エッセンシャルオイル

オタク疲れ。‥‥ああ、確かにそういう面はありますネ。

 

 

 

まあな‥‥。アニメを制作するという本質が、リアルな世界(世間一般的な世界)から少し距離を置いているような部分がありますから、何とも。

 

「主人公の性格的に、こういうポーズでこんな演技は云々」なんて、少なくとも私の両親が熱く議論しているのを見たことは一度もありませんでしたからネ。50歳近くになって、美少女キャラのハイライトのフォルムの変化に、After Effectsのディストーションエフェクトを駆使する‥‥なんて仕事、あまりにも特殊だもんネ。

 

 

ちょうど今日、作品に滲み出す表現というのは、大量に知識がある中から絞り出されてくる一滴のエッセンシャルオイルのようなものだ‥‥と話していました。

 

たまに、「とってつけたような表現」ってあるじゃないですか。‥‥あれって、自分の中からは絞り出てこないから、「型」を誰かのどこかの作品から拝借した結果だと思うのです。そんな話を仕事仲間と話しておりました。

 

例えば、ハードな香りのするミリタリー表現って、ネットでいくら検索しても醸し出せるものではなく、本人がどれだけミリタリー関連の知識を貯め続けて、そこから絞り出てくる「数滴」のエッセンシャルオイルを垂らせるか‥‥が、「雰囲気」のキモになってきます。

 

エッセンシャルオイルって、大量の材料から驚くほど少量しか抽出できなくて、ゆえに数滴でアロマディフューザーで香りが拡散できるのです。作品の中に滲み出す「香り」も似たようなものだと思います。

 

知識の蓄積って、何段階もあって、例えば音楽で表現すると‥‥

 

  1. この曲いいな。‥‥と気になって、好きになり始める
  2. 一般的な「ベスト盤」を買う
  3. 各アルバムを買い集めるようになる
  4. 演奏者のソロアルバムなんかにも手を出す
  5. 演奏者と同時代のアルバムにも手を出してジャンル全体に興味が湧く
  6. そのジャンルのアルバムもアレコレと買い始める
  7. 好きになった演奏者や楽曲が影響を受けた楽曲にも興味がわく
  8. 音楽の「潮流」的なものにも興味が湧く
  9. 何十年にも渡る音楽の変遷を知るようになる
  10. 買うアルバムがどんどん増える

 

‥‥とまあ、嗚呼、まさに「オタク疲れ」の世界。

 

でもこうした蓄積があってこそ、ほんの1パッセージで時代性も聴き分けられるようになります。モーツァルトの時代に、ラフマニノフスクリャービンのフレーズや和音が登場しない理屈がわかりますし、モーツァルトの前にJ.C.バッハがいて、J.C.バッハのお父さんは「大バッハ=J.S.Bach」みたいな、ポリフォニーからホモフォニーへと変遷していく流れも、楽曲の音使いで解るようになってきます。

 

もしアニメで、フランス革命前夜の貴族の館で、いかにもSteinwayのような鋼鉄フレーム製ピアノの響きが流れてくるシーンが出てきたら、「ああ、このシーンの香り作りは諦めたんだな」と感じるでしょう。平均律でどんな調でも響きが一律で、産業革命の申し子のような近代ピアノの響きは、音色だけで時代を表現できます。ハープシコード、フォルテピアノ・ハンマークラヴィーア‥‥といった鍵盤楽器の変遷を知っていれば‥‥です。

 

ミリタリーも、イーグル1機で表現できるニュアンスというものがありますが、そのニュアンスを自由に操作するには、付け焼き刃の知識ではどうにもならんのです。スパローかアムラームか‥‥なんてところでも色々と表現できますが、「ミサイル」としてしか認識していないんじゃ、香りもへったくれもないです。

 

「そんなの、世界の人間の全員がマニアじゃないんだから、関係ねえよ」と思いがちなのですが、あくまで「香り」として作用するものなので、ぽたりと落ちたエッセンシャルオイル単体に目を向けて議論しても埒が明きません。むしろ、世界中の人間がマニアではないからこそ、香りを嗅がせる手練手管を如何に駆使するか‥‥という話です。

 

作品の「香り」を諦めてしまうか否かは、制作者サイドの知識量から滲み出すエッセンシャルオイルの有無が深く関わってきます。

 

マニアと同等の知識を持たない人でも、なんとなく解るニュアンスというものがあって、「なんか、妙にリアルな物々しさがある」とか、「理屈はよくわからないけど、劇中の独特の雰囲気を感じる」みたいな、作品中の「香り」を嗅ぐことができます。

 

制作者側としては、いざという時に、最適なエッセンシャルオイルを垂らせるのが理想ですよネ。

 

 

なので、制作側のスタッフには、いろんなジャンルの「好き者」が必要なのです。皆が戦闘機・戦車オタクばかりではジャンルが狭過ぎてあかんですが、服飾、トラディショナルな模様、時計などの工業製品、武具、ドレス、髪型、制服、絵画、歴史、動物、鳥類、魚類、etc‥‥と、色んなマニア・オタクがいてこそ‥‥です。

 

まあ、だから、「XX作品のOOというキャラが大好きです!」なんていうアニメオタク要素は現場にはさして有効には作用しません。それは自分の胸のうちに秘めておけば良いことで、仕事にそれを持ち出す機会もないでしょう。‥‥まあ、間接的には影響する(自分の技術スタイルの根っこなどに)とは思いますけどネ。私は自分自身の中に、永井豪さん、松本零士さん、吾妻ひでおさん、水木しげるさんと言った幼少の頃に読んだ漫画家さんからの強い影響を感じますし、旧作ど根性ガエルのAプロ系の動きに今でも深い愛着がありますが、それは胸の内で良いのです。

 

制作サイドのスタッフであれば、ぜひ、「好き者一直線」を貫いてもらって、色々な知識の集合体として作業現場を形成できたらいいな‥‥と思っています。

 

 

ちなみに「こだわりのモノたちばかり集めても、そのアイテムが日の目を見なければ意味がないかも・・・」なんて診断されてますが、その辺は大丈夫。日々、次から次へと、繰り出しておりますから。

 

‥‥私の歳くらいになると、蓄積から放出へと向かうのかも知れませんネ。

 

 


滅びの哲学

今から72年前の1945年の3月10日。爆弾(焼夷弾)をしこたま抱えた飛行機の大編隊が、日本人をひとりでも多く殺す目的で、空の向こうからやって来て、東京を火の海にして去っていきました。私の母の一家は、1944年当時、高円寺に居を構えており、母は幼いながら、空襲で真っ赤になった夜空を見た‥‥と記憶しているようですが、なにぶん幼かったので、1945年の3月は既に疎開して地方都市の空襲を見たのか、まだ疎開しておらずに東京の空襲を見たのかは、確かな記憶はない‥‥とのことです。

 

よくよく想像してみると、「空の向こうから、自分たちを殺す目的で、爆弾を抱えて飛行機がやってくる」って、スゴいこと‥‥ですよネ。

 

しかし、近代戦争だけが残酷なわけではありません。NHK大河で度々取り上げられる安土桃山の戦国時代だって、かなり、エグいです。

 

甲冑武者や日本刀を見ると、これらの道具が、どれだけの人間の血肉を切り刻んだのか、戦場を駆け巡る武者たちの残忍な姿を想像せずにはいられません。

 

戦車や戦闘機をかっこいいというのは不謹慎で、鎧の戦国武者をかっこいいというのは日本情緒があってOK‥‥という感覚は、私は全く同調できません。現代も近代も中世も、どの兵器も等しく、残酷なものでしょう。流鏑馬を見て、「日本の武士はいいわね〜」なんて言うひともいるでしょうが、戦場だったら、的はモロに生身の人間ですからネ。

 

しかし、武器は、敵を打ち倒して自分は勝ち残るという、闘争本能の権化であるからこそ、おしなべて、冷酷な機能美を体現している‥‥とも思います。

 

 

 

‥‥‥あ、のっけから脱線した。

 

今回書こうと思い立ったのは、全然別のベクトルの話題です。

 

日本人には、「ダメだとわかっていても、滅ぶ運命と共に、殉死する性質」があるのだろうか?‥‥という話です。

 

 

1945年3月10日に、東京をあれだけ焼け野原にされても、すぐには戦争をやめられなかったし、もっと酷いことになるであろう本土決戦の準備を着々と進めていた当時の日本人たち。

 

「状況が酷い事はわかっているし、劣勢なのもわかりきっている」のに、方針を転換できなかったどころか、より一層、まるで無理心中のその瞬間まで戦い続けるんだという狂気が、ごく普通に毎日の生活の中に浸透していたであろう、1945年の日本。一般の人々は虚偽の情報に欺かれていた‥‥とは言いますが、一夜にして東京が焼け野原になって、なぜ情報のウソに気づけなかったのか。

 

日本人には何か、「たとえダメだとわかっていても、最後までやり通すんだ」という「滅びの美学」のようなものが、ず〜〜〜っと心の奥底に存在し続けている‥‥のでしょうかね?

 

軍国教育、軍国社会の強い影響下に、日本人は洗脳されていた‥‥というのは、果たして正解でしょうか。

 

 

私は、現代の日本社会を見ていると、決して軍国教育だけが1945年までの日本人の行動指針を決定づけていたとは思えません。

 

そもそも、日本人には、土地と共に生き、土地と共に死ぬ‥‥という土着の精神が深く根付いているのではないでしょうかネ。

 

そして現代社会においては、その「土地」が、ひと昔前は「会社」や「組織」であったり、アニメ制作の場合は「アニメ業界」であったりするだけ‥‥だと感じます。

 

 

動画単価は一時期200円台まで上がっていて、私が新人の頃(1980年代後半)の2倍までにはかろうじてなった‥‥という認識でいました。‥‥なので、人から話を聞くまで、再度200円を下回った単価(190円とか)が存在するなんて、夢にも思いませんでした。仕上げだと160円とか。‥‥正直、耳を疑いました。

 

なんで、単価が下がってんの?

 

だってさ、昔より遥かにキツくなっているんですよ。動画の品質要求は。

 

明らかに破綻していますよネ。確実に破滅の道を進んでいますよネ。単価は上がりこそすれ、決して下がってはいけないと思うのに、内容の高い要求水準に反して、単価が下がっていく状況は、まさに業界の「終わりの象徴」とすら感じます。

 

動画の人が6万円でキツくて辞めた‥‥という話題がちょっと前にツイッターで話題になりましたが、それはその動画の人が所属していた会社云々の問題ではなく、業界全体の問題です。

 

 

東京は大空襲で焼け野原になったけど、日本が負けたわけじゃない。

 

 

‥‥これと同じことを、アニメ業界は繰り返そうとしているだと思います。

 

東京が大空襲で焼け野原になった時点で、日本は気付くべきだったのです。そうすれば、私の祖父もカンギポット山で終戦1ヶ月前間際に死ぬこともなかったのです。

 

核爆弾を2発、大都市に投下されて、ようやく、「もうそろそろ終わりにしないとヤバい」と動き出すのは遅すぎた‥‥と思うのです。

 

 

大東亜戦争の子や孫たちは、同じ構造の「滅びの哲学」を、あいも変わらずに「同トレス」しようとしている‥‥のでしょうか。

 

 

 

既に死んでしまった監督演出のわたなべぢゅんいちさんが、その昔、私が20代前半の若い頃に教えてくれた日本のポップスで、前にも紹介した「夏への扉」の一節が思い起こされます。

 

 

あきらめてしまうには まだはやすぎる

 

扉の鍵を みつけよう

 

 

 

 

みなさんは、「扉の鍵」をみつけようとしていますか。

 

扉から外に出て、生きるか死ぬかも判らないのなら、いっそ、馴染み深いこの部屋の中で死ぬんだ‥‥とばかりに、未来を閉ざされた部屋に閉じこもり続けて、何になりましょう。今、生きているのに、今、死ぬことを決めちゃうんですか?

 

負けは負けと早々に認めて、今まで積み上げたプライドなんか捨ててしまって、まるで幼子のころに戻って、新しい道を模索すればいいのです。

 

私は全然、1%足りとも、未来を諦めてはおりません。

 

 


生き詰まり

先日、耳にした話で、動画や仕上げの単価が徐々に下がる傾向は続いており、動画は200円を切る場合もあったり、仕上げは160円なんていう単価もあるようです。

 

私が学校を卒業して18歳でアニメーターになった時の、動画の単価は120〜130円。80年代後期、線の量のエスカレートした作品が急激に増え、月千枚をコンスタントに描くのはかなり厳しく、家賃三万円台の物件が豊富にあった私の時代ですら、月6〜8万円ではまともに生きていけないことは判明していました。

 

で、2017年の今は、遥かに線が多く、クオリティも要求される状況。

 

 

 

完全に行き詰まっていますよネ。日本のアニメの作り方。

 

 

 

でも私は、「行き詰まり」というよりは、「生き詰まり」‥‥と思うのですよ。永遠に成長し、永遠に機能を維持できて、永遠に生き続けられるものって、存在しないと思うからです。

 

老いは受け入れるべきで、それはアニメ業界も同じことです。

 

人間は歳を重ねるごとに、知識も経験も増え、相応にやることも増え、やったことに対する責任も増え‥‥と、どんどん重荷が増していきます。そして、いつしか、老人となり、第一線を離れ、仕事を辞め、隠居する‥‥という流れです。

 

アニメ制作も同じではないですかね。

 

年代が進むごとに、知識と経験が蓄積してアニメ制作技術が向上し、色々な作風のアニメを作るようになり、品質に対するハードルもあがり、どんどん、どんどん、重荷が増して‥‥。

 

このままのベクトルで進み続ける「わけがない」ですよネ。

 

いつかどこかで、限界値に達して、縮小へと転じるはずです。

 

アラウンド50のスタッフなら、「ああ、自分の身に置き換えれば、思い当たる節がいくつも」と感じるはずです。日頃から「自分の体力に過度に期待する方針は、どこかでストップしなければ」と思っている‥‥でしょう?

 

アニメ業界も同じじゃないですかネ。アニメ業界自身の「体力に過度に依存する」やりかたは、もう通用しなくなるのだと思います。なにものでもなく、アニメ業界「自身」が老いたからです。

 

アニメ業界は、自分自身の体力に過大な自信を持つがゆえに、自分の知識と経験を継承する「子供」を作らなかったし、育てようともしなかった節があります。

 

つまり、アニメ業界の技術は、このまま、「老いを認めない」で行動し続けると、冗談抜きで「一代限り」で消滅する可能性は高いです。

 

 

 

既にそうした危機感をリアルに感じている聡明な方々は、たとえ今はよちよち歩きで幼くても、新しい技術に自分らの「技術の遺伝子」を継承させるべく行動していることでしょう。私も微力で小規模ではありますが、幼い新技術を育てております。

 

現時点では立って歩くこともままならない幼子ですが、今のアニメ業界の技術だって、生まれた頃は同じだったじゃないですか。恐ろしく幼かった‥‥ですよネ。

 

 

積み上げたものをバラして壊すのは、「せっかくここまで積み上げたのに‥‥」と切ないでしょうし、得た技術は手離したくないのも人情でしょう。

 

でもね、‥‥老いたのです。アニメ業界の、思想も技術もシステムもノウハウも。

 

老いて機能が低下し、劣化してしまったからだで、どんなに欲張っても、もう若い頃のように、ウフフキャッキャとはしゃぐことはできないのです。

 

目をそらさず、その事実と向き合わなければ、老いた先でとんでもない破綻がまっているかも知れません。

 

老いた自分自身に全く気がつきもせず、若い世代に老いた思想で洗脳を試みて、大量の脱出者が毎年出る‥‥なんて、あと何年何十年、続けるつもりなのか。

 

 

業界の老いを認めて「覚悟」してしまえば、逆にポジティブな発想も浮かんでくるのではないでしょうか。

 

絵コンテ? 原画? 作監? 動画? 撮影? ‥‥その制作システムの老いを認めた上で、若い層、中堅、ベテランともども、「新しい何かを始める」のが良いと、私は思います。


Apple Park

Apple Park。

 

 

四月、オープンとな。

 

巨大な社屋。5600億円。‥‥むーん。

 

まあ、世界有数の企業だもんね。アップル。

 

 

iPhoneの時もそうだったけど、定期的にアナリストの定人数は、予想をハデにブチ外すよね。

 

Appleは経営破綻してどこかに買収されて消える‥‥なんて90年代に言ってたのは、どこのどいつだ。‥‥でもまあ、たしかに危なかったよネ、当時のAppleは

 

私だって、1997年に自費でPM8600/250を買う頃に、Windowsにしようか本気で迷いましたもん。でも、PM8600筐体の頃から、確実にAppleは立て直しを進めていて、その成果が製品に反映され始めていました。日本版のOSを漢字Talkとか言ってた頃からMacOSへと統合したり、マシンのメンテナンス性が格段に向上したりと、「Macにしてみても良いかな」と思い直せた時代が、1997〜1999年くらいの頃でした。

 

Bloodの劇場版を1999年に作っていた深夜のこと。ふとIEでブラウズした、AppleのWebにiMacが大きく映し出されたのを、今でもよく覚えています。あの不思議なパソコンが要は「スティーヴの仕業」だったんですネ。iMacは衝撃的すぎて、ニセモノの半透明一体型PCも出たし、そこらじゅうの雑貨が不必要にトランスルーセントになるわで、社会現象の起爆剤にもなりました。

 

色々言われる人だけど、結局はスティーヴ様々ですね。

 

 

でも、こうした社屋に、私はあまり憧れは感じませんよ。日本は日本独自のやりかたと美意識があります‥‥って、強がりにしか聞こえんですかね。

 

ディズニーやピクサーのキャラに心の底から愛をもてないですもん。アメリカの趣向には馴染みきれません。私はどんなに社屋が立派でも、もし扱うキャラがアメリカナイズされたものだったら、辞めちゃうと思いますしネ。

 

ほら‥‥。やっぱり、私は根底はとても保守的なのです。好きなものをより美しく表現するために、技術をどんどん乗り換えて進化させていこうとは思いますが、好きなもの自体を変える気など全くございません。

 

 

何か、元も子もない言い方になっちゃいますけど、「日本って、こんなだから、こんなキャラを生み出して、こんなアニメを作れる」とは思っているのです。利点でもあり、弱点でもありますネ。

 

ただ、「こんなままで良い」とは思わないので、何か新しい道筋を探そうとは思いますけど、あくまで日本の特性や美点を鑑みたものでありたい‥‥です。

 

 

 

 


世代

よく、「ゆとり世代」とか「さとり世代」、「バブル」とか「ロスジェネ」など、世代の特徴をして、自分を定義づけることがありますが、わたしはどうもピンとこないのです。たしかに時代性の特徴はありましょうが、個人のポテンシャルに深く関与しているようには思えません。

 

どんな世代でも、何らかのプラスマイナスを包括しているのであって、世代が悪かったから自分は不運だ‥‥なんていう論調にはどうにも賛同できません。どの世代でも、勘の良い人悪い人、伸びの良い人悪い人はいて、もっと言えば、人の「良し悪し」の評価も、ある場所ではダメダメづくしでも、違う場所ではてきめんに性質を活かせることもあって、人の使い所や評価なんていうのは、「世代性で総括できるものではない」というのが、私の経験からくる率直な感想です。

 

私はもう10年以上、学生の若い人たちを見ていますが、たしかに「世代ごとの全体の雰囲気」程度は感じるものの、やっぱり人はその人自身で成り立っており、「XX世代だからダメ」なんていう決定的な場面を経験したことがないです。

 

むしろ、「自分はXX世代なので不運だ」とか言って、自分の境遇を世代性に転化する様を目や耳にすると、少々イラっときます。例えば絵を描くのならば、デッサン力の欠如やパースの知識の低さは、世代のせいじゃないだろ?‥‥と思いますしネ。単に、その人間の学習法や絶対的な学習時間に欠陥があるのであって、「XX世代だから絵が上手くならない」なんてありえません。こと、絵に関して言えば、上手くなりさえすれば、世代なんて簡単に超越できます。

 

頼りになるロスジェネ世代のスタッフは多いし、ゆとり世代でも感性が鋭く自分に厳しい人もいます。世代なんて、ほんの些細な会話の中で感じる程度で、技能でネットワークする現場においては、本人の技術だけがよりどころです。技術は度外視されて世代の違いで冷遇される‥‥なんて、少なくとも私の知るアニメ制作現場では皆無です。

 

自分の不運や境遇のわびしさを、世代性を理由にして自分の中でごまかしちゃうのは、結局は何も解決しないよネ。どんどん怨念感情が募っていって、境遇に対する恨みが外部へと発散されて、逆に疎まれて、好転への糸口を見失う原因にすらなり得るんじゃないですかネ。

 

「自分はゆとり世代だからナメられてる」とか、「自分はロスジェネ世代だから運から見放されてる」なんていうのは、実は、そういう思考で物事をあてはめるがゆえに、ナメられて運から遠のくだ‥‥と、様々な人間模様を見てきて思います。世代にこじつけて何かにつけてイジけちゃう人を、周囲はどうやって扱えばよいのか‥‥を、客観的に考えてみれば、自分の立ち位置を世代で定義することの「逆効果」を分析できるんじゃないですかね。

 

実は、「おまえはXX世代だからダメなんだ」と言い放つ他者と、「自分はXX世代だから損をしている」という当人は、「同じ穴のムジナ」なんだと思います。人間そのものを見つめないで、安易に「世代の風潮」で人間をジャッジする思考において、どっちもどっちじゃないですかネ。私は、世代で分け隔てなんてしませんし、性別も年齢も国籍もマイノリティも、要はその本人の状態が重要なだけです。

 

むしろ、少人数の制作規模においては、個性や世代なんて拡散していた方が良いとすら思います。どんな世代がどんな私生活を送っていようが、作品制作で比類なき能力を発揮してくれれば、それでOKなのです。そして、発揮された能力が正当に評価されて、相応の報酬が与えられる現場を作るのが、目標でもあります。世代で何かをジャッジする遑などありません。

 

 

技術者だったら、絵描きだったら、コンポジターだったら、とことん自分の技量を高めて、色々なプロジェクトに参加して、それでも何か違和感を感じるようだったら、その時に初めて「世代」の性質を考慮してみても良いとは思います。‥‥でも、技量がめちゃくちゃ高いのに、世代ゆえに冷遇される‥‥なんて、あらゆる世代のスタッフが入り乱れる制作現場においては、私は見たことがないですけどネ。

 

たしかにね‥‥「あの時代の、あの感じと雰囲気は、グッとくるよね〜」などの世代ごとの共有感は、超越できないこともありましょう。もうそろそろ50代になろうという私が、20代の人たちに対して友達のように輪には入っていけないな‥‥とは肌身でひしひしと感じます。

 

しかし、制作現場はお友達クラブではないので、仕事の腕っぷしで繋がる「仕事仲間」で充分です。

 

 


扉の鍵

tga1.jpg今は亡き、演出・監督のわたなべぢゅんいちさんと出会った頃、教えてもらった楽曲のひとつに、山下達郎の「夏への扉」という曲がありました。

*追記:おぼろげな記憶だと、わたなべさんが好きだったのは、山下達郎バージョンではなく、難波弘之「センス・オブ・ワンダー」バージョンだったように記憶しています。

 

私は、山下達郎ハインラインも馴染みがなかったので、いわゆる70〜80年代のフュージョン系アレンジの楽曲、AOR系の曲というのが第1印象でした。聴くうちに、徐々に愛着も増していき、今では、iPhoneの中には必ず入っている定番となっています。

 

歌詞は、そのまま、小説の内容を反映していますが、あらすじを要約するような無粋なものではなく、物語の心情的なエッセンスを表現しています。

 

今にして思うと、なかなか、グッとくる節もあります。

 

もしか君 いまここで

やり直せなくても

さびしく生きることはない

 

あきらめてしまうには まだ早過ぎる

扉の鍵を みつけよう

 

 

今の時期、別にアニメ業界だけでなく、日本全体にも、なにか妙にキモチに響くものがありますネ。

 

わたなべさんが、当時の20代前半の「迷える」私にこの曲を聴かせてくれたのも、なにかピッタリくる感じような雰囲気があったのでしょうかね。そして、わたなべさん自身にとっても。

 

 

わたなべさんが死んで、もう10年‥‥だと昔からの仕事仲間の方から聞きました。

 

ただ、私は結構定期的に、わたなべさんのことを思い出しているので、10年とか聞くと、ちょっと意外な感じもします。

 

わたなべさんが生きていた時、「墓参りなどしなくても、その人のことを、どれだけ思い出しているかのほうが、大事だと思う」と話していたことがありました。

 

たしかにそうかも知れません。冠婚葬祭の儀式とは別に‥‥な。

 

今はもう一緒に仕事をしていなくても、あるいはもうこの世に存在していなくても、今でも私の心の中に響き続けるコトバとビジョンがあります。即物的に一緒に居ることやネット経由で文字をやり取りするだけが、繋がりの全てではないのです。

 

 

むしろ、深い繋がりというのは、目の前の近い距離に実在してたり、頻繁に手軽にSNSでやり取りすればするほど、見えなくなっていくようにすら、思います。

 

でもそうした日々の馴れ合った関係とか、瑣末な文字のやり取りの中に、後になって輝きを放つ原石のような何かが埋もれていたりもするんですよネ。

 

 


日本の強み

欧米のいわゆるカットアウト系のアニメや3DCGベースのアニメは、日本の今後の技術展開の観点からみて、決して無視できない「潮流」であると感じます。その「潮流」が、新たなエコシステム=生態系をかたち作ると考えます。

 

ただ、私は一方で、欧米の動向は気にはなるけれど、日本は日本ならではの強みがあって、その強みが「新たな潮流」と混じりあった時、欧米では考えつかないような形態を形成できるとも考えています。私が、悲観的な展望を抱かないのは、その「日本の強み」ゆえです。

 

欧米がカットアウト系で発展しようが、日本も合わせて「カットアウト一本勝負」にでる必要はなく、むしろ、従来の技術を最大限に活用し、カットアウト系と様々な豊かな表現と組み合わせて「複合技術」とすることで、「欧米のカットアウト系とは一線を画す」映像が作れると、今から強く予感できます。

 

欧米から輸入した技術をもとに、日本人は何を作り出したか。今のアニメを見渡せば、ディズニーの絵柄の影も形もないですよネ。

 

同じく、カットアウト系の技術を日本が扱い始めても、決して欧米の表現スタイルで満足するわけはなく、独自の美意識を色濃く反映するでしょう。小難しい技術論を持ち出すまでもなく、実は、日本の美意識こそ、日本の最大の強みだと思います。同じ動力源を用いても、欧米とは活用アイデアが大きく異なる、美意識を足場とした「発展の独自性」が日本にはあるのです。

 

しかし、どんなに日本に「強み」があろうと、新たな表現技術の潮流が一向に滴ってこないのなら、どうにもなりません。カットアウト系を全く扱うことができなければ、組み合すもクソもないです。0 x 1000 = 0です。

 

もっと言えば、「日本ならではの強み」が、潮流を塞き止めているような皮肉な状況すらあり得ます。

 

日本のアニメは、たとえその源流がディズニーなどのアメリカンアニメーション(タップの規格やところどころに残るインチサイズが「先祖の面影」を物語っていますよネ)だとしても、独自の美意識を色濃く反映した、「ほとんど米国人の血が残っていない、クオーターのクオーター」の混血です。しかし、出自がどうであれ、アニメ業界を支えている技術基盤は、テレビや劇場の夥しい数のアニメを作り上げてきた経験と実績であり、それゆえに、日本で独自に発達した作業様式に「かなりの自信を持っている」と言えます。今や、アニメは日本の「土着の特産物」かのようです。

 

その和製アニメに対する強い自信が、24コマシートに作画のタイミングを書き込んで、絵を一枚ずつ動かす技術基盤から、一向に目線がそれず、旧来作業スタイルに「無意識」にでも固執している原因だとも言えます。「新しいものなど求めずとも、今のやりかたで十分うまくいく」という考えは、口に出さずとも、多くの作画関係者が胸に秘めているのではないでしょうか。

 

ゆえに、カットアウト系のアニメ技術に対してひとたび日本が「本気」で取り組み始めたら、欧米人では全く予想もできなかった作品表現を生み出せるにも関わらず、「そもそも手を出さないから、進展もしない」状況に甘んじます。現在のエコシステムに漫然とした安心感を抱くあまりに、新しい技術の潮流を感じることができずに遅きに失する‥‥のも、実は「日本人ならでは」なのです。

 

 

日本のアニメの作り方が、特に状況が過酷なテレビアニメにおいては、産業として成立しにくい状況にどんどん進んでいるのを、業界経験のある人なら誰しも認識しているはず‥‥です。70〜80年代に形成されたアニメ業界のエコシステムが、2020年以降にどのような様相を呈するのか、どんなにポジティブに考えようとしても楽観的なビジョンは浮かびません。

 

一方で、家庭のテレビは、やがて耐用年数に到達し、「次に買い換えるのなら、4K」という人は結構いるでしょう。白黒テレビ〜カラーテレビ〜テレビのステレオ放送〜VHSビデオデッキでの録画〜DVDの登場〜DVDレコーダでの録画〜ハイビジョン放送〜BDの登場〜BD or HDDレコーダでの録画‥‥という流れに、人々がなんだかんだ言いながらも誘導されていることを考えると、次のリプレース時期にすんなりと4Kを受け入れてしまう家庭は多いと予測されます。家電メーカーの2020年あたりの主力が、2K上位互換の4Kテレビになっていれば、なおさらです。

 

旧来のアニメ技術の限界は、内側からも外側からも、ジワジワと迫ってくるのに、「今は大丈夫。だから、未来も大丈夫だろう。」という、ある種の、戦前から通じる日本人の「おおらかさ=呑気さ=危機管理の甘さ」が、「同じ過ちの歴史を繰り返す」元凶とも言えます。

 

今のアニメ制作スタイルで散々痛い目にあって、もうこれ以上はダメだと疲弊しきって破綻するまで、次の技術への移行へと踏み出せないのは、日本人の悪い性質だとも思います‥‥が、同時にその粘って粘って粘りきる粘り強さが、アニメをここまで高度に技術発展させた原動力とも考えます。

 

弱さは強さのみなもと。悪は善を生み出すジェネレータ。

 

‥‥悩ましいですネ。我が国の性質とは言え。

 

 

それにまあ、根本的なシフトである必要もなく、日本人の「なんでも取り入れてしまう国民性」を発揮して、今の技術に新しい技術を組み合わせる発想で、むしろ良いと思います。白黒はっきりさせて「塗り替える必要」など、こと、技術に至っては必要ないのです。技術発展の本質は「覇権争い」ではないのですから。

 

中々に、技術のシフトや新規導入というのは、日本人の気質ゆえ、難しいものがあるな‥‥とも思いますが、少なくとも私は、難しいからといって、あきらめないですヨ。

 

踏みつけられても、最後には粘り勝ちできるのも、日本の「強み」なのですから。

 

 


デジ熱

ダルい。体が熱い。汗が出てくる。熱でも出たか‥‥と、ふと室温を見たら、27.8度。

 

どうりで暑いわけだ。冬だと思って油断してました。

 

暖房は、もちろんOFFのまま。‥‥と、言いますか、暖房自体、今シーズン通算で数時間しかONにしておりません。

 

 

恐るべし、コンピュータ熱。

 

 

よって、まだ2月だと言うのに、冷房です。

 

マシンはあまり暑い部屋に置いてはダメなのです。格段に故障するリスクが増えます。‥‥まあ、そもそも、人間も「熱中症」というのがありますもんネ。

 

 

まだコンピュータの運用の知識の無かった20年近く前の私は、「人間が普通に過ごせるのと同じ環境が、コンピュータにとっても故障の少ない環境」だということを知らずに、あまり入らない部屋にMacを置いて、35度くらいの室温でどんどんハードディスクが故障していったのを、「ハードディスクって壊れやすいんだな」とプンスカしていました。

 

無知の恐ろしさよ。

 

 

冬は19〜20度、そのほかの季節は26度を目安に空調すれば、人もコンピュータも「不調なし」です。

 

室温に気をつけ、メッシュのラック(メタルラック)にサーキュレータと一緒にマシンや周辺機器を設置し、エアフローを考えて運用したら、一気に故障率が減りました。メタルラックをうまく活用すると、空気が何段にも渡って吹き抜けるので、便利ですヨ。自宅のサーバやマシンラックにはぴったりです。

 

 

それにしても、コンピュータや周辺機器の熱って、そうとう強力ですネ。冬だけは、コンピュータの排熱が暖房代りになりますが、春夏秋は電気代がキツいです。特に夏場は地獄。

 

コンピュータが部屋にどんどん増えると室温が上昇するので、部屋全体の冷却が必要になり、一層のコストがかかります。

 

 

ふと、「コンピュータがなかったら、お金、いっぱい貯まってただろうな‥‥」と思いますが、反面、「コンピュータがなければ、稼げなかっただろうな」とも思いますので、ほんとにもう、つくずく、コンピュータとはメフィストフェレスのような存在です。

 

 


なんやかんや言ってもな。

前回、前々回、技術的特徴を活かすだの、絵描きとしてのマーケティングを考えるだの、(私の思考の整理がてら)書きましたが、結局は、当人の意思決定次第ですわな。

 

生きるも死ぬも、当人の意思‥‥としかいいようがない。他人が「あんたはやるべきなんだよおおおおお」と肩を掴んでブンブン揺さぶっても、当人がその気にならなければ、どうにもならん。

 

人間の運命なんて、自分の思念に揺さぶられて、その時々の状況に揺さぶられて、木の葉のように風に翻弄されるものです。

 

ただ、自分では何も変えられないと思い込むのは、勘違いだし、早とちりなのは、事実。自分を「木の葉」だと自嘲的にやさぐれてるから、翻弄され続けるループから抜け出せないのも、事実。

 

一方、「自分には何でも可能性があるんだ。何でもできるんだ。」というのも、あからさまな躁状態であって、勘違いだし、早とちりです。「自分の能力の実情に応じて、可能性が開ける」だけのことです。

 

結局は、自分の能力を低くも高くも見積もらない、できる限りフラットでクールな評価を、自分自身に対して実施し続けるしかないです。

 

それができれば、対応策も色々見えてきますし、自分の能力の何を拡張すれば良いかもアイデアが浮かびます。‥‥まあ、自分をフラットにクールに客観視するのは、そこそこ難しいとは思うのですが、だからといって、自己評価を放棄してちゃ、その次の段階へとは進めないスもんね。

 

自分の表現能力を直に売り物にする職業は、メンタル的にキビしいものです。自分の能力に対するオブセッションがかなり強くなります。従量で労働力を切り売りするのとは、具合が異なります。

 

ですから、「なんでこんなにやってるのに自分は」なんて、従量制的な考えに自分の状況をすり替えないで、能力を活かすために色々知恵を絞って、頑張っていきましょう。お互いに‥‥ネ。

 

 


中庸

ネガティブな話題ばかりが駆け巡りがちなアニメ業界ですが、全ての現場やグループが防御戦や後退戦に四苦八苦しているわけではなく、様々な「野心的な」プロジェクトも動き出していて、未来は決して暗いものでもないと思えます。さすがに、発表前のプロジェクトのあれこれをインサイダーがリークするわけにもいきませんが、ネットで取り上げられる作画崩壊だの放送延期だのがアニメ制作現場の全ての姿ではない‥‥とだけは言えます。

 

ただ、そうした中、「中くらいの生産力と、中くらいの技術力」を併せ持つような中庸な性質のグループは、新しい流れに対して関与することが難しくなっていくとは思います。

 

「今までのアニメ現場の技術を組み合わせた、皆のよく知っている絵柄と動きのアニメなら、普通に作れます」‥‥というのは、先鋭的なプロジェクトにも積極的に参加できないし、技術の粋を集めたプロジェクトにも積極的に参加できないし‥‥で、「どっちつかずの弱点」が露呈しやすいのです。要するに、小規模な野心的な作品も、大規模で様々な技術リソースを集結させる作品も、どちらも主体的には引き受けられない「中庸である弱み」です。

 

その「中庸さ」が、この10年弱の「短期のアニメテレビシリーズ」の原動力になったのは、中規模アニメ関連会社が乱立したことからも伺い知れます。特に技術的ブランドを有していなくても、「アニメが作れる」ということが何よりも「売り」にできた時代‥‥といいますか。今後も「中庸に、原作をアニメ化する」流れは、ある種の定番として存続するとは思いますが、そうした旧来からの流れを尻目に、技術的特性を得た人間やグループは新しい流れにのって、どんどん稼げる方向へとシフトしていくでしょう。

 

技術的に言えば、中庸な作品を手堅く作るのは、実はとても広範で高い技術力が必要なのですが、中庸な制作力のフィールドは競争も激しく、皆似たような技術で背比べするので、必要な技術力の高さのわりに対価は低い現実があります。

 

中庸な制作力を旨とするグループは、近視眼的な技術の繰り返しと小変更に明け暮れやすい傾向があり、それがさらに新しい流れにのれない性質を作り出します。目立って欠落しているところもないけど、目立って突出しているところもないがゆえに、外部から見れば技術的特徴が希薄で、良くも悪くも「原作をアニメ化してくれるところ」としか認識されないのです。当然、技術の価格も激しい競争に晒されやすくなります。

 

中庸な性質に限界を感じ、「何か、売りになる特徴を自分たちも有するべきだ」と感じても、2年や3年の取り組みでは技術的特徴なんて周りにアピールできるほどに確立できるものではありません。4〜5年出費を重ね続けて、ようやく表に認知され始めるくらいの、地道な積み上げが必要です。‥‥ゆえに、現実的に難しいと考え、中庸な状態から抜け出せない‥‥という図式ができあがるのです。

 

「じゃあ、どうやって中庸状態から抜け出すんだ?」と思うわけですが、実は考え方1つです。「現実的に難しい」とさっさと諦める、その性根を叩き直せば良いだけです。

 

「現実的に難しい」なんてセリフを常用して物事を片付けてるから、結局、何も変わらないわけです。自分たちのアニメを作る技術を狭義に押し込め、アニメはこうあるものなどとレッテルを貼り付け、「原画マンたるもの」「アニメの撮影とは」なんて何の根拠かも定かではないプライドを持ち続け、財布の紐はいつだかに思い込んだ思想の延長線上でしか緩まない‥‥という、近視眼的マーケティングの典型を実践し続けるから、1万円の使い方一つ、新しいベクトルに作用していかないのです。

 

中庸に慣れきってしまうと、お金の使い方すら中庸で凡庸になります。

 

「今は現実的に難しいけど、どこからか、徐々にでも切り崩していって、制覇できないものかな」‥‥と考えたいですよネ。また、そういう思考をもつリーダーや仲間と一緒に未来を切り開いていきたいですよネ。

 

中庸さは大なり小なり不可欠な要素ですが、「中庸さしか取り柄がない」というのは、長期的なスパンでみれば、中々に厳しい現実と向き合うことになりましょう。特に、技術の入れ替わりが起こり得る時期においては‥‥です。30年間中庸で過ごせた事実が、未来20年を保証する担保では決してないことを、自覚すべしです。

 

どんなにネットを検索しても、毎日ツイートを気にしても、講習やイベントに参加しても、「いい勉強になったなあ」だけで終了して、実際に自分・自分たちで実践しなければ、何も始まらんよネ。ただ単に「耳年増」になっていくだけ。腕を組んで「現状はどうしたものか、困ったものですね」と世間話をするだけに終わります。

 

やりゃあ、いいんです。やりゃあ。

 

やらなければ、なーんも始まらん。

 

情報だけ見聞きしても、自分らの現状は変えられない。

 

自分たちが実際に動くから、物事も動く。

 

 

現在・現状が中庸だとしても、当人たち次第で、突破口は切り開けるものです。

 

何かしら行動を起こして、それを少しずつでも日々の「中庸さ」の「許容範囲」の中で実践していって、それが多少なりとも効果を発揮すれば、その次にすぐには反映されなくても、巡り巡って「次のオーダー」へと繋がります。当時は「徒花」と思えた特質的な技術でも、その後に徐々に芽吹かせて自分たちの武器となっていきます。「どうせ、やっても無駄だ」という人もいますが、無気力な人間に同調する必要はありません。他人からは「狂ってんのか?」「何かに取り憑かれているのか?」と揶揄されようが、「これはモノになる」という技術を1度や2度の失敗で心なんか折れてないで、継続し続ければ良いのです。

 

実際、自分のこなした作業が、次の仕事へと繋がっていく実感は、多少なりとも誰もが感じているはず。

 

その「仕事の繋がり」を、仕事の依頼がきて中庸にこなすというスタンスで用いるのか、未来の新しい「機会」への「橋頭堡」として次々に築くスタンスにするのか。

 

行動の選択は、当人らの自由です。どうすべきかは、自分たちのビジョン、ロードマップ次第でしょう。

 

「誰でもどこでもいいから」という仕事と、「あなたがたに是非」という仕事は、次第に、そして確実に、状況の明暗を分けていきます。いやらしくは「金額」として‥‥です。

 

水面下で様々な野心的な取り組みが進行するのを目の当たりにする中、「舵取り」がまさに未来の行き先を大きく変えていくのを、ひしひしと実感し続けています。

 



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