ペーパーロス

私ら技術グループはいわゆる「ペーパーレス」になって久しいです。なので、作業流通上で紙の何かを手渡されると結構「ギョッ」とします。元禄小判でお会計するような気分になる‥‥と言いますか、価値が高いのは判っているのですが、現在の流通貨幣に換金しないと使えないので、扱いに困る‥‥という感じです。‥‥で、その換金の手間に大きな労力を割かれます。

 

考えてみれば、仕上げ以降がコンピュータ作業かつ二値化主流となったデジタルデータ運用で、流通する円盤や配信データもデジタルとなった時点で、紙を使う根本的な意義はかなり危うくなっていたのだと思います。紙と鉛筆の存在を本当に大事に大切に思うのなら、フィルム撮影台を捨てるべきではなかったですし、セル用紙とセル絵具も存続すべきだったのでしょう。

 

今まで何度もこのブログで書いてきたことですが、私は2004年頃までは、フィルムとデジタルデータは共存するものと考えていました。すなわち、紙と鉛筆と絵具で作り続ける流派(=当時は多勢)と、コンピュータを足場にしてデジタルデータ運用する流派(=当時は少数)の2勢力が、それぞれの特質を活かして未来の道を歩んでいくと思っていました。当時の私は、「デジタルデータ運用の少数派」として、足場を徐々に固めて、荒波に負けないように未来を切り開いていこうと、ココロの中で誓っておりました。

*注釈)分岐には2分岐ありまして、フィルムかデジタルデータか、階調トレスか二値トレスか‥‥で、当時の私はデジタルデータと階調トレスの組み合わせを自分のメインと考えていました。

 

しかし、当時の未来=つまり現在の状況は、この通り‥‥です。かつてのブルーオーシャンはレッドオーシャンにあっという間に染まりきってしまいました。

 

私個人の感情はまあどうでもいいです。冷徹に構造を考えた時、紙は制作現場にこの先「どうしても必要なものか」を考えます。

 

 

 

作品完成形の納品形態がデジタルデータになった今、アナログデータの介在するポイントはどこなのかを探れば、自ずと紙の存在意義も見えてきます。

 

絵を描く作業において、紙と鉛筆を用いる出発点は、企画書の絵やイメージスケッチでしょう。その段階においては、ぶっちゃけ、どんな道具を用いても良いと思います。イメージの翼を大きく広げて飛び立とうとする時、まずは描き手の描きやすい道具を使って翔けば良いでしょう。無理に使い慣れない道具を使って小ジャンプしかできないのでは企画全体のボルテージも下がるでしょうし、たとえiPadやCintiqを日頃使っていても、新たな切り口を自分の中で見出すために、あえて旧来の道具〜例えばアクリルガッシュを使っても良いと思います。

 

 

 

では、キャラ設定など、実際の生産体制で用いられる「設定画」「設計図」はどうでしょうか。

 

私は前々から多くの作品のキャラ設定に対して、「二値化の作品なのに、なぜ階調トレスでしか実現できないデザインをするんだろう」と疑問に思っていました。それこそ極端な話、今の標準的な制作運用による作品のキャラ設定は、線画の時点で二値化してスムージングを処理して配布したほうが、実効的だと思います。

 

「そんなのやだ。自分の描いたキャラ設定は、自分の線のまま、配布してほしい」

 

‥‥だなんて、あまりにも当人の思い込みが過ぎます。実際の制作運用で二値化した時点で鉛筆線のニュアンスは失われるのに、作画する誰もが閲覧参照するキャラ設定が、階調トレスのニュアンスたっぷりに描かれていては、混乱の大原因にもなりましょう。制作運用上で必要のない鉛筆線ニュアンスであることを知らずに、キャラ設定の鉛筆線ニュアンスを踏襲すべく、作画する人間が一生懸命時間を使っていたら、泣けてくるほどの「お金をドブに捨てる」行為です。

 

経緯はどうあれ、二値化の道だけを選択して今に至るわけですよね? 階調トレスでしかできないニュアンスは、キャラ設定の時点から除外すべきだと、私は思いますけどネ。

 

二値化トレスは、70〜90年代に比べて飛躍的に増えたテレビアニメの制作本数に、確実に貢献しています。制作運用を動仕の面でみれば、必要となる意識・アクションは「二値化に最適な道具と手段を選択する」ことです。

 

少なくとも二値化トレス作品においては、「多彩な描線の表現能力」に関してはほとんど存在価値がありません。二値化プロセスが控えているのに、階調トレスありきの意識で描くのはナンセンスでしょう。

 

 

 

となると、描いた先から鉛筆の階調トレス線になってしまう、紙と鉛筆の「存在意義」はどこにあるでしょうか。

 

描線の表現に無関係な部分、つまり、「紙の外側の事情」です。

 

「運用コスト」という点では、まだまだ格段の優位があるでしょう。特に作業発注側から見れば、「作業者が当然のように所有しているであろう作画机と鉛筆とタップと消しゴムと定規」はスルーして、用紙だけを供給すれば良いので、これほどの「低コストな環境」はないです。

 

もう少し丁寧に言えば、フィルム時代に築き上げられた紙運用の「インフラ財産」を業界は使い続けることで、低コストを実現しています。とは言え、使い続けるだけでメンテナンスをしないので、インフラはどんどん痛んで現在に至ります。アスファルトが陥没した危険な道路もあっちこっちにあります‥‥よネ。

 

「そんな‥‥。紙と鉛筆が、低コスト目的の手段に成り果てるなんて‥‥」

 

‥‥と失望したくもなりましょう。しかし現実を見れば、「二値化トレスのための格段に安価な手段」であることを、誰が否定できましょう。実効的、実質的な観点で「紙と鉛筆でなければならない理由」を、現在の業界制作運用において「低コスト目的」以外で、誰が証明できるのでしょうか。

 

人材を育てるのだってコストが絡みますから、「紙時代の学習指導要領を踏襲する」ことで確実にコストを抑え続けています。指導法の体系を確立するのって、相当大変な取り組み、偉業とも言える内容ですからネ。フィルム時代に各現場で実践されてきた指導法がバブルソートで序列化し、その指導法の「財産」を業界は使い続けてコストを抑えているわけです。

 

紙がどうしても必要である理由。

 

もし紙と鉛筆を自分のステータス・誇りと思うのなら、「低コスト以外の確固たる理由」を高らかに掲げて宣言すべきでしょう。

 

 

 

最初に戻って、今回のブログの主題、「紙は制作現場にこの先どうしても必要なものか」は、

 

  • 旧来の作業環境やインフラを利用して低コスト運用を指向する場合
  • 紙と鉛筆でなければ映像表現が成り立たない作品制作の場合

 

‥‥の2つに絞られると思います。少なくとも私はそう思います。

 

つまり、デジタルデータ運用のインフラが整い、各スタッフは当然のようにパソコンと液タブを所有し、二値化やベクタートレスや階調トレスまで自在に選択できるように技法も定着した時、紙の存在は相当危うくなります。ネットによるデータ送受ならば、紙素材を運搬する際の制作進行さんの交通事故も未然に防げましょう。

 

しかしまあ、まだ全然、インフラも環境も技法も甘いですから、時間的猶予はあるでしょう。どれだけの猶予かは、3年なのか、6年なのか、10数年なのか、何とも読めません。日本て、どんどん貧乏になっていますから、コストを投入して環境を更新することが難しい現状があります。

 

 

 

最近、とあるアニメーターさんの画集を見て、かつて私も絡んだ作品の版権を久々にみました。

 

そこには、紙でなければならない理由、階調トレスでなければならない必然性が溢れており、「紙と鉛筆と階調トレス」を作品でまっとうした「誇り」のようなものを感じました。その当時のチームワークも最高でしたしネ。線画を描いたアニメーターはもとより、背景美術、色彩設計、コンポジットの全てのスタッフが、必要不可欠の無二の存在であることを証明してくれているかのようでした。

 

「どうすれば、あの繊細な感じ、時にしなやかで美しく、時に豪胆で力強い感じになるんだろう」‥‥と、今の二値化トレスに染まった人がもし感じたならば、即答できます。「線が、まず、違います」と。

 

紙という素材、道具、手段。鉛筆という素材、道具、手段。それらが実現する絵の表現。

 

直近の10年間において、業界の作画に関わるほとんどの人が、意識していなくても実は、そうした点=紙が紙である理由をないがしろにしてしまったのです。経緯はともかく、結果的に。

 

「デジタル作画」が徐々に台頭してきて、ようやく、紙が紙として存在する意味に「気づいた」のだとしたら、そのことに今まで気づかずに「ただ単に目の前にある紙」としか認識できず、「存在の意味に、気づかなかった自分に気づく」べき‥‥と感じます。

 

自分を風上において状況だけを見下す位置にいるばかりでは、何の学びも得られず、同じことを繰り返すばかりです。状況を分析して批評して「解った気」になっても、依然として何も状況を動かせない虚しい自分のままです。

 

なので私は、状況に飛び込んで、泥縄に絡め取られながらも、生きていきたいと思います。階調トレスをしぶとく捨てずにきて、今では毎日階調トレスと格闘する日々です。「紙と鉛筆のほうが表現として優れている部分」も感じつつ、今はiPad ProとApple Pencilを始めとした全行程ペーパーレス作業に毎日没頭しています。

 

線画を描きながら、企画の原点から、コンポジット・編集後の映像の1ピクセルまで、シームレスにシーケンシャルにイメージすること。それが未来の映像制作構造で正当なポジションと金額を得るためのアニメーターの資質と私は考えます。作画村に閉じこもって、紙作画だデジタル作画だと論争している時点で共倒れだと思いますヨ。線画の価値観と視野しか持たない「線画馬鹿」になったら、Future is Blackです。

 

 

 

 

紙をロスすることが一番嫌な人々こそ、紙をロスしない大きな必然性を自分たちで確立すべき時が迫っているように思います。「昔からそうだったんだから、未来も続けてくれ」なんて泣き脅しても、どうにもなりません。

 

このアニメを作るためには、紙はどうしても必要だろう? と、まずは映像表現で示すことが、紙を使う人間に求められているのだと思います。

 

でさ‥‥。

 

コンピュータ機器で絵を描く方法にシフトした人間も「今までの紙作画と同じことができます!」なんて言ってたら、映像表現上の特性をまるでアピールできてませんよネ。いわゆる「紙の代用品」ですワ。

 

そのあたり、「デジタル」を使う作画の人間も、自らの道具と技法によって、映像表現で示すことが求められている‥‥と思いますヨ。

 

紙と鉛筆でもできるじゃん‥‥と言われたら、「デジタル作画」の映像表現的な存在意義がないでしょ。

 

描き手は、存在の必然性を表現技術で証明すべき‥‥ですネ。

 

 

 

 



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