後出しジャンケン、水掛け論。

制作会社が、作画の単価を2〜5倍にするのが、先か。

 

今の作画単価で、スケジュールを正常化するのが、先か。

 

「両方」が譲らなそう。いかにも、拮抗。

 

 

 

私は作画からコンポジットにも業務の幅を広げましたが、偽りなしに正直に申しまして、コンポジットはスケジュール内で見通しがたつことが多いです。‥‥まあ、コンポジットでもド派手な戦闘アクションシーンばかりをやれば時間は危ういですが、作画に比べればかなり見通しは立ちやすいです。

 

作画とコンポジットを、現実に両方作業している人間からすれば、作画は本当に辛い。

 

まずは、発注側が異常に安い作画単価を仕切り直して、作画の単価を数倍にして、内容の重さで変動単価にして、そこからようやく、未来の現場のスケジュールを議論することもできましょう。

 

テレビの原画で1カット2万円、動画は1枚1000円。それでもスケジュールを遅らせるアニメーターが大半になるのか、実証実験をしてみれば、アニメ業界の本当の体質も見えてきましょう。もちろん、作画内容は今まで通りで単価だけアップすることが必須です。アクションシーンの大変なカットは、原画1カット5万円、動画1枚2500円くらいの変動単価は必須です。新人でもスペシャリティでもなく、標準的な技量を有する動画作業者が、1枚の動画を描くのに2時間かかる大変な内容なら、世間の時給から鑑みて、必要な単価はわかりますよね。

 

私は原画のルーキーだった頃、最低で1ヶ月70カット、多い時は100〜120カット原画を描いていました。なぜかというと、それが標準的な速度で、その速度で作業可能な絵の内容だったからです。

 

そうしたこと=今と昔の内容の差を度外視して、2020年の今を語るのは机上の空論も甚だしいです。

 

 

 

思うに、制作会社側は後出しじゃんけんをしてはならないと思います。

 

単価を大幅に上げる。そして上がりの様子を見る。数ヶ月して、スケジュールの改善が見られる人と、そうでない人の差がでましょう。

 

単価を上げる行動を見せることもなく、「スケジュールが改善されれば単価を上げることが可能」だなんてツイッターで説いたって、実際に旧来単価で仕事をし続けている誰もが同意しません。まず、お金を出す側が実際に単価を上げて示さないと。

 

改善効果があるか「お試し」だからといって、5000円を5500円、6000円を7000円にしたって効果はないので、ちゃんとそれなりの額にしましょうね。また、安い単価のなかでやりくりしていた体質を改善するには、個人にも半年くらいの移行期間は必要です。

 

 

 

でもまあ、これは水掛け論、泥仕合だろうな。‥‥私の知るところで、35年、解決してない問題だもん。

 

大変な作画をゼロから描き起こして、その単価が安かったら、どうやったって、何かで補わなければなりませんもんね。精神論で解決できる問題ではないです。精神の話になったら、はい、泥仕合。

 

解決してないどころか、どんどん拍車がかかって激化してます。‥‥その理由をキャリア数年の若い人も、ベテランも、2020年代は改めて考えるべきとは思います。

 

私は、今までの制作技術と制作システムを踏襲するだけでは、永遠に水掛け論は続くと思います。大変な絵を膨大に描いて塗って作って、時間と金と能力が膨大にかからないわけがない。ですもん。

 

不満は巨大に膨らみ続け、ガスを抜くためのメスは入らない。皆、それぞれの立ち位置があるから。

 

2020年代は、もしかしたら、何十年にも渡って膨らみ続けたアニメ業界の「負のバブル」がどこかで弾ける‥‥のかも知れませんネ。

 

 

 

私は「単価が上がれば解決する」論者ではないです。単価が上がっても、2K以下でしか作れない今の現場の限界は明らかです。未来に生き残れません。なので、単価の話は今まで積極的に取り扱っていません。

 

加えて、単一単価のままでは、どんどん状況的強者が、状況的弱者を踏みにじることにもなります。

 

「スケジュールが改善されれば単価を上げられる」みたいな後出しジャンケン論法も不毛だと思います。金を出す側が、口約束で「この次に単価を上げますよ」なんて言ったところで、さて‥‥‥信じられる? 次っていつ? 上げるって何円? 

 

 

 

でもまあ、それも呉越同舟の屋形船。

 

どこに向かって水の上を走るのか‥‥って、実は屋形船よろしく、「宴」の周回コースだったり。

 

船長を変えても、屋形船を新造しても、航行するのが同じ水面を走る周回コースなら、結局は同じことの繰り返しになるのでしょう。

 

同じローカル周回コースを走るがゆえに、収益の増収も見込めないからこそ、ペンタブ作画も、グループウェアも、必要とされないままなんだと、最近はわかってきました。屋形船に、外洋航行のノウハウを導入しようとしても、「? それ必要?」と思われて終了です。

 

やっぱり金の問題は大きいです。理想を説いても、現場改善論も、現在の収益モデルでは、虚しいばかりです。

 

他の業界が「グローバルモデル」に舵を切ったのは、決して「たまたま」ではないのでしょうネ。

 

 

 


りんごのきもち

Wacom Mobile Studio Pro(MSP)に限らず、どのメーカーもAppleの包括的なビジネス戦略に対抗し得る製品を販売できるのか、むしろ、Appleが飛び抜けて異質なだけのように思います。

 

例えばMSPで言えば、

 

  • Wacomの開発したwOS
  • Wacomが審査・管理し一元的に配布するwOSのApp
  • Wacomが開発・製造したCPU W12X
  • そしてWacomのMSP〜wPad

 

‥‥みたいな話になります。普通、一企業じゃ無理です。マイクロソフトでも難しいですよネ。

 

ですから、Appleを引き合いにだして、他は云々‥‥というのは、ある意味、反則技なのかも知れません。Appleは異質そのものですもん。

 

 

 

1998年頃、Appleは買収されて消滅すると多くの人が思っていました。Mac/Winの両「信者」の戦いは、Win信者の勝利のように思われ、数多くの人々がAppleの落ちぶれようを嘲笑したものです。

 

しかし、嘲笑した人々は、2020年現在、結構多くがiPhoneを使ってたりしますよネ。

 

時代や運命って、ほんとに先が読めません。

 

私はAppleがこんなに世界有数の大企業になるなんて思ってませんでしたし。

 

Macは使ってましたけど、Windowsマシンも使ってました。なんとなく、Macのほうが、「個人が自宅で使って、馴染む感じ」がしたので、自宅ではMacを使っていました。

 

私はiPhone3の頃から使っていますが、これもガラケーがどうしても使いにくくて、いちかばちかで、iPhoneを買ってみただけのことです。ぶっちゃけ、携帯電話までAppleでなくても良いと思っていましたし、当時は全然iPhoneが流行ってなくて、多くの人が「iPhoneは日本では流行らない。日本はガラケー文化。」と思っていた時代です。

 

そしたら、何よ。iPhoneがここまで売れまくるとは。‥‥しかも、ガラケー万歳だった日本で。

 

 

 

Appleが危ういところは、まさに「人でAppleが激変する」のを、Apple自身が過去に証明したことです。ジョブズが復帰しなかったら、今頃、Appleは存在してないですよネ。

 

スカリーやアメリオなどの経営トップのままだったら、Appleはここまで持ち直して巨大になれなかったでしょう。多分、消えてた。

 

つまり、ジョブズが亡くなって久しい現在、ティムが引退するなり舵取りを誤ったりすると、そのあとは大転覆することもあり得る‥‥ことです。

 

Appleくらい金をもってれば転覆なんて‥‥と思う人もいるでしょうが、どんな大型の船でも、不沈艦の誉れ高い超弩級戦艦でも、虻のような雷撃機編隊に囲まれれば、撃沈する時は撃沈するでしょう。Appleは80年代の頃に既に大企業だったわけですが、90年代に買収&消滅寸前までいきましたし。

 

私自身、表面から見れば「Apple依存症」のように見えますが、心の奥では「いつまた、危機がやってくるか」を常に抱いています。前回の危機をリアルタイムで、ユーザとしてリアルに体験したので、安易に楽天的に「もう大丈夫」なんて思えないです。

 

年ごとの収益報告の記事を読むたびに、「今年もなんとかなったのね。Apple。」とひと安心します。あくまで、ひと安心。Appleが変な方向に進み始めて、コンピュータに情熱をなくしたら‥‥とか、たまに考えて、Apple亡き後にどのように仕事するかまで考えます。‥‥98年頃にそう思ったのと同じく。

 

Windows100%の人々を見ていて思うのは、まさかWindowsが無くなるわけがない、マイクロソフトは永遠だ‥‥という潜在的な安心感を抱いている様子です。もっと言えば、あまりコンピュータに興味のない人が多いように感じます。

 

目的意識がある人は、Mac/Winの両方にいるでしょうが、惰性で使う人々はわざわざAppleのmacOSを選ばないので、Winのほうが多く感じるのでしょうネ。

 

 

 

Appleって、かじられた林檎がトレードマークですよね。かじられて欠けた林檎‥‥って、随分と遊び心がありますよね。

 

他の企業、特に日本の大企業なら、「欠けてるなんて縁起が悪い。理想をデザイン化すべき!」とか言いそうですが、そんな日本の企業よりも遥かに巨大なAppleが「欠けた林檎」を掲げるのは、日本大企業に欠けている要素を逆に象徴しているようにすら思います。

 

日本のアニメ産業も、実は「欠けた林檎」なんじゃないかな‥‥と思うことがあります。

 

アニメ作品に皆が求めるのは何? 完全に成長した何一つ欠けることのない完全体のストーリー? ‥‥むしろ、不完全ゆえに何かで補おうとする強い欲求じゃないのかな‥‥と思うのです。

 

Appleは隙間企業のように、私は思っていました。Windowsが手を出さない隙間をどんどん突いて、ユーザ数を挽回したのが2000年以降のAppleの道筋のように感じます。

 

アニメって、「人々の心の隙間」産業のように思います。

 

人間の表向きの社交ではない、裏側の弱さを支える役割を、マンガもアニメも担ってきたはず。その隙間を忘れて、大企業の完全完璧指向が幅を聞かせて、隙間産業が体現できましょうか。

 

欠けているからこそ、何かを欲して、何かを見つけられる。

 

 

 

アニメ産業だけではないです。

 

かつて日本の企業が、僅かな隙間でも入り込んで自分たちの居場所を作ろうと無我夢中でモノを作り出していた時代。

 

それを忘れ、自分たちは完全体になったと過信して錯覚し、隙間や欠けた部分や不完全な状態の大切さを忘れたがゆえに、伸びしろを見失っているんじゃないですかね。今の日本って。

 

 

 

アニメ制作会社は、どんな企業をモデルにしますか? マイクロソフト、IBM?

 

私は「欠けたりんごのきもち」を掲げるAppleに、人々の隙間に寄り添う「マイノリティ」の道筋を見るのです。Appleがマイノリティだなんて、笑われるかも知れませんが。

 

1984のCMの中で、ただ一人、警備を振り切って、囚人たちの中を駆け抜ける女性。‥‥まさに、あれです。

 

 


iPadとMSP

WacomのMobile Studio Pro(MSP)は、iPad Proのある種「Windowsの対抗馬」のような存在で、初めて登場した時から注目しています。

 

ただ、登場当時のデモ機をいじった時は、いろいろ難しい部分を感じました。厚さと熱さ。ペンの応答速度。常駐ウィンドウに占有されて描画画面が小さいこと。

 

最新のMSPでも共通しているのは、PCとしてのスペックの低さです。できればメモリ32GBモデルを出して欲しいです。なまじ「PC」として使えるWindowsマシンなので、iOSのiPad Proと比較すると、値段と性能面にハンデを感じます。

 

なんか‥‥、バイクなのに、積載性と防雨を求められ、レースにも参戦せよ‥‥と要求されているような立ち位置で、不憫にすら感じます。

 

 

 

 

iMacは自動車、iPadはバイク。その棲み分けは結構ハッキリしています。macOSとiOSも然り。

 

しかし、MSPは両方を期待されている暗黙の空気を感じます。MSPでAfter Effectsを起動して使える‥‥なんて思っている人もそこそこ存在しそうです。

 

2Kならまだいいよ。2Kなら。

 

4Kになると、こういうこともあるのよ。4KHDRのAfter Effects動作時のタスクマネージャです。

 

 

 

Xeonの3.7GHz、8コア(だったと思う)、メモリ32GBがフル稼働で95%使いっぱなしです。CPUも平均は47%でも、断続的に80%は使い続けています。

 

ゆえに、以下みたいなダイアログが、32GBメモリXeonマシンでもしょっちゅうでした。

 

*どうせ解決しないから、報告しなくて良いよ。‥‥というか、この画面のプログレスバー、いつまでもこのままでフリーズしてるし。

 

 

 

MSPのお手頃価格(20万円)の性能は、i5のメモリ8GBです。ストレージは512GB SSD。買った最初から、ある程度のことまでしかできない性能限定マシンです。買って2〜3年で旧機種になるでしょう。

 

MacBook AirはBTOで増強すれば、i7でメモリ16GBで20万円(税込)で、ストレージは1TB SSDです。私はもはやメモリ16GBでは役不足と感じますが、少なくとも8GBよりはマシです。

 

MacBook Airは液タブにはならんじゃん。

 

‥‥まさにそこです。MacBook Airはお絵かきの道具としては期待されていません。だから、メモリ16GBでもセーフ!‥‥なのです。

 

MSPはお絵かきの道具として、もしかしたらアニメ業界では映像制作の道具としてすら、期待されているでしょう。

 

Mobile Studio Proを買ったら、クリスタだけでなく、Photoshop、After Effects、Illustrator、Premiere、DaVinci Resolveなど、Windowsで使えるソフトを積極的に使うぞ!!

 

なんという重荷‥‥‥‥‥。

 

 

 

AppleのiPadは、ある意味、卑怯なんすよ。

 

ハードからソフト、OSまで、自社の思い通りにコントロールして、「無駄なく使いやすい高性能ガジェットが誕生しました」って、そりゃあ、そうだろうよ‥‥と思います。

 

MSPはとても不利なように思います。単に「OS付きの液タブ」の展開しかできません。キンタマ(失敬)の部分が他社他人です。

 

 

i7、16GBメモリ、512GBストレージ、2560x1440解像度、お値段アマゾンで30万円

 

一方、一番安いiPad Pro12.9 128GBと、上述のMacBook Air i7 16GBメモリ 1TB SSDを、一緒に買うと、34万円(税込)。

 

微妙な判断ですが、私なら既にmacOSとiOSの連携に慣れていることもあり、迷わずiPad ProとMacBook Airのコンビを買います。

 

日頃の持ち運びはiPad Pro、机に常駐して確認や指示出し程度でAfter EffectsやPhotoshopやIllustrator、DaVinciを使うのなら、MacBook Air‥‥と使い分けができます。MacBook Airは1TBに増設してあれば、iPad Proのストレージを適宜MacBook Airに逃して整理できるでしょう。もちろん、連携はAirDropで。

 

 

 

MSPの第1世代を買って使っている人がいましたが、「思ったように使えない」と、使いにくそうにしてました。おそらく、スペックが中途半端で、デスクトップにもモバイルにもなりきれないのでしょう。

 

実際、MSPは、デスクトップ液タブ環境の、機能縮小版・機能限定版であり、長所はとりあえずWindowsを使えて持ち運びもできるという点です。とは言え、1.44kgに大きな電源アダプタ‥‥では、なかなか持ち運ぶ気分にはなりにくいでしょう。MSPならではの自慢できる長所が見えにくいのは、やっぱりWindowsOSが足を引っ張っている気がします。

 

iPad ProのOSが、iOSではなく、macOSだったら、全くダメダメだと思いますしネ。メモリバカ喰い、マウス&キーボード前提、ツールウィンドウが我が物顔で画面を占拠する‥‥と、macOSの流儀ではiPadは台無しになるでしょう。iOSだから良いのです。

 

13インチで読みやすい、フォントの大きさってものが、ありますしネ。

 

サイドカーでmacOSをミラーリングすると、macOSが如何にiPadに不向きか、目で見て納得です。

 

 

 

Appleは自社のiPadを、これまた自社のiOSで、自在に使いやすくプロデュースします。Appleの包囲作戦は、米国の伝統?

 

一方、日本のMSPはその点、如何ともしがたい面がありますよね。

 

 

 


てれわーく

今日、NHKのニュースで、「みんなでテレワークができるよう、無線完備のカフェ風のラウンジを作って」みたいなお店が紹介されてました。

 

あれ???

 

「新コロ」(という呼び名もどうか)の影響でテレワークが推奨されるのって、「不特定多数の人間と接触を避けるため」‥‥じゃなかったっけ?????

 

映画館だって1席空けて予約するっていうご時世に、ソファやテーブルで隣り合って座って長時間見知らぬ人と滞在する‥‥って、経営者は何を考えてんだろ。テレワーク見込みで客を呼ぶなら、個室でしょ。

 

まあいいか。呼ぶ人も行く人も、自分の判断で好きにすれば。

 

 

テレワーク。

 

在宅で仕事をする。‥‥結構、アニメ業界では普通な仕様ですよネ。

 

しかし、アニメ業界はまだ紙が主流なので、紙のブツは進行車で流通するのが必要で、ネット経由で仕事が完結できるほど進化してません。

 

現場でコンピュータを使っているスタッフのうち、自宅でも自分の絵や映像制作をしている人ならば、テレワークには柔軟に対応できるでしょう。

 

私は今、自宅も制作現場も、仕事をiMacとiPad Proで全てしているので、両環境で同じ内容の作業がほぼ可能です。制作現場のiMacはProなので、その点だけは秀でていますが(レンダリングが速い)、iPad Proは持ち歩いていつでも作業を再開できます。液タブとPCを持ち歩くのは無理ですが、iPad Proなら持ち歩かないことのほうが特殊なくらいです。

 

テレワークとかもったいぶって世間では言いますが、私のような業務内容の人間は、ずいぶん前からごく当たり前の仕事環境で、それを「テレワーク」と呼ぶことすら知りませんでした。私だけの特殊な事情じゃなくて、知り合いには結構多いです、「テレワーク」してる人。

*HDR(Dolby Vision, DCI-P3のPQとか)だけは自宅では不可能です。‥‥個人じゃ買えないすよ、60万や300万のモニタなんて。

 

AirDropの存在も大きいです。iPadをケーブルで繋がなくても母艦のiMacと簡単に送受できます。ネットワークケーブルやLightningケーブルなしで、ピポピポと容易にデータを行き来できるのは、最初あなどっていましたが、使い始めるとすごく便利です。自分のローカルで、ケーブル越しのデータ送受なんて、ドン臭くてメンド臭くて、今はできるだけしたくないです。USBメモリを抜き挿しするのも古めかしい感じです。‥‥会社のサーバや、会社間の受け渡しは別ですよ、もちろん。

 

iPad Proで絵を描いて仕事して、iPhoneで音楽を聴いてストレスを和らげ、iOSでは手に負えない仕事=After EffectsとかはiMacで‥‥と、2020年の今は、かなりコンパクトに作業環境が整います。そこにKindle Fireでも追加すれば、設定や写真・ビデオなどのビュワーにもなりますしネ。

 

 

 

だからね‥‥、アニメの仕事というのは、世間のテレワークができない企業や人に比べて、数歩先に進化してても良いくらいなのです。

 

なのに、紙で立ち止まっちゃって、動こうとしないんだもん。‥‥もったいないよなあ‥‥。

 

 


表現と品質、二卵性。

スレート(カットボールド)をあれこれ弄るのが面倒だったので、最近ずっと使ってたAEPのプロジェクト雛形ファイルを流用して作業してたら、今になって4Kだったことに気づきました‥‥。お手伝いしているテレビは1280でハーフHDだと言うのに。

 

かといって、2020年代の今、1280pxでガチで作ってしまうのは、かなり抵抗があります。アニメ業界の外側の、他のジャンル映像制作では、作品フォーマットが1280pxなんてあり得ませんもん。

 

4Kはともかく、2.5Kか3Kで作っておいたほうが良いと思うのです。まあ、現状として、原動仕が絡むのなら仕方ないとしても、私一人でほぼ完結するのなら、2880px(3K)あたりで組んで出力してダウンコンしたほうが、後々のプレゼンにもなりますしネ。

 

そんなに高解像度に拘らなくても‥‥と思う人もいましょう。しかし、それこそ320x240の時代からデジタル映像データに関わってきた身からすれば、新時代の解像度にできるだけ対応しておきたいのです。

 

 

 

2020年の今、なぜ、映像制作に関わる人々は、720x486や640x480で映像を作らないんでしょうか。軽くて楽ですよ。

 

「だって、小さ過ぎるじゃん」

 

「今は2000年じゃないからさ」

 

「せっかく作った作品が、640x480じゃ、売り物にならないよ」

 

現在の映像制作現場で働く人なら、よほどピクセル寸法に疎い人でもない限り、こう思うはずです。アニメ業界でも同じでしょう。

 

640x480がソフトウェアで設定不可能になったわけではないです。でも、今は640x480や720x486(480)では作らないですよネ。

 

作品というのは、提供する状態も含めて、作品であり商品です。

 

ヒットや売れ行き云々ではなく、製品の出荷や公開自体が憚られる、商品にならないものを作っても意味がないことを、皆、判っています。作品は「何よりも面白ければ」良いんだ!‥‥と言いながらも、「商品として成立するスペック」はしたたかに計算しているわけです。流通するためには、現代社会の仕様や品質に寄り添う必要があります。VHSテープでアニメ作品は売らんでしょ?

 

640x480はもはや売り物にならないレベルのミニサイズですが、1280pxや1600pxも今やかなり小さい画像サイズです。今、640x480が小さいと感じているのなら、1280x720も近い未来にそう思うようになります。(というか、2020年現在でも相当小さいサイズ。HDVのビデオカメラは2015年に生産終了)

 

 

 

作品の表現内容と、映像品質は、混同してはなりませんが、切り離せるものでもないのです。

 

どんなに4KHDRで作っても、作画崩壊はケアできません。むしろ、4KHDRのドットバイドットだと、作画の荒さが見事にそのままユーザに提供されるでしょう。ごまかしが効かなくなります。

 

どんなに素晴らしい映像でも、640x480で作ってしまったら、後で拡大して4Kテレビで観るのは辛過ぎます。アップコンにも限界はありましょう。せっかく精魂込めて作ったスペシャルカットが、低解像度で溶けてた日にゃ、やるせないでしょう。

 

両方必要なんですよ。

 

どっちかを満たせば良いという話ではないです。

 

ローカルとグローバルの話題でも似たようなことを書きましたが、どっちかに偏って1つだけを満たせば良いのではないです。

 

‥‥で、今のアニメ業界一般の解像度は、急激に時代遅れの解像度になっているのです。アニメ業界で作ったアニメは、どんなに綺麗なアップコンの技術が登場しようと、「4K作品」としては売れないのです。1280〜1920pxの16:9のアップコン作品です。

 

なので、どこかで巻き返して挽回して、現代のレベルに底上げしなければなりません。

 

アニメーターは作画のクオリティにはこだわりまくるけれど、作画したその内容をあますところなくユーザに伝える映像技術と映像品質にどれだけ興味を持っているでしょうか? ほとんどの人は興味なし‥‥ですよネ。他人事ですよね、正直な話。

 

アニメーターの人で、Inter Beeなどの技術博覧会に行って最新の映像技術の情報を収集しなきゃ!‥‥と思う人は、極めて少数でしょう。

 

両方興味を持つべきです。これからの未来は。

 

なぜかって、映像技術と映像品質の進化からイメージが湧いて、新しいアニメ作品のビジョンが生まれるからです。

 

直に絵を描くアニメーターなら、4〜5Kのモニタで映し出した自分の生の絵を見ることで、アイデアが思い浮かぶはずです。1280pxでは想像できなかったアイデアが、です。

 

紙でもペンタブでも、自分が書いた4〜5Kの線画を、4〜5Kのディスプレイで見てください。紙なら400dpiでスキャンすれば良いです。きっと、「自分って、こんなにニュアンス豊かな絵を毎日描いていたのか‥‥」と自分自身の描線に魅了されるはずです。

 

2Kのモニタは、自分の本当の絵を、映し出してはいなかったのです。

 

1280pxでコンポジットされ1920pxにアップコンされた絵が、自分の描いた絵だと思っているのなら、単に機材的に見ても、ものすご〜く時代遅れの認識なのです。絵のチカラは1280pxのミニサイズに収まるようなショボいものではなく、むしろ4K以上でパワーを発揮するものです。

 

表現内容と映像品質。

 

両方を自分の武器してこそ、2020年代からの未来を生きる、アニメーターだと思います。

 

 

 

ちなみに‥‥。

 

4Kで活きるのは、ペンタブだけではないです。紙の線画も、かなりニュアンス豊かになります。

 

私がもし、「4K時代の紙作画のアニメ」にメインで絡むことになったら、必ず、紙と鉛筆のもつニュアンスを4Kの大きな魅力として扱う技術を考えるでしょう。大トロの部分を捨てるのはバカげてますもん。

 

いつから、1.5Kの二値化トレスが、アニメの永遠のスタンダードになったのか。

 

アウトサイダーから品質のことを突かれて不快になっている場合じゃないと思います。自分たちの映像品質上の立ち遅れを見つめて、未来もアニメを作り続ける=売り続けることを考えるべきです。

 

ミッフィでも素子でも、4KHDRで可能な表現は山ほどありますよ。4KHDRに代表される新しい映像技術を知りもしないで「不要論」を解くべからず。

 

表現と品質。両方とも、獲得していきましょう。

 

 

 

表現と品質は、同じ母親の胎内で誕生した、二卵性の双子の姉妹です。

 

その姉妹を、美しいミューズ(美神)に育て上げるのは、他ならぬ、私たち映像制作者です。

 


フィルムの感覚、紙の感覚

2020年代を生きるアニメ映像制作者にとって、フィルムの感覚、紙の感覚は絶対に必要でしょうか。

 

私は、「No」側のスタンスですが、きっぱりと自信をもって、必要なしとは言い切れません。

 

なぜなら、私の中には、過去に培った、フィルムの感覚、紙の感覚が宿っていて、その延長線上に現在のデジタル画像・映像データの映像制作があるからです。

 

人は、生まれ育った時代のデバイスに順応する。生まれた時からデジタルプロセスに触れ、デジタルデバイスを使って育てば、人間はデジタルデータの中に人間味を見いだす。

 

‥‥とは思っているのです。しかし、私の場合、自分の出自を思い起こすと、説得力に欠けます。

 

私はアナログ音声信号とアナログ映像信号の中で育ち、紙と鉛筆と絵具を使い、フィルム一眼レフを相棒のように傍に置いたからです。

 

最近、雑誌の取材を受けて、「紙の感覚は必要か」という話題になって、返答に詰まってしまいました。

 

「必ずしも必要ではないと思います」‥‥という、歯切れの悪い答えになりました。きっぱりと「必要なし」と言い切るには、自分の内面と照らし合わせて、白々しいと思うからです。

 

 

 

私は現在、猛烈にiPad Proを使い続ける日々で、惚れ惚れするほど、iPad Proの「画具としての性能」に惚れ込んでいます。下世話な言い方をすれば、金の成る板です。紙が一切なくなっても、iPad Proだけで絵を描いて生きられると確信します。

 

しかし一方で、そうした強い「デジタルデバイス」への信頼感は、紙とフィルムの経験の延長線上に成り立っています。

 

iPad Proに惚れることができるのは、昔、紙とフィルムに惚れたからです。そこは偽ってはならぬ。

 

 

 

私はムービーフィルムを回した経験はないですが、フィルムは一眼レフ(ライカ判)で取り憑かれたように撮りまくり、ブローニー(69判)にも手を出しました。

 

フィルムでは低感度のコダクローム・エクタクロームが好きでした。パンサーはISO50だったかな? ブローニーではネオパンFを愛用していました。開業まもない建物博物館(小金井公園にあるやつ)をネオパンFで撮りまくりましたが、私の脳の記憶すらネオパンF越しに書き換えられているほどです。

 

今でもAfter Effectsを使う時に、フィルムカメラ時代の感覚が度々蘇ります。映像をフレームの中で表現する‥‥という行為自体が、フィルムカメラ時代のファインダー越しの表現そのものです。

 

撮影時、カメラにどんな銘柄のフィルムが装填されているかで、シャッターを切る前から現像後のイメージが浮かんでいました。ワゴンで売ってる量販のISO400ネガカラーと、エクタクロームの中でも個性的な描写のパンサーでは、当然ファインダー越しの作図も変わってきました。同様にフジのベルビアも個性的でしたから、フジカラー400とは作図・構図が自ずと変わりました。

 

アニメの線画だけが主業務だった私に、フィルムの特性によって構図のアイデアが変わり得るのを教えてくれたのは、いくつものフィルム銘柄でした。つまり、色域やガンマ、カラーグレードによって、絵の魅力は大きく変わることを身をもって知ったのです。

 

極めてシンプルですが沼のように深い、シャッター速度と絞りの関係。被写体の明るさを考慮して速度とF値を決めつつ、フィルムのラチチュードも念頭におきながら、自分の思うように光を捉えるのです。

 

絵のように時間をかけないからこその、カメラ撮影のシャッターチャンス。瞬間を相手にした真剣勝負です。特にリバーサルフィルムを装填した時は、真剣勝負度がぐんと増しました。

 

リバーサルの現像が上がってきて、ルーペとライトボックスで覗きながら、「上手くいった」「上手くいってない」「上手くいってるけどアイデア負け」などと一喜一憂しながら、次のシャッターチャンスにフィードバックしていました。

 

 

 

‥‥とまあ、思い出して書くと止まらなくなるほどの、膨大な経験を与えてくれたフィルム。そして紙。

 

ゆえに、私は「完全デジタル主義者」のように振る舞って、問いに答えるのは、あまりにも白々しいです。デジタルデバイスを推進していますが、根っこは非デジタルデバイスの感覚で支えられています。

 

だからと言って、今の若い人に対して、フィルムと紙を経験すべきだとは思えないのです。

 

技能のキャリアスタート時(子供時代・学生時代を含む)に存在した、一番有効な道具と手段をチョイスすれば良いのです。紙とフィルムは太古からの絶対神ではないのですから。

 

もうあきれるほどに「今の若い奴は」を、人類の歴史は繰り返してきたじゃないですか。

 

 

 

技術も同じです。

 

「普遍と思われていた事が、世代交代していく」ループを、人類は延々と繰り返してきたのでしょう。

 

ですから、自分が紙とフィルムで育ったからといって、それを「人類の普遍」「技術の普遍」であると思い込むのは、いささか冷静さを欠いています。

 

江戸の時代からすれば、紙と鉛筆なんて気軽過ぎてチャラい感じがするんじゃないですかね。書を記す時、まずは墨をするところから始まる‥‥なんていう段取りを踏んだ人間からすれば、紙と鉛筆は今のiPadくらい手軽に思えるでしょう。

 

 

 

でも、ここまで書いておいてナンんですが、実際のところ、私は紙とフィルムの感覚を抜きにして、ペンタブやパソコンを使うことはありません。イメージの中で潜在的に必ず、紙とフィルムは関与しています。

 

アムロとシャアで言えば、シャア側なんだろうなあ‥‥私は。

 

紙やフィルムがなくても、絵と映像の表現能力が成立し得ることを、実際の成果として実証してみせるのは、10〜20代の人たちです。

 

 

 


頼ってばかりではなく

ペンタブ作画をするなら、アニメーターはハードウェアとソフトウェアの仕組みや構造をいつかは覚えないと、何処かで行き詰まります。

 

サポートしてくれるスタッフに何かと頼っているうちは、頼れる範囲に留まるからです。つまり、「技術の掛け算」ができないまま停滞します。

 

技術の掛け算とは、字の通り、技術の要素を掛け合わせて新しい技術を発明することです。

 

俺(私)はコンピュータが苦手だから‥‥とか言っているうちは、「技術の足し算」しかできません。今まで得た技術的な要素を、ラーメンの具のトッピングよろしく、付け足すことしか発想できません。

 

つまり、あくまで寄せ集めの皿盛りです。

 

調理法から発想を展開することができません。なぜかって、仕組みや構造を覚えないからです。

 

アニメーターが構造や仕組みを覚えれば、過去の技術経験を集めるだけでなく、それぞれを連結・交差させて、その軸線と領域にある新要素を知覚できるようになります。

 

こういう差です。

 

 

たとえ、同じ皿盛りでも、新しいメニューが増えます。単にトッピングの羅列ではなくなります。

 

足し算は、4つの経験が4つのままで集合します。

 

掛け算は、4つの経験からいくつもの要素が生まれて8・16・32‥‥とアイデアや新技術が増えて集合します。

 

構造材を集めて並べても構造体にはなりません。構造材を組むための様々な基礎知識を得れば、ちょっとした堀や城壁や桟橋を組むことも可能になりましょう。そうすれば自然と、新しい戦術や方法論が思い浮かぶようになります。

 

 

 

では、サポートスタッフが発想すれば‥‥と考えがちですが、サポートスタッフはクリエイターではないので、そもそも作品表現技術を仕事にしておらず、「表現のために発想する」ことそのものが「業務範囲外」なのです。ましてや、自分で絵を描いて売り物にするなんて、業務外も外です。

 

日々の使用法や作業環境に関するオーダーには対応できるし、トラブルの解決策も考えますが、「こういう表現がしたいから、このように技術を掛け合わせて、新しい作品表現を‥‥」みたいなことは考えません。仮に考えたとしても、表現の仕事をしてきていないので、実を伴いません。

 

*アニメーターとサポートスタッフ両者の、知識と経験が重なり合った部分だけに終始しがち。

*狭いエリアに限定した予定調和へと話が落ち着いてしまい、エリア外からの新たな発見や発想が得にくい。

 

 

 

サポートスタッフができるのは、サポート業務です。

 

サポートスタッフに甘えて、自分たちのコンピュータ関連の知識を向上させないままだと、いつまで経っても、同じ技術を繰り返して、トッピングだけを増やして大変な作業にどんどん変えて、出来上がるのは古い映像品質‥‥なんてことになります。

 

サポートスタッフは「4K時代にどうやってアニメーターは作画していくか」を考えられません。アニメーターではないからです。

 

アニメの作画を本当に実感を持って考えられるのはアニメーターだけです。

 

アニメーターの知識が足りなければ、未来のビジョンは過去の経験の寄せ集めと刷り直しだけになります。

 

 

 

サポートやメンテナンスのスタッフは心強いパートナーです。

 

しかし、アニメーターが「コーデックって何?」「DPIって何?」みたいなことをいつまでも言い続けて理解しないままだと、現場の発展は望めません。

 

例えば、ペーパーレス作品なのに「この作品は何DPIですか?」と聞くようなことをしてたらアカンのです。センチやミリが存在しないフィールドでDPIを気にすること自体、全く基本から理解できてませんもん。DPI・PPIの略字の意味すら知ろうとしない人もいましょう。

 

「もはや現物の実寸なんて存在しないのだから、レイヤー(BGやセル)のスライド幅は、新しい指定方法を考えよう!」‥‥という声は、アニメーターや演出から湧き上がるべきなのです。

 

他の映像ジャンルの仕事をすると、アニメ業界はコンピュータ音痴だとバカにされている雰囲気を感じます。それはアニメーターの「コンピュータを覚えようとしない」態度にも起因するとも思えます。

 

私はイヤですね。そんな認識に甘んじるのは。

 

むしろ、コンピュータをこんなにも導入している現場なのですから、実写よりも先進的であるべきとすら考えます。

 

そのためには、データの仕組みとか、ネットワークの仕組みとか、簡単なスクリプトの作り方とか、RGBの仕組みとか、モニタの色域の知識とか、ひと通りの知識を踏まえる学習が必要です。

 

CintiqやiPad Proで作画する場合、覚えておいて損するどころか、得する知識ばかりですもん。

 

 

 

20年以上前。

 

私はコンピュータのことは、詳しい人に頼って、わからないことがあれば聞いたり操作して貰えば良いと、悪気もなく天然で思ってました。自分は絵だけを描いていれば良いと思っていたのです。

 

しかし、頼っていた人がいなくなった途端に、まるでわけがわからなくなってしまいました。

 

さらには、絵を描くだけでは、絵ばかりが増えていくだけで、新しい制作技術の発想には届きませんでした。

 

コンピュータばかり使っているのに、コンピュータのことを知らない‥‥なんて、車の構造をほとんど知らないレーサーみたいなもんです。「なんかわからないんだけど、車が止まっちゃったよ」なんてレーサー、情けないですわな。ある程度の車の知識があればこそ、トップスピードと耐久性を兼ね備えたレーシングテクニックも生まれます。

 

知識がなければ、フィードバックすらできないのです。

 

 

 

色付きのイラストを描いたんだけど、なぜ、肌の部分にシマシマ模様が見えるんだろう。‥‥なんて言ってるようでは知識不足です。

 

モニタがおかしい!

ソフトのバグだ!

何度ブラーをかけてもシマシマがきえない!

 

‥‥キモチはわかりますが、おかしいのもバグも当人にあり。知識不足そのものです。「俺は300cc飲みたいのに、この200ccのコップに300cc注ぐと、いっぱい溢れるんだ! このコップはダメダメだ!不良品だ!」って言ってるようなもんです。いかにもバカでしょ? 私も過去、そんなバカなこと(=自分の知識不足ゆえ)で苛立つことが多かったので、しみじみ思い起こすのです。

 

コンピュータの知識は、ペンタブで作画する人間なら、自分の未来の浮き沈みに直結します。どんなに魅力的な絵を描けても、顔にトーンジャンプが出ちゃってたら、描き直し・塗り直しです。ドローAppに8bitモードしかないのなら、256の3乗(24bit)の色数に合わせて対応できる知識が必要です。それには、RGBの知識、ビットマップの知識が不可欠です。

 

コンピュータの仕組みと構造を覚えて、今やってる作業がどのような仕組みと構造をもつのか、頭でイメージが思い浮かぶようになれば、どれだけ有利なことか、想像しましょう。

 

 


ローカルとグローバルと

バイク関連のライターをやっている人から聞いた「グローバルモデル」。日本市場向けだけのモデルでは販売台数が伸びず行き詰まって採算が取れないので、全世界展開できる仕様のバイクを世界拠点で生産して、全世界で販売する戦略です。

 

まず、世界展開ありきでグローバルモデルを作って、そこから派生して、日本国内向けにローカライズするわけです。500ccをボアダウンして400ccにするとか。

 

日本向けに緩い排ガス規制でバイクを作ると、ヨーロッパの厳しい環境基準の国々では売ることができません。今やバイクの売れ行きが大幅に落ちた日本で、日本でしか売れないバイクを作るのは、いかにもビジネスモデルとして厳しいですよネ。

 

さらには、日本の環境対策(排ガスとか)は、ヨーロッパの基準を追随したかたちとなっており、日本で販売することだけを考えてバイクを作っても、結局は後手で排ガス対応を更新する羽目になり、ゆえに「生産終了モデル」が続出するわけです。

 

 

 

バイクとは同じではないですが、産業としてのアニメも、似たような雰囲気を最近は感じます。

 

国内のファン心理に訴えかける「ファン向け作品」の大量作品数。

 

一方で、世界190カ国に同時配信可能な米大手企業の台頭。

 

深夜のアニメ枠って、日本国内の特定ターゲットに絞ったローカライズ作品です。日本のアニメ業界は未来も、日本ローカル向け商売だけで採算が取れていくのでしょうかね?

 

アニメは「ちゃんと」作れば、ものすごく金のかかる産業カテゴリです。1枚200円なんて値段で発注しているから、なんとかなってるだけで、ブラックをグレーにするだけでも、多くの制作会社が破綻すると思います。

 

国内ファン内輪受けの作品を作るために、もともと国内作品のファンだったアニメーターや各スタッフが収入を犠牲にして作品を作り続ける構図。そこにさらにファンの期待という悪気のない重圧がのしかかります。

 

以前、放送が延期された作品で、ファンの人たちのツイートで、「延期でも待ちます。どうぞ時間をかけて、神作品を!」みたいな内容を多く見かけました。‥‥単価受けの内情を知らないとはいえ、「地獄の構図だな」と思いました。

 

 

 

しかし、そうして作られるのは、あくまでローカルモデル。グローバルに全世界同時配信されるわけではないです。日本向けバイク同様、「排ガス規制」が緩いままでは、世界向けに販売できないのです。

 

 

 

一昨日、ツイッターで見かけた記事。

 

日本アニメは世界の潮流から外れている

片渕須直監督が本気で心配する、その将来

 

 

これは、特に海外と仕事をしたことがあると、うなずく箇所が多いです。記事の「またこれか」(日本の作品の均質化)というくだりも、「そうなんだよねえ」としみじみ同感します。

 

ガラパゴスという表現もその通りです。

 

私は技術面でもそれを感じてますけどネ。コンピュータが社会に浸透して20年以上が経とうとしているのに、日本の制作現場は‥‥。

 

記事にはないですが、日本風のアニメキャラのエロいシチュエーションをして「HENTAI」と呼ぶのも、ある種、ガラパゴスの珍獣のごとき‥‥なのかも知れません。

 

変態‥‥って、最初、意味がわからなかったですが、外国から見ると、可愛い子供顔した女キャラが豊満なバストでミニスカパンツのラッキースケベの応酬なのは、言葉のチョイスはともかく、クレイジーに感じるのでしょうかね。

 

 

 

記事には「40代の高校生」という重要なキーワードも出てきます。

 

40代の高校生か。うまいこと、言うなあ。

 

非モテの学生時代、就職氷河期。

 

高校や大学の時期にすべき恋愛をせず、自分の思うように就職もできなかった。‥‥だから、「卒業」できずに30代〜40代と高校生のまま引きずっている‥‥とも言えそうです。

 

無意識的でも意識的でも、その恨みを作品に込め、果たせぬ夢を作品だけでも果たして晴らす‥‥なんていう図式なら、そりゃあ、そんな系列の作品だらけになるわなあ‥‥。学園生活の願望を描き続ける内容。


「自分の過去の出来事に対する復讐」がテーマだとしたら、子供向けのアニメも、社会的テーマを扱うアニメも、作ろうとは思いませんよネ。40代高校生たる創作者の意識が向くはずがないです。自分の恨み痛みを鎮痛する内容に明け暮れましょう。

 

自分の内なるネガティブな要素は、何かを生み出し動かす原動力となりえる。‥‥そのことに間違いはないと実感しますが、ネガティブからポジティブを生み出すのは、それこそ、生きるか死ぬかの絶体絶命まで追い込まれて初めて可能になるとも実感します。とりあえずは生きられるだけの収入は確保できてて、単に復讐心だけを心に秘めても、一向に核融合は起こらず、ポジティブパワーは発生しません。

 

40代の高校生が作り、40代から以下の高校生が観る‥‥のだとしたら、超弩級ローカルモデルです。グローバルにはなりえません。

 

 

 

2020年代は「40代の高校生」が50代になる10年間です。

 

「50代の高校生」は、8050問題が深刻化する2020年代において、成立が難しいような気もします。2020年代は、「40代の高校生が、嫌でも高校を退学する10年間」なのかも知れません。

 

40代の高校生は、言い換えれば、第二次ベビーブーム世代で、団塊ジュニア世代です。テレビアニメ世代の50代とともに、日本のアニメ業界を支えてきた「厚い層」です。

 

その人々は、2020年代、そして2030年代もローカルモデルに固執し続けるのでしょうか。

 

「ベビーブームぼけ」していると見失いがちですが、ローカル商売が通用したのは、相応の人口の多い層が存在したからです。人口の多い層が老化していることに気づかず、あたかも「永遠の若者購買層」が存在すると考えるのは、単に数字だけで判断しても誤りでしょう。

 

2020年代以降は、「俺は永遠の高校生だ!」などと宣う個人のキモチでは済まなくて、全体のリアル(現実)が、どんどんヤバくなっていくように思えます。

 

 

 

でもねえ。

 

日本はガラパゴスだったからこそ、ここまでバイクもアニメも発達したとは思うんですよ。

 

最近の日本のバイクが「つまらなくなった」とはライターの人も言ってました。昔は色んなバイクが各メーカーに溢れていた、と。

 

もし日本が70年代に「欧米に倣え!」とアニメを作っていたら、今の日本の高度な技術(たとえそれが今や陳腐化し始めようと)は確立できなっかたことは確実です。

 

Toonではなく、マンガであり劇画でありアニメであることが、日本のアニメをユニーク(=独自・独特)な存在にしてきました。日本がディズニーもどきみたいなアニメばかりを作っていたら、どうだったでしょうかね。

 

とはいえ、その日本国内向け・受けのガラパゴスローカルのビジネスが通用したのは、ベビーブームと決して無縁ではないです。第3次ベビーブームが起きていない以上、同じビジネスは通用しなくなっていくでしょう。

 

若者離れではない、と、私は感じています。

 

過疎の村で商売している店が、「最近は客離れが多くて」と言うのなら、滑稽極まりないです。

 

地元の客相手に、自分の店だけ売る方法から、脱皮しないと。

 

 

 

グローバルとローカル。

 

どっちを選べば良いという話ではないと、私は考えます。

 

両方、必要です。

 

日本の「HENTAI」は世界では疎まれます(マニアはともかく一般社会では)。しかし、日本の「KAWAII」は好感をもって迎えられます。「かっこいい」「美味しい」も受け入れられるでしょう。

 

ローカル受けに没頭し過ぎて、グローバル感覚を失うのもまずいし、グローバル受けを意識し過ぎて、ローカルで得たアドバンテージを捨てるのもマズい。

 

簡単に答えが見つかる問題ではないです。

 

 


自宅と映画館の差

1980年代初期に登場したテレビ再編集の劇場アニメ。‥‥実は、ほとんど記憶に残っていないのですよ。それなりに数を見たはずなのに。

 

それは、所詮、テレビアニメを大画面で映しただけで、映画としての品格が備わっておらず、映画としてよりもテレビアニメとして記憶しているからです。自己分析してみれば、です。

 

 

 

劇場で上映する映像作品は、以下のような特殊な状況を活用できます。

 

  • 画面を見るしかない真っ暗な隔離空間
  • 視野を支配する大画面
  • 途中で鑑賞を止められない=映画を観ることしかできなくなる
  • 喋れない。ただひたすら、黙って見る=映画を観ることしかできなくなる

 

つまり、映画館とは、「映画を観ることしか許されない、支配的な空間」です。これはかなり、映画を見せる側としては有利で美味しいです。

 

なのに、なぜ、テレビと同じ演出法やレイアウトを、劇場アニメにわざわざ使うのか。

 

大トロを食べる時に、脂の部分を捨てて、赤身だけ食うような、もったいなさ。

 

 

 

どんなに家庭のテレビが大画面高画質化しようと、途中で雑談もできるし、部屋はほどほどに明るいし、何ならメシも食えるし、途中で視聴を一時停止することもできます。

 

全然、テレビは違うのです。

 

劇場・映画館という空間は、見る側の自由にはなりません。

 

どんな飽きっぽい人間でも、映像に集中せざる得なくなる‥‥のは、すごい環境&条件ですよ。

 

 

 

劇場の特性。

 

古くはヤマト。

 

「さらば宇宙戦艦ヤマト」の冒頭で、しばらく真っ暗な画面が続きますが、テレビだったら「もたない」尺の長さです。放送事故とさえ勘違いされるんじゃないですかね、今だと。

 

測ってみたら、「西暦2201年」のスーパーが消えてから、白色彗星が現れるまで、55秒、ただひたすら宇宙空間のフィックスです。パイプオルガンの音が微かに聞こえてくるものの‥‥です。

 

55秒、無音で真っ暗な宇宙空間。カメラワークもフィックス。

 

テレビじゃできませんよね。(いや‥‥某カントクはやるかも?)

 

劇場だからこそ可能な演出です。劇場だからこその、尺です。間です。

 

 

 

新しい古いは関係ないです。

 

新しい調理法はあれど、トロはトロです。

 

トロの旨味脂を捨てて赤身だけ食べる調理なんて、どんなに新しい調理法でも、「素材の調理法」を知らぬ調理人です。

 

映画を作ろうと思うのなら、映画を作る方法が必要です。

 

 

 

さらば宇宙戦艦ヤマトは、当時の雑誌の制作日誌を読み解くと、プリプロに時間はかけているようですが、プロダクションは3〜4ヶ月くらいだったようです。日誌の記述を信じれば、夏公開なのに、その年の3月中旬から作画イン‥‥とのこと。昔はフィルムだし生の絵具だし、公開前のプロモートもあったし、よくまあ、その期間で‥‥。

 

なので、テクニカルの観点では、うまくできてない部分も多いように見受けられ、現在の基準なら半分くらいは何らかのR対象なってしまうでしょう。撃墜され墜落するコスモタイガーの山本の肘が、キャノピーからはみ出しているミスは有名(?)ですよネ。

 

とはいえ、映画人が映画を作ろうとする強い意志を、カット割りや尺からひしひしと感じます。

 

昔の映画っぽい尺のとりかたが良い‥‥と言っているわけではなくて、映画館を意識してシナリオを書いてコンテを切っているか‥‥が問われるわけです。

 

作画作業のカロリーの高いカットを乱発するだけが映画じゃないです。

 

カロリーの高いカットも映画の醍醐味ですが、尺の間の使いかた、レイアウトのとりかたも、映画の風格、品格を形成するのです。

 

 

 

そういった意味で、初代ガンダムの劇場3部作は、強烈に第3部が子供ごころに記憶に残っています。テレビから流用している部分もありますが、新作の映画部分の印象が強くて、大人になって見返しても当時の感情を思い出します。

 

私は子供のころ、映画を観終わったあとの、茫然とする感じが、なんとも言えず好きでした。

 

映画の世界観に取り込まれて、映画の登場人物と一緒にあたかも体験を共有して、そして物語が終わったあとで、映画館の闇から現実の昼間に戻って‥‥と、「映画が映画である」=自分の日頃の現実から隔離されるほど、強烈な体験となりました。

 

ララァとシャアとアムロの関係性は、今見ると、よくまあ、こんな割り切れない心の世界を、子供に見せたものだと驚きますが、大人が「こどもだまし」「この程度でいい」などと手を抜かず「本気」で作るからこそ、少年少女も「よくわからないけど切ない」といつまでも胸に残るのだと思います。

 

 

 

前回書いた(=映像技術と映像品質としてのUX)のは、あくまで技術上の話です。今回はもっと遡って、そもそも映画館で上映する映画を作ろうとしているか、根本的な意識の話題です。

 

UIとUX。映画館というUIと、映画鑑賞というUX。

 

映像制作者ですもの。アニメファンの方々のファン心理に依存するのではなく、映像そのものの内容を問いたいですよネ。

 

 


第1第2

最近の1原2原システムって、レイアウトが第1原画に含まれることがほとんどです。

 

つまり、レイアウトを決めると同時に、原画のタイミング上の全てのラフとタイムシート記入が必要になります。

 

この方法って、もし演出家がレイアウトのニュアンスを変えたい時に、最悪、全直しになりますよネ。

 

レイアウトと動きのプラン(おおまかな動きの数枚のラフ)は一緒でも構わないですが、ラフ原画を一緒にしちゃうのは、前々からやりにくくてしょうがないのです。

 

例えば、絵コンテの上の解釈で、正面のポン寄りズームなのか、カメラを近づけて広角感を出すのか(カメラの位置が顔より下だったら、アオリ気味の顔になります)、判断に困ることがあるのですが、もし演出と認識がズレていた場合、描いたラフ原画は全て無駄になります。

 

で、多くの場合は、原画にはリテークにならなくて、演出上の解釈違いを作監がリカバーすることになります。そりゃあ、テレビ作品と言えど、ひとりでは作監もできなくなりますよネ。キャラの装飾が細かくなった上に、演技の直しまで作監が引き受けるんだから。

 

原画を描いてても、「もし全直しになったら」と非常に不安です。今の第1原画=レイアウト&完全なラフ原は、欠点が多いです。昔の方法のほうが良かったです。

 

 

 

なし崩し的に、急ぎ働き(時代劇だと「人を無作為に殺してでも押し入って強盗する乱暴な方法」をいいます)をするような2010年代のテレビ制作方法には、1原2原システムはちょうど良いのかも知れませんが、丁寧に作るべき劇場作品やネット配信オリジナル作品には合わないんじゃないですかね。

 

実際、以前に、劇場を数多く演出してきた監督・演出さんも、「第1原画は描かなくていいように原画の人に伝えてくれ。タイムシートもつけなくていい。レイアウトだけチェックしたいし、リテークも出せなくなる」と言っていました。私も本当に、そう思います。

 

レイアウトは原画の下書きじゃないですよ。雑なテレビだとそういう作品もありますし、新人の頃はレイアウトの意味もわからないことが多いですが、

 

レイアウト作業の本分はフレーミング〜画面における「要素の配置・構成」

 

‥‥であって、ラフ原画を描いてタイムシートをつけるのが目的ではないです。

 

 

 

誰が広めたのか。1原2原システム。

 

もはや、現場は1原2原システムで塗り潰されてしまったじゃないか。どうするんだよ。レイアウトのまともな作業(描いたり、チェックしたり)ができないじゃないか。

 

紙作画でもペンタブ作画でも両方に関係する問題で、レイアウトチェックというクオリティコントロールの話です。

 

撮影セクションをやってたから実感がありますが、要するにCTやDBなどに合わせた、できるだけ具体的かつ最新の素材が欲しいんだよね、運用的には。

 

でも、それと引き換えに、原画のアニメーターと監督・演出さんとの、演技プランのキャッチボールができなくなったじゃないですか。

 

レイアウトを描く作業で「このカットはちょっとだけあおったアングルにしておきますか?」みたいなメモ書きでやりとりすることができず、必要なセル全部入りのラフ原画を描かなければなりません。

 

1原2原システムのせいで、積極的な演出プランを実践できません。直すほうも、直させる方も、「全部描いちゃったから、直すのはちょっと‥‥」と敬遠します。演出さんは上がってきた絵でなんとか構成しようと、切り貼りのフレーミングを駆使して、それでも直すもっていき場所がない場合は、作監にツケがまわります。

 

 

 

原理的に言えば、今の1原2原システムのやりかたで、第1原画を担当する人って、「演出さんからの信頼が厚く」「レイアウト上の演出力も高くて」「シーンの流れを任せられる」人になります。

 

でも、1原2原システムが席巻している理由はそうじゃないよね。

 

撒けるから。

 

でしょ。

 

つまり、2010年代の深夜テレビアニメの大量生産のために、1原2原システムは必要だったとも言えます。必要は発明の母‥‥がここでも実証されました。

 

実際、2000年代の劇場アニメは1原2原システムなんて「レイアウトがチェックできないから」論外でしたし。‥‥クオリティ重視なのだから、当然です。

 

1原2原システムに依存し続けると、結果的に、2010年代の作画料金体系と価格相場がこれからも続くことを意味する‥‥のでしょう。

 

 

 

レイアウトは作品作りの要です。各カットの実映像の基礎・土台です。

 

レイアウトを軽視する1原2原システムは、やっぱりどうしても馴染めないし好きになれないです。

 

まあ、お手伝いレベルなら、やれと言われればやりますが、自分がメインで絡む作品には絶対に導入しないです。レイアウトがおろそかになったら嫌だもん。

 

 



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