砂城

人は誰しも、「生まれ変わり」とか「死後の世界」とか、大小の差はあれ、どことなく考えているようなフシを感じます。もっと現実的な話で言えば、「自分の遺伝子」とか「相続」とか「家系」とか、自分の生まれる前と死んだ後を、誰しも少なからず考えると思います。私も、自分がどこから来たのか、そしてどこへいくのか、「血」の継承だけでなく、「知」=情報の継承も含めて、自分の遺伝子の行く末に思いを馳せることがあります。

 

でもねえ。‥‥生まれる前のことなんて全く記憶にないし、死んだら手も足も出ないし。

 

思索すると、余計、空虚な心持ちになります。

 

自分の祖先は、どの星屑だったんでしょうかね。1万年後に自分の墓石はどうなってるんでしょうね。

 

遺伝子を遡って遡り切ると、どこまで過去に戻れるんだろう‥‥とか、一生懸命家系や血筋を維持しようと努めても、果たしてどこまで継続するんだろう‥‥とか、冷静に白けて考えると、「そんな果てしないことに思いを巡らせたって、永遠(=自分の人生の期間)に理解できそうもないわ」と観念します。

 

特にね‥‥歴史の浅い商業アニメ制作に関わっていると、「現在と未来をどう切り開くか、それだけだ」と思えてくるのです。アニメ産業は200年300年前には存在しなかった、とても新しい産業ですから、移ろいやすい存在の代表格みたいなもんです。

 

移ろいやすい存在だと自覚せずに、たかだか数十年の期間の出来事を「伝統」「定番」「あるべき姿」とか思い込んじゃうから、話が面倒になるのです。アニメはまだまだこれから先変わっていくでしょうし、下手をすれば死滅もしましょう。

 

自分の存在だって、どんなに長くても100年ちょいでしょう。自分も、自分の遺伝子や家系も、アニメ産業も、そもそも文明や世界全体が、結局は「砂の城」なのかなと思うことはあります。

 

でも‥‥、砂浜に作った砂の城が、たとえ打ち寄せる波にさらわれて崩れゆくものだと解っていても、その砂の城を作るのが楽しいんですよネ。

 

人は、「これで安泰だ」とか「これが決定版」とか言いがちですが、いや〜‥‥‥そんなもん、ないでしょ。全ては変わっていくのだと感じます。‥‥というか、全てが変わってきたからこそ、自分はここに存在するし、アニメも生まれたし、アニメを生業にもできたのです。江戸時代に生まれたら、アニメなんて作れないもんネ。

 

素直に、変わること、移ろいゆくことを受け入れ、今と未来をどう生きるか、です。

 

 

過去のアニメ業界の「カンブリア爆発」をいくら懐かしんで永遠のものにしようとしても、虚しく望みのない悪あがきです。現在のアニメの作り方、例えば、After Effectsで撮影してQucikTimeで出力するのだって、20年にすら満たない「一時期的な仕様」です。全然「普遍」でも「定石」でもないです。ほんの10年ちょいの作業仕様です。

 

アニメ制作にも大きな「変動」の周期があって、日本の事情で言えば、まず「アニメを作り始めた頃」〜戦前でしょうかね。次にテレビアニメを作り始めた1960年代中頃、そして、フィルムを必要としなくなったコンピュータのデジタル映像データ時代〜1990年代後半。

 

で、今度は、そのデジタル映像データの大変革の時期です。四半世紀周期の大波です。どんなに大きな堤防を作ったつもりでも、易々と大波は乗り越えてくるでしょう。その「堤防」の概念自体が過去の基準で古いのですから、防いで防ぎきれるもんじゃないです。前の大変革の時だって、あれだけ長いこと使い続けたフィルムとセル絵具が、あれよあれよという間に実質上消滅しましたもんネ。

 

2020年代に、今までの砂の城は、一旦、波にさらわれます。普遍と思い込んで疑わなかった要素が、あれよあれよという間に実質上消滅する様子を、前回と同じように、リアルに自分たちの目で見ることになりましょう。

 

1990年代には、自分の感慨を容易に書き留めて公開するブログなんて存在しませんでしたから、ごく内輪での認識に留まっていました。でも今は、こうして「ある程度は」自分の考えを公開できます。2020年代を目前にして、四半世紀前と同じ大変動の兆しをひしひしと実感すること‥‥くらいは、このブログでも書けます。

 

でもねえ‥‥、いつでも、多くの人はのんびりしてるんですよねえ。‥‥波が見えても、おもちゃセットを砂の城から取り上げないままで、砂の城が崩れるばかりでなく、色々なおもちゃを波にさらわれて失うんですよネ。砂が波にさらわれるのは仕方ないとしても、自分のおもちゃセットは救い出して、また新しく砂の城を作るときに使いましょうヨ。

 

おもちゃセットとは、すなわち自分の技術です。そしてその技術は生きているうちに活用してこそ‥‥ですよネ。

 

 

 

 

 


予感から確信へ

ぶっちゃけ、HDRのPQは導入当初、これで本当に上手くいくのか、心の底では半信半疑でした。しかし、実際に絵作りがスタートすると、「なるほど‥‥こういうことだったのか」とパズルのピースがスパ!スパ!スパ!っと小気味良くハマって、理屈ではなく感覚で理解できます。

 

たしかにこれは、HDRの300〜1000nitsでないと出来ない表現だと、実際に見て確信できます。何だか、全てが上手くいくように感じられます。‥‥まあ、気が早いですが。

 

全てが組み合わさった時に上手くいく。‥‥バッハのポリフォニーですネ。

 

例えば、バッハの楽曲をDTMで打ち込むと、都合、1声部ずつ順番に打ち込むので、途中で演奏しても楽曲の全貌は見えてきません。ホモフォニーの「旋律と伴奏」という構成だと、旋律だけでも楽曲の雰囲気がなんとなくわかりますが、バッハの、特にフーガなどは、全てが組み合わさった時に「姿が見えてくる」のです。

 

下のYouTube映像は、バッハの「フーガの技法」。

 

 

 

4K、60p、HDR。つまり、画素密度、秒間フレーム数、そしてピクセルそのものの「質」。

 

たしかにラボの技術者の方が言われていた通り、ピクセルの数やフレームの枚数=量だけではなく、ピクセルの質まで、全て備えてこそ、新時代の映像のスタート地点足り得ることを、肌身でリアルに感じています。

 

新時代映像技術のポリフォニー編成を形成してこそ、新時代の映像を奏でることができます。

 

 

HDRといえば、驚くのは、ブラビアの9000Eクラスの民生テレビでも、オリジナルにかなり近い色でHDRの映像を表示していることです。映像のメタデータを受け取って、4K HDRテレビの「オートモード」が発動すれば、「マジすか」というくらいにPQカーブまでそっくりに映し出します。

 

9000Eは「みせしめモニタ」、つまり「民生だと絵がこんなに崩れちゃうよ」というのを予め視認するために設置しているのですが、‥‥なんだ、1000nitsのリファレンスモニタとスゲェ似てる‥‥、これじゃ「みせしめ」にならんな‥‥というのが、率直な感想です。

 

つまり、作品映像の品質をかなり維持したまま、ご家庭に届くということです。逆に言えば、誤魔化しはどんどん効かないようになる‥‥ということにもなりましょう。HDRという新時代の技術が、各世帯のテレビのバラつきを抑える「副次効果」を生み出すとは、思いも寄りませんでした。民生普及価格帯の4K HDRテレビが、作り手の情熱も苦労も伝えてくれますし、舞台裏のイロイロを曝け出すことにもなりましょう。

*ちなみに、現行のRec.709はフリーダム過ぎて、バラバラも良いところです。709の狭いレンジを、HDRの能力をもった民生テレビで「ここぞとばかりに」各社が好き放題に拡張しちゃうもんだから、あまりにも差が出てしまいます。そして、その差によって、709の一般的なアニメ作品も大きく揺さぶられて、ボロボロとアラが浮き上がってこぼれ出します。

 

でもまあ、その辺はもう、今までに色々書いてきたので、いいか。‥‥わかっている人はわかっていることですよネ。数年後にはどんどん状況が確定していくことだし。

 

 

やっぱり、頭の中だけでどんなに考えていても、限界はあります。文字で音や映像が伝えられるのなら、音楽も映画も必要ないですもんネ。

 

4K HDRのアニメーションも、映像ありき、です。HDRのモニタに自分たち自身で作った映像を見て、「こういう絵を作れば良いんだ」と予感から確信に変わることこそ、まずは必要です。

 

これは、面白いことになりそうだ‥‥と、実感することこそ、です。

 

 


ハイフンとアンダースコア

現在のアニメ制作は、たとえ紙と鉛筆で描こうと、様々なデジタルデータファイルが行き交う「データ漬け」の現場です。ゆえにファイル命名規則を曖昧にしていると、作業流通において、「余計な手間」を増やすことになります。

 

なので、私らの作業グループでは10年以上前から、「atDB」という「アニメ制作の要素の名前付け」を規定し、少なくともコンポジット周り(=撮影も含む)は命名規則を一貫して運用してきました。どんな作品でも対応できる規約を設けて、円滑に人とコンピュータが作業を進められるようにしたのです。そのあたりのことは以前にも書きました。

 

新しいアニメーション技術へと主軸を移した現在、レイアウトから編集に至るまで、すべて「atDB」の拡張版である「atDBx」で運用を始めています。

 

とは言え、こうした命名規則の効力は、あくまで自分たちが主導で作品を運用する時だけです。他の作品を作業すれば、何らかの「根拠」「都合」「なりゆき」と思われる命名規則に合わせる必要が生じます。

 

何らかの「根拠」「都合」「なりゆき」とは、結局は作品制作者当人たちの思考が原点です。考えの浅さや深さ、危険予測の甘さや辛さなど、当人たちのスキルとレベルがもろにファイル名に表れます。

 

「自動処理を作業に取り入れてなさそう」とか、「前世紀の慣習を見直さないで今でも惰性で作業を続けていそう」とか、たかだかファイル名1つで「わかる人にはバレて」しまいます。

 

特にハイフンとアンダースコア(アンダーバーとも呼ばれる)の使い方は、当人の思考がそのまま表れる際たるものです。

 

ハイフンはどういう時に使いますか?

 

アンダースコアはどんな場面で使いますか?

 

ハイフンとアンダースコアの使い分けはどのような基準ですか?

 

これに答えて‥‥

 

ハイフンは話数やカット番号や作業内容などの要素を分けるために使っている

 

アンダースコアは話数やカット番号や作業内容などの要素を分けるために使っている

 

‥‥は、まだ良いものの、「使い分け」に話が及ぶと‥‥

 

特に深刻に考えたことはない

 

その時のノリで決めた。つまり、ケースバイケース

 

ハイフンだけでは困った時にアンダースコアも用いる

 

‥‥という感じで、規約というよりは「場当たり」で使い分けている現場も相当多いのではないでしょうか。

 

「場当たりで何とかやり過ごす」というのは、まさにブラックの根源を自ら生み出す行為です。場当たりで何もかも誤魔化してやっつけてきたからこその「アニメ業界の窮状」ですもんネ。「場当たりのファイル名」はアニメ現場の悪しき習慣をカジュアルに表現したもの‥‥と言えそうです。

 

まあ、そこまで根を掘らなくても、ハイフンとアンダースコアを「名前の見た目の雰囲気」で使い分けるばかりでは、いつまでたっても効率的で合理的な制作運用の基礎は築けません

 

例えば、「atDB」では、「アンダースコアは要素のデリミタ」で、「ハイフンは要素のオプションのデリミタ」と規定しています。「区切り文字」とは言えど、明確な役割の違いを規定し、人間だけでなく、コンピュータの自動処理もその規定を軸として、制作を運用します。

 

AppleScriptなら「AppleScript's text item delimiters」ですし、JavaScriptなど他の言語ではsplitやexplodeなどで、ファイル名は簡単に要素やオプションに分割して処理できます。「空気を読めない」コンピュータで簡単に処理できる内容ですから、人間にとっても推測や経緯を踏まえなくても「いちげんさん」でもファイル名の仕組みは理解できるでしょう。

 

「ハイフンでファイル名を区切ったら、区切っちゃいけないものまで区切っちゃった」みたいな混乱は、ちゃんと区切り文字・デリミタの機能をあらかじめ考えておくことで未然に防げます。

 

ファイル名は「可視化されたメタデータ」であり、ファイル名をハイフンやアンダースコアで区切った各要素は「情報のタグ」なのです。‥‥そうした意識でファイル名をもう一度考え直せば、どのようにシンプルにして、どのように要素を盛り込むかのアイデアも浮かびましょう。

 

あなたの現場のファイル名はメタデータとして有効に機能していますか?

 

ただ単に「ファイルの名前」だけと考えていませんか?

 

ファイル名をただ単に人が目で読む名前として認識するばかりでは、効率的な運用へ発展できません。

 

ファイル名をコンピュータの都合に合わせすぎても、人が扱いにくくなって本末転倒です。

 

 

「人とコンピュータ双方が使いやすい」ファイル名を規定するのは、制作の基礎と言えます。

 

‥‥まあ、たかだかファイル名のハイフンとアンダースコアの使い方ではありますが、現場の未来を暗示する試金石のひとつと言えます。

 

 


左手と右手

私は小さい頃の習慣で、絵を描く時だけ左手で、その他はすべて一般的な右手・右利きです。小さい頃の習慣とは、そもそも私は左利きだったのですが、親が「また左手を使ってる! 右手を使いなさい!」と叱ったので、親の居る時は右手を使い、親が周囲にいない「自分の時間」=「絵を楽しんで描く時」はこっそり左利きで描いていたのが、定着しちゃったのです。

 

そのうちに、絵を描く時でも、いちいち鉛筆を持ち替えるのがおっくうになって、左手でも字を書くようになりました。‥‥が、私の中では、左手で字を記述する際は「字を書く」ではなく「字を描く」感覚なので、メモ画のト書きも、妙に図形化して、たまに自分でも読みにくいことがあります。

 

字だけを書く時には、右手だけで書くので、左手が混ざることはないです。妙なもので。

 

*左手で絵も字も描くと、こんな感じです。

 

 

言い訳になります‥‥が、左から右に記述する横書きの文字って、文字のデザイン自体が右利き合わせで、左利きだとどうしても形のバランスが崩れやすくなりますよネ。

 

で、これもさらに言い訳以外のなにものでもないですが、左手で絵を描いているイイ感じの時に、文字を書くために「右手に持ちかえたくない」というのもあります。多分、使う脳のエリアが違うので、絵を描く時には(私ごとで恐縮ですが)「右手はいらない」というキモチになるのです。

 

左手で描くと、私の頭の中の都合上、文字は図形認識になるので、書き順はメチャクチャです。図形として描きやすい書き順になります。‥‥そういうこともあって、余計、文字が図形みたいになるんでしょうネ。我ながら。

 

 

 

左手で文字を「描く」際には、漢字を思い出しながら図形として描いているんでしょうね。他人事みたいな言い方ですが。

 

「田」の場合、一番気のぬけた描き方だと、丸を描いて、中に十字を描いて終わり‥‥という、「田」というよりは「トーチカ」みたいな字(絵?)になります。‥‥我ながら。

 

自分で自分の状態を振り返って、小さい頃に左利きと右利きを混在させたのは、良かったのか悪かったかを考えてみると‥‥、まあ、何らかの影響は被っているでしょうが、「そう育っちゃったんだから仕方ない」としか言いようがないス。

 

右手で書いても文字が飛躍的に綺麗になるわけでもないですし、文字の書き順もコンピュータのキーボードばかり使うようになった現在では甚だ怪しいですし、気にするだけ無駄だと割り切っています。

 

今もっと気になるのは、漢字をどんどん忘れていることです。そっちのほうがよっぽど深刻です。受付とか、人前で何かを記述する際に、簡単な漢字すら思い出せないのは、結構恥ずかしいですもんネ。

 

 

 


人々の目は肥える

4K HDRのディスプレイモニタ、そして4K HDRの大画面テレビを毎日普通に見るようになると、目が高品質映像に自然と慣れてきます。特別な能力など必要ありません。日頃から高画質テレビを見続ければ、高品質な映像とそうでない映像とが見分けられるようになってきます。

 

最近は、ブラビアのおかげで、60fpsと120fpsまで見分けられるようになってきました。60fpsになると、それだけで緻密で滑らかな動きになるのですが、動きの微妙な僅差で120fpsの滑らかさも判るようになってきます。

 

まあ、60fps以上の判別はともかく、4K HDR 60pの映像は、誰でも自然と慣れて、それが普通になるでしょう。

 

つまり、人々の目は時代とともに肥えていく‥‥ということです。

 

アニメ業界の成果物たるアニメ映像も、未来の人々の「肥えた目」に晒されます。‥‥いや、未来と言わずとも、既に現時点で、50インチくらいの大きさがあれば、4K HDRのテレビで、アニメの制作技術における様々な品質が画面に晒け出されます。

 

どんなにセレクトブラーでグラデーションを処理しまくっても、影をマスクにしてグラデを追加しても、面倒な貼り込みを死ぬ思いでやり遂げても、線にノイズを混ぜ込んでも、作画用紙の小ささ、解像度の低さ、描線のニュンアスの欠如、そしてエコノミー作画枚数のパタパタ感は、すべて4Kテレビに映し出されます。

 

HDテレビの頃はまだ全然マシだったのです。随分とゴマケていました。しかし、去年の型落ちで13万円の49インチブラビア「9000E」でも、150〜200dpiで二値化のアニメの舞台裏があけっぴろげに透けて見えます。

 

*おいおい。この図(上の図)は、いらぬ誤解を呼ぶだろ。寸法の数値を見れば一目瞭然ですが、人物のシルエットは対比図ではないですヨ。

*ちなみに、私らの作業部屋に設置する際に、事前に「設置案」を考えたのが下の図です。だいたい、対比はこんな感じです。ProcreateとiPadがあれば、思いついたメモをそのまま画像データとしてスタッフと共有できるので、楽チンですネ。

 

 

一方、ちゃんと4K相当の画質を有した絵なら、そのまま、綺麗に繊細にニュアンス豊かに、4K HDRテレビは映し出してくれます。映像制作の苦労が報われたい人々にとっては、頼もしい味方になってくれます。

 

要は、素材の状態を結構そのまま映し出して、隅々まで克明に描写しちゃうのが、2020年代の4K HDRテレビです。

 

 

「地デジ化」の頃に買い変えた各世帯のテレビは、そろそろ寿命をむかえます。つまり、再度、買い替えの時期がやってきます。実家のアクオスは今年元旦早々壊れましたし。

 

ホントに人間の感覚は贅沢で、4K HDRテレビで4K HDR映像を見た後では。2Kはぼんやりと輪郭が甘くボケてRec.709の映像はくすんで暗く濁って見えます。

 

ドルビービジョンは、100nitsでRec.709色域〜つまり現行放送の色域を「ワーストケース」として最下位に捉え、規格上では10,000nitsを上限としたHDRの映像技術規格を規定しています。まあ、現実的は1000〜2000nitあたりを最大値とし、最低値を709の100nitsと定め、上位下位のメタデータ値によって「可変」で対応する技術のようです。

 

HDR(2020、2100)とSDR(709)のモニタを並べて見比べると、それはもう、無残。

 

いかに709時代がナローだったか、思い知らされます。

 

その「思い知り」は、映像技術職とは無縁の人々でも、実感できるでしょう。買い替えによって家庭に設置されて、見れば見るほど、今までとの違いに慣れ、もう昔には戻れなくなります。

 

ちなみに、ブラビアの9000Eは、500nits前後のようです。同僚の技術スタッフが色彩計で計測した実測値です。

 

 

 

何度も繰り返しますが、旧来アニメ制作技術のネガティブキャンペーンを張ろうというわけではないのです。今までのアニメの作り方では「時代についていけなく」なってヤバいのを、誇張なく、率直に書き記しているに過ぎません。進み続ける時代から見れば、技術が停滞した現場はたとえ現状維持に努めても、どんどん過去に遠ざかっていくように見えるのです。

 

近代化・現代化って言っても、何から手をつけたら良いか判らない‥‥というのなら、妙にスケベ心など出さず、「手のつけられるものから」が良い‥‥んだと思いますヨ。

 

できないことを無理してやっても収穫を得られずブザマなだけです。大風呂敷を広げて威勢を張っても、おちゃらけて巫山戯て見せても、動揺しているのが逆に際立つだけです。

 

私は、今から10年以上前のことですが、Mac G5が登場していたにも関わらず、自己資金の限界ゆえにMac G4で新技術の開発をスタートしました。高い機材を無理して自腹で買ったところで、相応の技術を持たなければ目標は達成しえないことを知っていましたし、当時の私のメインはPowerMac8600を無理矢理G4に改造したものだったので、生粋のG4に買い替えただけでもかなりの高速化を実現できました。そして、そのG4で随分とノウハウを得ることもできました。

*当時買ったMac G4は「ミラード・ドライブ・ドア」とか呼ばれるモデルで、16万円台で買えた最後の最後の底値のモデルでした。そして買い取り時はDTP御用達とかで10万円で売れて、一番コストパフォーマンスの優れたMacでした。

 

2018年の現在なら、Mac miniクラスのPC、Apple Pencilを使える何らかのiPad、安価な4Kモニタ、Adobe CC。それだけでも4Kの開発は十分スタートできます。できないというのなら、それは単に当人の「開発の才能」の有無だけです。

 

何もできない人間やグループに、周囲が興味を示してチャンスをくれるはずもないのです。「いつまでたっても、チャンスをくれない」っていうのは、そもそも‥‥まあ、いいか、これは。

 

ともかく、本気こそが大事ですよネ。4Kに本気を出さなきゃ、4Kのチャンスなんて巡ってくるわけもないのです。

 

 

未来の目が肥えた人々に対して、「綺麗」「美しい」「かっこいい」と言わせるアニメを、私らは作りたいです。ノスタルジーだけに望みを託すのではなく‥‥です。

 

 


風、共時性

先日、ドルビービジョンのお話を東銀座で聞いてきました。私らの作品制作技術の未来に深く関わる内容でしたが、より一層、自分らのロードマップと未来の動向が合致していることを確信しました。

 

新しいアニメーション技術は、ドルビービジョンをはじめとして4K HDRテレビや4K配信など、未来の高品質映像技術やインフラと、非常に親和性が高く、有利なことばかりです。「時代が味方してくれる」という感覚は2000年を迎えた頃にゾクゾクと身震いするほどに感じていましたが、それ以上の実感があります。

 

一方、2K SDRの現在のアニメ制作ではオーバースペックな要素ばかりです。従来のアニメ制作技術のままでは、むしろ現場の労働条件に対して、さらに過酷で困難な高いハードルになりかねません。‥‥というより、確実になるでしょう。アニメ業界の現在の主流派と未来社会の映像技術が、どんどん距離が離れて乖離するのを感じている人もいるのではないでしょうか。制作技術の開発面でも、機材調達の資金面でも、そして人員雇用の社会的な面でも。

 

主流派、多数派かどうかなんて、ハッキリ言って、何の未来の確約にもなりません。「時代=風」の流れゆく方向に、シンクロしているか否かがカギを握ります。

 

たとえ当初は草分け的存在で少数派でも、世界規模の映像技術開発の様々な要素が「追い風」になって、どんどん加速する勢いは、前世紀末の20年前にも等しく体験しました。

 

1990年代後半、彩色以降をコンピュータで作業してコンポジットしてオンライン編集する取り組みは、少数派も少数派で、「ほんとにそんなのモノになるんかね」と遠目で見ていた人々が主流派だったのをはっきりと記憶しています。「フィルムとセルがなくなることなんてあり得ない」なんてタカをくくっていた人々を尻目に、世界の映像技術はどんどんデジタルデータ基盤へと移り変わり、アニメ業界も2004年以降から次々と尻馬にのるようにセル用紙とセル絵具とフィルムと撮影台を捨てていきました。

 

その時の多数派の意見や行動は、今は「なかったこと」になってますがネ。

 

思うに、多数派は王道、少数派は邪道‥‥という意識が、特に日本では支配的なのです。他者への配慮を重んじる国民性をもつ一方で、全体主義的で、突出すること・抜きん出ることをこき下ろす国民性も併せ持ちます。「応用はできるけど発明はできない」と言われる由縁でしょう。加えて、主流=親方が入れ替わったら、さっくりさくさく、過去のことは忘れて、新しい主流に鞍替えする「調子の良さ」も日本人の特質ではあります。

 

 

アニメそのものが時代によって生み出され、時代とともに歩んできたのであれば、時代に追随できなくなった時、過去に置き去りにされることを意味します。

 

「人々がアニメを見捨てるわけがない」‥‥というのは、ロードマップというよりは「願望」でしょう。「願望」に未来を預けるのは、まさに「キモチだけで戦争が勝てる」と思い込んでいた非合理的な70年前の戦中日本国民の姿です。

 

20〜30代の人は、自分の20年後の姿を思い浮かべれば、今何をすべきか、今何を耐えるべきかが何となくでも想像できるでしょう。現在の現場から学び取れるものは、耐えてでも学び取るべきです。しかし、ずっと現場で耐え続けて、無理心中する必要はないです。

 

一方、ベテランは、自分と一緒に「過去の思い出と心中」してくれる人を沢山集めて嬉しがるんじゃなくて、むしろ、自分の技術を若い人に託して、背中をポンと押して「新しい時代とともに歩め」と送り出してあげるくらいの度量を持つべきだと思いますヨ。

 

まあ、個人の死生観に関わることなので、人それぞれが自分の未来を決めれば、それで良いとは思います。ただ、前述したように「多数派が王道」だから「正しく勝利への道を歩んでいる」と考えるべきか‥‥は、「日本の8月15日」をよく思い出せばよく判ることですよネ。多数派だろうが、少数派だろうが、「自分を信じ、自分を疑う」ことは常に必要な行動基盤だと思います。

 

 

私は、長年の経験、および、様々な「戦史」からのフィードバックで、「決め手がいくつも揃っていない時は負ける」と考えています。「いくつもの決め手」が準備完了していない時点では苦渋と辛酸を舐めようと耐えて待ち、むしろ準備に時を使うのです。


しかし、自分たちの行動だけでは、「いくつもの決め手」は揃いません。高機能・高品質化&低価格化した4K HDRテレビ、ネット配信、HDR10やドルビービジョン、HLGによる公共テレビ放送、高品質なスマホやタブレットの普及、雇用問題に対する意識、VR/AR、AIなど、様々な技術の発展や台頭が、あたかも自分たちの欲していた「決め手」のように出現して近接するのが、まさに「共時性・シンクロニシティ」です。

 

旧来アニメ現場のアニメ制作技術が、世界規模の技術発展との共時性を急速に失いつつあるのを、分析力のある人なら、既に認識しているでしょう。旧来アニメ現場においては「過去の決め手」よりも「現在の弱み」のほうがどんどん増大しているのを、日々の作業で感じている人も多いのではないですか。旧来アニメ現場には未来を勝って生きる「決め手の数が少な過ぎ」ます。「デジタル作画」「オンライン制作システム」を生き残るための「決戦兵器」とするばかりでは、負けは確定したようなものです。

 

共時性は「発展」方向だけでなく、「衰退・破滅の共時性」というのもあるのですヨ。アニメ業界の総意は「桶狭間と、ひよどり越と、川中島とを併せ行うの已むを得ざる羽目に追込まれる次第」なのでしょうかネ。

 

しかしアニメ制作技術と制作技術グループはすべてが旧来依存・過去の決め手に頼りきっているわけではありません。現用・最新、そして未来の技術を自分たちの「追い風」としながらも、決して机上の空論ではなく、自分たちの日々の作業で身の丈で活用して、「技術体系」として確立すべく行動しているグループも存在します。

 

 

時代はつかみどころのない「風」のようなものです。「風」とはWikipediaによると、「場所による気圧の不均一を解消しようとして発生するのが風」「気圧の不均一・気圧傾度力が大きいほど、風は強くなる」とのことです。‥‥言いえて妙‥‥ですネ。

 

その「風」を自らの帆にはらんで、発展の共時性と共に、未来を一歩ずつあゆむ。

 

考えてみれば、何も難解なことはなく、むしろ、シンプルで明快なこと‥‥ですよネ。

 

 

 


デジとアナ

デジタルという言葉は、Wikipediaによれば「離散量」、‥‥何だか難しげな言い回しですが、つまりは「連続していない」「非連続」を表現する言葉です。中間値を持たない「0」と「1」の組み合わせだけで全てのデータを形成するのが、現在のコンピュータの基盤です。

 

なので、「コンピュータの別名がデジタルというわけではない」です。「YESか、NOか、白黒ハッキリしろ!」という考えの人は、デジタルな思考の人間とも言えますし、「YESかNOか、簡単に割り切れることなんて、この世にほとんど存在しないよ」という考えの人は、アナログな思考の人間とも言えます。アナログは「古い」という意味と同義語じゃないですヨ。

 

デジタル・アナログの意味もわきまえず安易に用いると、本当にデジタル・アナログの意味で語句を用いたい時に、結構、面倒なことになります。

 

 

戦国時代劇や忍者モノとかでたまに見る「のろし」は、昔のデジタルデータ伝達と言えます。のろしが上がれば「GOサイン」。のろしの煙の微妙なさじ加減は問わず、のろしがあるかないかだけでYESかNOかを遠くの人間に伝達するのですから、「のろし1本が1ビット」と言えます。

 

しかし、複雑な状況をのろしで表現しようとして、のろし100本をあげたら、のろしの煙が混ざり合って判別できなくなります。無風でまっすぐに煙が上がる時、そしてのろしの間隔を正確に保たないと、伝えたい内容が伝わらないことになります。つまり、のろしだけでなく、のろしを上げる空間の状態も問われるわけです。

 

現在のデジタルデータも似た状況に陥っています。デジタルデータは本来、アナログの品質を問わないのが、売りの1つでした。微妙な中間値を伝送する繊細な品質保持ではなく、ON/OFFの極端な値を組み合わせてデータを形成するので、伝達の欠損を防ぐことができるのです。

 

しかし、伝達するデータの量が格段に増大すると、アナログの電気信号伝送品質も問われるようになります。

 

現在、私らは4K HDR、そして60p以上の基本仕様による、アニメーション制作技術を進めていますが、ケーブルの品質に度々悩まされます。

 

ケーブルを流れる電気信号そのものはアナログです。アナログ伝送線の中を、デジタルデータが超々高速で駆け巡るのですが、10Gbpsのネットワークケーブル、そして40GbpsのThunderbolt3ともなると、アナログの伝送特性における品質が極めてシビアになります。特に、Thunderbolt3はネ。

 

従来とは比べものにならない伝送速度を実現するため、たとえ伝搬するデータの基盤がシンプル明快なデジタルデータであっても、電気信号を伝達する材質やノイズ干渉対策が必要になります。同僚と「また、アナログの品質を問うフェイズに戻っちゃったね」と話すことも最近は多いです。

 

こうした状況に限らず、様々な映像制作の現場において、真の意味でのデジタル・アナログの違いを理解できていなければ、「デジタル」の語句で表現している意味の根本が理解できません。「デジタル=コンピュータ」で「アナログ=古い時代の何か」と言う誤った認識のままでは、アニメ業界のスタッフはいつまでたっても、新時代技術のテーブルの前には座れません。

 

 

未来はデジタルデータの洪水の中に‥‥、いや、今でもすでに洪水の中ですが、より一層、洪水の中で生きることになります。そんな時に、「デジタル何々」とか言っているレベルでは、様々な問題にブチ当たった時に、まさに「頓珍漢」な問答を繰り返すばかりになるでしょう。

 

コンピュータ関連の知識、デジタルデータの基礎知識は、もはや「映像制作における公用語」なのです。

 

どんなに昭和生まれのベテランが、「俺は紙と鉛筆のアナログな人間だから」と言っても、描いた絵はデジタルデータに変換され、映像デジタルデータとなって社会に公開・販売されるのです。誰かが操作するコンピュータとデジタルデータによって助けられ、成立しているのを忘れてはいけません。

 

「公用語って言ったって、誰も教えてくれないし」‥‥とベテランのアニメーターが言うのなら、「技術は教えて貰うものではなく、自分で学び取るものだ」とは決して言えなくなるでしょう。作画の新人の指導に用いる言葉は、こと、コンピュータやデジタルデータの知識や技術の習得において、自分自身に跳ね返ってきますヨ。

 

「勉強会」を開くのなら、PhotoshopやAfter Effectsの使い方のレクチャーも有意義とは思いますが、同時に「ビット」とか「データ構造」「ネットワーク」のレクチャーも有意義かつ必要不可欠です。

 

なまじ、PhotoshopやAfter Effectsの使い方「しか」覚えないから、「デジタルTU」とかタイムシートに書き込んじゃうんじゃないですかネ。デジタルの意味、デジタルデータの組成、コンピュータの仕組みを覚えれば、「デジタルTU」なんて珍妙な用語は恥ずかしくて使えなくなると思いますヨ。

 

 

コンピュータって、電気を一切使わず、木材だけでも作れるんですよ。紙製のフライトコンピュータというのもありますよネ。そろばんって、駒を「上と下」に移動する「1ビット」動作の繰り返しですしネ。西洋音楽の楽譜は、1オクターブを12分割する時点でデジタルと言えます。Cシャープのさらに半々音上のシャープって、記譜できないですもんネ。フレットのないバイオリンはアナログな無段階調、フレットで区切られたギターはデジタルな有段階調とも言えましょう。

 

アナログとデジタルの本当の意味を知れば、「トーンジャンプに何度ブラーをかけても消えない」なんて素人みたいなことは言わなくなるでしょう。コンピュータを毎日使って仕事をしてお金を稼いでいるのに、「ビットの組み合わせ」の仕組みすら知らないままでは、いざ、10bitだ12bitだという会話が生じた際に、ついていけなくなります。高度な専門知識は、まさに専門分野の人間の独壇場でしょうが、コンピュータの基礎知識は前述した通り、「映像作りの公用語」というべき「映像制作のいろは」です。

 

 

アナログの上のデジタル、デジタルの上のアナログ。アナログだと思っていたデータが実はデジタルだった‥‥とか、デジタルデータの伝達手段がアナログに大きく依存していた‥‥なんてことは、やまほど、そこらじゅうにあります。

 

つまり、両方の特性を理解して、片方だけに妙に偏重・偏向せずに、バランスを考えて上手に活用するのがよろしいのだと思います。

 

 

 

 


夜明け前

今までの役職ありき、今までの工程不動のままで、「デジタル化」を導入するのは、業界にありがちな傾向です。しかし、その「デジタル」の実体=コンピュータ機材やソフトウェアやネットワークの本来の「ポテンシャル」を有効に活用できるか否かは、必ずしも今までの役職や工程を踏襲するだけでは「YES」「TRUE」とは言えません。

 

今まで役職名や作業項目の先頭に「デジタル」を付与する行動、すなわち‥‥

 

デジタル演出

デジタル作画

デジタル美術

デジタル彩色

デジタル撮影

デジタル編集

デジタル制作

 

‥‥なんていう命名は、コンピュータの有効活用の是非よりも、今までの慣習に染まりきって思考停止した人々の姿が浮かび上がります。

 

そのうちに‥‥

 

デジタルカット袋

デジタル作画用紙

デジタルタップ

デジタル修正

デジタル差し替え

デジタルリテーク

デジタル納品

 

‥‥と、何でもお構いなしに「デジタル」を付与するようになるかも‥‥知れませんネ。

 

さらには、子育て家庭で「在宅ワーク」が導入され、サーバにアクセスして作業を開始したログが記録されると‥‥

 

デジタル出社

 

‥‥とか言い出しかねませんし、コンピュータやiPadやスマホで、音声や映像のチャットで打ち合わせをするのを‥‥

 

デジタル打ち合わせ

 

‥‥とか言い出して、さらには、何かをやらかして、サーバにアクセス禁止のパーミッション設定処置を取られたアカウントのユーザは‥‥

 

デジタル出禁

 

‥‥とか言うようになるかも知れませんネ。

 

まあ、安易に「デジタル」を使うことが、どれだけ「幼い」行為であるかが判ろうと言うものです。

 

 

 

私が本格的にコンピュータを導入したアニメ制作に関わり始めた1990年代後半、「デジタルアニメーション」と命名されて紹介されていました。そのネーミング自体が、コンピュータ導入の黎明期、「夜明け前」、「技術が幼い頃」の象徴だったと思います。

 

20年が経過した、2018年の今。

 

まだ「デジタル何々」なんて言ってんのか。長いなぁ‥‥。

 

つまり、いつまで経っても、アニメ業界の「次の日の朝」は明けない‥‥ということでしょう。

 

 

 

別によくないですか? コンピュータを使おうと、「作画」「演出」の素のままで。

 

Adobe CCがあれば、PhotoshopもAfter EffectsもIllustratorもPremiereもAuditionも全部使えますし、無償版のDaVinci Resolveだってありますよネ。それらソフトウェアを使って、映像を作れば良いことです。「デジタル」なんて言葉は、どこにも必要ありません。

 

映像だけでなく音にアニメ映像を合わすのだって、After EffectsやDaVinciに音声データを読み込んでタイムラインに並べて、波形の形と実際の出音に合わせりゃ良いだけだし。‥‥難しいことなんて、何もないでしょ。むしろ、以前より格段に簡単になりましたよ。

 

何でも「デジタル」を語句の先頭に据えたい人って、何をもったいぶって、自らめんどくさく、遠回りしようとしてるんでしょうかネ。

 

 

 

「人の一生は重き荷を負うて 遠き道を行くが如し 急ぐべからず」

 

コンピュータを主軸に据えたアニメ制作の道のりは、まだまだ未来へ続きます。「デジタル」の語句で事を済まそうとする光景も、淘汰の潮流の中に消えゆく情景の1つだと思えば、それはそれで、傍観してれば良いんだな‥‥と思います。

 

「デジタル」なんていう語句に惑わされることなく、未来への道を一歩ずつ、踏みしめて参りましょう。

 

 


120コマに思う

前日、ソニーの民生テレビブラビア「9000E」を作業場に設置したのは、前回に書いた通りです。あくまで「比較対象=民生で映すとこうなる」的なモニタ=チェックモニタではないので、部屋の面積の都合もあり、支柱を組んで高い位置(バーのパブリックビューイングみたいな)に設置しました。4Kの機材はとにかく今はお金がかかるので、テレビは安く調達したかった‥‥ということもあり、2017年の「E型の49インチ」を導入しました。

 

*9000番以上は、「直下型LED」なので、そこは踏まえて機種選定しました。

 

 

2017年型のブラビアと言えども、120フレーム補完の滑らかさは凄まじく、2Kのブルーレイはもちろん、iMac Proから出力するThunderbolt3 to HDMIのYouTubeやQuickTime Player映像まで、どんどん120フレームに補完する機能は、もしかしたら近い未来の「お茶の間のテレビ」の標準的な姿かも知れません。

 

いかにもフレームレートの低いYouTubeの低品質モード(15fpsらしき)の映像も、滑らかに再生してチープさが軽減されます。以前作った24コマフル、60pフルモーションのアニメーション映像も、120fpsに補完され、非常に滑らかに上映されます。

 

60fpsと120fpsは、ほとんど差がわからなくないほどの僅差ですが、見慣れてくると動きの違いが解るようになります。1秒間で60枚の絵を作り出す60fpsのアニメーションならば、「怪しい補完画像」も生じにくいので、円滑に補完機能が動作するようです。

 

ぶっちゃけ、「当分の間、120fpsはテレビに任せられる」と思うようになりました。わざわざオリジナルで120pを作らなくても、「オリジナルがフルモーション」ならば、相当イケます。

 

 

一方、旧来のアニメ作品は「不利」になります。「あくまで、フレームレートに対してフルモーションが必要」なので、3コマ作画=「8fps ON 24fps」とか、2コマ作画=「12fps ON 24fps」では、フレーム補完機能は「気持ち良い感じに処理してくれない」のです。カメラワークはフルモーションゆえに120fpsに補完されますが、その中で動くキャラのセルは8fpsのままで動く‥‥と言った具合に、それはもう「ちぐはぐ感」が凄いです。

 

さらにもっと不利なのは、60〜120fps映像と24コマベースのアニメとの大きな落差です。私らの作業部屋ではブラビアとEIZOのモニタが併設されているので、24fpsのアニメ映像を両方のモニタにミラーリングで映しだすと、ブラビアでは120fps補完される一方、EIZOではオリジナルの24fps映像がそのまま映し出されるので、落差が誰の目にもハッキリと識別できます。

 

24コマって、こんなにカクカクしてたっけ‥‥と、皆、唖然となります。

 

実写の映画も24コマベースなのですが、アニメとの大きな違いは、「天然のモーションブラー」です。速く動く被写体は、像が流れてボケるので、24コマでもフリッカー感を抑えてマイルドになるのです。

 

しかし、アニメには天然ではモーションブラーは入りません。意図的にモーションブラー風のエフェクトを追加しない限りは、全てのエッジがシャープなまま動きます。24コマ程度の秒分解能では目に残像が残るので、フリッカーのようなモーションになるのです。

 

特に、縦の線が横方向に動くのは、昔からアニメの苦手なシチュエーションでした。映像の中で像を書き換える速度=リフレッシュレートが低いと目に「残像の輪郭が残った」ように見えて、カクカクカクカク、、、、と不快な映像になるのです。

 

 

1本であるはずの棒が、モーションブラーのない状態だと二重像に見えます。これは1秒間に24枚しか画像をもてない24コマ・24fpsの宿命です。24コマの実写映画でも、故意にシャッタースピードをハイスピードにしてブラーの幅をできるだけ少なくして撮影すれば、似たような「フリッカー感」が生じますが、それを逆手にとって映像表現スタイルへと昇華したのが「プライベート・ライアン」の冒頭のオマハビーチの上陸戦闘シーンですネ。

 

 

24fps、12fpsは、ブルブルカクカクパタパタと、残像が不快に目に残ります。一方、モーションブラーで動く方向にボケていると、輪郭がソフトになって「フリッカー感」が抑えられていますネ。

 

そして、むしろ、3コマシートまで動きがカクカクすると、フリッカーというよりは何だか可愛い動きに見えてきます。‥‥まさにそれが、現在の日本のアニメを支えている「制作技術上の命綱」です。3コマのファニーな動きに助けられて、商業アニメは成立していると言っても言い過ぎではないです。‥‥制作者当人がハッキリ自覚しているか否かは別としても、です。

 

 

近い未来、120fpsの動きに何の拒否理由も抵抗感もなく、普通に馴染んでいく世間の人々は、「現状の日本のアニメ技術の成果物」をどのように捉えるようになるでしょうか。

 

他の番組と比べて、なんだかパタパタと動いているけど、それはそれでアニメっぽい味だ

 

アニメだけがパタパタカクカク動いていて、チープで古めかしい

 

‥‥どっちなんでしょうね。

 

私の現時点での考え‥‥ですが、どちらか?ではなく、両方の印象で曖昧に受け取られつつ、旧来のアニメは許容されつつ、映像技術世界においては確実に古くなっていくと思います。

 

 

どんなにチャップリンがサイレント映画で愉快なパントマイムを披露しようと、メトロポリスがその後のSFに多大な影響を与えていようと、白黒、サイレント映画、画質の粗さの時点で、「今、古いものを見ている」という感覚的な実感はぬぐえません。作品性が不動の輝きを失わなくても、映像品質における技術性はどんどん「過去のもの」「昔のもの」に変わっていきます。

 

120fpsが何が何でも素晴らしい‥‥と「新しもの好きの馬鹿」になろうというのではないのです。世間が新しい技術に「徐々に段階的に、そして確実に」塗り替えられていく事実に対し、映像制作者の一員であるアニメ制作者はどのように対峙していくのか‥‥ということです。

 

チャップリンは「トーキー」=音付きの映画(今ではあたりまえのことですが)に、反発していたようです。「映画は音がないから素晴らしい」のであって、音が付くと「演者の演技の動き」が音によって邪魔されて制限される=音やセリフがないから演技で表現していた「芸術性」が台無しになる‥‥と考えていたようです。

 

2018年の今になって思うのは、「技術に対する強い自信から、プロフェッショナルな人間ほど、固執して先見性を欠く」ということです。

 

トーキーにおいても、サイレントの技術は応用できることに全く気づけず、サイレント最高!トーキー最悪‥‥と、サイレント時代の大御所のプロほど、柔軟に対応できなかったのかも知れません。むしろ、観客たちのほうが感覚的に受け入れていったのでしょう。何だか、これからのアニメ制作の顛末を暗示しているように思えます。

 

日めくりカレンダーにあった‥‥

 

正しいと思うことでも

固執すべきではない

 

‥‥という一節は、その通りだな‥‥と思います。

 

 

自分の技術に強い自信をもつのは良いことだと思いますが、その技術に固執し始めたら、柔軟性が失われて「硬直」が始まることも絶えず自覚すべきでしょう。

 

アニメ技術を死なせて薬漬けにしてミイラ化したいのなら話は別ですが、時代とともに歩もうと思うのなら、120fpsに対しても柔軟で多角的な視野をもつことが必要でしょう。

 

まあ、アニメの技術を、ロザリア・ロンバルドちゃんみたいに綺麗にミイラ化したい‥‥と思う人もおりましょう。

 

私は、春夏秋冬、命のサイクルから学んで、「現・肉体」は滅んでも「遺伝子」は生き続けていく道を選びます。日本が培った、日本ならではアニメ制作の技術は、タイムシートやタップ穴ではないでしょ?

 

どんな絵を、どんな風に動かして、どんな作品を作るか。それこそがアニメ制作の「知の遺伝子」だと思います。

 

「SD・HDで24コマでSDR」の肉体は滅んでも、「4K8Kで60〜120pでHDR」の新たな肉体でアニメ制作の遺伝子が受け継がれれば良いのです。少なくとも私はそう考えます。

 

まあ、私自身のリアルな話で、どうやら私は自分の「血の遺伝子」は残せそうもないので、余計に「知の遺伝子」を残そうと行動するのかも知れません。そのあたり〜「自分の逝く末に対する感慨」は人それぞれでしょうが、そんな私だからこそ、「血」ではなく「知」を残そうと明確に意識できるのだ‥‥とも思っています。

 

 

あれ? 120fpsの話がズレましたネ。

 

でもまあ、新しい技術と対峙した時に、当人の反射的な反応は、結構リアルに象徴的に、当人の状態を表すのは確かです。

 

アニメをミイラにしたいのか、アニメを時代とともに生かし続けたいのか。

 

あなたはどっち?

 

 

 


プロクリ

Procreateをプロクリと呼ぶかは知りませんが、最近、Procreateでかなり大きな機能追加アップデートがありました。

 

ディストーションツールの充実、対称描画機能、描画アシスト機能の実装(以前は有償のお試し機能だった‥‥はずです)、ジェスチャーのさらなる高機能化など、「どんどん絵を描きたくなる」機能が追加されました。

 

デザインなどをしていると、特にメカ系・小道具系は、左右対称部分もそれなりに多く、SkecthBookのような対称描画の機能がProcreateにもあったら良いな‥‥と思っておりましたが、メッシュ系のディストーションツールと一緒に実装されました。私にとって、タイムリーなので、余計嬉しいです。3面図などを描く際に役立ちます。

 

初代iPad Pro、今年の無印iPad(=Apple Pencilが使える)でも、普通に動作しておりますので、Procreateをお使いの方はオススメ‥‥というよりは、勝手にアップデートされても、全然OKな内容なのでオススメです。

 

アップデートすることで、どんどん使い勝手がよくなる勢いのソフトウェアって良いですネ。私はPhotoshopは2.5、After Effectsは3.1から仕事で使い始めましたが、その頃は毎回アップデートやバージョンアップが楽しみでした。今から考えれば、タイムリマップも16bitモードもないAfter Effectsなんてどうすんのよ?‥‥と思いますが、それは後の時代の考え方で、黎明期や草分けの頃は、ソフトウェア・ハードウェアの進化と共にできることを増やして、作り方の考え方や意識も共に変わっていったのです。

 

その頃のワクワク感が、Procreateや4K HDRには等しく含まれています。時代とともに進化する勢いって、大切だなあ‥‥としみじみ実感します。

 

昔の流儀に縛られて、新しい技術を古く使おうとする人々もおりましょう。でも、それはそれで、技術の使いかたにおける、言わば「市場原理」でもあります。新しい何かが新しいと判別されるためには、依然として古い何かの存在も「比較対象」として必要なのです。

 

新しい何かを知覚するために、古い何かが存在する‥‥というのは、他者との比較ではなく、自分自身にもあてはまることです。それは人間だけでなく、ソフトウェアも同じでしょう。Procreateは、まだまだ「過去の己をどんどん更新できる」伸びしろを感じます。そのソフトウェアの「伸びしろ」によって、使う側も勢いが加速するとなれば、痛快ですね。

 

昨日、私らの作業部屋に50インチの4K HDRテレビを、CG-318-4Kや319Xと併設するカタチで導入したのですが、ソフトウェアだけでなくハードウェアの「自己更新」も年々凄くなってるのが判ります。テレビはあくまで「ご家庭の一例」を目で「みせしめ」的に確認するためで、チェック用途ではないですが、それでも技術の進歩を痛感せずにはいられません。前にも書きましたが、いまどきのテレビの「120fps機能」はオリジナルがフルモーションであれば、相当綺麗に補完するので、120p時代を待たずに120fpsの世界を垣間見ることができます。

 

*4K時代において、映像のクオリティチェックにはCG-319Xクラスのモニタはどうしても必要です。‥‥高いけどネ。民生テレビ(=普通のテレビのことです)はどんなに綺麗でも映像制作の基準にはなり得ません。「4Kテレビでリテーク出し」するのは絶対にNGです。2K以前もそうでしたが、基準にならないモニタで基準を得ようとする行為は、当人らの知識と見識の幼さそのものです。しかし一方で、民生テレビを併設することで「ご家庭でどんなことになっているか」を知るのは有用です。道具は使い方をわきまえることが重要‥‥ということですネ。

*ちなみに1000nits出せるプロミネンスは300万、X300は460万ですから、CG-319Xは60万でもお手頃価格‥‥なんですヨ。

 

4K、HDRのPQ、そして60pや120pと、全ての要素を満たしてアニメ制作に取り組めば、旧時代と比して見た目の変化だけでなく「アニメには広がりがまだいっぱいあったんだ」と意識から変えられるのびしろがあります。手で描いたナマの絵をコンピュータで動かす未来の技術を獲得すれば、いくらでものびしろがあることを確信できます。

 

新しいソフトウェア技術を古く使うだけが能じゃないのです。クリスタもプロクリもiPadもCintiqも、MacもWinも、新しく使ってこそ‥‥です。

 

新しい技術の足場があれば、Procreateで絵を描けば描くほど、アイデアが湧き出ます。「これもいける。あれもいける。」と、とどまるところを知らず、絵を描くことの本来の楽しさが仕事に直結し、新しい4K HDRの60p120pの映像技術とともにどんどん加速します。加えて、個人の「生産能力」の限界すら突破し、動画1枚何円で描いていた「細切れの報酬」待遇から脱出することも可能になりましょう。

 

3DCGアニメーターが20万円後半の固定給で、なぜ従来作画のアニメーターが「完全出来高」なのか、ちまたの募集要項を見かけると、作画出身者の私としては沸々と強い憤りを感じる一方で、「動きのキーだけ」「線画の動画だけ」の作業範囲ではそりゃあ買い叩かれもするだろう‥‥とも思うのです。こと、動きに関して、1人のアニメーターが最初から最後まで完結できないがゆえに、散々なまでに報酬が細切れ状態となっている「昔のやりかた」の限界を感じます。

 

未来のアニメーターは、レイアウトからカメラワークがついた全体の動きまで、つまり、動きに関わる最初から最後まで、1人もしくは2人(手分けした場合)で完結できるべきです。旧来の技術では作画と動きに関する要目が、レイアウト・1原・2原・動画・タイミング撮と分断され、しかも動きは1枚ずつ描いて作業‥‥では、どうやったって報酬は細切れにしかなりませんもんネ。動きの技術視点で考えれば、全体を制御できるわけではないですから(実際、アニメーターはカメラワークの弱い人が多い〜実際にカメラワークをコンポジットしていないから無理もないです)、技術的にも金銭的にも、旧来技術はまさに旧来ゆえに構造が古く、未来社会の様々な技術に追随できない状況はすぐそこまで近づいています。

 

ClipStudio EX、Procreate、TVPaint(わたし的には今でもAuraなのですが)などの「現用」のソフトウェアと、液タブやiPad Proなどの同じく「現用」のハードウェアが手元にあるにも関わらず、今までの方式の刷り直ししか実践できず、しかも完成した映像は2K24pSDRでは、現在未来の技術フィールドでは為す術もなし‥‥ですが、前述した通り、それも技術における「市場原理」「競争社会」の過酷なまでの現実なのでしょう。古いままで足踏みするものが存在するからこそ、新しいものが台頭できるのです。

 

でもまあ、それで良いんでしょうネ。解る人は解るし、解らない人は解らない‥‥のままで。

 

時代は正直ゆえに、生き残るものと生き残れないものを、ばっさり分けていくだけのこと‥‥ですもんネ。

 

70数年前、どんなに耐え難きを耐えて、はるか上空を飛ぶB-29に竹槍を振りかざしても、戦局に対してなんの効果もありませんでした。竹槍を振り回してバケツリレーに汗水を流しても、空から降ってくる焼夷弾で街と人々は為す術もなく焼かれて、挙げ句の果ては「カミカゼ常態化」「新型爆弾の投下」です。

 

終戦の日が近づいたこのシーズンに思うことは、Procreateやクリスタを「体当たり自爆攻撃」に使うのではなく、「未来を生きるため」に使う‥‥ということに尽きます。

 

 

 

 



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