批評

「モノ」を実際に作りだす人間にとって、「批評」という行為は「何か釈然としない」、キモチがひっかかる行為です。それが一言だけのツイートであったとしても。

 

まあ、なぜ、ひっかかるか‥‥は、モノ作りの人間なら必ず覚悟すべき言葉〜「そう思うのなら、自分で作ればいい」という言葉〜が必ず返ってくるからだと、わかっているからです。「他者の成果物を批評する前に、自分自身を見つめろ」‥‥という暗黙の常識が、モノを生み出す人間には浸透しているのです。プロとして対価を得る人間は特に‥‥です。

 

ギタリストの場合

「アイツはギターが下手クソだ」

→「じゃあ、オマエはアイツより上手く弾けるのか?」

 

脚本家の場合

「この脚本はここがイマイチ」

→「じゃあ、オマエはその脚本より良いものが書けるのか?」

 

アニメーターの場合

「あいつは絵が下手だし動きも悪い」

→「じゃあ、オマエはアイツより絵が上手で動きも上手いのか?」

 

‥‥という流れになるのを、同じモノ作りの人間だったら、普通に避けます。モノを作り上げる難しさ、自分の仕事を全うする難しさを知っている人は、状況がよく判りもしない同業の他者を安易に批評する気にならないのです。「大変そうだな‥‥」と思うことはあっても‥‥です。

 

他者の「ウマいだ、ヘタだ」を批評するのなら、自分はかなり「上手い」と自己評価できて相当な覚悟ができている必要がある‥‥と、「同業者」なら思うのです。

 

 

でも、批評という行為に対して、それ以外にも「釈然」としないキモチが残ります。なんか、モヤモヤした気分といいますか。

 

それは、すなわち‥‥

 

 

‥‥のようなこと‥‥、なんでしょうね。

 

「批評されているものよりも、批評している者のほうが偉く見える」というのは、なんだか「モヤモヤ」を指してそのものズバリですネ。人は、往々にして、「分析することで、モノゴトを理解したと錯覚する」イキモノのようにも思いますし。

 

猫の行動を分析できても、猫を理解したことにはなるまい? 分析して「知った気になっても」、見落としや分析不足はやまほどあるわけです。

 

昔の歌で「包帯のような嘘を見破ることで 学者は世間を見たような気になる」‥‥みたいな節も思い出します。

 

その後に続く、「批評することはきわめて容易なので」〜「他のいかなる方法によっても人の興味を引くことができない凡庸な輩の避難所となる」‥‥という一節は、相当キツいことが書かれております。

 

 

でも、批評という行為をして、「凡庸な輩の避難所」と言い切ってしまうのも、極論過ぎるな‥‥と思っています。

 

私は20代前半の頃にニーチェ著作の文庫本を読んで、大いに共感したことがありますが、その内容は批評的・批判的な側面を多く含んでいました。以前の価値観・倫理観に対して、容赦のない批評を展開したことが、当時20代の私のココロに響いたのです。つまり、内容が批評的な性質を多く含んでいても、筆者の尋常ならぬ洞察力と分析力が伴って文体を為せば、それは著作=モノ作りと呼ぶに等しく、受け手の心を揺さぶる‥‥と実感します。

 

ただ、作品制作者がツイッターで気軽に、自分の能力も覚悟も棚上げして、同業者の作品表現をあれこれ言うのは、批評というよりは軽口であって、少々軽率かなとは思います。やはり、作品作りだけでなく、批評にもクオリティは存在するのでしょうネ。

 

 

 

 


関連する記事

calendar

S M T W T F S
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031     
<< December 2018 >>

selected entries

categories

archives

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM