シンプソンズ・シーズン8

住環境の変化で最近は見ていないのですが、10数年前は「シンプソンズ」を好きでよく見ていました。最近、私のお気に入り話数が集中しているのは「シーズン8」のあたりだと解り、DVDを買ってみてみました。

パッケージはとても凝っていて、未公開映像なども収録されており、コレクターズアイテムらしい製品に仕上がってます。

ホーマーは二度越す」「悪魔のチリ料理」「最強の男ホーマー」「清く、正しい、スプリングフィールド」「シェリー・ボビンズがやって来た!?」など、1990年代の終わり頃に見た作品がいっぱい詰まっています。私の「シンプソンズ」のイメージはこのあたりで、シーズン1とかはバート(悪ガキの長男)の性格が大人しくて違和感があるのですが、シーズン8あたりになると悪魔ぶりが遺憾なく発揮されています。

しかし、2014年の今、映像を見返してみると、何よりもその画質の状態に驚きます。DVDの解像度もMPEG2の圧縮技術も、もはや前時代の品質なんだな‥‥としみじみ感じました。加えて、シンプソンズは絵の作りがもともと「モスキートノイズ」が目につきやすい作風なので、旧フォーマット上だと、絵をきれいにシャキっと見せるのは、中々難しいのかも知れません。

シンプソンズの制作体制は全く知らないのですが、キャラの影が至る所に出ているし(セル重ねによる影〜絵具の厚み分、セルが浮いて影が出てしまう状態を、「セル影が出ている」と呼んでいました)、トレスの気泡がブヨつくので、標準的なトレスマシン&セル画で素材を作っていると思います。記録フォーマットは、作品独特の色使いの割には発色が良いのと、粒状が目立たないところを見ると、35mmフィルム&テレシネのようには見えるんですが、フォーカスは甘めなんですよネ(フィルム時代の昔、日本のテレビシリーズはランニングコストが廉価な16mmを使い、OVAや劇場作品に35mmを使っていました)。デジタルマスターの際にデノイズして、粒状ノイズを軽減してるのかな? ‥‥とにもかくにも、向こう(米国)のやり方は、全然知らんのです。

でも、BDで高画質のHDマスター的なのが出るんなら、買い直しますヨ。

まあ、もっさりした発色も何だか懐かしい「シーズン8」なので、しばらくBGVとして重宝しそうです。


国民的アニメ

つい先ほど、たまたま実家リビングのテレビで流れていた「デジタル化」した「サザエさん」を見たんですけど、長年のシリーズ制作で培った「サザエさんスタンダード」は「デジタルペイント&撮影」導入後も全くブレておらず、敬服してしまいました。

デジタルを導入して小ズルい作画ショートカットで誤摩化す作品が多い中、サザエさんは昔と変わらぬ作劇法を貫いており、デジタルが全く鼻につきません。デジタル導入による改善点だけが際立つ結果となっています。

今日見たサザエさんで、デジタルによって確実に改善された点を思い起こすと‥‥
 
  • 塗りムラ
  • トレスマシンの粒荒れ
  • セル影
  • セル原料のくすみによる退色
  • フィルム由来のシャープネスの低さ
  • フィルム由来のグレインの荒さ
  • フィルム由来の狭い色域
  • 編集点のたわみ
  • パーフォレーションのガタ

‥‥など、多くの点が挙げられます。逆に言えば、16mmフィルム(未確認〜テレビなので16mmだったと思います)撮影台を基軸とした制作システムは、ちょっと挙げただけでも上記の劣化要素を抱えていたわけですネ。

デジタルフローを導入したサザエさんは、まず、全体の色調がフィルム時代の落ち着いた色調を引き継ぎつつも、くすみのないクリアな発色なのがとてもきれいですし、動きの要素もデジタル臭い部分がありません。ワイプマスクもちゃんと手描きで3コマ動画。画面に出る文字もデジタルフォントを使わない手描き。‥‥こういう部分を過去からニュアンスを変えずに一貫できているのは、とても凄い事です。そしてそれが、ちゃんとサザエさんの作風を護る事に繋がっているのが素晴らしいですネ。

ワイプや文字など、他のアニメだったら、みんな「デジタル任せ」で済ませて、結果、出てくる言葉は「今は楽になった」‥‥だけです。単に楽な方に流れるベクトルに身を任せる現場が多いですが、もしかしたら‥‥いや、確実に、今のアニメ現場は急速に、過去の高度な技術を継承する意識も低く、安易な価値判断で廃棄処分しているのでしょう。例えば、メカを3Dスタッフに任せて「作画が楽になった」だなんて、それはすなわち、メカを描けるアニメーターを率先して減らしているわけです。今や、細かい模様は全て「撮影貼り込み」ですが、それは言うならば、「動画なりに、サイズなりに、省略して描く知恵を放棄している」のです。

そんなアニメ現場の風潮を目の当たりにして、サザエさん本編をふと見ると、「デジタル時代のいやらしさ、まるでゼロ」で、伝統を継承するとはこういう事か‥‥と感動に近い感情が生まれます。原料的ノイズ・装置的ノイズだけが除去され、作品表現はそのまま残った今のサザエさんなら、大画面テレビで見ても全く気にならないですし、もしかしたら、未来にも24コマが生き残る1つのケースになりうるかも知れません。

前回「原動画とセルがなくなるフロー」を書いた私ではありますが、それは「デジタルを用いたアニメーション作品制作」のドクトリンの1つであり、サザエさんのような「伝統的表現を維持する」アニメ制作手法も多いにアリだと思います。私が幻滅しているのは、技術や表現を場当たりに使い捨てする風潮であり、新旧そのものは関係ないのです。

サザエさん。‥‥表現技術は確立し得る事を、まさに体現している作品です。やはり、なんだかんだ言っても、作品表現のみなもとは、アニメーターから撮影・制作進行まで現場全ての人間の「志」なんでしょうネ。

*ちなみに余談ですが、故意に16mm時代のTVアニメ質感が欲しい場合は、前述の「改善された点」全てをAfterEffectsでシミュレーションして追加すれば、かなり「それっぽく」なります。細かい点ですが、編集点(カットの継ぎ目)のたわみは是非入れましょう。「フィルム傷エフェクト」でフィルムっぽさが出るなんて、今は素人さんでもやらんですもんネ。
 

4Kを喰らう

4Kは、ハコだけあっても、中身が無い‥‥と各所で耳にするようになりました。また、8Kの足音も、ちらほら聞こえます。しかし、今のアニメ制作現場は、「4K」をイメージする事もままならないのではないでしょうか。2008年前後にD1時代からHD時代への移行が各所でおこりましたが、アニメ制作の基本はほとんど何も変わらなかったし、変えようともしなかった、変えなくても特に大混乱は起きなかった‥‥事を思い出せば、「同じノリ」で4Kに対処できると考えている人も、もしかしたら多いのかも知れません。

思うに、
 
1・今後も作り方は変えずに、アップコンバートだけで済ます
2・フォーマット拡張に合わせて、制作規模も相応に拡大する
3・フォーマット拡張に完全対応できる、新しい作り方にゼロから仕切り直す

‥‥という大まかな3つの選択肢があるわけですが、私のスタンスは前々から書いているように「3」のスタンスです。8K120fpsだろうが対応できるし、未曾有の16K240fpsだって制作構造的には対応可能です。もちろん、良い事ばかりではなく、リスクは相当なものがありますが、その辺は過去に何度も書いてきたので、ここでは省略します。

では、「1」はどうか。過渡期の4K24pなら、なんとかなるかも知れません。ただ、48fpsに人々の視覚能力が慣れ始めたくらいから品質的に苦しくなるでしょうし、2K未満の画像を2倍拡大(面積比4倍)したフォーカスのぬるい絵は当初から問題になるかも知れません。「品質的に苦しくても、今はそれで凌いで、誰かが新しいフォーマットを淘汰の末に確立したら、それに追随すれば良い」なんて「漁夫の利」を企んでいる人もいるかも知れませんが、それが可能かどうかはわたし的には疑わしく感じます。徐々に4K8K適応能力をつけていかずに、いきなり転換しようとしても、その頃には「老い過ぎていて」もはや対応する事は不可能かも知れません。浦島太郎が玉手箱を開いて瞬時に老化するような、堪え難いギャップと喪失感を体験する事になるやも知れません。

では次に「2」。4Kに合わせて2倍近い予算増強を果たしても、「線が若干細くなった‥‥?」程度の効果しか発揮できない事は容易に想像できます。作画用紙を大きくしてスキャン解像度を大きくしただけじゃ、世間は「4K」とは認めてくれないスもんね。「キャラの線が細くなったように見える」程度、背景美術のシャープネスが若干増した程度の品質向上で、倍予算の獲得は「お金を調達する側」にとって、正直キツいと思います。「売り要素」があまりにも地味ですもん。かと言って、現在の予算枠で抑えるとしたら、作業ギャラに大きく響くのは、電卓があれば簡単に試算できます。現予算で4K対応は現場が保ちません。

「2」の場合は、4Kの解像度、48fpsの高フレームレートに対応しつつ、実は、4K48fpsに相応しい新しい作画アニメ表現技術も盛った上で、ようやく世間に「4Kの作画アニメ、ここにあり!」とアピールできるのだと思います。4Kのフォーマットに対応しただけでは、現場の人間にしか解らない「僅差」しかアピールできません。

スタンダードB4作画(=今の劇場サイズ)、より細密なキャラ設定、48コマタイムシート、動仕枚数2倍弱、最新マシンへの機材入れ替え(これは段階的投資ですが)、絵の密度を上げるためのより一層の撮影時のハリコミ作業、グラデーション処理の多用、3Dチームの出力解像度やfpsも倍増、絵の完成度を版権イラストレベルにフィニッシュするためのより高度なビジュアルエフェクト&グレーディング‥‥。制作規模を想定すると、30分枠1話分で現場予算4〜5,000万とか、途方もない試算すら出てきそうですが、それって「商業的に成立する」のでしょうか。1クール13話で6億5千万スよ、現場予算だけで。

そして、何よりも厳しいのが、4K48fpsは「最終到達目標」ではなく、過渡的なフォーマットだと言う事です。4Kよりもうちょっと未来の8K96fpsなんて、もはや8Kテレビ1話が現在の1本の劇場予算…になりかねません。未来の人々のお財布が、札束で溢れているなんて事はないのですから、明らかに破綻しています。

こんな風な事を書いてばかりいると、「不安ばかり煽りやがって」「上から目線で物を言いやがって」と思う方もおられるでしょうが、極めて重要な局面を前にして、「心配ない」「下から目線」なんてあり得るんでしょうかネ。状況や趨勢を俯瞰視して、舵取りを見極める必要があると思います。誰もが、現在より一段目線を高くして視界を広げて、自分の進路方向を見据える必要があるんじゃないでしょうか。「どうせ自分なんて」と、卑屈に凝り固まってはいけないのです。

正直、私も4K8Kは不安で怖いです。今までの常識や勝ちパターンがほとんど通用しないのですから。でもそれは、逆に考えれば、障壁を突破して技術を掌握した際には、かなり強力な武器を手に入れた事になる‥‥とも言えるのです。限界を自分に叩き付ける事で、どんどん強靭になっていったのは、どんな時だって同じだったはず。

「でもじゃあ、どうすれば良いのよ」と言う事ですが、頭で4Kに怯えるより、まずは体で4Kで絵を作ってみて、「試し喰い」するのが一番良かろうと思います。実感の全くないまま、4Kの巨大な影に恐怖してても始まらないですもんネ。とりあえず、「かぶりつけそうな部位」から喰えば、味もなんとなくわかってきます。

アニメってさ‥‥、実写と違って、機材的な束縛が少ないので、「4Kカメラ」が無くても、「4K映像」は作れるんです。高価な4Kカメラセットを購入する必要がないので、実はアニメのほうがフットワーク軽く、4K映像制作をテストできるんですヨ。個人がMac miniでもテスト可能なんですから。

でもまあ往々にして、その「テストの第1歩」が踏み出せない人、「ひとくち目が食べられない」人が多いのよねェ‥‥。本人の気概次第なんだけどネ…。

まあ、耳障りの優しい事を言うのが喜ばれて、キツい事を言うのが疎んじられるのは、しょうがない事だと思っています。イタい事を言われても、自分の意志が固い人だけが、未来を志せば良いとも思います。そういう人は、一緒の戦場で戦おうって気になるじゃんか。…実は、そういう事もあって、最近はキツい事ばかり嫌われ覚悟で、書いておるのです。このブログの文面だけで辟易する人は、未来の映像制作に堪えていけないですもん。

 

浮動小数点の感覚

私は、描き送りの作画によるアニメ〜いわゆる「作画アニメ」に関しては、4K48fpsが構造上の限界と考えています。作画はB4用紙、1秒のコマ数は48コマ(を2コマ3コマのタイミングで)。‥‥これだけでもうんざりする人は多いでしょうが、逆に言えば、このあたりが「作画で許容できるフォーマットの限界」と考えます。映像処理プログラマーもアニメ制作側に引き込んで、近未来の8K/96fpsへのアップコン技術と組み合わせて、作画と映像処理技術の両要素で、次世代のフォーマットを活用するプランです。

しかしながら、私の本命はやはり、デジタル生粋のアニメーション制作技法です。私の考える方法では、画像寸法(ビデオ解像度)に関しては、時代の流れに合わせて4K〜8K(もっと先の未来には、もっと上もあるのかな?)へと推移し、フレームレートに関しては「いつでもフルフレームモーション」を基本とします。つまり、48fpsならば48枚の絵、120fpsならば120枚の絵で、アニメーションするという事です。意図的にタイミングを2フレや3フレで止めて「パンチ」を出す事はありますが、基本はフルフレームモーションのアニメーションです。

「そんなの動画枚数で死ぬじゃん」とか言われそうですが、動画はコンピュータがおこなうので、「フレームレートフリー」なのです。仮にフレームレートが240fpsになろうが、(マシンの処理性能はともかくとして)基礎構造として対応可能です。新しい方式においては、タイムシートの1秒毎のコマ数は不要なのです。

アニメーターはフィルム時代の24コマのタイミングセンスを重要視しますが、私の考える方法では「浮動小数点」センスとでも言いましょうか、要は、「1秒=24コマ」ではなく、「1秒=1.0」で捉えるセンスが必要になってきます。実際の作業様式としては、キャラクターなどの演技のタイミングは、タイムシートに書き込むのではなく、「演技プランシート」に書き込んでスタッフ間の対話をはかり、実際の「ガチのタイミング」はソフトウェア上で「浮動小数点レベル」で決め込んでいく‥‥という感じです。もちろん、演技プランシートは電子書類で、印刷物にはなりません。定型の用紙サイズに収まらないですからネ。

‥‥なので、役に立つのは、1/100のごく普通のストップウォッチです。人間が、1.333333333333と1.333333333334の差なんて解りようもないですから、浮動小数点といっても実際は下2ケタの固定小数点で基礎は充分だと考えます。ただし、コンピュータ上では浮動小数点で処理されるので、浮動小数点そのものに「慣れておく」事は必要だと思っています。

24コマのタイミングが染み付いた人でも、演技シートに24コマガイドを表示して記述していけば良いので、特に困る事はありません。ただ、制作上ではもはや24コマで語る事はない‥‥というだけです。

移りゆくフレームレートに翻弄されるのではなく、あくまで「1秒=1.0」の絶対的感覚でタイミングを意識して制御するわけです。「96fpsは24コマでいうところの4倍で‥‥」なんていう換算を毎回おこなうのはバカらしいという事ですネ。

私はもうかれこれ7〜8年以上は、デジタルオンリーのアニメーション制作法を研究していますから、どのような技術基盤が必要で、どんなフローやインフラを組んで、かつ、どのような人材を育てていくべきか‥‥といった事も、相応に強いイメージがあります。ただ、「下請け根性」のまま、新しいアニメーション制作をスタートすべきではないと考えているので、極めて慎重に事を進めようと考えてもいるのです。

加えて、未来の映像産業のかたちも、たっぷりとイメージすべきでしょう。もう「昔のハコ」では稼げないのでは? ‥‥現在は1960年代でも、1980年代でも、2000年代でもなく、2010年代なのですから。

テレビやビデオが無かった時代、粗末な解像度のソリューションしか手に入らなかった時代と、現在そして未来を同じイメージで捉える事のほうが愚かです。高密度画素の家庭向け映像機器の他、より個人的なソリューションを可能とするヘッドマウント機器の今後の発展も想定しておきたいです。

ジョバンニの島、公開

今日、2/22から「ジョバンニの島」(以後、ジョバンニ)の劇場公開がスタートしましたネ。ジョバンニは「作画&背景美術 押し」作品ではありますが、全カットもれなくビジュアルエフェクトが入っておりますので、空気感や季節感の質感表現にも注目して頂けたらと思います。「タイムシートには記述指定できない」ニュアンス表現を具現化するのはビジュアルエフェクトの大きな仕事の1つですが、例え作画中心のアニメであっても、映画のような長尺には必要なんだなあ‥‥と実感しました。

実は、「並撮」のようなシンプルな内容のシーン・カットほど、技術的なバックボーンが必須なのです。キャラと背景を組み合わせるのって、極めて基礎的でシンプルですから、逆に難しいわけです。「デジタルでは何もしていないくらい、普通に見える」のが、ジョバンニのスタンダードシーンの「正解」ですから、「ビジュアルエフェクトって、普通のシーンでは何をしてたの?」‥‥でバッチリOKなのです。

今回、私が担当したのは、いくつかの撮影ボード(撮影見本のようなもの)、バンク素材作成のいくつか、特殊なカットの撮影(クレジットには出ておりませんが)を少々、ビジュアルエフェクト&グレーディング(私を含めた全2名で全カット)と言った内容です。一見、キャラと背景だけのように見えるカットでも、シーンごとにフォーカス(輪郭表現)やシャドー、距離感などビジュアルエフェクトが加味されており、改めて、映画の絵作りのなんたるかを認識しました。私が気に入っているのは「吹雪」のシーンですが、雪そのものではなく、むしろカラーリング(色彩・明暗)やフォーカシングに「臨場感」のウェイトがかかっていると再認識しました。やっぱり、基本は、トーンカーブでどれだけ「空気」を表現できるか、ですネ。

今回のジョバンニは、以前にも増して、西久保監督のオーダーが繊細になっており、ビジュアルエフェクト&グレーディングの「性能」をとことんドライブされておりました。私らのグレーディングの後に、1日だけイマジカ・ラボサイドのグレーディングも実施しており、もしかしたら、アニメーション監督で一番グレーディングを使いこなしているのは、西久保さんかも知れませんネ。

ジョバンニの話を受けた当初、「作画アニメ」でどれだけビジュアルエフェクトの出番があるのか、懐疑的な心持ちでしたが、ふたを開けてみれば、全カットにエフェクトをかけないと「作品がまとまらない」事が解りました。まあ、よく考えてみれば、セルと背景を組み合わせただけじゃ、「収まりが悪い」スもんネ。だからと言って、「ディフュージョンの1番、2番」みたいな大雑把な質感の仕切りでは、「大きなテレビ作品」になっちゃいますし、ちゃんと真正面から「効果の大小こそあれ」ビジュアルエフェクトでがっつり表現しにいかないと、映画の質感にはならないようです。要は「画像データを映画の絵に仕立てる」勘所が必要なわけです。ビジュアルエフェクトの派手な作品よりも、より一層の技術経験値を必要とするのが、ジョバンニだったかも知れません。

しかし何だ、西久保監督は実は「家族愛」的な作品が得意なのかも知れませんネ。2年前の某CMもご一緒しましたが、あれも話題になりましたし。また、戦争ものって、往々にして教訓的、説教的、ある種「見た者への精神的懲罰」的なスタンスになりやすいですが、西久保さんのバランスが、そうなるのを絶妙に回避していたように思います。過度に感情的に流れず、淡々と感情と事物の進行を追う事が、逆に大きな作品効果を生み出しているんだなあ…と、グレーディングで何度も映像を見ながら感じておりました。

あと、ジョバンニは音楽も良いです。メロディを大切に紡いでいくさまは、まさに「日本のサントラの美意識」と言えましょう。ハリウッド調の「アクセントを過度に強調した」音楽とは一線を画す、美しさが際立つ劇伴です。基本主題を変奏して、物語の進行と結びつけていく様子は感動的です。ジョバンニの基本主題は何度も姿を変えて現れ、観客の心理を誘導していきます。わたし的には、純平とのデートのシーンで、ターニャの悲しげな主題(悲しき天使)が、幸福感で満ちた長調で変奏されるくだりは、お気に入りです。そのシーンのビジュアルエフェクトは私が担当した事もあり、絵だけでは手にできない、「音楽による映像の力」を実感しました。

しばらく、ロードショー公開していると思いますので、興味のある方は、是非劇場へ。。。

ジョバンニ

ここのところ、ブログがご無沙汰だったのは、「ジョバンニの島」というアニメーション映画のビジュアルエフェクト・グレーディングに大忙しだったからです。

 

私の作業内容は、いつも肩書きで悩むのですが、今回はコレ(ビジュアルエフェクト・グレーディング)で。

私ら作業グループの作業内容は、撮影ボード、バンク素材の作成、いくつかの特殊カットの撮影、全カットのファイナルエフェクトとグレーディング‥‥といった内容で、最後の追い込みはキツかったですが、作業品質を妥協せずに物量もこなせたので、良い経験値となりました。

ひと段落して思うのは、やっぱり、映画は「映画を作る」という事に尽きる‥‥のですネ。変な言い方ですが。

タイムシートの指示通りに素材を画像合成した映像は、言うなれば「素材合成画」となるわけですが、どのようにすれば「素材合成画」ではなく「映画」になるのかを、改めて実感しました。大きな事から小さな事まで、「合成」を「絵」に昇華させる「行為」が必要なのです。

私はアニメーション映画を作るのならば、「大画面のテレビ作品」にはしたくないと考えています。テレビはテレビの良さがあり、映画には映画の良さがあります。映画館に限定せず自宅の大画面の「ホームシアター」でも同様で、要は「映画としての風格」をどのように体現するか‥‥と言う事なのです。映画をブルーレイ&大画面テレビでみても、テレビ作品とは一線を画さないといけません。

コンポジット、ビジュアルエフェクトの技術で言えば、「映画とテレビの境」は確実にあって、映画向けのコンポジット技術・エフェクト技術を駆使する事によって、背景とセルの合成画像は「映画の絵」になるのです。特に高いマシンもソフトもプラグインも必要はありませんが、要素の取り扱い‥‥もっとさかのぼって言えば、作業意識と品質基準が大きく違うんですよネ。今回はiMacで全て作業しましたから、機材の話ではなく、技術の話なのです。
*iMac‥‥もちろん、モニタは別に用意してありますヨ。iMac本体のディスプレイでは映画制作には不適当ですから‥‥。

作業を進めるうちに確信したのは、映画を作るのならファイナルエフェクト&グレーディングは必須だな‥‥と言う事です。バラバラに撮影された各カットのクリップが、直列に繋げてすんなり繋がるわけないですもん。ファイナル段階でエフェクトをかけて、さらにグレーディングも同時におこなって色や明暗を調整しないと、思うように絵がまとまりません。‥‥実は2003年の「イノセンス」ではポスプロの「ドミノ」という処理工程が作品の統一感をより一層高める働きをしていましたが、2013年はそれがプロダクション内で可能になった‥‥という事ですネ。

「ファイナルエフェクト&グレーディング」が「撮影のエフェクト処理」と違うのは、監督と映像を見ながらリアルタイムで映像に処理を加えるところです。ラッシュチェックでリテークを出して再撮するのではなく、その場でどんどん絵を作り込んでいくので、時間的なロスが極小で、かつ監督のイメージを具現化しやすいのが特質です。

ですので、映像のイメージを持つ監督、演出指示をリアルタイムでオペレーションできる作業者でないと、作業システム自体が成り立ちません。監督・演出も作業者も「悩んで止まる」ようではダメなのです。

「ファイナルエフェクト&グレーディング」は、微細なニュアンスも監督と一緒にその場で確認して絵を作れますので、「並撮」っぽいカットでも、すべて「作品作りのニュアンスエフェクト」を加える事ができます。「かかってるか、かかってないかわからない」微妙な空気感エフェクトでも、実は浸透圧的に観る人々に伝播していくものですから、映画的には重要なエフェクトなのです。
*「何もエフェクトをかけず、スキャンしてペイントした素材を撮影するのが、本来の姿だ」と思う人(特に作画の人)は多いのですが、それは大きな見当違いです。シンプルなフィルム時代の「並撮」(背景とセルだけを撮影する)であっても、光学レンズ、照明、空気(空気中の乱反射体)、フィルム特性という「効果(エフェクト)」が自然と加味されて、あのようなルックになっていたのを忘れてはいけません。また、スキャナによるスキャンも「原画の本来の姿」を読み取っているわけではありません。何の処理もせずに、ペイントデータと背景画像を合成する事ほど、粗雑で乱暴な行為はないのです。何も処理をしなければ、そこにあるのは、ちぐはぐな素材の重ね合わせだけ‥‥です。

今回のジョバンニは、「アニメーションの映画」とは何かを、改めて実感した作品でした。やっぱり、大きな部分はもちろん、小さな部分、極小の部分もおろそかにしてはいけない‥‥という事をしみじみ感じました。

アニメにとって4K8Kが深刻な理由

4K8K。画面の密度が今の4倍16倍になる次世代のフォーマットです。画面が大きくなるのではなくて、平方あたりの画素数が増えて、より一層現実世界とのルックの差が狭まって鮮明になる‥‥という事です。4K8Kになったって、日本の居住面積〜リビングルームが自然に広くなるわけではないので、100インチとかの大型テレビではなく、日本のリビング・部屋に収まる27〜50インチクラスの中型テレビに技術が活かされる事になると思います。

4K‥‥と画素密度の事ばかり謳われてますが、同じくらい重要なのはフレームレートです。どんなに絵の密度が細密でも、フレームレートが低ければ目に残像が残って不快な映像になります。しばらくは60pあたりでしょうが、本命は24fpsの4倍の96fps、30fpsの4倍の120fpsでしょう。

まあ、このあたりのスペックを聞いただけでも、アニメ業界関係者は背筋がゾッとする‥‥かも知れません。アニメは実写カメラと違って、動きの1枚ごとを作って映像を作るので、絵が大きい・1秒間に必要な絵の枚数が多い‥‥となると、直接的なダメージを受ける事になります。

仮にフレームレートが96fpsになった場合を、現状の24fpsと比べると、

1  .  .  .  2 =1歩あたり12K〜3コマ作画で4枚(=中3枚・24fps)
1  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  2 =1歩あたり48K〜3コマ作画で16枚(=中15枚・96fps)

‥‥となります。

これはあくまで、3コマタイミングを96fpsでも貫いた場合の話です。では、今までと同じ中3枚のタイミングにすると、なんと12コマ止めのタイミングとなります。1枚の絵を12コマも止めてから次の絵に切り替わるわけです。

こんなタイミングが、実写の96fpsのフルフレームレートになれた近未来人の目に「カクカクしてツラく」映るのは容易に想像できます。さぞ、陳腐な動きに見えるでしょう。

じゃあ、中枚数をフレームレートの増大に合わせて増やす? ‥‥動画の予算は相応に増大しますし、スケジュールも大きく延ばす必要があるでしょう。仕上げの枚数も増えますし、サーバの容量も増やさなければなりません。もちろん、検査の人がチェックする枚数も増えます。‥‥今の予算じゃNGだよネ。

フレームレートの面だけでも、これだけの問題がドカンと山積みになります。

さらには、まさに4K8Kの謳い文句、画素数の増大に対応しなければなりません。

「でもさ、版権イラストでは、6〜8Kくらいの寸法で作業してるから、4Kくらいなら、何とかなりそうだよ」‥‥と思う人もいるかも知れません。‥‥が、それは読みがアマ過ぎです。

アニメには大判がいっぱいあるのです。

確かに、4Kサイズは一見、現行HDサイズの2倍程度に見えます。実写だったら、それで良いでしょう。実写カメラで収録した4Kサイズオンリーのものを編集すれば良いですし、実写のビジュアルエフェクトも4K実写素材からスタートすれば良いので、4Kちょいオーバーくらいで丸く収まります。

でもアニメは、人物をちょっとフォローするだけでも、背景はいきなり大判になります。全てのカットがフィックス(カメラ固定)の作品なんて、よっぽど奇をてらった演出でも無い限り、存在しないでしょう。必ず、何かしらの大判作画は存在すると思います。

アニメにとって4K8Kは、スタンダードフレームの時ではなく、大判フレームの時にとんでもなく大サイズ・大容量ファイルになって、現場を苦しめる事になるでしょう。例えば今までは横2倍の背景の時は、4000x1200くらいで済んでたのが、8000x2400になります。HD時代に8000x8000の背景を使った付けPANは、4K時代では16000x16000、8K時代では32000x32000‥‥。

アニメの場合、画素数をスタンダードサイズ「だけ」で計算してはいけないのです。素材サイズで作業見積もりしないとダメっすヨ。

「よし! 4K時代はカメラは全てフィックスにする!」という剛胆な演出さんだったら、4K画素数で計算しても差し支えないかも知れませんが、そんな人・そんな現場はよほどのチャレンジャーですよネ。PAN、フォローは必ず存在するでしょうから、4Kフレームでも1万ピクセル幅の画像を取り回すノウハウとマシンパワーが必要です。

そしてさらには作画。A4用紙に鉛筆で絵を描くスタイルでは、鉛筆の粒子の限界が見えてしまって、荒さとして絵に映ってしまいます。レタス互換の作画法は、徐々に行き詰まりを感じるようになるでしょう。実は私、この辺を散々テストしてきまして、鉛筆で描く事の「意味」を深く考えるに至りました。紙だとパラパラと動きをチェックできる‥‥だとか、鉛筆線だと消しゴムで簡単に修正できる‥‥だとかの理由で鉛筆を選ぶのではなく、「描線の表現」の次元において鉛筆を駆使する必要があります。‥‥でなければ、単に鉛筆の欠点ばかりが絵に浮き出てしまうのです。

A4という用紙は、あまりにも小さく、どんなにスキャン解像度を上げても、「元絵の小ささ」が映像に出てしまいます。だからって、4K時代以降は、B4やA3をスタンダードにする?‥‥いやァ、どんどんコストと苦労が増大するベクトルにしかならんですネ。

ですので、私はもはや「今までと同じ作り方では、4K以降の世界には対応できない」とすっかり観念しています。以前に紹介した下図のサンプルは、現アニメ業界とは全く異なる手法で作った絵・映像です。




4K時代に現アニメの「代用品」を作るつもりはないですし、代用品はいつか消え去る運命にあります。ですから、4K8Kにふさわしい、4K8Kだからこそ表現できる、新しい技法のアニメを作りたいのです。

まあ、自分の思いはおいといて、‥‥どうする、どうなる、4K時代のアニメ。

日本のアニメ制作技術が、世界ナンバーワンなのは、誰もが認める事でしょう。しかし慢心するがあまり、自らを落ちぶれさせてしまう事だってあるのです。

4Kモニタで10万円を切る製品が、来年あたりからどんどん増える‥‥とも聞きます。4Kは未来の夢物語ではないようです。もうすぐ発売のMac Proは、4K Ready です。

そんな2014年の幕開けを目前にして、新しい映像フォーマットの波に、自分たちがどうやって波乗るか、考える時期が刻々と近づいているように思う‥‥のです。

松本零士 賛

萌え絵などの目の大きいキャラにはどうにも馴染めない私。以前の投稿記事の「ふさわしいキャラ」でもその様子が露呈しています。目が大きいのは、(わたし的に)バランスが取り辛くて、どうにもあかん。

私の少年時代は、萌えキャラというジャンルはなく、どこかイナたい少年漫画と洋菓子のような少女漫画の2択でした。スポ根ものがまだ主流の頃でしたから、男子なのに少女漫画を読むなんて事は「恥」という気風がありました。また、女キャラを愛でるなんていうのは、気恥ずかしくさえ思えたものです。

私の少年時代、女キャラの多くは控えめなサブキャラであり、まさにマスコットガールのような存在でしたが、松本零士氏、そして永井豪氏の描く女キャラだけは別格の存在感をもっていました。両氏の女キャラは、まさに主人公キャラを「喰う」勢いの強烈なインパクトを放っていたのです。

その後、高橋留美子氏のうる星やつらの登場が、現在の基礎をかたち作ったのは、誰もが認知しうる事でしょう。80年代のポップな風情に合わせて、カジュアルで手の届く「親しく可愛い」趣向へと変化していきました。以前のマスコット的なサブキャラと大きく違うのは、主役を張るだけの自由で活発な性格を与えられた事でしょうか。現在、電子書籍でうる星やつらを愛読していますが、原作者が女性だった事が「うる星やつら・らしさ」の最大のポイントだったとつくずく感じます。うる星やつらの女キャラは、皆が皆、「ままならない」「油断ならない」ですが(それがたまらない魅力ですが)、仮に男性が原作を描いてたら「男の想定内」にハマったハーレム漫画になっていたと思います。

現在は、顔の中身が「幼女・童女」レベルまで低年齢化していますが、なんでそこまでエスカレートしたかな‥‥と思うと、簡単に言うと、現代のニーズがそうだから‥‥でしょうネ。リアル女性の持つ「ままならない」「生易しくない」「手強い」「怖さ」の部分を削ぎ落として、甘み成分を凝縮した結果、どんどん顔は幼くなったのでしょう。顔は幼いままに、体だけは肉感的にセクシャルに描かれるのも、ニーズからくる性質が見事にキャラデザイン上に体現されています。「男の思い通りにならない」女キャラではなく、「男の想定の範疇におさまる、予定調和の」女キャラへと変貌していったのも特質すべき点です。「愛され」欲求が「即物的」に絵に表れているのかも知れません。

ただ、私はそうした今の風潮には、全くと言って良いほど、馴染めんのです。ゆえに目デカキャラも描けないのだと思います。やっぱり、性根が出ますからネ、絵には。

なぜ、馴染めないんだろう‥‥と考えてみますと、やはり松本・永井両氏の描いた女性像が、少年時代にインプリンティングされているからだと感じます。私が両氏のコミックに触れたのは、小学校低学年ですから、無意識のうちに「焼き付け」られていったのでしょう。私は松本零士氏のコミックを小学校1年の終わり頃から読み始めたので、相当な影響を受けている「はず」です。

松本零士氏の女キャラは、どことなく夏目漱石の女性像と共通している部分があります。華奢で壊れやすい身体を持つのに、精神的には優位に立つ‥‥という描写においてです。しかし、その精神的優位は明示されないがゆえに、つかみどころがなく、はぐらかされた状態を保ちます。‥‥つまりは、悩ましいわけですが、零士キャラはそうした性質をキャラデザイン上でまさに体現しています。

しかしながら、70年代当時の氏のコミックを読み返してみると、意外にも男キャラは威勢を張った描かれ方をしています。男自身の破滅を拒むかのように。‥‥ただ、「男の信念」「男のロマン」を劇中で強調すればするほど、反って、女キャラが不動の存在として浮き上がるのです。皮肉なものですが、子供の私はなんとなく、そんな構造を読み取っていたのかも知れません。「Das Ewig-Weibliche Zieht uns hinan.」(うまく日本語にできないので原文まま)的なニュアンス‥‥とでも言いましょうか。

私は少年時代に零士キャラをコミックを通して身近に置いたため、すっかり「それがキャラ表現のデフォルト」になってしまったようです。ゆえに今の「癒し・和み」ベースの風情とどうにも噛み合ず、キャラの好みも時代とズレたままです。まあ、もちろん、仕事では設定を見ながら今風の各種キャラを描きますけど、個人的な好みは「ココロ、ここにあらず」です。

温故知新‥‥というわけでもないですが、自分のルーツとなった漫画家たちの作風を今一度見直しすと、新鮮な驚きがあります。「キャラのルック」ついでに、松本零士風のキャラを新しい方式で表現するとどんなになるか、試してみました。そのまんま、既存の作品を模写するわけにはいかないので、自作の絵になっています‥‥が、零士キャラを強く意識しているのは一目瞭然ですよネ。この感じのキャラを描くのは、中学生以来‥‥なので、30年ぶりになりましょうか。一度だけ「ザ・コクピット」で松本零士作品に参加しましたが、Fw190Aばかりで女キャラは描きませんでしたので‥‥。

以下、いつもの「原画 to After Effects」にて制作しました。原寸は5K x 7Kですが、1/10に縮小しています。


*氏の漫画ゴラクの頃のイラストが好きなので、ベタ背景にしてみました。


*暗部に宇宙を合成。‥‥これをやれば、おのずと、松本零士風に近づきますネ。

うーむ‥‥。私の我を残した、どっちつかずの中途半端なキャラになってしまいましたね‥‥。熱中していた頃はスイスイと描けたものですが、今はかなり勘を失っているようで、ところどころ、処理とパーツの捌き方が違いますね‥‥。改めて氏のスタイルの独自性を痛感しました。長いまつ毛、細い身体、ボディにピッチリのスーツ、暗部に宇宙‥‥を表層的に真似しても、氏の絵にはならないのです。コミックを参考にしてもっと似せたほうが良かったかも知れませんが、単に模写になっちゃうのは意図(キャラのルックのテスト)から外れているので、「零士風」という事で良しとしました。

手順は、いつもの原画スキャン後にAfter Effectsで仕上げる方法です。



原画をスキャンしたら、After Effectsでメイクします。最終フィニッシュと色が違いますが、「カラーパレット」的な運用方法で基本色を制御し、適宜変更しているからです。彩色ソフトウェアのカラーパレットと同等の機能は、After Effectsの「Solid」機能を流用すれば可能です。



カラーパレット的運用で、全く違う色にも作り変える事ができます。


*髪とコスチュームの配色を全変更。全体のシチュエーションも全く別ものへと変更。



*目の色など各パーツの配色は、Afterなエフェクトではなく、カラーパレットによるベース部分の変更で、瞬時に操作可能です。

もちろん‥‥ですが、これはあくまで「キャラのルック」のテストの一環で、私の画風ではありません。さすがに上図の顔のバランス〜切れ長の目の終端に長いまつ毛など〜は、氏の専売特許でしょう。

私は子供時代に受けた氏の作風からの影響で、特に意識しなくとも、描けば自然と「かわいい」ではなく「きれい」方向の絵になってしまいます。もはや、手癖が「大人顔」なのです。例えば以下は、髪の毛の処理テスト(明るいブロンド・光る髪のテスト)からの抜粋ですが、大人顔になっています。After Effectsのいつもの「原画 to AE」でのスタイルで、4K48fpsの準備段階のものです。



*細かく色トレスを分けないと、光るブロンドの表現は難しいです。いくら色を明るくしても、トレスブラックの描線だと、髪の地色よりも線が勝ってしまいます。



*髪の毛の描写は、線の絶対量の多さから、真正面から取り組むと「動画不能」に陥っていまいます。ゆえに、髪の毛の省略表現手法が数々編み出されました。しかし、新しい方式では上図サンプルのような描写でもアニメーション可能です。とはいえ、扱いの難易度は高く、油断すると簡単にドツボにハマります。

絵柄は全く別ものですが、精神的な要素は「直系」ではないかと思っています。‥‥まあ、自分の中では、ですけど。

私は20代のアニメーター真っ盛りの頃、ふと「自分のルーツは何だろう」と考えた事がありました。毎日毎日、アニメ制作各社の様々な画風の作品を請け負いながら、さらには上手いアニメーターの人たちの絵に大きな刺激を受けながら、絵を変えて描く日々。仕事は仕事‥‥だとしても、では自分の絵とはなんだろう?‥‥と考えた時に、「自分を喪失」しかけている事に気付いたのです。「自分は、どんな絵を描きたかったんだっけ?」と、絵を描く根本がよくわからなくなっていたのです。「原画」という作業依頼なしでは「お題を考えられない」自分。‥‥とてもヤバいと思ったものでした。この調子で絵を描き続けていると、50〜60歳になっても、自分の絵がなく、他人にキャラをデザインしてもらわないと絵が描けない人間のまま‥‥だと恐ろしくなったのです。

松本零士・永井豪の両氏のコミック、いわさきちひろさんの絵本が、絵の出発点でしたが、その後、西洋絵画にも触れ、ダヴィンチやアングル、クリムトやモロー、ルドンやローランサン、クレー、故・金田伊巧氏や友永和秀氏、故・荒木伸吾氏、ラッカムやデュラック、松園国芳、さらには大友克洋氏やヴィラル氏も強い刺激となって、様々な画風が自分の中でドロドロと結合して形成されていました。写真家の作品(Helmut Newtonとか)、実写映画からの影響も色濃いと思います。池上遼一氏のスパイダーマンも好きだったなあ‥‥。

そうした自分の出自や生い立ちをそのままに、流行とかのバイアスを作用させずに絵に描いてみる事も、絵描きとして重要じゃないだろうか‥‥と思うに至ったのです。違う言い方をすれば、自分が取り入れてきた要素を、あらためて再確認し、全肯定した上で絵を描く‥‥という事でしょうか。威勢や虚勢で絵を描くのは無くてネ。

私は松本零士氏の作品を遠ざけた時期がありました。私が中学の頃の松本零士コンテンツの隆盛と衰退は、大きな幻滅だったのです。今になって思うと、まさに「ショービジネスの闇」だったんだなと思いますが、当時子供だった私には、毎年低下していくボルテージしか目に映らなかったのです。世間というのは、成功している時はイケイケとばかりにあおり立てるのに、陰りが見え始めて下降し始めると、黒歴史とばかりに腫れ物に触れるような態度へと豹変するのです。思えば、当時子供だった私は、そうした連中の一員だったのです。

松本零士ブームが終焉して何年も経過した頃、ふと、「なぜ遠ざけているか」と違和感を感じた事がありました。先に書いた「自分のルーツは何だろう」という思索にふけっていた同じ頃です。ショービジネスに翻弄されたあげくに自沈した事と、そもそも松本零士作品の持っていた美しさを、クソミソ一緒に扱う事はないだろう、と気付いたのです。同時に、世間の風潮にのっていた自分の恥ずべき部分も自覚しました。世間・世相って、「レッテルというラベル」を貼る事で、情報の大まかな整理をおこなうのです。経緯や内容の本質は精査しないんですよね。‥‥世間の構造はどうあれ、自分の感受性を世間の風潮にシンクロさせ、コロコロと豹変するのは愚かしい事だと、ハッキリと認識するに至ったのです。

20代の中頃に、自分のルーツに関する自問自答をおこなって総括したので、その後はクリアな思考で絵を作れるようになりました。流行に関係なく、好きなものは好きとハッキリ言えて、影響を受けた事を肯定できるようになったのです。また、世間がどんな風潮であろうと、自分の価値観をブレさせない覚悟もできました。当時の私が、「自身を断罪する総括」ができたのは、やっぱり松本零士氏の作品群を少年時代に心底好きになったから‥‥かも知れません。

その後のどんな経緯を持とうが、「美しい」と感じた当時の自分の感情は不滅です。美しいと思う感情にウソは禁物です。ウソをつき始めると、そのウソがバレないようにさらなるウソをつく事になりますから。

70年代、暑苦しい少年漫画の中に、透明感のある冷たい肌の松本零士女性キャラが現れた時の衝撃は、誰も変える事ができない事実なのです。

デザインとモーション

絵のスタイルは、モーションにも深く影響します。絵の「カリカチュア度」は、動きの「カリカチュア度」と密接に絡んでいるのです。

新しい表現が可能な新方式によるアニメ制作においては、キャラクターのデザインの幅も広くなります。セル画時代のスタイルを踏襲する必要は「技術的には」必要ないわけです。

と言う事は、動きも呼応して変化していくはずです。「デザインが期待するモーション」または「モーションが期待するデザイン」とでも言いましょうか、何でも一律に今まで通りに動かせば好結果が得られるわけではなく、デザインに適した動きが求められます。

モーションが48fpsフルになった場合、絵に対する要求度も相応にシビアになります。時間軸の解像度が高くなったぶん、絵も動きもそのままでは済まされない‥‥という事です。24コマ時代に培った技術は足場にはなりますが、そのままでは全く使えません。

私もご多分に漏れず、24コマフィルムのマインドセットが強固なものですから、48fps以上の動きになると、どうにも持て余し気味になってしまう‥‥というか、使いこなせているとはまだ全然思えません。これから3年くらいのさらなる研究は必要だと痛感しています。

以下はいつもの「原画 to After Effects」‥‥というか「ラフ画 to After Effects」です。ちょっとした顔の動きですら、48fpsですと「取り扱いが今までと大きく違う」感が満杯で、一層の精進が求められます。







*たったこれだけの顔の傾きだけでも、様々な予備動作やリアクションを入れないと、著しくCG臭いモーションになるのが、48fps世界の特徴です。8〜12fps(今のアニメ)では考えられないモーションになるのです。
*髪のモーションは未付けです。髪の毛のリギングは結構面倒なので、ラフモーションでは手をつけない事が多いのです。
*上図の状態に淡彩風に着彩する事も可能です。‥‥という事は、絵のスタイルによっては、必ずしもレタスペイント互換の「スキャンに都合の良い線で描く」必要もないのです。新しい方式においては、絵・映像のスタイルは膨大なのです。

研究を進めて強く実感するのは、「デザインとモーションは一心同体」だという事です。「原案別人、キャラデザ別人、原画別人、動画別人」という作業スタイルは、今の分業スタイルに適した方法だと思います。しかし、モーションのシビアなハイフレームレート、ディテールの克明な4K以上の描画においては、デザイナーはモーションの知識を「それなり以上」に有している必要がある‥‥と実感します。「俺はキャラの原案を描くだけだから、それ以降の面倒は知らね」では、成り立たない‥‥というか、モーションが後付け感満載の「紙芝居」レベルになってしまいます。「動かす事」と「デザインする事」が常に2重連星のように引きつけ合い、軌道を運行していく必要があるのです。

そんな要求基準の高そげな事を‥‥と思うかも知れませんが、仕方ねいです。旧来の「知識」は色々な場面で応用可能ですが、「常識」は通用しなくなっていくのが、未来の特徴かも知れませんネ。

Kindle HDXの8.9インチは、もはや2560px〜2.5kの解像度を持つみたいです。27インチクラスのピクセル寸法が8.9インチスクリーンに収まる! ‥‥どんどん常識が変わっていく昨今です。

コンピュータで絵を動かす‥‥という事

Photoshopがもはや「Photo」の「Shop」ではないように、After Effectsも「After」な「Effects」を施すソフトウェアでは、もはやありません。アニメ業界では「高機能撮影台」としての役割を今でも担い続けていますが、私にとっては「アニメーションの汎用ツール」であり、「撮影台」という従来の枠には収まらない使い方をしています。

前に紹介した簡単なモーションの「セル画風カット」は、After Effectsで「動画・仕上げ・撮影・ビジュアルエフェクト・グレーディング」を一括でおこなったものでした。背景は実は、自宅の駐車場です。

数年前に作ったものを見返してみると、ちょっとだけタイミングを変更してみたくなりました。After Effectsをモーションツールとして使っているわけですから、もちろん、キャラの動きのタイミング変更も可能です。以下のムービーがソレです。

安易にストレッチなんか使ってませんよ。あくまで動きの修正(中絵を抜いたり、シート変更したり、ポーズを変えたり)をおこなっています。



こうしたAfter Effectsを「After Effects以外」で用いる取り組みは、既に2005年くらいから始めており、今では未来のビジョンを持てるくらいに技術が熟れてきました。

そうした試行錯誤の中で得た、私の現在の見解としては、「セル画風のアニメは、紙の上に手描きで描くのが一番」という事です。違う言い方をすれば、「After Effectsをセル画時代のアニメの代用ツールにしたくない」‥‥とも言えます。

なぜセル画があのようなヌリ分けのスタイルになったのか、また、線画&ヌリ分けの絵を基軸として発展した動きと演出の技術とはどのようなものだったか。数々の「演出技法」「原画技法」の「発明」があり、まさに「必要は発明の母」だったわけです。「セル画と背景を撮影台で撮る」ために様々な技術発展を繰り返してきたのです。撮影台に写らない物は描いてもしょうがなかったのですからネ。

After Effectsで絵を動かすのならば、セル画にする必要はありません。演出技法も変わりますし、動きの技術もリファインしなければなりません。わざわざ「セル画時代の模倣」をする必要がないのです。

After Effectsでアニメーションを作る意味は、「旧来〜現在のアニメでは作れないもの」「セル画では作れない絵」を作る事だと思っています。なんでわざわざセル画を模倣して、世界の頂点と言っても過言ではない日本の作画技術の「ダウングレード版」を作らにゃならんのか。鳥類がチーターに陸上走で戦いを挑むような事などせず、むしろ空を飛ぶべきだと思います。After Effectsでセル画アニメの模倣をする事は、自ら「飛べない鳥」になるようなものだと思うに至ったのです。チーターやトラに憧れるのなら、鳥類は猛禽類〜ラプターを目指すべきだと思うわけです。

「空を飛ぶ」とはどういう事か。その比喩、暗喩がどうも解らない人は、まだ地上の呪縛の中にいるのかも知れません。一度、地上から目線をしばらく離してみるのも良いかも知れません。


ちなみに‥‥ですが、デジタルを安易に捉える人々は残念ながらまだ存在するようなので、注釈を追記しておきます。ここで紹介した「タイミングの調整」を早合点して、「撮影さんでもセルの動きが調整できるんだ」とか思いこまないでください。私は絵を描いた張本人で、動きのイメージもあるから調整できるんであって、アニメーション・モーションの訓練や作業経験を持たない人にムチャぶりしてはいけません。テキストエディタが使えるからって、誰でもシナリオが書ける訳じゃないでショ。「デジタルがあれば誰でも何でも出来る」と言う考えは、もうヤメにしておきましょうよ。特殊技術者として監督さん・演出さんと信頼関係(とそれに見合った報酬)が築かれているならまだしも、「デジタルだったら」というだけで、作画以外の人に作画ライクな事を発注するのは、トラブルのもとです。


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