歴史に思ふ
戦前、戦中における、皆が尊ぶべきものとして日々実践していた様々な規範や道徳的なおこないは、敗戦後になって180度転回して、「あれは洗脳だった」「軍国社会の忌まわしい価値観だった」‥‥と考える年配の人は多いようです。戦中を経験した父はその時小学生くらいの年齢でしたから、社会全体の風潮に異を唱えることもままならなかったでしょうし、国家権力だけでなく民衆・大衆が率先して「隣組で助け合いながら、お互いを監視しあう」ようなこともあり、父曰く「当時は社会全体が戦争反対を口に出せるような雰囲気ではなかった」とのことです。
私が注目したいのは、戦争の顛末云々ではなく、人の行動パターンです。日本に住んでいる人間の傾向として、世代など全く関係なく、「みんなと歩調を合わせて、みんなと同じことをしているのが、良きことだ」という感覚は、今でも根強い‥‥というか、日本人の基本的な性質のように思えます。
結局、アニメ業界がアニメ業界を何十年も体制維持できたのって、そうした日本人の性質に依るところが大きいと思います。「欲しがりません、勝つまでは」「進め一億火の玉」「守れ日の丸 汚すな歴史」「一億が みんな興亜へ散る覚悟」‥‥がピッタリくる業界ですよネ。
泥沼の戦いを何十年も続けて、いよいよ自分の身体的老化を心身とも自覚するに至った時、同時に、今までのアニメ業界の体制が傾いて日没へと向かう時、当人は何を思うのでしょうか。アニメ業界と共に死する覚悟か。またはアニメ業界は間違いだった‥‥と180度転向するのか。
全肯定して殉死するか。全否定して生きるか。‥‥極端なんですよネ。
注目すべきは、事態が悪化し深刻化するにつれて、「敵対」勢力に対して、憎悪の念を募らせることです。戦中の「鬼畜米英」なんていう言葉は、まさにそのものですが、「敵を悪虐かつ卑劣なディテールで表現」するのは日本に限ったことではなく、どんな国も敵国の描写は似たようなものです。
とはいえ、そこに「根性論」「精神論」的なニュアンスが多分に含まれるのは、日本的です。以下は、学徒動員壮行会の答辞からの引用です。
暴虐飽くなき敵米英は今やその厖大なる物資と生産力とを擁し、あらゆる科学力を動員し、我に対して必死の反抗を試み、決戦相次ぐ戦局の様相は、日を追って熾烈の度を加へ、事態益々重大なるものあり。
う〜ん。やっぱり、アニメ業界を支える意識と似たもの‥‥がありますネ。現実の戦争状態ではないだけで、やってきたことは同じです。
困難に対して、死をも顧みぬ自己犠牲の「精神力」で立ち向かおう‥‥という意識を「暗黙の総意」としている点は、酷似していますネ。
業界の、特に一部のベテランがもつ思考の傾向=「デジタル」は新しい敵で、「アナログ」は旧き善き味方。‥‥まあ、「デジタル」「アナログ」とか意味もわきまえず感情だけで使っている時点で、かなり冷静さを欠いているとは思います。
敵、味方。なんだそれ? 不自由な思考など捨てて、「科学力」はさ、最大限活用しましょうよ。
アニメ業界も現場も、紙と鉛筆時代の精神論だけで戦って、この先の未来、生き残れると思います? 現場を次の世代に託すことはできます?
自分の生きた時代を「永遠の規範」のように考え始めたら、それはもう、「終わりの終わり」です。
思うに、戦前戦中の軍国社会が成立したのは、牽引し統率する側だけでなく、牽引される側・統率される側も存在したからです。
軍国社会の中では、全体主義から脱しようものなら、反逆罪で逮捕されるようなこともあったかも知れませんが、「そうだそうだ」と軍国社会に同調していた人間も膨大にいたはずです。
しかし、アニメ業界に関してはさ‥‥‥、アニメ業界反逆罪に問われることはないですヨ。
新しい科学の力を導入しても何の罪にも問われません。同調するもしないも自由。新しいプロジェクトを新しい技術と協力者ととも開始するのも自由。今は旧体制の低賃金にあえぐ人材を、新しい技術と制作体制に迎えるのだって自由。
旧体制の中で拳を高く振り上げ、我は爆弾三勇士だ、私は愛国婦人だと、後戻りできない雰囲気を作ってしまうのも自由‥‥ですけどネ。
どんな側、どんな立ち位置でも、ただ、1つは言えます。‥‥戦前戦中の人々と同じ道をトレースする必要はないです。
歴史に学べるのは、後の時代の人間の特権ですもんネ。
科学。‥‥か。
壮行会での答辞文中の「あらゆる科学力を動員」する「米英」とは、中々言いえて妙です。今の時代にも言えてる。
明日(今日か)は新型iPad Proの発表‥‥があるみたいですネ。