二人称欠如

ツイッターって、他者とテキストでやり取りできるので、あたかも二人称のような関係を一時的にではあれ築けたと思いがちですが、結局のところ、三人称のままに留まるように思います。

 

サバサバして後腐れない人間関係は、「現代的」で身軽で都合が良いんでしょうネ。

 

しかし、こと、ものつくり・お話作りにおいて、一人称と三人称しか人間関係を持ち得ない人間が、二人称が頻繁に出てくるストーリーを創作する場合、二人称欠如の状態は強い影響を作品表現に及ぼすと感じます。

 

俺とお前、あなたと私、君と僕‥‥という二人称の関係性を、一人称と三人称だけの想像で描こうとしても、そりゃあ、嘘っぽいし、話も薄くなるし、ストーリー上・ドラマトゥルギー上で不整合も生じましょう。

 

絵においても、一人称の願望だけで二人称を描こうとすれば、相手の心の描写よりも、髪型や体つきに固執した絵も描いたとしても、当然は当然です。

 

まあ、突き詰めに突き詰めて、本人の願望が高次元に昇華すれば、それはそれで常人には及ばぬ完成像を作り出すこともありましょう。ただし、ガチに孤独のまま、そこまでいける人は相当少ないとは思いますし、かなり個性的な絵を描く画家でも、現実世界では普通にパートナーがいたりもします。あの神秘的なモローにもデュルの存在がありましたしネ。

 

 

 

ツインテールとかポニーテールとか、髪型に固執するのって、何か閉鎖的な当人を感情=一人称の内側を感じることがあります。「ポニーテールの日」があると聞いたことがありますが、髪型に執着するって何だろう‥‥と考えたことがあります。

 

まあぶっちゃけ。

 

好きになった人の髪型が、好きな髪型じゃん?

 

二人称たる身近な人間を前にすれば、過去自分が漫画やアニメで好きになった髪型など、どこかに吹き飛んでしまうもの‥‥だと思います。

 

 

 

現在はツイッターなどSNSをスマホで気軽に閲覧できるため、三人称的存在をさも身近な二人称的存在のように感じますが、実際は「一人称の自分の感情」と「三人称のテキスト」の中で、結局は一人遊びに終始している‥‥のだとすれば、何か虚しい気はします。

 

まあ、それが日常の優先度の低い位置ならば良いですが、アニメ作品制作においては、お話を作り、キャラを作るので、二人称欠如は「人物描写の欠如」にも繋がります。二人称で人を愛せない人間が、いくらシナリオの中で愛を叫んでも嘘っぽくなっちゃうもんネ。

 

絵を描くにしても、ネットに上がっている他人の上手い絵を模倣するばかりでなく、身近な人間の生の仕草やふとした感情の機微を感じ取ることも必要でしょう。

 

表面上は人が苦手でも、心の奥では人との繋がりを求めている‥‥のだとすれば、ツイッターのような手段で自分の欲求を誤魔化すばかりでは、いつまでも人の心は作品には描けない‥‥かも知れません。

 

 

 

ふと、ニュートン「死とは何か」巻末の養老先生のコラムを読んで、思いました。

 

二人称における「死」は、一人称にとって「究極の繋がり」とも思えます。それが人間だけでなく、猫や犬であっても。

 

 

 


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