一生懸命頑張ったけど負けた

本日は原爆投下の日、そして1週間と少し後の8/15は、終戦記念日ですね。

 

私は、終戦記念日の8月15日を、別名「敗戦記念日」、または「一生懸命頑張ったけど負けが確定した日」と、心の中で考えております。

 

人は、とかく、「一生懸命頑張る」ことを美徳とし、ともすれば、「一生懸命頑張れば、願いは成就する」と考えています。しかし、負けたんですよね、日本は。‥‥このことは、とても重要な、生きる上での指針となると思っています。「命がけで、一生懸命頑張っても、負ける」ということを、様々な戦記や手記の数々で、まざまざと思い知るのです。

 

終戦記念日、あるいは、敗戦記念日・戦敗記念日は、まさしく「戦いに敗れたことを、今の心に記す日」と言えます。

 

太平洋戦争の顛末は、実は何度も敗戦後の日本で、形を変えて、繰り返されていると思います。私の身近なアニメ業界だって、何だか、状況がどんどん悪くなるのに「一生懸命頑張ればやがていつの日か良き日が」なんて思い続けて、根本的な技術革新をおこおうとしないあたり、「日本人ってそういう民族なのかな」と感じずにはいられません。

 

勝てる。

 

負けるものか。

 

頑張れば、いつの日か報われる。

 

こんなにみんな、頑張ってるんだもん。ダメになるわけがない。

 

どんなに頑張っても、どんなに辛い思いをしても、どんなに過酷な働きをこなし続けても、どんなに命を犠牲にしようと、「負ける戦いは負ける」という事実を、まさに8月15日は教えてくれているのだと思います。

 

みんなで頑張っていることは、何ら、勝利や成功のバロメータではないのです。むしろ、皆で一致団結して、破滅に向かうこともあるのでしょう。

 

 

私の母は、疎開によって人生が狂ったのだと思いますし(疎開先で辛いイジメにあった)、それ以上に私の父は、戦争で父を亡くし、終戦間も無く母が追うようにして病死し、まさに戦争孤児のようになって人生が何もかも変わってしまったのだと思います。

 

命を捧げた、その代償が、敗戦です。

 

 

 

アニメ業界の今の全体方針で、未来に勝ち残っていけますか? ‥‥日本の敗戦から学べていますか?

 

私の考えはハッキリしていて、「今のままでは負ける」と思っています。何に負かされるのかというと、時代と社会に‥‥です。

 

今、「戦えている」ことは、未来の勝ち残りの「何の保証にもならない」のは、やはり、日本の敗戦が雄弁に物語ってくれています。小手先の必勝兵器も必勝戦法も、劣勢を逆転するには至りません。

 

安全牌に日和っていること、そして、従来の慣習をよりどころにしていることが、未来の猛烈なリスクになることも教えてくれています。

 

一方で、敗戦は、新興の勢力に頭角を現すチャンスを与えた事実を示してもいます。

 

 

8月15日は連合国にとっては戦勝記念日。しかし、日本にとっては戦敗記念日です。

 

あんなに頑張って、身内も死んでいったのに、なんで負けたんだろう。‥‥負けた国だからこそ、深く考えられることもあると思います。

 

負けたことを、仇ではなく、糧にしないと‥‥ネ。


美術展と美術館は似て非なる

私は学生の頃、アニメの道に進むか、美術の道に進むか、音楽の道に進むか、ぐるぐると迷いながら生きておりました。自分の中で一番ウェイトの重いアニメの道を結局選んで今があるわけですが、美術や音楽からは現在も多大な影響を受け続けております。

 

私は、アニメでは荒木伸吾さんや杉野昭夫さん、金田伊巧さんや友永秀和さんと言った、まさに70年代のアニメ発達期に大活躍をなされた方々に多大な影響を受けると同時に、美術全集常連の画家たち、例えばアングルやクールベ、ダヴィンチ、クリムトなどの画家にも図書館の蔵書で慣れ親しんでいました。クリムトデルヴォーは当時のウブな中学生には刺激が強かったですがネ。

 

高校の頃にモロー展が鎌倉の美術館で開催されたのは、私にとってあまりにも大きな影響でした。以後、世紀末絵画のそれぞれ、シンボリズム、プレラファエル、ユーゲントシュティールといったムーブメントは、私の中で大きな位置を占めるようになりました。

 

ネットを検索したら出てきました。すごいなあ、ネットって。‥‥当時1985年の情報が出てきました。

 

http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/55593038666.htm

 

私が行ったのは、三重県のほうではなく、神奈川県の鎌倉のほうです。

 

そうか、神奈川県立近代美術館というのが、正式名称なのか。‥‥そんなことはすっかり忘れてました。ちなみに、上記ページに画像のある図録とチラシ、そしてチケット半券は、今でも大切に本棚に並んでおります。

 

各駅停車の切符で鎌倉へと赴き、降りる駅を1つ間違えたのか、鎌倉のトンネルを歩いて美術館を訪れたのは、その道中も含めて一式が「美術体験」であり、私の美術鑑賞の基準をフィックスした出来事でした。今でも、道すがらの木漏れ日や風の印象を思い出すことができます。

 

しかし、10代の自分のバイタリティは今考えるとアホのようです。部屋にイーゼルを立てて油彩を描き、ヴァンヘイレンなどのギターを四六時中弾きまくりバンドも組んで、安いメモ帳みたいのに原画モドキみたいなパラパラマンガを描き、作画スタジオにも出入りしていた‥‥という、どういう時間の組み方なんだよ‥‥と思います。今じゃ、絶対に無理す。

 

アニメーターになってからも美術展はたまに行っており、その昔、わたなべぢゅんいちさんとバイク(私はTLM50、わたなべさんはKSR80)で赴き、ダヴィンチの「荒野の聖ヒエロニムス」展を見たことが思い出されます。

 

文字だけですが、情報を見つけました。

 

http://ac.nact.jp/exhibitions1945-ac/detail1945-2005.php?number=952

 

1993年か。ちょっと昔のように思えますが、もう25年くらい前‥‥なんですネ。絵は、絵そのものがまるで生気を帯びているかのようで、凄まじい存在感がありました。何百年も人々の目に晒され続けた絵画の「魔力」というのは、こういうものか‥‥と圧倒された次第です。例えるならば、奈良の木造寺院内の内壁マテリアルの雰囲気に似た、視点を吸い込むような果てしない深みがありました。人もさほど多くなく、自由に色々な角度から見れたのも良かったのです。

 

 

そうなのよ。

 

今どきの美術展が、どうも好かんのは、自由に色んな角度から見れる「余裕」がないんですよネ。

 

イヤホンをつけた人は、絵も見ないで解説の文字パネルの前に群がって、絵そのものの鑑賞の障害になるし、まるでラーメン屋さんの行列のように、妙にペースにハメられるし‥‥で、美術展は(昔からそうだったけど現代は特に)興行、イベント、催し物になりすぎちゃってますよネ。絵画を純粋に堪能できるソリューションでは全く無いです。‥‥特に鳴り物入りで開催される美術展ほどネ。

 

解説を聴く必要なんて無い‥‥というのが、私の持論です。絵そのものだけから印象を受け取れば良いのです。

 

解説がないと絵を見れないのかなあ‥‥。逆に邪魔だと思うんですよ。絵オンリーに集中できないじゃん。

 

絵画の時代背景とか、今、必要? 絵画のあらましや時代背景などの文字情報なんて、後で図録で読めばいいじゃん。絵を文字で理解した気になるなんて、その絵を描いた画家がちょっと可哀想。

 

それよりも、今、目の前にある実物の絵画から受ける印象を、できるだけ阻害物を挟まずに、受け取ることに全能力を使ったほうが良いんじゃないの? だって、文字解説なんて、後からでも確認できるんですヨ。

 

実物の絵画は、今、この時間しか直接の目で触れ合えないのです。

 

 

絵画鑑賞は教養‥‥か。絵画を教養に結びつける下心なんて全く不要だと私は思いますけどネ。「この絵、好き‥‥!」でいいじゃん。それが一番嬉しいんじゃないのかな、絵画にとっても。 ‥‥で、興味が湧いてきたら、その時点で色々と時代背景とか画家の生涯とかのメタ情報を掘り下げれば良いのだと思います。

 

絵画を鑑賞するマナーは、ただ1つだけです。絵を見て堪能することです。

 

鑑賞順路の流れに合わせて歩かないと、他の人の迷惑になる‥‥とか、遊園地の順番待ちみたいなマナーは、そもそも美術を鑑賞するマナーにはないでしょ。あー、考えただけでもイライラするし悲しくなってしまうわ。

 

なので、最近はさっぱり美術展にはいかないようになってしまいました。人混みを見にいくなんて、まっぴらごめん‥‥です。

 

 

でも最近、美術「展」ではなく、美術「館」に行ったら、‥‥‥‥まだあった!! 美術を鑑賞する空間が、変わらずにそこに。

 

美術展にいくから悲しいことになるんですよネ。美術展は、そりゃあ、開催期間中の明確な収益を上げるために、来訪者の美術体験よりも、「このイベントでどれだけ稼げるか」という興行主のビジョンのほうが優先されがち‥‥ですもんネ。

 

美術館は、そこに展示されている絵画を、見に来る人だけが見に来る‥‥という、随分とスローなスタンスです。美術展のようにガツガツしてない美術館がまだあったんだ‥‥と、とても嬉しく思いました。

 

目的の絵画を、まさに次から次へと至近距離や離れたり自由に見れて、衝撃のるつぼ。「こうだったのか。こう描いていたのか。こんな仕組みだったのか。」といくらでも近くも遠くもいろんな方向から鑑賞できる、まさに「絵を見るため」の時間と空間でした。

 

美術「展」に辟易している人は、自分の欲する画家や流派の作品を所有する美術「館」の常設展にいくことをお勧めします。

 

美術展はダメだけど、美術館はまだまだイケます。

 

 

実は上野の近代国立美術館も、企画展よりも常設展のほうが、人がまばらで、美術と間近に向かい合えるんで、オススメなんですよ。結構、有名な作品も常設しているし、色んな流派の作品を楽しめますしネ。

 

 

見に行った美術館については、実は本業のアニメ制作技法にも深く関わる「商売」のことなので、ここでは書けませんが、絵画から得られるインスピレーションはハンパないです。もちろん、それそのまま技術を模倣できるわけではないですが、思考といいますか、構造といいますか、間接的に透過的にアニメに応用できるビジョンが豊富です。観念的影響‥‥と呼んでもいいかも知れません。

 

まあこれも私の持論ですが、アニメを作っているからといって、アニメをいっぱい見たところで、得られるインスピレーションは極小です。同業者が他の同業者のテクニックをカジュアルに模倣するだけに終始しがちです。「崩し顔」なんてその最たるものでしょう。近親交配の奇妙さは生じるかも知れませんが、それはいわば、締め切った部屋のよどんだ空気のようなもので、時には外気を取り込んで部屋の空気を入れ替える必要があると思っています。

 

アニメの映像表現において、より一層の広がりを得たいのなら、アニメ以外のものに旺盛に触れていくべき‥‥と私は考えます。アニメを作っているからアニメだけ‥‥というのは、一番マズいパターンだと思います。作り手側であるのなら、ネ。

 

 


ノスタルジーとの天秤

私は20代の頃にバイクを毎日のように乗っており、特に2ストロークエンジンのバイクを愛好しておりました。今にして思えば、燃費は悪いし、排気ガスは多い、色々と問題の多いエンジンでしたが、一方で、出力特性は圧倒的なものがあり、現代の250ccのバイクが軒並み20馬力程度で高めでも30馬力ちょいなのに、2ストは最低40馬力、ちょっとカスタムすれば60馬力は叩き出す豪快な出力を有しておりました。

 

その大馬力、大出力を、いかに扱って操縦するかが、たまらなく魅力だったのです。もし、時代が逆戻りして許されるならば、今でも2ストのバイクに乗りたいと思います。マイルドな4ストに比べて、ピーキー(高回転域でパワーが炸裂する)なエンジン特性も、じゃじゃ馬を乗りこなす快感に満ちていました。RMX、TDR、KDX、ガンマ、NSR、SDR、etc...。

 

でも、今はもう許されないのです。あえて乗りたいとは思いません。ヨボヨボに疲れ果てた中古車2ストの吹け上がらないエンジンは、逆に虚しく切なく悲しくなります。2ストは記憶の中のイメージ、「あの時代でしか得られなかった、格別の体験」として、大事にとっておきます。

 

まあ、数十万円かけてレストアして、民家から離れた私有地のコース(公道ではない場所)を走るぶんにはOKでしょうし、部品供給も怪しくなってきた旧車を労って細々と乗るぶんには許容されるでしょうが、2ストの新車が出ることはないでしょう。

 

戦後の経済成長と技術更新の勢い、豊かさを手にできるようになった社会‥‥と、様々な時代の移り変わりの中で、手にできた「旬のもの」だったのです。恒久的なものでは決してなかったのです。

 

燃費効率が著しく劣り、加速すれば白煙とエンジンオイルを撒き散らすようなシロモノは、今の社会に適さないのです。

 

これはもう、どうしようもないです。

 

俺はサムライだ。廃刀令なんかクソくらえだ。‥‥なんて反発しても、時代が「刀を不要」とする流れに変わっていくのなら、ただ浮いた存在になっていくだけです。浮くだけならまだしも、社会の「敵」なんて思われ始めたら、厄介至極です。

 

アニメの制作も似たような状況です。

 

前世紀にはOKだった「人の使い方」が、もうそろそろNGになってきているのだと思います。ゆえにブラックなどと揶揄されるのです。

 

「時代の流れに負けるのか」と口惜しい人もいるかも知れませんが、その通り、負けるのです。70年代に本格化したテレビアニメの作り方は、言うなれば「2スト的人材雇用」であり、もはや時代に適さないのでしょう。

 

「人間の労働力」という「産業の燃料」とも言うべきリソースを、非効率極まりない「悪燃費」によって、野放図に消費していく‥‥というやり方は、もう2020年代の日本では「アウト」なのです。その現実を直視できるか否かで、アニメ制作現場のありかたも、人間の使い方も変わってきましょう。

 

 

ノスタルジーは私にだって抱えきれないほどあります。70年代のアニメを見て、アニメを作りたいと熱烈に思い込んだ少年時代だったのですから。

 

でも、ノスタルジーと現代の人材雇用を天秤にかけて、ノスタルジーが勝ることはありません。現代の人材を内包する社会の流れを、うまく活用することを最優先に考えます。決して、拒否るのではなくネ。

 

 

正直に言いますと、2ストは2ストでしか得られない、唯一無比の快感があります。それは何を代替にもってこようと、代われるものではありません。紙に鉛筆で描いて1枚ずつ動かすアニメ制作技法も同じで、それにとって代われるものなどありません。

 

しかし、その存在自体が、現代に合わないのです。

 

今でも2ストエンジンで、排ガス規制に適応したバイクは作れるらしいです。しかし、そのコストは半端なく、とても「売り物にならない」=産業製品として成立しないんだそうです。

 

思うに、紙に鉛筆で描いて1枚ずつ動かすアニメ制作技法を採用するのなら、1分500万のコスト、10分で5000万、100分で5億くらいの制作費は必要だと思いますヨ。現代の労働の基準にあてはめて、技術職として各スタッフのコスト計算をするのならね。

 

で、それで成り立ちますかね? 無理ですよネ。鳴り物入りの特別な大型企画でしか実現できないでしょう。

 

その「無理」を、70年代テイストを引きずった生産コスト感覚で相殺して、各スタッフに強いて作り続けているのが、旧来アニメ制作技法と現場です。私はやがて、その「無理」は破綻する時がやってくると思っています。「社会の敵」のように認識されてネ。

 

新人スタッフは親元から離れて「社会人」として現場に入ってきますが、親がまず「現場の悪評」ゆえにアニメの現場に入ることを許さなくなるでしょう。「現場」の状況はNHKでも報道されましたし、今はネットで色んな情報が得られますから、特に家を継ぐ立場の人間のアニメ業界入りは敬遠されるんじゃないですかネ。

 

アニメ業界人のノスタルジーに、いつまで世間が付き合ってくれているのか、考えてみたことはありますか。

 

付き合いきれなくなっているから、ブラック労働だ何だと取り上げられているんじゃないですかネ。

 

 

アニメ制作の事業に関して、未来とノスタルジーを天秤にかけるのなら、私は迷わず即決で未来を取ります。

 

ノスタルジーは天秤から降ろして心の中に大事にしまっておけば良いのです。懐かしくてたまらなくなったら、アマゾンで配信している昔の東映アニメでも見ます。

 

ノスタルジーを現場に持ち出す必要はない‥‥と思います。

 

 

 

ちなみに‥‥、バイク業界紙の関係筋によりますと、今年(2017年)もまた、排ガス規制が実施され、多くのバイクが生産終了になるようです。ホント、ぶっちゃけ、規制にがんじがらめの20馬力のプアパワーバイクなんて、乗る気がしない‥‥とは思いますが、一方で、プアなパワーであっても、もっと他のバイクの要素を楽しんでも良いのかな‥‥と思い始めている自分もいたります。

 

2ストの時代はある意味乱暴な時代ではありましたが、やっぱり懐かしく想う郷愁は否定できません。あの時代のあのパワー感は、2020年代に、他の形に姿を変えて、アニメ作品制作の中で具現化したいと思います。ノスタルジーではなく、新たなドクトリンとして。

 

 


ワンハムワンボリューム

人生の長い時間の中においては、あえてターゲットを絞り込んで行動する期間も必要‥‥だと思っております。ここ5〜6年は、時間を少しでもアニメーションの新しい技術に注ぎ込むべく、全くギターを弾かないように自制しておりましたし、旅行・観光の類いも、絶っておりました。

 

しかし、雪解けの時も、人生の流れの中では巡ってきます。ターゲットを絞り込んで一直線に専心した結果、未来の情景が見え始めたならば、少しアクセルを緩めて色んな方向に動きやすくする‥‥ことも必要なのは、さすがに50年近く生きていればわかります。

 

なので、適当にアニメの仕事以外のことも復活させよう‥‥と思っています。本気にならない程度の趣味で。

 

第1弾はギターいじり。原点復帰も兼ねて、1ハム1ボリュームのギターを作って(改造)おります。

 

1ハム1ボリュームとは、こういうギター

 

 

リアピックアップと音量ツマミだけのシンプルな構成です。近年はさっぱり見かけなくなりました。

 

私は、なんだかんだと工夫を凝らした電気配線のギターよりも、ピックアップの電気信号がほとんど直にジャックに出力されるシンプルなギターが好みだったのですが、そんなことも忘れていたこの30年‥‥でした。

 

配線はこんな感じです。

 

 

おそらく、これ以上シンプルな配線はないでしょうが、頭の中で整理するためにもオムニグラフで配線図をおこしておきました。オムニグラフで模式図を作るのは、何だかプラレールみたいで楽しいです。

 

ダンカンのハムバッカーは気をきかせてコイルごとの取り出しができるように4芯(アースを入れると五本のワイア)仕様ですが、赤白のワイアを結線して直列で繋いで、プラスマイナス(ホットとコールド)のシンプルな2極の構成です。

 

この図を作った後で、本家ダンカンのWebでわかりやすい配線図をみつけました。‥‥これがあれば十分でしたネ。

http://www.seymourduncan.com/wiring-diagrams?meta_params=view-all,humbuckers

https://docs.google.com/gview?embedded=true&url=http%3A%2F%2Fwww.seymourduncan.com%2Fwp-content%2Fuploads%2F2016%2F05%2F1H_1V.pdf

 

ちなみに、日本では極性を「プラス、マイナス、アース」と呼ぶことが多いですが、一般的な英文のマニュアルでは「ホット、コールド、グランド(グラウンド)」です。

 

改造と言っても、改造するギターがもともとハムバッカー用のザグリが入っているボディなので、ハンダ付けとネジ止めだけの簡単作業です。トリマーでザグリ加工をしたりとか、シリアル・パラレルの切り替え配線を考えるとか、難しい作業は無用です。

 

必要なパーツは、ピックアップとピックガード、ポットとノブ、そして配線材くらいなものです。今回、ピックアップはトレムバッカーをチョイスしました。

 

 

ピックアップの二強はダンカンとディマジオですが、そのうち、ディマジオを搭載したギターも作ってみようと思っています。私は昔、ダンカンより若干安価だったディマジオをよく使っていました。

 

* * * 

 

しかし、今この歳になって色々と考えてみると、

 

  • プレーヤーとエンジニアを兼ねる
  • 既製品で足りなければ、改造して自分の思い通りの道具に仕立てる
  • 常識や慣用や通例に束縛されない
  • 欲する表現に対して合理的であること

 

‥‥などは、実は私が少年時代に傾倒したエドワード・ヴァン・ヘイレン直系の思想なのだとしみじみ思います。その思想は姿を変えて、私の映像制作のスタンスにそのまんま受け継がれています。10代の頃に受ける影響って、スゴいですよネ。

 

「この道具だとできない」「今まではそうだったから」みたいに言う人々は結構いるわけですが、「だったらできるようにすればいいじゃん」「今から変えればいいじゃん」というあっけらかんとしたスタンスでやってのけてしまう痛快さは、まさにエドワード・ヴァン・ヘイレンのアクションそのものでした。「できないだろ」と言われるそばから、「え?できたよ」と実際にやってのけてしまうのも、実にかっこよかったものです。

 

ワンハム、ワンボリュームというシンプルなギターを今改めて見つめ直すと、色々と感慨深く思えてきます。ギターはあくまでも趣味ですが、そこから得られるインスピレーションは、決して映像と無縁ではないです。

 

アニメ!アニメ!映像!映像!‥‥と思いつめたって、煮詰まるばかりですもんネ。アニメのことしか知らない悪い意味でのアニメバカでは、視野が狭まりすぎて、やがていつか進退窮まる時がくるでしょう。

 

アニメに限定しない色々な物事を吸収しつつ、最終的にはアニメに帰結させるような、良い意味でのアニメバカでありたいと思います。

 

 


アニメブーム

今はアニメブームだそうで、私は第3次と聞いていたので、そのようにこのブログでも書いてましたが、第4次と表記しているところもあり、‥‥まあ、第何次だろうがどうでもいいわ。好きにしてちょ。第何次かどうかよりも、今がアニメブームだなんて言われていることのほうが、滑稽というか奇妙というか。

 

書きたいことはいっぱいあるけど、チキンレースの顛末なんて、書いてもしょうがないことだしネ。

 

アニメブームか。考え方によっては、淘汰の威力や速度を推進させる、思いも寄らない効能があるかも知れませんネ。

 

 

こういう混乱した時期に、動揺せずに浮き足立たずに、どう、進む方向をしっかりと見据えて実践していくか。それに尽きるよね。泥水にまみれても、たとえ迂回しようとも、到達地点をしっかりと見失わないようにしないとネ。


70年代マインドの終わり

最近、テレビの作監の仕事をお手伝いして、よくよく、身にしみて再認識したことは、レイアウト原動画システムがもはや過去の産業モデルの遺物であって、今後の映像産業にはどうにも適応しないということです。これは、ほとほと、鉛筆を持つ指先で痛感しました。

 

1960〜70年代に自分の基礎を確立した大御所さんや、1980年代に飛躍的な発展を遂げた時代に自分の基礎を確立した団塊ジュニア前半期(現在アラウンド50〜60)の人間は、レイアウト原動画システムの普遍性を疑って止まないフシがあります。何を発想するにも、絵コンテ&キャラ表、レイアウト、原画、作監‥‥で発想する時点で、完全に「70年代システム」の呪縛の中にあるわけですが、重要・重大なのは、旧時代の旧感覚である自覚に乏しいことです。

 

それでも、その70年代システムでうまく「事」が進んでいれば良いですが、今はもう各所が綻びだらけです。これは作業現場内部だけの要因ではなく、社会そのものが70年代とは大きくかけ離れてしまったことも要因です。社会が70年代とは別世界のごとく変容したのに、アニメの作り方はあいも変わらずの70年代システムをデジタルで補強しただけの状況です。内部も外部もうまくいくはずがないのです。

 

最近、私が子供時代にかつて住んでいた郵政の団地を、ストリートビューで見てみました。1970年代〜昭和40年代に存在した「粗雑だけれど生命感に満ち溢れていた」生気ある団地の姿は全く消え失せ、まるでゴーストタウンのような無残な亡骸を晒していました。

 

今思うと、昭和40年代50年代の頃は、そりゃあもう、子供たちがウヨウヨいて、やかましい時代だったでしょうネ。文房具屋でプラモは売ってるし、駄菓子屋は何件もあったし、夜7時台のゴールデンタイムは民法各局でアニメを放送してたし、ガチャガチャワイワイと大人も子供も生命感と躍動感を「無自覚に天然に」発揮していたのを懐かしく思い出します。

 

その時代に作られたテレビアニメーションの量産システムが、2020年代になろうともする今現在において綻びだらけなのは、よくよく考えてみれば当然のことだ‥‥と思うのです。アニメ制作に従事する人間を取り巻く環境も、アニメ作品を受け入れる人間も社会も、何もかもが変わっているのに、作り方の基本は全く変わっていないのは、「ガラパゴス産業」と呼んでも酷い言い方ではないでしょう。

 

まあ、百歩譲って、70年代前後に自分の基礎を確立した古い世代は、概念や思考のシフトができなくても仕方がない‥‥としても、これから先の2020年代以降に絵や映像で商売して未来を勝ち取っていこうとする20〜30代の人間が、「それがアニメの作り方だから」と70年代システムのままで思考停止して乗っかり続けて、本当にうまくいくと思っているのか‥‥は、気になるところです。

 

旧来のシステムに乗っかり続けてアニメーターになっても、そのシステムの「時代性のズレ」ゆえに、多くの人はお金なんて満足に稼げないまま、老けていくだけです。もし、30〜50代のアニメーターで貯蓄のない自転車操業の暮らしをしているのなら、その生活は改善されることもなく、むしろ悪化の一途を辿っていくでしょう。50代で貯金ができていないのなら、肉体的に衰える60代以降に貯金できるほどの稼ぎを叩き出せるはずがなく、まさに日本が抱える闇〜老後破産のど真ん中を体現することになります。

 

安い単価で作業するシステムは昔の時代そのままに、絵や動きなどの品質要求は決して時代が逆戻りするわけではないんですから、20代の若い層とて、今のアニメ制作システムでアニメーターになること自体が既に老後破産の予備軍のようなものです。‥‥そうした部分を「暗黙に触れてはいけない話題」として扱い続ける行為を、老いも若きも、今が破綻していないからという理由で今後延々と続けるつもりなのです。今のシステムに乗る以上は‥‥です。

 

自分の憧れていたアニメの仕事に就くのが夢。‥‥そんな夢のリソースは20代で自ら全て食い尽くして、後に残るのは絶望感と閉塞感だけです。「XXというアニメのOOというキャラを作画するのが夢です」なんて、その夢の実現した後に残るのは何?

 

ホントにマジメな話、業界を救おうだなんて大風呂敷など広げず、各所で独自に「方舟」的新システムを作って、大災害とその後の貧困に耐えうる術を今から準備しておく必要を感じます。今のシステムで未来がバラ色だと思っているのならそのままで構いませんが、現状に強い危機感をもっていながら今のシステムに依存し続けるのはどうなのよ? ‥‥ということです。

 

ある日、どこかの誰かが、思いも寄らない素晴らしい新システムで、業界の窮状を払拭し、状況を改善して業界の人々全てを救済してくれる‥‥なんて思っているのなら、それはマンガやアニメやハリウッド映画の見過ぎ‥‥です。団塊ジュニアのベビーブーム世代の末路、ゆとり・さとり世代の往く末は、70年代システムを基盤に据える限り、決して明るいものではないと思います。

 

ニッポン無責任野郎なんて言ってた頃の昭和30〜40年の頃と、今の日本じゃあ、あまりにも大きな落差があるでしょう。別世界といっても過言ではありません。

 

70年代システムは確かにタフな面がいっぱいあります。しかし、現代の技術から見たら、アホみたいに非効率な部分も多く抱えています。些細なことかも知れませんが、大判を作るのに紙を貼り合わせる時ほど、70年代システムのやるせなさ・骨董品的古さを感じる瞬間はありません。「バカやってるよなあ‥‥」と、スタンダードサイズの紙を裏側からセロテープで貼り合わせる時、無性に情けなくなるのです。日頃、iPadなどで作画したりコンピュータで映像制作していると、紙の作画のあまりの旧態依然としたスタイルに、逆・浦島太郎になった気分、過去にタイムスリップした気分になります。

 

 

マインドを変えられる人々、変えられない人々。

 

ぶっちゃけ、70年代システムで今後も行きたい派閥はそのまま取り残して、現代のリソースをふんだんに有効活用する流派は旧勢力と決別しちゃっても良いように思います。融和とか互換性とか段階的移行なんて言ってると、永久に70年代システムの呪縛から逃れられない気がします。

 

70年代システムは70年代のリソースを有効に活用して形成されたことでしょう。でも70年代は、もはや50年前です。50年前にリアルタイムで有益だったリソースが、現代に等しくリアルタイムで有益であるはずがないです。

 

やっぱり、行き着く答えはひとつ。

 

今の時代にアニメを作るのなら、今の時代のテクノロジーとマインドを活用すべし‥‥ですネ。

 

 

もう70年代マインドは終わりにしましょうよ。

 

新しい時代に進み出しましょうよ。

 

アニメを自分の墓場にもっていくつもりなら対話の余地もありませんが、アニメを今後も何十年も生かし続けたいのなら、50年前のシステムから解放してやることこそ、団塊ジュニア世代に課せられた「残り半分の人生の大仕事」だと思います。

 

 


徒然、雑感。

旧来のワークフローを修復して4K8K映像フォーマットに対応できるバージョンアップ・グレードアップを施すのが良いのか、はたまた、送り描きの技術に加えてカットアウト・キーフレームアニメーションを旺盛に取り込んだ新しいワークフローで、最初から4K8Kに対応できる伸びしろをもつ体制を構築するのが良いのか、最近2種類の道筋を同時期に作業したがゆえに、何とも判断し難い感慨です。

 

「旧来のワークフローを修復」。‥‥かなり困難な取り組みですよネ。ワークフローを本来あるべき姿(=各工程の作業内容として意図された状態)に戻し、かつ、今の絵柄で標準完成度を目指すと、1話あたり3〜4000万くらいの現場予算が必要になるように思いますから、ブランディングを展開できる制作母体でなければ、まあ、中々無理な話ですよネ。

 

「テレビ作品は色々と手間を端折るからこそ、制作費に収まり、放映に間に合うんであって‥‥」という意見は、まさに現場を知る人々の言葉でしょう。しかし一方で、劇場作品同等の、複雑で手のかかるキャラやメカや美術デザインをテレビに導入している作品も多く、ワークフローはどんどん端折られた低コスト傾向に呑み込まれるわりに、作品の仕様はどんどん高コスト傾向へと突き進むという、矛盾した状況も抱えています。

 

つまり、「全部のせ特製チャーシューメン」を1200円ではなく、回転寿司のサイドメニューのような350円でだそうとして、バックヤードたる厨房は大混乱し、料理するための具材の仕入れも追っつかず破綻を喫している‥‥ということなんでしょう。じゃあなぜ、「全部のせ特製チャーシューメン」を350円でお客さんに提供するような献立にしてしまったのか‥‥というと、まさにお客さんの関心を惹きたいのと、そもそも「出店」するための出資を募る際に「お店が繁盛するであろう「売り要素」のプレゼン」が必要だったから‥‥とも言えましょう。プレゼンで「ミニサイズだから350円でもイケます」なんていう言葉が被されば、居合わせた人々は「大丈夫なんだろう」なんて思っちゃったりもして、でも厨房では「350円だから大丈夫なんて話、ひとつも聞いてないよ」なんて齟齬が発生したりもして、それはもう企画時点から修羅場が見えていたりもして‥‥。

 

実現の見込みのないゴージャスな献立を打ち出して、出店して営業開始しようと企画した時点で、未来に自分らが破綻するビジョンは見えている‥‥のかも知れません。

 

 

現場に「デジタル」による「効率化」が進んで、小規模の制作母体でもアニメ制作を取り仕切れるようになった。つまり、「見かけ上」は低コストでもアニメを作れるようになり、原作をアニメ化するハードルが下がった。アニメの表現技術がこの20年で向上したことも後押しして、やがて「どんな絵柄でもアニメ化できる」と思われるようになって‥‥。

 

人間=スタッフのキャパなんて、今も昔も大して変わらないのに、技術進化で「キャパが広がった」と勘違いして、ハコだけがどんどん肥大化して‥‥。

 

あれ? これって‥‥。

 

http://yamashitamasahiro.com/archives/5683

〜より引用

景気が拡大しているにもかかわらず、
金利は依然として非常に低いまま維持されていました。

そして、安い金利で銀行からお金を借りれるので、
企業は喜んでお金を借り、そのお金を株や土地に投資するようになりました。

特に当時、土地神話というものが存在しており、
「日本は国土が限られており、土地は貴重だから価格が下がることはない、
だから、土地を買えば必ず儲かる」とまことしやかな話が信じられていました。

 

http://diamond.jp/articles/-/60475

〜より引用

なぜ、あのときバブルは崩壊したのか? 誰もがおかしいと思いながら、なぜ気づかなかったのか? 失われた20年を生み出したバブル崩壊後の世界を...

 

 

バブル崩壊の頃の日本経済や社会の様相って、「役者」を変えれば、今の「第3次アニメブーム」だなんて呼ばれるアニメ制作現場の状況・顛末に似てますよネ。

 

「なぜ、あのとき、バブルは崩壊したのか? 誰もがおかしいと思いながら、なぜ気づかなかったのか」‥‥と引用文にありますが、実は「気づきたくない」「気づくのが怖かったので気づかないフリをしていた」だけなのかも知れませんよネ。バブル当時の当事者にしても、現在の「放映落ちするかも知れない」アニメの制作現場にしても‥‥です。

 

バブル崩壊に限らず、リーマンショックもなんだか似てますネ。「サブプライムローン」を読み替えて、現在のアニメ制作現場を考えてみれば、背筋が寒くなる未来がイメージできます。アニメ業界のここ10年の状況は、「デジタルの導入によって制作効率に革新がおきた」「中小制作会社でもテレビシリーズの丸ごと受注が可能になった」「メディア展開を推し進めたい原作権利元にとって、アニメ作品制作の依頼先の選択肢が増えた」‥‥という利点とも思える点が、後々になってすべて仇となって跳ね返ってくる点で、とても「サブプライムローン」に似ています。

 

デジタルの導入されても複雑なキャラを生身のスタッフが手描きで描けば時間がかかるし、コンピュータによってアニメの工程も効率化を一部果たしたとは言え、中小企業のマンパワーや技術蓄積までコンピュータは大手並みには増幅してはくれないし、アニメ化の依頼先が増えても品質が低かったり放映落ちしたら本末転倒だし‥‥と、要は「実質を伴わない」偽装構造とも言える、まさにサブプライムローンのような様相を呈しているのが、ここ数年よく見られる、破綻しそうなアニメ制作事例の典型かと思います(放映落ちした作品はつまり、「破綻しそうな」ではなく「破綻した」事例ですネ)

 

 

原作をアニメ化したい。とは言え、作るための相応のお金は用意できていない。でも、「サブプライム的からくり」で作れるじゃないか。そして、作品が本数だけ増えて、皮肉にも「第3次アニメブーム」とか言われて‥‥。

 

うーむ。バブル崩壊もリーマンショックも、未来のアニメ業界の行く末を言い当てているようにも思います。インサイダーもアウトサイダーも崩壊するまでは一緒になって「大丈夫だろう」と楽観視していた、状況のディテールも似てますよネ。

 

 

でも‥‥です。「その時が来る」と予測できていれば、自分の動き方も変えることができましょう。「まさか」とか「ウチの業界に限って、そんなことは」なんて言う人が、阿鼻叫喚に呑み込まれるのです。「どう考えても、今の状況は異常だ」と思うのなら、周囲がどんなに平和ボケしていようと、実践が困難であろうと、別ルート、脱出ルート、突破ルートを開拓しておくべきでしょう。

 

いち個人のスタッフであるあなたが、一生懸命、作品に命を捧げたからといって、作品は単価以上にはあなたを救ってはくれず、作品に対してあなたは0.000001%の権利すら保有していないのを、自覚すべきです。作品の権利を保有する人間などごくごく少数なわけですし、どんなに作品に貢献しようが年金がでるわけでもないのです。現場の破綻や崩壊を食い止めたからと言って、未来の自分の崩壊や破綻を、作品制作組織が面倒を見てくれるわけではなく、あくまで自助努力で死ぬその瞬間まで生きていくしかないのです。

 

私は、アニメ業界の場当たり主義的な動向に巻き込まれれば巻き込まれるほど、自分自身に恐ろしい結末が待ち構えているように思えてなりません。作品制作に関わりつつも、自分の未来が破綻しない計画を、意識的に、明確に、実践していくことが極めて重要だと思います。

 

「現場は崩壊する」と言っている人々は、まさに異常な現場の状況を感じとって、ごく自然にニュートラルに分析して、「この状態が長続きするはずがない」と率直に述べているだけ‥‥なのでしょう。実際、状況が超ハードな作品に関わっているプロデューサーさんや監督さんほど、苛烈な状況を持続したままの未来の10年、20年なんて、想像できないと思うのです。

 

 

ただ、私の知るところ、テレビ放映作品であっても、準備にお金をかけて、体制も品質を重視し、相応の制作費を投入する作品も存在します。テレビ放映作品であっても、お金を集められるところは集められる‥‥ようです。ですから、「すべてのテレビ作品は乱造でやむなし」と言い切るのは、少々雑な物言いとは思います。今のテレビ作品の作り方をよく思っていない人々も一定数いて、違うドクトリンで進めようとしている人々も存在するのです。

 

 

 

今の状況、そして未来の状況は、どう判断して、どう関わっていくべきなのか。

 

判断して見極めるのは難しいけれど、お手上げしてしまったら、時代の濁流に流されて溺れ死ぬようにも予感します。アニメのスタッフはさ‥‥親方日の丸じゃないからさ。たとえ、藁をも掴む状況だとしても、その藁を掴むのは、自分の手しかないのです。

 

 

私は、一旦は作画から長く離れていた時期もあり、「昨日まで自分の人生を占有していたものが、ぱったりと途絶える」感覚を知っております。今、殺人的なハードスケジュールで猫の手も借りたい忙しさでも、未来にも等しく仕事が溢れている何の保証にも成り得ません。作業依頼が10年20年先に途絶えない保証など、どこにもないのです。

 

であるならば、業界の景気不景気なんて「一過性」の移ろいゆくものと心得て、映像制作をする人間、絵を描ける人間として、自分はどうやって生きていけば良いか、常に頭とココロとカラダで考えて行動していくほかありません。「原画マン」になったから、「作監」になったから、それで一生、生きていけると思いますか。‥‥私は、そんな少ない要素と範囲で生きていけるとは、思えません。

 

旧来技術を維持し有効に活用することも必要でしょうし、4Kや8Kの時代におけるアニメーション映像作品をイメージし続けることも必要でしょう。予知能力でも無い限り、色々な可能性を累積戦略と順次戦略で実践していくしかありません。

 

人類の営みからすれば、映像産業なんて大した歴史も無いのです。映像の技術はまだ古典として定着するには幼すぎます。「蒸気船ウィリー」からまだ100年も経ってないしネ。

 

達観することがままならないのなら、未来へ進む道に迷いながらも、思考を停止させないこと、足掻き続けること‥‥でしょうかね。

 

 


孤独死、Apple Watch

数ヶ月悩んでいましたが、Apple Watchを、結局買いました。

 

時計としてではなく、健康管理のツールとして。つまり、腕時計ではなく、ヘルスメーターです。

 

久々にテレビ作品に関わると、その制作状況の厳しさ・過酷さと制作意識の違いゆえに、身も心も痛烈な打撃を喰らいます。ココロ的には、色々な考え方があるでしょうから、ここでテレビアニメーション論をぶちまけるつもりはありませんが、カラダ的には「どうすれば健康を維持できるか」は切実な課題となります。

 

自分の健康の「標準ツール」として、何らかのスマートウォッチを探していましたが、なんだかんだ迷いつつも、結果はいつものAppleチョイス。色々と物色してみて判ったのですが、iPhoneを含めた総合的なソリューションも含めると、Apple Watchに比肩する存在はないと判断し、ここ2週間の激務も後押しとなり、いつものAppleローンで買いました。‥‥ちょうど、iPad ProとMacBook Proのローンも終わるので、購入が容易だったこともあります。

 

 

制作状況を改善できれば、健康問題も改善できる‥‥というのはあるでしょう。しかし、「制作状況の解決策」なんていう都合の良い「特効薬」は存在しないのです。様々な要因が絡みつき、現状を作り出しているので、その様々な要因1つ1つを解決していくしかありません‥‥が、「言うは易く行うは難し」です。

 

クライアントの要求を無視してキャラデザインは描けないでしょうし、制作期間がどれだけ圧縮されるかを事前に予測して絵コンテの内容を止め口パクに限定することもできないでしょう。明らかに破綻している作画の内容を見ないふりしてサイン欄にサインだけして流すことは演出も作監もできませんし、かと言って、1カットごとキッチリと修正を入れられるほどの時間的余裕はありません。野原と土管と青空を描けば済む背景美術なんてほとんどないでしょうし、どんどん圧縮されるスケジュールの余波をもろに喰らうのは最後段の仕上げ・撮影スタッフでしょう。

 

品質要求が時代とともにエスカレートして、描く内容に手間がかかって技量を要求されるようになれば、対応できる作業者の数は減り、簡単にホイホイとカットを撒くことはできないでしょうし、そもそも作画の人材不足は深刻です。デザインが複雑になって1枚絵に多くの作業時間を消費するようになっても、作業費で作業者を拘束できる時間は以前と変わらないので、速書きにより絵がどんどん溶ける傾向が強くなりますが、溶けた絵を作監が修正するにも放映までに残された時間には限度があります。かと言って、のらくろやロボット三等兵みたいな簡素にまとめた絵柄だけのアニメだけにすれば良いのか‥‥と言えば、それがまかり通る現代社会ではないです。

 

ここ最近のテレビアニメ制作事情は過酷です。複数の話数が絡み合った数週間の作業でつくずく思い知りましたが、その過酷さを抑制する術は、少なくとも私には見つかりません。

 

私の作業範囲は作画もコンポジットも含むので、作画監督も撮影監督も経験しておりますが、撮影監督をしている時には「なぜ、最近の作画は中々上がらないんだ。なぜ、ここまで後ろにズレてくるんだ」と思うようなことがあっても、実際に作画監督をしてみれば「そりゃ、上がらないって」と理由が解ります。理由は簡単で、まず、作業依頼のタイミングがすでに放映間近に迫っていますし、さらには、描く絵の内容が大変すぎるのです。

 

線の多い作品の場合(影線も含む)、マルチョンでなく、1体ごと「後の工程がちゃんと拾えるように」描こうとすると15〜20分近く時間がかかるキャラが、1画面に3〜4人いたら、1枚描くのに1時間かかるということです。そりゃあ、昔みたいにサクサク上がらないですよネ。実際にストップウォッチで描く時間を計測してみて愕然としました。

 

‥‥で、その時間を消耗する現状をクリアするために、手数を間引けば絵の完成度にモロに影響が出ますし、睡眠時間はどんどん削られていきます。つまり、品質と健康に悪い影響が出る‥‥ということです。しかし、そこまでしても予定通りに上がらない作品もあります‥‥よネ。

 

 

そうした過酷さに流されるまま流されて、健康はないがしろ‥‥というのは、数日ほったらかしでも肌がツヤツヤしている20代の頃ならともかく、40代くらいになると、確実に「死」が垣間見えます。加えて、最近は20代・30代の孤独死も増えている‥‥ともネットで報じられていますよネ。「今、何か手を打ち始めないと、確実に孤独死するな‥‥」と自覚する人は多いと思います。

 

‥‥特にさ、自分の「好き」を職業に変えてきた映像制作の人間は、歳を喰ってから孤独死する可能性はとても高いと思うんだよネ。

 

 

私がテレビ作品のお手伝いで作監を担当して得た感慨は「自分の健康」と「作品の品質」をどう保持するか‥‥です。それに尽きます。

 

ゆえに、「もう迷っている余地はない。買う。」とApple Watch Series 2 を購入した次第です。

 

 

 

「自分の健康」と「作品の品質」の2大要素は、要は「生と死」と「お金」とも言い換えられます。自分の健康に気を使う生活を実現できれば死のリスクを遠ざけることができますし、作品の品質を向上できる技量と状況を作り出せる人材となればより良い条件でお金を稼ぐことができます。‥‥とはいうものの、私は、テレビの作画に関与した場合、この2つを全うできる確固たる自信は持てません。逆に、持てる人っているのかな‥‥。必ず何かが犠牲になると思いますけどね‥‥。

 

「作品の品質」は別の機会に書くとして、「自分の健康」はどうすべきか。

 

 

まあ、とても雑な言い方ですが、「死なないこと」‥‥でしょうネ。

 

こんなことや、こんなことにならないように。

 

とは言え、人間はいつかは死にます。

 

なので、「死なないこと」とは、もう少し丁寧に言えば、「死にやすい状況に自分をハメこまないこと」でしょう。

 

でもまあ、実は、どんなに健康に気を使っていようが、結婚していようが子供がいようが、孤独死のリスクは「核家族化」が進んだ戦後の日本においては、兆しが見えていたとも思えます。

 

結婚していても、パートナーに先立たれて独り暮らしになれば孤独死の条件は揃います。子供がいても、同居していなければ、やはり突然死が発見されずに結果的に孤独死になり得ます。

 

 

ふと思ったのが、Apple Watchって、Appleのアラサー・アラフォー社員の「内なる声」も要素の1つとして、開発がスタートしたのかもな‥‥ということです。あくまで、想像ですが。

 

デスクワークが多いと座りっぱなしになります。‥‥で、デスクワークにおける病状の正式な名称はわかりませんが、「エコノミー症候群」的な体調悪化は、Apple社員でも例外ではないと思われます。くどいですが、あくまで想像です。

 

「健康管理をサポートするガジェット」としてコンピュータ開発製造を主たる業種とする会社が、社員目線で開発を考えたとすれば、合点がいくのです。Apple Watchを「時計」としてみると、バッテリーのもたない「できそこないの時計」ですが、「健康管理端末」として考えると、デスクワークの多い会社が「必要は発明の母」としてApple Watchのアイデアを想起したとして、何の不思議もありません。

 

デスクワークの多い人間が考える「あるといいな」が、Apple Watchには込められているように思うのです。

 

実際、作画机に縛られっぱなしの過酷なスケジュールのテレビ作品の作画作業において、私がApple Watchのヘルス関連の機能に注目したのは、偶然ではなく必然でした。

 

「何時間も座り続けて、緊張感と倦怠感と躁状態を繰り返していたら、いつかは、ポックリ逝くな」とひしひしと体が訴えかけてくるのですが、「じゃあ、どんなタイミングで、どんなことをすれば、身体への負荷蓄積を散らせるのか」はわからないのです。‥‥いや、多少は調べてみて「何をすべきかが何となく解って」いても、忘れがちになるのです。

 

Apple Watchは、腕に装着することは多少は煩わしいですが、「スタンド」や「深呼吸」のアプリが、「そろそろ立って、1分くらい体を動かしてみたら?」とか、「深呼吸してみない?」と、音と振動できっかけを教えてくれます。

 

私が欲しかったのは、まさにコレ。

 

 

* * *

 

仕事と生活と健康は密接に絡みついていますよネ。もし「現場を誰かが改善してくれるまで健康管理は考えない」とするならば、それは「死へのチケット」なのでしょう。

 

テレビアニメの現場制作費が3000〜5000万円になるまで健康管理はおあずけ? 人件費を圧縮することによって成り立っているとも言える昨今の制作事情を改善するには、まずはお金でしょうが、そんな簡単にお金なんて数倍に跳ねあげられるわけもなし‥‥です。

 

自分はこれからどのようなアニメーション制作を志すべきか、どのような現場を作っていくべきか‥‥という命題と、日々の健康管理は、分離して考えるのが現実的です。

 

 

私は「もし明日死ぬ」と判っていれば、あらかじめ準備していた段取りを実行するか(財産の整理や自分の死体の焼却段取りの委託)、準備がままならないのなら野山に座して死んで、肉はウジとハエとたぬきにでも喰われて体液は草木の肥やしになれば良いとも思いますが、そうはいくまい。そんなうまく逝くわけがない。

 

だとすれば、どのように死ぬか。どのように周りに面倒を見てもらうか‥‥ですよネ。

 

もっと言えば、どのようにして、自分も含めた「仲間」「戦友」の死を、死後24時間以内に発見するか・していただくか‥‥です。

 

独り暮らしの人間に限らず、誰にとっても、死は「もちつ、もたれつ」なのでしょう。結局はね。

 

かっこいい死、綺麗な死、面倒をかけない死‥‥なんて、独り暮らしでは「死んだ後の自分の始末は、自分ではできない」からこそ、何か「死ぬためのシステムネットワーク」を作らねばならんとも思います。

 

毎日触るパソコンや携帯電話・スマートフォンを24〜48時間以上操作しなかったら、仲間たちのメールアドレスにメールが発信される‥‥とか、人間を含めたネットワークとハード&ソフトウェアがこれから先に必要になってくると思うのですが、それは考えすぎでしょうか。私の危機管理の感覚で言えば、考えすぎだとは思わないんですよネ‥‥。

 

 

確かに、アニメーターやコンポジターなどの映像制作に関わるスタッフは、映像制作現場に飛び込んで、自分が好きで選択した仕事を毎日してお金を稼いで、ある意味、自由に生きてきたかもしれません。しかし、普通の公務員や会社員が想像もしないほどの辛い作業や現実も同時に味わってきたのです。

 

そして、最後は孤独死で腐乱して、「迷惑な人だ」でフィニッシュですか。‥‥私は、そんな結末を許容できません。少なくとも、自分と苦楽を共にした仲間を腐乱させたくはないです。

 

 

良い作品を作ってお金を稼いで、快適で生産的な制作現場を作る‥‥と闘志に燃えても、それは全て「生きていること」が前提です。死んだら何もできません。

 

私は制作現場で共に一喜一憂し辛酸も美酒も嘗めた同僚を過去に3人亡くしていますが、その人らが「アンタはまだ命があるんだからさ。それをうまく使いこなさないとネ。」と冗談交じりに話しかけてくるように思うことがあります。

 

テレビシリーズは過酷だけれど、自分にとって「何が大切なのか」を乱暴なまでに表に引きずり出して、「よく見ろ!」と再認識させてくれもします。

 

 

‥‥うん。よく判りましたヨ。これからの自分たちの方針が‥‥です。


釣り

さっき来たメール。

 

‥‥‥‥フィッシングかな?

 

 

MUFGカードWEBサービスご登録確認

 

弊社は、インターネット上の不正行為の防止・抑制の観点からサイトとしての信頼性・正当性を高めるため、

大変お手数ではございますが、下記URLからログインいただき、

任意のIDへの再変更をお願いいたします。

 

 

誘導する先は、mufg.onlineのドメイン、http://のセキュアなしのアドレス。

 

mufg〜三菱東京UFJ銀行の系列は調べてみると、JPアドレスのようです。mufg.onlineというドメインは三菱UFJ系列ではみあたらないなあ。

 

どうなんでしょうかネ。私は三菱UFJ系列を使ってないからわからんですけど。

 

この手のメールは、注意したいですネ。

 

 

追記:調べてみたら、フィッシングのようです。ご注意をば。「mufg」だけで判断しちゃダメよ。セゾンカードでも同じ文面のフィッシングメールが去年送られているようです。アカウント文字列(=メールアドレスの場合が多いですよネ)とパスワードの組み合わせを釣り上げる典型的な手口ですネ。


WWDC

ワールドワイド・デベロッパーズ・カンファレンス。全世界開発者会議。‥‥全世界とはいうものの、要は「Appleの開発者懇談会」みたいな内容で、新製品の発表やAppleのロードマップが示されるイベントでもあります。開発者のApple詣でのようなイベントですネ。

 

今年のWWDCで噂されるのは、iPadやiMacの新型で、様々なプロフェッショナルにアピールする8Kのディスプレイを搭載したiMacすら噂されているようです。‥‥8Kすか。ホントだったら、スゴいですネ。どんどん時代は進んでいきます。

 

4K出力が可能なAppleTVも噂され、AppleTVに限らず、時代は普通に4Kへと流れていきます。私の実家の2Kテレビはそろそろぶっ壊れる兆しがあって、買い換えるときには4Kになることでしょう。40〜50インチで10万円台前半の4Kテレビが四人家族の一般家庭の狙い目かなと思いますから(昔の37インチテレビよりも枠部分が細くなったので、同じ面積でもうちょっとだけ大画面が設置できる)、今は2Kでも次の買い替えは4Kになることはごく普通に予想されます。

 

映像の仕事には全く関係のない人でも、「2Kって近くで見てみると、そんなに細かくないんだね」と言ってるのを最近聞いて、「ああ、そういう時代になったか」としみじみ感じました。スマホの高詳細液晶ばかり見てれば、そりゃあ、37インチの2Kの解像感なんて、荒いですもんネ。

 

Apple WatchやMac Proなどの新型は、今年秋から来年だと言われているようです。実は最近、Apple Watch シリーズ2を買いかけたのですが、踏みとどまり中です。Apple Watchを常用したら、チプカシの出番がなくなる‥‥というのもありますし、そもそも私にApple Watchが必要かも判断しかねているところに、今年の秋の可能性も考えると、なかなか判断に迷うところです。実際、部屋にこもって作業作業作業作業......の毎日で、Apple Watchがあっても当座は活躍しなさそう‥‥。Suicaやカレンダー連動やMapの機能は魅力なんですけどネ。

 

 

WWDCのように、一社のイベントが注目されるのって、実はあまりないですよネ。ひと昔前は、Appleのシェアは風前の灯火なんて言われたこともありますが、見渡せば周りはiPhoneばかりだし、打ち合わせや会議ではMacBookとiPadが多いし、会社の各所に置いてあるマシンはWindowsのどこかのメーカー製でも、自分と距離が近い製品はApple製という人は結構多いんですよネ。‥‥なので、シェアの数字って、実際の生活感とはあまり結びつかない実感があります。

 

WWDCが注目されなくなったら、Appleも黄昏時なのかも知れませんが、今のところは大丈夫そうです。2017年のWWDCはどんなかな?

 

 



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