レイアウトに思う

レイアウトにおけるカメラの役割。それは最終的には観客の視野へ被写要素を伝達することですが、観「客」だからと言って、かならず客観的なカメラである必要もありません。観客が主人公の視点に没入した時には、主人公の主観にもなりましょう。

 

また、根本的なことですが、アニメは実写ではないので、レイアウトの思考を必ずしも「カメラ」想定で考える必要も、実はないのです。

 

さらにはパースや遠近法に頑なに縛られる必要もないです。絵は現実から解放された「絵だけの世界」を具現化できるユニークな表現方法です。パースを超越して、児童の戯画のようであっても、一向に構わないわけです。

 

しかし、アニメーション作品を具現化する上で、映画の文法や現実世界の成り立ちを、上手に活用することで、「映画としてのアニメ」「テレビドラマとしてのアニメ」を格段に作りやすくなります。作品の作風でも、絵と現実の境界線をどのくらいに設定するかも変わってきましょう。

 

 

どの場合でも、自分がレイアウト技法やパース技法を習得できていない未熟さを、都合よく「絵の世界」を持ち出して誤魔化すのは、なんともみっともないことです。絵の世界の自由な表現は、決して稚拙さの隠れ蓑・技術の偽装ではないです。

 

つまり、レイアウトの技法のあれこれを使いこなせるようになった上で、故意に配置のバランスを崩すことも可能ですし、パース技法を習得した上で、故意にパースを無視した絵をコントローラブルに描くことも可能になります。

 

ピカソのゲルニカは、ピカソがあれしか描けないわけじゃないのは、誰もが知っていることですよネ。デルヴォーが遠近法やパースを知らないから、奇妙に崩れて不思議な一点透視を描くわけではないです。

 

いわゆる、現在の標準・スタンダードの禁則を犯すには、相応の技術の裏付けと足場が必要というわけです。

 

 

 

もちろん、ルソーのような「天然気質」のケースもありましょう。しかし、ルソーは徹頭徹尾あの感じ、あのスタイルで一貫しておりブレがないですし、彼でしか生み出せない強烈な絵の世界があるので、唯一無比の存在として異彩を放つのです。ルソーの絵に対して、デッサンがおかしいとか、パースが変だとか言う人のほうが、「絵を一意的にしか評価できず、絵の世界の広がりをわかっていない」のです。

 

では、アニメの制作現場において、ルソーのような絵をいきなり描いてOKか? まあ、ほぼ100%、NGですよネ。制作している作品が、ルソーのソレを求めていない限りは。

 

アニメの現場のあらゆる工程のスタッフは、作品表現に由来する作業内容のオーダーありきです。ゆえに、多くの場合、レイアウトの標準技法をマスターしている必要がありますし、パースや遠近法を習得した上でレイアウト作業にとりかかる必然性があります。

 

アニメーターって(‥‥に限らず、美術さんも色彩設計さんもコンポジターも)、ものすごくスキルの高いことを求められていますよネ。どんなポリシーの、どんなスタイルの、どんな空間も、描いてみせろ! 作ってみせろ!‥‥と言われているようなものですから。

 

 

 

じゃあ、その高い技術力を習得し、作品の世界に合わせて縦横無尽に絵を描ける能力を身につけて、得られる報酬はいかほど?

 

はい。現在の現場の破綻構造へようこそ。一律単価制度の世界へようこそ‥‥ですネ。

 

未熟な人、下手な人は、安い金で良いんですよ。技術力相応のお値段で。‥‥未熟な時分から「ギャラが安い」とか言うのは、今まで大切に扱われすぎて寝ぼけてんのか?‥‥ということです。未熟なりの相応で良いのです。

 

でも、上手い人まで安い金のままだから、今の現場には夢も希望もモチベーションもないのです。どんなに上手くなっても、貧乏のままか‥‥という深刻重大な閉塞感。そんな中で何が当人の支えかといえば、「下手なのは嫌だ。上手い絵を描いていたい」という意地、プライド、心情だけ。

 

そうしたスタッフ個々の心情に覆いかぶさって猛烈に依存したまま、今の現場はこの先10年20年30年と続けていくんでしょうかね。

 

「お前はプロの絵を描けてない」「じゃあ、プロの絵が描けるようになったら、どのくらいのお金が貰えるんですか」「それはその‥‥だな‥‥」なんて、情けなさすぎちゃって‥‥‥。とても線の多い動画を1枚描きました。時給200円換算になりました。‥‥という現場で、少なくとも私は「プロ云々」の話を説得力をもって話すことはできません。

 

しかし、変動単価制度、社員雇用ならば、状況は変わってきましょう。すべて解決できるとは思いませんが、相当マシになると思います。プロ云々の話にも、相応の説得力が生じます。

 

 

 

とまあ、どんなに技術論を書いても、昔から現在に続くアニメ制作現場では、お金の話で行き詰まってしまいます。なので、ここで書くことは、あくまで新しい現場での話です。報酬の話を棚上げして、プロ意識だけ語ろうとしても、どうにもなりません。プロ意識とプロ報酬はセットで考えるのが、新しい現場の鉄則です。それは清書1枚に至るまで。

 

レイアウトに限らず、プロとして絵を作り出す、絵を動かす、映像を作る‥‥なんて仕事は「プレッシャーの塊」です。プレッシャーを跳ね返すのは、まさに当人の技術力、そして相応の報酬、ですわな。

 

 

 

 

 


レイアウトシステム

アニメ制作工程における「レイアウト」は、私が思うに、先人たちの大いなる知恵です。絵はどう描いたって絵ですが、いきなり細部を描き始めて描き終えた後で画面構成が不味いことに気づくのは、単なる時間の浪費=お金の無駄遣いだからです。「レイアウト」で画面構成、平面構成を見極めたのちに、細部に取り掛かれば、とても効率的に目標とする絵の状態へと導くことができます。

 

‥‥というか、美術の時間に「まず全体を捉えてから、徐々に細部を描写していきましょう」と美術の先生に指導された通りのことなんですけどネ。美術の先生がどれだけ悟性と理性を踏まえた上で指導しているかは先生のクオリティ次第ですが、指導内容にはちゃんと内包されています。

 

現在の「レイアウト+第1原画」を一度に作業するやりかたは、レイアウト=全体の構成や要素の配置の可否を問う前に、原画のラフを描いてタイムシートまでつけてしまいますから、「全体を見極める前に細部を描き込んでしまう典型」です。

 

時間の有無はもはや関係なく、どんなに時間がたっぷりあろうと、「レイアウト+第1原画」のやりかたが定着してしまった今、「レイアウトの本質は形骸化」したも同じです。原画の若手・新人が「レイアウトを学ぶ」機会も喪失しているのではないでしょうかネ。

 

 

レイアウトは「配置」です。画面の中の要素配置。‥‥とてもシンプルです。

 

「レイアウト 意味」の語句でWebで検索すれば、

 

  • 配置。配列。
  • 所定の範囲内に効果的に配置すること
  • 何をどこにどのように配置(割り付け)するかということ

 

‥‥と、いくらでも「配置すること」の意が検索にヒットします。

 

なので、背景の詳細な線画である必要はないですし、ましてやキャラクターの原画の下書きであろうはずがないです。

 

しかし、現状として、レイアウトは背景原図として綿密に細部まで描いて、セル部分は清書さえすれば完成原画になるように全てラフ原画を描いてシートまで書くのが「現在の現場の正義」ということになれば、レイアウトシステムの本来の意義を唱えたところで掻き消されましょう。

 

なので私は、今の現場ではおとなしく「今の流儀」に従って作業しています。今の現場の未来を決めるのは、今の現場のキーマンたちなので、その人たちが「レイアウト+背景原図+第1原画+タイムシート」の同時作業で良いと思っているのなら、それならそれで、私があれこれ意見するのも僭越でしょうしネ。

 

 

私は未来の新しい現場で「レイアウト」の本意を実践するのみです。旧来の現場には何も言わんです。

 

新しい現場は新しい方法論もどんどん導入しますが、一方で「温故知新」を実践する場でもあります。どんなに古くても、良いものはどんどん復古して導入すれば良いですからネ。

 

「レイアウト工程」は何よりもまず、「レイアウトを決めて、監督演出チェック」です。その後で、必要に応じて「背景原図清書」があったり、「ラフモーション」(ラフ原画、第1原画に似たような内容です)の工程に進みます。

 

まずはレイアウト、画面の構成、画面要素の配置を見極めるわけです。

 

  • 各要素が織りなすアウトラインはシーンのリズムや量感やニュアンスを体現しているか
  • カメラ(=観客の視界)の寄り引き、カメラの動きや移動は、演出意図と合致しているか
  • 主要素(=多くの場合、キャラです)の配置は、止まった時だけでなく、動いて変化していく際にも、意図通りに成立しているか
  • 線だけでなく、明暗のレイアウト、色彩のレイアウトを想定して構成できているか
  • 上記を踏まえた上で、必要な物理法則(パースペクティブ・遠近法など)を主観的に操作できているか

 

レイアウトシステムが本来為すべきことを、ノイズや過装飾なしに、上述の内容を純粋に実践するのが、私らの考える「古くて新しい、レイアウト作業工程」です。

 

 

でもまあ、制作現場には個々の事情や状況がありましょう。「何が正しい」ということもないです。

 

レイアウトに第1原画をくっつけたのだって、どこかの誰かさんたちがやり始めて、「これはいい」と思った他者・他社が真似して、現在に至っているわけですから、それぞれの利点と欠点を認識して、自分たちの目標点に向かって運用・運営していくだけのこと‥‥でしょう。

 

今の20代・30代前半の若い人は、レイアウトの意味もわからず、第1原画の付随物としか認識していないかも知れません。でもそれも、他者がどうこういうことでもなく、当人が気付くべきことです。気づかないまま業界を去るのも人生。そのまま何となく惰性で作業して歳食うのも人生。このままじゃアカンと一念発起するのも人生ですもんネ。

 

 

 


Blackmagic RAW

実写において、低価格で高品質な機材を提供するBlackmagic社。実は私、アニメでもBlackmagicのソリューションを活用できないか、密かに(と言ってここで書いてるあたり)機会を伺っているのですが、Blackmagicからまた新たなエポックが発表されました。

 

Blackmagic RAWです。Blackmagic社のカメラや編集ソフト(DaVinci Resolve)が目指す、次世代基準の映像制作にふさわしい、新しい映像ファイル形式のようです。

 

 

 

今のところは実質的に、BlackmagicのカメラとDaVinciでの運用に限られているっぽいです。ただし、クロスプラットフォーム、SDKの無償配布など、自社製品に限定する感じではなさそうです。

 

 

あまり4K HDRの話題にはふれないつもりですが、ちょっとだけ。

 

PQ1000nitsの映像制作において、もはや8bitは使い物にはなりません。トーンジャンプが簡単に発生してしまいます。最低でも10bit、できれば12bitが好ましいです。

 

ゆえに、ProRes4444コーデックの有用性は言うに及ばず、今さらではありますが、再びTIFF連番に戻って運用してもやむなしと考えています。TIFFと言っても、もちろん16bitのTIFFですヨ。

 

新時代のアニメ制作に呼応できる、新時代のコーデック、ファイルフォーマットを欲しているのです。最初から4〜8K HDR/PQ 24〜120fpsを想定したファイルフォーマットの登場を待っています。どんなに1000nitsを活用した美しい映像を作っても、データに記録できずに綺麗に再生できないのでは何にもならないからです。

 

 

Blackmagic RAWの細かい仕様はわかりませんし、今のところ、After Effectsなどの私のメインのソフトウェアには対応していませんが、もしDaVinciでキャッシュファイル的にでも使えるのなら、フローの中で試してみたいところです。

 

 

 


「セル」は「手書き」の同義語ぢゃない

「セル」っていう言葉は紛らわしいですね。そもそも私が紙と鉛筆で原画を描き始めた1986年の頃から「セルロイド」ではなく「アセテート」でしたし。

 

今どきは、「手描き」であることを「セル」と言っちゃうこともあるようです。「全編セルアニメーション」とか言うと、セル用紙にトレスマシンで転写して、セル絵具でペイントして、フィルム撮影台で撮影したように思えますが、「門外漢」の人にとっては「3DCGを使ってない=セルアニメ」と思い込んじゃうことも多いです。

 

あのね。「セル」=Cellの意味をよく調べてみてネ。

 

2018年現在の「セル」という言葉は、「ログ=丸太」と同じように、現場では「動画からペイントされた画像ファイル」を指して「セル」と慣用的に用いますが、「本当のセル」=Celluloidではないですし、昭和40年代以降・平成のテレビアニメ制作時のアセテートフィルムでもないです。「かつてセルが素材だったもの」です。

 

ましてや、セルは手書きの同義語じゃないです。

 

 

セルアニメ100%。

 

スタッフロールを見れば、あれ? あの撮影プロダクションってフィルム撮影台なんてまだあったっけか?‥‥とすぐに不思議に思いますし、そもそも映像で「ぼかしの滲み出し」の撮処理をみれば「デジタル」であることは一目瞭然。

 

それとも、セル用紙にセル絵具でペイントして、それをスキャンしてマスクを綺麗に切って、After Effectsか何かでコンポジットして映像処理を加味した‥‥のでしょうかネ。まさか、そんな‥‥ね。

 

 

 

ただ単に、3DCG要素だけを排除したところで、「表示系」「2Dモーショングラフィック」まで手書きでやらんと、100%手書きアニメとは言えんわな。昔は全部手書きだったんだからさ。

 

スキャニメイトとかの「飛び道具」は別としても、動くものはほぼ全てアニメーターが作画していた頃に立ち戻らないと、100%手書きを語るのは不十分ですネ。

 

むしろさ‥‥。ペーパーレスですべてフローして素材のクオリティを確保した上で、80年代のものすごい線画密度と光学的撮影技法を表現のベースとして踏まえ、16ミリ‥‥はチープすぎるから35ミリフィルムの色域特性やグレイン質感やガタ、セル浮き(セル影)やニュートン、編集点の歪みまでやってこそ、「狂熱の時代」が再表現できると、わたし的には思います。

 

 


境遇と自分

境遇は人それぞれです。

 

私の世代はベビーブームで、目分量で量り売りで扱われるような世代でした。一方、近年の世代は「世界にひとつだけの花」みたいに少子化ゆえの扱われ方を少なからず受けてきたでしょう。世代によって、境遇は様々です。

 

でも、ぶっちゃけ、どんな境遇であろうと、自分の価値は自分で作り出すものです。

 

自分が、量り売りされた世代だろうが、希少品扱いされた世代だろうが、自分は自分です。能力の是非可否の原点は、自分の中にあります。

 

どんな世代にも有利な点、不利な点はあるものですしネ。

 

 

就職難でロスジェネで‥‥とか言って、自分の現在の境遇を世代のせいにすることもできます。一方で、雑な扱われ方をしてきたから、自分はタフで打たれ強いと言う人もいます。

 

境遇をハンデにする人、バネにする人、色々いるのでしょう。

 

まあ、普通に考えて、境遇はハンデではなくバネにしたいわな。

 

自分はデキない、不遇だ、ハンデをもって不利だ‥‥という理由を、世代や境遇に求める人は、自分の能力の低さや至らなさを、てっとり早く「一番身近な」自分の「世代や境遇」に関連づけているのでしょう。つまり、「なぜ、いかに自分が不遇かを証明する理由」を探している‥‥とも言えます。

 

逆に、自分はデキる、好遇だ、アドバンテージがあって有利だ‥‥という理由を、世代や境遇に感じている人もいます。「私も就職難の世代だけど、ロスジェネなんて言葉は甚だ迷惑だ。私は自分で自分を切り拓いてきたし、自分の世代を不遇だなんて思ったことはない。逆に有利だとすら思った」と言っている人もいるのです。

 

 

私も「量り売り」で雑に扱われた世代で、それはそれで良かったと思います。人間の量が多くて扱いが雑ゆえに、いちいち監視されずに済んで、色々なことができましたからネ。私がフリーアニメーターになれたのだって、「こんだけ人間が余ってれば、会社に努めないヤツがいても良いだろ」的な雰囲気がありましたし。

 

人が多くて就職難‥‥という状況は、普通だったらやらせてもらえない仕事でも選択できる自由度が高い‥‥と思えたわけです。

 

 

今の若い世代はどうでしょうかネ。

 

人が少なくて管理・監視されやすい傾向はありましょうが、ゆえに、人と同じことをしつつも、内容がぬきんでれば、監視や管理でひっかかって、逆に目につきやすいともいえます。

 

自分自身の「色々なやりたいこと」を実現するときに、

 

管理の甘い世代の中で、自由に行動して頭角をあらわすか

管理の厳しい世代の中で、突出することで頭角をあらわすか

 

‥‥だけの違いのようにも思えます。まあ、どちらも「行動力と力量が必要」であり、「型にハマって従順だと頭角をあらわせない」共通点はあります。

 

世代や境遇って、ホントに当人次第ですネ。

 

 


作る。こなす。

作品は「作るもの」であって、「こなすもの」ではないです。

 

これはちょうど、食事が「食べるもの」であって、「消化するもの」ではないのと同じです。料理人が、「はい、消化するものをご用意しました」とお客さんに出したらギョッとしますよネ。

 

そんなことは、だれでも判っていることでしょう。しかしプロとして「作る」行為を仕事にして、しかも生産フローのいち工程に組み込まれると、いつしか「作るもの」が「こなすもの」へと結果物も意識もどんどん変質していきます。

 

一方で、「作る」行為を要求できるほど、例えば動画1枚の料金は相応で適切な金額設定かと言うと、これも誰もが「不適切」だと判るでしょう。

 

新人や見習いの期間に、「こなす」のではなく「作る」意識を習得するのは、ごく自然なことです。しかし、キャリアを積んで新人から抜け出ても、現在の作品内容だと動画だけでは収入が成り立たない現実もあり、例えば「完全出来高で月5万」なんていうケースも世間に知れ渡り、「作る」を要求できるほどの報酬が設定されていないことは白日のもとに晒されています。

 

ぶっちゃけ、教育・指導する側も、こと、動画に至っては、「プロの品質」「作る行為」を肯定的な要素として指導できない「現実」がありましょう。

 

例えばベテランのアニメーターの中で、現在の動画の内容と単価で、テレビ作品の動画作業だけで完全出来高で20万円を稼げる人はどれだけいるでしょうか。昔話ではなく、「今のアニメの内容」で、月1000枚‥‥です。

 

つまり、「動画をプロの仕事にする」という一方で、「プロの仕事にはできない料金システム」という、痛烈なジレンマを抱えています。

 

 

無経験、未経験の人間が、最初からプロの報酬を得られるわけもないです。少子化の世代は、ベビーブーム世代の昔よりも大事に扱われて、「世界で1つだけの存在」などとおだてられて育ってしまったこともあるかも知れませんが、仕事場においてプロフェッショナルとして一目おかれてプロ相応に扱われるには、相応の能力が必要になります。生きてるだけじゃ、どうにも価値など見出せません。

 

しかし一方で、アニメ業界の、特に動画の料金システムはあまりにも酷いままで、「プロを自認できるほどの報酬がない」のは「現場を形成する構造」の「大問題・大欠陥」です。意識はプロでも、お金はプロじゃない。‥‥これは昔からの問題ではありましたが、近年のアニメの傾向〜複雑で線が多く、クオリティ基準も厳しくなった作画内容において、問題は極めて深刻化しています。昔話をして済む話じゃないです。

 

 

 

こなすのではなく、作るんだ

 

‥‥この「あたりまえのこと」を、現場においてあたりまえの事として意識するのは、旧来構造のままで突き進むアニメ制作現場では中々難しいようです。

 

どのような現場を新しく作れば、作品を「こなす」のではなく「作る」現場を形成できるのか。

 

難しいことではありますが、本気で取り組んで余りある、有意義な目標だと思っています。

 

 


自助努力の可否

皆が自助努力で頑張れば、制作はうまくいく。これは経験の浅い、もしくは初心者を抜け出た頃に陥る思考の、よくある例です。

 

実際のところ、自助努力のスコープはローカルに限定されます。つまり、自助努力の効果が発揮されるのは自分自身どまり(=自分の中だけで全ての采配が完結する範囲)であって、複数人数の自助努力を結集しても、制作進行はうまく進むどころか、無駄につぐ無駄を呼び、破綻すら招きます。

 

例えば、こなすべきミッションが‥‥

 

1、2、3、4

 

‥‥とあったとして、皆の自助努力のターゲットが、

 

Aさん 1、2、3

 

Bさん 1、2、4

 

Cさん 2、3

 

Dさん 1、2、3

 

Eさん 1、3

 

‥‥となった場合、結果は‥‥

 

1の合計=4

 

2の合計=4

 

3の合計=4

 

4の合計=1

 

‥‥と、ものすごい偏りがでることがあります。

 

ではなぜ、1、2、3に「皆の自助努力」が集中したのでしょうか。

 

1、2、3の作業がやりがいがあったり報酬が良かったりするからです。反して、4はめんどくさくて厄介な作業で「割に合わない」ので、だれもやりたがらずに放置されてしまったのです。

 

自助努力を集団作業に期待する罠」の典型も典型で、笑い話レベルです。

 

「5人もいて、なぜ、1人しか第4工程に着手してないんだよ!」なんていうのは、自助努力に現場を委ねたこともかなり悪いのです。

 

これはたとえエクセルで表をつけて、皆で状況を監視していても同じです。皆が「これ、だれがやるんだろう」と放置すれば、エクセルの進行表が公開されようと同じです。

 

作画で言えば、日常芝居の会話シーンと、モブが乱闘してビルが倒壊するシーンとで、どっちが先に「売れるか」なんて判り切ってますよネ。同じギャラなら会話シーンに決まっています。

 

これを自助努力でなんとかしようとしても、どうにもなるもんでもないです。‥‥そもそも、担当者が決まらないのですから。

 

 

未来に必要なのは、マネージメントシステムであって、自助努力の名のもとに皆が表計算のリストを眺めることではないです。

 

そして、そのマネージメントシステムがタフでダイナミックであっても、最後に決め手となるのは人間だと私は思います。マネージメントシステムは、スタッフとの会話の「声のトーン」から状況を把握できますか? ‥‥できませんよネ。

 

プロの現場で自助努力なんて言い出すのは、相当危ういです。その言葉が出た時点で、現場のコントロール機能は失われつつあって、統制を欠くことを意味しているからです。

 

10揃えば足りるところに作業者の自助努力で50も集まる一方で、10必要なのに1しか揃ってない‥‥なんていうのは、まさに「自助努力という名の現場放置プレイ」です。

 

高度なマネージメントシステムが確立されたとしても、そのバリュー=値をジャッジするのは、人間です。

 

要は、コンピュータだけでなく、人間だけでもなく、コンピュータと人間で制作を支えていくのが、未来の制作スタイルだと思っています。

 

 


自分のジャンルと他人のジャンル

なぜ、人は「他のジャンル」になると、今まで自分が積み重ねてきた労力や努力を忘れ、「どうせ簡単なことだろう」と思いがちだったり、その逆に「想像が及ばない凄くて近寄れないもの」と思うのでしょうネ?

 

絵を描く時、プロなら、その描線の1つ1つが積み重なって、プロの絵になることを熟知しているし、痛感しているはずです。線1本を軽視すると全体像は思うようにならずに崩れるし、線1本に固執しすぎて全体に目がいかなければ全体像はバランスを欠きます。

 

地道な積み重ねがプロをプロたる技術へと押し上げますし、様々な視点をもって広範囲に観察するからこそ色々な絵が描けるようにもなります。

 

そうした、自分が心血を注いで築き上げてきた「自分のジャンル」に対して、他者から浅い見識と軽率な状況把握によって不当に低評価を下されたりすれば、ものすごく不快な気分になるでしょう。

 

逆に、まるで神様扱いされて、「あなたの生まれながらの才能は素晴らしい」なんて言われても、「何もわかっちゃいない。センスだけでここまで技術を高められるわけないだろう? 相応の努力をしてきたんだよ」と、同じく不快な気分にもなるでしょう。

 

でも、自分のジャンルではなく、他のジャンルに対して、同じことをしがちになる人は、結構存在するのです。

 

本当によくありがちなのは、「絵で描くのは大変だけど、『デジタル』や『3D』だと簡単なんでしょ?」と思う作画の人間ネ。

 

なぜ、自分のジャンルを築くに至った今までの苦労と格闘の経緯を、他のジャンルに対して思いやれないのでしょう?

 

自分の関わるジャンルだけが尊いでも思っているのでしょうか。

 

 

思うに、そうした「自分のジャンルはすごい」「他者は楽してるんだろうから、他のジャンルは大したことない」と考える人間が、ワークグループに存在する時点で、「アニメ現場の明るい未来」は永久に来ません。‥‥少なくとも私はそう思います。

 

自分のジャンルで大変だった事柄を、他人のジャンルで軽々とこなしている「ようにみえる部分だけ」を見て、「簡単にできちゃうんだ」と考えがちなのは、本当によくあることです。そして、「あんなに簡単にできるのなら、どんどん安いお金で引き受けてもらおう」だなんて考え始めます。

 

アニメーターが下描きもせずに、一発描きで絵をサラサラと描くのを他者がみて、「そんなに簡単に絵が描けるのなら、安く沢山描いてよ」なんて言ったらどうします? 馬鹿野郎!‥‥でしょ?

 

さも簡単そうに見える動作のバックボーンに、色々な技術と経験がぎゅうっと詰まっていることを知っていれば、「サラサラとスピーディーにこなす」ことが「楽」「簡単」「安い」ことと同義ではないのが判りますよネ。自分の結果物が、経験と技術と才覚の結晶だということを知っていれば、他者の結果物にだって同じ思いを抱けるはず‥‥なんですけどネ。

 

 

以前、作画の人がAfter Effectsで撮影まで兼任して独自の映像をコンポジットする‥‥みたいなことに、ちょっとだけアシストしたことがあります。その時、「テクスチャの貼り込みはできないので、やってください」と言われて、驚いて唖然としました。

 

撮影まで自分でやって自分の原画担当シーンをコンポジットしたいのなら、貼り込みの作業も自分でやらないとダメでしょ。

 

そんな事例に限らず、作画の人の中にはどうやら「テクスチャの貼り込みは簡単にできる」「テクスチャの貼り込みはソフトが自動でやっている」と思っている人がいるようです。自分でいじったこともないのに、よくもまあ、他者の作業を「簡単だ」とか思えるよネ。

 

他のジャンルの人間が作画作業に割り込んできて、「自分は顔だけが描きたいから、他の部分は作画さんがフォローしてください」なんて言いだしたら、どう思います? ‥‥そして「エフェクト作画や小物類の作画なんて遊びみたいなもんで、顔を描くのに比べれば楽チンなんでしょ?」なんて、作画の素人が言いだしたら、どうでしょう?

 

未経験で何も知らないお前が、簡単だとか勝手に決めるな!‥‥と思うはずです。

 

 

でもさ‥‥「デジタル」が作画にも及んで来て、各ジャンル相互の理解が深まるどころか、他のジャンルをいっそう軽視して、簡単な部分だけを「つまみ食い」するような状況にすら及び始めているように思います。

 

いかにもダメな「技術認識の甘さ」、「内輪モメ」の典型ですが、これを改善する見込みは、私は「ない」と考えています。江戸幕府が継続する以上、「士農工商」が撤廃できなかったのと同じく。

 

でもまあ、やがて何隻も「黒船」がやってきます。江戸幕府はその際に「新政権」に再編成されることもあり得るでしょう。その時が「変われるチャンス」です。

 

 

思うに、今までの「作業工程生粋で育った人間」が工場生産ラインで繋がっている現場の様相は、一旦終息することでしか、仕切り直しはできないのだと思います。それは具体的に言えば、旧現場感覚の人間たちが「引退」することでしょう。もし現場感覚を変えられるのなら、とうの昔に変えられていたはずですからネ。

 

かと言って、年齢だけ若くても、考え方が旧現場感覚なら、20代でも50代でも同じです。頭の中身がおじいちゃんおばあちゃんならば、新しい現場感覚や意識なんて芽生えようもないです。

 

アニメーション制作の各工程を実際にプロクオリティ(=品質に対する責任)で兼任してこそ、各工程の相互理解が深まります。最初から「自分は何用の人間か」を決めつけるのではなく、あらゆる制作作業の中で「自分が何者か」を確立していくのです。そのためには、セクション単位ではなくジョブ単位でフローするダイナミックな制作管理システムも新しい現場の基盤として必要でしょう。

 

未来に向けてやることはやまほどあります。でもそれは、未来もアニメを作り続けたい‥‥と思えばこそ、ですよネ。

 

 


過去の春と、未来の春

温度差はあって当たり前です。前世紀末も、セルやフィルムと並行してコンピュータによるペイントとコンポジット技術が徐々に進行していきましたし、DVDが出ても相変わらずレーザーディスクを買っていた人もおりましょう。

 

どうやら、理屈ではなく愛着が色々なものに作用して、温度差が生じるように思います。キャリアに関係なく、知識や見識にも関係なく、本人の感情が大きく作用するのでしょう。

 

特に仕事に関わる物品で、当人が何を買うかで、当人の温度を客観的に伺い知ることができる‥‥とも言えます。

 

 

思うに、2KのSDRの季節は収穫の秋が終わり、冬の季節を迎えようとしていますから、今すべきことは「次の春に備えること」です。

 

今、夏に育つ苗を買っても、冬に枯れます。2K SDRの苗を買っても、次の季節には育ちません。自然の摂理を応用して考えれば、すぐにわかるのですが、老いが重なると、もう2度と来ない過去の夏を懐かしんで、秋にひまわりのタネを撒くような行為にふけるのです。

 

体は老いても、心や頭は老いたくないもの‥‥ですネ。だって心が老いたら、哀れですし、ミジメですし、周囲の若い人間や若い心をもった人にも面倒をかけます。

 

来年の夏は2019年の夏であって、1984年でも1999年でも、2010年でもないのです。

 

 

私はぶっちゃけ、今は個人で映像機器を買う気にはなれません。2Kはもう終焉が目に見えているし、4KでPQで300nitsの環境は個人で購入できるレベルには下がってきていないからです。買う気になれないのは、買えるものがないから‥‥です。

 

個人レベルで言えば、今はiMac 5Kを1台買うくらいに留めて、次の春の兆しが来るまでお金を貯めるのが、ちょうど良い時期なんじゃないですかネ。今ある2K機材にiMac 5Kや次期Mac miniをプラスして4Kに慣れておいて、いよいよ「未来の春」が近づいて4K機材もなんとか買えるレベルまで手頃になってきたら、「タネを蒔く」のが良いと思ってます。

 

まあ、個人ではなく会社規模なら、「ビニールハウス」的規模で、「先もの獲り」を始められることもありましょう。

 

 

2000年にレーザーディスクを買うような行為は愚かしい‥‥と今なら判りますよネ。2009年(=地デジ化の2年前)にブラウン管の720〜1680pxしか出せない業務用モニタを数十万円(下手すれば百万単位)で買うのは愚かしい‥‥とも今なら判りますよネ。

 

同じく、2020年を間近に控えた今、2KでSDRの機材に高いお金を投資するのは、個人なら酔狂、会社なら背任とすら言えるかも知れません。映像制作の専門機材を扱う専門職にありながら、ほどなく旧式化する高価な機材を、自分の過去の経験と思い入れだけを優先し、先進性や時代性(現代性)を顧みずに導入を推した‥‥という点において。

 

故障して補充するのならともかく、2020年代まで2年を切った今の時期に、もはや高価な2K機材のリプレースは不要でしょう。映像のプロなら、個人でも会社でも、お金の使い方にセンシティブになる時期と言えます。今はもう、2018年の9月‥‥ですもんネ。

 

 

とはいえ、アニメ業界の人間は、作画の限界点を無意識にでも意識して、2Kに思い入れてしまう傾向はあるかも知れないです。でも、時代が進んだ後で振り返れば、「あの時、もっと潔く、未来を認めて受け入れればよかった」と思うのかも‥‥知れませんよ。

 

まあ、引退するつもりの人は、過去に咲いた花を押し花にでもして眺めて、昔を懐かしんで余生を送れば良いです。

 

引退するつもりがない、もしくはまだ自分は若いんだ‥‥と思うのなら、次の春を目指して、色々と準備しましょう。

 

 


PQ、1000nits。ピーキー。

1000nitsの、しかもPQの新時代の色彩制御は、「まあ、S字カーブ、つまりピーキーな特性に操作感覚を合わせればいい」とやや軽めに考えていました。

 

しかし。

 

超〜〜難しい!!!

 

でも。

 

 

 

今までのRec.709やsRGBの「鉄板」の方法は、まるで通用しなくなりますが、その喪失分を補って余りある楽しさと美しさに満ちています。

 

1000nitsは「パワーバンド」がめっちゃ広いので、例えば、100nitsリミットで通用していたグロー系の技法は「仕切り直し」、今までの方法だと大雑把過ぎてすぐにコントロールを失います。どれだけ100nitsのリミッターに助けられていたかが、あり余る1000nitsを扱うようになると実感できます。

 

 

ピーキー。

 

そう‥‥まるで、100馬力の2スト400ccモトクロッサー(なんて実在しないし、乗ったこともないですが)のようです。「じゃじゃ馬」も「じゃじゃ馬」。ある一定の回転域からいきなりパワーが出るので、アクセルワークをぞんざいに扱おうものなら、すぐに前輪が浮いてしまう、在りし日の2ストハイパワーバイクのようです。

 

RMXに乗ってた頃を思い出すわ〜。(RMXは40馬力で250ccですけどネ)

 

 

しかし、そんなピーキーな色域のP3/PQ1000でも、12〜16bitの豊かな諧調があれば、簡単にはトーンジャンプなど発生しません。余裕があります。

 

上は伸びるところまでグングン伸びてさらにまだ上まで伸びて、一見狭く思える下の部分も実はタップリある。

 

今までのように255の白までおとなしく明るくなる特性ではないので、コントロールは難しいですが、使いこなし甲斐のある色域です。

 

美術、色彩設計、そしてコンポジット(旧撮影)と、色を扱うセクションは、少なからず戸惑うことでしょうが、ルーチンワークで腰掛けて惰性で作業するのでなければ、必ずや使いこなせるようになるでしょう。

 

実際、四六時中「最大の白」を表示しているわけじゃないですし、バイクや車もそうですが、どんなにハイパワーでも街中で180kmで暴走はしませんよネ。アクセルなどの操作が「ベタ踏み」から「デリケートな操作」に変わるだけでです。同じく、輝度や彩度の扱いを、HDR時代に合わせてデリケートに変えれば良いです。

 

いざという時、ここぞという時に、300〜1000nitsを使えるのは、相当、表現の幅が広がります。明るいシーンだけでなく、ふんわりと柔らかい質感も、今までの100nitsの濁った色彩から精彩な1000nitsに変わることで、自在に表現できるようになります。

 

 

PQ1000nitsは最初は戸惑うことも多いですが、バイクと同じように、跨って走らせてこそ、「体で理解」できる‥‥ということを実感しております。

 

バイクの免許をとって、50ccから250ccのハイパワーなオフローダーや400cc以上のロードバイクに乗り換えると、もう50ccには戻れなくなりますよネ。原付バイクの30kmの速度制限なんて冗談みたいな話ですし。

 

同じように、HDR PQ1000nitsのパワーを知ってしまうと、SDR 100nitsには戻れなくなるでしょう。たとえパワーは抑えて控えめでも、「底力の大きさ」「馬力の余裕」で「映像作りに幅が出て、融通が利く」ようにもなります。観る側も早々にHDRの輝度や色域に慣れるでしょう。

 

願わくば、300〜1000nitsのPCモニタが、近い未来に「個人のプロ」でも買える値段に下がってくれば良いですネ。ブラビアなどの民生テレビは、500nits前後まで出せる製品も今どきは増えているみたいですヨ。

 

 

 



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