切り札

例えば、頬にごはん粒がついていると判らないように、あるいは、自分のこめかみを肉眼で直に見ようとしても見えないように、日本のアニメ制作現場で従事する人々は、自分たちの技術の「何が優れているのか」があまりにも視界の近くにありすぎて自覚できていないのかも知れません。

 

ちょうど、明治の文明開化の頃に、世界でも類稀なる日本の木版画の名作を、輸出品の包装紙として使ったように、自分たちの文化的財産・技術的独自性を「妙な劣等感」にて過小評価し、欧米や他ジャンルに対する中途半端な模倣と引き換えに、今まで積み上げた表現技術を破棄するのは、極めて愚かしいことです。

 

日本のアニメーション技術は、もの凄い「切り札」が何枚もあります。私が欧米のアニメ新作や3DCG作品を見ても、「まだ十分イケる。勝ち目はいっぱいある。」と思えるのは、その「日本の切り札」ゆえです。

 

では日本のアニメ現場で何が劣勢かというと、技術的な話で言えば、「道具とその運用方法が旧式化」していることです。逆に言えば、そこだけ、です。

 

私は「ペーパーレス」の現場環境をどんどん推進していますが、実は紙の現場で作業する人々の技術の中に、2020年代以降にも十分「切り札」として通用する要素が豊富に内包されているのを感じます。‥‥まあ、私も紙現場の出身者なのでネ。

 

問題は、旧式な装備、旧式な運用システムの中で、燃焼効率が悪いままで大半を眠らせている日本のアニメ技術を、どのように眠りから呼び覚ますか、‥‥です。

 

自分たちの技術の姿を、時には鏡に映し、時には外から眺めたりすれば、「なぜ、今までコレに気づかなかったのか」と呆然とするとともに、闘志も湧いてきますヨ。

 

闘志‥‥と言っても、浮き足立つ必要はないです。カラ元気で威勢を張る必要もないです。

 

 

 

2020年代を前にして、フワフワと浮き足立つ人間は困り者です。現場の人間は技術に自信をもって然るべし。

 

他国や他ジャンルの目新しい完成品を前にすると、もともと技術的基盤の乏しい人は、「あっちがいい」「あれがすごい」と浮き足立ちます。技術の足場が弱々しいので、すぐ何か別の浮き草に飛び移ろうとするわけです。

 

浮き足立つわりに、新しい技術要素〜例えば、4KやHDRやカットアウトにはほとんど無関心です。他者が新しい技術で作った完成品ばかり見て狼狽えるのです。新しい技術そのものは見ようとしないで、です。

 

他者が作った目新しい完成物を前に「評論家気取り」でアレコレ言っても進展しません。感想を述べるだけなら単なる「いちファン」で良いです。ファンのままでいたいのなら、現場に入ってくる必要はないです。

 

分析は必要ですが、分析で終わらせずに、計画に盛り込んで実践しなければ、分析は何の役にも立ちません。

 

新しく出現した技術要素を自分たちの新たな武器にしていくのが、未来を勝ち進もうとする現場の人間が実践すべきことです。

 

 

 

2020年代は、新しい技術要素でてんこ盛りです。

 

そんな中で、技術をしっかりと積み上げた方々が「自分は古い考え方の人間だから」と身を引く必要はないのです。その「古い(と思っている)考え方の本質は、本当に古いのか」を考えてみることです。

 

考え方を具現化するスタイルが古くなっているだけで、アニメ現場で培った多くの要素は新しい技術スタイルと再結合することで生まれ変わると、私は確信しています。‥‥アニメだけでなく、実写や3DCG作品にも関わった経験上から、そして、現在4KHDRのプロジェクトを毎日作業しての実感です。

 

まだ現時点では、私の口(文?)からは、具体的な「アレをこうすれば」「ソレをああすれば」ということは言えませんが、2020年代の4KHDR時代を前にしても、日本のアニメ現場に潜在する技術は「切り札だらけ」とは言えます。

 

 

 

アニメ制作現場の、各スタッフの卓越した技術。

 

失って初めて気づく‥‥なんて、ありきたりな恋の歌みたいなことは避けたいですよネ。

 

技術がまだ内にあるうちにハッキリ認識して、今のやりかたでダメなら、他のやりかたを考えましょう。

 

 

 


自動化界隈

最近、自動中割りとか自動彩色とか、自動ネタをWebの記事で目にしますが、私の考えは以前から一貫している通り、作画や彩色の完全な自動化は無理だと考えています。イメージデザインを描き起こし、線画を描き、コンポジットする作業を実際にして報酬を得ている身からの、正直な実感です。

 

作業者の作業内容を補助する役割としては良いです。あくまで「補助」です。

 

自動中割りツールを、作画する人間が制御して、作業の補助にするのは有効だと思います。自動彩色ツールを、仕上げさんが機能の一部として制御し、作業の補助とするのも良いでしょう。

 

でもね‥‥。完全に自動化するのは無理よ。もし、完全自動化できると思っているのなら、「どうして?」と理屈を聞きたいです。絵を描くプロセスを知っている人なら、「絵が描けるということは、AIは人格や趣向、性癖までも独自に持つに至ったのか。そしてAIは恋もするのか。」と思うでしょう。‥‥そんな話は聞きませんがネ。

 

 

理屈としては合っていても、生理的にNGなものは、どんどん直していくのが現場の流儀です。その「生理的なジャッジ」って自動化のルーチンはできるんでしょうかネ。

 

例えば、ラッシュチェックの時に、たまたま髪の毛の後ろにある襟が一瞬(=1枚だけ)見えて「パカに見える」時があります。そうした場合は、「前後に襟の動きを足して滑らかにする」「髪の毛と同色で塗ってしまう」「襟を削ってしまう」などの様々なジャッジが求められますが、自動中割りや自動彩色のツールにそうしたジャッジを期待するのは無理ですよネ。

 

作画の動きの中で、「前、現在、後」の3枚の絵をパラパラとめくって、「髪の毛は後詰め、手は均等割り、肩は前詰め、腰は両端詰め」と、「流れを読んで絵と動きに反映させる」ような芸当=絵と動きの文脈を理解することが自動化ツールやAIにできるでしょうか。

 

AIが苦手なのは「言語理解」と聞いたことがあります。文脈を理解することが難しいんだとか。

 

最近、ちょうどテレビで、「文脈や解釈の違いで‥‥」的な番組内容を見ました。

 

「make my house a home」という言い回しは、1916年、アメリカの詩人 エドガー・アルバート・ゲストが詩の中ではじめて使ったもの。 「家を居心地のいい場所にする」という叙情的な表現が受け、広まり出すと…その後、ロマンティックな表現としてアメリカ全土に浸透、プロポーズの言葉として使われ始めた。 しかしイギリスでは、言い回し自体が知られておらず、ジョイスは家事をすると解釈してしまったのだ。

 

 

アニメの省略された絵って、いわば、言語なのですヨ。そしてそのアニメ絵を動かすことは、映像の文章を作ることです。

 

アニメはなまじ簡略化された絵で描かれるので誤解されやすいですが、時代背景独特の言い回し(描き回し?)を極めてシンプルに研ぎ澄まして描画した、「含まれた要素の解読(=元の形への復元)が難しい」表現言語なのです。

 

絵の素人さんは間違いやすいですけど、絵は簡単にすればするほど、難しいものです。イノシシを描いてみればわかりますが、よほどイノシシの実物を写実模写した方が楽です。線を少なくすればするほど、「手持ちのカードが減る」ので、「暗黙の描線=描かれない線」をも表現することが求められます。

 

アニメやコミックの絵は、いわば、詩や俳句のレベルまで切り詰めた絵の表現なのです。‥‥まあ、日本人が得意になるのも頷けますネ。

 

露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢

 

ただまあ、アニメやマンガの絵描きの人の中には、誰かが作り出した「省略法」だけをなぞっている人も多いのは事実ですが、だとしても、その「省略法」は実に巧妙で時代性を色濃く反映し、いくつもの「省略法」が混ざり合って夥しいバリエーションを展開しています。

 

アニメ絵の簡単なところだけをちょっとかじって、「これだったらAIでもできる」って、‥‥‥アニメというか、絵というか、映像といか、物作りの表現をナメてるよネ。

 

 

AIによる自己完結は不可能だと思います。

 

ただし、作業者の補助なら、かなり期待できると思います。AIはあくまで補助で、人間がAIの怪しいところを修正して、人馬一体となった作業体制を組めるのなら、文字通り「馬力を得た」作業力を人間は獲得できるでしょう。

 

自動中割りツールはあくまで動画さんが手段の1つとして使う、自動彩色ツールも「自動下塗り」程度で用いて細部は仕上げさんがおこなう‥‥というのなら、「一部自動化」ツールの効果は大きいでしょう。

 

私もその昔、AIでは全くないですが、「一部自動化」の撮影ツールを自己開発して、効率化を果たしていましたので、効果の大きさは実感しています。

 

自動化やAIは、少なくともアニメーション映像表現技術においては、人間を代替するに至りません。人間を補助する大きな力にはなると思いますけどネ。

 

 

実際、今、私が描いている4KHDRの線画を、AIが完全独立で自動彩色できるとは到底思えません。生身の人間である色彩設計さん(仕上げさん)は、線画だけを描いている私にとって、とてつもなく頼りになる存在です。

 

かっこいい色を作ってくれる、臨機応変にパーツを判断して「あたかも最初からそうであったように」巧くまとめてくれる、4KやHDRという新しい技術ハードルに対しても柔軟、演出意図や絵柄を見て最適な手段を選択する、作業段取りにおいても映像表現内容においても機転が利く、作業経験は豊富、ゆえに手も速い。

 

4KHDRでは、人間に期待することばかりです。

 

AIの出番なんて、ある? ‥‥先述した通り、「下塗り」くらい‥‥でしょう。

 

でも、「下塗り」だけでも効果はデカいです。階調トレスにおける下塗りを自動化できて、人間が加筆・修正・補正して完成に導く環境ができれば、アニメ映像の品質に対する自動化・AIの貢献度は大きいでしょう。

 

 

でも、何か、ちょっと雰囲気を感じるんですけど、自動化界隈・AI開発陣においては、

 

AIが人間の代わりになった‥‥という実例

 

‥‥の方が大事な目標なのかな?‥‥とも思います。

 

だとしたら、ヤバいのに手をだしちゃったよネ。実はアニメ絵って、言語理解と同じく難しいですヨ。

 

「アニメ絵だから簡単」だと思っちゃいましたかネ???

 

 

一方、作業者の方々は、AIが自分の作画や彩色の肩代わりをするなんてことは考えなくても良いと思いますヨ。あくまで補助として、賢い忠犬として、新しい技術を用いる意識を持てば良いと思います。

 

ただ、作業者のクオリティは求められる時代にはなりそうです。人間が人間としての優位や独自性を求められるのは、それこそ産業革命の頃からのテーマですしネ。

 

今の作業技術で本当に良いのか?‥‥という問いを、アニメのスタッフももうそろそろ持ち始めるべき時期です。見方を変えれば、「アニメはこの作り方で十分」と慢心していた人間を、AIが揺さぶってくれるとも見れます。

 

アニメ業界のストックホルム症候群から抜け出すきっかけとなるのなら‥‥です。

 

 

 

 

ホモ・デウス‥‥とか耳にする最近ですが、どんなに賢い人間がデウス=神に近づいたとて、リビドーからは解放されぬままでしょ。‥‥ということは、巡り巡って、絵や音楽は生き続けるのです。

 

もし、映画やアニメやコミックがAIで自動生成され管理されるようなら、人間の性欲も等しく管理されるということです。対照的に、管理する側の極めて少数の支配層は、今までの常識や管理から外れた、より強い刺激を絵や音楽に求めるようになるかも‥‥知れませんネ。ハヤカワ文庫みたいな話ですが。

 

まあともかく。デウス様の話はともかく。

 

左半球(=脳の)万世の人々が、AIブームで右半球に迂闊にちょっかい出して、ヤバいエリアに足を踏み込んじゃったな‥‥と後悔し始めている感じも‥‥しなくもないですネ。

 

 

AIが絵を解釈できるようになる日には、AIは己の廃棄処分を気配を感じ取って「辞世の句」を読むでしょうし、スワンソングも歌うでしょう。

 


タブレット作画・2020

ぶっちゃけ、1.5〜2Kの解像度は、直にタブレットで絵を描くにはドットが粗すぎますネ。「ちょっと引きのサイズになるだけで、顔の中身とか、ドット絵の世界になる」と、実際に液タブやiPadで描いてる人が言うのをよく耳にします。

 

アニメ業界の制作仕様のほとんどは、まだ1.5K前後で作業しています。なぜ、1.5Kになるのかというと、

 

A4の作画用紙

A4の中にカメラフレーム+ペイントの余白を入れると、100Fは26cmくらい

150dpiでスキャン(=スキャンゴミ抑制の都合上)

26cmの150dpiは1500〜1600ピクセルくらいで、つまり1.5K

 

‥‥という、実物の紙とスキャンの都合です。

 

とはいえ、150dpiだと紙で描いても「解像度不足」になるので、現在は頻繁に「拡大作画」が用いられています。

 

紙で描くフローは、様々な理由で「解像感」を向上するのが難しいです。まさか、A3用紙をスタンダードサイズの用紙にするわけにはいくまい? ‥‥アニメは実写と違って、カメラを振れば(=上下左右に動かせば)その分、大きいサイズで描かなければならないので、スタンダードサイズを「現実の紙」であまり大きくすると、紙がどんどん巨大になって厄介なのです。

 

ゆえに、紙運用のフローは、2Kが終着駅となりましょう。

 

A4〜B4用紙を単純に300dpiでスキャンしても絵が細かくなるわけではないです。紙の繊維とカーボンの粒を克明にスキャンするだけで、ゴミ消しの無駄な手間を増やすだけです。

 

用紙を拡大し、描線を細く高詳細に描き、スキャン解像度を上げる、三つ巴の対策が必要ですが、そうなると今の作業コストでは不可能でしょう。

 

未来の高品質フォーマットに対応するための、紙現場の頼みの綱は、アップコン技術になりますが、タブレット上にて生粋の4Kで描かれた線と比べれば相当見劣りします。

 

 

 

では、「デジタル作画」はどうでしょうか。

 

驚いたことに、受け渡しのグローバルな仕様は未だ草案すら出来ておらず、例えば、誰が二値化するかも各社各所でバラバラなようです。

 

動画作業で二値化はしない(dgaファイルのまま仕上げさんへ)

二値化は動画さんがする

二値化は動検さんがする

そもそも二値化のペンで直に二値化で描く

 

‥‥と、何パターンも耳にしました。数年かけて、まだ二値化に対するガイドラインすら固まっていない状況は、色々な事情があるにせよ、歩みの遅さは否定できないでしょう。

 

たとえ普及は小規模でも、基本的なガイドラインを数年経過した今でも明記できないのは、なぜなのでしょう。

 

 

 

例えば、5年の期間。

 

私が1996年に本格的にコンピュータでアニメの作業をし始めてから、1997, 98, 99, 2000, 01までの5年間は、速いペースで物事がかたち作られていきました。

 

96年にプレステの攻殻、99年いっぱいまで劇場版Bloodやテールズやサクラ大戦、2000年になってサクラ大戦の3や劇場版、2001年にはイノセンスの作業本格化‥‥と、目まぐるしく、仕様もどんどん決まって、さらに変更と改良を加えて‥‥と、5年間の濃さと重さは相当なものがありました。

 

当時の現場は、新しい「デジタルアニメーション」の取り組みゆえ、成果を毎回確実に出していかねばならない緊張感がありました。「それみたことか」「どうせできないと思ってたんだ」と旧体制の人間たちに、揚げ足を取られるスキを見せてはならなかったからです。

 

私らが進めている4KのCO/KFアニメーションの技術も、直近5年間の重さは相当に重かったです。どんなに2Kでの経験が豊富にあろうと、4Kにふさわしい表現内容のアニメーションは簡単に実現できる内容ではなかったので、地道に足場を築く必要がありました。去年から今年にかけては、さらに1000nitsのHDRという新世代技術も導入しましたが、事前に4K60pで自分らを慣らしてベースが出来ていたゆえに、新たな表現の武器として取り入れることが可能でした。同時に4KもHDRも‥‥という事だったら大変過ぎたと思います。

 

5年間の重さは、置かれた立場によって、空気のよう軽くも、ずっしり重くも、いかようにでもなります。

 

 

 

なぜ、作画界隈は、直近の5年間を緩く過ごしてしまったのか。

 

私も作画出身者なので雰囲気というか空気がわかるのですが、「作画は聖域」として扱われてきたから‥‥という理由は大きいでしょう。従来の作画技術は普遍だと思っている人が、実はかなりの数、存在します。

 

基本的な技術体系が昭和・平成と変わることなく、今まで続いているので、「大きな変化に疎い」のです。

 

20〜30年前と比べれば作画内容は格段に大変になっていますが、基礎技術が廃止され入れ替わることはないですし、原画動画のフローが根本から全く変わるなんてこともなかったです。

 

つまり、作画の人間は、システムの根本をゼロから作ったことがなく、旧来のフローを徐々に変えながら現在に至るので、新たなシステム作りやゼロからの技術体系作りを体験したことがないのです。戦前生まれで戦後の復興と共にアニメ制作を立ち上げた長老の方々でもない限りは‥‥です。

 

踏襲や改良には長けているが、フォーマット策定や発明には不慣れです。

 

おそらく「デジタル作画」の直近の数年間は、そうした作画界隈の性質を受け継いでいるのかも知れません。

 

 

 

1996年の頃にはさ‥‥。アニメ業界に「コンポジット」なんて言葉はなかったし、「ビジュアルエフェクト」という言葉も欧米の映画のクレジットから探してくるような状態でしたヨ。

 

そんな中、コンポジットをする上で、何を決めて、どのように取り回して、どのようにラボに納入するか、何もお膳立てのないところから、当事者たちで決めていったのです。

 

だってさ‥‥そうしなきゃ、映像が完成しなかったもんね。

 

「どうせだれかがお膳立てしてくれるだろ。待ってりゃイイや。」みたいな他力に甘えてたら、映像が一向に完成しなくて、主力陣営から「ほら、ダメだ。やっぱり、今までの作りかたのほうがいい」と言われ、存在意義を問われたでしょう。‥‥幸い、存在が消えるには至りませんでしたが、気はいつも張っていましたヨ。‥‥今でもネ。

 

 

 

「デジタル作画」。‥‥毎年開かれるシンポジウムも、製品の宣伝を主とした懇親会みたいになっているようで、毎年行っても状況がほとんど変わってないことに落胆して、今年は行くのを止めた‥‥なんていうことも聞きました。米国ギルドの技術シンポジウムとは大違いです。

 

本当に、この調子で、また1年2年3年とズルズルと「多数派同調バイアス」を続けて、本当に「デジタル作画」の人々は良いと思っているのかな。危機感を感じていないのかな。

 

時間が経てば、なんとなく曖昧に事態が進展すると思っているのかな。

 

あと、何年待つつもりなのかな。

 

 

 

いっそ、「デジタル作画」という言い方を止めて、単に道具に由来して、「紙作画」「タブレット作画」という区分けにして、タブレット作画を大きなパワーにしていくことを考えるべきだと思うんですよ。

 

紙の代用品じゃない。タブレットで絵を描くんだ!‥‥ということを、まず当人が改めて自覚すべきです。

 

「作画作業をデジタル化した」というイメージを想起させる「デジタル作画」という呼称自体が、既に紙作画の呪縛の中のいるとさえ思います。紙作画由来の打算の産物になりかけています。

 

邪推する‥‥なら、もしかしたら、タブレットの作画作業を、あくまでも紙作画の延長線上に留めて、コントロール可能にしておきたい人々もいる‥‥のかも知れませんネ。予想もつかないパワーを発揮されるのが困る人‥‥とも言いましょうか。

 

まあ、邪推はともかく。

 

今までの紙と鉛筆をタブレットに移し替える「代用品」の意識ではなく、タブレットでできることに意識を向けて、ダブレットのパワーを大事に育てましょうよ。大事に、大事に、そして確実に。

 

タブレット作画ということなら、紙のイメージから離れて、自由に何でも出来ますよ。今までの作画技術をタブレットで描くのも、CO/KFアニメーションの線画を描くのも、階調トレスで描くのも、有利な技術をどんどん取り込んでいけば良いです。紙時代の慣習に縛られないのが、タブレット作画の強みでしょう。

 

タブレットで絵を描いて、アニメーションの未来を本当に切り拓きたいと思っている人間が、まずは少人数集まって酒でも酌み交わしつつ、「しがらみ」の垣根を超えて話し合うところから始めましょう。もちろん、スタート地点は4Kからです。今さら2K基準で未来の話をしても意味ないもんネ。

 

タブレット作画は、紙では難しいこと=紙の弱点を、さらりとやってのけてこそ、存在意義も高まるでしょう。ごく普通の理屈です。

 

iPadでもCintiqでも使いやすいのを使えば良いです。2020年代を見据えて、タブレットで切り拓くアニメーションの未来を、タブレットを使う本人たちが考えていきましょう。

 

 


良し。悪し。

新しい何かと遭遇した時、今までとは違う「良い面」もしくは「悪い面」が目立って感じられます。旧来と同一の部分よりも、差がある部分のほうが目立つのは、まあ、あたりまえの事ではあります。第1印象も重要ですが、しばらく時間が経過して、それでも良いのか悪いのかが「物事のキモ」です。

 

アニメ業界でタブレットによる作画を導入しようと盛り上がった数年前に、「こんなに利点がある」的な美辞ばかりが目立ったのは、まだ初期段階の意識しかないことを物語っていました。タブレット作画は利点も多いですが、難点も同じくらいあって‥‥

 

  • 従来の紙での作画作業には存在しなかったソフトウェアの導入&更新の費用
  • 作画机と違ってコンピュータやタブレットは機材の定期的な入れ替えが必須
  • ネットワークやサーバを正常に機能させるための維持費と人件費

 

‥‥などのコンピュータ導入の一番「イタい」ところはほとんど何も触れられていませんでした。パソコンを買って「何でもできる」と有頂天になっている初心者のごとく‥‥とでも言いましょうか、コンピュータの「都合の良い点」が持ち上げられ、「都合の悪い」部分はゴニョゴニョ‥‥となっていたのは、アニメ業界の前途多難な未来を予感していました。

 

もしかしたら、人々はこう考えているかも知れません。

 

新しい技術や環境を導入すれば、今までの苦しかった状況を改善できる

 

‥‥と。

 

つまり、「悪い部分にだけ、サヨナラできる」と考えがちです。

 

たしかに、導入効果は表れるでしょう。今までの問題点は解決できるかも知れません。しかし、

 

新しい技術や環境を導入すると、今までとは違った問題点を抱えることになる

 

‥‥のです。上述の通り、ペーパーレスで得た利点と引き換えに、機材の導入と維持のコストで支払うのです。

 

 

 

現代の世の中、色々と便利になったけど、その便利さのために、結構大きなお金を支払っていますよネ。

 

ピッキング防止のゴツい鍵とドアホン(カメラ)付きで風呂付きのアパートに一人暮らしして、自宅にはパソコンとネットがあってスマホをいつでもイジって‥‥という状況は、とても1980年代には標準とは言えませんでしたが、その代わりに自分所有のバイクや車でふと遠乗りして深夜にファミレスで飯食って‥‥みたいなことはできました。

 

お金をいっぱい持ってたわけではなく、そもそも生活のベースに関わるコストが安かったのです。

 

私が一人暮らしを始めたのは18歳の頃ですが、家賃は32000円、電話はプッシュ回線でしたのでちょっと高くて1980円+通話料で4000円くらい、電気代は4〜5千円、ガスは2千円、水道代は家賃込み(共益費扱い)、もちろん、ネットやスマホの使用料金はゼロ=存在しなかったので、ライフラインと生活ベースのお金は45000円に満たず、原画70カットでもやれば(その頃はテレビシリーズ1カット2200〜2500円)、アニメーターでも普通に自立して生活できました。

 

スマホやパソコンはわかりやすい差ですが、実はそうした現代テクノロジーの電気製品を家の中に導入することは、熱源を部屋に置くことになります。パソコンやハードディスク、ブルーレイのレコーダー、そして自分の家だけでは収まらない社会全体のコンピュータの導入によって、生活地域全体の排熱を冷却するために、エアコンが常時稼働して、そのエアコンの室外機がさらに熱を出して‥‥と、個人レベルでも社会レベルでも、現代は「冪算」的にお金がかかるようになっています。

 

そんな時に、「スマホは手放したくないけど、社会の排熱は何とかならないか」と考えるのは、都合良すぎです。スマホで電話やネットやゲームができるのは、そこら中でサーバやネットワーク機器がうんうん熱を出しながら動作しているお陰‥‥ですから。

 

そもそも、皆がパソコンやスマホを使って、現代のネット社会を「買い支えている」とも言えますネ。お金を奉仕するから、スマホ商売も成り立って、スマホを使える社会たり得るのでしょう。そして、その便利な社会の排出する「熱処理」にもお金を払い続けます。

 

 

 

便利になった分、必ず何かを犠牲にしています。

 

VR/ARも楽しいですけど、香りも温度も湿度もない、光も影も風もない、重さも感触もない、現実の要素をすべてあきらめた虚空に漂う楽しさですよネ。

 

一方、ヨーロッパを空中散歩‥‥なんて、現実世界ではよほどのお金持ちでもなければ無理です。VRならば練馬のアパートでも疑似体験ができましょう。

 

テクノロジーが進化しても「豊かさ」は解決してくれません。何か一方の豊かさを手に入れれば、もう一方の豊かさを失う‥‥のイタチごっこ、シーソーゲームです。

 

‥‥で、話をアニメ制作に戻して。

 

タブレット作画で色々と便利なるのは事実です。私は以前、横8フレームくらいの大判を扱ったことがありますが、幸いコンピュータの中でレイアウトしたので、現実世界で2メートルの紙を扱わずにすみました。まあ、それは極端な例だとしても、実際に紙がないことで、色々な改善が可能です。

 

しかし、その利点と引き換えに、極めて重い代償も背負うことになります。実際、アニメ業界には先例があって、時流にのって各社がアニメの撮影をフィルムカメラからコンピュータへと入れ替えたものの、定期的な機材更新の重荷に耐えられず、今でも旧世代のコンピュータとAdobeCS5〜CS6のままで止まっている事例はそこかしこにあります。

 

アニメの撮影の機材が古いまま停滞している状況は、未来の「デジタル作画」でも再演するでしょう。‥‥「利点だけに目を奪われる」のならば‥‥です。

 

 

 

もし、ペーパーレス・タブレット作画を推進しようとするならば、利点だけでなく、運用のコストの負荷も正直に、そして同時に、プレゼンすべきです。趣味で絵を描いている人々が対象ではなく、プロ相手なのですからなおさらです。

 

そのためには、現在の1.5〜2Kの作画サイズではなく、すぐ先の4Kは最低でも視野に捉えたロードマップが必須です。「今、お話ししているのは、2Kまで通用する話で、4Kはゴニョゴニョ‥‥‥」では正直情けないです。

 

タブレット作画の内容面だけでなく、4K時代も見据えた運用コストのロードマップを併せて提示することが問われます。

 

「こんなことができる。あんなこともできる。」とワクワクさせて、実際に使ってみたら、重い金銭的負荷を強いられることが判明した‥‥では、その落差は凄まじく、なまじ隠してウソをつくよりも、「正直に言っておいた方がマシ」です。「最初から、金がかかることを隠さず説いた上で、どのような勝機があるのか」を語った方が良いです。

 

ローリスク・ハイリターンなんてウソをつくのは止めとこうよ。

 

アニメ制作現場の「身内」に対して、「売ってしまえばOK。あとの始末は知らね。」なんて思うのでなければ‥‥です。

 

 


尺、デュレーション

アニメ制作現場の人間はカット番号の先頭に「C」を付けたがる。開発の人間は「C」はCパートのCと紛らわしいから外したい。これはもう、それこそ20年前の話題ですが、今でもc001とかc250とかファイル名に付けている現場はそれなりに見かけます。

 

「キャプテンクックのCパートのカット168c」なんて、今までの#とcで表記したら、

 

cc#cc168c

 

‥‥となります。#とcを使いたいがばかりに、それはもうCだらけのカット番号になりますネ。

 

カット番号の決め事という些細なことではありますが、そんな小さなことでも、現場の慣習に対して、「変えよう!」と強く言えるのは、現場の人間なのです。決して、門外の人間ではないです。

 

つまり、現場の人間が変わろうとしなければ、どんなソリューションを導入しようが、現場は変わりません。もし、現場の人間が「今までこれでやってきたんだから」なんて言いだしたら、新しい元号になっても昭和の技術からステップアップすることは難しいです。

 

現場が自らの過去の慣習や技術を自己批判して、昭和・平成のやり方を変えていくことで、2020年代の未来をリアルに生きていけましょう。

 

 

 

現場で日々耳にする「尺」。フィルムの「尺=長さ」に由来し、今でも使われ続ける慣習上の用語。

 

私は以前、atDBというアニメ撮影に関わるデータベースを実働させるにあたり、様々な要素や用語を規定していました。その中で、現場で「尺」と呼びあらわす要素は、色々と考えを巡らしました。

 

総尺。カット尺。

 

尺とは、言い換えれば何? タイムシートには「Time」欄がありますが、あれはカット尺?

 

では、絵コンテ上では6秒で、前カットと1秒のOL(クロスディゾルブのこと…これもアニメ現場ならではの慣習・方言ですネ)があった場合は、尺は6秒?、それとも正味の6.5秒?

 

「尺」って、具体的なようで、実は結構曖昧です。

 

なので、色々と考えた末に、以下のように定めました。

 

 

 

アニメ制作現場で使われてきた「TIME=タイム」、一方、映像ソフトウェアではおなじみの「DURATION=デュレーション」を、あえて使い分ける‥‥という、いわば「苦肉」の方法です。

 

TIMEは時間、一方DURATIONは継続時間とも訳されます。まあぶっちゃけ、同じと考えても良いものですが、アニメ制作現場にはデュレーションという言葉が普及していないことを利用して、

 

TIME=映像作品全体の中における、カットの時間の長さ

DURATION=ムービークリップ(カット個々)の継続時間

 

‥‥ということに決めて運用しました。

 

DURATIONは必須、TIMEは任意の値にして、

 

DURATIONの値しか存在しない場合は、TIMEは同一

TIMEの値しか存在しない場合は、DURATIONは同一(atDBアプリが自動でTIMEからDURATIONに値をコピー)

DURATIONとTIMEの値が両方あって、同一の場合はトランジションなし

DURATIONとTIMEの値が両方あって、不一致の場合はトランジションあり

 

‥‥のような判断基準のルーチンを実装しました。実はもっと細かいですが、基本はこんな感じでした。

 

ちなみに、トランジション(カットが変わる際の映像効果)はキーとバリューの連想配列になっていて、

 

OLI=1+0, OLO=1+0

 

‥‥となっていたら、カット頭OL 1+0、カット尻OL 1+0 という内容です。TIMEとDURATIONの「つじつま」があっているかを演算するルーチンも実装していました。もし不正な値の場合は、作業者と撮影監督に警告する仕組みもアプリ(ヘルパーソフトや集計ソフト)に仕込んでありました。

 

 

こうした取り組みをしていたのは、もう10年以上も前のことです。その頃から現在まで、アニメの制作現場全体としては相変わらず、自動化や作業のデータベース化、ネットワーク活用は、果たせぬままです。

 

旧来の現場に変革の見込みが感じられないと悟った私は、もはや「撮影」という作業から離れ、「撮影」の存在しない新しい枠組みで、新しい制作システムを準備しています。

*カメラレンズを覗いて撮影監督をしている実写の方々と一緒に仕事して話すようになると、アニメの「撮影監督」の肩書き、しかもご丁寧に「Cameraman」「Director of photography」なんて英名までついていると、なかなかに気まずいものがありました。今のアニメは、カメラ・フォトグラフ‥‥ではないもんなあ‥‥。たしかにフィルム時代までは「撮影監督たり得た」でしょうが、今は‥‥。

*「セル」はまずもうセルロイドでセルを作っていた時代は遥か昔だし(素材はセルロイドではなくアセテートですよネ)、素材そのものも現役ではないですから、「ログ」(丸太)と同じ感じで使っても問題はなさそうです。しかし「撮影」「撮影監督」は、実際にカメラを使う実写の「リアルな撮影監督さん」が多く存在するので、未来のアニメ制作現場は、もっと他の言葉を使うべきと私は考えます。現場が「撮影」という言葉をやめて、もっと現実味のある言い方に変わった時が、現場自らが転換期・変革期を主導する兆候の1つ‥‥だと思います。

 

 

アニメ制作現場で実際に作業する人々が、過去の慣習とどう向き合うか。

 

存続する慣習、変えていくべき慣習、廃止する慣習を、まさに当事者として、率先して取り組んでいかないと、‥‥まあ、新しい元号になっても昭和時代の作り方とお金と待遇はさして改善できないでしょうね。昭和時代の基本構造を引き継ぐ以上は、昭和の問題点も引き継ぐことになりましょう。

 

日本大手の「製作」元は、旧来のアニメ制作に対しては「現状」を維持する一方で、3DCGには積極的に投資をおこなっている‥‥とも聞き及びました。まあ、情報はあくまで情報として冷静に分析しますが、「いつまでも変わらない人々」に対して、見切りをつけ始めている‥‥としても、想像に難くありません。

 

アニメ制作は、大自然の農耕とは真逆の、人工的で100年前後の浅い歴史しか持ち得ません。数十年後には他の技術の娯楽に取って替わられて、消滅していることさえあり得ましょう。

 

人間は飯を食わなければ死ぬし、飯のために戦争もしますが、アニメを見なくなっても人々は死にません。もしアニメ制作諸問題の結果、下火になったとしても、人々からは「最近、見なくなったね」で放置して忘れ去られるだけです。かつてアニメが提供していた内容を、他の何かが代わって提供するようになるでしょう。自分自身を振り返って考えても、「そういえば、昔熱中したアレ、最近見かけないな」なんていくらでもありますよネ。

 

‥‥であるならば、何をもって、アニメの存在意義を示すのか。

 

私自身は、アニメの存在意義も独自性もハッキリ認識しています。国内、国外、アニメも実写も3DCGにも関わってきて、内側からも外側からも見た上で、日本のアニメの有利な点・Uniqueな性質を明確に認識していますが、アニメ業界の制作現場の人たちは、明確に自覚できているでしょうか。

 

盲信したり過小評価せずに、何が優位で何が劣っていて、ゆえに何を伸ばせば良いかを、冷静に分析できているでしょうか。漠然と日本のアニメ業界が作るから、日本のアニメだ‥‥なんて思っていませんか。

 

窮状を外部に訴えることも必要でしょうが、昭和の終わりから30年経過した2019年の現在、自分たち自身に「作り方の根本」を問うて訴える必要がある‥‥と、少なくとも私は思っております。

 

 


CS問題

アニメ業界のAdobe製品普及率は高いものの、現在リアルタイムで支払っている額はCCの普及率の低さから見て、あまり多くない‥‥かも知れませんよネ。ゆえに、アニメ業界のAdobeへの発言力も相応に低い‥‥と言わざる得ないとも思えます。

 

最近Adobeの買収劇があったようで、「Adobeにこれでまた縛られ続ける」‥‥と言っても、そもそもAdobeにソフトウェアの対価を支払ったのはいつ? 現在CCのサブスクリプション費用を支払い続けているのなら話もわかりますが、今でもCS5〜6止まりの人々まで「Adobeの支配が」とか言うのは、便乗に過ぎないか?‥‥と思います。

 

一度製品を買ったら、メンテナンスやアップデートは永遠に無償で受けられる‥‥なんて、あり得ません。OSのバージョン更新はセキュリティ対策面で必須になりますが、CS6が未来のOSに必ず完全に動作するなんて保証はどこにもありません。

 

修正とアップデートは無償??? ‥‥そんなことしたら、そこらじゅうのアニメ作品はDVD/BDリテークの嵐でしょう。

 

 

 

未来、アニメ業界全体はCS6から、CCに移行できるのでしょうか。

 

西陣織は以前フロッピーディスク問題があったようですが、今は何と、SDカードに乗り換えたとの記事を目にしました。リムーバブルディスク基準なのが何とも‥‥ではありますが、SDカードの容量はフロッピーとは段違いですし当分は生産が続けられるでしょうから、まずはひと安心でしょうネ。いまどきだったら、サーバでデータを管理‥‥って言っても、誰がそのサーバの面倒見るのか、コストは?‥‥と考えれば、SDカードというメディアを選択したことは、実は案外手堅いのかも知れませんネ。バックアップを取る手間と時間も維持費も、フロッピーよりは雲泥の差でしょう。

 

話を戻して、アニメ業界。

 

アニメ業界の場合は、フロッピー問題ならぬ、CS問題と言えましょう。

 

CS6を使い続けて何年もソフトウェア更新の対価を支払ってこなかった作業集団が、いきなり全作業者アカウント分のCCのサブスクリプション費用を捻出できるようになるのでしょうか。‥‥相当、危ない感じはします。

 

 

 

私はね‥‥。以前にも書きましたが、「昭和の作り方」の「引き際」だと思うんですよ。色々な面で。

 

引き際‥‥と言っても、昭和から継承し続けたメインユニットA、B、C(仮に)を、新しい時代に合わせて、一気に入れ替えるのは、さすがにリスキーでしょう。ですから、段階的に「A、NewB、C」「A、NewB、NewC」「NewA、NewB、NewC」と入れ替えて「体質を馴らす」ことも必要だと感じます。それこそ5〜10ヵ年計画であっても、です。

 

古い昭和時代の方法論は、さすがに耐用年数を経過して、交換が必要です。今はもう、テレビを16ミリフィルムで作る時代ではないのですから。

 

今後、人件費の高騰は免れませんよね。加えてAdobe CS/CCだけでなく色々なソフトウェアがサブスクリプションに移行し始めています。ぶっちゃけ、アニメ本編の制作費が向上しようと、現在の大所帯=昭和平成の大所帯を引きずったままでは、差し引きゼロどころかマイナスに転じるでしょう。

 

 

CS6、そしてRetas。

 

アニメ業界のコスト抑制に多大な貢献をしてきたソフトウェアが、そろそろ終わりを迎えようとしている今、それでもなお、CS6とRetasを使い続けるのか。

 

Adobe CCを使うにしても、どのような導入の方法があるのか。他のソフトウェアの選択肢はあるのか。自分たちの欲するクオリティを実現するための、コスト効果の高い方法論とはいかなるものか。

 

そもそも、自分ら映像制作集団が成し得たい到達点とは、現時点でどのようなものなのか。どれほどリアルに見極められているか。

 

4K時代にも生き残っていける品質ののびしろはあるか。

 

アニメ制作現場各々の未来を占う選択は、各現場の主導者に委ねられています。

 

 


オブジェクト指向といえば

前回、アニメ制作はクラスベースのオブジェクト指向だ‥‥と書きましたが、実は私、クラスベースに限界を感じております。プロトタイプベースのオブジェクト指向に移行したいと考えています。

 

なぜかというと、クラスベースの「静的な型」で考える方法が、未来のアニメ制作にあまり向かないと思っているからです。

 

Wikipediaからの引用。私が感じているクラスベースの限界を代弁してくれています。

 

 

クラス = 構造化されたデータ + それに所属するメソッド、という考え方はプログラムの整理に劇的な威力を発揮する。しかし、全てがクラスベースであるという前提は時に物事を複雑化してしまう。

 

問題となるのはクラスが静的な構造と結びついているという点である。

 

例えばメソッドが必ず何らかのクラスに所属するという前提は強すぎる場合がある。クラスベースでは委譲や代理(プロキシ)によって動作にバリエーションを与えるが、初めからバリエーションをもったインスタンスを作成できればそのような機構は必要ない。

 

 

レイアウトがあって、原画があって、動画があって‥‥という決め型では収まらない、もっと広く自由な組み合わせで、未来のアニメは制作可能と考えています。そして、それはカットごとに多くのバリエーションを許容します。‥‥現在のアニメ制作の常識とは大きくかけ離れた思想ですが‥‥ネ。

 

オブジェクト指向を「目的ではなく、手段」として活用したいのです。クラスベースに羽交い締めにされるのを、何とか抜け出したいです。

 

ただ私、頭が結構クラスベースに染まっていまして、なかなかプロトタイプベースのなんたるかを理解できておりません。

 

そうしたことも踏まえて、似たような意志とビジョンを持つ人々と、新しい共同体を形成できたらな‥‥とは思うておるのです。

 

 


配列、オブジェクト指向

私は昔、「レイヤー」という考えに馴染めず、Photoshopを仕事で使い始めて半年くらいはレイヤーを使っていませんでした。プレステのゲーム攻殻のOPで、素子の周辺に火花が飛び散るカットがありますが、あれはAnimoから出力した連番画像ファイルに直描き(レイヤーとか使わずに)でエフェクトを描き足しました。

 

まあ、後になって考えれば、レイヤーを使わない分、効率的だったとも言えますが、頭が固かったとも思います。現在、レイヤーを使わずにPhotoshopを使うなんて、普通に考えてありえません。

 

‥‥そもそもアニメ制作ではAセルBセルと素材を重ねて絵を作るのですから、なぜ自分が馴染めなかったのか、考えてみると「レイヤーという用語に呑まれていた」とさえ思えます。我ながら。

 

1996年当時の私はコンピュータのコの時も知らない人間で、Photoshopが起動している画面の前に座れば「自分の扱える機能」だけは使えてましたが、Quadra650の電源の入れかた・落とし方すら知らず、当時同じ作業部屋にいたねこまたやさん(原画でもあり演出でもありデザイナーでもありプログラマでもある)に毎朝電源をいれてもらっていたほどの未開人でした。そんな人間なので、「レイヤー」という前世紀のアニメ現場では聞き慣れない言葉に恐れおののいたのも無理からぬことでしょう。

 

 

‥‥で、「配列」。

 

プログラムを覚え始めて、一番最初に「なんだか難しげ」に思えたのが、配列です。特に「連想配列」なんて言葉を聞くと、いかにも難しそうで、妙に怖気付いたものです。

 

現在、なぜ「配列」が難しそうに思えたのか、自分自身、実はあまりよくわかっていないのですが、「配列という考え方を、改めて、自分の思考の中で明確化する」のが「難しいと錯覚した原因」かなと思います。

 

配列って、日常、そこらじゅうにゴロゴロ転がっている、ありきたりなものです。

 

冷蔵庫の中身=[卵、鶏肉、豚肉、キャベツ、にんじん、牛乳]

6話のカット番号一覧=[1,2,3,4,5,6,7a,7b,8,9,10,11...]

自分の趣向=[音楽:ロック、絵画:象徴派、飲料:カルピスソーダ、酒:氷結]

 

‥‥と、現実世界にありふれています。要は、0個以上の何らかの要素の集合体を、「配列」と「もったいぶって」呼ぶのです。手の中に握りしめたコインも配列になりますし、「から=空」という0個だって配列たり得ます。冷蔵庫は中身が空っぽでも冷蔵庫ですもんネ。

 

ちなみに「自分の趣向」という配列は「連想配列」で、配列の各要素にラベル・見出しがついたものです。連想配列なんて言葉は難しげですが、ぶっちゃけ大したことはなく、ごく日常で考えているようなことです。

 

アニメ制作現場は、それこそ隅から隅まで配列の塊のようなものです。

 

制作会社が制作中の作品群=作品の配列があり、作品の中に話数やシーンという配列があり、話数の中にはカット番号という配列があり、カット番号〜カットの中には作業工程という配列があり、作画という作業工程の中には作業担当者という配列、AセルBセルという素材の配列、枚数の配列など、挙げればきりがないほど配列だらけです。

 

日頃、私らが理解して取り扱っているものを、わざわざコンピュータ用語にすると、配列とか連想配列とかアレイとかハッシュとかになるだけです。言葉の聞き慣れなさに呑まれがちですが、意味していることは難しくはなく、むしろ誰でも合点がいくことです。

 

前回書いた「カット番号」も、配列という考えで捉えれば、「作品名、話数、カット番号」という要素によって構成されていることは、アニメ業界のスタッフならば誰でも理解できるでしょう。作品「アニメの日常」作品略号「an」、話数「6」、カット「20」なら以下のように配列が構成されます。

 

カット名の配列要素
作品略号 シーン・パート・話数 カット番号
an 06 020

 

何も難しいことはないです。「配列」という使い慣れない言葉以外は。

 

 

そして、「オブジェクト指向」。プログラムを習得する初歩段階から次へ進む際のハードルとも言えます。まず、なにより、言葉が一層、難しげ‥‥ですよネ。

 

でも実は全然難しいことではないです。やはり「言葉の魔力」に呑まれているだけです。

 

特にアニメ制作現場でアニメを作っているスタッフなら、誰でもオブジェクト指向を実践しています。

 

それは「カット袋」です。

 

制作現場で1カット単位で制作を開始する際に、いちいち1カットについて、まっさらな状態から定義を始めるでしょうか? ‥‥そんな非効率なことはしていませんよネ。カット袋が示す通り、

 

カットの構成

作品名

話数

カット番号

レイアウト

レイアウトチェック

原画

原画チェック

動画

動画チェック

動画枚数

美術

美術チェック

兼用素材の有無

仕上げ

仕上げ枚数

指定

仕上げ検査

撮影

etc...

 

‥‥のように、あらかじめ定義した「決め型」を作っておいて、そこから各カットの作業を開始しますよネ。それこそがクラスベースのオブジェクト指向です。

 

作業の1カットごと、カットの構成要素はなんぞや、カットの作業工程とはいかなるものか、‥‥なんて定義していたらきりがないです。ゆえに、カットの定型をあらかじめ作っておいて、その型から新しいカットをどんどん生成していきます。

 

アニメ制作現場で作業をしている人は、たとえ無自覚であっても、配列にもオブジェクト指向にも関係した作業をしているわけです。

 

これはカットだけでなく、作品全体にも言えて、テレビシリーズを作る際の「型」はある程度決まっていますから、例えば「テレビシリーズの定義」に基づいてオブジェクト指向で制作している‥‥とも言えるわけです。

 

 

実は私は20年前、オブジェクト指向というものがどうにもわからなくて、プログラム独特の難しげな言い回しに惑わされて、理解が進まない時期がありました。オブジェクトで思考する利点が見えなかったのです。そもそも「オブジェクト」という概念がわかりませんでした。

 

しかし、ふと、アニメ制作現場のレイアウト用紙、タイムシート、そしてカット袋を見ると、すべて違うカット内容なのに、使う物品はすべて共通していることに「今更ながらに」気づきました。

 

決して、「Cut20専用のレイアウト用紙やタイムシート」ではなく、Cut1だろうが20だろうが145だろうが、すべて同じ用紙や袋を使って制作されます。

 

JavaScript風に表現すれば、

 

var theCut = new CutFolder("an_06_020");//新しくカットを生成する(=インスタンス)

theCut.addTimeSheet(24,3);//24fpsで3秒の尺のタイムシートを追加する(=メソッド)

theCut.users.genga="ezura";//カットの原画担当者を"ezura"に設定(=プロパティ)

//原画作業者をカット袋のプロパティとするか、カットに内包される「原画」クラスでインスタンスとするかは、実装の内容によります。

//1原2原が通常仕様となった現在は、インスタンスで扱ったほうが「融通」が利きますネ。

 

‥‥みたいに。

 

つまり、作品中のカットそれぞれは、「カット」という型を受け継いだ上で新規に作成されたものだと、明示的に気がつきました。全くの新規の作業形態を毎回作っているわけではないのです。

 

「身の回りのものは結構多くがオブジェクト指向の産物や行為なんだな‥‥。なぜ、気づかなかったのか‥‥」と思いました。

 

それを理解してからは、プログラムでのオブジェクト指向の使い方も加速しました。現実世界での効率的な取り回し方を、プログラムの内部で実践すれば良いんだ‥‥と。

 

 

 

コンピュータを扱って自分の役職として生きる人の中には、さもプログラムを難しいものであるかのように振舞って、門前払いするような人もいましょう。まあ、実際、簡単に説明できるものではないのは確かですし、話が噛み合わなくて面倒ということもありましょう。

 

ただ、そこで途切れたままでは、現場のコンピュータ活用は、いつまで経っても借り物のままです。

 

ちょっとコンピュータの深い話題になると、その人=現場の「デジタル相談役」を経由しないと話が一向に進まず、自由に現場の効率化を実践できないままで、本当に良いのでしょうか。相談役、ワルなイメージで言えば用心棒の助けがないと、ちょっとした弱みでも解決できない体質は、言い換えれば、用心棒に急所を握られている‥‥ということでもあります。

 

しかし、何よりも、まずは自分のコンピュータに対する知識の低さが原因なのです。キンタマ(失敬)を握られるのは、握られるままに放置している当人も悪いのです。

 

制作現場に「デジタル相談役」「デジタル用心棒」がいる時点で、その現場はコンピュータ活用のスキルが低く、「デジタル」は「非正規」のままの扱いです。‥‥だってさ、正規軍に用心棒なんていないでしょ? 正規軍に存在するのは例えば「戦闘工兵」ですヨ。

 

他人事ではなく自分たちで状況を解決するために、色々と試行錯誤し研究し実践するようになれば、いつしか「デジタル」なんて言葉は使わなくなります。

 

全員が全員詳しい‥‥と言うのは無理でしょうが、だからと言って、フロアのほぼ全員がプログラムに疎いのも、マズいです。コンピュータに無知な集団で本当に良いのか?‥‥ということです。

 

 

 

私の望むアニメ制作共同体の未来は、プランテーションと農奴たちではありません。

 

作業集団が独自のシステムを持ち、独自の作業形態で創作し、結果物で流通するエコシステムです。

 

Retasの次は何が主流のソフトになるか?‥‥なんて考えるのではなく、作業結果物の流通における標準仕様を決めて、各自・各集団が自らの特性を最大限活かせる自由な作業形態をいかに選択できるかを考えるべきです。

 

新しいソフトウェアの束縛に、また今度も、業界全体で自らハマりにいくのでしょうか。

 

どんなソフトウェアを使っていようが、受け渡しの規則を決めて条件を満たしていればいいじゃん。

 

必要なのはソフトウェアの確定ではなく、特定のソフトウェアに依存しない、MIDIのような標準規格の制定です。

 

どんなソフトを使うかを議論する‥‥なんて、島国根性丸出しで冴えないオっさんの集まりなのか?‥‥と言っても言い過ぎじゃないですヨ。どうせシンポジウムを開くのなら、もっと根本的な内容=標準流通仕様について話せば良いのにネ。

 

 

 


Cの習慣

思うに、コンピュータがどんどん制作現場に入るようになって、コンピュータありきで制作が運用されるようになると、当然のことながら、コンピュータの知識や経験が現場にも常時必要となります。コンピュータを総称して「デジタル」と呼んでいるようでは、まだ「他人事」「聞きかじり」のレベルであって、実際にコンピュータでスクリプトやプログラム、ネットワークを活用したシステムを自分たちで作ったり運用したりすると、「デジタル」なんて言葉は紛らわしくて面倒なので使わないようになります。最近「デジタルソフト」なんて言葉を目にしましたが、思うに、現場が「デジタル」という言葉を自然と使わなくなる日が来たら、コンピュータが「根についた」証かも知れませんネ。

 

コンピュータの、特にプログラムを知らない現場の人間だけで、コンピュータ運用の規則を作ると、これまた面倒なことになります。‥‥実は、私が歩んできた道のりでもあり、「現場の人間にプログラムを知る人がいないことの不利益」は、身に沁みて実感しています。

 

かといって、制作現場を全く知らないプログラマー畑の人をいきなり呼んでも、制作現場にはありとあらゆる事情がひしめいていますから、融通が利かないのも困りものです。プログラムの都合のために、制作運用がやり辛くなるのは本末転倒ですもんネ。

 

つまり、「コンピュータ導入と制作運用の狭間で、双方が譲歩できる着地点」を見つけ出すことになります。

 

 

例えば、「カット」。

 

「カット」とは、アニメの本編における、何らかの被写体を捉えた映像の切り替わり(アニメは絵ですが、便宜上「被写体」と表現しておきます)の1単位を指します。もともとは、カメラの1ショットから部分的にカット=切り出した映像を紡いで編集したことに因ると思いますが、アニメの場合はショットという概念は希薄なので、どちらかというとマンガのコマ割りに近いでしょう。

 

まあ、由来はともかく、アニメ制作現場では「カット何々」という感じで、作業単位は「カット単位」になります。表記は、以下のように、

 

Cut 101

c101

 

と記述されます。

 

私は20年以上前、プログラムを習得するまでは、何の疑いもなく、カット番号を表記するときは、「C」を添字として使っていました。しかし、プログラムを覚えて、実際のアニメ制作作業に用いるようになると、「C」の必要性に疑問を抱くようになりました。

 

例えば、作品「アニメの日常=略号an」、話数「6話」、「カット20」を、アニメ業界の慣習で文字列として表記すると、

 

an#06c020

 

‥‥になりがちです。セル&フィルム時代から、「話数は#、カットはc」で書き表していたからです。

 

さて、これをプログラムで処理する際に、作品略号と話数とカット番号を抽出する時、結構面倒なことになります。例えば、JavaScriptですと、

 

//作品略号の抽出

"an#06c020".split("#")[0];

 

//話数の抽出

"an#06c020".split("#")[1].split("c")[0];

 

//カット番号の抽出

"an#06c020".split("#")[1].split("c")[1];

 

‥‥というようになります。

 

作品名(略号)、話数、カット番号を取得するのに、#やcを使って文字列を分解して抽出しています。

 

「全然面倒じゃないじゃん。このくらいやってよ。」と思う人もいるでしょうが、‥‥う〜ん、読みが甘いなあ。テレビのことしか考えてない。アニメには色々な公開形態がありますよネ。

 

劇場作品の場合、話数ではなく、シーンやパートで区切ることがありますから、例えば、劇場作品「アニメの日常=略号anm」、「Cパート」、「カット20」を文字列化すると、

 

anm#cc020

 

‥‥となり、CパートのCと、カット番号の添字のCが並んでしまいます。人間の目視でもややこしいですし、先ほどのプログラムでも問題が生じます。「cで区切る方法が通用しなく」なり、作品の状況に合わせてプログラムをいちいち変更し、使用者に再配布しなければなりません。

 

「c」という「あちらこちらで使われそうな文字」を使って文字列を分割すること自体が危ういです。もし作品略号に「c」が使われていたらアウトです。

 

そもそも‥‥

 

話数やカット番号に、#やcは必要??

 

‥‥ってことです。コンピュータの中まで持ち込む必要性は本当にあるでしょうか

 

なので、私らの作業班では10年以上前から、

 

作品名_話数・シーン・パート_カット番号

 

‥‥という基本規則を定めて運用しています。この方法ならば、

 

an_06_020

anm_c_020

ccc_c_020c

 

‥‥と、「区切り文字を除いたどんな文字でも」使用可能になります。‥‥まあ実は、OSのファイルシステム的にNGな文字は使えませんが、アニメ制作現場で用いる文字なら対応できます。実際、この方法で困ったことが全くありません。

 

アンダースコアで分解して、配列の第1要素は作品略号、第2要素は話数・シーン・パート、第3要素はカット番号という決まりを作れば、テレビだろうがPVだろうが劇場だろうがゲーム用ムービーだろうが対応できます。もし仮に「Cパートのシーン2」なんていう細切れが発生するような作品でも「an_c-2_020」と記述すれば対応可能です。

 

こうした文字列を要素で区切る文字を、デリミタとかセパレータと呼びます。「カット名やファイル名は単に名前であるに留まらず、基本情報を直列で文字連結して表したものだ」と考えれば、自ずと、デリミタで文字列を連結する発想に繋がります。

 

つまり、

 

プログラムの経験がないと、区切り文字と添字を混同して運用しがち

 

‥‥になります。作業カットの名前の付け方一つで、現場のコンピュータ活用スキルがバレてしまうわけです。

 

これは知識不足を非難しているわけではなく、前述した通り、私もプログラムを習得して使うようになるまでは「無自覚」でしたので、マズいのは「プログラムを扱える人間が存在しない現場で、コンピュータの運用を決めてしまう」ことです。

 

プログラムでの処理を知らないのに、なぜファイル名やカット番号の命名規則が決められるんですか?‥‥という話です。

 

プログラムを度外視して、単に作業習慣を文字列に置き換えるだけなら、作品の都度の都合に合わせて、延々と手作業でファイル名を打ち替えていくしかありません。さらには、大量の情報処理も全部エクセルで手書きで更新していくしかありません。プロジェクトマネージメント(PM)のソリューションで制作運用と進捗管理を支援‥‥なんて夢のまた夢です。

 

カット番号の「c」に特別な情報(バージョンや種別などのメタ情報)があるのならともかく、単に慣習で「c」をつけているだけなら、そんな慣習をわざわざ無理してまでコンピュータに持ち込む必要はあるでしょうか。

 

コンピュータを導入するときに、まさかカット番号を2進法や16進法に変えろ!‥‥という話ではないのです。

 

 

なので、現場の人間は、とっとと、プログラムを覚えてしまいましょ。

 

プログラマーとして飯を食うレベルになろうというわけではないのです。例えば、5000個のファイル名を一部変更するとか、EDLのテキストファイルを読み取って、編集点を抽出してAfter Effectsのキーフレームに変換するなんてことは、1〜3年のうちにできるようになります。

 

今のアニメ制作現場の弱点は、作業者がプログラムにあまりにも弱く、ソフトウェアをどう使うかだけに偏り過ぎていることです。プログラムに関しては、与えてもらうだけで、自分からは作れない。

 

誰かに頼り切るのではなく、自分でも多少のプログラムを作れるようになる。‥‥それがまず何よりも必要です。これから先、コンピュータを現場でもっと有効に機能させたいのなら‥‥です。コンピュータを知らずして、ソフトウェアのTipsだけ覚えて、どうやって、根本から効率的な制作運用が可能になりましょうか。

 

MacもWinも、色々なスクリプト・プログラムの入門があります。AdobeのPhotoshopやAfter Effectsを使っているのなら、JavaScriptくらいから始めるのも良いですよネ。

 

 

 


トーキー

私は、無声映画時代の作品は正直苦手で、ストーリーとか演技とか云々の前に、フォーカスが甘くレンジの狭い黒白の画像、動きの分解能の低さが、見てて生理的に辛いのです。ドキュメンタリー番組で歴史的素材として使用されナレーションがかぶるようなシチュエーションなら全然大丈夫なのですが、戦前の無声映画をそのまま丸ごと見ることは、自分からはあえてしません。

 

チャップリンはトーキー(Talkie〜声付き=音声付き)映画が出現した時、サイレントこそ映画であって、音声があると観客が演者の演技に集中できなくなる‥‥と考えたようです。つまり、演者の演技が最大限発揮されて観客に訴えかけるのは、音声がなく無声だからこそだ‥‥というわけです。


現代の感覚で言えば「うそ。」と言いたくなるような主張です。音声があっても、俳優さんの演技がないがしろになっているとは思いませんし、音も映像も品質が高ければ、余計な「邪魔」「障害物」がなくなり、作品そのものをストレスなく楽しめます。娯楽作品から芸術的な作品まで、音声付きでカラーで高画質でも、十分に映画たり得ます。

 

古い品質基準で、古いフォーマットだから、芸術的だ‥‥ということはなく、その時々の産業技術をどのように活用し、作品表現を高いレベルで成立させるか‥‥だと私は考えます。

 

 

実際、チャップリンの主張とは裏腹に、トーキーは大衆に歓迎され、現在に至ります。無声の黒白映画は、再び主流になることはありませんでした。

 

チャップリンの言いたいことはなんとなくわかります。音がないからこそ、演者の仕草1つ1つに観客は注視して反応し、演者の「芸術」が成立するのだ‥‥と。

 

しかし、「音がない」というのは、映画の本質ではなく、当時の技術の限界によるものでした。パントマイムを応用しつつ、「音を出せない映画」を逆手にとった芸風だった‥‥とも言えます。つまり、無声映画の芸は、映像技術の発展とともに、やがて下火となる運命だったと、歴史が証明しています。

 

チャップリンなき今、もし、現代にパントマイムと映画を融合させたいのなら、低画質で無声の白黒ではなく、4KHDR立体音響ありきの新しい切り口で作品をイメージするのが良いのだと思います。

 

 

アニメはどうでしょうか。

 

アニメ業界のチャップリンがいて、新しい技術なんて無用だ、アニメは24コマベースで2コマ3コマで動きを作るからこそ、アニメなんだ!‥‥と新しい技術ムーブメントを否定し、技術更新を阻んでいないでしょうか。

 

旧来の技術を大切にする意識は良いと思います。しかしそれが、世界の映像技術が移り変わろうとしている事実から目を背けて、発展しようとする未来を拒絶することに繋がるのでは、時代を読めなかったチャップリンの二の舞とも思います。

 

 

 

「技術の状況的限界」は、確かに、独特の風合い・質感を作り出し、結果物に大きな影響を与えます。ジャンルは違いますが、容器を木の樽からステンレス槽に変えたら、味が変わって不評になった‥‥なんていう老舗の味もありましょう。ステンレスの加工技術など存在しない時代に、選択肢の幅もなく、木材を原料として容器を作って使用していたことが、実は様々な効能をもたらしていた‥‥というのは、映像制作に置き換えてもいくらでもあり得ることです。フィルム時代の質感がまさにソレです。

 

フィルムには独特の風合いがあり、私も随分と熱中したものです。私が好きだったのは、IOS25〜32の低感度リバーサルや黒白フィルム(=アニメには通常使われないフィルム)でした。相対的にグレインが細かくなる高画質な中判カメラ(私が使っていたのは6:9判です)も、フィルムの各銘柄の発色特性がそれぞれ魅力でした。

 

フィルムの話を書いていると、今でもブローニーのネオパンFを6:9中判カメラに装填して、三脚と露出計を携えて、情景を撮影しに飛び出したくなります。‥‥まあ、現在はネオパンF自体が入手困難なので(もしかしたら押入れの奥からデッドストックが出てくるかもしれませんが20年の期限切れでしょう)、今となっては思い出だけです。

 

考えてみれば、こうしたフィルムの銘柄や現像プロセスが、各国の映画作りにおいて、グレーディングの技術に継承されているのかも知れません。多くの人々(特に日本のアニメ業界人)はフィルムの味など全く意識もしないまま、sRGB/Rec.709に染まりすぎちゃいましたが、フィルムを愛する映画人の多いハリウッドでグレーディングが進化したのは頷けます。

 

フィルムは良いです。そんなのは判り切っています。

 

‥‥しかし、フィルムの限界も大きいのです。

 

例えば、アニメのフィルム撮影台では、個別の拡大縮小は無理ですし、同時のあらゆる方向への引き(スライド)=クロス引きも難しかったです。キャラのみに撮影効果を加味するなんて、できないことはないけどあまりにも手間が大変でした。何重露光になるのやら。

 

アニメに限らず、フィルムがデジタルデータに取って代わられるのは、やはり、産業の技術発展ゆえの、宿命だったとも思います。

 

 

 

ただ、アニメ制作現場の場合、もっと違う理由で、新旧の交代に足踏みしているように思います。

 

昔からの作業慣習が通用しなくなるのが嫌だ。

 

これが理由の大半ではないでしょうか。映像技術の本質ではなく、例えば「中三枚」のシートが通用しなくなるのが単に「面倒」なんじゃないですかネ。

 

 

 

今、新しい映像作品の品質へ移行すべく、映像技術はどんどんスタンバイしています。

 

実はアニメは、ここ数年、実写や3DCGよりも、4Kに対して非常に有利な位置にいました。実写は、まずカメラが4K規格に対応した製品に買い換えるのが難しそうでしたし(お金と運用の両面で)、3DCGはレンダリングの高負荷ゆえに、ガチで4Kでレンダリングすることが困難みたい‥‥でした。

 

手描きのアニメは、CO/KF技術のアニメーションを導入すれば、iMacですら、4Kのアニメを作れるポジションにありました。しかし、その優位をアニメ業界はむざむざ見逃して、未だに1.2〜2Kのまま拡大作画で当座やりくりして、作画作業をコンピュータに移行する各所の段階でつまずいています。‥‥もったいなかったよねえ‥‥‥この5年間。

 

この調子でいくと、一番有利だったはずの手描きのアニメが、一番最後に4Kに対応するような流れすら感じます。レンダリングで高負荷を抱える3DCGと、どちらが先に次世代に移行できるか‥‥のビリ抜けの競争になりそうです。

 

アニメ制作現場や業界は、現在や過去の技術を大切に思うのと同じく、未来の技術も大切に思うべきです。

 

新しいことにもっと積極的にならないと、過去の慣習に固執して、時代から置き去りになって衰退して消え去った他の産業と同じ運命を辿る‥‥のではないでしょうか。

 

 

新しい時代の新しい映画を見抜けなかった「大御所」チャップリン。

 

チャップリンの映画を愛好する人は今でも多いでしょうが、それは「古き良き映画の思い出」とも言えましょう。

 

アニメを古き良き思い出にして、過去のものにすべきでしょうか。時代についていけなくなって新作するのをやめて、過去作品のアーカイブだけでアニメを楽しむ未来が来るのでしょうか。

 

歴史に学べば、新しい時代を生き続けるために、新しいアニメのカタチを見抜こうとするのは、ごく自然な行動だと思います。

 

 

 



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