作品

いまさら言うことでもないですけど、「作品作り」は「作品のため」にあります。「どのような作品を完成させるか」が常にルート=根本にあり、作品を完成させるために合理的な手段をあれこれ考え出すのがスタッフの役割です。

 

原画の作画を依頼されたアニメーターが、その1カットごとを「作品」と呼んでいるのを、私は今まで1度も見たことがありません。原画を「俺の作品」と呼んでいる人をこの目で見たことはないですし、自分もそんな呼び方はしませんでした。それはアニメーター本人が、原画1カットぞれぞれを作品全体が完成する過程に位置するものだと認識しているからです。これは作画工程だけでなく、様々な工程に対して言えることです。

 

つまり制作に関わる技術スタッフは、その作品が完成していく過程に必要な「中間的な制作物」を「技術的な対価」と引き換えに提供するわけです。「中間制作物」「中間素材」を制作する力量を見込まれて、「作業費」という対価をもって作業を依頼されます。

 

作品とはそのプロダクトの完成物を指して呼び、制作過程で生じる様々な中間素材は、一般的には作品と呼び表しません。

 

 

とは言うものの、「作品」という言葉は厄介です。大辞林を読んでも、一切、「完成物だけが作品」とはどこにも書いてありません。実際に、クリムトやダヴィンチのラフスケッチも作品として認識されていますし、ベートーヴェンやショパン、マーラーなど作曲家の生前に出版され作品番号(op.)が付与されている楽曲以外〜草稿や未完成の遺作なども後に整理され作品目録に加えられているものもあります。

 

私は「作品」という言葉について、20代の中頃、もう20年以上前に考えて見たことがありました。つまり、「自分の描いた原画は作品と呼べるか否か」です。

 

原画を何十枚も描いて表現などを凝りに凝って描いたものは、もはや自分の作品と言えるんじゃないか。自分の作品と呼ぶに値するのではないか?‥‥と。

 

しかし、考えれば考えるほど、ややこしくなったのを今でも覚えています。

 

動きの表現を膨らましたのは自分かも知れないけど、描いているキャラクターは自分が発案したキャラではないな‥‥。そして、その動きの根本となる「演技」や「芝居場」も、自分で発案して考え出したものではない。

 

でも、画家の作品には「神話」や「聖書」を題材にしたものも多く、それは画家のオリジナルストーリーではないし、出てくる「キャラ」も自分で発案したものではない。にも関わらず、世界中で「作品として」認識されている事実がある。

 

完全オリジナルで引用無し‥‥だけが作品ではなく、原典の存在する作品も、作品足り得るようだ。

 

とは言え、「作品」と呼ばれているものは、作者の意図した完成品だろうが、中途の「遺作」だろうが、「作品制作作業の最終点」に到達したものが「作品」と呼ばれていることだけは共通していそうだ‥‥。

 

でも、それは自分の知っている事例がそうであるだけで、制作の中間物を「作品」と称している事例もあるのではないか‥‥。

 

そもそも、自分の注ぎ込んだ情熱の「量」を認めてもらいたいがゆえに、自分は、自分の作業物を「作品」と呼びたいだけなのだろうか。

 

情熱や作業所要時間の量が大きいものは、その時のキモチ次第で「作品」と呼んでいいのか。

 

それって、結局、自分の都合、自分の「さじ加減」だけではないのか。

 

‥‥‥‥‥‥‥‥。

 

わからん‥‥。

 

 

‥‥というような泥沼にハマって終了。若い時分にはありがちな悩み‥‥かも知れませんネ。

 

ある程度、真剣に自分の技量と向き合った人たちなら、誰もが(深刻度の大小はあれ)若い頃に考えてみる議題だとは思います。

 

 

今のところの私の見解は、「プロジェクトの完成物として他者に提供する成果物」を「作品」とみなす‥‥というスタンスです。でもまあ、この考え方も視点次第ですが、「概ね」、「作品」と呼べる「基準」と思います。

 

ですから、作者の「未完の遺稿」でも、作者の死後に何らかのプロジェクト(演奏会や作品展など)で発表して提供した時点で、「作品」として認識されるのだと思います。

 

 

映像作品は、一般の観客・視聴者が受けとるのは、ぶっちゃけ、作品の最終形態だけです。中途の事情などは酌量されず、完成物において全てジャッジされます。‥‥というか、様々な作品や製品でも同じですよね。

 

自分の「作業最終形態の結果物=作品」を誰か他者に届けたい場合は、自分の作業結果物を「製品」として何かしらの「流通ルート」を開拓していくしかないです。それによって、開拓ルートを切り開くのも「タダじゃない」ことが判るでしょうから、「世の中の仕組み」を学ぶことにもなりましょう。

 

なので、若い頃に思ったのは、自分の原画を「作品の体裁」にしたいのなら、自分の原画そのものがお客さんに提供されて対価を得るほか、道はないだろう‥‥ということです。映像完成物ではなく、自分の作業成果物そのものが、お客さんに直に提供されてこそ、お客さんに認識されるわけです。そして、それが「実質的に不可能だ」ということにも考えが至りました。そもそも、「原作何々」の絵を描いている時点で、無理ですよね。原作使用料を原画1枚ごとに原作著作者に支払う?

 

完全オリジナルの完全自主制作‥‥という道を、誰もが考えて、多くが挫折します。

 

ただ、私のこうした思索は、法律の広範な知識など全くない素人の「考え事」なので、もしかしたら、現在・未来において、著作隣接権・録音権に相当する権利が原画などを含めたアニメ制作中間素材に適用される事例も今後あるかも知れません。

 

まあ、現在の私が旧アニメ制作現場に関わる際は、原画などの作画成果物を自分自身の作品や所有物だなんて思いもしないので、好きにやってください‥‥という感じです。

 

私は作業個々の著作隣接権なんてあまりにも途方がなく不可能だと思うので、むしろ、アニメ制作技術の対価の抜本的な見直しが必要と思います。

 

 

‥‥が、作業対価の見直しや作業規模のコンパクト化など未来に向けた様々な取り組みは、全て、新しいアニメーション技術で展開します。「古い箱の中」では、もうどうにも、直しようも広げようもないです。

 

今のまま和気藹々と荒波を立てずにやりたい人は昔の箱で、新しい映像技術と現場を困難承知で築きたい人は新しい箱で、‥‥という事に尽きます。

 

 

 


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