合理

自分の未来のために、アクションを開始しようって言っても、すぐに判で押したようには判断できない。‥‥というのは、確かにあるのでしょう。しかし、外食のメニューの中から何を食べようか迷っているのとは違って、プロの仕事上の判断、しかも自分が関わってきた仕事の話ですから、あくまで合理的に判断すれば良いのです。

 

そう言えば、学校の何らかの授業で、具体的に「合理的な判断の方法」って教えてもらってましたっけ?

 

私は記憶にないんですよネ。

 

もちろん、方程式や図形問題など、応用すればいくらでもあるんですが、何か社会の物事に対しての具体的な、合理的な分析と判断って、どの教科のどの項なのか、昭和の私は記憶がないです。平成の子たちは何らかの授業で教えてもらってたのかな‥‥。

 

戦争論は、先の大戦の影響ゆえに今でも日本では禁忌のように扱われますが、要は戦争論って、自分が負けずに相手に勝つための、合理的な分析と方法論なんですよネ。本物の戦争でなくても、今や世界は近代ビジネス戦争を100年戦争のごとく延々と繰り広げているわけで、昔から戦争論はビジネスに応用できると言われています。

 

拡大解釈や曲解しないでおきたいのは、戦争論を学んだからと言って、戦争をガチでしたい人はほとんどいないということです。実際、戦争が本当に勃発したら、特に娯楽ビジネスなんて大打撃も甚だしく、アニメなんてとても作ってられない世の中の状態、そして民衆の雰囲気になるでしょう。

 

ただ戦争がどのような性質であれ、人間が繰り返して積み上げてきた戦争の体験は、どうすると負けて、どうすると引き分けて、どうすると勝つのか‥‥の記憶の財産のようなものですから、実際に戦争をしなくても、参考になることはいっぱいあるわけです。

 

 

 

例えば1944年のアルデンヌ攻勢。

 

ドイツ軍が連合軍、特に米軍の支配地域に対して総攻撃をおこない、戦況の転換を図る大攻勢が第二次世界大戦末期にありました。

 

ドイツ軍による恐るべき大規模な攻勢の兆しを、米軍の情報分析の将校は事前に察知していましたが、上層部に報告したところ、

 

「ドイツ軍には、もうそのような力は残存していない。エニグマ暗号を解読しているが、そのような通信も傍受していない。過度な思い過ごし、日々の過労による強迫観念だろう。後方に下がって、休養したまえ。」

 

‥‥と上層部が判断し、将校に休暇を与えた、まさに2日後、アルデンヌ攻勢は開始され、米軍をはじめとした連合軍に大量の戦死者・負傷者、そして捕虜を生じる事態となりました。

 

米軍は合理的な分析と判断ができるはずでしたが、エニグマ暗号を解読して完全に傍受しているという自信が、合理的な要素を無視して、非合理な判断へと結びついた‥‥とも言えます。そこに加えて、合理的な判断のパターンに慢心していたのかも知れません。

 

山崎雅弘さんの「豆本」シリーズの、「米軍から見たバルジの戦い」からの一節、

 

型にはまったパターンを多用する「合理主義」は、想定から逸脱した事態に直面した際に有効な対応策を見出せず

 

‥‥というくだりは、まさにアニメ制作現場の「デジタル」作画導入にもあてはまる、戦争からの教訓です。

 

今回、合理的な思考の必需性を書いているわりには皮肉ですが、型にはまった合理主義は、もはや合理主義とは言えない‥‥のでしょうネ。

 

 

 

合理的にものを考える必要はあります。要は、型にハマって慢心しなければ、良いのです。

 

日本の学校教育は、少なくとも私の世代は、「情熱をもって頑張って精一杯努力する」ことを教えられました。そのこと自体は、全然間違っていないと思います。

 

しかし、「ものの成り立ちを考えて、あらゆる角度から分析して、目標に合致した条件を選別し、実行方法を確立する」ということに関しては、実践的なメソッドを教えてくれなかったように思います。

 

私は戦史を読むうちに、気づきの機会を得られましたが、みなさんはどうでしょうか。

 

慣習や惰性で仕事を流すようなことを「鉄板」の方法論と思い込んでいるだけで、実はものすごく非合理なジャッジを延々と繰り返しているのではないか‥‥と、たまには自分を突き放して客観的に冷徹に分析してみても良いとは思います。

 

 

 


10年の足し算

とても簡単な足し算の話‥‥なんですけど、今、紙だけを使って作画をしている人は、10年後には10歳、歳をとっていますよネ。つまり、紙オンリー世代は新たにどんどん若い紙オンリー世代を育てていかなければ、必ず「世代として老化」するということです。

 

10年後には、10歳、歳をとる。

 

そのことをあまり考えなくて良いのは、20代の人間だけで、40〜50代の人間はかなり深刻です。

 

本当に紙だけで未来10年20年と続けていけると思っている人は、どれだけいるのか、アンケートしてみないとわかりませんが、20年後‥‥となると、「紙ではなくタブレットで絵を描いている」と思う人間は相当多いはずです。

 

そこで不思議なのは、未来はタブレットで絵を描いているだろうと思う人が、今はタブレットで絵を描かないことです。

 

未来もタブレットは使わない!‥‥と思っている人が、今使わないのは判るのですが、未来に使うと思っていて、なぜ今から使い始めて慣れていこうとしないのかは、要は「締め切り」がまだ先だと思っているから‥‥なんですかネ。

 

今は過渡期とは言われますが、結構長い、過渡期ですよね。ぶっちゃけ。

 

技術を習得しプロとしてお金を稼ぐことを、何らかでも実現してきた人なら判ると思いますが、タブレットだってある程度の慣れの期間は必要ですよ。最初の1ヶ月2ヶ月は、些細な描線とてぎこちないですが、やがて慣れてきますもん。そこにきて、ソフトウェアの使い方を暗記するわけですから、脳が柔軟なうちに覚えれば覚えるほど、自分の身につきやすくなります。

 

そして、コンピュータを使う流れとか段取りの定番にも慣れて、他のソフトを新たに覚える時には、最初より効率的に覚えられます。

 

つまり、未来の道のりがわかっているのなら、とっとと始めちゃった方が良いということです。

 

 

 

10年歳をとる。

 

つまり、10年老ける。‥‥ということです。

 

人間の年齢は、等価ではなく、加齢とともに効率や適応力が鈍ります。現在の1年と、10年後の1年は、確実に価値が異なるでしょう。

 

10年後には、今と同じことはできない。

 

私は心底、発売後すぐにiPad Proを買ってよかったと思います。初代iPad Proが発売されてからの4年間は、時間の効率が上がりました。‥‥つまり、アラウンド50で時間の「燃焼効率」は下がっているはずなのに、新しいことにどんどん挑戦できて、かつ、道も開けてきました。

 

*これは第3世代。‥‥1TBもなくても、256GBで十分ですよ。定期的に外にデータを逃せば良いんだし。

 

くそ〜‥‥、私の20代に、いや、せめて30代に、iPad Proが発売されていれば! ‥‥というのは、言わないことにしましょう。私の20〜30代は、それはそれで、やることがいっぱいで、精一杯生きたとは思いますもん。恨み節は無しです。

 

 

 

2019年の現在は、2009年とは違います。ネットのインフラは、相当進化しました。

 

つまり、2029年も相応に社会は進化しているでしょう。4KHDRは特に言うまでもなく普及しているでしょうし、VRARの世界はどんどん画素密度とFPSが上がってリアルな体験をユーザに提供するでしょう。

 

そうした未来世界において、自分の立ち位置を決定しているのは、実は現在の自分の行動だったりします。

 

その場その場でうまくやれば良いとも思いがちですが、それは時代の潮流に流されて無為に歳だけをとる典型であって、自分の10年後を定める命綱は、今しっかりとアンカーを打ち込んでこそです。

 

 

 

私は、10年前に考えていた自分自身の未来予想と、そんなにズレていません。だって今、ちゃんと4Kを仕事として作ってるもんな。

 

社会も、「足し算の通り」に、進化しています。

 

トリックなんて言えないほどの、簡単な計算式です。

 

10年後は2029年。20年後はなんと2039年になっていることでしょう!

おお! なぜ、そんなことが判る? 予知能力者か!?

 

‥‥って、インチキ芝居みたいなことでも、「足し算をしない人」には魔術・超能力に見えるんですよネ。

 

 

 

自分の状況における、10年の足し算をしてみましょう。

 

そうすれば、今何をすべきか、イメージが湧いてくると思いますヨ。

 

 


変わるものと変わらないもの

世の中のものごとには、頻繁に変わっていくものと、何十年も変わらないものと、結構様々にバラつきがあります。‥‥で、特に映像制作に用いるコンピュータは、頻繁に変わる類いになります。

 

商業映像作品の制作そのものが、その時代の流行を反映したり、社会的なインフラや技術発展の強い影響を受けるからです。

 

別に今でも、720x486で映像は作れるんですよ。でも、そのSD時代のフォーマットで作っても、今では商業映像作品として売り物にならないので、SDサイズでは皆もう作らないのです。

 

一方、MXRのDynaComp。今でも1972年リリース当時から基本設計を変えぬまま、DC電源ジャックを世界標準に合わせるくらいのマイナーチェンジで、今でも作り続けています。1972年なんて、まだ生まれていない人も多いですよネ。

 

EOSの廉価50mm三代目で撮りました。iPhoneのカメラで写したのとは、細部のディテール描写、発色など「存在感」が全然違います。考えてみれば、単体レンズ製品も寿命が長い類いですネ。10年20年はあたりまえのようにラインアップされます。

 

 

1970年代のDynaCompを、2019年の今の技術に合わせて「デジタルシグナルプロセス」にしようものなら、全世界の愛好者からブーイングが巻き起こるでしょう。「こんなのDynaCompじゃない」と。

 

どんなにハイレゾの世の中に変わろうと、DynaCompはそのまま。

 

DynaCompは、それこそ、オープンリールのマルチトラックの頃から、100トラック以上も可能な現在のMac/PCのワークステーションまで、変わらぬ姿と音を提供し続けています。

 

EOSも、本体は「デジタル一眼レフ」に変わろうと、使うレンズは50mmの二代目(現在の三代目〜STMの前のモデル)でも雰囲気たっぷりに撮れて、第2世代のファンも多いようです。

 

 

 

何を言うても、変わっていくものと、変わらないものと、色々なものの中で生きていくだけのこと‥‥です。

 

移ろいやすい性質のものに「どんどん変わるな!」と目くじらをたてて怒って、変わらないことで価値があるものに「古い!」と怒るなど、むやみに怒るだけ「怒り損」です。

 

時代の流れに合わないことで価値が下がるのなら、合わせていけば良いと思います。時代とはあえて合わせないことで価値を有するのなら、そのままで良いです。

 

 

 

映像もSDからHDへ、そしてHDからUHDへと変わっていきます。VHSを使っていた家庭は、今やHDDレコーダーやBD-Rに変わりました。そしてもはやテレビ放送を録画するだけでなく、録画せずとも繰り返し見たい時に自由に見れる、ネット配信映像も随分とUHD〜4KでHDRのクオリティでどんどん普及が進んでいます。

 

昭和テイストのコミックやアニメの絵柄が時代を象徴したように、いわゆる「萌え」と呼ばれる絵柄は平成テイストとなって、令和にはまた新しい何かが台頭するでしょう。

 

平成に20代だったアニメ好きの人は、令和10年には30代ですから、もはや若者ではなく、中年に差し掛かります。

 

身の回り、そして自分のカラダが移ろうのを嘆いてもただ寂しく悲しいだけです。

 

時が移ろい、世の中が移ろうことを楽しめなくなったら、まあ、それはもう、ココロまで老いてきた‥‥ということでしょう。

 

変わるもの、変わらないもの、両方の性質をうまく活かせば、ものごとのネガティブな部分ではなく、ポジティブな部分を自分の人生に活かせると思うんですよね。

 

令和はキビしい部分もあるでしょうけど、楽しいこともいっぱいだ!‥‥と、やりたいことが多くて困るくらいでちょうど良いです。

 

 


Adobe「認定外文書」の波風

CS6を使っている人にはかなり深刻な内容を、サラっと短い文書で通達するあたり、色々な憶測や混乱、波風や同様が広がったとしても、それはまあ、アドビの配慮不足だわな。

 

  • CS6の単体パッケージをシリアル番号付きのライセンスで購入したユーザまで、認定外になるのか
  • CCのユーザだけがCS6が認定外となるのか
  • 具体的にどの部分で権利侵害を第三者から主張される可能性があるのか

 

今回の「認定外文書」では、このあたりの説明が大雑把すぎて、読んだ人毎に色々な憶測が飛び交います。

 

もっと、ちゃんとわかるような文書にすれば良いのに、騒動を先読みして、わざと曖昧にしてるのかな。

 

私は毎年最新版に更新していますし、仕事を引き受ける時もCS6は動作しないことを告げるので、何ら問題はないですが、CS6が使えることに魅力を感じてCCを契約している人は、業務に大打撃を被って、憤慨しても当然ですよネ。

 

 

 

でもやっぱり、古いバージョンはこうした危険というかリスクはどうしても付きまといますよネ。

 

2020年代〜令和の、新しい運用方法を考える、良いきっかけとは思います。

 

 


CCの認定外か

今回のCC「認定外」文書は、冷静に解読してみると、

 

Adobe CCのユーザは、CS6からCC2018未満のバージョンは使わないでください。

 

‥‥ということだと思います。CS6単体をパッケージなりダウンロードなりで買ったユーザは対象ではないように文書から受け取れます。

 

CCのサブスクリプションの範囲で、CS6はもう「CC認定外」になる‥‥という話だと思います。

 

権利関係にデリケートな欧米が、サブスクリプションではなくライセンスを売った旧ユーザに対してまで「もう使えなくなります」とか、簡単に宣言できるとは思えませんもんネ。

 

 

 

う〜ん。

 

だとすれば、アニメ業界のCS6帝国はまだまだ続きそうな予感。

 

 

 

でもまあ、いいや。私らには関係なし。

 

CCなので、CS6の仕事はできません!‥‥と明確に交渉できますしネ。

 

そもそも、未来の新基準の映像を制作して生きていくのに、CS6ではもう太刀打ちできんもんネ。

 

最新版のCCでもまだ未来のフォーマットに対応できず遅れている印象があるくらいですから、CS6を使う機会などもうないです。

 

未来を前にして、それぞれがそれぞれの考えで進めば良いと思います。みんなで仲良く淘汰を生き残ろうなんて、やっぱり無理だもんねえ‥‥。

 

 

 

時代遅れの零戦を大戦末期まで使い続け、最後は特別攻撃にまで駆り出す「日本人の血」が、アニメ業界のCS6の運用にも表れている‥‥と思います。

 

商用で使うのなら、もう眠らせてあげようよ。CS6はさ‥‥。

 

 


CS6も断捨離だった

昨日、同僚曰く「戦慄が走った」との「アドビの断捨離」。(文書はこちら

 

つまり、最新とその1つ前のバージョンだけを認定して、それ以前は「認定外」〜ソフトを支えるパテント関連だか内部ライセンスだかの面倒見を打ち切るのか、「今後使い続けると第三者から権利の侵害を主張されるかも」と告げた文書は、よ〜〜〜く見ると、CCだけではなく、CS6(なぜかCS5以前の表記はない)も含まれているようです。

 

*何気なく「CC」の文字が添えてないのが、CS6のようです。After Effectsの「11」はCS6でした。

*文書中の「 Creative Cloudの認定外のバージョンの使用またはインストールを継続した場合、第三者に権利侵害を主張される可能性がありますのでご留意ください。」との一文は、「権利侵害」の単語を用いるあたりで、「商用で使っているのなら、もう昔のバージョンは使わないでね」という暗黙のメッセージとも思えますネ。

 

 

私は最新版をいつも使うようにしてきましたし、CCが発表される前=最新版を自由に使えるサブスクリプション以前の時代は会社組織とのバージョンアップ交渉が撮影監督・作業班チーフの大きな役割の1つとも考えていました。なので、CS6を使っていたのは遥か昔で、CCが出た時は飛びついたものです。たしか、映画「ジョバンニの島」の頃だったと思います。

 

しかし、アドビも後ろめたいキモチがあるんでしょうネ。ハッキリクッキリと「CS6もダメ〜〜!!!」とは、文書には一切「CS」の文字は明記していませんもんネ。永続ライセンスと謳ってしまった過去の「売り文句」に弱みがあるのでしょうかね?

 

まあ、アニメ業界もそろそろ潮時ですよネ。CS6で時間稼ぎと金稼ぎをするのは、どんどん辛くなる一方ですヨ。

 

 

 

何度も書きますが、どんなに「アナログ派」「自然主義者」を気取っていても、今はコンピュータなしでは社会は成立しない構造にハマっています。自然主義者を自認して「森と動物たちのアニメ」を作ろうが「デジタルデータ」からは逃れられません。さんざん電気やデジタルデータや重工業や製造業の恩恵を得て生きているのに、自然派などとは往生際が悪い。

 

今や、デジタルデータ構造の電気信号で生活も商売も成り立っていることを、ちゃんと、明らかに、認めたほうが潔いです。

 

もし、そんなのイヤだというのなら、人里離れた山奥で、キツネやタヌキやリスやクマたちを相手に、パラパラマンガを披露して、その対価としてどんぐりやキノコやクルミを動物たちから貰って、生きていけばいいんじゃん? 多分、山奥にひとり放り出されたらサバイバルできなくて死ぬと思うけどね‥‥。

*細かく言えば、服着て靴履いて、紙と鉛筆で描いている時点で、工業の掌の上‥‥ですネ。

 

 

 

現在制作される商業アニメは、ほとんど全て、100%といっても過言ではないほど、デジタルデータによって、人々の目と耳に届きます。

 

そしてそれを支えるのは、コンピュータやネットワーク機器などのハードウェア、Photoshopやサーバなどのソフトウェア、世界中をネットワークするケーブルや電波などの搬送経路です。

 

それらはメンテすることで機能を維持しています。地球の大自然のシステムには存在しないものですもんネ。

 

だったら、それを使っている以上、メンテに対しても例え間接的な構造であっても対価を払わないと成り立ちませんよネ。

 

 

 

やはり以前に書いたことですが、ず〜っとCS6のままで維持して、いざ、新しいバージョンに刷新しようと思った時、そのリプレースに関する出費はソフトウェアの更新や導入費だけじゃ済みません。周辺の機材も含めて、機材リプレースほぼ一式が必要になります。

 

アニメ業界において、今までCS6に留まり続けた理由は、PhotoshopやAfter Effectsだけの問題ではなく、プラグインの更新費用、マシンとOSの更新費用など、イモヅル式に金がかかるのを抑えたいからでしょう。

 

だから、分散して一度ではなく複数回に分けて、環境を更新する必要があるのです。

 

コンピュータはOA机や椅子とは違って、壊れるまで使える一生物ではなく、短期〜中期スパンで更新が必要な機材です。アニメ制作会社といえど企業ですから、その辺の必要経費や固定資産のサイクルはちゃんと計画しておくべきでしょう。

 

思うに、CS6を使ってきたアニメ制作会社は、

 

CS6>CC最新版

買い切りライセンスからサブスクリプションへの移行

機材維持に関する意識改革

 

‥‥でまず大きく出費を余儀なくされ、さらには、

 

2KHDのSDR>4KUHDのHDR

2020年代の映像産業の品質標準への対応

過去の機材の老朽化を乗り越え、新時代の機材への更新

 

‥‥という「ものすごい威力の顔面ヒットのダブルストレートパンチ」を体験することになりましょう。「相手」の攻撃をうまくかわしてジャブに分散させておけば、反撃のチャンスもあったろうに‥‥です。

 

「ありときりぎりす」の童話で例えるなら、未来への備えをずっと誤魔化して軽視して手付かずのまま、冬を迎えるキリギリスのようなものです。色んな新しいことにあっちもこっちも手を出しているほうがキリギリスに思われそうですが、実は逆だと感じます。誰かが実践したカタチを踏襲するだけで自分からは新しい方法を模索せずに日和っているほうが、私にはキリギリスに思えます。

 

「キリギリスなんて酷い言いかただ。自分はコツコツとやってきた。」と言っても、未来への備えに対してもコツコツとやらんと、特に厳しい令和の時代は生き残れないと思います。現状に甘んじていた時点で、やはりキリギリスと言えるでしょう。

 

「自分たちの時代は平成で終わった」‥‥と店を畳むのも、それはそれで判断の1つとも思います。さらにはアドビに確認してCS6のさらなる生き残りを模索するのも生き方の1つでしょう。

 

私は未来の映像技術とともに、未来の社会とともに、アニメを作っていきたいので、今までと変わらぬスタンスで、モダン(Modern)な環境性能も映像制作の一環として臨んでいきたいと思います。

 

 

 

ちなみに、現在のAfter Effectsは、エクスプレッションのプチエディタ部分に行番号が付与され、文字色で語句のジャンル分けもでき、さらには入力補完機能もあります。つまり、ESTKのエディタがAfter Effectsのレイヤーの中に同梱されたような感じです。

 

 

皆で最新版で示し合わせれば、煩雑で面倒なバージョン違いも発生しません。実写系の仕事をした時に、「バージョン何々」ではなく、最新版で統一した運用はやりやすかったです。アニメ業界だけでなく、色んな映像ジャンルの仕事をすると、運用面で学ぶことも多いです。

 

 

 

 


CCの断捨離

Adobe CCの2018未満が使えなくなる‥‥というニュースが昨日流れましたが、あくまでCCであって、CSには言及していませんよネ(注釈)。CS6は相変わらずアクティベーションサーバが生きている限り、永久ライセンス(という言い方もナニだが)に変わりはないように思います。

 

注釈

CS6とは明記していませんが、例えばAfter Effectsは「認定外」のバージョンが「CC 14, CC 13, CC 12, 11 」となっており、よ〜く見ると「11」にはCCの添え字がなく、改めて確認すると「After Effects バージョン11」は「CS6」のことで、つまりCS6もシレッと認定外宣告されているようです。

なるほど。

戦慄が走った!‥‥という同僚の表現は、確かに大げさではないですネ。買い切りライセンスまで断捨離するとは、アドビもなかなかの‥‥。

 

ただ、これによって、CSから連続してバージョンアップしてきた流れは分断され、CCは最新マシンと最新OSの環境、CSは旧型マシンと旧式OS‥‥といった具合に棲み分けが完全に成されることになります。

 

俗世とはおさらばして、旧型マシンと旧式OSとソフトウェアで、隔離環境を作る‥‥というのも手は手なんですけどネ。私はその方法は採りませんけど、やろうとしていることが限られて、ネットにもアクティベーションサーバ以外はアクセスしないのなら(セキュリティアップデートから見放されるため)、それもまた生きる道でしょう。

*macOSではEl CapitanでCS6は打ち止め。Java6が動かない環境では、CS6は動作しないとのことです。

*俗世とおさらばするということは、昭和平成のアニメを2Kで打ち止めて作り続ける‥‥ということです。令和以降には対応せずに。

*もしかしたら、「認定外でもどうにか使う方法はないのか!?」とアドビに迫る一幕もでてきそうなアニメ業界。

 

10年後のアニメ業界って、どんな制作環境で、どんな作り方をしているんでしょうね。世間は4Kが当たり前になっているでしょうが、日本のアニメ制作現場の作る解像度は果たして4Kになっているのか、‥‥そもそもアニメの本数や公開形態はどのように変わっているか、色んな要素において今とは違った状況が予想されます。

 

現在30代の人は40代、40代の人は50代、50代の人は60代。最後のベビーブーム世代は皆50代で、アニメを取り巻く環境も随分と変わっているでしょうし、‥‥もしかしたらまだCS6を使ってたりしたら、それはそれでスゴいことです。

 

でもまあ、普通に考えて、日本の社会全体は萎んでいくだろうなとは思います。ベビーブームの経済効果をナメてはいけないのです。だからって、戦争特需なんてイヤですしネ。

 

どう考えても萎んでいく未来社会で、どうやって生き残るか。貧困に陥らずに済むか。「有能でなくても頑張らずに最低限度でも生きていける社会」なんて、どこにその根拠となる構造があるのか。頑張らなくても最低限でも税金はしっかり搾り取られて、社会を支える今以上の「肉燃料」になるだけじゃないのかな‥‥。

 

私はCS6ではなく、最新のソフトウェアで、「悔いのない」作品制作を全うしたいです。それは公的にも私的にも、すべての創作の取り組みにおいてです。

 

取り返しのつかない老人になった後で、「もっと頑張っておけばよかった」なんて後悔したくないもんな。

 

 


誤字

相変わらず、誤字が多い私。文章も後から修正するので、接続詞もおかしくなり気味です。

 

なので、速攻で書くツイッターにはとても向いてないと思うのです。

 

そもそもスマホで文字を打つのが苦手で嫌いですし。

 

訂正できるブログが精々です。

 

 


「文化的で最低限度の生活」

‥‥とは、いかなる生活か。

 

ツイッターで見かけたこの文言。おそらく、発信者は「非文化的」な体験も、「最低限度」の生活も、体験したことがない人ではないかと思われます。一見具体的に思えて共感を呼びやすい言葉ですが、実感が言葉から感じられません。

 

特に有能でなくても頑張らなくても、文化的で最低限度の生活さえできれば、それでも良いじゃないか‥‥との趣旨らしいですが、20代の頃にあまりにもアニメの作画で稼げなくて電気ガス水道電話などの生活インフラが停止して「非文化的で最低の生活」を体験した私からいえば、「ありえない仮定」です。

 

「頑張らない人」が「文化的で最低限度の生活」ができる社会が良い‥‥ということも語られており、私には「その社会」がどうもリアルにイメージできません。どういう社会構造なのか、どんな人たちが支えるとそうした社会システムが成立するか‥‥が。

 

自分の得意分野を活かして、自分に能力が有能に作用する状況を形成し、日々の作業でできる限りのベストを尽くすことで、ようやく「文化的でほどほどの生活」が得られると実感します。

 

ガツガツ生きるディテールではなく、まったり柔らかい物腰であることと、有能か無能か、文化的か否かは、実はカテゴリーミステイクで混同しないほうがよろしいです。真に受けて、本当に無能で頑張らない自分を目指すと、文化的で最低限度を下回る未来へ続く放物線を描きますヨ。

 

文化的で最低限度の生活‥‥の基準て何よ。最低限度の境界線はどこ?

 

ピッキング防止のドアに自動制御の湯沸かし風呂と冷暖房完備、空き巣防止の窓、スマホでゲーム課金もできて、サブスクリプションで音楽や映像を楽しんで、食事は美味しいのが良くて、たまにはショッピングを楽しんで、交通機関は切符ではなくスマホでパスして、パソコンかタブレットPCでネットを閲覧して‥‥という生活が、2019年における文化的で最低限度あたり?

 

車は所有しなくていい、旅行や外食も控えめ、部屋の間取りも3LDKなんて必要ない‥‥と言いながら、上記の条件を満たすのならば、それって最低限度なのかな‥‥。私にはソコソコの生活に思えるし、実際にコストもかなりかかるでしょう。

 

 

 

自分の生活の無駄を一定期間で見直すことは良いと思います。

 

文化的な生活を目指すのも良いと思います。

 

しかし、最低限度を目指すと、十中八九、最低限度を下回ります。

 

自分では人より半分の「0.5」くらいの質素な生活で良いと思っていても、仕事も能力も生活も娯楽も「0.5」に設定してしまうと、例えば、4つの要素を掛け合わせると、

 

0.5x0.5x0.5x0.5=0.0625

 

‥‥になります。0.1以下です。0.1以下‥‥なんて、いわゆる「セルフネグレクト」な状態と言ってよいです。ゴミ屋敷です。

 

では、0.5くらいを目指すのなら、各要素はどのくらいの「頑張り度」が必要かと言うと、

 

0.85x0.85x0.85x0.85=0.52200625

 

‥‥で、「自分としては85点の頑張り度」じゃないと、「50点=半分」の状況にはなりません。

 

100%フルの自分を、ちょっとアクセルを緩めるくらいで、ようやく「100%な人」より半分の質素な生き方が可能です。つまり、そこそこ頑張ってこそ、「最低限度」の生活が維持できます。

 

ちなみに、「平均点」ではなく「掛け合わせ」なのは、要素は単体で機能するものではなく、絡み合って結びついて機能し、現実となるからです。ルッサーの法則ってご存知でしょうか。

 

 

 

思うに、毎月月給で安全地帯にいて、不満を抱えつつも生活できるくらいのお金を毎月必ずもらっていて、「本当の最低限度」なんて実感も体験もない人は、「質素な生活でも良いじゃない」とか口にしやすいのです。

 

フリーランスゆえに自分で仕事をもってこなければ、すぐに2ヶ月後3ヶ月後の生活費が危うくて‥‥なんて体験したことがない「月給」の人が、安易に「最低限度」とか設定しやすいですよネ。一度、フリーになってみれば? ‥‥そうすれば、稼げる時にどんどん稼いで、自分で自分の存在価値をアピールする必要性にも目覚めますヨ。

 

最低限度なんて目指しちゃアカンよ。結果的に最低限度を維持するのならともかく、目指すのはアカン。ホントにアカン。ヤバい。

 

 

 

私の母方の祖父は、めっちゃ質素で倹約家でしたが、弩級にストイックでした。物や道具は大切に使って安易に買い物をしないし、自分の足で行ける範囲なら交通機関は使わないし、テレビや娯楽をダラダラと垂れ流して時間を過ごさなかったし、孫を甘やかさないだけの隙のない厳しさを体現していました。

 

そんな祖父が質素を旨とする一方で、無能で頑張らない生き方をしていたかというと、全然そうではないです。手抜きや誤魔化しは一切しない人だったよなあ‥‥‥。孫にも厳しかったけど、自分にはもっと厳しい人だったと思います。

 

質素ながら、整然とした佇まいで生きるということは、祖父のような生活だと思っています。自堕落に、無能でいいや頑張らなくていいやなどと、甘やかしとは正反対です。

 

 

 

過度に頑張るのは自分を壊すでしょう。同じく、過度に自分を甘やかすのも自分を壊すでしょう。

 

人間は自分の限界を探りつつ頑張って生きて、自分の無能な部分ではなく有能な部分をブーストして生きて、ようやく最低限度をクリアして普通くらいになるのだと思ってます。

 

 


昭和、平成、令和

時代の区切り、時間の区切りなんて、人が勝手に設定するもので、気持ちのもちようだとは思っている一方で、勝手であっても区切っておかないと折り合いがつかないとも思っています。なので、何かをきっかけにして区切ることは、過去にも現在にも未来にも必要であり続けるでしょうネ。

 

自分にとって、昭和の終わりは、幼年期〜少年時代の終わりだったと思います。1989年はすでにアパートを借りてフリーアニメーターでお金を稼いでいましたが、20歳そこそこでまだ考えも浅く、自分自身「アニメ業界の社員」のような気分でいた頃です。1989年が昭和の終わりで平成の始まりだったとは最近まで明確に記憶していませんでしたが、「1989」という西暦だけは覚えていました。

 

当時「自分で何か発想して行動しないと、このままでは潰れる」と思って、仕事以外=プライベートの絵に「since 1989」みたいに「1989」を明記していた時期があるからです。つまり、「1989」を自分の中での区切りの年にしたのです。‥‥やっぱり平成の元号にちなんだのかな?‥‥自分でも記憶が曖昧です。

 

高校時代から作画の仕事をお手伝い程度で開始して(高校在学中に作打ちしたことがあるよ)、卒業と同時にアニメーターになって、作画の報酬で生活もできるようになって、初めて自分のギャラでFender Japanのストラト(ラージヘッドでローズ指板でクリーム色の白でした)も買って、順風満帆のように感じていた一方で、アニメの仕事に憧れ続けていた意識のままでは限界があると気づいた時期でもありました。まあ、今の若い人も、アニメ業界でフリーで2〜3年やれば、流石に「問題」に気づくでしょ?

 

原画の仕事を日々作業するにしても、それだけで自分の人生が塗り潰されていくことに、大きな不安と危機感を感じたわけです。「せめて、自分の絵〜ビジョンをもっておかないと」と思って、自分のルーツを20歳そこそこの若気の至りながらも模索しはじめたのが、まさに昭和から平成へ変わる、区切りの1989年でした。まあ、実際は、技術力も幼い20歳そこそこですから、そんな簡単に「自分を形成できる」わけもなかったのですが、「アニメ制作現場の都合に流され続ける人材」から脱出しようとココロの中で区切ったのを思い出します。

 

で、30年経ちました。色々なことが起きて、色々な経験をしましたが、平成に悔いは全くないです。それはやっぱり、昭和から平成へと時代が移る時に、自分の中で「昭和の終わり」と「少年時代の終わり=自立の始まり」がシンクロしたからでしょうネ。自分の中で過去と未来を区切ることは大切だなと思います。

 

そして、令和。2019年。

 

また、末尾は9なのネ。1989と合わせて、覚えやすくはありますネ。

 

2019年も自分の中で区切りの年になりそうです。技術面だけ見ても色々な転機でしょうし、顧みられなかった技術の復活の年でもあり、新たな始まりの年にもなりましょう。少なくとも、自分の意識の中では、良い区切りになりそうです。

 

ぶっちゃけ、もう若くないもん。若い時と同じルーティンは通用しません。貯めてきた知識や技術やコレクションを、今度は展開して組み合わせて死ぬまでに使い切るくらいの意識が必要です。墓場の中にまでコレクションは持っていけんもんな。

 

平成の時代、自分が死ぬことなんて考慮していませんでしたが、令和の時代は心のどこかにいつも「人生のケツ」(尻。人生というスケジュールのケツね)を意識して、「貯めるだけ貯めて使わないまま終わる」なんてことがないように行動を展開していくのが、まさに自分の中での「令和の区切り」と思っています。

 

20〜40代でやるべきことは、平成にやっておきました。であるならば、同じことを令和に繰り返すこともなかろう。令和には令和の役割がありましょう。

 

 

 



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