めめんともり

10代、20代の、若い頃の私は、自分が死ぬことなんて全く考えもしませんでした。これはすなわち、親が私を健康で丈夫に産んで育ててくれた賜物ですが、そうした「死ぬことなんてありえない」初期状態の恩恵を、寸分も意識することができなかったのは、まさに近視眼的思考そのものだったと思います。

 

一方、小さい頃に大病を患った人は、幼い頃から「死」の影を感じて生きて、たとえ現在は健康体であっても、何かの拍子に幼き日の死の影が蘇る‥‥とも言います。私は、「健康に生まれ育った人は、根本的な思考の性質として、死を感じることが希薄だし、健康に対してずさんで傲慢」と言われたことがあり、しみじみと自分の視界の死角を思い知った経験があります。

 

しかし、いくら健康体でも、老いとともに、やがて生命の機能維持能力は衰え、各所に綻びがあらわれるようになると、なまじ「死の影」を感じなてこなかった人ほど、死を強く意識するようなことも‥‥‥あるのです。

 

まさに今の私がそうです。

 

今の私は、何を計画するにも「死を起点」に考えるようになりました。

 

人は必ず老い、そして必ず死ぬ。‥‥という、あたりまえ前過ぎることを、あたりまえ過ぎるからこそ、自分の中心において、未来の計画を立てるような思考へと変化しました。

 

若い時は、あれほど死に対して無意識で無頓着で、健康に対して不遜で傲慢だった‥‥にも関わらずです。

 

 

死が必ず待ち構えているからこそ、今、私は何をすべきなんだろう。

 

何を残し、何を捨てるべきか。

 

何を伝え、何を断つのか。

 

 

私はたとえ200年の寿命があったとしても、アニメを心底作りきれないと思います。もし生まれ変わりがあったとするなら、またアニメを作りたいとも思います。‥‥‥でもま、生まれ変わったら、その時は既に「自分」ではないので、全く意味がない‥‥ですけどネ。

 

人間の寿命は短いもんですネ。

 

 

死ぬまで面白おかしく生きる人もいるでしょうし、10代20代の怨念やコンプレックスをひきずったまま孤独死する人もおりましょう。ひとつの価値観や行動原理で総合できるものではないです。

 

ゆえ、「自分だったらどうする」と、私は考えるのです。

 

 

こんな記事を目にしました。

 

なぜ「貧しい高齢者」が一気に増加? 識者が語る2042年の日本の姿〈AERA〉

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180327-00000027-sasahi-soci&p=1

 

1960年、1970年には、明るい未来、素晴らしい未来のビジョンばかりが、身の回りに溢れていましたが、いまどきは、こういう記事ばかりですね。

 

自宅にコンピュータやFaceTimeやスカイプがあろうが、話しかければ答える携帯テレビ電話があろうが、世界は幸せでも平和でもない‥‥ということを、実証し続けている現代。

 

「それは平和ボケだ。昔は、天候不順や自然災害で干ばつが起きるたびに、大量の餓死者が出たことを思い出せば、今は少なくとも生き延びられるだろうが」‥‥というのはよく語られる論調ですが、どうやら、生存率=幸福感ではないことは、現代人はうすうすでもクッキリハッキリでも自覚していますよネ。

 

なんか、思考の風呂敷を広げ過ぎちゃったな‥‥とは思いますが、未来の世界、やがてくる自分の死の刻、そして、なんとしても作ってみたい「美しいアニメ」に思いを馳せながら、まったり粛々と生きる今日この頃のわたし‥‥なのです。

 

memento mori‥‥ですネ。

 

 

 



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