みのり

きっかけを何で掴むか、そしてどこに向かうか。なんやかんや言っても、結局は当人の意思、そして呼び込む運次第です。

 

運とかいうとギャンブルみたいですけど、そうじゃなくて、成功の確率を高める行動です。

 

草木の種だって、発芽率100%ではないですもんネ。しかし、発芽率をほぼ100%にするテクニックはあるわけです。一方で、異様に発芽率の悪い的外れな育てかたもありますし。

 

個人だけでなく、集団も、そして業界も、「次のきっかけ」を何で掴んで、どこへと向かうのか。

 

色々な種を蒔いて、発芽させて、育てて、やがて収穫の秋を迎えたいものですネ。

 

*今年は唐辛子が豊作です。キッチンはさみを用意しておけば、ハサミで刻んでトッピングして、何かと重宝する香辛料になります。生でも乾燥させても美味いです。乾燥させると辛さが数倍に跳ね上がります。

 

 


根気と知性

ツイッターで「根性と知性の衝突〜中年と若手の対決」みたいな話をみかけたんだけど、私が常々思うに‥‥

 

根気と知性は両方必要

 

‥‥です。どっちかがどっちかに勝るわけではないからさあ‥‥。

 

根気(根性)と知性をあたかも同じカテゴリーとしてミステイクして、売り言葉に買い言葉の論調にもっていく時点で、根気と知性の両方が欠如しているとも思えます。

 

たとえば、表計算のエクセルを「作表」ソフトと誤認するのは、おっさんでも若いヤツでも等しく存在しますよネ。エクセルは表計算ソフトであって、作表は都合上でできるけど、本来の目的ではないです。小さい頃からコンピュータに触れているのにセル内の計算式も作れない若いヤツもいるし、長く生きているわりにセル内の計算式も作れないオッサンもいるしで、知性や知識の欠如に老若男女は関係ないように思います。相手を悪く貶す文言や方法に老若の境なし。

*エクセルで集計表の枠を作って、集計結果をiPhoneの電卓で計算して、数字をセルに書き込む‥‥みたいな話です。

 

楽器演奏や絵描きもそうですが、マニュアル本や解説本だけ読んでも弾けたり描けたりできるようにはなりません。解るのは、機能や名称や段取りの流れだけです。実際に演奏や絵が描けるようになるには、どうしても、根気が必要な基礎練習の積み重ねは必要です。美しい音や絵を作り出すには、表現を支える広範な知性が必要です。

 

根気と知性って、兄弟・姉妹、卵の黄身と卵白、コインの裏表みたいなもんだよ。知性を得るには根気がいるし、根気があるからこそ知性と呼べるレベルまで到達できるし。

 

ピアノを弾けない人が、バッハのインベンションの第1番ハ長調を弾けるようになるには、根気はまず必要です。鍵盤を弾いたことがなければ、両手各指が分離して動かないもんネ。頑張って弾けるようになれば、肌身で対位法の知性に触れることができます。

 

世代で分けて、どっちが知性があって、どっちが根性があって‥‥みたいなことを語るのは、どんなに若かろうが歳を重ねていようが、愚かとしか言いようがないです。「世代論」に持ち込む時点で、老いも若きもヘナチョコなんだと思います。

 

 

 

世代って、たしかに傾向や特性はありますが、当人の本質をラッピングしてるコンテナみたいなもんでしょ?

 

どんなに歳を食っていても、どんなに若くてフレッシュでも、飽きっぽい人、妙に固執する人、ポジティブな人、ネガティブな人、色々いますよネ。

 

私の直近の話で言えば、カットアウトを本気でやってくれるアニメーターに、老若男女国籍の隔てなしです。ただし、カットアウトの習得には「根気と知性」はどうしても必要です。自分の感性や知識を、ソフトウェアのプロパティやアトリビュートに翻訳する冷静さ(知性)と執念(根気)は必須だからです。

 

 

 

世代論も、根性vs知性論も、ほどほどにしておきたいですネ。

 

自分で抱えきれない物事を、周囲の何かに転嫁したいキモチもわからないでもないです。しかし、その「キモチの散らし方」では自分の内なる問題は解決しません。例えば絵描きならば、絵の上手さ下手さを世代のせいにしても解決できんです。

 

最終的に問われているのは、当人=自分ですよネ。

 

 


Apple Watch

ふと見ると、Apple Watchを使っている人が増えてて、意外な感じです。iPhoneはともかく、Apple Watchは生活必需品というほどではないと感じますし、「日々こまめに充電してるんだなあ‥‥」と苦労を偲ぶキモチになります。‥‥でもまあ、iPhoneやiPadの充電が日々の習慣として慣れているのなら、Apple Watchも似たようなもんですけどネ。

 

という私も、Apple Watchを使っていますが、iPhoneやiPadやMacを使っているのとは全く違う理由です。以前テレビシリーズの作監を手伝った時にあまりのスケジュールの過酷さに死にそうになって、「健康管理」上の目的で腕につけるようにしたのです。「そろそろ体を動かしたら?」「深呼吸しましょう」と、「机の前から動いてない」ことを教えてくれるだけでもApple Watchが必要と思ったのです。

 

周りを見渡すと、仕事でほうぼう動き回っている人の腕に、Apple Watchを見かけます。電車などの交通機関、頻繁な打ち合わせなどのスケジュール、とっさの電話応対など重宝するんでしょうかね。‥‥どう使っているか聞いたことがないのでわかりませんが、「タスクをどんどんこなす」意識というか強迫観念が、Apple Watchのようなスマートウォッチのニーズのもとなのかな‥‥と想像してます。作業場のフロアを移動する時、いちいちタスク確認のためにiPhoneを持ち歩くのも面倒ですもんネ。

 

 

私は基本的に机から離れない業種なので、逆に椅子に座りっぱなしを警告してくれる目的で、Apple Watchを使っています。腕にはめたApple Watchがブルブルとくすぐるので、「ああそうか、動いてないか。」と気づくのです。

 

体の調子が異常な時も、Apple Watchで簡易に確認できます。自分としては平常のつもりでも、なんか体が重くて疲れてダルいなと思う時はApple Watchの心拍数グラフを確認すれば、「この2時間、110bpmのままじゃん!」と異常に気づきます。アニメ制作現場の場合、だいたいは疲労による風邪ひきの兆候ですわな。

 

平常時の自分の心拍数をいつも目で見て知っておけば、異常な心拍数がすぐに判別できます。

 

私はたまにしか電車に乗らないので、Apple Watchが交通機関で大活躍というわけではないですが、たまにだからこそ、券売機でモタモタせずにApple Watchでピピッと改札できるのが便利です。交通機関は事前に「いくら」かを調べて乗車券を買うのが面倒ですよネ。SUICAにWalletでチャージしておけば、まさか東京都内の移動で何千円も乗車で引き落とされることはないので、移動の手間と時間の節約にもなります。

 

乗り場売店のフルーツジュースも飲めるし、駅そばのファーストフードも会計できるしで、なんだかんだとApple Watchを使ってます。

 

 

 

私のApple Watchは「2」です。今月に新しい「5」が出るとの噂ですが、私は「2」のままで十分です。私の使い方の範疇であれば、「2」のままで機能に不足なしです。

 

ただまあ、新しく買うのなら、新型発表直前に旧型を買うよりも、新型が良いですよネ。もしくは型落ちした1世代前を安く買うとか。(Appleは旧型の値段を下げて売ることがよくあるので)

 

私はiPad ProとApple Pencilは同業者に勧めますが、Apple Watchを勧めたことはありません。生活や仕事を劇的に変えるほどではないからです。

 

ただ、2年くらい使い続けた感じですと、「ないより、あったほうが、便利」とは言えます。世の中が「そういう社会」になっていますもんネ。

 

また、健康が気になる人は、iPhoneなどと連携して自分の体の基礎計測をするのも良いと思います。私は人に教えられるほど活用していませんが、心拍数だけでも把握しておけば、自分の平常時と異常時の判断がしやすくなります。

 

9月のAppleイベントで発表されると噂のApple Watch。

 

私はスルーしますが、気になる人はチェックしてみてはいかがでしょうか。

 

*ちまたの時計に男性用と女性用があるように、Apple Watchにも40mmと44mmがあります。ベルトはたしか、長短の2種類が同梱してあったはずです。

数々のチプカシは今でも使っています。私にとって、Apple Watchは時計というよりガジェットなので。

 

 

 

 


138億年で一度きり

ビッグバン後の宇宙の年齢は138億年と推測されています。私は特に宇宙の知識に詳しいわけではないので、その数値はともかく、人間のような80年のちっぽけな寿命しかもてない存在でも、その人間の体験は138億年で一度きり‥‥と思えば、感慨深いです。

 

日本だけのユルい信仰なのかはわかりませんが、「生まれ変わり」「前世」の話題は昔から耳にします。

 

私は、生まれ変わりに関しては、子供の頃から「無いな」と思ってきました。だって、「前世」の記憶がないのですから、信じろと言われても信じられないです。未来、死ぬまで「生まれ変わり」があるだなんて思い直すことはないでしょう。

 

一方で、仮に宇宙が138億年、地球が46億年、人類が400万年だとしても、私の一生は一度きりで、何の代替もきかない唯一の存在だということは、肌身で実感できます。というか、それしか自分で知覚できませんもんネ。

 

であるならば、人生は極めて希少で代え難いものと思えてきます。

 

あくまで恐らく‥‥ですが、今の文明はやがて滅亡して、地球も砕けて、一生懸命作ったアニメ作品も星屑と化すのでしょう。

 

でも、だからこそ、アニメを一生懸命作りたいと思えるのです。どうせ星屑になるからこそ、今、アニメを‥‥です。

 

はっきり言って、「後世の評価」とかどうでも良いです。昔から思っていましたが、死後にどんなに評価されようが、「うわ〜嬉しい」と知覚できる自分は既に消滅しているのですから、生きているうちこそ全てだと感じます。

 

 

 

NHKの私が好きな番組で「ネコメンタリー」という作家さんと猫の生活を映したドキュメンタリー(というのかな?)があります。

 

空気感、距離感、光の捉え方が、なんとも心地よく、留守録したのを何度も見返してしまいます。

 

猫と暮らす日々の様々なニュアンスが、ただひたすら優しく映像に捉えれていて、カメラに写ったその瞬間、瞬間が、まさに138億年に一度きりの瞬間なのだと、しみじみと心に染みわたります。

 

何の変哲もない日常が、138億年を経て得た、奇跡の連続だったことを、カメラはその撮影の結果物にて、私たちに教えてくれます。

 

 

 

絵も同じ‥‥ですね。

 

絵を描くことも。

 

自分の描いたキャラの1つ1つの表情が、まさに138億年で一度きりの表情です。描く人間が138億年で一人きりなのに、その人間がさらにたくさんの架空のキャラの表情を生み出していくのですから、果てしなくとりとめのない気分になります。

 

でも、果てしなくて、とりとめなくて、それで良いとも思います。

 

私はディズニー1942年公開の「Bambi」が好きで、そのフィルムの1フレーム1フレームが愛おしいです。シーンの合間に描写される森の自然描写は、作画から撮影まで全てが「奇跡のフレーム」としか言いようがないです。

 

 

 

人は皆同じではないですから、138億年に一度きり‥‥なんて考えるのもウザくて面倒な人はいるでしょう。でも、それはそれで、良いのだと思います。皆が日頃から、自分も文明も消え失せて、地球が星屑になる日を考えていたら、ぶっちゃけ、社会は回りませんもんね。

 

なので、ふと映画やアニメやコミックなどを読んで、その奥底にある「刹那的な何か」を感じれば良いのでしょうネ。

 

 


二人称欠如

ツイッターって、他者とテキストでやり取りできるので、あたかも二人称のような関係を一時的にではあれ築けたと思いがちですが、結局のところ、三人称のままに留まるように思います。

 

サバサバして後腐れない人間関係は、「現代的」で身軽で都合が良いんでしょうネ。

 

しかし、こと、ものつくり・お話作りにおいて、一人称と三人称しか人間関係を持ち得ない人間が、二人称が頻繁に出てくるストーリーを創作する場合、二人称欠如の状態は強い影響を作品表現に及ぼすと感じます。

 

俺とお前、あなたと私、君と僕‥‥という二人称の関係性を、一人称と三人称だけの想像で描こうとしても、そりゃあ、嘘っぽいし、話も薄くなるし、ストーリー上・ドラマトゥルギー上で不整合も生じましょう。

 

絵においても、一人称の願望だけで二人称を描こうとすれば、相手の心の描写よりも、髪型や体つきに固執した絵も描いたとしても、当然は当然です。

 

まあ、突き詰めに突き詰めて、本人の願望が高次元に昇華すれば、それはそれで常人には及ばぬ完成像を作り出すこともありましょう。ただし、ガチに孤独のまま、そこまでいける人は相当少ないとは思いますし、かなり個性的な絵を描く画家でも、現実世界では普通にパートナーがいたりもします。あの神秘的なモローにもデュルの存在がありましたしネ。

 

 

 

ツインテールとかポニーテールとか、髪型に固執するのって、何か閉鎖的な当人を感情=一人称の内側を感じることがあります。「ポニーテールの日」があると聞いたことがありますが、髪型に執着するって何だろう‥‥と考えたことがあります。

 

まあぶっちゃけ。

 

好きになった人の髪型が、好きな髪型じゃん?

 

二人称たる身近な人間を前にすれば、過去自分が漫画やアニメで好きになった髪型など、どこかに吹き飛んでしまうもの‥‥だと思います。

 

 

 

現在はツイッターなどSNSをスマホで気軽に閲覧できるため、三人称的存在をさも身近な二人称的存在のように感じますが、実際は「一人称の自分の感情」と「三人称のテキスト」の中で、結局は一人遊びに終始している‥‥のだとすれば、何か虚しい気はします。

 

まあ、それが日常の優先度の低い位置ならば良いですが、アニメ作品制作においては、お話を作り、キャラを作るので、二人称欠如は「人物描写の欠如」にも繋がります。二人称で人を愛せない人間が、いくらシナリオの中で愛を叫んでも嘘っぽくなっちゃうもんネ。

 

絵を描くにしても、ネットに上がっている他人の上手い絵を模倣するばかりでなく、身近な人間の生の仕草やふとした感情の機微を感じ取ることも必要でしょう。

 

表面上は人が苦手でも、心の奥では人との繋がりを求めている‥‥のだとすれば、ツイッターのような手段で自分の欲求を誤魔化すばかりでは、いつまでも人の心は作品には描けない‥‥かも知れません。

 

 

 

ふと、ニュートン「死とは何か」巻末の養老先生のコラムを読んで、思いました。

 

二人称における「死」は、一人称にとって「究極の繋がり」とも思えます。それが人間だけでなく、猫や犬であっても。

 

 

 


サーバ整理

今から十数年前、自宅でサーバを構築してLAN/WANで活用するのが流行ったことがあります。自宅のWAN側のIPアドレスを複数のDNSに紐づけて、ルータの特定ポートを開放、外から自宅のサーバに接続する‥‥という具合です。バーチャルホストを設定しておけば、1つのIPでも、複数のサイトに分岐して活用できます。

 

2019年のご時世、この「自宅でサーバ」を構築しなくても、レンタルサーバは安いし、Cloudは発達しているしで、同じようなことは可能です。

 

もちろん、自宅で一線を退いたマシンを使うことで、安価に自前のサーバを組むことは可能ですが、ポートを開放するということは、予期せぬ侵入者の危険に晒されていることにもなり、いまどきはよほど腕と情報に自信でもなければ、わざわざ負のリスクを背負いこむこともないでしょう。レンタルサーバにしておけば、そもそも公開しても良いものだけをサーバにアップしていますし、仮に攻撃されるとしてもレンタルサーバ会社のマシンですし、Cloudとレンタルサーバの料金は自分を危険から守る「保険料」のようなものです。

 

私は随分前からポートは全て閉じており、LANだけでサーバを稼働しています。

 

ただ、忙しさにかまけて「自宅でサーバ」時代のまま数年放置していました。サーバのマシンはMac mini Serverで2011年のモデルなので、かなり昔のマシンが動き続けていたことになります。Wikiサーバの最後の更新を確認すると2013年なので、‥‥あれまあ、6年も放置していたのですネ。

 

 

 

ということで、休日に整理。

 

Mac mini Serverの外付けHDDを全部外して、他のMac mini(以前、紙で4Kをやろうとしていた頃に使っていた)に移して、Wikiサーバだけが動作するマシンにしました。

 

現在、私の自宅で通電しているサーバのHDD容量は、17TBくらいです。でも、中身が満タンに入っているわけではないので、12TBくらいだとは思います。

 

モスボール保管しているdisableなデータや、タイムマシンのバックアップを含めると、もはや何TBあるのかは計算するのも面倒です。表計算で管理してはいるものの、中身のデータ容量までは把握しておりません。

 

企業のサーバではないので、のんびりとしたものですが、古いデータを遡ればPC98のマルチペイントで描いた絵まで発掘できますので、個人的には大切なものです。ちなみに、データは最低コピーを1つ、厳重なデータはコピーを2つ作って違う場所に保管し、天災や火事などの物理的損傷に耐えうる対策をしています。‥‥まあ、日本に巨大な隕石が落下して日本列島が消滅したらダメですけどネ。

 

 

 

紙に比べれば飛躍的に保管のコストは抑えられますが、外部のHDDにデータを移すだけでは全くもって不完全でもあります。

 

例えば、After EffectsのAEPを「アーカイブ」と称してせっせと保管する人々もいますが、20年前のAEPがサードパーティのプラグインも含めて完全に当時のまま開けるなんて奇跡に近いです。‥‥ということは、今保存しているAEPも何年後かには開けないデータになるのは、想像に難くないですネ。

 

機材を丸ごとモスボール保管するか、TIFFなどの枯れたフォーマットで保管する手間は必要です。でもまあ、それでも、紙よりは断然保管は楽です。

 

紙はねえ‥‥保管の維持費が半端ないですからネ。そこらじゅう、ダンボールだらけになって、制作会社の廊下は臨時倉庫さながらです。しかも、カビを防止したり、過度な乾燥などによる劣化を抑えるために、紙にとって快適な室内環境が必要となります。

 

もし私が自宅でも紙のまま作業していたら、今頃、紙に部屋が占拠されて押し潰されているでしょう。実際、紙の素材はかなり捨てましたし。

 

HDDの定期的な買い替え・乗り換えにコストがかかる‥‥って言っても、紙を保管するのに比べれば100倍マシです。日本都市部で一番コストが高いのは、「空間」ですからネ。

 

 

 

自宅でファイルサーバといっても、余った昔のMacと何世代か前のOSのファイル共有だけのことですから、2020年代以降も宅内サーバは動き続けると思います。

 

 


ゲーム障害

‥‥という言葉が、最近はあるらしいですネ。

 

要は、ゲームに没入するあまり、日常の様々な物事や行動に大きな悪影響が生ずる‥‥ということみたいです。

 

【心を取り戻せ ゲーム障害との闘い】

https://www.tokyo-np.co.jp/hold/2019/gamingdisorder/list/190608.html

 

ゲーム依存は病気 WHO、国際疾病の新基準

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45280950V20C19A5MM8000/

 

「ゲーム障害」を過度に心配してはいけない理由

https://wired.jp/2019/06/03/video-game-addiction-facts-statistics/

 

 

スマホなどの普及によって、家のテレビやパソコンの前に座らなくても、気軽にどこでもゲームができるのも、ゲームに没入できる状況を助長しているであろうことは、ちょっと考えれば解りますわな。

 

 

 

私はスマホでゲームをすることもないし、家でもほとんどゲームはしません。

 

しかし、昔はゲームに熱中したこともありますし、今でもプレイし続けているゲームはあります。

 

なぜ私はゲームをしないかというと、ゲームをする時間が無い‥‥というのが第一の理由です。ゲームをする時間があるのなら、もっと他のことに使わないと寿命がどんどん足りなくなるからです。非常に明快な理由。

 

第二の理由は、今流行っているゲームの内容が、私がやりたいゲームとは合わないので、単に興味が湧かないのです。これも同様にシンプルな理由です。

 

おそらく、ゲームが出来る時間の余裕ができたら、私はまたゲームをしたいと思うでしょうし、実際、フライトシミュレータをやりたいと、随分前から考えています。

 

つまり、ゲームのプレイ時間を自他ともに許容できる人間は、ゲームが出来るんだと思います。

 

私にはゲームに時間を使っている余裕はないので、ゲームは出来ないのです。

 

「いや、違うよ。余裕の有無に関係なく、生活が破壊されても、ゲームに没入してしまうのを、ゲーム障害と言って‥‥」というのは、言葉ではわかるんですが、実情としては「本当には生活が破壊されてはいないから」ゲームが出来るのです。記事を読むに、結局は誰かが助け舟を出しているから、当人はなりふり構わずゲームに没入できるんでしょう。収入も途絶え、ネットも端末も死んで、生活インフラも途絶えれば、ゲームなんてできなくなりますもん。

 

ものすごくシンプルなことですが、結局は当人の状態の「写し鏡」ですよネ。

 

 

 

ゲームから学べることはあります。私は大戦略とシムシティをプレイしていなかったら、もしかしたら今でも構造的に物事を考えない人間のまま‥‥だったかも知れません。

 

しかし、ゲームに限らず、どんなに自分のためになる本を読んだり体験をしても、次に自分のアクションが伴わなければ、現実世界での進展はありません。

 

マップをクリアしたからといって、自分の人生が現実世界で開けることはないです。

 

あくまでゲームはゲーム。

 

 

 

ゲーム障害か。

 

私自身の考え、あくまで私の感想ですが、‥‥‥‥人生の時間を、ゲームのプレイ時間に多く消費してしまうのは、もったいないと思います。もし、そのプレイ時間の半分でも、他の物事に使えるのなら、自分の人生は変わってくると思えるからです。

 

ゲームの中の世界と、現実世界は、「世界が違う」ことを認識ることはまず必須です。

 

同時に、ゲームの世界での体験は意外に現実世界でも応用できることが多いことを認識することも必須です。

 

私は、大戦略とシムシティをやって、良かった!!‥‥と正直に言えますし、そのゲーム体験をどのように自分の仕事に活かせるかも、自分の今までのキャリアを引き合いに出して語れます。

 

一方で、パズルゲームやシューティングの類いは、あまり仕事には活きていないことも、冷静に語れます。私の経験を踏まえた上で論理的に。

 

つまり、猿のマスターベーションのように延々とハマって抜け出せないゲームもあれば、ふと思い立って現実世界へ新たな思考と共に踏み出せるゲームもあるのでしょう。悪い酒があるように、ゲームにも悪いゲームがあるとは思います。

 

もちろん、良い酒と同様、良いゲームもあるでしょう。

 

 

 

例えば大戦略やシムシティは、現実世界では決して1つの都市や軍隊を作れることはないですが、ゲームの中だけでは、都市や軍隊を作り、都市を経済を発達させたり戦争に勝利して終結させることができます。

 

私が感じる「ゲームの素晴らしい特徴」です。都市を更地から作っていく体験なんて、誰もできんでしょうが、ゲームなら(ゲームなりのデフォルメはあれど)体験できます。

 

ゲームの中では最強の軍隊を作ることもできれば、第二次世界大戦の歴史を変えることもできるし、ハイテクと緑が共存する理想国家を作ることもできます。

 

 

美術館も中央図書館もオペラハウスも博物館も動物園もコンベンションセンターもあって、空気は綺麗で水は澄んで緑に溢れて、医療と教育は充実し、犯罪率も低く、地下鉄や高架の鉄道、国際空港やテレビ局やハリウッドスタジオがあって、ハイテク産業が発達して、核融合炉まであって‥‥と、どうせ「都市」を作るのなら理想都市にしてみたいよネ。

 

教育と医療にはお金がかかりますが、そこをケチると住民の不満は増えます。緑のない灰色の街、水と空気の汚い街にはハイテク産業は寄り付きません。高度な医療と教育を実現することは、住民の生活のみならず、商業と工業をハイレベルに発達させることにも繋がります。

 

住民の「民度」を上げるためには、まず何に着手すべきか‥‥なんて、シムシティのようなシミュレーションゲームでしか体験できないでしょう。

 

戦略シミュレーションで言えば、子供のプラモ感覚で戦闘機と戦車だけを大量購入しても戦争には勝てないことを知ります。また、無策な正面攻撃一本槍では大量の損失が出ることも解ります。奇策ほど周到な情報収拾と綿密な侵攻作戦計画が必要だと悟ります。

 

ゲームでこれらを疑似体験しないばかりに、現実世界で大失策による大敗を喫することもありましょう。

 

もしかしたら、私がアニメ業界と映像業界で生き残ってこれたのは、大戦略とシムシティで経験した構造的戦術論を実践したことも、生き残れた大きな要素のように思います。作業場での知識と経験だけでは、構造的に物事を俯瞰視して分析する「癖」が身につかなかったでしょうネ。

 

ゲームが役に立つことは大いにあります。

 

 

 

ゲームを「障害」にしてしまうか。

 

それとも、「疑似体験」にして「現実」においてプラスに活かすか。

 

気晴らしだけのゲームに一生を消費してしまう「愚」は避けたいものですネ。

 

 

 

書を捨て町にでよう‥‥ではないですが、

 

ゲームを止め世界にでよう

 

‥‥です。

 

ゲームに没入したまま、一生は終われないです。

 

 


植物

大きな唐辛子が赤く熟しました。

 

Apple Pencilと比べると、その巨大さがわかります。

 

 

 

小さな種の1粒が育って、花が咲いて、こんな大きな実がいくつも生るのですから、植物はすごいですネ。考えてみれば、人間も同じです。

 

育て方が悪ければ、決して実など生ることなく、枯れ落ちます。

 

単に栄養だけ与えても、病気や虫害に冒されて死滅することもあります。

 

同じ場所に撒かれた種は、全て平等にすくすく成長することはなく、群を抜いて成長する個体の陰で光が遮られて、生育せず花も実もつけずに終わる個体もあります。

 

園芸をやってると、自然って残酷だな‥‥と思います。

 

 

 

植物に必要なのは、土、水、光、そして風、です。

 

園芸の初心の頃は、風を意識できないのよネ。一生懸命、土と水だけ与えて、育ちが悪いと日当たりを気にします。風の存在に気づくことはないです。

 

植物を植える間隔を密集させると風通しが悪くなり病気にかかりやすいです。しかし、風通しが良くても、風が細菌を運んでくることもあります。風が強すぎると、葉が干からびることもあります。

 

風は難しいですネ。

 

 

 

植物だけでなく、人間にとっての「土、水、光」、そして「風」も、日々、気にしたいものです。

 

 


掛け値無し

最初から一攫千金を目論んで、アニメーターになる人なんているのかな。

 

小さい頃からアニメが好きだ。アニメが描きだす空想の世界、アニメの世界に近づきたい、同化したい。キャラが動くのを自分で描いてみたい。

 

アニメーターになりたいと思う心は、掛け値無しです。

 

 

 

前回書いた、「封筒に50円玉1枚」のプロ報酬だって、当時の私は嬉しかったのです。

 

だって、アニメを作り出す一員に初めてなれたのですから。

 

美談にするつもりは全くないですし、むしろその後の強い「くさび」となるような「50円」でしたが、偽らざる当時の気持ちは「嬉しい」という感情のほうが優っていました。

 

掛け値無しだったのです。

 

 

 

私が中高生の頃は「うる星やつら」が全盛で、私も「ラムちゃん」を描いてみたいと思ったものです。‥‥私が描かせてもらえたのは動画時代に描いた「温泉マーク」だけで、私が原画として仕事を受注できるようになる頃は、うる星やつらのブームは終わってしまい、今日の今日までラムちゃんは仕事では描いたことがないです。

 

*iPad Pro(とApple PencilとConcepts.app)でラムちゃんを描いたお。本当はもっと「当時っぽく」寄せて綺麗に描きたいですが、とりあえずマーカーっぽいペンにて。

*現在、ガチガチに硬派でリアル系の絵を描くベテランも、ラムちゃんを描いてみた昔は‥‥あるでしょ?

 

 

ラムちゃんはともかく。

 

アニメへの憧れから入った人間も、いつしか技量の向上とともに描く絵が変わってきます。

 

つまり、人は成長し、描く絵も変わってきます。

 

皆が憧れだけで仕事を続けるわけではなく、技術と経験の蓄積とともに描ける絵、描きたい絵が変わってきて、アニメの表現はどんどん広がっていきます。

 

生きていればこそ、自分も全体も、発展の可能性が生まれ、豊かになります。

 

 

 

商業作品のアニメーターは、掛け値を無くすと、どんな気持ちが残るのでしょうか。

 

僕の、俺の、私の、描いた絵が動くのを、見て!

 

お金が稼げなければ生きてはいきません。綺麗事では済まない現実があります。

 

でも、何もかも削ぎ落とせば、残るのは「自分の描いた絵が動くのを見て!」です。

 

 

 

夢もあり、希望もあり、ときには野心もありましょう。

 

しかし、ある日突然、命が途絶えてしまったとしたら。

 

未来への夢が、打ち切られてしまったのだとしたら。

 

 

 

もし、「残留思念」(幻魔大戦みたいだけど)が残るとすれば。

 

 

 

たとえ、その人間、その人々の存在は消えても、その人たちが作った作品は存在し続け、観続けられて、愛され続けるのなら。

 

描いた人間は嬉しく思うでしょう。

 

掛け値無しに。

 

 

 

 

 


めばえ

自分は何が得意なんだろう。‥‥その「何とないけれど、とても重要な、命題」を自己認識するために、5〜25歳の20年が誰に対しても用意されているのだと思います。特に映像娯楽産業の類いは、学校の勉強では教えてくれないことばかりが必要になりますから、それこそ10歳前後で何らかの「兆候」が現れないと、5〜25歳までの期間を単に「行事を消化する」20年にしてしまいかねません。

 

特に5〜9歳あたりの「欲求の芽生え」は、実はものすごい重要度をもって、当人に運命的とも言える強い影響が生じる‥‥と、つくづく感じます。

 

勘違いしないでおきたいのは、既に5〜9歳の子供が、自分の未来を実感している‥‥というわけではなく、自分の未来を左右する「思考と行動の基本」が芽生えるということです。

 

今でも覚えていますが、私は小さい頃「肉屋さん」になりたいと絵に描いたことがありました。お肉が好きだったので‥‥。全然自分の未来を予測できていませんよネ。私に限らず、子供の頃に考える「実際の職業」なんて、誰しも、大きく的を外していることでしょう。

 

子供の頃に芽生えるのは、自分がどのように物事を考え、かつ、実際にどのように行動するか‥‥という「光や風や影」のような「手では掴めない」けれど実際に「大きな役割を担う何か」です。

 

成長する間に、色々な出来事と遭遇し、表面上の性格は大きく変動するかも知れません。しかし、当人の体験から得た知識や経験則よりももっと深いところにある「原理」は、5歳くらいからの10年未満で形成がほぼ完了してしまう気がします。

 

 

 

打算などかなぐり捨てたフィールド、計算や損得勘定では割り切れない、自分の「行動の不思議」、もっと遡れば、自分の「思考の不思議」が、幼い頃の自分に深くリンクしていると思うのです。自分ですら「ミッシング」した思っているリンクでも、実は見えないところで恐ろしく太く強い信号線で繋がっているのでしょう。

 

大人になってから、後付けで絵を好きになろうとしても、結構キツいと思うんですヨ。

 

自分の中の原理が「ソレじゃない」と自動判断するがゆえに、結果、1週間で1枚くらいしか絵を描かなくて、それでも「絵を描けるといいことがありそうだから」みたいなスケベ根性だけは大人になってしまった自分はもたげていて‥‥というのは、まあ、未来には繋がらないですよネ。

 

絵を描く、映像を作る、お話を作る‥‥というのは、やっぱり、自分で「作る」ことの喜びを、自覚なしでも「体や脳の奥で」知っているからです。

 

キャラクターを描く、キャラクターを動かす。キャラクターの人物像に迫る。情景を見る。色彩や陰影を感じる。水や炎の動く様や音を感じる。何かを綺麗だと思う。美しいと思う。

 

これは極端に言えば、自分の愛し方、そして、自分の愛され方に、深く繋がっていると思います。

 

愛する。愛される。生まれ出でた時から必要なプロセスが、どのように積み重なっていって、幼少の自分を形成したかは、考えてみれば重要極まりないことが解ります。

*「愛」とは世間的に複雑で微妙で曖昧な言葉ですが、実はそんなに難しく考えることもないシンプルな内容だと最近は判ってきました。そのことについてここでは風呂敷を広げませんけど。‥‥それに「愛の定義」を自分で見つけられない時点で、人から言葉だけ聞いても理解できないものでしょうしネ。

 

 

 

ただ、そうした自分の原理と向き合っているだけでは「お金は稼げない」ですから、その原理から湧き出るいくつもの潮流を「活用」して「仕事に変えていく」のは大人になった自分です。

 

逆に言えば、打算で色んなものを欲張っても、自分の原理とそぐわなければ、さらなる活用や応用、発展は難しいと思います。「これに噛んでおけばイイコトがありそうだ」なんて、いつかどこかで息切れします。

 

人付き合いは、仕事に合わせて変えられるでしょう。しかし、人の愛し方は、仕事のノウハウでどうこうできるものではないです。しかし、当人の「愛し方・愛され方」がビジネスの表面にも滲み出ることはあるでしょう。

 

それを考えれば、お役所手続きだけでは完結しない、人と人との繋がりで形成されるビジネスにおいては、当人の原理がプラスにもマイナスにも作用することは、理屈で考えて「当然」と言えます。

 

絵の面白いところは、たとえ人付きあいそのものが苦手でも、絵で自分を表現できるところ‥‥でしょうネ。絵を介して、他者と繋がる‥‥という「絵という言語」でコミュニケーションできるのが何とも面白いです。絵を介して、打ち解けていく‥‥ということもあるのです。

 

絵に限らず、人それぞれ、自分の原理に基づく言語を見出しているのでしょう。‥‥いや、見出していない人もいるのか。そもそも、自分の原理を見つめなくても生きていける人は、世の中には結構多いですもんね。

 

絵はそういった意味では、自分の原理から大きな影響を受けるものなので、絵を描いて生活していくというのは、「自分を追い詰めやすい」職業を選択した‥‥と言えるのかも知れませんネ。

 

深夜のアニメを見て軽い感想を述べる程度なら、アニメファンのままで良いです。しかし、アニメを職業にして、しかもクリエイティブに関与するのなら、自分の「芽生え」の部分に立ち戻って、「自分は何なのだろう」という様々な自己分析と自己批判が必要になるのでしょう。

 

 

 



calendar

S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930     
<< September 2019 >>

selected entries

categories

archives

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM