雑感

私は、レイアウトチェックをスキップして原画を2者に分割する「1原2原」にはどうしても構造上の欠陥があると考えています。

 

なによりも、レイアウトのチェックができなくなる点です。今、レイアウトチェックって、実質死んでしまったのですかね。

 

第1原画は、レイアウト+ラフ原画+シート‥‥で、レイアウトと同時にラフ原画まで描くので、描く側は「レイアウトの変更があった場合、ラフ原が全直しになる」という恐怖、チェックする側は「ラフ原を描いてもらったので、レイアウトの直しが気が引けてできなくなる」という状態に陥っています。実際、そういう場面は何度もありました。

 

第2原画のほうは、「原画の仕事はないですか」という問い合わせではなく「第2原画の仕事はないですか」というのもあると聞いて、愕然としました。「原画の仕事を問い合わせて、第2原画ならあります」という流れではなく、最初から「第2原画決め打ち」で仕事を欲しがる人がいる‥‥という現実において。

 

もう、もとには戻らないのかな‥‥。

 

原画の第1第2工程が既成事実となって、今や第2原画もれっきとした工程のようにフィックスされて、もし以前のカタチに戻そうと統合しようものなら、「第2原画で生活している人もいる」とかの論調が巻き起こりそうです。

 

総々作監、作監十数人にしても、もとのカタチに戻す努力をしても良いんじゃないかと思いますが、「必要だから存在しているんだ」と言う論調もあるでしょう。

 

従来の現場の出来事は、従来の現場の人間が主導して解決していくべきで、私が口を挟むこともお節介だなと思います。

 

 

 

アニメ業界を親方のように慕って、親方の決めた枠組みでしか生きられない自分。親方に異を唱えて、枠組みの限界を突破するのが、そんなにダメなことなのかな。


世界規模の新しい技術が活用できる場面において、それすらも「業界がお気に召すように献上」するのか?

 

だったら、ずっと、親方=業界のいいなりのままだよ。

 

 

 

親方=従来のアニメ業界はずっと健在なのでしょうか。

 

アニメは産業ゆえに、時代の流れによって、浮き沈みもありましょう。

 

過去、旧来技術に固執するあまり、時代についていけなくなって、衰退した産業はいくらでもあります。

 

 

 

私は、アニメ業界の主流に同調せずとも、アニメを作って未来に生き続ける道を模索したいです。やっぱり、作監が1話に十数人クレジットされるのは異常だと思うし(「監督責任」をとれないじゃん?)、「1原2原」でレイアウトチェックが死んでしまった現実を受け入れられません。

 

原動仕美撮と言うカタチを崩して新しいカタチに変えても、絵を描いて動かす人は不動、色を彩る人も不動、情景を造り出す人も不動、コンポジットする人も不動です。ただ、原動仕美撮というスタイルではなくなるだけで、人間の力は不動です。

 

新しいワークフローには、レイアウトを吟味する工程がちゃんと設けられています。動きの根本を専門に扱う工程、絵を綺麗に整然と動かす工程、階調トレスを扱いHDRでペイントする工程、ランドスケープ(景観)を作り出す工程、舞台のレイヤー構造を組む工程、ビジュアルの様々な効果を生み出す工程、その他にも色々と工程が継承されたり新定義されています。

 

私は今までよりアニメ制作にはお金がかかるようになると思います。たとえ新技術を導入しても、4KHDRの時代にふさわしい丁寧で美しいアニメを作りたいですから、お金が従来より多くかかるのは当然です。人件費も機材費も今までの枠に収まるわけがない‥‥と、私は実感しています。

 

 

 

でも、まあいいか、もうこの話題は。

 

従来現場をどうしていきたいかは当人たちが決めるべきだし、新しい現場も当人たちが構築していけば良いだけのことです。

 

お金の問題も全部含めて、「誰かが変えてくれるのを待つばかり」だから苛立ちもするのです。

 

当事者の行動こそが、未来を変えていけると思います。

 

 


ゆとりちゃん消滅以後

私は昔、MacOS9の時代に、いや、MacOS9の時代が終わってもMacOS9で、「ゆとりちゃん」という家計簿ソフトを愛用していました。自分のお金の使い方が、数字だけでなくグラフで解るので、日々の自分の浪費傾向が自覚できたのです。

 

しかし、ゆとりちゃんを維持するだけにMacOS9のマシンを維持するのがどんどんつらくなって、10年くらい前にディミヌエンドしていきました。

 

キモチを立て直し、Windowsの仮想環境でマムレターという家計簿ソフトを心機一転使い始めたのですが、Windowsの仮想環境をバージョンアップする際にうやむやになってしまい、これまた挫折。

 

ゆとりちゃんがOSXでも使えていれば、何も問題なく続けられたのですが、Macの弱いところはまさにソコで、家計簿や年賀状印刷などの家庭の事務的なソフトの選択肢が異様に弱く、OSX以降は事実上、家計簿ソフトが消滅してしまったに等しく、すっかり家計簿をつける気が削がれたままでした。今思えば、月々の集計だけでもNumbersの表計算で雛形を作ればよかったのかも知れませんが、ゆとりちゃんが忘れられないまま、ズルズルと今まで引きずってしまいました。

 

そして今。クラウドの時代。

 

最近、青色申告で65万控除をしたフリーランスの監督さんから、クラウドベースの会計ソフトがかなり使えることを聞き、調べてみると、新しいのから古参まで色々と、WinだけでなくMacにも対応していて、充実した機能の会計ソフトが使用できることを知りました。

 

すごいね。‥‥時代の進化は。

 

昔の状況〜特定のマシン(=ソフトをインストールしたマシン)でないと家計簿などの一貫した会計ができない、OSの変化に常に揺さぶられる、ソフトウェア会社の方針変更で大打撃を受けることがある‥‥などのリスクが格段に減るのが、なんとも嬉しいです。

 

私は、単に自身の会計ソフトとして、4月から早速使おうと思います。

 

 

家計簿はね‥‥。つけないと、生活が荒れますヨ。お金の使い道を、どんぶり勘定でしか把握できないんだもん。当然ですよネ。

 

最近のアニメーターの業界問題に対するツイッターでのやり取りをみていて、思いの外、アニメーターをはじめとした現場のスタッフは「親方日の丸」意識が高いことに驚きました。「親方」とはアニメ業界であり、フリーランスであっても、まるで国家公務員かサラリーマンのような考え方をしていて、結果、「国家公務員のハンデ」と「フリーランスのハンデ」を引き受けちゃっているような状態‥‥と感じました。

 

フリーランスは、まさにフリー。個人事業主として、事業を「自由」に展開できることが、大きなアドバンテージであるはずですが、アニメ業界をまるで親方のように無意識に据えているのは、人生における大きな損失ではないでしょうか。アニメ業界の枠にずっぽりハメられて身動きできないのは国家公務的、昇給も賞与も保証もないのはフリーランス的‥‥では、「やられっぱなし」です。

 

私の両親は国家公務員だったので、家庭に漂う日々の生活の信条もどこか国家公務員的でした。どんなにプチサイズでも、起業する、事業を起こす‥‥といった意識が希薄で、私も20代までは無意識に「親方日の丸」的に行動していたと思い起こします。「学校」というシステムも、そうした「システム組み込まれ意識」に拍車をかけたと思います。学校では何かを打ち破る戦術論・戦争論など教えないですもんネ。

 

ちなみに、私らが現在4KHDRのプロジェクトに従事しているのは、年功序列で忖度の結果ではなく、自費で数年かけて研究を重ね、しかるべきタイミングで「打って出た」からです。じっと待ってさえいれば、何でもエスカレーターが運んでくれると思うな‥‥ということです。組織の中だろうが外だろうが、起業精神は必要ですヨ。技術屋意識だけでは限界があります。

 

とは言え、何を実践するにも、自腹であっても、「金」が必要です。自分のお金を細かく把握し、分析できていなければ、「金」などいつまでたっても「運用」できないでしょう。

 

「金」をどんぶり勘定=月々の出納でしか把握できておらず、申告も税額の大きい「白色」でしかおこなわないのは、合理的とは言えませんよネ。とあるフリーランスの人は、「お金が苦しいのなら、なおさら青色にしないとダメでしょ」と言います。アニメ業界の人々がお金に困ること多いのは、アニメ業界の低い報酬額もさることながら、自分の月ごとや年次の会計を自己分析していないことも、かなり大きな原因ではないか‥‥と話していました。年収が少ないのなら、むしろなぜ、青色のやりかたを覚えないのか?‥‥と、自分でやり方を覚えて青色65万控除をした人は言います。

 

フリーランスであろうが、会社員であろうが、「アニメ制作の産業」に関わる以上は、自分の能力を常にベースと考え、自分自身で「発展を盛っていく」取り組みが必要だと思います。

 

私も、4Kなどの取り組みは進めていたものの、他のプロジェクトや個人的な取り組みが以前より鈍化していたのは、自身の「お金」を詳細に把握していなかったことも大きな原因と自覚します。家計簿ソフトを使っていた頃は、手に取るように、自分の「お金の使い方」がわかりましたもんネ。

 

なので、月額を払って、クラウドの会計ソフトを使おうと決めました。ゆとりちゃんの代わりとして。

 

ここ数年の生活の乱れを直視することになり、結構ツラいものがあるでしょうが、フタをし続けても未来のビジョンが鈍るだけです。ゆとりちゃんを使っていた頃にリセットして、頑張ろうと思います。

 

お金って、現代社会の「兵站」みたいな側面を多分にもつじゃないですか。

 

ここ数年の私は、技術開発にかかりっきりで、兵站を軽んじていた傾向がありますので、ここはひとつ、10年前にはなかった現代の強みの1つ=クラウドを利用して、まずは自分の兵站の分析から再スタートしたいと思っています。

 

 

*注記)

初心者の頃は、経験も技術も知識もないのですから、どうやったって自立なんて無理です。ここで書いているのは、キャリアをある程度積んだ状況が前提です。動画もコンポジットも、全くの我流では仕事などできませんから、制作集団の内部に入って、まずは基礎を積むことが必要です。

基礎をマスターすれば、徐々に「やりかた」がわかってきて、「攻め方」もイメージできるようになりましょう。

 


老化

子供の頃、何が嬉しかったかというと、「昨日できなかったことが、今日できるようになった」という実感、そして、その実感ゆえに、「今日できなかったことが、明日できると思える」ことです。

 

一方、歳喰って、何が悲しいかというと、「昨日できていたことが、今日できなくなっている」こと、そして、「今日できていたことが、明日できなくなるかも知れない」という不安と恐怖に日々晒されることです。

 

これは個人の問題だけではなく、技術や産業にも当てはまります。

 

アニメ業界のアニメ制作現場は、成長を続けているのか、老化へと進んでいるのか。

 

もし、以前可能だった技術や段取りが不可能になって、違う手段〜パッチあての作業で取り繕っているのだとすれば、確実にアニメ業界の老化は進行していると思われます。

 

まあ、色々と個人の実感や見解、感想はありましょうが、私自身の実感としては、アニメ業界の従来技術は確実に老化へと向かっていると感じます。過去可能だった色々な技術が現在不可能になっていたり、様々な新しいことへの柔軟性を著しく欠いていたり、いつだかに身につけたプライドにすがっていたりと、老化を示す要素はいっぱいあります。

 

自分が若い頃、爺さん世代のどんな面に呆れていたかと思い起こせば、「新しいことなんて必要ない。今までのやりかたで十分だ。新しいものは、胡散臭くてインチキだ」‥‥みたいな論調に凝り固まっていたことでした。「なんか、不自由ですね。新しい何かを取り入れてみて、良い部分は吸収し、悪い部分は直したり抑制すれば良いだけですよね?」と思っていました。

 

私に限らずとも、現在40〜50代の人が若かった頃、爺さん世代の「思考の凝り固まり」に対して、辟易していたんじゃないですか。‥‥そして、「若かった自分が歳をとった今」、似たような「凝り固まった老人」へとどんどん突き進んでいる‥‥のではないですか。

 

歳をとること、技術が成熟したことが、「新しいことを拒絶し、学ぼうとする謙虚さを忘れる」ことと同義なら、なんと絶望的なことなのでしょうか。

 

 

でも、希望なのは、肉体の老いと、ココロと技術の状態は、必ずしもシンクロしないことです。

 

歳をとることが、色々な視点から分析する慎重さを獲得することと同義なら、そんなに悪いことでもないです。

 

まあ、慎重さは、経験に頼りすぎて極性化(「こうあるべきだ」という強い思い込み)へと変質する危険性も持ち合わせているので、慎重さをさらに俯瞰で吟味する慎重さ(トンチみたいな話ですが)にも、年の功を活かしたいですネ。

 

 

新しい何かを盲信するのはよくないです。

 

新しい何かを頑なに拒絶するのもよくないです。

 

新しい何かを、ジャンクで稚拙で胡散臭いものだと捉えるのも、いかにも老いた証拠です。

 

例えば、AIを「完全に人と同じことが出来て、無人化を達成できる」なんて盲信するのは愚かだと思う一方で、AIの「何から何まで気に食わない」と拒絶するのも愚かです。AIの有用・有効な部分は取り入れ、人間じゃないと出来ない部分は人間の能力を用い続ければ良いだけのこと‥‥でしょ。

 

アニメ作品制作の初期、例えばテレビアニメの1960年代、アニメは今のような技術と品質を獲得していたでしょうか? 思い出しましょうよ。相当な、技術不足で、品質も危うかったですよネ。

 

過去の至らなかった自分(自分たち)を顧みずフタをして、謙虚さを忘れ、傲慢になって、新しい何かをあざ笑うのは、いかにも老いた証しです。

 

 

アニメ業界の老化なんてイヤですか?

 

だったら、まずは「古い習慣」から抜けて、ココロと技術の「錆びついた」状態から脱出しないと。

 

 

 

 


芸と工場と

もしペーパーレスの作画環境が、「考えてみれば、自分は、制作会社のパソコンの前に座らないと、絵が描けないのかぁ‥‥。」と何か限界を感じるようなら、それは長期的にみれば、絵を描く当人にとって非常にマズい状況です。

 

これは何も、当座の仕事以外のプライベートな時間まで、絵を描きまくる必要があると説いているのではなく、絵を描く手段や機会が、「会社のパソコン」に限定され過ぎる危うさを説いているのです。絵を描いて一生生きるなんて、どう考えても生易しいことではないと思います。「作画工場にとって都合の良い絵ばかり」描き続けて、それで自分の生涯が成立するのかは、たまには考えてみることが必要と思います。

 

自分の芸は、自分で磨く。

 

芸で仕事をする。

 

私の両親はかつて共働きで、ふたりとも国家公務員だったので、このへんのニュアンスは伝わることがなく、会話をしても平行線のままです。おそらく、私は国家公務員の良し悪しを真に理解することができないように、私の両親も「絵を描いて映像を作って、自分の存在価値で仕事をする」という「芸」で生きる職業の良し悪しを真に理解はできないと感じてます。

 

絵に直接関わる人間は、たとえ会社員であっても、「芸能プロ所属のタレント」のような面を持つと思います。

 

「いや、そんなことはない」と言う人も中にはいるでしょうが、ではなぜ、「あの人に作監をお願いしたい」とか「あの人に美監を」「あの方に色彩設計を」という名指しの依頼がまかり通るんでしょうかね。明らかに、当人の「技量」「個性」「表現力」「経験」などを重要視して、作品作りのスタッフ人選をおこないますよネ。

 

受付の窓口、会計のレジ打ちなどの場合、「絶対にあの人じゃないとイヤだ!」だなんて、よほど変な客でもない限り、ありえないじゃないですか。

 

でも、アニメのスタッフ人選は、まるで芸能プロの「芸風に応じた仕事の依頼」を彷彿とさせます。

 

アニメ制作って、そうした視点からみれば、「工場」と呼ぶのは相当無理がある一方で、「工場的な側面」も多分に持ち合わせます。

 

悩ましいですよねえ‥‥。

 

 

あまり内部を知らない人は、動画工程以降はクリエイティブではない、工場型だ、‥‥とか言い出すのですが、よくもまあ、門外漢が知った風なクチで偉そうに‥‥と、本当の原動仕美撮の作業を知っている人は憤慨します。まあ、当然の怒りですよネ。

 

前にもこのブログで書きましたが、どこの工場に、一つ一つの製品の設計内容が全部違って、1つずつカスタムで対応しなければならない生産ラインがあるんだよ!‥‥と、考えればすぐにわかる事です。そんな状態は工場の生産ラインとは呼べんでしょう?

 

アニメ制作現場を工場と呼ぶのは無理があります。‥‥で、もしかしたら、その無理を無自覚に強行しているからこそ、昔から延々と続く報酬の問題が未解決のまま続くのかもしれませんネ。

 

では、そもそも前述の「工場的な側面」はどういうことか。

 

動仕枚数5千〜1万枚近く、本編の正味22分なら「24fpsx60secx22min=31680フレーム」の大量の映像1コマ1コマを、テクニカルエラーなしに完成させるという「大量の物量を処理する能力」においてのみ「工場っぽい」というだけです。

 

作画の場合、作監や原画マンばかりがスター扱いされますが(まあ、井の中の‥‥ではありますが)、動画はとても重要で、現在、4KHDRの毎日の作業でも、動画が美しいとどれだけ画面がハイクオリティになるかを、ひしひしと実感しています。「OOさんに動画か、動画検査をお願いしたい」と、ここでも「芸能プロ」のような名指しの指名が発生します。外面は「工場風」に見えても、内面は個人の技量がモノを言う「芸能」の世界です。

 

仕上げさんも全く同じで、臨機応変の判断力・処理能力は、経験と知識の賜物です。AIのプレゼンで「彩色はクリエイティブではないので、AIに向いている」的な報道記事を以前見かけましたが、報道上の意訳も作用しているとはいえ、無知にもほどがありますよネ。仕上げさんが、AIを「忠犬」のように慣らして、自分の作業の手助けに使うのはアリですが、決して無人の自動処理にはならんすよ。色彩設計さんだけでなく、色指定・仕上げ検査さんも、作品を意図通りに完成させるためには、名指しの指定になりましょう。

 

外部からフラリとやってきた人間の中には、浅知恵を遺憾無く発揮して「工場としての生産効率」とか言い出す人もいましょう。そして、必ず挫折する。‥‥まあ、当然ですわな。現場の中身は、決して工場と呼べる状態では無いのだから。

 

 

最近私は、「作画工場」という言葉をわざと使い始めましたが、それは「作画」に従事する人間に「違和感」が伝わることを意図しているからです。

 

作画の現場は、工場と呼べるのか?

 

工場の労働者という認識で、本当に良いのか?

 

‥‥まあ、他のジャンルでは、芸能工場とは言わんですもんネ。

 

労働や報酬の問題を語るにしても、まずは工場ではなく「工房」くらいの意識の幅をもたないと、話が最初からズレて噛み合わないようにも思います。

 

アニメの制作現場は、「誰に依頼しても良い」という仕事とは違って「作業者個人独自の性質」で判断されることが多いので、未来に必要なのは「能力のマネージメント」です。今までの慣習は過去のこととしてセパレーションして、新しいマネージメント方法が必要になりましょう。

 

私が以前から方法を模索しているのは、「ジョブオブジェクト」と「能力オブジェクト」をバインドする、プロジェクトマネージメントです。現時点では「ジョブオブジェクト」の自由な組み合わせによるダイナミックなワークフローを目下の目標としていますが、次世代は「能力オブジェクト」を合わせて、フィジカルコスト、ジョブ、能力の「3D要素」でマネージメントする方法をイメージしています。(まあ、かなり大変と思いますけどネ)

 

日本はさ‥‥、人海戦術では到底、海外とは渡り合えんですよネ。日本は、狭い国土と人口の限られた状況を、逆手にとった戦略と戦術が必要だと思います。中国の真似なんて出来ないでしょ。

 

日本は日本であって、小さなアメリカでも、小さな中国でも、小さなヨーロッパでもないです。

 

アニメを作る時も、実はソコが、一番のアドバンテージだと確信しています。

 

 

 

 

 


戦史と精神論

一人で飯を喰う時、私の楽しみはKindleで戦史ものを読みながら、食べることです。「飯が不味くならねーか?」とか言われそうですが、飯を呑み込むのと、文章を呑み込むのがシンクロして、意外にイイですヨ。

 

山崎雅弘さんの戦史短編ものは、近代史における戦史を幅広く扱っており、特に250〜350円シリーズは題材ごとに短くまとめられた、読みやすい内容です。

 

最近「ベルリン陥落 1945」を読んでいるのですが、何だか、末期的なアニメ制作現場そのもので、ここでもまた「近似形」を認識しました。以下、抜粋です。

 

 

 

 

歴史は繰り返すよね〜。

 

続きは、Kindleで購入してお読みください。

 

●ベルリン陥落 1945 Kindle版

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もちろん、個人の内側においては、「信念と成功への強い意志」もありましょう。また、新しい何かを成し遂げようとする集団において、共通の目標を掲げることもありましょう。

 

しかし、劣勢を挽回する状況において、場当たり的に「信念」とか「不屈」とか、言って欲しくないですよネ。単なる詭弁だもん。

 

劣勢なら、劣勢である現状を受け止め、何が最善の道筋かを、極めて冷静に判断し実践することが求められましょう。「信念頼み」なんてヘナチョコ過ぎます。いかに自殺目前のヒトラーが精神的にダメージを受け、肉体的にも衰弱し、妄想の世界に浸りきっていたかがわかります。

 

精神的に追い詰められた人間が、精神論をブチまける。

 

作品の監督が、「おれはどうなっても構わない。作品だけは完成させたい。」みたいなことを言うのは、美談ではなく、愚談です。監督の体調が崩れたら、作品づくりも総崩れですヨ。

 

 

 

Fortitude。

 

それは、我が身の内側にあるものです。

 

劣勢ならば、そこに必要なのは、非情なまでの状況分析と合理的な判断であって、最終ジャッジを下せるのは、作品作りのトップです。

 

トップこそ、頭が冷えてないとダメですよネ。

 

トップの誰かではなく、自分の身で考えると、頼りになるのは、自分のうちにある「不屈の技術力」です。決して、いまどきの絵柄とか作業様式ではないです。

 

原画を2枚描いて、シートに中3枚の点々を書き込む習慣なんて、技術のうちに入らないです。作業様式で食っていた人は、作業様式と共に去ります。作業様式に慢心して、「いつもの段取り」に腰掛けていた人は、その段取りが消失した時点で淘汰されます。

 

「作画工場」はあなたの一生の面倒をみてはくれません。今のアニメ産業に必要だから、工場が成り立っているだけです。産業のカタチが変われば、工場は成立しなくなります。作画工場の液タブで第1原画や第2原画を描いているだけでは、将来の保証などありません。自分で自分の能力をプロデュースしてこそ、絵描きは生き残っていけるのだと思いますヨ。どこにでも持ち出せるiPad Pro(とか別のでも)で、自分の様々な絵描きとしての可能性を広げていかないと。

 

絵を描いて動かせることが、何よりもの自分の財産だということを、ハッキリと自覚すれば、「原画工程と心中」せずとも、新しい工程でも腕を振るえます。アニメーターはアニメーターで「原画精神論」に傾倒しがちですが、「原画」「動画」じゃなくて、「絵を動かせること」そのものが代え難い財産だということを、冷静に認識しておくべきでしょう。

 

 

 

戦史にもたびたび出現する、精神論の危うさ。

 

精神論そのものが危ういのではなく、状況を無視してキモチだけで挽回できると思い込む「精神論の悪用」が、悲劇をさらなる悲劇へと追い込むのです。

 

あなたの現場には、衰弱しきって弱々しいわりには、突如激昂して精神論をブチまける「晩年のヒトラー」みたいな人はいませんか?

 

共に最後まで戦い抜くことは、合理性を放棄することではなく、むしろ、合理性を最大限に活かして、未来への活路を見出すことです。

 

死ぬために生きるのではなく、生きるために生きる。‥‥簡単なことなのにネ。

 

 


サブプライムローン

アニメ業界関係者のツイートを読んでいると、しみじみと、アニメ制作現場の「曲がり角」なんだと思います。放映本数が大きく減った‥‥なんていうのを読むと、近年、深夜に過剰な本数のアニメを放映していたことのほうが異常だったと感じます。多くのアニメ作品において、テレビ枠で与えられた時間帯が深夜である状況から、どんなに「数兆円の産業だ」と報道されようが「ゴールデンタイム」には復帰しない時点で、一時的な特需としか思えませんでした。

 

その「特需」を支えるために、現場も随分と無茶をしたと思います‥‥よネ? そもそも「第1原画」「第2原画」というカタチが常態化したことも、特需を支えるための仕組みだったと感じます。最初、意味がわかりませんでしたもん。「なぜ、第1と第2に分ける必要があるのか」が。

 

アニメ制作における「サブプライムローン」が終わろうとしているのかも知れない。‥‥そう思うことがあります。2010年代初頭には感じなかった終末の予感が。

 

第1原画、第2原画という仕組みは、現場生産能力の低い状況を、あたかも処理能力があるように見せかけるのに好都合だったかも知れません。しかし、そもそもレイアウトも動きもポーズもゼロから描けない人間を「原画」として動員すること自体が、サブプライムローンで言うところの「利息にすら満たない月払いを続ける」行為に等しかったと感じます。

 

原画を、第1と第2に分けた時点で、すでに生産力不足、キャパオーバーだったのを、延々とごまかし続けて、どんどん作品制作を受注して‥‥と、現場作業者がサブプライムの当事者だとすれば、多くの会社が近い未来に「リーマンブラザーズ」になり得る状況とも思えます。怖いですが、目を背けて逃げ切れるもんでもないでしょう。

 

放映本数の大きな減少、作業者から噴出する報酬への不満、新しい映像技術への順応における大きな不安。

 

昭和から続くアニメ制作システムで、これらを解決できるとは到底思えません。昭和には適していたかも知れませんが、平成ではどんどん苦しくなり、新しい元号の時代においては‥‥は、もう散々書いてきたことだしもういいか。

 

 

 

今までとは違う、新しい方法を見出さないと。

 

実は私は、もう10年前くらいに「曲がり角」を経験して、生き残りのいくつもの道を経て、現在に繋がっています。‥‥今だと、さらっと書けますが、ホントに辛かった。自分の存在意義を問うような期間でしたから。

 

2000年代後半から最近に至るまでの「深夜アニメの制作膨張」は、せっかく積み上げてきたコンピュータによるアニメ制作技法を、濫作乱造目的へと転換することを意味しました。‥‥ゆえに、深夜アニメ枠にはほとんど組みせず、丁寧に作れるMVやPVを主とし、実写にも活路を見つけ(実写素人だった私らを温かく迎え入れてくださった方々への恩義は終生忘れません)、一方でアニメ業界標準とは違うアニメ制作技術の確立を進めました。

 

今思えば、10年前に曲がり角を曲がったことで、未来の道筋も見えたと実感します。

 

 

 

ですから、現在のアニメ業界のアニメ制作現場も、曲がり角を率先して曲がっちゃえば良いのに‥‥と思います。今までの直線道路の道筋が閉ざされたのなら、別の道を探し出すべく、何度も曲がれば良いです。

 

おそらく、「新しい道探し」で一番過酷なのは作画作業者でしょう。作画工程の人間は、1原2原というバイパス道路はあったものの、ずっと直線道路で右左折なしで進んできたので、これから未来の曲がり角には大きく混乱し疲弊消耗し淘汰もあるでしょう。

 

特に、原画といえど第2原画までしかキャリアのない人間はキツいと思います。どんなに技術様式が変わろうと、レイアウトを作れること、絵を描けること、絵を動かせることは、新しい未来の現場でいくらでも応用が利きますが、第2原画の作業内容は直近10年程度の一過性のものでしかなく未来においては応用が利かないからです。動画と原画の経験は活きますが、第2原画の経験は扱いが難しいです。

 

作業様式に特化するのは、とても危険です。様式なんて時代によって変わっていくものです。

 

もし自分の今の立ち位置が第2原画でも、レイアウトやフレーミングを研究し、絵をゼロから描くことを実践し、動きの研究に勤しむことをお勧めします。仮に第2原画の工程が消滅する未来が訪れても、絵を描いて動かす技術さえ獲得しておけば、かなりツブシが効くからです。私が今、4KHDRのプロジェクトで作業可能なのは、原画マンの作業要素の中に内包される、絵と動きの技術を学び得たがゆえです。

 

技術においては、様式ではなく、本質に迫りましょう。

 

 

 

お金を運用する人々は必要です。一方で、お金の中身を作る人々も、あたりまえですが、絶対に必要です。

 

お金を転がすだけでは立ち行かないことを、バブルでもリーマンでも学んだはずです。

 

未来の様相は、アニメ制作現場・アニメ業界において困難でしょう。しかし、サブプライムローン的な制作構造を終息させて、新しい制作構造を作り出す機運となるのなら、必ずしも悲観的でないように思います。近視眼的に見るのではなく、中期的な観点で考えれば、です。

 

でもまあ、新しい制作構造のカタチが、長期的に見て「新たなスタイルのサブプライムローン」へと変質するのは、絶対に阻止しないとネ。

 

同じ轍を何度も何度も踏み続ける必要はないですもんネ。

 

 

 


タダ

3月いっぱいでのジオシティーズの完全消滅、Yahooブログの終了と、無料サービスの終了に関する告知を最近続けて目にしましたが、思えば、他にも色々な「無料」「格安」サービスが今までに現れては「終了」「有料化」「値上げ」されてきました。

 

私が今年の春で打ち切ろうと思っているのが、DynDNSです。最初は無料からスタートし、ある時から年間5ドルくらいになって(うろ覚えです)、今では55ドルです。

 

DynDNSに代表される「無料DNSサービス」は、無料のサブドメイン「任意の何か.ooo.ooo」をいくつも取得できて、IPアドレスと紐づけるサービスで、「自宅でサーバ」が流行った2000年代に盛んでした。ルータを販売するメーカーも、独自のDNSサービスを提供して、「自宅のパソコンをサーバにできる」ことをアピールしていた、今思えば、なんとも大らかな時代でしたネ。

 

現在は、一般的なポートを開いて自宅のサーバを不特定多数の外部に晒す‥‥なんて、ちょっと怖くてできません。セキュリティの専門家が自宅にいるわけではないので、自分だけの被害だけでなく、踏み台にされて他者を攻撃することになった場合、責任を負いきれませんよネ。

 

アドレスすら「https」が求められるようになった現在、自宅でサーバとか、もう無理ですワ。サヨナラ、ネットのDIY。

 

そういえば、「コード・レッド」が初めて出現した時(2001年夏)、私は偶然にもLC475のサーバのログを表示しながら同じ部屋で他のことをしていて、ある時から「妙に長いログ」が立て続けに記録されるようになったのを、リアルタイムで体験しました。コードレッドの攻撃目標はIIS(マイクロソフトのインターネットインフォメーションサーバ)で、LC475で動作していたWebサーバは対象外だったのですが、今までのんびりしていたログのウィンドウが、いきなりコードレッドのログで埋め尽くされていく様子は、「ああ、これが映画でよく見るアレか」と思ったものです。

 

*LC475が現役だった‥‥というのも、微笑ましいですネ。当時はBSD 68kというのが、もの好きの間でちょっとしたブームになっていました。

 

現在は、レンタルサーバを契約し、独自ドメインを紐づけて、運用しています。WebDAVなどのファイルサーバ的なものは、Cloudに移行しました。自宅のマシンをサーバとして公開(限りなく非公開に近くても)するようなことは止めています。

 

なぜ今までDynDNSを止めていなかったというと、2000年頃からの知り合いのWebをDynDNSのドメインで運用していたからです。いわゆる「Webアドレスのお引越し」を、しあぐねていたまま、2019年まで持ち越していました。

 

最近、知り合いのWebの「おともだち」リンクを確認したら、ほぼ全てがリンク切れしており、2000年代後半から2010年代後半現在までの、「ネットの中の社会」の移り変わりを実感しました。ブログへのリンクは存在せず、「おともだちのホームページ」へのリンクもサービス終了ゆえか切れて、懐かしい人々へのネットの繋がりが消失しておりました。

 

2000年前後に「インターネットだ!」と新鮮な喜びをもって迎えられた様々な物事が、2020年を前にして徐々に、しかし確実に、姿を消そうとしているのを実感します。DynDNSの私の中での存在意義も終了、20年近く使い続けたDynDNSサブドメインの数々を放棄することにしました。‥‥ちなみに、知り合いのWebはすでに中身は引越しており、旧アドレスは転送用途だけになっています。

 

 

 

最近は、YouTubeも「プレミアム」とかで、「広告を表示されたくなくば、お金をよろしく」との方針を取り入れてますよネ。CMが2回連続して表示されるようになったのは、そういうことだったか‥‥と、そこでも時代の流れを感じます。

 

年額200円とか異様に安いWebサーバも、去年大幅に値上げされて、使うのを止めました。大らかだった頃の自宅サーバ、知人のWebコンテンツ、自分のネット色々を、全て集約して整理しました。

 

私が使ってきたサービスのうち、結局、「タダ」や「タダ同然」は消えたわけです。私はツイッター等のSNSの類いをやっていないので、無料のサービスはもう1つもないです。

 

ツイッターが有料化されることはなさそうですが(有料化するのは段取りが大変ですわな)、広告が出るようになった時点で、ある種有料化のようなものです。冗談記事はありますけど。

 

このブログも月々わずかですがお金を支払っています。もし大幅に値上げされるようになったら、他の手段を考えるかも知れません。無料のブログなど探し廻らずに、レンタルサーバ上でPHPで動く「ジャンル分けした日記」プログラムにしても良いですネ。

 

未来の消滅の不安に備えて、無料サービスなどに頼らず、自分でデータを管理する方法に「戻す」ほうが良いのかも知れません。ブログのプログラムだけでなくデザインまで提供してもらって、どんなに記事(=容量)を書いてもタダ‥‥というのは、考えてみれば、なぜタダでそこまで?‥‥と思えますもんネ。ジオシティーズもYahooブログも「時代が終われば散る花」だったのかも知れません。

 

タダには全てカラクリがあるわけですから、そのカラクリが通用しなくなった時に、タダはタダではなくなるんですよネ。当然と言えば、当然か。

 

タダほど怖いものはない‥‥とは言いますが、ネットも似たようなもんですネ。

 

 

 


デジカメはどうなった?

ネットでそこらじゅうで目にする写真のうち、スマホでなく専用カメラで撮った写真で、すぐに見分けがつくのが、深度の浅い写真です。いわゆる、「被写界深度」の浅い、手間と奥をアウトフォーカスにして被写体を強調するテクニックです。

 

昨日書いた「ペン先の再生」ブログ記事の写真も、久々にコンデジを使って写真をとりましたが、理由は2つで、

 

Apple PencilのTIP(ペン先)は小さいので、マクロ撮影がしたかった

背景と混ざって見えにくくなるのがイヤだったので、絞り優先でF値を開いて、浅い深度で撮りたかった

 

‥‥という、iPhoneでは難しい内容だったからです。

 

*絞りを開いた被写界深度の浅い写真。もっとレンズが明るければ、もっと背景をぼかして、被写体を浮き立たせることが可能です。明るいレンズほど高価になります。

 

 

私が使っているスマホはiPhone8で、いまどきのスマホなら綺麗な写真が撮れますが、やはりカメラとしての描写性能は低いです。だって、何を言うても、あのレンズ口径だもんネ。よく見ると、どんなに光量たっぷりの条件でも絵は荒いし、マクロなどのカメラならではの機能も弱いです。綺麗な写真を撮りたければ、iPhoneでズーム(=光学ではないので)はご法度ですしネ。

 

私が使っているコンデジは、何種類もあって、

 

防水のキッズ向けのもの

高機能なのもの

レンズがコンタックス(ブランドレンズ)のもの

乾電池で動くもの

 

‥‥の4種類です。

 

こう書けば、コンデジそれぞれの多彩なバリエーションに魅力があるように思えますが、実はそうでもないのです。使っているからわかる「実感」です。

 

ものすごくストレートにいえば、

 

1台で済まない?

 

‥‥ということです。どれも性能が欠けているがゆえに、いくつも揃えて使っている‥‥というのが、正直なところです。

 

しかも、最新のコンデジ上位機種「SX740」〜上の写真を撮ったSX710の3世代後継機種ですら、今だに4K60pが撮影できません。30pじゃ、せっかくの4Kの画像のキレが、30pのカクカクした野暮ったいモーションで台無しです。2019年現在、実写動画を撮る旨味に欠けます。それだったら、値崩れした旧機種の私のSX710の2K60pで十分で、その場の生な臨場感が撮れます。

 

コンデジはカメラ専門のわりに中途半端。

 

もちろん、一眼レフのような描写性能が良いとか、スマホのような何にでもなる多様性が欲しいとか、そんな理不尽なことは全く言わずに、コンパクトなカメラに欲しい機能に限定しても、中途半端なんですよネ。

 

良いのは、レンズが大きいがゆえに(iPhoneに比べれば)、描写性能がスマホより優れている、上位機種だと絞り優先が選べる、‥‥そのくらいなんですよネ。

 

動画のスタビライズはGoProには全く及ばず、4K60pも撮れないのでiPhone8に劣り、バッテリーは専用品で揃えるのも充電時間もキビしく、撮影時のもしもの時の防水性能が強いわけでもなく‥‥と、コンデジの魅力は上述した通り「レンズと絞り(シャッター速度)」だけでアピール力の乏しい状況と言えましょう。

 

iPhone〜スマホの他に、もう1つのガジェットを追加で持ち歩く面倒さを覆すには、iPhoneよりも写真も動画も綺麗で、持ち歩く甲斐=利点があるものが必要だと、少なくとも私は思います。人は、持ち歩くのに面倒なものは、何か特別な理由がない限り、持ち歩きません。

 

動画を撮るなら最新のGoProかOsmoになってしまうし、写真を撮るなら現代版の「写るんです」たるiPhoneで日頃は十分です。

 

 

やっぱり、コンデジ欲しいわぁ‥‥と思わせてくれる新製品を待ち望んでいます。

 

やっぱり、写真や実写は、生粋のカメラじゃないと!‥‥と言える製品を。

 

まあ、私にとっては、絞り優先&マクロだけでも所有する意味はあるのですが、買い換える気にはなりません。3世代も後の機種を眺めても、魅力に欠けるので購買意欲は上がりません。

 

デジカメの売り上げが7年で1/5になった‥‥と、去年の春に記事で読みましたが、2019年はどうでしょうね。

 

良いのさえ出れば買うんですけどネ。

 

 


ジオシティーズも完全消滅

今日知ったんですけど、実はジオシティーズも3月いっぱいで消滅するみたいです。驚きなのは、まだ消滅していなかったのか‥‥ということです。私は告知のあったかなり前に、更新をストップして畳んだので、もう消えていたと思い込んでいました。

 

 

記事はこちら。

 

無料HP作成「ジオシティーズ」終了まで1カ月、“引っ越し”はどうする?

09年各国でサービス終了も、日本だけは22年間続いていた

 

サービス終了の「最初の告知」があったのはかなり前で、おそらく、このJUGEMのブログに引っ越してきた頃(2013年頃?)のように記憶するのですが、曖昧です。

 

 

「ホームページへようこそ」

 

2000年前後に20代だった人のうち、インターネットを交流の場や情報発信の場としようと思うのなら、誰もがHTMLベースの文書を作成し、公開フォルダの構造を少なからず理解して、自宅の「パソコン」からサーバ上へデータを転送していたものです。HTMLそのものがわからなくても、ホームページビルダーやページミル、クラリスホームページなどで、何とかトップページから始まるディレクトリ構造を作って、サーバに接続して転送していました。

 

「今はツイッターがあるじゃん」というのは、ツイッターで事が済む人の話で、「伝言」クラスのツイッターでは、技術関連の体系だった文書も書けないし、作品や個人のプロフィールもまとまって公開できないです。

 

ツイッターはたしかに気軽ですし、伝播の勢いは圧倒的です。単に「便利」という理由だけで使う人ではなく、そうした特性を巧妙に使っている人は賢いですよネ。ツイッターに自分の絵を貼り付けて公開するのは、情報拡散の特性を活かした上手い方法だと思います。でも、そこから先が繋がらないのだとすれば、やっぱり相応の明確な理由はありますよネ。

 

‥‥まあ、これ以上は言うのは野暮ですネ。当人が気づくべき問題であり、ネットの使いかたは、生き方の縮図のようなものですしネ。

 

 

Webに回帰すれば、体系だった情報発信のHUBも作れましょう。ブログの無料サービスが終了しようと、PHPで日記スタイルのプログラムは作れますし、SNSは別枠で巧く活用して、例え個人規模であっても、戦略に基づく戦術を順次展開できます。

 

要は、SNSしか使えない人間にならなければ良いのです。

 

色々使える人間になるよう、知識を高めて、実践し経験を蓄積することです。

 

Webコンテンツを作り、ドメインを取得して、サーバをレンタルし、サブドメインでWebサイトを開き、SNSへのリンクを作っておく。手始めに、DreamweaverでWebサイトを作るところから始めるので十分だと思います。Adobe CCには、Dreameweaverがついてきますので、20年前と同じく、「私のホームページへようこそ」を作ることができます。

 

 

まあ、ネットを自分の武器の1つにするのなら‥‥の話でしょうけどネ。日々の虚無感の憂さ晴らしにSNSを使うのではなく。

 

何を言っても、人間は、産まれて、生きて、死ぬだけですもん。

 

どうせいつか死ぬのなら、社会の見も知らぬ富裕層を支えるための肉燃料になりたくはないですよネ。

 

スマホを弄って、ココロの隙間を中途半端に埋めて、いつしか老いて、「自分の一生ってなんだったのか」などと、もうどうにもならない時に気づく‥‥なんてことのないように、頑張らなねばネ。

 

 


blog消滅

Yahooのblogサービスが消滅するそうな。メールでお知らせが来てました。私はYahooのブログは書いてないので、Yahooユーザ全員向けなのかな?

 

もう随分前に、ジオシティーズの消滅も味わっているから、特段に驚くことはないですが、blogに掲載された有益な情報も消滅することになるのは、考えてみれば「サービス終了」という認識では計り知れない「喪失」かも知れませんネ。「損失」とかいうと被害を被ったような恩着せがましいニュアンスなので、「損失」というよりは「喪失」でしょう。

 

結局、データは手元に置いておくのが一番良いんだよネ。手元には、20年前のWebディレクトリのデータも残っていますし、もっと遡って、PC-98時代のドット絵(JPEGに変換済み)も残ってますもん。

 

私は映像産業という、考えてみれば非常に脆いメディアの上で商売している人間なので、情報やデータに対して結構割り切りを持っているほうです。

 

壮大な話をすれば、文化がどうの‥‥なんて、人間の文明が継続している間の「一夜の夢」みたいなものだと思ってます。

 

そうしたことを踏まえた上で、「夢を楽しみましょう」ということなんでしょう。

 

夢のスパンは大きく違えど、もし「今の自分の夢」を長く見ていたいのなら、ネットのどこかのサーバに「夢の中身」を置くのではなく、少なくとも自分の手元に置いておくのが「普通に考えて」確実です。‥‥まあ、ちゃんと手入れしないと、デジタルデータの場合は「現物は存在しても、中身を失う」失う可能性もありますけどネ。

 

このブログも、いつ消えるのか、JUGEM次第ですよネ。毎月お金は払ってはいますが、だからと言って、永遠に続くものでもないでしょう。

 

 

技術論でいえば、過去の紙などのメディアと同じ感覚で、デジタルデータを扱ってはならないのです。紙は一部が破れても読めますが、ハードディスクはディスクにひびが入ったら全部読めないですもんネ。

 

しかし、全く同じ内容のコピーが可能なので、最低二箇所に保存することで、焼失などの被害を受けてもオリジナルと寸分違わぬデータは残存します。紙の場合は、焼失したり洪水で流されたら、オリジナルは消滅しますよネ。デジタルデータは、最低1つの複製をとって、二箇所に保存するのが鉄則です。

 

あと、「サービス」の脆さに対する耐性も考えるべきです。私はなんだかんだ言いつつ今までAppleのMacを使い続けているので、「サービス終了」にはそれなりに慣れました。Appleって、そのあたりの「切り捨てかた」はヒドいですからネ。

 

特に重要な物事については、今のサービスが終了したら、違うサービスに「転生」するくらいの「心構えと準備」は必要です。

 

Windowsは今でもWindows98のソフトは動くんでしたっけ? macOSでは漢字Talk時代のソフトウェアが動くなんてあり得ないどころか、現在の32bitアプリを次のOSで抹殺する予告までしてますもんネ。Appleはそういうことをしてきたがゆえに、今がある企業‥‥なので、まあ、しょうがないです。

 

 

以前のブログでも書きましたが、あえて今だからこそ、Webの「ホームページ」(俗称だが)を復活させようと考えています。

 

Webの公開フォルダの中に全てを集約できるので、管理とアーカイブが確実です。ブログでは、どこにどのデータが置いてあるのか、アウトサイダーでは判りません。Webの公開ディレクトリを全て把握した上で、レンタルWebサーバにデータを送るほうが、結局「一番確実」です。

 

Webサーバのサービスが終了した? Webサーバの値段が異様に値上げされた? ‥‥そんな時は自分自身で次のサーバを選んで、自分のタイミングとやりかたでお引越しできます。

 

ドメインを取得しておけば、URLが変わることも防げます。

 

それに、ブログのように新着記事優先ではなく、ツイッターのようにどんどん流れて消えていくわけでもなく、体系立てた「情報の城」が築城できるので(まあ、個人だと小さい城でしょうが)、時流に流されることなく、どんと大地の上に建ち続けます。

 

どうしても長く残しておきたいものは、Webに回帰すべき‥‥ですネ。

 

 

ではこのブログは未来どうなるのか。

 

‥‥まあ、JUGEMさん次第です。消える時は消えるし、万が一は消えても良いと思って書いてます。そもそも新着記事がどんどん最上位にエントリされる時点で、新聞の、しかもコラム欄みたいなもんだと思ってますしネ。‥‥新聞はさ、読んだら捨てちゃいますもんネ。

 

ブログはあくまでブログ。

 

もし残したいのなら、別の方法を考えなくちゃ。

 

ブログは日々の公開日記みたいなもの、新聞みたいなものと捉え、アーカイブしたい情報は、KDPなどの電子書籍や自分管理のWebなどに、ちゃんと手間をかけて作って残すのが良いと実感します。

 

 

 

やっぱりさ‥‥。何でも残せるわけじゃないのは、心のどこかでしっかり覚悟しておかないとさ‥‥。

 

最愛の猫を抱っこして見つめあった記憶、人と人との会話や時間の共有‥‥なんて、どうやったって、事細かく情報として残せるわけではないですもんネ。

 

しかし、作品作りの過程で練り込まれる「当人のかけがえのない記憶」は、それそのものの情報としてのディテールは失われますが、感情のマッスやフォルムとして他者に伝播するのです。

 

歌のない、器楽曲だけでも、なぜ、作曲者の感情が、国や時代を超えて伝わるのか。

 

もっといえば、歌詞があっても、実際にストーリーやセリフがあっても、奥底にある「言葉とは違う」情報が伝わるのはなぜか。

 

キャラ1枚絵でも、その時の描いた当人の感情が表れるからこそ、作品作りは面白いのです。

 

何もかも残せるわけじゃないからこそ、作品作りの虜になるのかも知れませんネ。

 

 



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