惑をかけ、亡くなった演出さんと同じように「故郷には戻れない」状態に陥っていました。経済的窮状が限界を下回った時、人はネガティブ・マイナス思考にどんどん誘導されていくものです。電気や水道といったインフラが停止した暗闇の中で考える事は、マイナスな事、ネガティブな事、そればかりです。

しかし一方で、「アニメを辞めよう」とは心の奥底で思わなかったのは、子供の頃からの強い憧れとともに、その演出さんの死が大きく深く作用していたからだとも思います。死は、ネガティブな感情を生み出すのと同時に、その逆像として、とても強い「生」を映し出すのでしょう。

死を知る前の私は、死を知らぬがゆえに、「命の使い方が雑」だったのです。

その後の、わたなべぢゅんいちさんやメカ・エフェクト作画の同僚の死は、「消滅したからこそ、存在している」事を、現在の私に諭してくれます。そして、「存在しているからこそ、」‥‥と言う事も。

私が小学生の頃に見た「999」や「ヤマト」には、今見返すと感じ入るセリフがありますネ。鉄郎くんが言った「人間は寿命がくれば死ぬ。夢も果たせず途中で死ぬんだ。」というセリフや、沖田艦長の幻影が「お前にはまだ命が残っているじゃないか。」と語りかけるセリフは、今では「本当にそうだね」とシンプルに思えます。


50年後にはほぼ確実に消滅しているであろう、私の肉体を思えば、今何を成すべきかは自ずと見えてきます。ただ、人の生き方はソレゾレなので、「振れ幅」の大小の是非を問うのはヤメておきましょう。

そして今やアニメは「クールジャパン」‥‥か。私は、クールでもホットでも、どうでもいいや。


追記)その演出さんの使っていた、自筆の名前が書かれたテープカッター(セロファンテープの)は、今でも私の自宅の仕事部屋で「形見」として使っています。突然途切れた命と、残された作業環境との違和感は、それを体験した人でないと実感できないものでしょう。わたなべぢゅんいちさんの最期の頃に一緒に作業していた人々も、もしかしたら私と同じような体験をして、何かを心の奥に秘めているのかも知れませんね。

Gewalt

状況が悪化し、敗戦間際になると、軍組織内部で逃亡するものがあらわれ、そうしたものたちを自軍自ら処刑したりする事が、いつの時代にもあるようです。また、敗戦国の民衆は手のひらを返したようにそれまでの指導者を憎悪し、半ば面白半分でリンチに加担します。学生運動の末期内ゲバが多発したのも、追いつめられた心理がもたらす、似たような構造だと思います。

そして現在。特定個人を吊るし上げていたぶって面白がる様子をTwitterなんかで見ると、戦時に限らず、似たような事はいつでもどこにでも起こりうるんだな‥‥と思います。匿名で群がる人間たちは、ただ「気晴らし」が出来れば良いのでしょう。しかし、冷静にものごとを判断する人々は、Tweet内容や群がる人々よりも、Tweetした本人を見ています。

特定個人のネガティブキャンペーンを張る姿は、それを発信した本人の信頼を著しく低下させる行為だと思います。皮肉な事‥‥ですけどネ。状況がヤバくなれば素早く離れていくフォロワーの数よりも、もっと大切にしなければならない事はあると思うのです。

匿名アカウントの「お気に入り」の数よりも、たとえ数は少なくとも信頼できる生身の実名の人間のほうが、ずっと大切で重要です。

SNSって「繋がっている」錯覚に陥りやすいですが、「アカウントのアイコンが自分のリスト内に増えたから」といって、「本当の何か」が埋められるのでしょうか。SNSは簡単に繋がるがゆえに、簡単に切れて離れる事も認識すべきだなと思います。

私は、今はもう会えなくなってしまった中学時代の親友や、若くして死んで地上から消えてしまった同業の仲間たちとのほうが、今でも繋がり続けていると思えるのです。

今日と違う明日

最近、車で走っていると、ヤバい運転をするセダンをよく見かけます。いわゆるオジさん(おじいさん)の車‥‥ですが、高速道路出口をバックで逆走してきたり、高速道路出口から正面きって逆走してきたり、相互車線の対向車線で信号待ちしたあげく、交差点のど真ん中で停車して動かなかったり‥‥と、今までの運転歴で見た事のない光景を目撃します。
*高速道路出口の逆走は、いずれも稲城ICで体験しました。稲城IC出口(変則的で、下り方面しか出口がありません)を使う際は、念のため、気をつけたほうが良いかも。高速の高架下の一般道から見ると、確かに逆走で進入できちゃう構造なのです。‥‥普通はそこから高速に入ろうとは思わないでしょうが。

日本で車が普及したのは、私の父親の世代ですが、まさにその世代の深刻な老化が、急速に表面化し始めているのかも知れません。考えてみれば、乗用車が家庭に一台の世代は、私の父親(80歳前後)くらいからの世代であり、「大量の老人ドライバーが存在する状態」は日本としては「これから体験する未知の領域」なのでしょう。

つまり、これからどんな事が起こるのか、誰も知らないわけです。予測はできるかも知れませんが、実体験は無い。

私が2週間前に体験した事例をお話ししますと‥‥

信号待ちしている時、ドイツ製高級外車が何を勘違いしたか、片側2車線と間違えて、対向車線をヌロ〜と低速で背後から進んできました。そして、ゆったりと信号前で停車しました。何が起こったのか数秒混乱しましたが、「最近よくある老人のアレだ」と察し、その直後、「この老人ドライバーの正面衝突に巻き込まれる」と思いましたが、私は信号待ちの前から2番目で、後続車も居たため、そのアブナイ車と距離を離す事もできませんでした。やがて、対向車がやってきて、その異常な状況に気付いてくれたので、正面衝突には発展しませんでしたが、対向車がスピードを出した大型車だったら、どうなっていたかは解りません。



問題のその車は、信号待ち先頭車の前に割り込む事で、対向車線をあける事が出来たのですが、信号が青になって交差点に進入した途端、何を思ったかゆっくり停車して「ひとり立ち往生」して、また「ヤラかして」いました。‥‥明らかにその老人ドライバーは、公道を走れる状態ではないように思いました。



これから先、日本中で似たような事が増えるのかも知れませんネ。

昨日と今日が、ほとんど何も変化していないように感じても、徐々に、そして確実に、いつのまにか「誰も知らない未来」へと変わっていくのでしょう。過去の通例が、あまり役に立たない未来へと。

要約社会

「物事を要約して簡潔化し、容易に伝えることは良いことだ」というのは、たしかにそうだと同意できる場面もあれば、そうでない場面もあります。しかし、世界はともかく、いまどきの日本においては、「要約は善」という強い風潮を感じます。ニュースの見出しを読んだだけで理解したつもりになったり、ツイッターのワンフレーズだけで一喜一憂して扇動されたり。

要約された情報だけで理解した気分になるのは、少々軽率だと感じるわけです。

わたし的には「要約は要約として、それとは別に、様々な角度から中身を探る必要性は、昔も今も変わらない」と感じます。要約された情報に反射的に反応して、良し悪しや好き嫌いを判断するのは、もはやジャッジ能力の退化に思えるのです。

最近のアニメキャラの傾向を見ていて、なぜ「こういう表現スタイル」が多いのか、考えることがあります。「こういう表現スタイル」とは、目鼻立ちの事ではなくて、セクシャルに関連する要素においてです。肌の露出が多めのコスチューム、肌肉の合わせ目とかを強調するようなアングルとポーズが多いのは、考えてみれば、異性に期待する性的な要素を、キャラの表面上に短文ニュースやツイッターのように「要約している」のかも知れませんネ。

昔も今も、男女のキャラは異性を少なからず意識するものですが、現在は性的なディテールを強調する傾向が多いですよネ。デザインする人間は無意識でも、いまどきの「要約社会」の「気配」を反映しているのかも知れません。「初見でエロい要素を判断」する(させる)べく、要約している‥‥とでもいいましょうか。

極端に言えば、情報や味覚だけでなく、現代は「性欲すら要約されている」‥‥のかも。

時事の情報を1行だけで知りたい。食べた瞬間に好き嫌いを判断する。‥‥同じように、キャラ1ポーズだけで好み(=自分の期待する要素)を判断したい。セクシャルなウキウキワクワクドキドキが、ストーリー上の展開ではなく、キャラの表面に最初からディテール面で表れていなくてはならない‥‥という暗黙の総意が作用しているように思えるのです。要約された情報を供給される側に合わせて、昔よりも即物的・直接的になっていると思います。

時事の情報を1行だけで知りたいと思う層は、容易に1行の情報で扇動されるでしょうし、食べた瞬間に好き嫌いを判断したい層は、安価な異性化糖にコロッと舌を騙されるでしょう。自分で判断しているように自身は信じて疑わなくても、実は最初から「出来レースに組み込まれている」のかも知れないな‥‥と思う事はよくあります。

即物的で直接的、要約され簡潔であるがゆえに、広いけれども浅い構造を持つ‥‥と実感しています。

現代人は時間が減ったと言われ、ゆえに物事は要約されている事が望まれるのでしょう。しかしこれは、1つ1つの要素が見出し程度に終始し内容を伴わなくなった事でもありますし、人間本来の処理能力から鑑みれば、中途半端で不完全で機能不全な知識を、旧来より一層抱え込む原因になっているようにも思えます。会話の中で「それ知ってるよ」という人間の多くは、「その意味や内容」を聞くと「そこまでは知らない」と答えますよネ。「知っている」の「知」という言葉の重みが、今は恐ろしく軽くなっているのでしょうネ。

でもまあ良くも悪くも、現在の人々はそうした世情の中に生きているわけで、であるならば、その世情を鑑みて、様々な戦略・戦術でのぞめばよい‥‥と思っています。時として、「要約社会」の世情に従うばかりではなく、逆手に取るのもアリでしょうネ。

うっかりしていると、「幸せのカタチ」まで要約されかねない今の時世。私は、私を含め一緒に作品を作る人たちが、キモチ的にも金銭的にも「自らの幸せ」を実感できる事を目指したいです。もしかしたら要約社会は、マイノリティにとって、アクション次第によっては、「幸せになれる穴場」が多い社会構造なのかも知れませんネ。

フッド

シブヤン海の海底に沈む戦艦武蔵の様子が13日に生中継されるそうな。私は小学生の頃に「大和と武蔵」「戦艦武蔵のさいご」という児童向け書籍を繰り返し読んでいたので、感慨深いです。ちなみにその2冊は実家の模様変えの際に発見され、現在修復作業をしている最中です。背表紙が剥がれて、ページの脱落が激しいので、木工ボンドで修復しているのです。

戦艦は大和にしろ、シャルンホルストにしろ、フッドにしろ、生存者の少ない大往生を遂げる艦も多く、特にフッドは、宿敵ドイツ海軍の戦艦ビスマルクの斉射を弾薬庫に受け激しく誘爆、わずか数分で沈没するという、まさに「轟沈」と呼べる最後を遂げたようです。全長二百数十メートルの鉄の巨体が、5分に満たないうちに海没する映像を思い浮かべれば、それがどれほど凄まじいものだったのか、想像に難くありません。

規律の厳しい艦内生活の中、艦内には多数の犬や猫、カンガルーまで飼われていたらしく、水兵たちと日々を共にしたようです。フッドには1400人前後の乗員が乗り込んでいたようですが、生存者はわずか3名。猫や犬が救助された記述はなく、ホランド提督をはじめとした1400人の乗組員と一緒に、海に眠っているのでしょうネ。



カンガルーの「ジョーイ」が最後の出撃に同乗していたのか、やはり記述が見当たらないので解りません。

ちなみに、フッドの最期を見届けたイギリス海軍E級駆逐艦「エコー」「エレクトラ」(E級なのでEの頭文字)のうち、エレクトラはその後マレー沖での日本艦隊との戦闘で戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」の最期にも立ち会い、そして自らも日本海軍との戦闘で戦没します。エコーのほうは、戦いを生き延び、戦後に解体処分となりました。E級駆逐艦のうち、戦後まで生き残ったのは9隻中3隻のみだったようです。

武蔵に限らず、世界中の海には、沢山の鉄の艦が今も海底に眠るのでしょうね。

実写やドールや日本画やボックスアートや

最近、10代の女の子がいっぱい出てくる実写作品をやりましたが、表情の動きとか所作とか、動作の間合いとか、細かくは服のシワの動きとか、色々と感じ入る事がありました。60p、すなわち1秒間に60枚の絵で動くアニメーション技法に対し、大いに参考になるというか、一般的なアニメの紋切り型の動きとは違うモーションが、とても刺激になりました。

オンライン編集なので「ラッシュ」と言って良いかはわかりませんが、オールラッシュを見ながら、髪の動きや服の動きに時折目が釣られていました。この服のシワ、いい形してる‥‥とか、この動きなら出来そう、これは中々大変だ‥‥という感じで。

私はモーションキャプチャやロトスコーピングはやらないつもりです。頭の中で象徴化され様式化された動きが好きだからです。まあ、アニメの「作られた動き」「意味のある動き」が好きなのでしょうね、結局。
*注)誤解されるのは嫌なので明示しておきますが、キャプチャもロトスコも有効な技法だと思っていますし、仕事上では取り組みます。しかし、自分の作ろうとしている作風には、イメージされた動きが合うと考えています。

‥‥ただ、昔から日本のアニメは、「両端ヅメ」にする傾向があり(理由は分かります)、それとは違う動きを作ってみたいのです。「シュッ!」「バッ!」という動きではなく、現実の速度にやや近いニュアンスの‥‥です。

「アニメと言えば、こういうキャラ、こういう動き」というお約束から離れてみたい。今までと同じようなキャラ、同じような動きを、新しい技法で踏襲する必要性は感じていません。同じものを作るのなら、今までと同じやり方が一番完成度が高いでしょうから。

中枚数を一切気にする必要のない新技法において、キャラ崩れを防ぐ中割りのコツは不要ですし、中100枚の微妙過ぎる動画も可能なわけですから、新技法に基づいた新しい表現がこれからの私の目指すところです。動画枚数の節約など何も考えずに、ただ動きのニュアンスを追求していく‥‥わけですネ。

以前、作品の取材で、人形作家さんのギャラリーを見学させてもらった事があります。その際、作家の方が「ただ、美しいものを表現したい」と言っていたのが印象的でした。数々の美しいドールはまさにその言葉を体現しており、写真を何枚撮影しても撮影し足りない、透き通った魅力を放っていました。ビスクの質感は、不思議です。

私は色々な作風を計画していますが、人形作家さんの仰った言葉に似た心情のものも考えています。以前掲載した4Kの女の子の絵はそれに近いですネ。また、松園などの日本画が学生の頃から好きで、必ず画集は本棚に常備してあるので、そのあたりのモチベーションもそろそろ盛り込み可能かな‥‥と考えています。

目をあまり大きく描かず、眼球の表現も質素、しかし全体の雰囲気からくる可愛さ、美しさは失わず。かと言って、リアル方向に走り過ぎず、様式化した表現を保つ。‥‥まあ、そんなビミョーなキャラは、今までの制作技法ですと動かすのは困難で、キャラ崩れの危険性が高いものでしたが、新しい技法なら、簡単な事ではありませんが実現できそうに思います。

またエフェクトやメカも、「描かれたエフェクト」「描かれたメカ」を表現していきたいと考えています。3DCGのメカは、確かに「上手い」(=変な言い方ですが)。しかし、情熱や憧れを反映するには、何かまだクール過ぎると感じています。小松崎さんや高荷さんとは言わないまでも、もっと血湧き肉躍る感情が表現できたら‥‥。‥‥そのあたりも、取り組んでいけたら良い‥‥ですが、そんなに欲張ると何も実現できないでしょうから、まずは今年前半期、シリアル&パラレルタスクを地道に消化していこうと思います。


*教材より抜粋(デモなので、解像度が低いです)〜実際の女優さんと同様、メイクは重要です。メイク次第で顔が大幅に変わります。美の重要要素ですネ。
*ちょっと描き方が荒いのですが、髪の毛とか服も足して描き直して、ワンアクションのムービーにしてみようかな……。


何度も引き合いに出す、4Kの女の子。(実は素材は6K〜下図は2Kに縮小してます) 〜こういう髪の毛のニュアンスをフンワリサラサラと動かせるのが、新技法の強みです。

 

雑感

私が某米国大手の「新しいタイプのアニメーション」のPV(プロモーションビデオ)を見たのは2010年の事なので、もう4〜5年前の事になります。私は自主的に(仕事ではなく自腹で)似たようなアニメーションの取り組みを2007年頃から本格化していましたが、そこはそれ、個人レベルの取り組みですから、開発ペースも規模も小規模なものでした。しかし、米大手のソレは、かなりの完成度を誇り、何とも我が身(とその周辺)が情けないやら不甲斐ないやら悔しいやらで、祖父の代の、かの日米戦争時の工業力の大差がフラッシュバックする想いでした。

米大手のソレは、画面設計・カラー設計(おそらくカラーリール的なものを作っているのでしょう)はしっかりしているし、紙芝居なんて全く言わせないほどに動きまくっているし、何よりも各種技法が安定しているのがショックでした。守秘義務があるので、作品名も会社名も言えませんが、5年前の2010年には既に米国はかなりのレベルまで達していたわけです。

私の当時の感触では、欧米は3DCGにシフトすると考えており、2Dで動かす方法にリソースを投入するとは考えていなかったので、意外かつ嬉しくない誤算でした。2D、つまり平面を巧く活かすのは、日本の昔からのお家芸であり(19世紀のジャポニスムなど)、3DCGのアニメに欧米がうつつを抜かしているうちに、2Dの新たな可能性を発展させようと目論んでいたのです。‥‥しかし、実は欧米にも2D派は健在だったわけです。2010年と言えば、日本のアニメ業界では「デジタル作画」の話題なんてほとんど聞こえてこなかった時代で、日本の「決定的な立ち遅れ」は明白でした。

正直、「どうしようか」と思いました。しかし次第に、その米大手の2DのPVにも急所‥‥というか、ガラ空きで防御の薄い箇所が見えてきました。その急所とは、ちょうど、私の考える新しいアニメーションの「ウリ」の部分であり、「例え工業力で負けていても、上手く覆せるかも知れない」と感じるようになりました。最新の欧米の「デジタルアニメ」を見ても、急所は全くカバーされていないので、それが目下の私の「救いと希望」でもあるのです。その急所は、「欧米人が欧米人であるがゆえに気付けない部分」でもあるので、概ね安心はしているのですが、フランス人とイギリス人は早期に気付く恐れアリ‥‥かも知れないなあ‥‥。

私が個人研究レベルで取り組んでいるのを見て、「無理しないで、予算交渉すれば」みたいに思う人もいるでしょう。米大手が会社ぐるみで開発資金を投入しているように。‥‥もちろん、私も、いつまでもごく少人数で取り組むつもりはありません。しかし同時に私は、今までとは異なる画風でアニメーション作品が作れる技術を、「今まで通りのプランテーション」へ投入するのではなく、アニメ制作団体の自立の糧にしたい‥‥とも思っているのです。業界は昔から「窮状を訴える」とは言いますが、自分たちの仕事を「二束三文」にしているのは、「自分たちの性質」に因るところも大きいのです。今までと同じように外部のお金を入れたら、新しいアニメーション技法とて、いつも通りの「二束三文」に落ちていく事は明白です。ここ10年の現場を振り返っても、そう思いますよネ?

新しいアニメーション、「デジタル作画」「ペーパーレス作画」。それらを「安く速く簡単に大量に作る方法」と考えている人とは、どうやったって話が合わないし、一緒には組めないのです。所属のジャンルは違えど、同じベクトルと熱量の「野心と野望」を持つ人間たちが必要なのです。「安く速く」作る取り組みを否定するつもりは全くないですが、日本の諸事情から鑑みるに、「安く速く」は他の大国が得意とするジャンルであって、「量と速度」で対決して大負けした過去(というか他業種では今でも)からの教訓を大事にしたいわけです。

現在は4Kの影響によるものか、「デジタル作画」の言葉が頻繁に耳に入るようになりました。会社ぐるみで資金を投入して準備しているところもいくつもあるでしょう。さて、その成果は如何に?

私は、今作っている4KアニメーションがYouTubeの360pで閲覧されて「4Kってこんなもんか」とか誤解されたくないので、世間の足並みがある程度揃った時点で「表立った攻勢」を開始する予定です。世の中には、1080/24pで十分なアニメもありますが、それとは技術的・品質的において大きな格差で望む所存です。4K60pのフォーマットなら、4Kでこそ実現可能な作品を作るべき‥‥というのが、私の心情です。

時代は時として、「経緯」や「理屈」よりも、いちはやく「結果」を欲しがる事があります。十数年前にもソレを体験しました。‥‥思うに、今はその時期‥‥になり始めているのでしょうネ。


*そう言えば、今日、M/Lのサトーさんから、新しいEIZOの4Kモニタが発売(現時点では予約)された事を聞き及びました。50万と高価ですが、マスモニにも堪え得る高性能らしいです。3840ではなく4096なので、映画もイケるのでしょう。‥‥こうやって、徐々に徐々に、足並みが揃っていくのですネ。

アカウント

世の中には「江面」さんはそこそこ居て、ツイッターやフェイスブックのアカウントで名前を見かけたりします。私は50年近く生きてますが、今の今まで、「江面」さんには会ったことがないので、不思議な気持ちではあります。

ふと、「いつまでも、あると思うな、自分のアカウント名」を思い出し、とりあえず、ツイッターとフェイスブックのアカウントを非公開で取得してみました‥‥が、ツイッターの方は公開になっておりますな‥‥。まあ、いいか。やがては公開するものだし。

私はこのブログで、推敲はもちろん、その記事自体の可否において、未公開の記事が50近くあるくらいなので、アカウントを取得したとて、「ツイッターで軽快に文字を発信する」ことは想定しにくいです。その辺は前にも書いた通り。

「言葉の意味」って、音と文字では大きく変わるものですよネ。会話文は文字起こしするとニュアンスが抜け落ちて、相当にキツいですもんね。

ツイッターなどのSNSの有用性(場合によっては有毒性?)はもはや疑いの余地などありません。どう使うか、どう関わるか、ですネ。

家は大工さんのものではない

大工さんが創意と工夫を凝らして、どんなに素晴らしい家を建てても、その家が大工さんのものになるわけはありません。家の所有者は、家を建てるためにお金を出した人‥‥ですよネ。そんなのは、誰でも知っている一般常識です。

アニメ業界の色々な話、ギャラやワークフロー、現場の未来はどうなるか‥‥などの話題を耳にする時、「何で、いつまで経っても、『その根本』に対して、触れようとしないのか」が気になるのです。

下請けはどんな業界にも存在するでしょうが、業界全体そのものがスッポリと下請けに収まっている状況が、「限界そのもの」だと思うのです。「そんな青臭い事を」(業界で10年くらい仕事をしてれば、大体考える事)と言う人もいるかも知れませんが、でもやっぱり、限界の根本はソコ‥‥でしょ。

「ものを作る」ではなく、「ものを作って売る」という考えを持つならば、ワークフローをかっちりと決めすぎるのは「売り要素を減らす」行為だと思っています。生産ラインを決めこみ過ぎてしまって、同じテイストのものしか生産できなくなるのは、「売り物」としてどうなのよ?‥‥と言う事です。現場の人々は、作る事には夢中になるけど、売る事に関しては「他人事」なんだよネ。

「売れた原作を、どんどんください」的な下請け気分‥‥とでも言いましょうか。「売れた原作」という言い草がね‥‥、既にネ‥‥。

まあ、考えてみれば、アニメ業界の制作システムって、アニメ化の生産ラインにどんどん原作を放り込んでいく発想ですよね。ブランド戦略がいつまでたっても成立しないのは、そりゃあ、当たり前‥‥です。業界全体像が生産ライン留まりなのですから。

下請けの仕事を否定するつもりは、毛頭ありません。私だって、いくつもアニメ化してみたい既存の原作はありますし。‥‥ただ、「完全に下請けにフォーカスする」事に、「昔から変わらぬ閉塞感」を感じるだけです。

オールデジタルでアニメを作る機運を、以前通りの下請けの生産ラインの効率化に受け流していくのか、ブランド戦略の中核に据えていくのか、中心人物の行動が試される時‥‥なのかも知れませんネ。

*ちなみに、「家は大工さんのものではない」の「家」を、「賃貸マンション」に置き換えれば、もっと比喩として近い感じになりますネ。賃貸マンションは、マンション経営者の所有物であって、大工さんのものでも入居者のものでもない‥‥ですもんネ。


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