アニメ制作の厚く高い壁

ほんとに根本的なこと‥‥ですが、アニメを制作する上で、プロだろうがアマだろうが、1番の難敵は「物量」です。アニメ制作に関する様々な物量が、分厚く、高くそびえ立つ、越え難い壁となって往く先を阻みます。

 

今や、iMacとiPad ProとAdobe CCとProcreateまたはClip Studioさえあれば、「テレビや映画と全く同等」のアニメ映像が作れます。これは10年、20年前からすれば、とんでもない技術革新です。

 

しかし、機材があるだけでは映像は作れません。

 

そして、技術があるだけでも映像は作れません。

 

現在のアニメ制作内容だと、夥しい物量がのしかかるからです。

 

原画を描くところまでは、iPad ProとProcreateで何とでもなりましょう。Clip Studioと液タブでも「原画」は描けますよね。

 

しかし、その後は、綺麗に清書して動きを1枚1枚追いかけて動かす、過酷な「大物量」作業が待ち構えています。そして、さらにダメ押しで、これまた1枚1枚ペイントする作業が待っています。

 

その1枚1枚の作業は、大物量だからと言って雑に作業してよいわけではなく、あくまで丁寧に1枚ずつ取り扱う必要があります。

 

 

アニメを作るのは、少なくとも今の日本の方法だと、恐ろしくお金と時間がかかるのです。

 

 

例えば、8〜10分=100カットの短編を作ろうと計画した時、どのくらいの物量を覚悟すれば良いでしょうか。

 

原画は、枚数で計上しない作業ですが、仮に1カット6枚くらいの原画枚数だとして‥‥

 

原画作業 => レイアウト1枚、原画枚数6枚(随分大雑把な計算ですがとりあえず、です)

 

原画作業合計 =>レイアウト100枚、原画600枚(100カットで想定)

 

‥‥となります。でもまあ、私の実感として、1カット6枚の原画はちょっと少ない見積もりのような気がしますが、そこはおいときます。兼用カットもあるでしょうから、レイアウトの枚数は90枚くらいになるのかな‥‥とも思いますが、それもおいときます。

 

で、動画枚数です。現在のアニメは22分で5000枚くらい平気で使いますが、多少エコノミーに考えて、10分2000枚で想定しましょう。すなわち、逆算で‥‥

 

動画作業 => 1カットあたり20枚

 

動画作業合計 => 2000枚(100カットで想定)

 

次に、ペイント枚数。動画と同じ数なのはもちろん、マスクなどの追加作業もカウントすると、10〜20%増しくらいにはなることもあります。極力、マスクは別作業にしないように抑えて、10%増しくらいで計算します。

 

ペイント作業合計 => 2000枚+各種素材200枚=2200枚

 

さらに背景を100カット分、計上すると‥‥

 

背景作業合計 => 100枚

 

‥‥と大雑把でかなり甘い見積もりですが、それを承知で「作業枚数」を全部合計すると、

 

100+600+2000+2200+100=5000枚

 

‥‥となります。

 

1枚1枚の作業の重さは大きく異なるので、いくらなんでも雑な計算‥‥ですが、単純に枚数だけで、作業の規模を曖昧にイメージすると、平気で「のべ5000枚の作業」の勢いです。10分の映像を作るだけで、です。

 

もちろん、演出の方々は、実際の現場作業においては、どのように枚数を減らすかの手練手管をもっていらっしいますし、大勢で分担作業によって処理するので、作画枚数やペイント枚数が膨大でも作品作業が完結できるのですが、個人や数人程度の作業規模レベルでは目眩がするほどの物量です。

 

あまり動かさないようにして、半分の「のべ2500枚」に抑えたとしても、自主制作で個人だと気が遠くなる作業量です。

 

Procreate? クリスタ? Toonz?

 

どんなにソフトウェアが安価でも、結局は、既存の制作現場がなければ、アニメなんて作れないですよね。

 

原画マンが、クリスタを買って独りでできることと言えば、自身の担当分の「原撮」くらいなものです。アニメーターがコンピュータ一式を揃えても、旧来技術で制作する以上は、完成映像とはほど遠いペンシルテストどまりの映像しか、実際のところ実現できません。

 

つまり、現業界の標準技術の線上で思考する限りは、大集団作業でしかアニメは作れないのです。そうした技術上の弱み=人的リソースの大消費構造を、現場の人々は暗黙のうちに解っているからこそ、現在の状況を壊して新しく作り変えるような「次のステップ」に進めないのです。

 

私が以前からもったいぶって書いている「新しい技術」とは、まさにその物量問題を根本的に解決する内容です。もったいぶるには理由があって、軽はずみにブログなんぞで新技術の内容を書くと、未来に悪い影響が出ると言っても過言ではないからです。技術の内容を理解されないまま、曲解されて広まるのを避けたいからです。‥‥なので、例え話しかできませんが、ご容赦ください。

 

新しい技術は、例え1秒間60フレームだろうが、画像の面積が4Kだろうが、さして問題ではないです。上述の枚数計算とは大きく異なるコストで計画して制作します。絵を動かす「動力源」が違うので、今までの「馬力」の計算方法が異なるのです。

 

 

 

「馬」という手段を用いた場合、乗馬する人数も29人になりますし、「馬のメンテ」も29頭分になります。29頭の馬を運用するための所要時間も相応に消費します。馬を繋いでおく小屋もかなり広い場所が必要で、乗馬する29人の詰め所も大掛かりになりましょう。

 

旧来のアニメ制作現場は、1人の作業者が1頭の馬にまたがって作業しているような状態です。そりゃあ、現場はごった返すし、お金はかかるし、待ち時間も段取りにも時間がかかりますよね。

 

かと言って、馬を減らして、乗馬する人員を減らすと、もろに「馬力削減が作品に反映され」てしまいます。

 

旧来アニメ制作現場は、こうした「1頭の馬=1人の騎手=1馬力の作業量」に縛られ続けています。どんなに現場の窮状を訴えようが、コストが猛烈に嵩む構造なのですから、改善の目処など立ちません。

 

しかし、動力源を変えればどうでしょうか。

 

馬に跨るのではなく、バイクに跨がれば、さらには、自動車を導入して操縦すれば、状況は劇的に改善されます。

 

上図のバイクの例のように、新しいテクノロジーの馬力は絶大です。

 

「1台のバイク=1人のライダー=29馬力の作業量」‥‥はちょっと「ふっかけ過ぎ」ですが、まあ、概念はそんな感じです。今は「1台のバイク=1人のライダー=15馬力の作業量」くらいにしておきましょうかね‥‥。

 

 

‥‥まあ、例え話ばかりで申し訳ないですが、概念としては、そういうことです。

 

今後、世界は4Kや60pの時代へと自然な流れで移行していきます。そうなれば、29頭の馬では全然足らずに、120頭でも足らないかも知れません。

 

2020年代の商業映像の分野において、もはや、馬に跨る時代は終わった‥‥と私は思っています。

 

もちろん、乗馬クラブのように、馬を愛でる商業があっても良いとは思います。しかし、馬が交通の表舞台から消えたように、何千何万と絵を描いて動かす方式は、新時代の映像フォーマットの舞台に一時的には乗れたとしても(アップコンとかで)、他の新勢力に押されて徐々に姿を消していくでしょう。

 

‥‥だってさ、「今のままじゃ無理」だと、誰でも冷静になれば判りますよね。旧来の方法で、4K8K時代を生き抜くなんてさ。

 


若い世代は、その年齢ゆえに、新しい技術に目覚めて使いこなす可能性を持ちます。それは単に与えられた時間が多いからで、どんなに時間があっても目覚めようとしなければ、いつまでも古い技術で物量に悶え苦しみ続けるでしょう。若い世代は、成功は確約されていませんが(成功は当人の行動とその時と場の状況次第ですからね)、可能性だけは担保されています。

 

一方、私のような40代50代の世代は、残された時間をどれだけ有効に使うか、それが最重要です。

 

 

新しい動力源、新しい技術の力、新しいコミュニケーション、そして新時代の映像フィールド。

 

新しい要素が豊富にある中、その気になれば、「色々なプロジェクト」を開始できるはず‥‥ですよ。

 

 


世代

ちまたでよく耳にする「XXの世代は云々」「OO世代だから」のような「世代性に関連付けた論調」を耳にすると、少なからず違和感を若い頃から感じてきました。

 

「ロスジェネ世代は不幸」なんていう論調も最近は頻繁に見聞きしますが、まさにロスジェネ世代の人が「私はロスジェネなんて括られたくない。ロスジェネだからと卑屈になっている人間と同一視されたくない。」と言い切っているのをリアルに聞いたことがあります。

 

そうなのよ。私の世代も「バブル世代」とか「新人類」とか言われましたが、同世代の人間がまるで同じ性質を持っているかのように括られるのは、強い違和感を感じていました。

 

 

全てのオジサン・オバサンが、事なかれ主義で穏便に事を済まそうとしているわけではないですよ。

 

全ての若い男女が、革新的な物事の捉え方で斬新な思考を獲得できているわけではないですよ。

 

慣習に依存し、日和って荒波立てずに物事を流そうとする人間は、それこそ、老若男女、全ての年齢層に存在します。

 

その逆に、全ての世代において、「今のままじゃダメだ」「もっと方法があるはずだ」と考える人間も、相応に含まれています。

 

 

まあ、たしかに、「世代別に分類して、対決する構造」でものを考えた方が「やりやすい」とは思いますが、仮想敵をファンタジックにでっち上げることは、果たして、行動の良き指針となりえますかね?

 

怒りは原動力になりますから、「若い人間はなっとらん」とか「オッサンが俺たちの邪魔をする」と考えたほうが、テンションも上がるでしょうが、それは「当人が闘争本能を盛り上げるための気分」でしかないと思います。

 

オッサンオバハン層も、若者層も、全然、一枚岩ではないのです。

 

現在の鬱屈した状況を打破するには、若者たちで結束して、未来を変えるぞー!‥‥と意気揚々と盛り上がるすぐ脇で、状況が悪くなったらいつでも日寄れる準備を整えている若者も多いのです。保守的で因習的なものの考え方をする若い人間が多いのは、まさにSNSが示す通りです。‥‥でな、それは何世代にも渡って繰り返されているので、私の若い頃にもあった話です。

 

世代論で物事を図ろう(謀ろう?)とする限り、同じ回廊をぐるぐるとさまよい続けるだけです。

 

 

例えば、危機意識に目覚めた若い20代のひとりの男(女)が、拳を振り上げて「未来を変えるぞ!」と行動して、どれだけ、同世代の他の人間が合力してくれますか? し〜〜〜ん‥‥となって、ひとり虚しく立つばかりではないですか? たとえ賛同してくれたとしても、それは口だけ(今だとSNSですね)で、実際に力を合わせて行動してくれる人がどれだけ現れるでしょうか。

 

‥‥要は、同じ意志を持つ人間たちこそが重要で、世代が「意志の条件」を満たしているわけじゃないですよネ。

 

私は、そうした意味で、自分の世代を含めた、どの世代にも絶望しています。しかし、どの世代にも希望は捨てていません。そもそも人間を世代でくくろうなどとは思いませんので、同じ意志を分かち合える人間と「出会う運命」に、絶望も希望ももっているわけです。

 

 

私は、各世代に点在する、革新を求める人間たちをネットワークしたいと思っています。重要なのは世代・年齢別ではなく、各世代に分散する「異なった考え方ができる」人間たちです。懐かしい言葉ですが「Think Different」な資質を素で持ち合わせている人‥‥ですネ。

 

突出した考えを持つ人間たちが、現代の社会の状況の中で、どのようにネットワークし、どのように姿をあらわすか‥‥が肝です。ゆえに、現代日本の社会の状況は重要な要素です。一方、OO世代だからXXだ‥‥など、さして重要なことではありません。

 

 

全世界で8,000万人(!!!)の死者を数えた未曾有のカタストロフ「第二次世界大戦」が終わった後の、戦後の復興期・高度成長期を、今の時代と比べて何になりましょう。戦後の高度経済成長期と現在が同じであるわけがないのです。

 

地球だってさ‥‥、46億年と言われる時間の経過の中、色々な気候変動を経て、現人類が台頭したわけじゃん? 地球の話を持ち出すと風呂敷を広げ過ぎとも思いますが、「時代の変化に合わせて新しい何かが台頭する」という基本構造は同じです。

 


時代・社会は、ハンデや足枷にするのではなく、ブースターや踏み台にしてこそです。

 

どんな世代の中にも、時代をうまく使える人と使えない人がいて、その国の経済は「うまく使える人」の数で決まるのかも知れません。

 

まあ、確かに、今の日本はそうした観点では「劣勢」かも知れませんね。こと、アニメ制作にしても、です。過去の技術を「デジタル」でトレースしただけでは、決してThink Differentではないです。

 

結局は、今、何を進めているのか、未来のために何に取り組んでいるのか、準備しているのか。その内容が重要です。そして、その水面下の動きのなかで、世代などに拘らず、人間をネットワークすることを徐々に図っていくだけです。

 

 

 

ただ、ぼけ〜っと「俺は50代だ」「僕は20代だ」「私は30代だ」なんて生きてるだけだと、世代論の打算的な甘い誘惑に呑み込まれるように思います。

 

結局は自分、そして人間たちのネットワーク。

 

その自分、そのネットワークは、クレイジーで良いと思いますけどね。

 

‥‥ああでも、そうか。クレイジーの「実践方法」も今の時代に合わせて思案しなきゃ‥‥ですね。色々あるもんね。

 

でも、時代がどうであれ、クレイジーであることは何も変えなくて良いのです。

 

 


作品

いまさら言うことでもないですけど、「作品作り」は「作品のため」にあります。「どのような作品を完成させるか」が常にルート=根本にあり、作品を完成させるために合理的な手段をあれこれ考え出すのがスタッフの役割です。

 

原画の作画を依頼されたアニメーターが、その1カットごとを「作品」と呼んでいるのを、私は今まで1度も見たことがありません。原画を「俺の作品」と呼んでいる人をこの目で見たことはないですし、自分もそんな呼び方はしませんでした。それはアニメーター本人が、原画1カットぞれぞれを作品全体が完成する過程に位置するものだと認識しているからです。これは作画工程だけでなく、様々な工程に対して言えることです。

 

つまり制作に関わる技術スタッフは、その作品が完成していく過程に必要な「中間的な制作物」を「技術的な対価」と引き換えに提供するわけです。「中間制作物」「中間素材」を制作する力量を見込まれて、「作業費」という対価をもって作業を依頼されます。

 

作品とはそのプロダクトの完成物を指して呼び、制作過程で生じる様々な中間素材は、一般的には作品と呼び表しません。

 

 

とは言うものの、「作品」という言葉は厄介です。大辞林を読んでも、一切、「完成物だけが作品」とはどこにも書いてありません。実際に、クリムトやダヴィンチのラフスケッチも作品として認識されていますし、ベートーヴェンやショパン、マーラーなど作曲家の生前に出版され作品番号(op.)が付与されている楽曲以外〜草稿や未完成の遺作なども後に整理され作品目録に加えられているものもあります。

 

私は「作品」という言葉について、20代の中頃、もう20年以上前に考えて見たことがありました。つまり、「自分の描いた原画は作品と呼べるか否か」です。

 

原画を何十枚も描いて表現などを凝りに凝って描いたものは、もはや自分の作品と言えるんじゃないか。自分の作品と呼ぶに値するのではないか?‥‥と。

 

しかし、考えれば考えるほど、ややこしくなったのを今でも覚えています。

 

動きの表現を膨らましたのは自分かも知れないけど、描いているキャラクターは自分が発案したキャラではないな‥‥。そして、その動きの根本となる「演技」や「芝居場」も、自分で発案して考え出したものではない。

 

でも、画家の作品には「神話」や「聖書」を題材にしたものも多く、それは画家のオリジナルストーリーではないし、出てくる「キャラ」も自分で発案したものではない。にも関わらず、世界中で「作品として」認識されている事実がある。

 

完全オリジナルで引用無し‥‥だけが作品ではなく、原典の存在する作品も、作品足り得るようだ。

 

とは言え、「作品」と呼ばれているものは、作者の意図した完成品だろうが、中途の「遺作」だろうが、「作品制作作業の最終点」に到達したものが「作品」と呼ばれていることだけは共通していそうだ‥‥。

 

でも、それは自分の知っている事例がそうであるだけで、制作の中間物を「作品」と称している事例もあるのではないか‥‥。

 

そもそも、自分の注ぎ込んだ情熱の「量」を認めてもらいたいがゆえに、自分は、自分の作業物を「作品」と呼びたいだけなのだろうか。

 

情熱や作業所要時間の量が大きいものは、その時のキモチ次第で「作品」と呼んでいいのか。

 

それって、結局、自分の都合、自分の「さじ加減」だけではないのか。

 

‥‥‥‥‥‥‥‥。

 

わからん‥‥。

 

 

‥‥というような泥沼にハマって終了。若い時分にはありがちな悩み‥‥かも知れませんネ。

 

ある程度、真剣に自分の技量と向き合った人たちなら、誰もが(深刻度の大小はあれ)若い頃に考えてみる議題だとは思います。

 

 

今のところの私の見解は、「プロジェクトの完成物として他者に提供する成果物」を「作品」とみなす‥‥というスタンスです。でもまあ、この考え方も視点次第ですが、「概ね」、「作品」と呼べる「基準」と思います。

 

ですから、作者の「未完の遺稿」でも、作者の死後に何らかのプロジェクト(演奏会や作品展など)で発表して提供した時点で、「作品」として認識されるのだと思います。

 

 

映像作品は、一般の観客・視聴者が受けとるのは、ぶっちゃけ、作品の最終形態だけです。中途の事情などは酌量されず、完成物において全てジャッジされます。‥‥というか、様々な作品や製品でも同じですよね。

 

自分の「作業最終形態の結果物=作品」を誰か他者に届けたい場合は、自分の作業結果物を「製品」として何かしらの「流通ルート」を開拓していくしかないです。それによって、開拓ルートを切り開くのも「タダじゃない」ことが判るでしょうから、「世の中の仕組み」を学ぶことにもなりましょう。

 

なので、若い頃に思ったのは、自分の原画を「作品の体裁」にしたいのなら、自分の原画そのものがお客さんに提供されて対価を得るほか、道はないだろう‥‥ということです。映像完成物ではなく、自分の作業成果物そのものが、お客さんに直に提供されてこそ、お客さんに認識されるわけです。そして、それが「実質的に不可能だ」ということにも考えが至りました。そもそも、「原作何々」の絵を描いている時点で、無理ですよね。原作使用料を原画1枚ごとに原作著作者に支払う?

 

完全オリジナルの完全自主制作‥‥という道を、誰もが考えて、多くが挫折します。

 

ただ、私のこうした思索は、法律の広範な知識など全くない素人の「考え事」なので、もしかしたら、現在・未来において、著作隣接権・録音権に相当する権利が原画などを含めたアニメ制作中間素材に適用される事例も今後あるかも知れません。

 

まあ、現在の私が旧アニメ制作現場に関わる際は、原画などの作画成果物を自分自身の作品や所有物だなんて思いもしないので、好きにやってください‥‥という感じです。

 

私は作業個々の著作隣接権なんてあまりにも途方がなく不可能だと思うので、むしろ、アニメ制作技術の対価の抜本的な見直しが必要と思います。

 

 

‥‥が、作業対価の見直しや作業規模のコンパクト化など未来に向けた様々な取り組みは、全て、新しいアニメーション技術で展開します。「古い箱の中」では、もうどうにも、直しようも広げようもないです。

 

今のまま和気藹々と荒波を立てずにやりたい人は昔の箱で、新しい映像技術と現場を困難承知で築きたい人は新しい箱で、‥‥という事に尽きます。

 

 

 


子孫たち

未来の技術展開を思う時、自分たちは「大戦争に負けた国の子孫」なのか、「ボロボロの焼け野原から奇跡の大復興を遂げた国の子孫」なのかをよく考えます。

 

つまり、日本で生きる人間は、「自分らの過去の実績に慢心して新たなる大きなプロジェクトで失敗して全てを失う」可能性も、「僅かなチャンスをきっかけにして技術を地道に積み上げて大いなる成功を得る」可能性の両方を持ち合わせているわけです。日本の国民性は両極端な性質を内包しているのです。

 

開戦半年で劣勢へと転じた太平洋戦争の負け戦の子孫でもあるし、悲惨な敗戦から僅か十数年で復興し高度経済成長を成し遂げた子孫でもあります。まあ、どう考えても、前者にはなりたくないですよね。

*Wikipediaの記事を読んで驚くのは、戦中の軍需増産の時期も高度経済成長レベルの成長率があったことです。まあそりゃそうか‥‥とも思いますが、そんなのも何だか現代にトレースしてそうで嫌ですね。好景気=勝つ‥‥という図式には必ずしもハマらないことを、歴史は教えてくれます。

*歴史を紐解くと、近年のアニメ業界の制作本数の多さは、結局は崩壊へと突き進む好景気だった‥‥のかも知れませんね。

 

 

しかし、不思議なことに、同じことは何度も繰り返されます。「インパール作戦を地で踏襲するような作品制作」をアニメ業界で見聞きします。

 

要するに、良いことも受け継ぐ一方で、悪いことも受け継ぐんでしょうね。

 

そして、過去の日本人と同じ轍を踏んでいることを、当事者は全く無自覚だったりします。

 

‥‥これがいけないんだと思います。歴史から学べない、経験を活かせない‥‥ということが。

 

でもまあ、「その場の雰囲気で気取る」国民性も、何百年と踏襲しているんでしょうね。ゆえに、戦中の御前会議のような有様=マズいと解っててもその場の空気を優先して合理的な判断ができない人々と化す‥‥のでしょう。

 

 

どんなに大人数で寄り合っても、失敗する時は失敗するし、どんなに少数でも、新たなムーブメントを興すことは可能です。日本の歴史の数々が証明しています。

 

日本の気風を受け継ぐ人間たちは、「大負けする底力(普通、そういうのは底力とは言いませんが)」も、「大勝ちする底力」も、両方持っています。

 

 

大転換期において、日本のどちら側の子孫になり得るか。

 

私は、大戦争に負けた子孫の側にはなりたくない‥‥と思うのからこそ、今、そして未来に、何をすべきをいちいち愚直に考えるのです。

 

 


勝負は時の運

戦に限らず、ビジネスでも、「勝負は時の運」なんて言ったりします。

 

ことわざ辞典によると、

 

勝負は時の運とは、勝負に運はつきものだから、必ずしも実力通りに決まるとは限らない。

 

‥‥とまあ、要するに「物事の成功の可否は、事前に100%予測できるものではない」と言うことです。

 

ただ私は、このことわざを単に「運任せ」のことわざとは解釈しておらず、「勝負するのなら、時を味方にしてこそ、運が呼び寄せられる」‥‥というようにも受け取っています。要は、「運も、時の扱いかた次第で、大きく変わる」ということです。

 

大きな物事を動かそうとするのなら、「時」代性を利用し、「時」間を有効に活用してこそ、運=チャンスは自ずと近づいてくる‥‥と思うわけです。これは過去の経験の数々からしみじみ実感します。

 

私は技術屋なので、技術の時代性をどのように自分らのプロジェクトに利用すれば良いのか、技術体系の初期段階において何をどのような順番で着手していけばよいのかを、よく考えます。

 

漠然と日々の作業をこなしていても、枠内の小さな変化だけで、大枠での未来が一向に開けないのは、アニメ業界に10年もいればよくわかっているはずです。まあ、そう言った意味では、アニメ業界に在籍するスタッフは、時を「消費する」ことにしか使えない(使わさせてくれない)がために、運から見放され続けている‥‥と言っても言い過ぎではないでしょう。運が味方しているのなら、少なくともブラック業界なんて呼ばれないはず‥‥ですよね。

 

ただ、誰かが「時が運を呼び寄せてくれる」のを待っているから、アニメ業界の人々は一向に報われない‥‥とも言えるわけで、まあ、他人任せではなく、自分で動かんとだめでしょ。‥‥待っているだけでも「時」は過ぎていき、「運」も遠ざかっていきますからね。

 

時間はそれこそ1秒単位なので、果てしなく感じますが、考えてみれば、技術だって1つ1つ覚えていくもので、果てしないものです。

 

果てしないから諦める‥‥なんていうことを繰り返していると、運は一向に歩み寄ってきてはくれません。技術を積み上げてきた作業者なら、そのあたりは言われなくても重々承知でしょう。技術だけでなく、自分の「運」に関しても、積み上げれば良いだけのことです。

 

時代性を利用し、時間を有効に活用するには、ショートカットなどあり得ない‥‥と実感します。「時」の進む中で、地道に積み上げてこそ、いつしか大きな建造物が出来上がり、「運」がまるでお客さんのように、その建造物に集まりはじめるのです。‥‥そうしたありさまは、昔っから、何も変わってません‥‥よね。

 

 

 

 


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