AIにお願い

Photoshopをいじる時間が最近久々に増えたのですが、塗りつぶしツールが相変わらずの使いにくさで、20年前と何も変わってないな‥‥と色んな意味で驚きます。

 

Adobeさん。塗りつぶしや選択ツールに「新しい何か」を導入して、「今、どの範囲を塗れば良いか」を自動選択して、サックリさくさく、塗れるツールを作ってください。

 

例えばAI。

 

絵をAIに描かせるなんて宴会芸みたいなことに費やさず、人間の強力なアシスタントとなるようなことに、どうせならAIを使って欲しいですネ。

 

今、少なくとも私に必要なのは、使い道にこまる絵をAIに描かせることではなく、「人間なら、そこは普通、閉じた線と考えるだろ」と判断するのと同等の処理をしてくれるソフトウェアです。

 

 

 

自動中割りとか色々とAIに期待されていることも多いですが‥‥

 

人間が描いた絵の、最大の理解者は、人間だと思います。

 

なんか、大袈裟過ぎると思われますが、AIが完璧に原画を清書して中割りまでこなしたら、それはもう、新しい人類誕生ですヨ。アニメはさ、線が簡略化されているからナメられがちですけどネ。

 

絵ってさ、当人にとって、光であり、闇でもあるでしょ? 真剣に何年も取り組めば、そういう部分にブチあたりますよネ。

 

絵に対してろくに踏み込んだ事もない人間が、研究材料とばかりに「アニメ絵」に取り組んだところで、その光と闇のメカニズムの深淵に到達できるとは思えません。

 

 

 

「でもさ。光と闇とやらの、人間の意識や思考の奥底だって、解析すれば、云々」と思う人もいるでしょう。‥‥私も実はそう思うところはあります。

 

でもさ。解析できる? 解析できると思える?

 

解析できた!‥‥と言う人は、おそらく自分の心の謎も解析できてるはずですが、如何に。

 

 

 

 

絵を描く事って、実はそうした解析が困難な人間の部分と、無線(というのは例えですが)で繋がっちゃってるんですよネ。

 

なので、そういう部分にAIを無理に活用しようと目論むよりも、例えば「萌えキャラを細かくパーツ分解して、年代ごとの形状の変化の経緯もビッグデータ化して、次に受けそうな萌えキャラを自動生成する」とか、闇も光も無縁なルーチンに徹したほうが、商業的には良いと思いますヨ。

 

あとは、話を元に戻して、「途切れた線によって描かれた「暗黙のペイントエリア」がどこにあるのか、推測する」機能とか。

 

まあ、実際、Photoshopの塗りつぶしツールは、「そこは線が繋がっているものとして、解釈してよ!」と思うことしきりなので、コンピュータのルーチンが判断して簡単に塗りつぶせるようになったら、嬉しいですネ。

 

 

 

もし、AIのようなに未来の機能に私が望むことがあるとすれば、「今までコンピュータでは融通が効かなかった場面が減って、徐々に確実に、コンピュータが使いやすくなる」ことですかネ。

 

 


辺境は魔境

もう10年以上前に、After Effectsの米国の開発者の人々とお話したことがあるのですが、その際に「何か要望はあるかい?」的な話題になったので、「dpiを任意に設定できるようにしてほしい。Mac由来の72dpi固定ではなく。」と言ったら、「???? 何を言ってるんだい? 極東の人よ。」的な顔をされたことがありました。ファイナル段階の映像効果の際に印刷(スキャン)解像度など必要ないだろう?‥‥的な。

 

その話の流れの中で、当時(2000〜2004年くらい)としてはAfter Effectsは、まさに「アフターのエフェクト」な認識であり、米国本国の開発者の人々にとっては「実物の紙とデータのやりとり」のことなど想定外・Out of 眼中なのが感じられ、「After Effectsをアニメで使うなんて、隅っこの使い方」なのをひしひしと気取ったものです。

 

東洋の辺境の地で、After Effectsを「アニメとやら」に使い始めているらしいが、まあ、ご自由にどうぞ。日本のアニメで使うために特に機能強化やサポートはしないけど。‥‥的な空気を感じたわけです。

 

時は流れて、2018年。

 

今も変わってないよネ。その基本スタンスは。

 

でも、それで良いと思っています。

 

正式な機能としてAfter Effectsにタイムシートを!‥‥的な要望もあったと聞きます。私はそういう要望はしませんでしたけどネ。なぜかというと、After Effectsをアニメの撮影ソフトウェアに染めたくないからです。コアレタスのようになっては、絶対にイケないと考えていました。そんなことをしたら、After Effectsの良さが「アニメの作業慣習に毒されて」どんどん消えてしまうと思うからです。

 

After Effectsはボルトやナットからゼロから作れる、中庸・中道な「スクラッチ性」「カスタム性」が、実は1番の魅力なのです。アニメの撮影ソフトでも実写や3DのVFXソフトでもなく、アニメの撮影ソフトでも実写や3DのVFXソフトでもあり‥‥という、「のらりくらり」感が最高なのです。何らかのワークフローに縛られないところが良いのですヨ。

 

なので、72dpi(macOSの場合)固定の状況も、変わらず仕舞いで良いと今は思うようになりました。‥‥まあ、解像度の設定くらいはあってもバチはあたらないとは思いますが、無くても良し。

 

 

まあ、大体、どんなソフトウェアも「開発者の想定外」の使い方をユーザがし始めて、「真のポテンシャルが覚醒する」と思っていますから、アドビはAfter EffectsをAfter Effectsとして、世界規模の映像フォーマットの進化に追随するようにして、整然と開発し続けてもらえばそれだけで十分です。「思いもしない使いこなし」はユーザ側でやるので。

 

仮に、天地創造の神がいたとして、生物としては身体的弱者に属する人類が土や木を油をこねくり回して「人を乗せて空を飛ぶ金属」を作るようになるとは、まさか、思わなかったでしょう。

 

辺境・魔境の自分の立ち位置を、むしろ愉快痛快奇々怪々に楽しんでこそ。です。

 

そういった意味では、旧来アニメの本流から脱して、新しい取り組みに没頭するのも、これまた辺境・異境の境地、愉快痛快なAfter Effectsの使い方です。まさか、アドビも「こんなふうに」After Effectsで「アニメの作画のソフトウェアに魔改造」されるとは思ってもいまい。

 

 

まあねえ‥‥。アニメの撮影にAfter Effectsを使うのだって、昔は「物好き」のやることだったしね。未来はどうなるかよくわかんないですよネ。

 

 

 


描きたい絵

アニメーターとして毎日絵を描いているのに、自分の描きたい絵、自分の好きな絵が、自分自身でわからない‥‥という人は結構存在するように思います。逆にいえば、オーダーがなければ絵を描けない(=キャラ設定がなければ)、他人の原作の絵しか描けない‥‥ということです。

 

「プロのアニメーターだから、発注ありきで絵を描くのは当たり前だ」というカテゴリーミステイクな話で逸らす人もいるでしょうが、発注を元に絵を描くことと、自分の生涯の中で自分が描いてみたい絵を持つことは、別物ですので何の弁明にもなりません。発注された絵を描いてお金を稼いでいても、同時に、自分の描きたい絵を描くことだってできますので、二者択一では全くありません。

 

仕事は仕事。でも一方で、自分の描きたい絵を描く。‥‥そういうことに、あまりにもアニメーターは日頃から絵を描き過ぎていて、疎いのかも知れません。

 

私は2000年初頭から10年くらい、作画の方は寡作状態で、しばらく作画から離れていたこともあり、「絵を描く仕事」に対して物理的にクールダウンできました。同時に「アニメの様式」にも醒めた視点で関われるようにもなりました。アニメ独特の「内輪受けの場の雰囲気」に呑まれずに済むようにもなりました。

 

だからこそ、請け負いの仕事は仕事として、一方で、成し遂げたいアニメーション作画(=線画だけでなく色や効果も含む)表現も明確に意識できるようにもなりました。

 

自分が求めている絵とは何か‥‥を明確に自覚できるようになったわけです。

 

 

 

結局さあ‥‥。

 

アニメで何がやりたいわけ?

 

‥‥に尽きます。それに即答できずに、「やることは他者が与えてくれる」と思っているのなら、現場に呑まれている証拠です。

 

「どうせできない」と結果を先読みして打算し始めたら、その果てに「どうせ人間は死んじゃうんだし」と何もやる気がなくなりますよネ。むしろ「どうせ人間は生きてるうちにしか行動できないんだし」と考えるべきですよね、打算するにしても。

 

今は、iPad Proだってあるし、iMacや、今度出ると噂のMac miniの新型も控えていますし、いくらでも「自分の絵を育てる」ことは可能です。フィルム時代の「線画以外に手も足も出なかった頃」ではないのです。

 

作業をこなす歯車やネジ、使い捨ての人材に、自ら進んで堕ちてどうするのか。

 

今流行りの絵を、皆で一斉に描いて、皆が「自分はイケてる」と錯覚しても、その流行りが廃れた時に残るのは何でしょう。自分の絵を持たずに、他人の流行り絵ばかりに気を遣って怖気て生きて、自分の核を形成するに努めなかったとすれば、それほど残酷なものはないです。

 

絵を趣味止まりにできず、どうしても仕事にしたくて作画の作業者になったのです。仕事の絵だけではなく、自分の絵も描き続けて何らかの商売に結びつけるくらいの野心を秘めていても、誰も咎めないですヨ。「カネにもならないことを、よくもまあ」と笑いたい奴には笑わせとけば良いのです。自分の一生ですからネ。

 

アニメの日々の仕事ばかりに体力を使って、自分の絵など描く気力もない‥‥というのはありましょう。でも、そんな中での自分の頑張りは、未来、じわじわと効いてきます。

 

まあ、絵を描くのが好きじゃないんなら、しょうがないけどネ。

 

好きなのだったら、公私分け隔てなく、絵を描きゃあ、良いんです。描きたい絵をネ。

 

 

 

 


Twentieth Anniversary Macintosh

Xs Maxの18万という値段を見るだに、「Twentieth Anniversary Macintosh」=88万8千円の頃のAppleの悪夢を思い出します。

 

Twentieth Anniversary Macintosh

 

 

この「TAM」。リアルタイムで覚えています。私がちょうど、はじめて自分のお金でコンピュータを買おうと物色していた時期で、MacかWindowsを悩んでいた頃でもあります。

 

TAMは当時としても、CPUはエントリー機種の603eであり基本性能が乏しく(今でいうと、Core i5っぽい感じか)、Boseの高価なサウンドシステムで飾り立てても、少なくとも私はまず値段で、そして性能で、全く惹かれませんでした。コンピュータで色々と絵や映像を作ろうって時に、自宅のマシンとしてTAMを選択するなんて、「高価、低性能」ゆえにあり得ませんでした。

 

TAMは、コンピュータなんてどうでも良い人間が、金持ちのコレクターアイテムとして買うものだと考えていました。

 

伝聞の噂の域を脱し得ませんが、このTAMを贈られたジョブズは、窓から投げ捨てたとも言われます。1997年といえば、ジョブズがAppleに戻る戻らない的な時期であり、「暫定CEO」という呼び名も懐かしい頃でした。「ジョブズはいつまで暫定なんだろうねえ」と2000年の頃に話していた記憶があります。

 

このTAMの1年後=1998年にiMacが登場します。

 

TAMとiMac。‥‥あまりにも対照的ですよネ。「思い切った内容」にも、ここまで差が出るか‥‥と感じさせる、対照的な2製品です。悪趣味な成金風情のTAMからわずか1年でiMacが発売されるのですから、変革期というのは興味深いものです。

 

 

 

私はTAMが20万円そこそこまで投げ売りされていた頃でも買う気にならず、同じ603eでもPM5500を買い、iMacはリビジョンBを1999年の年明けに買いました。

 

年が前後しますが、結局、私が最初に買ったコンピュータは1998年の年明けのPM8600で、格段にメンテがしやすくなった筐体でした。当時私が仕事場で使っていたマシンはPM8500でメンテはかなり面倒で(まあ、慣れれば、慣れるのですが)、8600のメンテナンス性の変化だけ見ても、何か「Appleの内部が変わりはじめている」のを感じていました。明らかにばっさりと方針が変わっているのを、コンピュータの中身を開いただけでも判ったのです。

 

ジョブズがどれだけ絡んでいたかはよくわかりませんが、当時のAppleは1年ごとに、

 

  • PowerMacintosh8500(開けにくい筐体)
  • PowerMacintosh8600(開けやすい筐体)
  • PowerMacintoshMT(開けやすい筐体でG3)
  • PowerMacintoshG3(ブルー&ホワイトの筐体で開けやすさは継承)

 

‥‥という恐ろしいペースで進化の過程を邁進していました。

 

この機種更新を当時の私の作業事情に絡めると、

 

  • PowerMacintosh8500=攻殻PSゲーム作業後に、会社からはじめて私専用に配備されたマシン
  • PowerMacintosh8600=自腹で買った初めてのパソコン
  • PowerMacintoshMT=Blood the Last Vampireの制作開始頃
  • PowerMacintoshG3=Blood the Last Vampireの制作で実際に使用してAfter Effectsでレンダリングしたマシン

 

‥‥と、当時の「デジタルアニメーション」という現在のアニメ業界のスタンダードに繋がる黎明期とともに、Appleの製品が「吹き返し始めた」のを思い出します。この当時に実際に「デジタルアニメーション」を立ち上げた人々が、Apple製品、Mac製品に対する愛着が強いのも頷けます。

 

ちなみに、TAMが登場した頃は、Appleはお葬式ムードで、どの会社がAppleを買収するか‥‥なんていう話がごく普通になされていた時期でした。PM8500はちょうどそんな時期のマシンで、私は他の部屋にある牛柄のGatewayのWindowsマシンも併用してGRMのパイロットフィルムなどにも参加していました。Photoshopはバージョンが4になった頃で、After Effectsは3.1でした。

 

ホントに、あの時期〜1997年のAppleはフワフワユラユラしてましたよネ。

 

ですから、ジョブズがAppleに返り咲いて、Appleがどんどん変わって、どんどん息を吹き返してくるのを、リアルタイムで体験しました。ジョブズはプログラムコードも設計図も書かなかったかも知れませんが(少なくとも1997年の頃は)、確実にジョブズ前と後では、Appleは雲泥の差でした。

 

1998年のAppleと、1997年のAppleでは、「1年でここまで変わるか」と思うほどの変身ぶりでした。

 

 

 

そして、今のApple。18万円のiPhoneがご自慢のApple。

 

TAMとXs Maxを同一視するつもりはないですが、何か、変な感じ、嫌な感じなんですよネ‥‥。Apple製品と20年以上付き合ってきた上での、何か予感めいたニュアンスといいますか。Appleがダメな頃も、復活した頃も、絶頂な頃も、同時体験してきた「勘どころ」と言いますか‥‥。

 

1997年と2018年の今では、社会も、そしてAppleの経営状態も違いますから、同じ物差しで測ろうとも思わないのですが、何か、似たような違和感というか、胸騒ぎみたいなのを感じます。私個人の心配性だけなら良いですが。

 

どうなるのかな。

 

100年続いたコンピュータメーカーはどこにも存在しませんから、なんとも先は読めないですよネ。コンピュータメーカーの歴史は今、リアルタイムです。

 

それに、そもそも今は「アップルコンピュータ」ではなく「アップル」なんだよネ。

 

TAMが発売された時に、「ボーズのスピーカーがついたから何なんだよ」と率直に思いました。Xs Maxも「カメラの性能が上がったからって何なんだろう」と正直に思います。たしかにスマートHDRは魅力だけど、カメラ機能で他社競合と競うあたりで、Appleの強みってなんだったっけ‥‥と思います。ちょうど、PC/AT互換機と販売合戦に巻き込まれたスカリーの時代が思い起こされます。

 

TAMのような過装飾な何かではなく、革新的な何かを期待しております。

 

 

 

しかしなんだな‥‥、皆、Xs Maxをよくまあ、買えるよね。景気、良いの? スマホに18万もぶっこめるほど、多くの人が稼げてるんだとしたら、日本の今の状況って何なんだろうね‥‥。

 

18万円を一度に払えるほどの経済力はないし、新たにローンを増やすほどの余裕もないけれど、携帯の月々の支払いに組み込めば、18万円のスマホも買える。

 

バブル、サブプライムローンのようなトリックが、スマホのような身近な製品に姿を変えて人々を取り込んでいるようにも思える、今日この頃。

 

でも、Apple製品には売れていて欲しいです。Xs Maxもそこそこ売れているようで良かった‥‥。大外ししてAppleの調子が悪くなられても困るもんネ。売れなくなった頃のAppleって、そりゃあもう濡れ手に粟がついた腕で泥縄を引き寄せるような‥‥でしたからネ。

 

 


能力オブジェクト

自分の未来は自分で決める、将来は人それぞれ‥‥となると、「どうやって人を育てていけば良いんだ? 人それぞれなんて言い出したら、何も教えられないじゃないか」と考えがちです。ゆえに「役職をキッパリ区切って、その役職の技能を習得する」という思考になります。

 

たしかに、何一つ無し得ない者は、何者にもなれない‥‥とは私も思います。

 

だからといって、人間の素質や可能性を1つに限定するのは極論とも思います。人間は本来多様性を持つと考えるからです。

 

私が考える未来の制作現場は、役職オブジェクトではなく、能力オブジェクトによって構成されます。1人=1役職ではなく、1人=多能力と定義し、制作上のあらゆるジョブ=作業・仕事に、1役職の1人ではなく、1人の中の1つの能力を割り当てるわけです。

 

人材のマッピング(=割り当て)ではなく、能力のマッピングです。それが日本の未来の現場の姿と考えています。

 

1人の人間を、1つの役職に割り当てるなんて、なんという大雑把さ、なんという非効率の垂れ流しなんだろうと思います。国土も人口も少ない日本でやることか?‥‥と思います。

 

高度経済成長期の幻、ベビーブーム時代の幻影をいつまで引き摺り続ければ気が済むんだ?‥‥と思うのです。国土も、そして今や人口も減り続ける日本において、野放図に肥大化を繰り返してきたアニメ業界の構造も、もうそろそろ見直すべき‥‥というか、旧アニメ業界とは別立ての新しいアニメ業界を考えはじめても良いころだと思いますヨ。

 

 

 

あのさあ‥‥ぶっちゃけて書くけど、作画の仕事ひとすじに30年も費やすのは必要なこと?

 

原画の仕事をしながら、たとえばメカデザインや動物デザイン、後進のための技術指南書を書くことだって、可能ですよネ。原画の仕事をしながら、After Effectsでカットアウト・キーフレームアニメーションだって引き受けられますよネ。作画以外にも、例えば仕上げの仕事をしながら、衣装デザインやフェイスメイクデザインだって兼任できますよネ。

 

仕事を一人の人間の一つの役職で区切るから、肥大化もするんじゃないですかネ。1人ですむものを、2人にも3人にも役職で分割するから、どんどん大規模で大所帯で維持も大変になるのだと思いますヨ。

 

10〜100KB単位のデータを格納するのに、セクタを512KBで区切るようなもんだよ。

 

ひとりの人間の多様性と可能性を閉じ込めて封印するような制作構造は変えていくべきと思います。

 

古い頭の人は古いままでやがて引退してくれればそれで結構。ベビーブーム時代の幻想の中で死ぬのも当人次第。

 

それでは済まないと思う人間たちが、新しい頭で新しい制作システムを作り出すべきと思います。

 

「そんなの、管理が大変じゃん」という人もいましょうが、コンピュータを知らないの?‥‥と言いたいです。メールを読んで、ネットを眺めて、ゲームに熱中するだけがコンピュータじゃないからさ‥‥。

 

一人の人間のオブジェクトの中に複数の能力のオブジェクトを定義して、制作システムは能力オブジェクトに対してアクセスして、当人のキャパも計算し、運用の計画を立てるようにすれば良いのです。コンピュータはそういうことにこそ使うべきと思います。ゲームをやるだけじゃなくてさ。

 

 

 

「でもさ‥‥それって、コンピュータに自分の能力が管理されることになるんじゃないか?」と思うのは、ごもっとも。‥‥「他者による個人能力の管理」と受け取るか、「他者による能力のバリエーションの認識」と受け取るかは、色々と受け取り方が変わってくるでしょう。

 

仕事を受発注の際、たとえ今の「役職」単位であっても、「役職としての能力」を管理・把握されていますよネ。

 

仕事を発注するときに、どうやっても、作業者当人の能力は問われますし、他者による作業能力の認識は必要です。管理もされず、把握も認識も拒絶し、「私は謎の人物でいたい」なんてあり得ないのです。謎の人物に仕事は発注できないですもん。

 

 

 

あの人は線画専門だ。線画しか描けない。だから、線画の仕事しか頼めない。

 

それって、本意? 不本意?

 

そんな風に他者から自分を認識され続けて、単価の安い現在の原動画システムの中で、「アニメーター」の狭い枠の中で生き続けたいですか?

 

どっちにしろ他者から認識されるのなら、自分の能力の多様性を認識してもらって、線画以外の仕事もどんどんこなせば良いんじゃないですかネ。未来にアニメを作り続けたいのなら、新しいアニメーション技術の流れにも組みして、旧来の業界の構造問題から離脱するきっかけを作るべきだと思いますヨ。

 

 

 

旧来の業界は何を言っても、コストを何千何万枚で分割する方法から逃れられません。業界のお歴々がどうしても抜けられない思考の限界です。

 

先人が築き上げたシステムを踏襲することだけを考える人々は、新たな未来を切り開くこと自体が、土台、無理なんですヨ。綻びてガタがでてきたシステムをどう繕うか、お金の不満をどうなだめるか、そのことに終始して、「新しい何か切り開く」なんて「傍迷惑」にしか考えない人も、相応に多いです。

 

思考が古いまま凝り固まっているから、新しい何かを実践するなんて「無理」「できるはずがない」と言い続けるのですしネ。「デジタル作画」くらいの「代替技術」思考が、古い世代の限界です。

 

新しいドクトリンに基づく現場には、相応の人材育成のメソッドも生まれます。人それぞれの能力の多様性ありきで、自分の軸足となる工程をまず習得して、そこから応用と発展を重ねていけば良いのです。一生、原画マン人生‥‥だと、作画従事者の誰もが思い詰める必要はないと思いますヨ。

 

 


夢のあとに

アニメーターになるのが夢。そのために、アマチュア時代にいっぱい絵を描いて、アニメ制作会社や下請け作画スタジオに入社して、動画を描いた、原画を描いた、作監も引き受けた。

 

はい。夢、終了。

 

‥‥あれ? 自分って、夢を実現した後は、何をすれば良いんだっけ?

 

大してお金が稼げるわけでもないし、むしろ稼げないし、自分はこの先、何を目標にすれば良いんだろう。

 

 

 

‥‥とまあ、こうした期間が大体10年くらいですよネ。なので、ある程度の自浄能力がある人は、8〜10年くらいでアニメの仕事をやめるか否かで悩み始めます。キャラデザインや作監を決まったペースで引き受けるほどの能力を発揮すれば多少は紛れますが、「自分の未来」を冷静に考えられる人ほど不安になるものです。電卓を弾けば、作画だけで生きていく自分の未来の危うさが簡単に算出できますもんネ。

 

アニメーターの「役職と報酬」の頂点は、総作監とキャラデザインの兼任ですが、それを安定したペースで引き受ける人間はかなり少ないですし、絵には流行り廃りがあって一斉を風靡した人が何十年も安泰でいられるほど、アニメ業界のアニメーター事情は優しくないです。

 

アニメーターは作家性を打ち出しづらい宿命的な性質があります。漫画家、イラストレーター、画家とは根本的に違います。

 

まあ、逆に言えば、アニメーターは発注されたカットの絵を描くがゆえに、作家性の流行り廃りに左右されずに、絵を描き続けることができますが、1カットの報酬は決して十分とはいえず、低収入の危険と恐怖がつきまといます。

 

アニメーターになるのが夢だった。そして実現した。‥‥‥映画やアニメやコミックのストーリーなら、そこでストーリーは終わるのかも知れませんが、現実はその後も延々と続きます。アニメーターになってしまった後はどうするのか?‥‥という現実を叩きつけられます。

 

アニメ業界のアニメーター‥‥に限らず、様々なクリエイティブな役職の仕事は、スタッフ個々のライフプランまで提示して保証してはくれません。「仕事は出すけど、人生まで面倒はみれない」‥‥です。でもまあ、そんなのは、アニメ業界に限ったことではないですが、アニメ業界は動画が1枚200円前後(現在)だったりするので、「仕事は出すけど、人生まで面倒はみれない」感が強烈なのです。

 

アニメ制作工程で、完全出来高を体験した人ほど、「生きる」ことを痛烈に実感せずにはいられません。生まれてこのかた、一度も完全出来高を経験したことがない人にはわからぬ、「自分の存在のリアルな値段」をひしひしと実感するのです。

 

そんな鬱々とした状態を10年も続ければ、自分の存在の行き先を考えずにはいられないでしょう。10年でひとまず自分の未来を考え直すのは当然です。しかも今は大学卒が昔の高卒と同じ感覚ですから、キャリアのスタートは22歳からでやや遅いので、30歳前まで8年しか猶予がありません。

 

どんなに社会の気風や基準が変わろうと、年齢における吸収力はそんなに変わるものではないでしょうから、歳を食えば食うほど、柔軟性と吸収力は落ちていきます。会社や仕事の発注元は、当人の吸収力や成長を考慮して仕事をいれてくれるわけではないです。自分の成長は自分でプロデュースする他ないです。

 

 

 

導き出せる結論は自ずと、

 

自分の人生は他人に預けられない。自分の運命は自分で決める。

 

‥‥ということになりましょう。そうした心情を根底にハッキリクッキリと焼き付けておかないと、絵を描いて生きていくことは、どんなジャンルでも難しいでしょう。

 

結局、自分は何がやりたいのか

 

自分は何を成そうとしているのか

 

10代までは「プロのアニメーターになりたい」が「何を成そうとしているのか」の中身でも構いませんが、プロになった暁のあとは、もっと深く掘り下げる必要があります。「プロのアニメーターになりたいと思ったのは、何故だったのか」‥‥です。

 

もっと言えば、

 

なぜ、アニメに惹かれたのか

 

なぜ、アニメなのか

 

‥‥まで考える必要があります。「夢」とか「憧れ」とか、耳障りの良い言葉で自分を酔わすのではなく、夢や憧れを自分の現実の高さまで引きずりおろして直視して、それは何だったのかを考えねば、先には進めない時期がいずれはきましょう。

 

「でもさ、そんなことをせずとも、アニメーターを続けている人もいるんじゃない?」‥‥と思う人もいましょう。たしかにそうですよネ。つまり、自分の夢や憧れの正体を解明せずに、その時点で停止したまま生きて続けている人もそれなりに多いのでしょう。そして40〜60代まで到達してようやく「夢」から目覚めはじめて青ざめる‥‥なんてことがあるのかも知れません。怖い話‥‥なんですが。

 

ですから、できれば20代前半に夢なんてとっとと覚めちゃった方が良いと、少なくとも私は思います。

 

アニメを辞めて他の業種に転向するのもよし。アニメを作り続けるために、明確で実効的な方法を実践するもよし。

 

 

 

一番危ういな‥‥と思うのは、「なんとなくこの役職を続けていれば、生きていけるだろう」的な感覚ですかネ。今度は違う夢をみはじめちゃったよ‥‥という感じです。例えば「アニメの撮影監督」で死ぬまで生きていけると思うのか、ちょっと考えれば危ういことだとわかりますから、次のフェイズを自分で準備する必要があるでしょう。

 

親方日の丸の国家公務じゃあるまいし、アニメ業界の役職にどれだけの未来の身の保証があるというのか。

 

思うに、アニメ業界は、10年で辞めていく人間のサイクルも込みで、運用の目処を暗黙のうちに計算しているのでしょう。旧来のアニメ制作は何千何万と絵を描いて塗るので、どんなに綺麗事を並べても、使い捨ての人手を欲しているのだと思います。私も、自分はボロ雑巾だとやさぐれたフリーアニメーター20代の頃を思い出します。

 

業界がそんな薄情なものだとは思わなかった‥‥だなんて、あまりにも悲しい独りよがりの思い込みです。業界をなぜ信用したのか、当人の甘さもマズいのです。業界はそもそも薄情なものだと、デフォルトに設定するのが良いと思いますヨ。

 

 

 

「夢のあと」が大切だと思います。

 

夢とともに去るのか。

 

夢のあとに、新たなきっかけを掴んで、何かを成そうと思うのか。

 

実は、「何をすべきか」を見出すのも才能の1つだったりします。ですから、「未来に、自分は何をすべきか、教えてくれ」なんて他人に聞くのは、「絵の才能を与えてくれ」と言うくらい無茶なことなのです。人から言葉をもらって才能が得られるのなら、そんな楽なことはないですし、世の中は天才で溢れかえるでしょうしネ。

 

人それぞれ‥‥ですネ。自分はこの先、何をすべきか‥‥は、自分で決めるしかないです。

 

 


村を出て世界へ出る

私はアニメーターとして最初の10数年を過ごし、その次はコンポジット〜いわゆる「アニメの撮影」としてまた10数年を過ごし、その次はアニメや実写の枠を超えてさらに10年過ごしてきました。‥‥で、今はまたアニメの作画を中心にしていますが、旧来ではなく新しい技術に基づく作画で日々を過ごしています。

 

自分自身のこうした経緯は、「視点が凝り固まらない」という点で、有利だと感じています。いわゆる「作画村」「撮影村」「アニメ村」に束縛されず、異なる視点でものごとを思考したり判断することができるようになったからです。作画だけに従事していた昔の自分の思考の狭さを、つくづく思い出します。

 

特に、作画と撮影に従事したのは、アニメ作りの中で大きな収穫でした。1カットごとの、絵が生まれる一番最初と、絵を作り上げる一番最後を、作業上でまさにリアル〜現実の日々として作業して生きてきたからです。

 

どんなにグローバルな視点を心がけても、村から一歩も外に出たことがなければ、村全体の景観、村を包み込む世界全体の様子は、肉眼で見ることはできないでしょう。村を一歩も出ない人にとって、外部の全ては伝聞で人聞きの情報であり、実際に自分が体験できるのは、村の中での出来事だけです。

 

とても危ういことだと思います。視野、視界、視座が狭く低すぎます。

 

例えば、「紙はどんな部分が有利だと思うか」の問いに対して、

 

 

とある村の村人「紙と鉛筆は、使いこなす技量が高ければ、素晴らしい絵を描く事ができる」

 

とある村の村人「紙と鉛筆による今までの制作技術を踏襲する事で、既知の生産速度・生産量で作れる」

 

とある村の村人「運用コストを低く抑えられる」

 

とある村の村人「現物がそこにある‥‥という安心感」

 

 

‥‥のような様々な答えが返ってくるでしょう。村人それぞれがどの村出身かは、答えた内容を読めば、だいたい見当はつきますネ。

 

では次に、最初の村人が語った「紙と鉛筆は、使いこなす技量が高ければ、素晴らしい絵を描く事ができる」ということに対して、実際のアニメ作品の完成物において、どれだけその素晴らしさが反映されているかを聞き直すと、

 

 

とある村の村人「頑張って作業したのだから、ちゃんと反映されているはず」

 

とある村の村人「二値化しているから、紙と鉛筆である品質の差というよりは、紙の現場の速度のほうが大事」

 

とある村の村人「素晴らしい絵はペンタブでも描けるけど、紙ならではの低コストは確実に貢献している」

 

とある村の村人「確実なデータさえ揃っていれば、オリジナルが紙でもペンタブでも大差ない」

 

 

‥‥と、「村ならではの立場」が一層明確になるでしょう。

 

これを聞いて、作画村の人間は、外部の村人が以下のように思っていることに少なからずショックを受けるかも知れません。

 

 

紙の素晴らしさより速度のほうが大事なんだ

 

紙の素晴らしさより環境コストのほうが大事なんだ

 

紙の素晴らしさよりも画像データのほうが大事なんだ

 

 

しかし、これは一歩外に出て、世界を歩いてみれば、やがて察してわかることでもあります。自分の打ち込んでいる物事に対して、周りがどれだけ冷めて見ているか、世の残酷さを、村から出ることで叩きつけられ打ちのめされるのです。

 

打ちのめされて立ち上がれなくなるような場面から、次の「自分」がスタートします。村から外にでることで、かつて住んでいた村の様々な問題点も見えてきます。他の村の価値観や方法論も吸収します。

 

そして「村の特産物」の何が有効で、何が無効なのかを、改めて冷静に判断できるようになるでしょう。守り抜く点、改善して変えていくべき点など、村から外に出なかった当時は見えなかった事が、面白いほどに見通せるようになります。

 

 

 

まあ、村から一歩も出たくない人を、無理に引き摺り出す必要はないでしょう。

 

村に通じる道を閉鎖して「新しいこと、お断り。昔のままでいきます」と立て看板を立てるのも、村人全員がそう思うのなら、無理にブルドーザーで看板をなぎ倒す必要もないです。

 

 

ふるさとは遠きにありて思ふもの

 

そして悲しくうたふもの

 

よしや

 

うらぶれて異土の乞食となるとても

 

帰るところにあるまじや

 

 

村を出て、新しい世界を渡り歩いたのちに、もう村には戻れなくなっていたとしても、それはそれで受け入れるべきことです。だって、もう昔の感覚や価値観で済まない自分が、いまここにいるのですから、自分で自分を閉じ込める必要はないですよネ。

 

村から一歩も出ず、村の価値観だけで生きて行こうとする人に、どんな言葉をかけられるでしょうか。

 

村を出るのも自由だし、留まって最後まで生きるのも自由。

 

 

 

それに作画の村は1つではないです。作画を含めた全体の視野でアニメを作る、新しい村だって作れるんじゃないですかネ。「作画」そのものは、古き村だけが占有する特産物じゃないですからネ。

 

最近リバイバル上映した「999」のゴダイゴの主題歌でも「古い夢は置いていくがいい。再び始まるドラマのために。」ともありましたよネ。

 

 


デジカメの未来

デジカメ、いわゆるデジタルカメラの出荷台数はどんどん減少し今や、7〜10年前の1/5だそうです。

 

出荷台数は7年で5分の1に、デジカメ各社は撤退か新開拓か

https://newswitch.jp/p/13164

 

これは凄く納得。

 

だって、私も10年前くらいは、毎年のようにデジカメ(コンデジ)を買っていましたが、最近数年は全く買わなくなりましたし、たまにアマゾンで検索しても「欲しいものがない」ですもん。

 

これはデジカメの「製品としての魅力」が乏しくなったからです。「カメラをデジタルにすれば売れる」時代はもう完全に終わったわけです。

 

カメラメーカーさんには悪いのですが、消費者としての率直な感想です。

 

むしろ、今欲しいのはコレ。カメラメーカーではないBlackmagic社の「ポケットシネマカメラ4K」です。

 

 

撮影スペック:4K60p

ファイルフォーマット・コーデック:CinemaDNG RAW、CinemaDNG RAW 3:1、CinemaDNG RAW 4:1、ProRes 422 HQ QuickTime、ProRes 422 QuickTime、ProRes 422 LT QuickTime、ProRes 422 Proxy QuickTime

交換レンズフォーマット:マイクロフォーサーズ

 

 

スペックでカメラの性能が想像できるのなら、このカメラがいかに期待できるものか(期待=まだ発売前なので)、お判りでしょう。

 

こういうカメラがさ‥‥、カメラメーカーではなくBlackmagic社から、しかも15万円台で発売される状況を、カメラメーカーは対抗馬もなく指を咥えて傍観するに至る状況こそが、私がカメラメーカーから遠ざかっている大きな理由の1つです。

 

 

今、デジカメを買うに至る理由が見つかりません。未だに4K60pには対応できないコンデジ。恐ろしいほど高価な上級機種

 

iPhone7があれば4K30p、iPhone8以上なら4K60p、しかも新しいiPhoneXはスマートHDRまで搭載です。

 

なぜデジカメが売れないかって、解りきっていますよネ。

 

デジカメが「いらない」からです。

 

大した性能的アドバンテージをもたないコンデジを持ち歩いて手荷物を増やすくらいなら、最新のiPhoneに買い換えた方がマシなのですヨ。

 

わざわざカメラにお金を出す。持ち歩いて使う。‥‥そのためには、大きな理由が必要です。そして今の日本のカメラメーカーには、その大きな理由が決定的に欠けているのです。

 

 

しかし、私はカメラが今でも好きです。私がもしコンデジを買うとしたら、理由は簡潔です。

 

iPhoneと同じ撮影スペックを持ちつつ、レンズの性能が高い

 

‥‥これだけで、私は買いたいと思います。

 

やっぱりね‥‥、iPhoneのレンズはどうやったって、あのレンズ口径の性能を脱し得ないのです。しかも素人誤魔化しの「ウソ被写界深度」ですしネ。iPhone8 Plusを今使っていますが、「相変わらず、レンズはチープだな」と思います。

 

しかしiPhoneにはレンズのチープさを補ってあまる色々な要素で盛りだくさんです。4K60pは撮れるし、2Kで240fpsの撮影も可能、iCloudやAir Drop、Mail添付、Air Playで様々な共有も可能。

 

でも、そのiPhoneならでは利点が、実が最大の弱点でもあります。

 

昔のiPhone6 Plusは今やSIMカードを抜かれて「iPod」のようになっており、デジカメとしても使えます。しかし、デジカメとして持ち歩いて使おうとは全く思いません。ネットワークから切り離されたiPhoneはいきなり魅力を失うからです。使わなくなったiPhoneを屋外でスタンドアロンでカメラとして使うくらいなら、今使っているiPhoneで十分です。

 

ですから、カメラメーカーのコンデジが中途半端にネットワーク機能を有したところで、iPhoneには惨敗しますが、レンズの基本性能でiPhoneがどうしても追いつけない部分は圧勝できます。‥‥まあ、問題は、その「圧勝部分」が、一般の人にとっては、地味で魅力の乏しい点です。

 

手元にEOSしかないので、コンデジではないですが、iPhoneとデジカメの画質を比較してみましょう。

 

*2枚の写真とも、撮ってそのままの状態です。撮影後の補正は一切しておりません。

*後ろに写り込んでいるのは、作りかけの1/35のエレファント、ZoomのiPhone用マイクとウィンドウジャマー、iPhoneのグリップです。

 

一目瞭然。

 

いくらなんでも、iPhoneとEOSではアンフェアか。手元にコンデジがないので、スミマセン。

 

測光方式や色温度を抜きにしても、そりゃあまあ、レンズの口径が段違いなのですから、EOSの圧勝です。あえて、どちらがiPhoneで、どちらがEOSかなんて、書く必要もないくらいです。iPhoneのほう(一番目の写真)は、概して粗雑。明部から暗部へのグラデーションはザラザラ、ボケ味もザラザラ、トーンは不自然でノイジー、被写界深度のコクもへったくれもないです。

 

一方、EOSは、まずトーンが滑らか、ボケ味も滑らか。サプリの印刷ラベルの印字のカッチリ感も段違い、そらジローの毛並みの質感も繊維の毛羽立ちまで描写し、様々な部分が圧勝です。露出が多少アンダーな部分も、元のデータに余裕があるので補正でいくらでも「いい感じ」にできます。画像をクリックすると画像だけの表示なりますので、拡大して細部を見れば、そのあまりの品質の差に驚くでしょう。

 

*色温度を自動補正して、細部をほんの少しシャープにするだけで、より一層、端正な描写の写真になります。この「地味だけど細部のキレがある」画面はiPhoneでは難しいです。特に光量の乏しい場面では、モロに差が出ます。

 

iPhoneの描写感は、基本的に「QuickTake」の頃から変わってないよネ。iPhoneで撮った雰囲気のあるムービーがYouTubeでも見れますが、実はかなり「アングル」「レイアウト」が工夫されていて、iPhone内蔵カメラの弱点が目立たないようにしているのが解ります。何かとレンズ近くにものを配置してナメこむのは、iPhoneの被写界深度の欠点を補うレイアウトの工夫だよネ。

 

iPhone8で撮影した「ナメぼかし」のレイアウト。レンズのかなり近い位置にそらジローを置いてみました。こうすれば、被写界深度の深めなiPhoneでも「深度の浅い感じ」の画面を作れます。レイアウトの工夫がキモ‥‥というわけですネ。ちなみに色はPhotoshopで細部を調整しています。金属光沢をアオったりとか。つまり、見せ方で工夫しないと、基本性能の低さがバレるわけです。拡大して見れば、相変わらずの粗雑なボケ味。

 

でもねえ‥‥カメラ基本性能の大きな差があっても、皆はもう、カメラを単体では中々買わんのよねえ‥‥。iPhoneをはじめとしたスマホのカメラ機能で済ませています。私だってそうだし。‥‥実際、アプリでイジれば、雰囲気のある画面はiPhoneの写真でも作れますしネ。

 

つまり、カメラメーカーが誇りに感じている部分と、購買層が魅力として感じている部分に、ものすごい断層ができているんじゃないですかネ。

 

カメラメーカーが、「カメラの性能、ここにあり!」とアピールするのなら、相当なiPhoneとのカメラ性能の格差が必要です。それはレンズであり撮像素子であり、記録フォーマットであり、操作性です。

 

少なくとも私なら、

 

  • iPhoneや従来コンデジと同等の小ささ、薄さ(バッグに気軽に入れられる)
  • 絞りやシャッター速度を即座に操作で変えられる(ボケ味や残像を自在にコントロール)
  • iPhoneより描写性能の高いレンズと撮像素子(カメラメーカーの製品を買う意味・意義)
  • 4K60pHDRの動画撮影機能(iPhoneと同等かそれ以上のムービー機能)
  • バッテリー容量と効率の改善(バッテリー周りの悩み解消)

 

‥‥のような性能がコンデジに欲しいです。そして、

 

  • 4KHDRテレビで見て良し
  • iPadやiPhoneに転送して見て良し
  • パソコンのモニタで見て良し

 

‥‥の画質を誇ることで、

 

やっぱりカメラだけのことはあるわあ。綺麗に撮れて良かったね。

 

‥‥と思いたいです。特に子供さんがいる家庭や、四足歩行の同居生物がいる人は、写る絵や映像の「ツヤ」が違ってきます。

 

 

とはいえ、今、特にコンデジに言えるのは、

 

愛好家にも訴えかけず

一般層にも訴えかけない

 

‥‥のような中途半端な性能の状態が続いていることです。

 

だから、私も買わないし、実家の父母もデジカメなんて全然使わなくなったし、デジカメを持ち歩いている人もほとんど見なくなったのでしょう。

 

デジカメの失速は、iPhoneをはじめとしたスマホの台頭と決して無縁ではないでしょうネ。明らかにスマホ普及の打撃を被ってますよネ。ほとんどの人がスマホで写真を撮るようになりました。

 

2020年代の4KHDRのテレビが各世帯に普及した時に、デジカメはどれだけ「その状況を活かせる」でしょうか。「前例がない」とばかりにカメラメーカーが安全牌路線を採る中で、再びスマホに先手を取られて後塵を拝するのでしょうか。

 

長年のカメラ愛好家として、日本のカメラメーカーの普及価格帯製品に、今後も期待し続けます。

 

 

 

 

 

 


悟るだけではどうにもならぬ

悟るだけなら、ぶっちゃけ、生きてれば誰でもできます。悟りを蓄積して、自分の能力が高まったと誤認することもありましょう。いわゆる「その場に居合わせただけで、できる気分になった」という「耳年増」の典型です。

 

要は、悟りを蓄積した後に、「理」のフェイズに進み、自ら実践して再構築・体系化に取り組まなければ、悟りは悟りでしかなく、自身の能力向上にはほとんど結びつかない‥‥と、最近は熟思います。

 

誰かが実践している様子を見て、自分もできるようになったと錯覚するのは、何とも愚かしいものです。他人が毎日何枚何十枚も絵を描いて苦闘している様子を見て、「なるほど、絵を毎日描いて格闘するとはこういうものか」と悟ったところで、当人の画力は全く向上していません。

 

悟るだけではどうにもなりません。むしろ、悟ったと思うことで思考や分析力が固定化され、以前の自分より劣化していくことだってあり得ましょう。

 

昔の哲学者たちが、ある意味、悟りに対して攻撃的になったのも、なるほど、今では頷けます。

 

以上のことから、「理解」という言葉は相当重いです。簡単に「理解」なんていう言葉は使えないです。‥‥まあ、口をついてポンと出がちな言葉ではありますけどネ。

 

感性、悟性、理性。‥‥若い20代ならともかく、40代以降になったのなら、その3つの性質は毎日噛み締めて生きて行きたいと思います。

 

 


ソープオペラ

「ソープオペラ」という言葉は、日本ではあまりにも馴染みがない聞き慣れない言葉ですが、調べてみると、

 

Wikipedia「昼ドラ」

アメリカでは、石鹸メーカーがスポンサーになることが多かったため、昼に放送された「通俗的な連続メロドラマ」をソープオペラ (soap opera) と呼ぶ。

 

‥‥とのことです。おそらく、制作費を抑えるために、フィルムではなくビデオで収録したので、絵のルックが「映画的」ではなく「低予算のビデオ的」な内容なのでしょう。

 

ゆえに、テレビのフレーム補完技術によって、実写映画の持つ24コマフィルムの質感が「ビデオ風」になると、ハリウッドの映画人の、特に技術畑の人々は、違和感と嫌悪感を禁じ得ないのでしょう。フィルムの質感に深い愛着を持ち、光学レンズの特性を愛してやまない人々の感情は、想像に難くありません。

 

私はムービーフィルムカメラを覗いたことはないですが、フィルム一眼レフカメラと共に色々な情景と巡り合ってきました。記憶に残る映像が、フィルムの銘柄越しの質感ですらあるほどです。私が好きだったのは低感度系で、ネオパンF(ISO32)、パンサー50は特に好きでした。若い頃‥‥なんて書くと、ジジイになったなあ‥‥と思いますが、がむしゃらにバイクにのって写真を撮って、作画に明け暮れた20代の日々を思い出します。

 

 

ハリウッドやヨーロッパのフィルム映画人が、フィルムにまつわる要素を愛してやまない感情は、果たして、アニメ業界人の24コマシート依存感情と等価と言えるでしょうか?

 

私は全く、そうは思えません。アニメ業界の多くの人々は、使い慣れた24コマシートにおける技法上の慣習が全てであり、決してフィルムそのものを大事にして愛しているわけではないです。「そんなことはない」と言うのなら、フィルムにどれだけ愛着を感じてるか、フィルムそのものについて色々とお話を聞きたいです。「写るんです」でたまに撮ってました〜‥‥という人が、どれだけフィルムを愛していたかを語るなんて、無理でしょ。

 

アニメ制作現場の24コマ(で3コマ打ち)依存を、実写畑の「フィルム愛」に便乗して正当化するのは、少々見苦しい気がします。「自分は24コマさえ守られ続けばOKだけど、この際、「フィルムが大好きでした」ということにしちゃえ」なんて、あまりにも小狡い行動です。

 

私は、フィルムが現役だったころから、コンピュータのデジタルデータの世界に自分の足場をシフトする決心をしました。フィルムそのものと、フィルム撮影台と現像プロセスによって完成形を成した多くの愛すべき作品群と、自分の中で明確に別れを告げた上で、「デジタルアニメーション」を選択したのです。前世紀末のことです。

 

一方、アニメ業界の多くの人はどうだったか。フィルム撮影スタッフはもちろん、学生時代に写真部・映画部だった作画その他スタッフは、フィルムへの愛着は相応のものがあったでしょう。しかし、多くの制作や演出、作画にとっては、フィルムそのものは「厄介者」のようにすら扱っていたのを、私は忘れません。クロス引きの制限、現像所への行き来、タップ穴のやりくり、ラッシュチェック時の16mmフィルムの扱いの手間が、「デジタル」によって払拭された時、「フィルムとオサラバできた。万歳!」とばかりに、愛着もへったくれもなく、多くの人があっけなくフィルムを捨てましたよネ。

 

3コマ打ち作画だって、すべての作画スタッフが「3コマのタイミング感覚」を研ぎ澄まして作画しているわけではありません。むしろ、「3コマの低コスト性」「作画上の慣習・定型」が3コマを支持する理由のほとんどでしょう。タイムシートをみれば、その3コマ打ちが、タイミング感覚ではなく「惰性」「習慣」によって記入されたのは、一目瞭然です。

 

確かに、タイミング感覚によって3コマを使いこなす上級者は、日本のアニメーターの層は厚いので、相応にいます。それもやはり、タイムシートをみれば、惰性ではなく明確なコントロールのもとに、3コマを使いこなしているのがわかります。巧くて有名な人の担当カットで、「究極、こうなるものか」と、ものすごい3コマのタイムシートを見たこともあります。

 

しかし、現場での多くの場合、24コマ、3コマ作画は、エコノミー=経済的理由、そして、今までの定型パターンを踏襲し続けたい運用上の理由です。ぶっちゃけ、24コマじゃなくなったら、「食えなくなる」と思っている人がほとんどだと思います。そこを誤魔化して、日頃惰性で作業している人間まで「タイミングセンス」にすり替えるのは、何とも姑息なことです。そうした姑息さが、余計、自分たちの状況を危うくしていることに気づくべきです。

 

 

 

実写映画人の心情。

 

テレビが、とにかく何でも色を鮮やかにして、詩情もへったくれもない画面に変えていたのは、まだ何とか我慢できた。しかし、時間軸にも介入して何でもかんでも60〜120fpsに変えてしまうに至り、もう我慢の限界を超えた。自分たちの作っている「映画」は、「ソープオペラ」ではない!‥‥と。

 

ゆえに、ハリウッドの映画人が抗議する準備を開始した‥‥というのは、心情的には思い遣れます。実際に実写畑でムービーカメラに関わっている人間ではないので、「理解できる」などと傲慢なことは言いませんが。

 

でも、アニメの場合は、ハリウッド映画人のソレとは違うでしょう。フィルム愛はないでしょう? 言うとしても「24コマ愛」であって、かつてのフィルム要素の限定的な部分だけでしょう。しかもアニメは濫作乱造が激しくて、24コマの現在ですらソープオペラのような様相であって、映画とは別物です。

 

というか、おかしいよね。‥‥映画ではまったくなく、テレビ放映オンリーなのに、今でも24コマベースなのって。‥‥つまり、昔を引きずり続けているだけなのが、よくわかります。

 

 

ちなみに、ブラビアには「オート(24p)」というモードがあって、24pのコンテンツの場合は、自動でフレーム補完をOFFにする機能が、結構浅い階層にあります。ただ、工場出荷時だと24p優先モードにはなっていないので、その辺りが争点になるのかもしれません。

 

また、今の若い層は、ゲームのモーションに目が慣れていて、120fpsの補完に違和感を感じない‥‥なんていう話も耳にしました。実は私も、どんどん120fpsのテレビ補完に目が慣れてきて、24コマは随分とモーションがカクカクとして見えるようになってきました。

 

 

 

ハリウッドのいう「ソープオペラ」化の「怒り」は、せっかくかっこよく作った「映画」が「昼ドラ」のように質感が激変してしまうことに対してです。

 

一方、日本のアニメは、そもそもほとんどが映画ではなくテレビアニメであって、「24コマのソープオペラ」とも言える状況です。

 

そのあたりを混同せずに、自分たちにとって「24コマ」を、ある意味「哲学」的=「論理的明晰化」によって、是非を問うべきと思います。制作現場の人間と言っても色々な役割の人間が存在しますし、アニメは現場だけでなりたっているわけでなく、社会的な立場もあります。現場の人間の価値観だけでアニメが成立しているわけではないことを、しっかりと認識した上で、あらゆる角度から思考すべきです。

 

「じゃあ、おまえはどうなんだ」と言われれば、ハッキリと明快に簡潔に答えられます。「24コマでも、60コマでも、120コマでも、アニメはアニメだ」ということです。もう少し付け加えれば、「単一のフレームレートに表現を支配されるなんて、まっぴらごめんだ」‥‥です。

 

24コマなら24コマでのベストを、60コマなら60コマでのベストを、アニメの映像表現で尽くせば良いのです。24コマを絶対神のように崇めることは、少なくとも私はしません。極めて根本的で重要な「絵を描く行為」が侵害されるのなら、断固立ち向かうべきと思いますが、フレームレートが時代によって変わっていくのなら、いくらでも対応しますヨ。

 

 

ライトな話題でしばらく行こうと思ってましたが、やっぱり移行期の常、色々な問題が聞こえてきて反応してしまいます。

 

でもまあ、このあたりの話題がアニメ業界人にとってリアルになるのは、来年、再来年くらいなので、今は抑えめにして、エアファイターとかiPad ProやMac miniの新型とか、ライトな話題にしていきたいな‥‥と思ってます。

 

 



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